随筆集

事件記者とは別の越後喜一郎さん

 直木賞作家・古川薫さんの訃報(5月5日逝去、92歳)を見て、越後喜一郎さん(2010年没、72歳)を思い出した。

 岩倉使節団の旅を追う「歴史紀行 新・米欧回覧」の1ページ特集が始まったのは、1992(平成4)年4月4日付朝刊だった。毎日新聞創刊120周年企画のひとつだった。

 《岩倉使節団が先進文明吸収の大命題を背負って、世界一周の壮途についた日から、こんにち経済大国を誇る日本人が「もはや欧米に学ぶものはない」と豪語するまで、120年という歳月が流れた。

 『米欧回覧実記』(随行の久米邦武=のち帝国大学教授、歴史学者=ら編)を合わせ鏡として、変容する欧米の現況を写してみたい。それが日本及び日本人における「文明開化の世紀」とは何だったのかを探る私の『新・米欧回覧』である》

 第1回で古川さんはこう書いた。

 使節団の団長は岩倉具視。副使に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら。当時9歳の津田梅子ら女子留学生も5人いた。明治4年(1871年)11月に横浜港から出発し、1年10か月後に帰国した。

 古川さんに同行したのが、当時編集委員だった越後さんで、特集ページに「取材カバン」のカットでミニコラムを執筆した。もうひとり、元写真部員でフリーのカメラマン・平沢一郎さんが写真撮影に当たった。

 最終30回は、翌93(平成5)年4月4日付で、見開き2ページの展開で、左面を越後さんが「取材カバンを担当して」と延々と記している。

 《約半年、アフリカまで足を延ばした取材の旅。当時の使節団の幹部、伊藤博文(31)、大久保利通(42)、木戸孝允(39)は、今の政治家と比べ若い。だが、欧米の文化、政治をいかに日本に導くか、といった純粋の真心と燃える情熱があった。使節団の生きざまを今の政治家たちこそ見習ってもらいたい》

 越後さんは強運の持ち主だった。横浜支局で事件記者として特ダネを連発、社会部に引き上げられたが、三億円事件を担当したあと、町田通信部。本人は「左遷」とふくれ顔だったが、その夏、初出場の桜美林高校が夏の甲子園大会で優勝した。その動静取材に同行したのは越後さんだった。

 【甲子園で越後記者】の記事が連日、東京版に掲載された。

 優勝戦は、延長11回の死闘だった。4-3でPL学園を降した。

   青春〝満開〟
   〝無欲と粘り〟誇らか桜美林
   わき返る町田市、熱闘2時間43分

 夏の甲子園大会は、ことし第100回。それを記念して朝日新聞はベストゲームを1ページ特集しているが、4月21日付でこの試合を取り上げている。

   60年ぶりに東京に優勝旗
     初出場で校歌を5回も

 仙台支局長時代、アップジョン医学記事賞(1988年、第7回)を受けている。

 宮城版に「生きていくために――腎臓病を考える」を1年間にわたって連載したのである。企画は、越後さんの発想だった。

 親しくしていた国分町の飲み屋のママとその家族が腎臓病の治療で難儀していることを知って、入社3年目の石川健次記者(現東京工芸大学教授)に取材を命じた。

 「連載は約1年で、全部で50数回のうち1回を除いてすべて私が書きました。連載が始まってからは、越後支局長は時折、内容にアドバイスをする程度でしたが、むしろ夜な夜な国分町に連れて行っていただいて、連夜、激励と酒の日々でした」と、石川教授は懐かしむ。

 越後さんというと、強面の事件記者と思われがちだが、鋭い感性を持つ、社会派記者であった。歌はうまいし、踊りはジルバはお手のもので、タンゴもフロアいっぱいを使って踊った。酒も強かった。

 住んでいた浦安で暮れに「第九」の演奏会を開き、夫婦して合唱団に加わった。「記者の目」を書いている(1990年12月11日付)。

  第九は、まちづくりの大合唱
   浦安に響いて9年
    新旧住民がハーモニー

 駆け出しの長野支局で一緒だった大島幸夫さん(80歳)は、「3ナンバーの男」と評した。「排気量が大きい。発進力も馬力もデカい」と。

(堤  哲)

元サンデー毎日編集長の高松棟一郎さん

「私の卒業論文」(東京大学学生新聞会編、1956年同文館刊)から

 「高松棟一郎を知っていますか。私のいとこです。戦前、特派員としてアメリカに渡るとき、横浜港で『氷川丸』を見送りました」

 つい最近、90歳になる夫人から尋ねられた。インターネットで検索すると、1935(昭和10)年東大独文卒、東京日日新聞入社。ロンドン、ニューヨーク特派員。戦後、社会部副部長、48(昭和23)年「サンデー毎日」編集長。50(昭和25)年9月退社後、東大新聞研究所教授。59(昭和34)年没48歳。作家林芙美子の恋人だったといわれる、とあった。

 《ロンドンからニューヨークに渡って、ブロードウェイに立ったときは、光の洪水に、よくもこういう明るい世界があったものと、呆然とした。
 8月15日の夜日本に勝ったVデーのその夜、その広場を群集が埋めつくした。正面タイムス・スクエーアーニューヨークタイムスの電光ニュースのたもとには、新しく平和の女神像が建立されてあったが、その他は、開戦当時と変わらぬまぶしさであった》=「アメリカ映画」1947年7月号。
 日本が敗戦した日、高松記者はNYブロードウェイにいたのだ。

 林芙美子の小説「浮雲」の富岡兼悟、桐野夏生の小説「ナニカアル」(2010年新潮社刊)で林芙美子が恋をした妻子ある新聞記者は、高松がモデルといわれる。

 清水英子著「林芙美子・恋の作家道」(2007年文芸社刊)に、林芙美子が学芸記者・辻平一に宛てた昭和12年6月18日付の手紙が載っている。
 《昨日、東日から草津へ参りました。一行は久米(正雄)さん、邦枝(完二)さん、村松(梢風)、吉屋(信子)、獅子(文六)、永戸(俊雄)、高松(棟一郎)、大宅(壮一)、木村(毅)の皆さん、とても面白い旅行でした》

 東京日日新聞は、1933(昭和8)年5月、学芸課を学芸部に昇格させ、阿部真之介(元NHK会長)を部長に据えた。「花やかな阿部学芸部長時代」(毎日新聞百年史)で、阿部は、作家や文化人を顧問・社友・嘱託として次々に採用した。菊池寛、久米正雄、吉川英治、高田保、大宅壮一、木村毅、今日出海。それに森田たま、林芙美子、吉屋信子らの女性作家。阿部が主宰した「東紅会」は、女流芸術家らの集まりで、毎月一度夕食会を開き、時には一泊旅行をしたという。
 久米正雄は、阿部のあと38(昭和13)年から2年余、学芸部長を務めている。入社3年目の高松も、草津温泉旅行に同行している。作家たちの面倒見係だったか。

 辻平一も、「文芸記者三十年」(1957年毎日新聞社刊)に林芙美子との思い出を綴っている。芙美子が亡くなる(1951年6月28日没、47歳)1か月前、「東紅会」旅行で木更津のホテルでの楽焼。
  《私は林さんに、小さな徳利を出した。
  「この恋ハもへがら辛らきかな  芙美子
  と書いてくれた。これが、最後の思い出になった》
 意味深である。辻は、芙美子の2歳年上だった。

 息子の辻一郎著「父の酒」(2001年刊)によると、平一は、大阪外語ロシア語科を卒業して、1927年見習生3期生として「大毎」へ入社した。31年から学芸記者となり、作家との付き合いが始まった。1950年「サンデー毎日」編集長。後輩高松棟一郎のあとを継いだ形だが、終戦直後に大阪で、戦時中に改題した「週刊毎日」編集長をつとめており、2度目の編集長だった。源氏鶏太の「三等重役」が爆発的人気を呼んで、在任2年間で部数を30万部から80万部に増やす功績を残している。1981年没、80歳。

 さて、高松棟一郎である。1949(昭和24)年に設立された東大新聞研究所(現・大学院情報学環)初代所長の小野秀雄著「新聞研究五十年」(1971年毎日新聞社刊)によると、翌50年に朝日新聞の千葉雄次郎(2代目所長)とともに、東大新研の教授として迎えられた。翌51(昭和26)年には日本新聞学会が創設されるが、その発起人に小野、千葉とともに名前を連ねている。

  訃報は、1964年東京五輪の招致決定を報じる1959(昭和34)年5 月27日付で各紙に掲載されたが、心臓マヒによる急逝だった。享年48。
 「そういえば棟一郎の妹が、林芙美子さんからの万年筆を兄からもらったと、大事そうにしていたのを覚えています」と、90歳のその夫人はいった。

 毎日新聞の人脈は、広くて深い。そのうえ高い。

(堤  哲)

「諏訪メモ」スクープから60年

 昨年暮れに出版された元朝日新聞記者・上原光晴著『現代史の目撃者』(光人社NF文庫)に、「松川事件被告無罪の陰に(倉嶋康)」の見出しで、「諏訪メモ」スクープが紹介されている。

 門田勲、笠信太郎、深代淳郎、斎藤信也、疋田桂一郎などなど朝日新聞の名物記者が並ぶ。冒頭に下山事件で他殺説を展開した矢田喜美雄(1936年ベルリン五輪で走高跳5位入賞、朝日新聞社会部記者)を取り上げているのに違和感を覚えるが、毎日新聞社会部高橋久勝記者らの自殺説の証言、占領軍の命令で警視庁捜査本部が「自殺」発表を中止した事実も記している。

 さて、「諏訪メモ」である。山本祐司著『毎日新聞社会部』(2006年河出書房新社刊)の出版記念パーティーには、「諏訪メモ」により死刑判決から無罪となった佐藤一さん(2009年没、87歳)の姿もあった。

1957年6月29日付毎日新聞福島版

 倉嶋康さん(85歳)は、当時入社2年目の福島支局員だった。サツ回りは、県警本部・所轄署とともに、地検・地裁を担当した。
 クラさんは、地検の検事に食い込んでいた。福島地検の宮本彦仙検事正に「諏訪メモ」の存在を確認した。大学ノートに鉛筆で書いた団交のメモ、佐藤死刑囚らのアリバイを証明するメモだった。
 クラさんは、「諏訪メモ」の存在を記事化したのである。

 松川事件は1949(昭和24)年8月17日未明、東北本線松川―金谷川間で貨物列車が脱線転覆し、機関士ら3人の乗務員が死亡した。警察は人員整理(首切り)に反対していた地元の東芝労組と国鉄労組などの組合員たちが引き起こしたものと見て20人を逮捕、起訴した。
 一審判決は東芝労組の佐藤一さんら5人に死刑、残り15人も有罪。二審仙台高裁でも死刑4人を含む17人が有罪。
 「諏訪メモ」スクープは、最高裁に上告中の報道だった。最高裁は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した(1959年)。そして1961(昭和36)年8月8日、仙台高裁は被告全員に無罪を言い渡した。

 『現代史の目撃者』にこうある。
 佐藤一は無罪となったあと、占領・戦後史研究家の道をあゆみ、平成18(2006)年3月、都内でひらかれた「占領当時を振り返る」講演会で、倉嶋を「私の命の恩人」と紹介、二人はかたい握手をかわした。

 倉嶋さんは元社会部。ことし発行の「ゆうLUCKペン」40集への寄稿によると、松本・長野両支局長を10年。定年後、スポニチ長野支局を立ち上げ、1998年長野冬季五輪の組織委員会委員。五輪終了後、次回開催の米ソルトレーク市まで化石燃料を使わずに帆船と自転車でメッセージを運んだ、NASL国際環境使節団の団長。
 私は、駆け出しが長野支局。クラさんとは社会部遊軍のとき、夕刊三面担当のサブキャップと兵隊という関係でお世話になりました。

(堤  哲)

 

「アンデスの聖餐」柴田寛二さん

 1月に届いた社報2018年冬号で、元論説委員の柴田寛二さん(2017年10月12日逝去、82歳)が「アンデスの聖餐」をリポートした特ダネ記者であったことを初めて知った。論説OB主催の「毎日新聞メディア調査団」で何回か海外のメディア取材にご一緒したが、そのことを自慢するような人ではなかった。

 社報の「故人をしのんで」は当時のサンデー毎日デスク徳岡孝夫さんが「バンチョウ・ロッジ(社の麹町寮のことか)で一晩がかりで書き上げた」と偲んでいるが、「サンデー毎日」1973(昭和43)年2月4日号の表紙は――。

 本誌記者が南米に飛び
 現地取材した戦慄の人間記録
 アンデスの聖餐

 「氷雪の世界で72日間を死とたたかった若者たち」、「感動と戦慄の記録!」とうたう。

 「本誌 柴田寛二」の署名入り前書き――。

 「氷雪のアンデス山脈標高三千メートルに墜落した飛行機。その残骸の中で、死の谷をのぞきながら不屈の意志で七十二日間をたたかいぬき、苦しい熟慮と討論のすえ、死んだ友の肉を食い、そして文明への帰還をはたした十六人のことを、私は、南米ウルグアイとチリで取材して、いま帰ってきたばかりだ」

 特集記事は15ページに及ぶ。それにグラビアが9ページ。

 事故は、1972年10月13日に起きた。ウルグアイからチリに向かった旅客機が遭難した。乗客・乗員45のうち、28人が生き残っていた。捜索は難航し、8日後には中止された。最終的に乗員5人全員と乗客24人が死亡、2人が山を下りて救助を求め、計16人が12月23日までに生還した。乗客はラグビーの試合に向かう頑健な若者たちだった。

 柴田リポートは、克明を極めた。スペイン語での取材が完璧だった。特集記事の最後にカトリック国ウルグアイのナンバー2の精神的指導者である副司教のインタビュー記事を載せている。「彼らが食べたのはキリストの血と肉」

 最後に編集長のお断りを掲載している。

 「人間が人間の肉を食べる――あまりにも恐ろしい、あまりにも異常なことです。

 本誌編集部は掲載に当たって正直なところ、二の足を踏みました。しかし、柴田記者の取材してきたものは、〈生きることとは何か〉〈死ぬこととは何か〉〈人間とは何か〉の根源を考えるうえで、きわめて感動を呼ぶ内容であり、陰惨な事実をも超越する瞑想性を持っていたことから、あえて、これほどまでのスペースをさき、記事とグラビアでとりあげました」

 翌週号に読者の声を特集している。

 ・凄絶なまでの人間ドラマ
 ・「アンデスの聖餐」涙が出ました!
 ・記者の勇気を称える
 ・柴田記者と編集部に敬意を表します
 ・私がもし、あの(友の肉を食べたと明かした)記者会見の席にいたら、おそらく私も大きな拍手を送るコトが出来たと思います

 当時の新聞報道も調べてみたが、各紙とも控えめに扱っているだけだった。それだけに柴田リポートのインパクトは強烈だった。

(堤  哲)

 

西郷隆盛はパーマをかけていた――。
 話題沸騰!仁科邦男さんの西郷本

 NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」が始まった。冒頭は、上野公園の西郷隆盛像除幕式(明治31年12月18日)で、西郷の妻イトが「こげな人じゃなかった」と訴えるシーン。

 仁科邦男(69歳)著『西郷隆盛はなぜ犬を連れているのか: 西郷どん愛犬史』(草思社)には、イトの言葉が〈「顔が似ていない」という意味なのか、「こんな格好で人前に出るような人ではない」という意味なのか、解釈が分かれる〉とある。

 西郷はおしゃれだった。細い青竹を火鉢の灰の中に差し込み、髪にあててパーマをかけていた。「戎服(じゅうふく)(軍服)を着ればそれ相応に頭髪も手入れせんければならん。頭髪の鏝(こて)じゃよ」と、この青竹の使い途を説明した。

 パーマの話は、鹿児島出身で社会部の先輩・小畑和彦さん(2012年没、67歳)からB1で飲んでいるときに出た話だという。

 のちに「西南戦争」と呼ばれる、その出陣の際は、陸軍大将の正装をして、舶来の葉巻をくゆらせていた。

 上野公園の銅像についても解説している。〈西郷が犬を連れて兎狩りに行く姿である。左の腰に下げているのは兎の通り道に仕掛ける兎わなである。実際にはこのような着流し姿では狩りに行かなかった。西郷像はわらじ履きに素足である。狩りに行く時、西郷は狩猟用の足袋を履く。素足、むきだしの足の脛(すね)では、すり傷だらけになってしまう。

 西郷像は散歩しているように見える。犬に首綱をつけ、散歩する習慣は文明開化とともに日本に入って来た。ここには新しい時代の日常がある。狩り姿と普段着の西郷が混然となっている。……

 犬は小さい。西郷像の高さは1丈2尺(約360センチ)で、実物(身長180センチ)の倍あるが、それをもとに計算すると犬の体高は31-32㌢前後。柴犬よりも小さく、ダックスフンドよりは大きい。これでもモデルになった薩摩犬より大きく作った。モデルの犬は西郷が飼っていた犬ではない。薩摩出身の海軍中将・仁礼景範(にれ・かげのり)が飼っていた桜島産の犬で、サワという名のオス犬である〉

 とにかく詳しい。よく調べている。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』にはしばしば犬の話が出てくるが、「愛犬と祇園の茶席に上がる」という一文には誤りがある、とズバリ指摘する。元社会部記者の面目躍如である。

 1月7日付け朝日新聞書評欄で、早速話題の書として取り上げられた。とりわけ〈巻末の『西郷隆盛と犬』の略年表」は圧巻だ〉とベタ褒めである。「犬2匹を連れ兎狩り」「犬13匹を引き連れ鰻温泉に止宿」など、犬好き西郷を史料から丹念に拾った。

 年表に、坂本龍馬とお龍夫妻が慶応2(1866)年3月10日に鹿児島に着き、10日から4月11日まで日当山などの温泉をめぐった、新婚旅行の始まり?もあった。

 著者略歴に「名もない犬たちが日本人の生活にどのように関わり、その生態がどのように変化してきたか、文献史料をもとに研究を続ける」とある。動物文学会会員。

 絶滅したといわれる薩摩犬を追って、毎日新聞西部本社報道部にいた筆者が鹿児島の離島・甑島に渡ったのは、1978(昭和53)年2月。ちょうど40年前である。そのころから「いつか西郷隆盛を書きたい」と資料収集、取材を続けてきた。

 この本は、「犬の伊勢参り」(平凡社新書)、「犬たちの明治維新 ポチの誕生」(草思社)、「伊勢屋稲荷に犬の糞 江戸の町は犬だらけ」(草思社)に続く、仁科邦男犬シリーズの第4弾である。

 1月5日には、NHK歴史秘話ヒストリア「西郷どんのイロハ 維新の英雄・3つの愛」に出演して、西郷隆盛の「忠犬への愛」についてコメントを述べた。再放送は1月14日午前0時05分から(13日深夜)。見逃した方は是非見てください。

(堤  哲)

 

秋空に 旗二〇六 お堀端 河彦

 東京五輪まで1000日。毎日新聞社は竹橋のパレスサイドビルに二〇六の国と国際機関の旗を飾った。ギリシャから日本まで、皇居周辺を走るランナーたちが見上げる。今日の新聞は、これに合わせて五輪企画を全面展開。

 これは河彦の名前で続けている私の俳句ツィッターのうち、10月28日の作品です。朝刊に掲載された写真を見て、これは自分のカメラで写真を撮りに行かねば、とこのビルで働く後輩達への一体感を強く感じさせてもらいました。

 この「国旗デコレーション」は、2階から7階までの壁面を使い、国際オリンピック委員会(IOC)加盟206カ国・地域の旗を掲げ、平和の祭典を盛り上げる企画の一つです旗は横210センチ、縦140センチの布製で、掲示は11月5日まで。

 その左側に掲示された「世界は一つ 東京オリンピック」の標語は、1964年東京五輪の際に毎日新聞社による公募で選ばれました。

 個人的な思い出話ですが、1964年に大学進学のため東京に出てきて、五輪の準備が進む代々木の国立競技場で、リヤカーを引いて会場のあちこちに花を飾るアルバイトに汗を流しました。体操で金メダルを獲得した遠藤幸雄選手とパレードの列の中で握手した日から53年。そして3年後に向けて、夢をふくらませ、毎日新聞がさらに存在感を大きくする日を楽しみにしています。

(高尾義彦)

 

50年前、1面を飾った特ダネ写真!

 1967(昭和42)年8月2日付朝刊1面と社会面。北ア西穂高岳で長野県立松本深志高校の集団登山の列に落雷が直撃、11人が死亡、13人が負傷する惨事があった。その現場の生々しい写真が載っている。尾根道に雷撃で飛ばされて横たわる高校生が何人も写っている。特ダネ写真だった。

 その時の現場取材の模様を、長崎和夫さん(74歳)が、「日本記者クラブ会報」第572号(10月10日)に「報道写真 今と昔」というテーマで書いている。

 〈当時、各社は夏と冬に上高地に記者を駐在させており……、入社2年目の筆者も上高地駐在だったが、当日は単独で奥穂高岳に登山中。頂上直下で雷雨に見舞われ、下山しかけると西穂方面が騒々しい。あわてて西穂高岳に登り直したが、他社のように現場に行きつけない。シャッターチャンスどころではなく、下山者から写真をもらうことにした〉

 結果的にこの判断が正しかった。下山者から現場写真を借りることができたのだ。

 〈ところがその中に生徒と何体の遺体が一緒に写っている1枚があった。特ダネ写真だとして1面7段の破格な扱いとなった。今ならば絶対に紙面化できない類いの生々し過ぎる写真だ。半世紀で写真に対する考え方がずいぶんかわった〉

 長崎さんは、入社1年目にも社会面トップの記事を書いている。駆け出しの長野支局員として松代地震を取材中に、地滑りが起き、それに乗った、という体験ルポだった。

 事件・事故にツイている。長崎さんはその後、社会部にあがって警視庁捜査1課を担当、政治部に移って政治部長、論説委員長、専務取締役まで栄進した。

 私は長崎さんの入社2年先輩。誰からも好かれる人柄のよい後輩で、「チョーさん」とか「親分」と呼んで、よく権堂に繰り出した。

 この日の対社面に、都市対抗野球大会で日立製作所が前年優勝の熊谷組を破ったという記事が載っていた。それで思い出したが、私はその年、長野支局から水戸支局に転勤となり、水平雷撃のあったときは、水戸支局から日立製作所について後楽園球場で取材していた。

(堤  哲)

 

社会部旧友会の3句聖

 月刊「俳句」(角川文化振興財団発行、(株)KADOKAWA発売)9月号の読者投句欄「平成俳壇」の「秀逸」に選ばれた2句――。

  菩提寺の未完の塔や藤の花  一閑
  胸張って泰山木の花咲けり  一閑

 故郷(ふるさと)を詠むシリーズで、「故郷の建物」がお題。バックナンバーを調べたら、8月号、7月号にも「秀逸」作品があった。

  雨乞や溜池に飛ぶ祈りの火  一閑
  遠山に雨のくるらし菊根分  一閑

 俳壇の新星・一閑とは誰? 某先輩に尋ねると、森浩一さんであることが分かった。元社会部長、元スポニチ社長である。

 「俳句」10月号の予告に特集「戦後俳壇」。筆者に学芸部OBの酒井佐忠さんの名前があった。

 社会部旧友会メンバーで「俳人」で知られるのは、かつて「銀座一丁目新聞」で俳句道場を主宰していた牧内節男さん(一閑さんの先輩の社会部長、スポニチ社長・会長)。

 HPから最近作を拾うと――。

  鶏頭に天下の秋見つけたり    悠々
  ボケ防止心に響く牌の音     悠々
  数の子の歯ごたえ確か我老いる  悠々

 もうひとり、『無償の愛とビールの泡につぶやいて』(牧内俳句道場で「天」)の句から、『無償の愛をつぶやく Ⅱ』のタイトルで雑文交じりの句集を出版した高尾義彦さん(前日本新聞インキ社長)。

  台風に 情け求めて 同窓会   河彦
  佐原さん 偲んで秋の 百花園  河彦
  蕎麦の花 三鉄沿線 津波跡  河彦 

 社会部旧友会同人には、他にも俳句を楽しんでいる人がおられたと思いますが、最近作を寡聞にして存じ上げないので、割愛。失礼!

(堤  哲)

 

東日印刷の「アスナビ」佐藤凌選手に応援を!

佐藤凌選手の見事なジャンプ!

 東日印刷は、従業員が約360人の小ぢんまりとした企業です。しかし、毎日新聞グループホールディングスの東日本の中核印刷会社と位置づけられ、新しいことに挑戦する意気込みにあふれています。ウェブ事業の開始、OA機器販売会社のM&A、理系大世界最高水準のインド工科大生の採用。何とか毎日グループの発展に貢献できないかと、模索を続けています。その中で、幾分ユニークで爽やかな試みが「アスナビ採用」です。

 「アスナビ」とは、日本オリンピック委員会(JOC)が実施しているトップアスリート就職支援ナビゲーションの略称です。企業の支援を望むトップアスリートと、会社の活性化やブランド力の強化を図りたい企業との採用をマッチングします。 東日印刷はアスナビの趣旨に賛同し、今年4月、陸上競技・走り高跳びの佐藤凌選手を採用しました。東日は2020年東京五輪で9競技の会場となる江東区内に所在しています。アスナビ採用が、従業員の一体感醸成に必ずや繋がるだろうとの思いがありました。2015年5月にJOCと江東区が共催したアスナビ説明会に初参加して以来、素敵なアスリートを採用するため、さまざまな選手やJOC担当者へ積極的にアクセスし、これが実を結びました。

 佐藤選手は、昨年の日本陸上競技選手権大会で準優勝した期待の若手です。写真でも分かる通り、今風に言えば「イケメン」の風貌で、スピーチ、気配り、身のこなしもスマートな好青年です。入社前の海外遠征で足首を痛めてしまい、今年度の目標としていた世界陸上への出場は叶いませんでした。今は気持ちを切り替え、9月の全日本実業団対抗陸上競技選手権出場に向けて、治療とリハビリトレーニングに励んでいます。

 佐藤選手は週に1日出勤し(オフシーズンは週2日予定)、それ以外は会社の支援のもと選手活動に専念しています。社内では、応援プロジェクトを立ち上げ、応援グッズや等身大パネルなどを作成し、プロモーションを推し進めています。

 8月5日、東日の夏の恒例行事「納涼と懇親の夕べ」では、顧客や近隣住民の皆さんの前で、佐藤選手のお披露目が盛大に行われ、応援の熱い熱気に包まれました。

 東京五輪出場が佐藤選手と会社の最大の目標。それに向けた長い戦いは既に始まっています。

佐藤 凌(さとう・りょう)選手のプロフィール

生年月日:1994年7月21日(満23歳)
競技種目:陸上・走り高跳び
出身地:新潟県長岡市
学 歴:東海大学
入社日:2017年4月1日

主な戦績

2016年6月 2016 日本学生陸上競技個人選手権大会  優勝  2m20cm
2016年6月 第100回 日本陸上競技選手権大会  2位  2m25cm

(東日印刷・西川光昭=社会部OB)

 

沢田教一写真展に、毎日新聞の特ダネ紙面

 ベトナム戦争でピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」。報道写真家・沢田教一さん(1970年カンボジアで狙撃され死去、34歳)の写真展が日本橋高島屋で開かれている(8月28日まで)。

 朝日新聞社主催だが、会場に毎日新聞の紙面が拡大コピーして展示されていた。

 「おお、母子は無事だった」の大見出しがついた1966(昭和41)年7月3日付。「安全への逃避」の被写体になった2家族5人を沢田さんに同行して探し出して記事にしたのだ。特ダネだった。

 クレジットに【サイゴン二日発柳原特派員】。柳原義次氏(1995年没68歳)。大阪本社社会部から外信部、ソウル特派員からサイゴン特派員になった。そしてボン支局長から大阪本社社会部長(第25代)。ちなみに24代は北爪忠士氏、(2009年没84歳)、26代は松永俊一氏。

 〈「柳(やな)ちゃん」の愛称で親しまれた。堺の古い家柄に生まれ、東大経済学部時代は作家の辻井喬(堤清二)氏らと、学生運動の旗を振ったこともあり、闘志と正義感は人一倍強かった〉

 〈振り出しの大阪社会部時代は若手造反グループ「デンケン会」の中心人物の1人で……外信部に移ってからも、毎日労組の委員長にかつがれ、「柳原執行部」という名の一時代をつくった〉

 〈(ボン支局長時代の)東欧では自由化の波がソ連の戦車に押しつぶされた「プラハの春」に同情のペンをとった〉

 大毎社会部100年史『記者たちの森』に、後輩の社会部記者・磯貝喜兵衛さん(元毎日映画社社長)が「ダンディズムと人情」の見出しで紹介している。

 沢田教一氏は、三沢基地の写真店で働き、1960年に上京してUPI通信社東京支局に入社した。同支局は有楽町の毎日新聞東京本社内にあった。1965(昭和40)年7月にUPIサイゴン支局のカメラマンとなり、「安全への逃避」は1966年にピュリツァー賞を受賞している。

(堤 哲)

 

フクちゃん横山隆一さんの珍コレクション

上の写真は「週刊新潮」7月27日号に掲載
上は、東大安田講堂事件の時壊された「大理石」
下は、洞爺丸遭難 「一等船室の窓枠」「救命具のひも」「救命ボートの破片」など

 高知市の横山隆一記念まんが館(高知市文化プラザかるぽーと内、電話088-883-5029)で開催中の「隆一 珍コレクション展」(8月27日まで)。どんな珍品があるか、『週刊新潮』7月27日号で紹介された。

         

 冒険家植村直己さんの足の豆だこ、ハイセ―コーの毛などと並んで、〈東大安田講堂事件の時こわされた大理石、鍛治(壮一)氏贈〉、〈洞爺丸遭難、一等船室の窓枠など、毎日新聞函館支局坪松竹雄氏〉と、毎日新聞記者からが2点あった。

 横山隆一さんは毎日新聞朝刊に「フクちゃん」を長期連載(1956(昭和30)年1月1日〜71(昭和46)年5月31日まで5534回)、毎日新聞社内でよく姿を見かけた。

 写真部から社会部記者となった鍛冶さんは、「母校」東大安田講堂事件の取材をして、現場から投石された同講堂の壁石を持ち帰ったのだろう。安田講堂落城(封鎖解除)は1969(昭和44)年1月19日だった。

 洞爺丸事故(1954(昭和29)年9月26日青函連絡船「洞爺丸」が台風第15号の暴風雨によって転覆、死者・行方不明1155人を出した。海難史上最大の惨事)の坪松さん(1994年没、81歳)は、当時函館支局長。支局員に命じて洞爺丸の乗船名簿を入手、それを特報した記者として名を残している。その詳細は『毎日新聞の24時間』(1955年刊、鱒書房)に本人が書いている。

 当時の新聞を見ると、毎日新聞は発生を報じる9月27日付朝刊1面に乗客名簿を載せている。専用線で電話送稿したのだから1千人を超す名簿を送り終えるまで何時間かかったのだろうか。翌日の夕刊にもさらにスペースを割いて掲載している。他紙は27日夕刊からで、名簿が特ダネになったわけだ。参考までに、この日の朝刊1面を。

昭和29年(1954年)9月27日(月曜日)本紙朝刊紙面

(堤 哲)

 

25日の都市対抗野球決勝は小池百合子都知事が始球式

前年優勝のトヨタ自動車から黒獅子旗の変換を受ける丸山昌宏毎日新聞社社長

 ちょうど90年前に始まった都市対抗野球大会。ことしは第88回を迎え、7月14日に東京ドームで開幕した。参加32チーム。優勝戦は25日午後6時からだ。始球式は東京都知事小池百合子さんだ。

開会式でスタンドに向かって並ぶ大会役員
(女性=金子めぐむ総務大臣政務官)
左隣が丸山昌宏毎日新聞社社長

 この大会は、明治神宮外苑に4万人収容の野球場新設(1926(大正15)年10月完成)から始まった。東京日日新聞と朝日新聞に各5千円の寄付が持ちかけられ、それを知った当時の東京日日新聞の野球好きの記者たちが、東京に相応しい一大野球大会を創設しようと企画した。ヘッドハンティングしたのが橋戸頑鉄(1879~1936)だった。

 頑鉄はイの一番で野球殿堂入りしているが、当時は大阪朝日新聞から大正日日新聞の記者をしていた。頑鉄は第1回早慶戦、日露戦争のときにアメリカ遠征したときの早大主将。その著『最新野球術』は、全国のプレヤ―の教科書となった。

 米大リーグを参考に都市対抗野球としたのは、頑鉄のアイデアだった。頑鉄は全国を回って社会人チームに参加を呼びかけた。優勝旗は画家の小杉未醒(のち放庵)に依頼、バビロンのレリーフから黒獅子が生まれた。

 参加12チーム。「暑中でもあり簡素を尊ぶ意味から入場式を省略し」と記事にある。華やかな開会式は夢のまた夢だったのだ。

大会始まりを伝える東京日日新聞夕刊

昭和2年8月4日付東京日日新聞夕刊から抜粋。
左側の写真(上)西久保市長の始球式、下が観客

(堤 哲)

 

終戦秘話 幻の和平工作 藤村先輩、スイスで活動

社友 河合喜久男

藤村義朗氏

 今年は戦後72年。毎年8月15日が来ると、日米直接和平工作に尽した先輩・藤村義朗海軍中佐(当時)のことが思い出される。

 当時、終戦工作として、モスクワでのソ連仲介工作、中国・重慶での繆斌(ミョーヒン)工作とともに、スイス・ベルンでの藤村先輩の和平工作があげられる。中でもスイス大使館付武官の藤村武官と米戦略機関欧州長官のアレン・ダレス氏との交渉が、最も実現性が高かった。しかしいずれも成功せず、歴史の歯車は正常に戻らず、日本のポツダム宣言受諾、降伏に至ったことは痛恨の極みである。

 藤村武官は、大阪の旧制堺中学の15年先輩で江田島の海兵卒、昭和15年海大卒、ドイツ大使館付武官補に赴任。私は京大卒、毎日新聞社に入社、休職、海軍予備学生として特訓後、昭和18年末士官任官、海兵教官に就任。先輩とは海軍でもご縁がある。

 昭和20年3月、先輩は敗戦で断末魔のベルリンからスイスに転任。親日家のドイツ人、ハック博士の紹介で米ダレス長官と終戦和平交渉に入る。先輩は若い頃から国士的で、日本をドイツの様にしてはならず何とか救いたいとの一念からだった。藤村武官から東京に緊急第一電が発せられたのが同年5月で、以後35通も暗号電を打たれたが、満足な返電は得られなかった。

 この交渉に協力した人に、海軍嘱託・大阪商船の津山重美駐在員(暗号電作成)や朝日新聞社特派員、笠信太郎氏、横浜出生・ダレス機関員ブルーム氏らがいる。機密保持しながら東京の首脳部に打電された。しかし東京では、ソ連仲介を重視、スイスでの交渉には積極的でなかったようだ。

 日本側は和平条件に、①日本の主権・国体維持②商船隊の維持➂台湾・朝鮮の維持を主張。米国側は①②は良いが➂はヤルタ会談で決定済みで難しいとのことだった。

 戦況はいよいよ悪化、広島、長崎に原爆投下、沖縄焦土戦、東京空襲、米軍の日本本土上陸計画など、昭和天皇は陸軍の本土決戦計画、竹槍戦法などお叱りになり、終戦を決意される。スイスでの終戦和平工作は幻の挽歌に終わることになる。

 敗戦後、藤村先輩は帰国、日本再建に貢献すべく、神田で露天商を始め、東京・青山で貿易商・ジュピターコーポレーション開業、社是の第一条には「会社、社員の人格即ち品性を磨くこと」とある。また海兵の5省訓の第一条には「至誠に悖るなかりしか」とあり、「モラロジー」(最高道徳)を研鑚、品性を高め、まごころを貫くことにつとめられた。千葉県富津市にハイテク工場建設、特異な貿易商社として発展せしめ、平成4年3月富津で永眠、信望を集めた内外から悔やまれた。

 帰国後の藤村先輩に、米内海相は「スイスでの和平交渉に賛成、実現につとめたが力及ばず申しわけなかった」と詫びられたと、本人から聞かされた。

 スイスでの終戦和平交渉は、藤村先輩自身の「思い出の記」やテレビドラマ「欧州から愛をこめて」、映画「アナザウエイ」、テレビドキュメンタリー「祖国へ緊急暗号電」等で記されている。

 先輩は「真の情報をつかみ、判断を的確にするのは、その人の品性による。非常時における最高リーダーの資質と判断がいかに大事であるか」を経験したと、私に語ってくれた。「知識より叡智を、真の情報をつかみ判断を誤らぬように」と先輩からの教訓でもある。(平成29年7月6日記) (注)河合喜久男さんは本年5月で満96歳になられました。

(河合喜久男)

 

続・写真部、有楽町最後の日

 写真部OBの中尾豊さんから「オレは有楽町最後の泊まり番だった。その日の写真をファイルしていたので送ります」とメールで。

1966(昭和41)年9月22日最後の日の勤務表
デスク 夕刊大沢勇之助、朝刊染谷光雄
泊    橋本保治、*中西浩、*中尾豊
早    *川島良夫
残〜10  三十尾清、影山日出男、*永井誠
内勤   藤田君幸、鈴木久俊
明    荒井英雄、松野尾章、*酒井孝一
羽田   山添昭二
時短   明け
欠    上村勉
                 (*印は存命者)

 左から中尾豊、橋本保治、山内巖、伊神碩人、石井清(部長)、吉村正治(デスク)、その上藤田君幸、右に寺尾勇、大沢勇之助(デスク)、影山日出男、上に中西浩、三十尾清、手前木村謙二、右に佐藤龍彦、新倉義政、南川昭雄

 存命は、中尾豊、中西浩の2人だけです。

(中尾 豊)

 

有楽町最後の写真部スナップ

 51年前、毎日新聞東京本社が有楽町から竹橋パレスサイドビルに引っ越すときの写真が、東京写真部OB会(6月10日開催、「集まりました」参照)で披露された。当時事務補助員の八木英雄さん(69歳)が保管していた。

 真ん中で椅子に座っているのが寺尾勇、その後が木村謙二。顔半分の人は不詳で、右に佐藤龍彦、山内巌、橋本保治、手前新聞を開いているのが新倉義政。その右奥は地方部員。中央から左に三十尾清、影山日出男(敬称略)。全員鬼籍に入っている。左端が当時18歳の八木さんだ。

 写真の左端にカメラ機材搬送用のジュラルミンケースが数個と段ボール箱が山積みになっている。引っ越し作業が一段落して、写真部員が撮影したスナップである。

 八木さんによると、当時、航空写真は、有楽町の東京本社上空で生フィルムをパラシュートに付けて投下、地上でキャッチして現像していた。「この仕事がスリリングで面白かった」といっている。現在はデジカメで撮影したデータをパソコンに取り込み、スマホでヘリから機上電送する。フィルムの投下も現像もない。空撮の映像が写真部、いや写真映像報道部デスクのパソコンに現れる。暗室が消えて何年になるのだろうか。

 八木さんは、1963(昭和38)年中卒で補助員となり、定時制高校から24歳で大学を卒業するまで9年間働いた。その後、鷺宮製作所―高千穂交易―インテック。36歳で㈱八木ビジネスコンサルタントを設立。大型コンピューター向けのプログラム作成などで、年商5億円にのぼる。5年前に社長を引退、社員から登用した社長がすでに3代目になっている。2004年、創立20周年記念で200万円を毎日新聞東京社会事業団に寄託した。一番裕福な写真部OBである。

(堤 哲)

 

野球殿堂入りの毎日新聞関係は美嶺さんが19人目

 ことし野球殿堂入りした元毎日新聞運動部記者鈴木美嶺さん(1991年没、70歳)の殿堂入りセレモニーが5月27日(土)東京六大学春のリーグ戦最終週早慶1回戦の試合開始前に行われる。

 毎日新聞関係者で野球殿堂入りは、美嶺さんが19人目。野球の発展に、毎日新聞がどれほど貢献してきたか。

 野球試合の報道はもとより、プロ野球がない時代に、学生野球のスターらを社員に採用して「大毎野球団」をつくった。日本で最強の野球チームとなって、全国に遠征して地元中学(旧制)の野球部を指導した。アメリカにも遠征して、米大統領を表敬している。春のセンバツ大会、夏の都市対抗野球大会を主催。戦後、プロ野球がセ・パ2リーグになったとき「毎日オリオンズ」を結成、パ・リーグで優勝し、さらにセ・リーグの覇者松竹ロビンスを降し、日本一に輝いている。初代である。

 ここで19人を紹介したい。まずは橋戸頑鉄から、生年月日の古い順に。この情報を掘り下げて「野球文化學會」の論叢集「ベースボーロジー」第12号(今秋出版予定)に執筆しようと思っている。もっとも学会誌なので、論文審査にパスしたらの話ですが。

 では――。

 ①橋戸 信頑鉄、1879〜1936)青山学院―早大。第1回早慶戦(1903年)、早大アメリカ遠征(05年)の主将。『最近野球術』出版。日本初のプロ球団日本運動協会結成に参画。大阪朝日記者として夏の中等学校優勝大会に関与、大阪毎日(大毎)・東京日日(東日)記者として都市対抗野球大会創設に尽力。「橋戸賞」に名を残す。

 ②三宅大輔(1893〜1978)慶大―大毎。1925年早慶戦が復活した時の慶大監督。1927年都市対抗野球第1回大会に東京倶楽部から出場。大会第1号ホーマー(ランニング)を記録。プロ野球誕生に参画し、巨人軍初代監督。阪急監督も。「野球入門」など著書多数。

 ③腰本 寿(1894〜1935)ハワイ出身。慶大―大毎。「大毎野球団」アメリカ遠征のキャプテン。慶大監督。15シーズンで7回優勝し、「エンジョイ・ベ-スボール」で慶大の黄金時代を築いた。選手からは「お父っあん」と慕われた。40歳で病没。

 ④岡田源三郎(1896〜1977)早実で第1回全国中学校優勝野球大会出場。1番捕手。明大―大毎。1923〜35年明大監督で黄金時代を築く。1925年ハワイ遠征の帰国船で大毎野球団と乗り合わせ、湯浅投手、天知捕手ら主力6選手を大毎へ。名古屋金鯱軍初代監督。

 ⑤小野三千麿(1897〜1956)慶大―大毎。野球殿堂HPに「米大リーグ相手に初の白星を挙げた剛球投手」とある。大毎野球団の大黒柱。大毎体育部長(戦時中運動部を改称)。都市対抗野球大会の補強制度を考案。「小野賞」に名を残す。

 ⑥石本秀一(1897〜1982)大阪毎日新聞広島支局。母校広島商業監督として、1924年、29〜31年の4回夏の甲子園で優勝。31年センバツも優勝して、夏春夏と甲子園制覇。「真剣刃渡り」の伝説を残す。1936年大阪タイガース二代目監督。名古屋金鯱軍、大陽ロビンス各監督。1950年創設の広島カープ初代監督。

 ⑦桐原眞二(1901〜1945)北野中―慶大―大毎。1924(大正13)年慶大キャプテン。遊撃手。早慶戦の復活に全力をあげ、翌25年秋、19年ぶりに早慶戦が復活し、学生野球人気が過熱した。大毎経済部長から出征し、戦死した。

 ⑧浜崎真二(1901〜1981)広島商―神戸商―慶大―満鉄。身長150㌢の左腕投手。夏の全国大会、早慶戦で活躍。大毎野球団の満州遠征に参加。都市対抗野球第3回大会で大連満州倶楽部の優勝に貢献。阪急、高橋、国鉄の各監督。「球界のご意見番」。

 ⑨天知俊一(1903〜1976)捕手。明大―大毎。湯浅禎夫投手と黄金のバッテリーといわれた。東京六大学・甲子園大会の審判員。帝京商(現帝京大高校)監督。選手に杉下茂投手。中日ドラゴンズ監督。1954年杉下茂投手を擁して日本シリーズ優勝。

 ⑩井口新次郎(1904〜1985)和歌山中学で1921、22年全国中学校優勝野球大会2年連続優勝。早大で三塁手4番。1929年大阪毎日新聞に入社した年に大毎野球団が解散、記者として活躍、西部本社運動部長。センバツ、高野連、日本野球連盟の役員を歴任。

 ⑪横沢三郎(1904〜1995)明大―大毎。名二塁手。1923年秋のリーグ戦で明大初優勝に貢献。大毎野球団解散後、東京六大学専属審判員。都市対抗野球の1930年第4回から第9回まで東京倶楽部で4回優勝。プロ野球東京セネタース監督。パ・リーグ審判部長。

 ⑫小川正太郎(1910〜1980)左腕投手。和歌山中学でセンバツ、夏の甲子園に計8回出場。センバツ優勝でアメリカ遠征、夏では8連続三振を記録。早慶戦で宮武三郎、水原茂と投げ合った。34年大毎記者。日本社会人野球協会(現日本野球連盟)の発展に寄与。

「毎日オリオンズ」関係では――。

 ⑬若林忠志(1908〜1965)ハワイ生まれの日系2世。法大―川崎コロムビア―阪神。“七色の魔球”で1930年30勝。元祖・頭脳派投手。42年阪神で監督を兼任、戦後1946年38歳で阪神に復帰、50年毎日オリオンズに移籍、53年監督。

 ⑭西本幸雄(1920〜2011)和歌山中学―立教大学。1949年別府星野組の監督兼一塁手で都市対抗野球大会優勝。翌50年毎日オリオンズ入団。大毎、阪急、近鉄20年間の監督生活で8度リーグ優勝。しかし、1度も日本一に就けず、「悲運の名将」といわれた。

 ⑮別当 薫(1920〜1999)甲陽中学―慶大―阪神―毎日オリオンズ。50年43本塁打、105打点で本塁打王、打点王の2冠。打率.335、盗塁34で初のトリプルスリー。1954年オリオンズ監督。その後近鉄(62〜64)、大洋(1967〜72、77〜79)、広島(73)監督。

 ⑯荒巻 淳(1926〜1971)別府星野組―毎日オリオンズ。「火の玉投手」。1949年都市対抗野球大会優勝、最高殊勲選手賞「橋戸賞」を受けた。翌50年プロ入りして26勝8敗、防御率2・06で最多勝と防御率第1位となり、パ・リーグ初代新人王。

 ⑰山内一弘(1932〜2009)川島紡績(現・カワボウ)―1952毎日オリオンズ。「打撃の職人」。60年本塁打王と打点王の2冠、MVP。その後阪神に移籍、プロ野球史上初の300本塁打。オールスター16回出場「オールスター男」。ロッテ、中日で監督を務めた。

 ⑱榎本喜八(1936〜2012)早実ー1955毎日オリオンズ。「安打製造機」。新人で開幕戦5番デビューし、新人王。首位打者2回(60年 .344、66年 .351)。プロ野球史上最年少の31歳7か月で2000本安打を達成した。2016年殿堂入り。

 ⑲鈴木美嶺(1921〜1991)「みれい」はフランスの画家ミレーから。東大野球部から日刊スポーツを経て1950年毎日新聞入社。都市対抗野球大会で運動面連載の「黒獅子の目」は逸品だった。殿堂入りはプロとアマの野球規則書を統一した功績。

(毎友会HP随筆欄・諸岡達一さんの記事参照)

(堤 哲)

  

45年前のセンバツ優勝戦も雨で一日順延された!

1972年4月8日付 運動面と東京版

 ことしのセンバツは話題豊富で面白かった。早実・清宮幸太郎クン人気に、延長15回引き分け再試合が2試合連続であったうえ、決勝は大阪勢同士。89回を数える大会で、史上初が重なった。

 同じ地区代表が優勝を争うのは、1972(昭和47)年以来45年ぶりと話題になったが、大阪本社社会部員だった私は、この年(毎日新聞創刊100年)のセンバツ担当だった。キャップが3年先輩の津田康さん。京都大学野球部時代、関大の村山実投手(のち阪神)と投げ合ったというのが自慢だった。

 決勝は、2連覇を目前にした日大三高と、ジャンボ仲根正広投手(のち近鉄、故人)の日大桜丘。今回同様、雨で一日順延となり「決勝は神宮球場に帰ってやったら」と嫌みをいわれた。観客席に空席が目立った。

 社会面をどんな記事で埋めるか。ドキュメント東京勢兄弟決戦を企画、両校キャプテンが大会本部でジャンケンで先攻・後攻を決める現場から取材を始め、15時14分のゲームセットまで球場内を駆けずり回った。そこそこ面白い読み物になったと思った。しかし、いかんせん長すぎた。ナンパは応援の先輩記者がサラサラと書いてくれた。

 ドキュメントは東京版に掲載されたことをあとで知った。

 大阪桐蔭の優勝を詳報することしの運動面には、高校日本代表監督小枝守さん(65歳)の大会観戦記が載っていた。その小枝さんは、45年前の甲子園ではV2を逃した日大三高のコーチだった。その後、日大三高、拓大紅陵高校の監督として、甲子園でおなじみの顔となった。

 ついでながら1年置いて1974(昭和49)年に再度センバツを担当した。さわやかイレブン池田高校が準優勝した年で、相方は酒井啓輔さん(元毎日グラフ編集長)だった。

(堤 哲)

  

「金メダル16個! 五輪成功の“立役者”」大島鎌吉

 1964年東京五輪の日本選手団団長、故大島鎌吉さん(毎日新聞運動部OB、1985年没76歳)が、「東京五輪を作った男」として2月22日午後9時からのNHKニュースウォッチ9で紹介された。

 NHKのHP:http://www9.nhk.or.jp/nw9/digest/2017/02/0222.htmlからまず写真を2枚。

東京オリンピックの開会式。日本選手団団長として行進する大島鎌吉さん。
1932年関西大学生としてロス五輪三段跳びで銅メダル(15メートル21)

1934(昭和9)年 毎日新聞社入社。
1936(同 11)年 ベルリン五輪出場。旗手兼主将。
1939(同 14)年 毎日新聞ベルリン特派員。
1945(同 20)年 ベルリン陥落を送稿。帰国後政治部→運動部。
1952(同 27)年 ヘルシンキ五輪特派員。ローマ法王謁見。アテネ採火式。
1959(同 34)年 ミュンヘンIOC総会で64東京五輪開催決定。JOC委員。
1964(同 39)年 東京五輪で日本が金メダル16個を獲得。選手団長。

 大島さんは、選手強化対策本部長として、競技ごとに専属のコーチやドクターをおき、最新のスポーツ科学や栄養学を導入した。伴義孝関大名誉教授は「竹槍精神ではどうにもならないんだぞ、根性主義と科学をミックスさせないと、金メダルを取ることはできない」と大島さんはいっていたという。

 番組では、大島さんが生涯にわたって訴え続けたメッセージを紹介する。「オリンピックは平和のためにある」。日本はアメリカに同調して1980年モスクワ五輪をボイコットしたが、当時71歳の大島さんは「日本はボイコットすべきではない」という声明文を英語とドイツ語で100か国以上のオリンピック委員会に送っている。

 そして録音テープに残されたメッセージを紹介する。

 「世界の平和を考えるのはオリンピックだけじゃないかと確信している。この空気が日本によく伝わっていない。スポーツが毒されちゃ困る、何とかしなけりゃならんというのは、“スポーツ馬鹿”がこれからやる仕事のひとつだ。まぁ、しっかりやってくれよな」

 これが2020年東京五輪・パラリンピックへの遺言だ、と番組はいう。

 大島さんから直接指導を受けた毎日新聞の後輩、元大阪本社運動部長の中島直矢さん(2009年没96歳)は『スポーツの人 大島鎌吉』(1993年関大出版部刊、伴教授との共著)を出版、東京本社運動部の伊東春雄(1993年没69歳、東京体育専門学校(現筑波大学)が箱根駅伝に初参加した1947年から2大会連続出場、48年の第24回大会は1区2位の記録が残っている)は大島鎌吉の後継者として国民皆スポーツ運動に取り組んだ。ヘルシンキ五輪の400H、1600メートルリレーに出場した岡野栄太郞さん(86歳、元東京本社運動部長、同事業本部長、元毎日新聞取締役)は大島イズムを中央大学の学生時代から聞かされ、東京五輪の取材で活躍した。

 そして現役の滝口隆司記者(現水戸支局長)は、「五輪の哲人 大島鎌吉物語」を2014年11月から35回連載、2014年度ミズノスポーツライター賞優秀賞に輝いた。

ベルリン陥落直前の模様を伝える大島特派員の電話連絡

(1945年4月24日付毎日新聞)

(堤 哲)

  

パロディ展に、懐かしの「毎日グラフ」

 ヒゲを生やしたモナリザ。マルセル・デュシャンの作品を表紙にした「毎日グラフ」が、東京ステーションギャラリーで開かれている「パロディ、二重の声――日本の1970年代前後左右」展で展示されていた。

 パロディを特集した1979(昭和54)年6月3日号。編集長は鈴木茂雄(元写真部長)、取材スタッフに山田国雄、西井一夫(3人とも故人)とあった。

 同展で展観中の目玉作品、木村恒久「都市はさわやかな朝を迎える」も紹介している。NYマンハッタンのビル群にナイヤガラの滝をコラージュした傑作だ。

「毎日グラフ」は戦後間もない1948(昭和23)年7月に創刊。最大のヒットは74(昭和49)年から刊行した別冊「一億人の昭和史」だった。単行本も含め95冊、延べ1900万部を販売したと社史にある。

 「毎日グラフ」が廃刊となって久しいが、ネットオークションではバックナンバーに結構高い値段がついている。

 同展は4月16日(日)まで同ギャラリー(JR東京駅丸の内北口)で。

 注:会場内での写真撮影は禁止されています。掲載の「毎日グラフ」はプレビューの際、許可を得て撮影しました。

(堤 哲)

  

エスプリ記者・・・鈴木美嶺さん「野球規則の風神」

 元毎日新聞運動部記者・鈴木美嶺(すずき・みれい=1991年10月死去・享年70)さんが2017年1月、野球殿堂入り(特別表彰)した。美嶺さんは1955年、プロ・アマ別々だった公認野球規則の一本化と編纂に尽力するとともに、野球ルールを明瞭に説明した多くの著書で、野球の普及に貢献した。有楽町時代に運動面作りをしていた僕は、たびたび美嶺さんと「野球談議」をしたので、殿堂入りの第一報に涙が出た。

 鈴木美嶺さんが「自ら」野球規則を新規に規定させた出来事がある。美嶺さんの目の前で大変なことが起こったのだ。昭和26(1951)年3月18日、後楽園球場、春の社会人野球大会「大昭和製紙」対「全藤倉」。4回裏、大昭和は走者1,2塁でバッター朝比奈三郎が右翼スタンドに大ホームランを放った。二塁走者・石井藤吉郎は三塁を回ったところで一塁走者の浅井礼三を待って握手。嬉しさの余りか、浅井が石井を追い越して一瞬「入れ替わった」が、三人相次いでホームイン。3点。と、そのとき全藤倉監督・土井寿造「浅井が追い越したっ。アウトだアウトだ」と猛抗議。美嶺さんの顔に向かって飛び掛からんばかり。三塁審判は美嶺さんだった。運動部記者が審判もやっていたのである。社会背景といい人間の自由さといい《嬉しい時代》だったねえ。三塁審判美嶺さんは当然「インプレイで、マエの走者をアトの走者が追い越せばアトの走者がアウト」という規則は知っていた。自分の目の前で「見た」出来事……だったが、ン?? 今のはホームラン。「試合停止球」でのこと。とっさのことで頭の中が混乱した美嶺さんは審判団を集めて協議(何分くらいか忘れるほど長かった)……美嶺さん結論「インプレイでも試合停止球中でも走者の順序は同じである。今のは浅井がアウト!」。当時曖昧だった「走者追い越し規則」がこのときの美嶺発言どおり決定し、1951年5月からセ・パ両リーグもルールブックに明記された。

 「規則の鬼」どころか「野球ルールそのもの」の美嶺さんは「無通告代打モンダイ」「2ストライク後のホームスチール」「捕手の故意落球モンダイ」「塁審が守備を助けた噺」「第三アウト後の得点」「投げたグラブに打球が当たった」「蹴ったタマがスタンドに入った」などなど……野球規則難問が大好きだった。「こんがらがった糸」にたとえて英語ではknotty problem。 野球界では「baseball’s knotty problem」。もめごとを面白がるアメリカでは本が様々出ていて美嶺さんは片っ端から読んだ(左の写真はThe sporting news社が1990年に刊行したPaperbackの表紙)。なんせ美嶺さんは昭和30(1955)年に毎日新聞が招いたニューヨーク・ヤンキースの通訳兼世話役を任されてミッキー・マントルやビリー・マーチンら大スター選手と仲良しになるくらい英語が堪能だった。帝国大学(東大)での専攻が「西洋史学」……さぞかし原書を読んだのだろう。

 美嶺さんは昭和25(1950)年春に始まった「日本の野球界全体に適用される規則」を作製するプロ・アマ5団体会議の書記を担当して以来、歴史的ルールブック編纂にかかわった。ために、美嶺さんは昭和26(1956)年春、日本初の「公認野球規則」(当時は非売品・恒文社刊)の「はしがき」を書いた。肝心な一文は『……疑念のある個所は米国規則委員会に問い合わせ、つとめてアメリカ・日本の解釈に統一性を持たせるように心がけた。<ただ一つの規則>が日本の野球界に出来上がったということは野球史上画期的なことであるという喜びをもって、本書を諸兄に贈る次第である』と、誇っている。これをだいぶ後になって美嶺さんは「なんとまあコチコチで舌足らずの文章を書いたもんだなあ」と述懐しているから面白い。「美嶺さん、はしがき頼みますよ」と規則の神様・山内以九士に言われてからずっと、お亡くなりになる(1990年)直前まで書き続けた。

 美嶺さんは旧制八高(現・名古屋大学)を昭和17年卒→帝大では野球部。二塁手だったが昭和18年〜昭和19年(1943〜1944)は六大学野球が中止となり「野球のない野球部に籍を置いていた18人」中の1人だった(美嶺さん筆の東大野球部史)。公式戦はなかったが元住吉へ遠征して法大と練習試合、東長崎で立大と練習試合して、それぞれジャガイモをご馳走になった。早稲田戸塚球場を借りて京大との定期戦もやっている。昭和18年10月かの有名な雨降りしきる明治神宮競技場で行われた出陣学徒壮行会には、動員を掛けられながらも参加しなかった野球部員もいた(美嶺さんの行動は不明)。

 それからというもの、一誠寮(本郷・野球部合宿所)では出征の決まった選手らが「……堂々と陣を組んで白山の花街に行った。これがこの世の別れだと全員が心の中で思った。宴は終わった。芸者が寮まで送ってくれた。じゃ、お達者でね……彼女たちは軍歌を唄いながら夜の道を帰っていった。翌日から一誠寮の窓は、ひとつ消え、ふたつ消え……」と、同じ部史にある。

 美嶺さんはお茶目だ。ルールブックにまつわる著書に「歳末狂騒曲の中を“なんの因果で”野球規則編纂委員会なんかに出席しなければならないのか……上司である小川正太郎さんに頼まれては仕方がない……」などと大っぴらにグチをこぼしているのだから相当のエスプリ男である。美嶺さんの毎日新聞社内野球での活躍ぶりも運動部球史上で輝いているが、整理部との定期戦での諧謔プレーは傑作だった。一塁走者になった美嶺さん、ピッチャーが捕手(諸岡)の返球をマウンド上でポロリと落とした。美嶺さん「ボーク、ボーク」と言って二塁へ歩いて「野球規則8・05(g)だよ!」と笑った。それを聞いたT君怒ってグラブとボールをグラウンドに叩きつけた。美嶺さん「あ、またボーク、ボーク」。平然として三塁へ歩いた。

 *注 野球規則8・05(g)は、現規則では6・02(7)。

(諸岡達一・記)

一般財団法人全日本野球協会 Baseball Federation of Japan (略称B.F.J.)の英文サイトに、鈴木美嶺さんの野球殿堂入りと、「野球文化學會」再興総会の記事が掲載されました。

Press announcement was attended by new inductees and guests as well as a large number of media and observers. (Photo: Courtesy of Baseball Hall of Fame and Museum of Japan)

“Mr. Rule Book of Japan” and a Former Amateur Umpire were posthumously inducted into Japan's Baseball Hall of Fame

Japan’s Baseball Hall of Fame and Museum announced on January 16, 2017 that Mirei Suzuki (1921–1991), a former member of the nation’s Baseball Rules Committee, and Hiroshi Goshi (1932-2006), a longtime umpire in high school, college and industrial league baseball, were chosen by the Special Selection Committee. They received votes on 12 of 14 valid ballots.

Two members of professional experts category; former Chunichi Dragons Senichi Hoshino and The Taiyo Whales’ (now Yokohama DeNA BayStars) Masaji Hiramatsu, and one professional players category; former Seibu catcher Tsutomu Ito were also voted into the Hall of Fame bringing the total number enshrined to 197.

Seventy-five percent — or 250 votes from veteran baseball-covering media and Hall inductees who have been enshrined at least from the previous year — was needed in the players category this time. The same percentage of votes (84 in this case) was also required for entry via the experts category, which features former players and coaches.

Mirei Suzuki went to WWII under the student mobilization order in the middle of his studies (and baseball club) at the Tokyo Imperial University (now the University of Tokyo). After being demobilized, he worked with The Mainichi newspaper as a sports writer and was instrumental in running the Rules Committee from 1955 to 1991. Up until 1955, Japan’s professionals and amateurs relied on the rule books of their own which were consolidated in 1956 and subsequent issues have been renewed annually by reflecting the changes in the Official Baseball Rules of the Major League. Suzuki paid careful attention to the Japanese translation so that it may accurately convey the meaning and implication of the U.S. Rules and often referred to the Major League for clarification. Suzuki read the Stars and Stripes of the U.S. occupation forces to learn what was going on at the Major League during the time when there had been limited supplies of news from overseas.

◇Baseball Federation of Japan 公式サイト:http://baseballjapan.org/eng/

  

円谷幸吉選手に銅メダルをかけた高石真五郎IOC委員

 東京五輪まであと3年。毎日新聞社会面の連載「東京2020への伝言」は、第1回にマラソンの円谷幸吉選手を取り上げた。1964東京五輪の陸上競技で日本が獲得した唯一のメダル。国立競技場に初めて日の丸を揚げたのだ。

 「よくぞ円谷! 闘志の“日の丸”」毎日新聞は社会面トップで円谷の健闘を伝えた(10月22日朝刊)。金メダルは五輪2連覇のアベベ(エチオピア)、銀メダルが国立競技場内で円谷を抜いたヒートレー(英国)。メダルを授与したのが、手前の禿頭・高石真五郎元毎日新聞社長(86歳)である。

 高石は、20世紀最初の1901年(明治34年)慶應義塾大学法学部を卒業して大阪毎日新聞社に入社。日露戦争後のロシアへ一番乗り。文豪トルストイと会見など「外電の毎日」を背負って立った花形記者、と社史にある。

 東京五輪の標語「世界は一つ 東京オリンピック」は、毎日新聞が募集して35万通の中から選ばれたが、その最終選考委員会で「世界は一つ」でどうだろうか、と発言したのが高石だった。

 IOC(国際オリンピック委員会)委員となったのが、戦前の1939(昭和14)年。敗戦直後に毎日新聞の社長を3か月務め、その後日本自転車振興会(現JKA)の会長。64年東京五輪、72年札幌冬季五輪招致に寄与したが、1967(昭和42)年に亡くなった。88歳だった。

 慶應義塾野球部の初期のメンバー。ゴルフ好きで、相模原ゴルフ倶楽部や武蔵カントリークラブの初代理事長。「一眼 二足 三胆 四力」。柳生新陰流の極意がゴルフに通じると、真五郎書の額が相模原ゴルフ倶楽部などに掲げられている。

世界は一つ標語の垂れ幕が掛かった
毎日新聞旧社屋

 毎日新聞社内のゴルフコンペで一番の伝統と格式を誇る「高石杯」は、今も続いている。

 「東京五輪の報道戦は大勝利」と、仁藤正俊東京本社運動部長に社長賞が贈られたが、高石をはじめ取材班をバックアップしたOB人脈もスゴかった。日本選手団長・大島鎌吉(1932年ロス五輪三段跳び銅メダル)▽陸上競技監督・南部忠平(同金メダル、元大阪本社運動部長)▽マラソンコーチ・村社講平(1936年ベルリン五輪陸上5千、1万メートル入賞。びわ湖毎日マラソン、全国高校駅伝を創設)▽水泳監督・葉室鉄夫(1936ベルリン五輪水泳200メートル平泳ぎ金メダル、甲子園ボウルを創設)▽組織委競技部長・藤岡端(前東京本社運動部長)▽組織委接伴部委員・藤田信勝(論説委員、「余録」筆者)▽日本陸連国際部長・北沢清(戦前ツールドフランスに倣って大毎・東日主催で自転車競技大会をいくつも企画・実行した。戦時中の文部省体育課長。元運動部記者)▽日本陸連管理部長・小沢豊(広告OB)▽国立競技場長・久富達夫(元政治部長)。

 2020年東京五輪の紙面はどうなるのか、楽しみでもある。 [敬称略]

(堤 哲)

  

戦艦武蔵の生き残り、塚田義明さんの思い

 12月4日放映のNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期」に、社会部の先輩、皇室ジャーナリスト塚田義明さん(89歳)が出演した。

 「戦艦武蔵」の生き残りの塚田さんは、1942年(昭和17年)中学2年のとき、第1期海軍練習兵(特別年少兵)を志願。砲術学校を卒業して、「武蔵」の乗組員となった。16歳だった。

 全長263メートル、最大幅38・9メートル。排水量6万4千トン。

 主砲の46センチ砲は、砲身の長さ20メートル、射程距離四方2キロ。主砲弾は長さ2メートル、重さ2トン。

 とてつもない装備をした不沈艦だった。

 しかし、1944(昭和19)年10月24日のレイテ沖海戦で米軍機の爆撃・魚雷を受け、沈没する。「乗組員2399人のうち生還者は430人。沈没時に救助された乗組員(1千人以上)の多くが陸上戦に動員され玉砕した」

 番組で塚田さんはこうコメントしている。「乗組員がいかに戦い死んでいったのか、知ってもらいたい」「悲惨な結末、戦争のむなしさを知って欲しい」

 塚田さんが書いた『戦艦武蔵の最後:海軍特別年少兵の見た太平洋海戦』(1994年光人社刊)は文庫本にもなっているが、この中で唯一の救いは、塚田さんが「艦内の有名人になった」という項目。昼食後、当番以外の乗組員全員が甲板に出て「海軍体操」を行う。約30分。その号令をかける人は決まっていない。乗艦して20日ほど経ったとき、号令台に人がいなかった。「私は号令台になる機銃指揮所の塔頂に、一気に駆け上がった」。

 その後、兵学校出身の少尉と2人で交代でやるようになったが、「あの少年兵やるじゃないか」とすっかり有名人になったという。

 私の知っている塚田さんは、シャイで、大勢の前で号令をかけるのは得意と思わなかったが、水兵さんは元気いっぱいだったのである。

(堤 哲)

                          

[ワシントン発ロバートソン黎子]頑張れ新聞!

 米ワシントン在住の元毎日新聞記者ロバートソン黎子さんは、ナショナルプレスクラブに属し、日本のメデイアに情報発信している。84歳の現役ジャーナリストである。

 11月25日付熊本日日新聞のコラムは、新大統領に決まったトランプ氏を取り上げているが、見出しは「アメリカ民主主義最後の砦」。頑張れ、新聞である。

 大統領選でニューヨークタイムズなど主要紙は、クリントン支持を表明した。「真実を報道しない」とマスコミ批判を繰り返したトランプ氏だが、ニューヨークタイムズには自ら出掛けて記者たちと会見した。

 同紙は、その模様を記事、社説できっちと取り上げた。

熊本日日新聞のコラム
「ウーマンズ・アイ」第151回

 〈アメリカの民主主義を守る大きな柱は新聞である、という認識が、昔からアメリカ社会にはある〉 

                  

 〈「新聞は社会の木鐸」という自負が、日本の新聞にも昔からある〉

 〈読者のよりどころとなる新聞に、エールを送りたい〉

 ロバートソン黎子さんは、1957(昭和32)年早大政経卒。駆け出しの仙台支局でフルブライト留学生募集を知って応募、ヴァージニア大学に1年間留学。59年10月帰国後は外信部。日曜夕刊一面のインタビュー記事をまとめて『もしもしハロー-私は第一線婦人記者』を出版している61年退職、結婚してアメリカに渡った。 

           

 メールには「日米は、これからどうなってゆくのかな、混沌としていますね。

 トランプ本人にもわっかちゃいない、というのが本音かもしれませんが」とあった。

(堤 哲)

                          

「君は毎日オリオンズを覚えているかい?」

野球雑誌「野球雲7号」表紙
絵は火の玉投手 荒巻 淳

 耄碌すると少年時代の出来事だけは「やたらと思い出す」。不思議だねえ。おとついも朝食時に電子レンジを開けたら昨夜チンしたカレーが入ったまんまになっていて「なんじゃこりゃ!」なのだが、小学4年生で観戦した「巨人・パシフィック戦」(昭和21年6月30日・後楽園)は詳細に覚えているんである。昭和25年の「毎日オリオンズ」なんぞは、親父が「株主優待券」を毎試合くれたんで、学校サボって観に行った。

 で、噺はぶっ飛ぶが「野球雲」という名の野球雑誌7号が「戦後の流星 毎日オリオンズ」特集号を刊行(2016年9月)した。1950(昭和25)年〜1957(昭和32)年のパ・リーグを背負った球団の8年間の全貌を描いている。毎日新聞関係者なら「なんという、ああもう、なんちゅう本じゃっ」と絶叫するね。中身が濃いーの濃いの。「オリオンズ盛衰史」「パ・リーグ黎明の星 奇跡と軌跡」「オリオンズ・スター列伝 別当薫から榎本喜八まで」「断然強いと前評判の松竹ロビンスを負かした日本シリーズ全6試合のボックス・スコア」「オリオンズのファーム史」「8年間の全記録」「野球と共に歩んだ毎日新聞」……たまりません! 

 何故に、こよなくも、この特集号が愛おしいかというと、我が毎友会会員2人も耄碌アタマを絞りに絞ったら記者病がブリ返し、この特集に僅かながら協力したのである。自慢すりゃあキリないが僕は1950(昭和25)年3月18日、19日、後楽園球場での毎日2-1近鉄、毎日6-5大映、東都初見参(オリオンズ創設5、6戦目)を内野席最前列ネットに指を突っ込んで観たもんね。

 しっかしさ、新聞社運動部長からいきなりプロ野球の監督になったのは湯浅禎夫だけである。第1回日本シリーズ第1戦(神宮球場。モチ観たよ)で若林を先発投手とした思考は理論派湯浅の策謀。ランエンド・ヒットや中継ぎ抑えの継投策などを考案したのも湯浅野球哲学である。野球殿堂入りしてもいい「このうえなき大物」なのだが、惜しむらくは平和台事件……。

 オリオンズOB会で土井垣さんと喋った時「俺達ゃあ、引き抜かれたんとちゃうで! 若林も別当もな、それぞれが自分の意志でオリオンズに来たんや。本堂なんかはサイン盗みの名人だから、俺が連れてきたんよ」と、しつこく叱責された。むべなるかな。

(諸岡 達一)

ソ連崩壊直後、ロシア・シベリア旅行の思い出

広場に箱を並べただけの店。そんな“何でも屋”で買い物をする主婦。

 1993年、12月19日付けの中学生新聞に掲載した写真で、中央シベリアの奥地、人口6万人ばかりの町レソシビルスクの青空マーケットで撮影したものである。

 外国人を、ましてやアメリカ人など見たことも無い辺境の町の主婦が、米ドルで買い物をしているのに出会った。恥ずかし気に見せてくれた財布には、他に1ドル紙幣が3枚入っていた。

 こんな辺境の町の主婦が、どうして米ドルを持ち、買い物までしているのだろう。

 1991年、ソ連邦が崩壊し、年間7000パーセントものハイパー・インフレに見舞われたロシアだったが、エリツィン大統領が、旧1000ルーブルを新1ル―ブルへと、千分の一もの大デノミを敢行して乗り切った。日々暴落するルーブルに対して、かつての仮想敵国の通貨米ドルのみが輝きを増していた時でもあった。

米ドルのお客様歓迎の張り紙を出したブティック。

 埃を巻き上げて広場に入ってきたトラックが荷台を開くと、待ち構えていた人たちが取り囲む。ブドウが2キロで400ルーブル、卵が1ダース270ルーブルだった。

 世界同一価格を標榜するマクドナルドのハンバーグ・セットが、当時の東京で100円、モスクワで1300ルーブルだったから、ここレソシビルスクでも、米1ドルは1300ルーブルで換算されていると考えてよいだろう。

ブティックの張り紙を拡大すると、「ドル札($)買います」の表示。米ドルがそれほど欲しがっていたのだった!

 当時シベリアの人々の平均月収は2万ルーブルと言われていた。ドルに換算したら20ドルにも満たない。厳しい暮らしを強いられている人々の懸命に生き抜く姿を垣間見た思いでもあった。

 今にして思うのだが、どん底にあえぐロシア経済を象徴する風景を、なぜ本紙の夕刊の持って行かなかったのだろう。浪人者のOBには、本誌持ち込みは、いささか敷居が高かったのだ。

(東 康生)

思い出のモントリオール五輪取材 東康生

 女子重量挙げ48キロ級で銅メタルに輝いた三宅宏美選手だが、競技終了後、一旦戻りかけた足を競技台に戻し、いとおし気にバーベルを抱きしめ、頬摺りした姿をTVで見て心打たれた。16年間、一緒に練習を続けてきたバーベルに「ありがとう」と感謝の言葉を語りかけたのだという。ガッツな父に育てられ、自身もハードな競技を戦ってきた彼女の予想もしなかった心根の優しさに思わず“大和撫子”と呟いていた。

 翌日の新聞は、単純に喜びの写真だけで、私が期待していた頬摺りの写真は載っていない。軽い失望と同時に、1976年のモントリオール・オリンピック取材での痛恨事が生々しく蘇ってきた。重量挙げスーパーヘビー級のソ連のワシリ・アレクセーエフ選手が世界新記録で優勝した喜びの写真を撮り落とした悔しい思い出だ。

 重量挙げの撮影は、単純、退屈な作業である。そして、この時も、称賛の大歓声を聴きながら、いつもの通りに写真説明をつけようとカメラから指を離したその瞬間だった。

 アレクセーエフ選手が、挙げていたバーベルを競技台に落とすと、その反動に乗って高々と歓喜のジャンプする姿が、視野の片隅に見えた。すかさずシャッターは切った。とは言うものの、その瞬間にカメラから指を離していた失態は覆うべくもない。世界から集まったカメラマンが、三脚にカメラを据え、露出から構図まで決めているその前で起きた感動の一瞬を逃した大きさに私は絶句した。

 当時、撮影したカラーフィルムは、翌朝の航空便で東京に送って現像する。13時間の時差に対応するためだ。そのため、撮影した一コマ、一コマには、東京の編集者に判るようにきちんとした説明をつけておかねばならなかった。とは言え、世界から集まった5〜60人ものカメラマンの前で起きた感動的シーンを撮りそこなったのは事実である。

 翌朝、各社の朝刊を開くのが怖ろしかった。ところが、何とした事か、この写真がどこにも載っていない。誰も写せなかった・・・?痛恨の思いが一瞬和らいだが、最後に地元紙モントリオール・スターを開いて愕然とした。あの瞬間が、しかも感動的ショットで載っているではないか。すぐスターの写真部に電話を入れた。写真部デスクは、前年に開かれた万国博覧会の取材で知り合ったマックニールだ。オリンピック取材の各国カメラマン懇親パーティーで、日本・カナダ親善の証しと、二人並んで壇上に立ち挨拶を交わした仲である。

 私のぶしつけな質問に「あの写真な〜。実は、系列の地方紙の記者から頼まれ、義理もあってな、遊びに行かせてたんだ。仕事に真っ当なカメラマンには撮れる瞬間じゃないヨ。並みいる本職は誰も撮れなかったんだから、気にしなさんな。でも、スゲ〜、胸震える感激の一枚だね」。

 写真(上)が翌年の世界報道写真コンテストのスポーツ部門で金賞に輝いた。(下)は私が撮った月並みな写真(毎日グラフ)

「昭和群像」の花森安治氏

(41年前の夕刊連載コラム)写真は花森安治氏

 ちょっと長いが、連載記事の書き出しを紹介する。

 ―暮らしの手帖社社長の大橋鎮子さんを十数年ぶりにたずねたら、開口一番「あれからちっとも変わってないんですよ。私がただ年をとっただけ」というあいさつ。十余年前、大橋さんをたずねたのは、雑誌「暮らしの手帖」の創刊を中心に、彼女の奮闘ぶりを取材するためだった。だから大橋さんの「あれからちっとも」の中には、同誌創刊の(昭和)二十三年九月以来、の意味もこめられていた。

 二十三年以来、現在まで、日本人の暮らしはずいぶん変わった。それなのに、暮らしを主題とする「暮らしの手帖」はなぜ変わらないのか。いや、何が変わらないのか。

 答えを先に書いておこう。同誌創刊以来の編集長・花森安治氏の信条が、である―

 今から41年前、戦後30年企画として、1975(昭和50)年の正月から毎日新聞夕刊3面で連載された「昭和群像」。反戦平和を訴え、日中文化交流を進めた中島健蔵氏に続く2人目が、花森安治氏(1911~78)だった。NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」で唐沢寿明演ずる花山伊佐治である。1936(昭和11)年東大文学部美学科卒。大学時代、軍事教練を拒否して陸軍二等兵から上等兵まで辛酸の限りを経験する、とある。その信条は、縮刷版にあたって連載を読んでもらうとして、最終5回にこうある。

「いまの時代がね、心配で心配で、なにかまた(いやな時代が)きたなみたいな感じがね」

「君が願うところの……ささやかなマイホーム的幸せを手に入れるためには、たぶんその何倍かの〈いささかの勇気〉がなければだめなのだ」

 筆者は社会部編集委員の浅野弘次氏(86年没、61歳)。若い部員から人気のあった知性派記者だった。(堤 哲)

セイシェルの野鳥 背黒アジサシ 元出版写真部 東康生

 新聞社の常識とは言え、突然に、しかも、思いもかけない仕事が飛び込んで、てんてこ舞いさせられたものだ。

 1967年のこと。「毎日グラフ」永戸編集長から「ムツゴロウさんのお供でアフリカに行く、帰りにセイシェルで途中下車?して、野鳥を撮ってきてください。あそこは世界的に貴重な野鳥天国で、まだ日本人カメラマンが入っていない島々なのです」

 当時、BOACがセイシェル経由のナイロビ便を週に一便で飛ばし始めたばかりだった。だから、ここで飛行機を降りると、次の便は一週間後になる。これが取材時間と言うわけだ。

 とは言え、会社を卒業後WHOの事務局長を勤めた野生動物通の永戸さんと違い、私の方はニュース一筋、鳥の写真なんて考えたことも無い。「小さな島ですからね〜。鳥は沢山飛んでいるはずですよ」。まるで公園の雀を写しにでも行くように簡単に言う。

 何はともあれ、銀座のイエナで“Bird of Seychelles”なる鳥の図鑑を買い、訳も分からぬままに飛び立った。

 アフリカ取材の撮影フィルムをムツゴロウさんに託して、右も左もわからない島に残されると、撮影への不安が肩に重くのしかかる。一人、インド洋の青空を仰いでいた。宿の親父に図鑑を見せて鳥を写しに来たのだがと尋ねると「そこらに幾らでも飛んでるじゃない?」と言う。島に唯一の観光案内所でも「ここは世界的に著名な鳥の楽園です。沢山飛びまわっているじゃないですか」。何を心配しているのかと言わんばかりで、一向に要領を得ない。

 ともかく私に与えられた時間は一週間だ。レンタカーで島内をかけ廻るがスズメやカモメ、茂みにいるのはキジバトばかりで、図鑑にある珍鳥たちの姿を全く見当たらない。

 一枚もシャッターを切れないままに日が流れてゆく。眠れないままに迎えた一週間目の朝、覚悟を決めた。東京には「けん責」を覚悟でフライトを更に一週間延ばすと電報を打った。夜は、やけっぱち、飲みつぶれても良いと、それまで足を向けなかった島にただ一軒のナイトクラブ“プシー・キャッツ”に繰り込んだ。

 1600ミリと600ミリのドデカイ超望遠レンズをつけたニコンとスナップ用のニコン。それにハッセルブラットと全撮影機材を胸からぶら下げて店に入ると、先ずは女の子たちが驚きの声を上げた。それを聞きつけて男たちがワヤワヤと集まってきた。

 そして一斉に「あの鳥は写したか?」「あそこの岡の茂みを覗いたかね?」。「あの鳥を撮るのなら、あの男のテントを訪ねるべきだ・・・・」。

 もう酒を飲んでる余裕はない。懸命にメモするのが精一杯だった。

 翌朝からノートを頼りに車を走らせた。言われたところに行くと、探し求めていた鳥類図鑑の鳥たちが、目の前を飛んでいる。鳥の観察者たちも私を温かく迎えてくれる。情報はさらに深まった。

 こうなるとポイントを巡って、手当たり次第にシャッターを切りまくるだけだ。世界に16つがいしか確認されていない長い尾が美しい“セイシェル・サンコーチョウ“を、しかも抱卵しているメスに他所のオスがチョッカイをかけているところに、舞戻った亭主?が、メスを守る滅多に見られない情景が撮れた。100羽しか生息していないのではないかと言われる“セイシェル・チョウゲンボー”、特産種“セーシェル・タイヨーチョウ”など貴重な鳥たちが毎日撮れる。

 50羽しかいないとされる“ブラック・パロット”は、餌場への鳥の到来が遅く、ぎりぎり待たされ、帰国便出発10分前に滑り込むというハラハラの撮影にもなった。

 お陰様で「毎日グラフ」は、表紙から57ページを組むこれまでにない大特集になり、お陰でけん責を免れた。

 なお、何度かお茶を一緒したセイシェル共和国大統領(人口4万人の国)からは、返事が無かったが、南アフリカ共和国観光大臣からは、感謝状が届けられた。

 ギタリストで日本のフュージョン界を代表する高中正義さんは、“セイシェル”と言うLPレコードを作ってくれた。

写真は、年に一度、65万つがいの“背黒アジサシ”が集まり産卵し、雛を育てるバード・アイランドで撮影したもの。写真Aは、コロニーへの乱入者を威嚇して、私の後頭部を狙ってくる“背黒アジサシ”を振り向きざまに写した一枚。この写真は、コンテストで優勝し、レコードジャケットにも使ったのだ。毎日グラフの目玉写真は、これにするべきだったかな〜。いまも気になっている一枚である。写真Bが毎日グラフ特集の目玉として見開きに大きく使った写真で爽やかさを狙ったものだ。

旧毎日新聞社京都支局 (京都市登録文化財保存1928ビル)を訪ねて

 2泊3日で京都に遊び、1928ビルを訪ねた。ビル上部「大毎」のマークが誇らしげだった。

 東海道の起点三条大橋につながる、かつてのメーンストリート三条通りにある。1928(昭和3)年建設だから、米寿を迎えたことになる。設計は武田五一氏。「社章を象った星型の窓やバルコニーに見られる独創的なデザインだけでなく、ランプカバーや床のタイル、壁に施されたアール・デコの意匠は、今なお斬新」とパンフレットにあった。

 1階に現代美術のギャラリー(入場無料)。B1と2階はカフェ。「壁があの頃のまま残っています。まさに『兵どもが 夢の跡』です」と磯貝喜兵衛元京都支局長。

 講堂のあった3階は劇場になっていて、写真にあるように「ギア」が2012年4月からロングラン公演中。残念ながらこの日は休演だった。

 ビルの前の歩道に道路案内が埋め込まれていた。京都の人はこれで1928ビルに行ける。

 祇園祭直前で、京都駅にも祇園囃子が流れていた。(堤 哲)

安倍晋太郎さんと、先輩の激励

 先日(2016,6,30)の合同懇親会で朝比奈さんが社長8年間の足跡を振り返ったお話は立派でした。感銘深く拝聴した。

 そのあと安倍晋三現首相のお父上、安倍晋太郎先輩のことを思い出した。ご承知のように晋太郎さんは毎日政治部出身、首相候補と目されながら志半ばで病に倒れられた。毎日が新社に移行した当日(1977,12,1)だったと記憶する。9F大会議室で社員大会が開かれ、平岡敏男社長が今後の方針を説明した。会場は満員、遅れて来た人達は社長の話の間、開け放した入口の外から聴いていた。

 私は司会役で入口付近に立っていたが、外から覗き込む人々の間から安倍晋太郎さんのお顔を発見、驚いた。安倍さんは前月、福田改造内閣で官房長官になったばかり。そんな忙しい中を駆け付けてくれたのだ。社長の話が終わり、私はマイクで次の議事を会場に告げたあと、急いで入口に引き返したが、もう安倍さんの姿はなかった。先輩たちは古巣のことを本当に心配しているのだなあ、と今でも忘れられない想い出である。もう1人、坊秀男先輩は当時、大蔵大臣だったと思う。立場上、あからさまに動けなかっただろうが、ピンチの古巣を心配して陰に陽に手を差し伸べてくれたと当時、人づてに聞いていた。有り難いことである。こうした諸先輩の古巣を思う心と有形無形の励ましによって、以後わが社は再建の歩みを始められたのだと思っている。

 毎日出身の有名人は今も各界で活躍中であり、ご同慶に堪えない。それぞれお忙しいことと思うが、できれば合同懇親会か秋の毎友会総会か、その1回だけにでも顔を出して現役経営陣を激励してくれたら、現役諸君もどんなにか心強く力づけられることだろう。合同懇親会の帰りの電車で、ふとこんなとり止めない思いに取りつかれたのでした。(名誉職員・本田克夫)

阿部菜穂子さん(元毎日記者)が日本エッセイストクラブ賞受賞

 元毎日新聞記者の阿部菜穂子さん著「チェリー・イングラム」(岩波書店)が第64回日本エッセイストクラブ賞に選ばれた。(授賞式は6月29日日本記者クラブ)

 菜穂子さんは、阿部汎克元論説副委員長(84歳)の娘さんで、2001年夏からイギリス人の夫、2人の息子とともにロンドンに住み、フリーのジャーナリストとして活躍している。

 日本で桜というとソメイヨシノ。パッと咲いてパッと散るという印象が強い。イギリスでは多品種の桜が植樹され、次から次へ満開を迎える。桜花を楽しめる期間がずっと長いのだ。

 取材をしていくうちに、イングラムさん(1880〜1981)が明治・大正時代に3度来日して、多種多様な桜を持ち帰って、大事に育てていたことを知る。「桜辞典」も発表している。

 桜の本家・日本では江戸時代には250種もの栽培品種が生まれたが、明治維新で荒廃。もっぱらソメイヨシノが植樹された。戦時中は「みごと散りましょう 国のため」と、桜のように散るのが最高の美徳になってしまったという。本の副題は「日本の桜を救ったイギリス人」。伝統の桜はイギリスで多くが生き残り、「里帰り」も実現している。

 菜穂子さんのブログをみると、満開の桜の写真がいくつも載っている。「太白」や遅咲きの八重「寒山」などが青空に映える。(堤 哲)

 菜穂子さんのHPは www.naokoabe.com

 *桜の写真は阿部菜穂子ブログより。

ファッションモデルにもなった伝説的記者 市倉浩二郎
堤 哲

ファッションモデルにもなった伝説的記者
鳥居ユキさんのファッションショーにモデルとして出演したときの市倉浩二郎

 中野翠さんが「サンデー毎日」に連載している長寿コラムに、元社会部のナンパ記者・市倉浩二郎(1965年入社)が登場した。連載は1985(昭和60)年7月に始まり、31年目に入っているが、中野さんに執筆を依頼したのが市倉だったのだ。

 〈Iさんは軽快でオシャレな横浜っ子だったが、お互いの父親同士が同じ新聞社の横浜支局で働いていたことが判明した。

 父にIさんの話をしたら「エーッ、I君の息子さんが!」とうれしそうにしていた。ちょっと親孝行をした気分。

 それから間もなくIさんは急逝。まだ四十代だったはずだ〉=ヨ「サンデー毎日」4月17日号「満月雑記帳」1095回。

 誰からも「いっちゃん」と親しまれた。読売新聞の記者だった父親も、やはり「いっちゃん」と呼ばれていた。

 84年ロス五輪の特派員として開閉会式の1面を書いた。その後ファッション記者に転身。ワインにも詳しいグルメ記者でもあった。

 94年春のパリコレから帰った直後、鳥居ユキのショーの取材を終え、「悪寒がする」と帰宅して意識不明に陥った。4月25日没、享年53。ことしが23回忌である。

球史に残る「社内野球」優勝戦 堤 哲

環境シリーズ最終第11巻表紙
大東京竹橋球団S・ライターズ発行『野球博覧』の表紙

 追悼録にある松尾俊治さんが出場した社内野球の決勝戦。60年安保の翌春である。投手は末吉俊信(34歳)とスポニチ有本義明(29歳)の早慶対決。初回4番末吉が先制打、5回に8番相沢の適時打で加点した。末吉は被安打5、奪三振6で完封。2-0で運動部が優勝した。

 運動部のラインナップをご覧いただきたい。

    ⑤鈴木美嶺(東大野球部。「黒獅子の目」)
    ⑧北野孟郎(慶大ラグビーの快速ウイング)
    ④岩崎 恒(明石中ー国学院大で投手)
    ①末吉俊信(早大―毎日オリオンズ投手)
    ⑥松尾俊治(慶大の捕手)
    ③石川泰司(早大英文科卒の名文記者)
    ⑦柿沼則夫(都市対抗野球予選に出場)
    ②相沢裕文(立大山岳部、高校は野球部)
    ⑨岡野栄太郎(陸上400H五輪選手。中大)

 東京本社の社内野球は、終戦翌年の1946(昭和21)年、後楽園球場を借りて始まった。2007年秋の第114回を最後に開かれていない。

 その間、運動部では野球殿堂入りの小野三千麿、小川正太郎、早大野球部の初代マネージャー弓館小鰐、テニスの福田雅之助、戦前サンモリッツ冬季五輪に出場した竹節作太らが出場した。

 『野球博覧』に社内野球史が載っている。塁間90フィートはどう決まったのか、「野球創生」の詳細がある。川上哲治、大下弘、藤村富美男、長嶋茂雄ら人物野球伝がある。「大毎野球団」の誕生から消滅。「三角ベースで育ったわれら」の素朴実在論もある。

 2014年大東京竹橋野球団S・ライターズが創設30周年記念で発行した『野球博覧』。多少残部があります。送料とも@1,180円でお分けします。

 申し込み先:tsukiisland@gmail.com
 振込用紙を同封して郵送します。

二つの環境シリーズを書き終えて 川名 英之

環境シリーズ最終第11巻表紙
環境シリーズ最終第11巻表紙

 『世界の環境問題』シリーズ全11巻を昨年11月、11年がかりで完結した。その前に出した『ドキュメント 日本の公害』は全13巻。このほかのテーマを合わせると、32年間に書いた環境の本は35冊で、全部積み重ねて見たら110センチを超えた。世界の環境問題は外国に取材に行かなければならないので、費用がかさむ。執筆は難行苦行の連続だった。こんな仕事に取り組もうと心に決めたのは、毎日新聞社会部の環境庁担当記者時代に地球環境問題が人類の未来を閉ざしかねない重要な問題だという危機意識に目覚めたためであった。

 仕事は難行苦行だったが、喜びもあった。例えば大学で環境問題の環境関係の卒論指導に携わった時、多くの学生が私の著書を参考図書として使ってくれていることを知り、充足感を味わった。また『ドキュメント 日本の公害』は公害・環境問題の最初かつ唯一の通史としての評価が定着したように思われる。残念に思うのは、日本では地球温暖化が環境と人々の日常生活にもたらす影響についての認識が欧州主要国はもちろん、世界平均と比べても著しく低いことである。このため政府の意識も低く、2030年の温室効果ガス削減目標はドイツや英国の半分以下である。

 著名な専門家の多くが地球温暖化の進行で現代文明が崩壊の危機に瀕していると警告している。わが国の温暖化対策の貧困は改められなければならないとの思いを強くしている。

植木信吉さんのこと 小林弘忠

植木信吉さん氏
若いころの植木信吉さん=「天に問う手紙」の表紙より

 2016年1月、天皇、皇后両陛下のフィリピン訪問で、天皇がキリノ大統領(当時)の孫娘と会い「63年前のことは忘れません」と語ったとの報道に接し、思い浮かんだのは植木信吉さんのことだった。1953年、BC級戦犯が恩赦によって死刑囚含め108人全員がマニラのモンテンルパ刑務所から釈放され帰国できた陰に、1947年以降復員局(現厚労省)の法務調査官、植木さんの献身的救済活動があったのを知っていたからだ。

 マニラ裁判では、すでに17人が処刑されていた。戦時中の日本軍の「暴虐」に対する復讐裁判との声 も聞かれる中、植木さんは公務員の分限をはみ出し、服役囚支援にひたすら没頭した。1950年、ワラ半紙にガリ切りした冊子「問天」を創刊して刑務所に送り、以後一人で定期発行しで受刑者の詩歌、手紙も掲載した。死刑囚の作詞作曲による歌謡曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」はこの過程で生まれた。政治家、著名人に恩赦を働きかけ、日本から慰問団を派遣するまでにこぎつけ、これら一連の行動が大統領の心を動かしたのである。

 私は植木さんの許可を得て、創刊号以来年月別にバインダーに分散格納されている膨大な冊子をバッグに詰めるだけ詰めて借り、返却するとまたつぎの冊子を借りる方法で、神奈川県座間市のお宅と東京の自宅を毎月5、6回往復、「問天」の全部に目を通し、2008年7月『天に問う手紙』(毎日新聞社刊)としてまとめた。冊子は戦犯たちが帰国した後も発行され、親睦・支援団体「モンテンルパの会」もつくられた。植木さんは2015年3月、93歳で他界したが会は存続、子、孫へと感謝の心が受け継がれている。

幕末の政治家板倉勝静 小林弘忠

岡山県・松山藩主 板倉勝静
岡山県・松山藩主 板倉勝静

 江戸幕府最後の筆頭老中、岡山県・松山藩主、板倉勝静(かつきよ)の名は、あまり知られていないのではないか。鳥羽・伏見以降の宇都宮、奥羽、函館戦まで、官軍対幕軍のいわゆる戊辰戦争全般にかかわってきた幕府軍の旧譜代大名である。(写真は老中、後に奧州越列藩同盟参謀・板倉勝静)

 第十五代将軍徳川慶喜はすでに政権を放擲、幕府の権威は壊滅しているのに、なぜ白旗を上げずに頑なに新政府と戦っていたのか。それは、きわめて不透明な時代の政治家として、二つの節(せつ)を統合しようとしたからだと思う。天皇への忠、徳川家への義。「忠義」の狭間に悩み、義に殉じようとしたのである。

 彼の側用人だった辻七郎左衛門が明治二年に記した『艱難実録』(岡山県高梁市郷土資料刊行会、復刻書)には、自訴を勧める家臣団とあくまで戦闘続行を主張する勝静との動きが克明に描かれ、戊辰戦争の裏面がうかがい知れる。復刻書の中で辻は、「わが君のことを世間にては高名に伝すれども、実はさほどのことは之なし。正直固情に深きご性質にて(略)質朴簡便を好みて詐欺修飾をにくむこと甚し」と、その頑迷さにいささかあきれたように、主君を評している。

 勝静は、流浪の果てに新政府軍にとらえられ、赦免後の明治十年、上野東照宮の神職に任じられたまま、二十二年六十六歳で波瀾の人生を閉じた。勝静についての文献は多くないが、果然とした一幕末政治家の姿を、国民への義を忘れ、党利党略、個利個略に走りがちな現代政治家と比較して見直すのも意義あるかもしれない。

旧日本陸軍の秘密戦基地「登戸研究所」 小林弘忠

今も残る陸軍のマークのある消火栓=明大生田キャンパス内で
今も残る陸軍のマークのある消火栓=明大生田キャンパス内で

 旧日本陸軍の秘密戦基地「登戸研究所」の施設は、現在は明治大学生田校舎(川崎市多摩区)となっているが、キャンパス内に面影を色濃くとどめている。 実験に供された動物慰霊碑、火災時に用いた錆びついた消火栓(写真①)、研究中の犠牲者を祀った神社、朽ち果てそうな薬品庫、そして秘密戦の全容を示す各種資料を集めて二〇一〇年に開館された資料館。このキャンパスには、これまで三度足を運んだものだ。

 秘密戦とは、防諜(スパイ防止)、諜報(スパイ活動)、謀略(破壊、暗殺)、宣伝(敵国の攪乱)の四活動をいい、戦争の裏面を形成するものである。この研究所は実際に秘密戦に用いる突飛な兵器を研究、製造していた。戦時中、川崎市登戸地区にあったので通称登戸研究所といわれ、その存在そのものが極秘とされていた。

 爆弾、焼夷弾を搭載してアメリカに着弾させた風船爆弾(写真②)は、謎の物体としてアメリカ軍の心胆を寒からしめた。遅速性で、のちに死に至る新毒物・青酸ニトリルは、戦後の帝銀事件で用いられたとして話題となった。

10分の1に縮小した風船爆弾の模型=登戸研究所資料館で
10分の1に縮小した風船爆弾の模型=登戸研究所資料館で

 このほか敵国の小麦を死滅させる小麦細菌の創製、蛇の毒を合成する生物兵器の開発、ライター、マッチ、ステッキ型秘密カメラ、缶詰、レンガ、トランク型爆弾の製作、さらに中国国内を混乱させる目的の法幣(中国の統一通貨)の偽造――が、外界から隔絶された研究施設内で密かにおこなわれていたのである。

                                            

 科学研究は人類発展のためにあるが、ひとたび戦争となれば、科学は最大限悪用され、人間の理性、人道面を喪失させることを登戸研究所の戦跡、資料館を訪れるたびに想った。狂気というより道化、無謀というより愚鈍さを。戦争で悪魔の化身とされる生物兵器が現実に使用されなかったのは、せめてもの救いであったろう。

 校内には「すぎし日はこの丘に立ちめぐり逢う」の句碑(一九八八年建立)もある。かつて厳重な緘口令により、機密は墓場まで持って行こうと決意し、戦後数十年を経て、やっと口を開くことができた喜び、研究所の日々のせつなかった気持ちを表している。

 遺跡、資料館の資料を見るたびに戦争の暗部を見せつけられる気がして、帰りの小田急線電車内の学生の明るいにぎわいが、あらためて尊いものに感じたものだった。明大生田キャンパスへは、同線生田駅南口から徒歩約十五分。