追悼録

バラ色の喧嘩論客「池ちゃん」……新聞使命追求の人生

2015年春、整理本部OBの集いで久々に談笑する「池ちゃん」

 追慕の念と畏敬の心から「池ちゃん」と呼称させていただいた池田龍夫さんが逝った(享年87)。昭和30年代「池ちゃん」に誘われての有楽町駅前「すし屋横丁」呑み屋巡りが日課だった。「モロよ、お前、ハロルド・ラスキを知っとるか?」「ニッコロ・マキァヴェリの社会思想はなあ……」。 威勢よくヨーロッパの政治哲学史や民主主義論を吹っかけてきた。若い時から論客中の論客「池ちゃん」は成蹊大学・石上良平(いしがみ・りょうへい)教授ゼミの一番弟子。『ヨーロッパ自由主義の発達』『英国社会思想史研究』など石上教授の著書に読み耽り、その思想を快弁しては笑みを浮かべる。それが紙面づくりにも度々反映し、上司や出稿部デスクと喧嘩(論争)になった。最終版が刷り上がると「池ちゃん」は喧嘩相手と連れだって「すし横」へ流れた。それは、まさに新聞編集の自由を謳歌する有楽町『編輯局の風景』だった。

 「すし横」は第二編輯局と言われるほど記者連で賑わった。毎日新聞は寿司の「花柳」、飲み屋の「三友」「赤星」「アキラ」……。加茂鶴を飲ませる「ひろしまや」は朝日新聞系。「池ちゃん」は「ひろしまや」も好きで「喧嘩(議論)を売りに」酔歩した。
 平成になってからしばらくしてのOB会で「モロよ、赤星ってエ飲み屋は、フライパンの2階だったよな?」「違う違う、レインボーの2階でしょう?」(赤星は「アカ」だもんなあ=失礼な心の中)。懐かしい話題で盛り上がった時のことである。竹橋移転後まもなく「すし横」も壊されてなくなった。「ひろしまやは花柳の向かいでさ、便所の左隣に『だるま鮨』ってエのがあったよナ」。うーむ、そうか、どうせなら、ってエ訳で「有楽町すし屋横丁思い出地図」を作ることになった。「池ちゃん」は次々と店の位置を思い出した。苦難の末に出来上がったのが別掲の地図である。この詳細地図は今、有楽町駅前・東京交通会館B1で営業している「ひろしまや」の壁に貼ってある。「ひろしまや」は当時の女将さんが亡くなり笑顔が楽しい長女が継いで加茂鶴を呑ませる。
 「池ちゃん」は2004年春、大学同窓会で乾杯音頭の演説中倒れた。救急車で病院へ急行、心臓冠動脈3本が詰まる瀕死の重体だった。集中治療室に5日間留まり冠動脈バイパス手術。「あれは、もう大悪夢だったよ」と言っていた。2012年夏、今度は腎臓動脈瘤破裂で大出血する重症に見舞われ、コイル塞栓手術で出血を止めるという大手術。その時のことを「苦痛と恐怖の連続だったよ」と言いながらも、しばらくして整理本部OB会に顔を出した。人工透析を続けているのは黙っていた。

 「池ちゃん」はジャーナリスト……新聞の使命にこだわったメディア研究者“一世の雄”である。病苦を抱えながら四半世紀を超える間、新聞の在り方を模索しつづけ、「メディア展望」「総合ジャーナリズム研究」「毎日新聞・新聞時評」「週刊金曜日」「池田龍夫のマスコミ時評」「ちきゅう座」「日刊ベリタ」「メデイアウオッチ100」など論評誌やウェブサイトへ書き続けていた。安保関連法案が施行され日本が戦争の出来る国へ突き進む現政権を非難しながら透析のベッドに横たわり、立憲主義の回復とは憲法をないがしろにする政治家を政権からたたき落さねばならぬ、と思いながら治療を続けた。
 「池ちゃん」は歴史の逆行を許さず、正しい社会情報が伝えられない世相動向を心配し、日本の針路にしつこくもしつこくも警鐘を鳴らした。
 「血のメーデー事件」直後の昭和27(1952)年10月、「池ちゃん」は毎日新聞東京本社の入社試験を受けた。三次試験(取材して記事を書く)まで進み、「街に出て話題を拾って来い!」という学生にとっては難題。「池ちゃん」は咄嗟の思い付きで日比谷公園へ走り、モク拾いオジサンを見つけてハナシを聞き原稿にした。時の池松文雄論説委員長が「キミの原稿は良かったゾ」と大褒め、毎日新聞入りが決まった。当時モク拾いは細い錐を巻き付けた竹棒で煙草の吸殻を拾い、有楽町駅ガード下の仕切り屋が買い取った。進駐軍の粉ミルク缶一杯に詰めて3円か5円になった。
 「池ちゃん」の初任給は6000円ちょい。すぐ隣の「すし横」を徘徊しては安酒を飲むのも当然の時代。後輩のモロに奢った分、あれは返済していない。
 「池ちゃん」はシャンソンが上手で、銀座のシャンソン・クラブで勝手に舞台に上がって歌い出し、ピアノ伴奏者に褒められたほど。その歌声はイベット・ジローなみにバイブレーションが効いていた。全舷や忘年会でも、ヤジを浴びながら十八番「バラ色の桜んぼの木と白い林檎の木」……『〽あの子と ただ~二人 石けり~をしては~~遊んだ~懐かしい~春の日イ~~』。そのあとエディット・ピアフ並みの「ラ・ヴィ・アン・ローズ(バラ色の人生)」を披露した。バラード性を高めた歌い方は完璧だったゾ池ちゃん! ただし、演説と同じように「長かくて長くてとまらなかった」けどネ。
 昭和5(1930)年生まれ,旧制成蹊高等学校から成蹊大学政治経済学部。昭和28(1953)年に毎日新聞入社、新潟支局、社会部、整理部。昭和52(1977)年整理本部長(編集局次長)、昭和54(1979)年中部本社編集局長。昭和57(1982)年新聞研究室長、昭和60(1985)年定年退職後、特別嘱託として平成4(1992)年まで毎日新聞紙面審査委員会を務め、その後「学園書房」編集長を経て、フリー・ジャーナリスト。一貫して良質な新聞編集製作を探求し続けた。
 2018年3月30日、朝から気分の良い日和だった。車椅子の「池ちゃん」は奥様と近所の公園で花見をした。「きれいだね、ここの桜」。帰りに散髪、さっぱりとした顔。帰宅してまもなく急性肺炎になり入院、4月6日未明に「苦しむことなく」(奥様の話)逝った。バラ色の桜の木を思いながら……。池ちゃんっ。バラ色の人生だったよな。

「池ちゃん」が主として思い出し製作した「有楽町駅前すし屋横丁地図(昭和30年頃)」
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(諸岡達一)

酒を絆に交友59年
― 小元広悦さんを偲ぶ ― (佐藤克二)

 昭和34年(1959)5月、全国紙3紙の北海道印刷が始まった(朝日は6月)。発行業務を別会社で行う計画の毎日新聞社は、前年秋の2次試験不合格者から編集要員の多くを採用することを決め、年明け早々から印刷、営業関係を含む約200人の教育を進めていた。

 札幌の北海道総局でも3月2日、報道部記者の第一陣7人(落選組)の教育がスタートした。「オモちゃん」―小元広悦さん―との出会いである。1メートル75センチの長身、色白できりっした顔立ち、胸ポケットに『毎日新聞』名入りのエンピツ1本。昭和10年1月生まれ24歳の初々しい表情=写真=が今も記憶の底から浮かび上がる。

 別会社と言っても同じ題字の新聞発行であり、待遇などを深く考えた者は少ない。別会社の意味をきちんと理解できる年齢でもなかった。給料は毎日新聞の約80%だったが、後の祭り。愚痴を言いつつ「しょうがない、何とかなるさ」と慰め合うしかない。厳しい就職難が続いていた時代だし、万事を明るく考える若さがあった。

 4月、別会社・毎日新聞北海道発行所の社員として、小池唯夫キャップ(故人、元毎日新聞社社長)の下、朝夕2回のトンペイ(中央・東・北3署)回りに精を出したが、地元紙に抜かれっ放しの記者スタートだった。

 写真・整理などを含め、編集新人の大半は独身。夜を待ちかねたように、会社から徒歩10分足らずのススキノに繰り出し、あとは糸の切れた凧。「規律を守らせよう、事件発生時の人集めも考えなければ」という報道部長の指示で、近くの会社施設が独身寮になった。

 2食賄い付き、料金も安いため希望者が多く、オモちゃんと私は6畳一間に押し込められた。連れ立ってのススキノ通いが増え、杯を重ねる中で理解を深めることができた。相部屋生活は1年で終わるが、この体験がその後所属や立場に関係なく続く交友の原点になった。

 60年8月、オモちゃんは東京地方部長に。私が地方部の庶務担当に転勤した2カ月後で、直属上司と番頭という形で20年ぶりの再会だった。「地方部・地方機関のことはあまり知らない、よろしく」と言われたが、私自身長岡、山形支局を6年余経験したものの、野球で言えば外野の片隅を守っていた程度で、内野やベンチ(地方部全体)の実情、人間関係など深く知るわけがない。

 当時の地方部は約280人の大所帯で定年間近の支局長・通信部長が多く、毎月のように人事異動があった。苦労が絶えなかったと思うが、不満や批判に穏やかな口調ながら粘り強く説得する姿が印象に残る。

 学芸部長・編集局次長を経て定年1年前に専務理事で出向した『富民協会』は、毎年の全国農業コンクールや出版物の発行などで昭和初年から日本の農業と農業経営の発展に大きく貢献してきた名門財団だが、経済の停滞で運営は厳しい。資金づくりの苦労や組織の人間関係の煩わしさなどをよく聞かされた。軽い気持ちで「いっそ辞めたら」と言ったことがあるが、「引き受けた以上途中で放り出すことはできない」。強い口調の返事だったので、それっきりで終わった。

 自主上映映画『草刈り十字軍』(平成9年(1997)、加藤剛主演)のプロデューサーを務めたことはあまり知られていない。母校早稲田大の先輩の製作者が給料の希望を聞いたところ予想以下の額で、「年金受給前なのにいいのかしら」と驚いた。財団運営の厳しさが身に沁みている故か、60歳過ぎで職を得ることへの遠慮だったか知る由もないが、金銭に恬淡としていたことは確かだ。

 最近は年1~2回2人だけの飲み会を持ち、昨年は6月20日にJR北千住駅前の居酒屋で会った。いつも生ビール1杯で焼酎に切り替えるのに「きょうは日本酒でいく」。3時間ほどかけて1合ビンの冷酒を3本ずつ飲み干した。「再来年は北毎発足60年、昔の同人と近況を語り合う会を開こうか」などと話が弾んだが、これが札幌から東京へ、酒を絆に続いた交友の締めくくりになった。

 長い付き合いにもかかわらず、「小元広悦はこういう人間」と一言で語るのは難しい。キーワードふうに言えば、頑固、粘り強い、スジを通す、芯は強い、控えめ、義理堅い、時に辛辣な皮肉を言う―etc。

 健康そうに見えたが、脳梗塞の手術をし、心臓疾患も抱えていた。紀美夫人によると、昨年7月初めごろ体調不良を訴え、腹部の出血が続いたため、血管外科や血液内科など数院を訪ね回った。11月初旬入院、すでに手術できる体でなかった。

 「最後まで意識ははっきりしていたし、周囲に迷惑をかけまいと気配りもしていました」(紀美夫人)。

平成30年1月23日逝去 享年83歳

橋本達明さんの告別式

 毎日新聞元主筆、下野新聞社元社長、橋本達明さん(4月14日逝去、73歳)の告別式が4月20日東京杉並区の堀ノ内斎場で営まれた。

 花に包まれた遺影は、清々しい笑顔だった。少しやつれた感じではあったが。本人の希望で無宗教での告別式となり、故人が好んで聴いたトゥーランドットやアベマリアなど名曲が流れる中、参列者は祭壇に献花をして、別れを告げた。

 喪主ゆり夫人によると、昨年1月に胆管がんが見つかった。病床に1年3か月。「新聞人として悔いがない。幸せな人生だった」が最期の言葉だったと明かした。「頼もしい夫であり、甘い甘いおじいちゃんだった」と涙ながらに語った。

 弔辞は3人。毎日新聞の丸山昌宏社長は、政治部長の後輩。「竹下総理辞任のスクープ、新元号『平成』をいち早くキャッチして紙面化した」などと称え、亡くなる4日前に見舞った際「新聞の役割を忘れてはダメだよ」と諭されと述べた。

 下野新聞の観堂義憲会長。「東日本大震災の際、被災された方に下野新聞を届けようと先頭に立ち、紙面については『存在感のある下野新聞をつくるよう』訴えた。5日前に見舞いに行った際「観ちゃん後を頼むよ」といわれた」。

 友人代表として政治部で一緒に仕事をした元毎日新聞論説委員の森嶋幹夫氏。「足に重りをつけてウォーキング、ゴルフもカートに乗らずに健康に気をつけていた。それなのにちょっと早過ぎた。亡くなる前日、お見舞いにいったら『ありがとう』と2度もいった」と、最期まで気遣いは忘れなかったことを話した。

 毎日新聞の朝比奈豊会長、下野新聞社の岸本卓也社長、東日印刷の武田芳明社長、毎日新聞の編集幹部らが多数詰めかけた。

        ◇

 1999年8月7日、群馬県上毛高原のリゾートゴルフ場で私がホールインワンを達成したとき、達ちゃんが一緒だった。打ち上げのショートホールで、トップした打球が手前の土手にワンバウンド、グリーン上を転がって、カップインしてしまったのだが、ティーグラウンドからは全く見えなかった。キャディーからは寄せのクラブを渡された。

 以来、会うたびに「ホールインワンは出ませんか」と冷やかされた。ご冥福を祈る。

(堤  哲)

冨重圭以子さんを悼む

 入院中の深夜、病室で携帯電話が鳴った。廊下に出たところで「冨重が死にました」の訃報を聞いて、僕の足は止まってしまった。

 手術をしたことは聞いていた。あれから2年は経ったはず。夕刊コラムも続いていた。だからうまく病と付き合いながらの「ながら仕事」をしているものだとばかり思っていた。僕よりも10歳も若い62歳が先に逝ってしまうなんて。緩和ケアに入った2月、「コラムが書きたい」と言い出したと聞いた。もっともっとやりたいことがあったことも知った。生きたかったのだね。無念な思いは僕だって同じだ。

 これまで通りに「とみさん」と呼ばせてもらう。とみさん、君はすべてに飾り気のない人だった。永の旅出の着替えとして棺に持ち込んだのは胸に「Hiroshima」が入った広島カープの真っ赤なユニホームだったからなあ。とみさんらしいよ。

 きみは宝飾品や衣服の華美には無頓着だった。文は人なりという。華美、虚飾を排し理路整然とした文章を最初に世に認めたのは映画監督の篠田正浩さんだった。それも朝日新聞の「私の紙面批評」欄(1992年2月29日付朝刊)でのこと。アルベールビル冬季五輪が開催され、伊藤みどりさんを取り上げた記事に篠田監督は目を止めた。

 以下、一部抜粋する。

 「日本選手の予想外の活躍で紙面は活況を呈した。その中で毎日の冨重圭以子氏の記事が、競技の視点の新鮮なことや文章の歯切れのよさで目を引いた。伊藤みどりさんの今シーズン五度に及ぶ彼女の競技ぶりから冷静な観察を示し、各国審判員の基準とはちがうイギリス審判の評価の姿を見落とさなかった」
と、朝日はじめ他紙を差し置いて彼女ひとりを絶賛している。

 きみは記事の中で、「初めて銀メダルを取ったからではなく、五輪で初めてトリプルアクセルを決めた女子選手だからでもない。苦しい状況のなかで一度失敗したトリプルアクセルに、再び挑戦した勇気がすばらしかった」と称賛し、理路整然とした技術論で裏付けしつつ、一瞬の心理描写で読ませている。僕なら銀メダルに至った山、谷と喜びの涙で安易に一丁仕上げていたかもしれない。

 プロ野球では、投手心理を推理しながら、そこから独自の観戦記事を書くのが得意だった気がする。「なべさんの野球記事は信用しません」と面と向かって言われたことがあった。キャリアだけは長かった僕だが、「とみさんには敵わんなあ」と敬服していたことを告白しておく。

 「ショートゴロを打った瞬間、観客の興味は終わるところだが、野手が捕球して一塁で間一髪アウトにするまで楽しませるのがイチローの野球だ」。イチローの魅力の切り口を平凡な内野ゴロに見出したのも非凡なセンス。

 パラリンピックを運動面でどう扱うべきか判断に困った時期が運動部内にはあった。その時、「競技スポーツとして、アスリートとして取り上げるべき」と主張したとみさんの判断力はその後の障害者スポーツのたどった道を正しく読んでいた。常識にとらわれない判断力で取材対象の本質を見ようとする姿勢は変わらなかったと言えるだろう。

 篠田監督に限らず、冨重ファンの固定読者は多かったようだ。僕の知人の弁護士から「お宅の冨重さんの記事が好きだ。一度会わせてほしい」と頼まれたこともある。そして僕自身が冨重ファンの一人だったと言っておく。覚えているだろうか。「僕が死んだら社報の悼む記事はきみに頼みたい」と願ったことを。きみの返事は「中島章隆さんと相談してどちらが書くか決めます」だった。とんでもない約束違いになった。

 きみはベッドで羽生結弦の金メダルを見て記者の本能を掻き立てられたのではないだろうか。会葬者に配られた遺稿を紹介させてもらう。

「ほっこり ふんわり ふわふわ 温かい
すみれ 綿毛 もふもふ

 まだ単位が決まっていないのですが、1もふ以上の出来事や存在を見つけ出して、もふもふするコラムにしたいのです。

 談志もかわいいものが好きだったと、昨夜のNHKバクモンでやってました。ぬいぐるみとか。いつもいつもシニカルにものごとを見てきたら、いつの間にか体が斜めに固定されたみたいになっていました。もっとまっつぐ見たいのです。まっつぐ見るとたぶん違う景色だとわかるのではないか、などと感じるのです。

  二〇一八年二月八日  冨重圭以子」

 喪主の松野誠さんの挨拶状には「緩和ケアに入院してから急にコラムが書きたいと言い始めた。従来のコラムとは全く違う種類の文章が書きたいというのです。病状が急変して書き継ぐことができず、断片的な原稿が一篇だけ残りました」とあった。

 とみさん。きみとはよくはしご酒をしたものだ。居酒屋で、赤ちょうちんで、時間を忘れてコップ酒で飲みあった。記事のことでしばしば口論になった。大声でやりあった。泣かせてしまった昔もあったが、たいていは僕が言い負かされた。そういう酒が楽しかった。そういう時代が楽しかった。とみさんのような仲間と一緒に記者生活を過ごしたことを誇りに思う。ありがとう。さようなら。

  平成30年2月26日逝去 62歳

(渡部節郎)

藤原新一郎さんを偲んで

藤原新一郎さん

 藤原さんの娘、セツ子さんからの手紙を見て、一瞬、息が止まったかのような衝撃に襲われたのは、2月20日のこと。この冬、何回か電話しても通じず、心配していたが、若しもの訃報だった。昨年秋、電話で「陽気がよくなったら会おう」と繰り返し話したのが最後。一年前の春には、菊地敬夫氏(元出版局次長)と3人でカキを食べ一杯呑んだのが最後である。

 手紙によれば、「昨年9月から一歩も外出できず、家で伏っていることが多くなりました」と書いてあり、「高熱と呼吸不全で緊急入院して一週間で……」と続けてある。恐らく急性肺炎のようなものであったろう。住所が杉並から佐倉に変わっているから、いくら電話をかけても通じなかったのかもしれない。

 それにしても悲しい急逝であった。晩年はよくお目にかかったが、国立病院に入院して手術をしたり、よく検査をして病院通いが多い割に元気だった。奥さんを亡くした時は半年ぐらい元気がなかったが、息子さん一家と同居してからは再び変わらない藤原さんに戻った。子供さんたちとは会ったことがないので判らないが、食事は自分で作って食べるといっていた。

 藤原さんは昭和26(1951)年入社、外信部、整理本部、経済部、エコノミスト編集部などなどを経て論説委員、同副委員長、紙面審査委副委員長などを終え、定年後、名古屋の日本福祉大教授に就任した。その後、桜美林大教授。同定年後、請われて東北のアレン短大に泊まりがけで何年か行かれた。

 私が一緒に仕事をする機会がなかったのに親しくなったのは、私が藤原さんの1年後の入社で西部配属となり、見習い期間も九州でやったのがキッカケである。というのは、西部代表が藤原さんの父、勘治さん(1972年没、77歳)で、面倒見が大変良く、お世話になったのを覚えており、私が福岡にはじまる西部、大阪での勤務を経て東京に戻った時、藤原新一郎さんと親しくいようと、と思ったからだ。

 そのころは、もう藤原さんは論説室にいた。西部にいたことのある山本正雄さん(1996年没、83歳)、厚川正夫さん(2010年没、95歳)など私の旧知の人も論説にいたので、誘われてよく食事に参加、藤原さんと親しくなった。とにかく酒は好き、人懐っこい、心温まる人、といったらピッタリであろう。

 定年後は、段々会わなくなるのが普通だが、藤原さんとは会うことにしていた。とくに小生が大学時代の友人で、藤原さんと同期入社の上田健一さん(元主筆、2016年没、89歳)と家族ぐるみの食事会を小生が提案してから、これが一層、お互いの友情を深めることになった。残念ながら藤原さんは1人になってしまったが、この食事会は楽しみにしていた。上田さんの葬儀が家族だけで行った時も、私たち2人は特別に参加できて、別れを十分惜しむことができた。

 藤原さんが毎日新聞で何をしたのか、小生はあまり知らない。とにかく一橋大卒業後、フルブライト留学生として1年、米国のウィスコンシン大学経済学部で学んでいるし、訳書、著書も数冊ある。日本福祉大に行かれるときに書いた「戦後世界経済の軌跡」(1986年刊)は、専門の大学教授では書けない、学生向けの教科書である。さすがに論説委員としては書き手の一人だったと思う。毎日新聞の知性というか、人材の一人であったことは間違いあるまい。

 追記、再び娘のセツ子さんからいただいた手紙には、こうあった。「父が早く帰るのは、家族の誕生日と、父親(勘治氏)に週1回会う日だけでした。家族想いには、父を尊敬していました」。

合掌

(碓井 彊)

 藤原新一郎さんは、2018年2月13日逝去、92歳。

原田三朗さんを偲んで

 毎年いただく年賀状が今年は来なかった。いつも前年一年間にやったことが細かい活字で印刷されて来たのに、今年はどうしたんだろうと思っていたら、「原田さんが亡くなりました」と堤哲さんから訃報のメールが届いた。クリスマスイブに虎の門病院で、なんと老衰で亡くなったという。82歳で老衰とは! 天野勝文さんに聞くと、昨年11月29日にあった論説委員OB・OGの集いには、車いすで参加されていたという。2016年に軽い脳梗塞を起こし、要介護度3だったという。

 愛称「はらさぶさん」とは、教育取材班で長年ご一緒した。かつて1960年代に村松喬編著のシリーズ「教育の森」が好評だったこともあり、「教育の毎日」として、再び世間の脚光を浴びて部数を増やそうと設置された。教育担当論説委員のはらさぶさんがキャップ、私はデスクを務めた。

 4本社と北海道発行所から担当者が集められ、1981年1月から長期シリーズ「教育を追う」が始まった。念のため、『「毎日」の3世紀』を紐解いたが、教育取材班も「教育を追う」も載っておらず、無視されていて、がっかりした。うるさいはらさぶさんは編集委員会に文句を言わなかったのか。

 各シリーズが始まる前に毎日寮などで合宿した。原田キャップは理詰めで企画を立てた。私はどちらかというと感性派だったので、理詰めに弱い私は困った。企画に沿って記者たちは全国に散らばって取材し、原稿を書き、私がチェックした。シリーズは終わる毎に出版局が刊行してくれた。ありがたいことだった。

 私の本棚にそのシリーズ本が並んでいる。「校内暴力の底流」「内申書・偏差値の秘密」「教科書検定」「つくられる「よい子」たち」「先生をつくる」「教室産業」「教室の冒険」……最後は、中曽根康弘首相が1984年8月に設置した“戦後教育の大改革”「臨時教育審議会」に対応して「教育改革・私の視点」を企画、27人の教育関係者にインタビューして連載した。本になったのは1985年1月である。

 はらさぶさんは忙しい人だった。あるとき教育取材班の誰かが、はらさぶさんの手帳を覗き見て驚いていた。なんと毎日ぎっしり予定が書き込んであったのだ。毎日することがないと、落ち着かなかったのだろう。「きょうはこれから千代田フィルハーモニー管弦楽団の練習がある」と私に言って出かけて行ったのを覚えている。東大で「オケ」(オーケストラ)でラッパを吹くのではなく、トロンボーンを吹いていたと聞く。

 鳥井守幸さんの声掛けで編集局の野球好きが集まり、「大東京竹橋野球団」なるものを結成、チームメイトだった。サントーリーなどと交歓試合を楽しんだが、はらさぶさんは不動(動かない)の一塁手だった。

 原田さんは1990年、論説委員を10年務めて退職、記者時代に知り合った駿台予備校の経営者・山崎春之氏の誘いで、飯能市にある駿河台大学の教授になった。専門は「公務員倫理」だった。文部省など国家公務員との付き合いが長かったからか、あるいは「毎日」に入社する前、科学技術庁に1年いたというから、それが糸を引いていたのか。「公務員よ、倫理を守れ」という彼らしい記者魂が込められていたのではないかと思う。行政文書管理アカデミーの学長も務めた。

 口八丁手八丁だった原田三朗氏は老衰だったという。すべてのエネルギーを使い果たされたからだろうか。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 平成29年12月24日 逝去、82歳

(矢倉久泰)

稀有なる歴史的野球記者、柿沼則夫さんを偲んで

 稀有なる歴史的野球記者である。昭和33(1958)年4月日(土曜)午後1時30分から始まった日本プロ野球の「あの歴史」を後楽園球場記者席で見て書いたのは“名にし負う“柿沼則夫記者(運動部)だった。原稿に曰く『最初のバッター・ボックスでは第一球の内角速球を空振り、続いてど真ん中の直球を見送って2-0となったあと、つぎのボールになったドロップを辛うじて見送ったが、四球目の初球と同様の内角速球を大きく空振りして三振、四回には2-3後、七回には三球で、九回にはこれまた2-3後といずれも三振に倒れた』。

 話題沸騰、鳴り物入りでデビューのゴールデン・ボーイ長嶋茂雄(巨人)が大投手・金田正一(国鉄)に4三振をくらった。1958年シ―ズン開幕戦の大試合のスコアは後掲このよう(以外と知られていない)。観衆4万5000人。金田が『長嶋君のスイングは実にいい。ただボデイ・アップするので、横からの変化球には強いが、縦の変化球には弱いところががる』と発言しているのも柿さんは書き込んでいる。

 国鉄 000 000 000 04|4  勝投手・金田正一(完投)
 巨人 000 000 000 01|1  負投手・藤田元司(完投)

 11回表二死後、町田行彦の3ランで国鉄がシーズン初戦の試合、署名入り記事で書いた柿沼則夫記者は、昭和29年(1954)年頃から巨人の取材をメインにしていた。もちろんパ・リーグのオリオンズ対ホークスなど後楽園の取材も任されていた。その花形記者がÙデスクとの“世紀のトレード”で整理部に異動させれた(1962年8月)。「俺が整理部かよーつ」。柿さんの嘆きはしばらく続いた。全舷で泥酔したこともしばしば。

 整理部記者に転じてからは運動面担当が多かったのは当然。プロ野球面編集の知恵は柿さんならではの魂があった。特にジャイアンツ情報には詳しい。多摩川二軍合宿所で柴田勲が「密かにスイッチヒッターの練習をしている」のを察知していた。柴田勲と言えば、法政二高のエースで1960年夏・1961春に連覇した超弩級。1962年に巨人入りしたが投手で使えず野手転向するしかなかった。その柴田が1963年一番センターに初めて定着、7月のある日「右打席で先制ホームラン「左打席で三塁打」を打ったことがあった。運動面整理は柿さん。「文句あるよ、おおありだあ」。試合概評にそのことが書いてねえじゃん!というわけで、取材記者と喧嘩。その後、まもなく柴田勲が規定打席数に達して打撃ベストテン3位に顔を出した際の運動面で柿さんは「きょうはコレでしょう!」とキメ。『柴田、打率三位に』と見出しを付けてトップにしたのである。同年オールスター戦でも柴田は1番センターで選ばれ大活躍だった。柿さんの「野球を見る目」には“ベースボール・オーラ”がついていた。

 柿さんは毎日新聞社内野球で選手としても偉大だった。1950年運動部でA優勝。1974年ウルトラ整運でA優勝。柿さんは左投右打(イチローの逆)。最優秀選手に数度選出された。柿さんの打撃は例えば一死で走者1・3塁のような時、猛ゴロをセンター前に放ち打点を挙げる。これが巧みでねえエ。右打ちながら「左打席に立った」のも見たことがある。野球の動き一つ一つに魅惑が溢れていた。それもそのハズ、法政一高の前進法政中学で野球部。法大野球部にも勧誘されたが、日大三中から来た関根潤三らがいたので、「とてもじゃあないが、格がちがうよ」と言って入部しなかった。毎日入社後、オール深谷や東京運動記者クラブで都市対抗野球地方予選に出場したこともあり、そのプレーは玄人好み。

 僕もウルトラ整運などで柿さんとは幾度となくプレーしたが、柿さんによく言われたのは「モロちゃん、打撃はね、ピッチャー返しが基本だよ」だった。試合前の練習は決まってトスバッティングのみ。ちゃんとワンバウンドで投げた奴に打ち返す練習を積むんである。フリーバッティングのようなことは「我々のような草野球は」しちゃあダメだね」と常に言っていた。

 メキシコ、グルノーブル、ミュンヘン、札幌……オリンピック紙面が大々的に展開する中、プロ野球面を静かに一人で編集していたのも「柿さん」だった。あれほど嫌った整理部だが70歳以後の柿さんは整理部OBの月イチ飲み会「三金会」の常連になっていた。2014年頃、野球談議の際、「モロちゃん、俺が原稿書いた“長嶋4三振”の紙面さあ、あれがトップだよな」……。いやあ、まったく、そのとおり……当時の紙面は大毎オリオンズがトップを占めていたからである。

 野球界は「正しい真実」を求め、野球ニュース価値判断をこよなく配慮していた。昭和25年以降30年代はパ・リーグ偏重の紙面に疑問を呈し続けていたもんなあ、柿さん。「きょうはこっちでしょう」と言って、セ・リーグをアタマに据えた。その頃では考えらない正論だった。

 大きなクチをたたくのが嫌いな柿さんの自慢の一つは昭和25年、運動部に入りたて時分、第一回日本シリーズ「毎日オリオンズ対松竹ロビンス」を取材したことだ。「小西得郎んちや、真田重蔵の泊っている宿に夜討ちしたもんだぜ」。

 柿さん、そういえば、運動面終わっての帰途にさあ、あ、それから柿さんが全日本大学野球連盟事務局長になったときも、神宮球場から連れ立って大塚池袋方面に夜討ちしましたね。あっちでも、やってんでしょう? 連れてってくださいよ。その昔「浅草の裏から球場へ出勤したよオ」と片目で笑う顔がよかったねえ。

10月16日逝去 89歳

(諸岡達一)

社会部記者一筋に生きた園木宏志さんを偲んで

 社会部記者一筋に生きた園木宏志さん。享年76。12月20日、膵臓がんで亡くなり、26日、横浜市内で葬儀が営まれた。

 近くに住む先輩の吉川泰雄さんは、自分が贈った帽子をかぶった遺影に語り掛けた。二年四か月前の手術以来、園木さんは「時間、ある?」と電話をかけてきて、自宅近くの喫茶店で、胸のうちを語った。がんと共生しつつ前向きに闘病生活を続ける後輩との「おしゃべり」は3時間を超えることもあり、12月2日が最後だった。

 「40数年、付き合ってきたが、まさか今日で別れとは、残念でならない。キミは、『俺が書くのは特ダネだけ』とよく言っていた。まさに記者魂、その身ひとつで、新しい仕事にも取り組んできた。よき後輩、よき友であったことに感謝します」

 初任地の鹿児島支局時代に一緒になった美樹子夫人は挨拶で、「初めて火事現場の取材をした時、上から下まで全身ずぶ濡れだった。少年の頃からの夢だった新聞記者の仕事をこよなく愛し、本当に友達が好きで、発病後も友達に会いに行く後姿は踊っているようだった。北京に生まれ、中国大陸への思いから、34省踏破を目標に、自宅に大陸の白地図を張り、12省が残りました。やんちゃで、本当に幸せな人」と、3人の娘さんとともに、その生涯を振り返った。

 1965年に入社。西部本社を経て、東京社会部、福島支局長、横浜支局長、地方部長、制作局長などを歴任。その後は一転して、毎日新聞カルチャーシティを立ち上げ、大使館シリーズなど先頭に立って企画を実現した。さらに日本経済大学で留学生にメディア学などを教えた。中国訪問は17回に及ぶ。

 園木さんと初めて会ったのは、1973年、杉並・江東ゴミ戦争の取材だった。社会部に配属されたばかりの後輩の目に、美濃部都政時代の都庁担当記者は、輝いていた。以来、一緒によく酒も飲み、ゴルフも楽しみ、個人的には人生の転機となる場面でもお世話になった。

 東西の社会部OBを中心に発行している季刊同人誌『人生八聲』に、園木さんは引揚体験や中国訪問記を寄稿。山梨県・増冨ラジウム温泉訪問記が絶筆となった。

(高尾義彦)

新聞社の理想の上司 ――江口宏さんを偲んで

上西朗夫(元政治部長)

 江口さんが政治部長となるのは、三木内閣の頃である。ほどなくしてアメリカのロッキード社が日本への航空機の売り込みのため1千万ドル(約30億円)もの巨額なワイロを使ったとのUPI電がわが社へも飛び込んできた。この時は漠然としていて具体的にはよく分からなかったが、ワイロの大きさから推して政界の中枢まで巻き込んだ一大汚職事件であることは疑いの余地がなかった。

 そこで政治部も江口部長の命で直ちに特別取材班を立ち上げ、私も計らずもメンバーの1人となった。田中内閣時、アメリカから航空機等を大量購入するが、その際これを容易にするため新政策を決定してことなどに気付き、「急がば回れ」で、私は、まず最初に当時の自民党政調会長の動きに着目してみた。政府が新政策を決定する時は、必ず事前に政調会の了承を得なければならないからだ。

(昭和51年4月13日朝刊1面)

 果たしてその結果、佐藤孝行という中曽根派の議員(隠れ〝田中派〟の1人)が運輸政務次官の時、偽造文書で政調会の同意を取り付け、田中内閣ですぐさまこの政策を閣議決定していた事実を突きとめた。さっそく朝刊の1面トップで大々的に報じたところ(昭和51年4月13日と14日)、翌日自民党の中堅クラスの有力議員たちが本社へ多数押しかけてきて、「デタラメだ。なんとかしろ」と口々にわめきたてた。

 あまりにも必死で異常だった。どうやら彼らは佐藤議員を守るためだけに来たのではなかった。理の当然、放っておいたらこの話は、田中内閣にまで及ぶ。それを阻止するための緊急の集団脅迫のようだったが、いずれにせよこの時、最も果敢に一行の前に立ちはだかってくれたのが江口部長である。

(昭和51年4月14日朝刊1面)

 江口さんは日頃は寡黙でめったに笑わず一見偏屈そうにみえたが、後輩たちには親切でよくおごり、よく話を聞いてくれた人だった。相手が誰だろうと、その後輩たちが頭ごなしに罵倒されているのをみて思わず先頭に立ち、怒りもあらわに一行の脅しをガンとしてはねつけてくれたのだ。

 それ以降、のちの田中角栄逮捕まで(佐藤孝行逮捕もほぼ同時期)政治部も一気に勢いづき、一層全力で努力していったつもりでいる。仮にこの時、部長自ら彼らの脅しに屈していたら、その後は部員全員働く意欲をなくしていたかも知れない。

 江口さんは単に、後輩思いの人ということだけではなかった。同時にまた、不偏不党の新聞社の理想の上司でもあった。

  

 12月12日逝去 91歳

「我が家の師」柴田寛二さん

論説委員・澤圭一郎

 「あなたは長男ですか?私は名前で分かる通り、二男なんです」。1982年5月、毎日新聞外信部デスクだった柴田寛二さんにお会いした時に、最初にかけて頂いた言葉だ。当時、私は高校3年生。神奈川県藤沢市のご自宅に、自転車でお邪魔した。

 鎌倉市の高校に通っていた私は、6月に開かれる学園祭である企画を考えていた。その頃、フォークランド諸島を巡り、英国とアルゼンチンが戦争をしていた。国内でも、緊張する国際情勢への関心は高まり、日本はいかにあるべきかが論じられていた。

 ちょっとませた高校生だったので、この状況を県内の高校生はどう見ているのかアンケートをして学園祭で発表してみようと考えた。それだけでは面白くないので、有識者に講演をしてもらおうと、担任教師に頼んで何人かの名前を紹介してもらった。その中に柴田さんがおられた。同じ藤沢に住んでおられ、近いこともあり、即座に便箋10枚の手紙を書いて、直談判に行った。

 温和な目で「いいですよ。ちょうどASEANの出張取材から戻る翌日なので、伺いましょう」と快諾していただいた。アンケート結果を説明すると、熱心に聞いていただき、2時間ほどお話を伺ったと記憶する。

 学園祭当日は「国際情勢と日本」というタイトルで、1時間の講演をしていただいた。100人ほど入る教室は満席だった。講演後、校内の控え室で、個人的に新聞記者の仕事内容をお聞きした。「毎日が違う日々。取材で誰にでも会うことができる」「自ら関心があることを、記事を通じて世の中の人に伝えることができる」。「とても面白い仕事ですよ」

 一介の高校生に、真摯に向き合って頂いたことに感激した。大人に丁寧な言葉使いで応じてもらったのも初めて。絶やさぬ笑顔が心に残った。記者の仕事も興味深かった。とんちんかんな質問をしたはずだが、ゆっくりと答えていただいた。我が家は祖父の代から読売新聞をとっていたので、毎日新聞を知らなかったにも関わらず、だ。多感な18歳には、柴田さんとの出会い、その言葉が深く残った。

 大学は理学部に進み、クラスメートがメーカーや研究所への就職を決めていく中、柴田さんの言葉が脳裏に浮かんだ。新聞記者を目指してみよう。毎日新聞社に行けば、また柴田さんに会えると思った。その時にはニューヨーク支局長になられていた。

 89年の入社が決まり、報告の手紙を書いた。覚えていてくださり「入社してくれて、ありがとう」と返事があった。ありがとう、の言葉に涙が出た。

 翌年の冬に結婚することになった。勝手に仲人をお願いすることを決めた。米国から東京の論説室に戻られていて、妻になる女性と再び藤沢のご自宅にお邪魔した。最初は遠慮されていたが、「どうしても」と拝み倒して引き受けていただいた。

 結婚式に際して聖書を頂戴した。妻はその影響で後年、キリスト者となった。
2年後に長男が生まれ、ほどなく挨拶に伺った。相好を崩して抱っこしていただいた息子は今、札幌の報道部にいる。

 城西国際大の教授に転進され、多くの学生に慕われたと聞く。大学を退職されて後に、長野の御代田に転居されたが、遊びに伺うといつもの笑顔で迎えていただいたことが懐かしい。

 敏腕記者であったろうことは想像に難くないが、柴田さんのお仕事ぶりを私は直接知らない。ただ、私の人生のみならず、妻と息子の人生にも大きな影響を与えて下さった柴田さんは、我が家では「師」である。

 もういらっしゃらないことが信じられぬ。

  10月12日逝去、82歳

 

105歳の大往生・増田一平さん

 「在宅クリニックを月2回。でも病気で入院したこともなく、クスリは何も飲んでいませんでした。大往生でした」と長男の一仁さん(73歳)。

 元写真製版部副部長、印刷局参事だった増田一平さんが9月25日、東京都羽村市の自宅で亡くなった。大正元年生まれの105歳だった。みよ夫人(96歳)ら家族にみとられ、安らかな死だった。

 増田さんは、1931(昭和6)年4月入社。戦時中の44(昭和19)年に応召。戦後復社して、59(昭和34)年写真製版部デスク。1967(昭和42)年9月に定年退職した。

 戒名は「一如吟月居士」。「60歳の後半から詩吟を趣味にしておりました。それで戒名に入れてもらいました」と一仁さん。

 一仁さんは、JR青梅線の小作駅前で和食レストラン「ちんか」を経営する。羽村市商工会の会長でもある。「定年退職したオヤジに経理を手伝ってもらいました」「年賀状をやりとりしていた方たちもほとんど亡くなってしまって…」。

 写真製版部の後輩、小森秀雄さん(88歳)は、「増田さんで思い出すのは、胃の調子が悪くて、いつも胃薬を飲んでいたこと。無病息災でなく、一病息災だったんですね。あやかりたいトシですねぇ」。

 小森さん自身は、膀胱がんを患っているが、手術もしない「従病」生活だ。

(堤 哲)

豪放磊落、気配りも忘れない親分肌 白根邦男さんを偲んで

山本 進

 成田空港の開港直前、地下排水溝から侵入した過激派が管制塔を占拠した。社会部取材班の一員だった私は軟派記事を担当、その原稿を支局デスクがチェックして送稿していた時、取材班キャップで担当デスクの白根さんが「何だその原稿は。見せろ」と取り上げ、何か所か手を入れ、「しっかりチェックしろ」と叱ってデスクに戻した。地下道潜入の情況を想像を交えながら書いた原稿だが、事件を面白がっている印象を与えるような部分をカットしていたように思う。直されたことよりも、書いた私には一言の𠮟責も、詰問もなかったことが不思議だった。何年かのちたずねたら「地下侵入から占拠の現場を見た記者は誰もいない。それでも、想像を交えて状況を伝えようと書くのが記者だ。山ちゃんは原稿を書いて責任を果たした。それをチェックし記事にするのはデスクの責任だ。一番困るのは原稿が出てこない時だよ」と笑った。成田取材が白根さんとの最初の仕事だった。

 社内に権力闘争があって、ある役員から「君は××派だそうだね」と言われ、困ったあげく「私は白根派です」と答えた。白根さんに「勝手に名前使ってすみません」と報告したら「じゃ、作るか白根派を」と笑っていた。豪放磊落、ちょっと見、おっかない感じだったが、細やかな気配りも忘れない親分肌の先輩で、自然に後輩が集まり、飲み会やゴルフの会ができた。

 私がデスクで社会部に戻ったころ「暇なとき経理の勉強をしておくといい。財務諸表くらい読めるように」とアドバイスされた。記者として、デスクとして、経営者として私の範であり、師であった白根さんとは昨年5月、博多の創作料理屋でごちそうになったのが最後の語らいとなった。

 長い間ごくろうさまでした。ありがとうございました。

スポニチ東京本社で開かれた献花式会場に飾られた写真(9月15日)

中村勘三郎さんと
中村勘三郎さんと
演説する白根さん
演説する白根さん
女優小泉今日子さんと
女優小泉今日子さんと

最後まで「トランプのアメリカ」を懸念 近藤健さん

 近藤健さんが8月31日に逝去されたことを由紀子夫人からの電話で知った。正しくは「こんどうたけし」だが、ずっと「こんけん」さんと呼ばせてもらった。初めて会ったのは、私が外信部に配属された1967年なので、半世紀にわたりご厚誼を賜ったことになる。

 1957年入社後、社会部から外信部へ。その間、米シラキュース大学に留学して得意の英語に磨きをかけ、サイゴン、ニューヨーク、ワシントン特派員として健筆を揮った。外信部長、ワシントン支局長、論説委員を経て、最後に英文局長をつとめた。私自身も近藤さんの背中を追いかける格好で、サイゴン、ニューヨーク特派員、外信部長、論説委員をつとめ、同じ道を進んだ後輩として薫陶を受けた。

 近藤さんは国際基督教大学の一期生で、退社後は母校の教授として後輩を指導した。アメリカ研究者としてブッシュ再選の背景を掘り下げた『アメリカの内なる文化戦争』(2005年)、アメリカ憲法の成立過程を検証した『憲法の誕生』(2015年)などの著書があり、由紀子夫人によると、次の著作を構想していたという。

 退社後も論説室OB会やメコンの会などで毎年酒をくみかわした。ベトナム戦争の取材経験者の集まりであるメコンの会は20年前に発足し、毎年定例会を開いている。昨年9月、メンバーだった故寺島凱男さんの通夜に参列した際に、近藤さんから「ドクターストップで酒が飲めない」と打ち明けられた。翌月には咽頭ガンを告白し「慌ててもしょうがないし、持ち前の楽観主義でなんとかなるさ、と腹を据えています」とのメールが届いた。

 今年6月に届いた最後のメールでは「トランプにはあきれ放し。彼の末路を見るまで息をしていたいとは思っていますが」とアメリカの行く末を案じていた。

 渋谷のカトリック教会で9月5日に執り行われた葬儀ミサ・告別式に参列して亡くなる8週間前の7月7日に受洗していたことを初めて知った。会葬者に配布された近藤家の「ご挨拶」に、今年5月30日に84歳の誕生日を迎えての「所感」が添えられていた。

 「一流の学者になれるほど頭はよくないし、一流のジャーナリストになるには怠け者すぎた。中途半端な人生ではあった。それでも誰にもおもねることなく、やりたいことをしてきたし不平不満をいうことは不遜のそしりをまぬがれず 分相応の一生というべきか」。
いかにも近藤さんらしいと感じ入った。

(細野徳治)

驚くべき生命力とその健筆――小林弘忠君を偲ぶ

 小林弘忠君が毎日新聞OBらの季刊同人誌「人生八聲」第11巻(2017年7月刊)所収の<「鶴彬」小伝(1)>のコピーを送ってきてくれたのは7月12日だった。同封の一筆 箋に「今回は長期連載となりそうです。『満州開拓団』(七つ森書館)が本になり、8月に刊行されます」とあった。折り返し電話すると、「切れ痔を手術するため近く入院するかも…」と、ややしわがれ声ながら、いつものように淡々と話した。新刊に期待して電話を切った。

 小林君が2006年7月、「余命1年半の肺がん」と診断されたことを知ったのは、ノンフィクション『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』(毎日新聞社)で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞、その授賞式の当日だった。応募を促した一人として、受賞は我がことのようにうれしかったが、「余命1年半」と聞いて暗然とした。

 小林君はそれから11年、胃がん、脳腫瘍を併発、入退院を繰り返していたが、医師たちの予想を遙かに超えてたくましく生き抜き、何冊ものノンフィクションを書き継いだ。7月12日の電話のあと、持ち前の生命力で無事、手術を終えて退院したころ、連絡しようと思いながら、一日延ばしになっていたところ、8月19日に長女の工藤由佳さんから「7月19日、80歳の生涯を閉じました」のご連絡を頂いた。最後の電話からわずか1週間後に亡くなっていたのだ。8月9日に出版された『満州開拓団の真実 なぜ、悲劇が起きてしまったのか』は遺著となった。

 小林君は1960年毎日新聞社入社、千葉支局、社会部、地方版編集長、情報調査部長、メディア編成本部長などを歴任。1992年に退社後は立教大学、武蔵野女子大学などで講師を勤めながら、ノンフィクション作家として健筆を振るった。『巣鴨プリズン 教誨師花山信勝と死刑戦犯の記録』『私の戦後は終わらない 遺されたB級戦犯妻の記録』『天に問う手紙 無実の戦犯救済に半生をささげた植木信吉』のほか、前出の『逃亡』など戦犯関係の著作が大きな柱。新聞・メディア史関係では『新聞報道と顔写真』『ニュース記事にみる日本語の近代』『浮世はままよ 岸田吟香ものがたり』『「金の船」ものがたり 童謡を広めた男たち』など。

 異色作は『熟年介護日誌 病人が病人を看るということ』(2007年・NHK出版)である。帯に「母は認知症、妻は直腸がん、二人を介護する著者もある日、肺がんを宣告されて……」とある。老々介護のすさまじい闘病記を冷静に書き留めているだけでなく、医療の現場にも鋭い目を注いでいる。社会部時代、厚生省を担当した経験が、この本や戦犯関係の作品の原点になっている。

 小林君とは社会部サブデスクとしてほんの一時期、同じ仕事をしたけれど、在社中にはあまり付き合いがなかった。私が大学へ転職したあと、ゼミで『新聞報道と顔写真』の話をしてもらったり、『ニュース記事にみる日本語の近代』の出版元を紹介したこと、それに小林君の肺がん判明より2年前に私自身が間質性肺炎に加え肺結核になり、1年近く入院生活をしていたことも、同病相憐れむ心境か、小林君との交流を深めるきっかけになったかもしれない。

 娘さんのお話だと、最期は「全身がん」の状態だったという。そうした厳しい病状にもめげず、死の1週間前、「今回は長期連載になりそうです」としたためた、書くことへの強い執念に改めて粛然とする。

 ここ2〜3年は3カ月に一度ほど、お互いの健康を確かめる電話をするくらいだった。最後に会ったのはパレスサイドビルの「アラスカ」でカレーを食べた時だったが、それもいつだったか思い出せないほど、こちらもボケてきた。いずれ私も行くあの世で、いつものようにあの笑顔で迎えてください。

(天野 勝文)

山本祐司さん(元社会部長)を悼む

高尾 義彦

 社会部長だった山本祐司さんが7月22日、脳出血で亡くなった。81歳。5月6日未明に浦安市の終の棲家「愛光園」(特別養護老人ホーム)で倒れ、浦安病院に入院、帰らぬ人となった。訃報を知らされた直後、評伝を書くように、という話があり、原稿は最終的に8月14日付「悼む」欄に圧縮して掲載された。その下敷きとなった原稿を再掲させていただく。

 「偲ぶ会」が9月15日午後2時から毎日ホールで開かれる。

       ×     ×     ×

 「あれ、書いてよ」。ロッキード事件・田中角栄元首相逮捕前日の1976年7月26日午後、ふらりと東京・霞が関の司法記者クラブに戻ってきたキャップの山本祐司さんから、短く指示された。

 「あれ」が何を指すか詳しい説明はない。それでも、その年の2月から東京地検特捜部の動きを追ってきた取材チームには、暗黙の了解があった。「検察、重大決意へ」「高官逮捕は目前」の見出しで翌日朝刊の一面トップに掲載された記事は、事件のクライマックスを的確に予告した。日通事件など戦後の特捜事件取材を重ねた山本さんにとって、この戦後最大の疑獄は、司法記者活動の集大成だった。

 しかし山本さんの「すごさ」は現役時代だけではなかった。多数の著書のひとつに「毎日新聞社会部」がある。社会部一筋の記者生活をベースに、愛する社会部の歴史を生々しくたどった労作。実は、この一冊だけでなく、日本記者クラブ賞受賞理由のひとつになった「最高裁物語」などの著作は、すべて利き腕ではない左手で綴られた。

 社会部長だった49歳の時、脳出血で倒れ、横浜市内の病院で生死の境をさまよった末に生還した。意識混濁の中で、早逝した同期の記者らが愛唱した「早春賦」の歌を口ずさんだと、後に聞いたが、現役記者当時と同様の強い生命力で、記者として復活した。30年余、右半身の自由を奪われ、久子夫人に丸ごと支えられた車いす生活。厳しい条件の中で、書くことへのすさまじい意思は我々を驚かせた。

 「面白きこともなき世を面白く」。山口県出身の山本さんは、長州の先輩である高杉晋作の辞世の句を、そのまま体現した。住まいのある千葉県浦安市で障害のある人たちで作るサークル「ルパン文芸」を主宰して、この夏、20周年記念誌を発行したばかりだった。絶筆は「人間万歳!」の言葉で結ばれていた。

 山本さんは事件記者として生涯を過ごしたが、早稲田大学在学当時から、夢は童話作家だった。権力への強烈な批判精神と人間に対する優しいまなざし。メディアの危機が取りざたされる中で、その存在の大きさを胸に刻みたい。

 今年の正月、10人ほどの仲間で例年通り浦安市の愛光園にお見舞いに行った際、別れ際に「これからビール、飲みに行くの?」といつもの笑顔で声をかけられた。現役の頃、こよなくビールを愛した山本さん。心からの感謝を込め、献杯してご冥福をお祈りする。

サンデー俳句王(ハイキング)の森英介さんを偲ぶ

(木村 滋 撮影)

 朝日新聞7月2日付朝刊1面に、『風天 渥美清のうた』(2008年、大空出版)の広告が出ていた。にわかに著者・森英介さんを思い出した。

 サンデー毎日の投稿俳句欄「サンデー俳句王(ハイキング)」は、1985年9月8日号から始まった。森さんが副編集長時代につくったもので、「プロ俳人お断り、素人による素人のための素人の俳句欄」がキャッチフレーズだった。 ことしで32年。隔月刊誌「俳句αあるふぁ」の創刊(1992年)につながった。

 お遍路が一列に行く虹の中

 これが風天、渥美清さんの代表作といわれるが、森さんは1996年(平成8年)8月に68歳で亡くなった渥美さんの全作品221句を探し出した。毎日新聞同人の俳人石寒太さんが解説を付けている。

 もうひとつ森さんの仕事で忘れられないのが、2004年に出版した女優夏目雅子さんの俳句を紹介した『優日雅(ゆうにちが) 夏目雅子ふたたび』(実業之日本社刊)である。

  間断の音なき空に星花火

 急性骨髄白血病で慶応病院に入院中、3階の病床から神宮の森に上がった花火を詠んだものだという。夏目さんは、その年(1985)9月、27歳で亡くなった。

 森さんは2009年12月14日に肝臓がんで亡くなった。70歳だった。

 がんばれといはれてもなあ鰯雲

 これが遺作となった。

『風天 渥美清のうた』
『優日雅・夏目雅子ふたたび』

(堤 哲)

堀井のオトーサンを偲ぶ

 「1964年の東京オリンピックで日本人最初の金メダルは重量挙げの三宅義信選手。そのナンパを書いたのはオレなんだ」

 何事にも謙虚で、自慢話なんてしたことのないオトーサン堀井淳夫さんが、2020年東京五輪の話題になったとき、昔話を披露した。

 毎日新聞1964(昭和39)年10月13日。1面2番手で「日本、初の金メダル」の横凸版。「三宅、重量あげで優勝/「君が代」高らかに響く」。

 社会面はトップで「天晴れ三宅“精進”の王座」。残念ながら署名はない。

 山形の実家は、鉄道の引き込み線があったほどの材木商。慶應義塾大学では競走部で走高跳の選手だった。福島支局が駆け出しで、社会部の最後は東京西支局長。夕方になると、支局長自らがツマミを用意して、ビールを出した。「桃源郷のようだった」。昨年、卆寿のお祝いに集まった後輩たちは、堀井さんの人徳を語った。そういえばロッキード事件(1976年)の取材班によく陣中見舞してくれたのも、西支局長時代だった。

 初代「くりくり」編集長。55歳定年で毎日企画センター(現毎日企画サービス)の旅行部門を任されたが、都庁人脈を活かして交通会館2階にパスポート出願手続きを代行する営業所を開き、「赤字体質を一挙に解消したんだ」。

 社内の野球チームS・ライターズ解散記念で『野球博覧』(本文415㌻、2014年刊行)を発行する際、たにまちとして出版費用を援助してくれた。その出版記念パーティーには、慶大同級生の3代目田村駒治郎氏(大陽ロビンスオーナーの長男)を同伴、終了後、パレスサイドビル9階のレストラン「アラスカ」で慶大名誉教授の池井優氏と4人で野球談義をしたことを思い出す。

 麻雀で「小遣いを稼いでいた」ほどで、将棋も強かった。

 また1人、大正生まれが消えた。岩見隆夫さん(2014年没、78歳)が、大阪社会部では絶対に生まれ得ない東京社会部の名物記者3人としてあげたのは、岩崎繁夫(03年没、76歳)、米山貢司(12年没、83歳)両氏に、堀井のオトーサンだった。      合掌

(堤 哲)

2017年5月31日逝去、90歳

神宮球場のバックスクリーンに巨大写真

 鈴木美嶺さん(1991年没、70歳)の新聞記者時代の写真が、5月27日に行われた東京六大学野球リーグ戦早慶1回戦開始前に神宮外苑野球場のバックスクリーンに映し出された。

                   

 3万人の観客を前に行われた野球殿堂入りのセレモニー。審判員の郷司裕さん(2006年没、74歳)とともに野球殿堂に飾られるレリーフが遺族に手渡された。

 美嶺さんは東大野球部OBで、神宮球場では勤務の合間を縫って六大学野球の審判員を務め、記者席では公式記録員として、安打・エラーの判定をした。それだけに早慶戦の大観衆を前に、野球規則づくりの実績が認められたことを喜んでいると思う。

 二男の鈴木貴彦さん(58)は「改めて栄誉の重さを実感した」とお礼を述べた。

 美嶺さんの野球規則委員としてのノート(毎日新聞のロゴ入り大学ノートなのだ)や「黒獅子の目」のなどの記事のスクラップ帳、写真などが、野球博物館(東京ドーム内)で7月9日まで特別展示されている。

 東大野球部の後輩では国際野球連盟(IBAF)元第一副会長・田和一浩、元日本野球規則委員会委員長・麻生紘二、先輩理事・小笠原文也、毎日新聞OB・石渡明(公式記録員)、一誠会副会長・石上晴康、現東大野球部長・鈴木匡(東大准教授)各氏や「東大を優勝させよう会」の児玉良雄会長らが神宮球場から野球博物館へ向かい、美嶺さんの殿堂入りを祝った。

野球殿堂に飾られる鈴木美嶺さんのレリーフ

(堤 哲)

田中滋さんを偲んで

  4月9日、旧友・田中滋氏が自宅で急逝した。1か月ほど前、彼シゲちゃんから3月に卆寿を迎え、家族でお祝いをしてもらい、嬉しかった等々近況をいただいていただけに、奥様からの訃報に接し、慄然とし涙を禁じ得なかった。

 故人が入社した年、昭和27年暮れに新聞販売業界は共同販売制度から、専売制度に変革した。彼は激動の販売界に身をおき、外勤一筋に駆け抜けた。

 頭の回転や行動が早く、燃えに燃えて突き進んだ。同時に、取引店との人間関係を大切にして、信頼が厚かった。

 その集大成が販売4部長時代で、来るべき青森印刷開始(昭和50年)に備えて、本社と販売店が心を一にして戦った。彼の販売人生で最高の喜びの時期だったのではないかと思われる。

 仕事に情熱を傾ける傍ら、お祭り男シゲちゃんが得意とする歌「木遣」には情緒があった。口角泡を飛ばす田中節が忘れ難く印象に残る。

 総合推進本部、毎日折込会社を経た後は、趣味の囲碁と水墨画に打ち込み、最近では玄人はだしの域まで達した。

 晩年は歩行に難があったが、日々一日一日をおろそかにしない生き方に敬服する。六十有余年の公私にわたる友情を有難う。先立たれ、寂しさが募るばかりである。

 *29年4月9日逝去、享年90歳

(社友 大窪幸治)

田中滋さんの遺作
水墨画「想い出のせせらぎ」

辛辣な美術評論の安井収蔵さんを偲ぶ

 「やっさん」「やっさん」と親しんだ安井収蔵さんが5月3日、肺がんで逝った。享年90歳。周囲は90歳まで生きたのだから「本人も悔いはなかろう」と想うのだが、昨夏も「まだ書きてぇことがあるんだ」と言っていたから、果たして本人はどうだったのか。

 私が安井さんの死を知ったのは12日に届いた娘さんたちからの死亡通知だった。「結構頑固な父は『葬儀、戒名無用 どなたにもお知らせするな ご厄介になった各位に深く感謝の意をお伝えすること』と書き残しており、失礼を承知のうえ遅ればせながら父の遺志に従いお知らせ申し上げる次第です」とあり、すでに葬儀は親族のみで済まされたとのことだった。また、病気療養中ともあり、入院されていたと知ってたなら見舞いにも行けたのにと悔やまれた。

 安井さんは小柄な体で突っ張って生きた人だった。毎日新聞がおかしくなったとき、50歳以上の高齢社員(当時55歳定年)に早期退職を勧奨した。「安月給で使ったうえ、辞めろかよ。社のためというなら辞めてやろうじゃないか」と定年を2年残して退職して、日動画廊に移った。何百株かの株はそのまま持ち続けて欲しいと社は買い上げなかった。後に社がいくらか好転し、株を買い上げるから売ってほしいと誘った時には「金が欲しかったときに買わないで今更売れと言っても俺はイヤだ」と断り、生涯持ち続けていたのではなかろうか。

 社を辞めてからも美術業界紙や雑誌の求めに応じてよく書き続けてきた。作家個人の作品批評より、コラムとして沈滞する日本美術界への苦情や批判を辛辣な筆致で書いたものが多く、コラム集「色いろ調」「絵話諸録」など単行本として数冊刊行されている。美術界のご意見番的な存在にみえたが、その世界の人たちは彼をどんな目で見ていたののだろう。必ずしも愛されたばかりではなかったろう。

 社を辞めたあと、顧問として日動画廊に勤めたが、これは同画廊の先代社長が社長を退く際、若い跡継ぎの後見として安井さんを見込んで迎えたのだ。いくつかの美術館の館長も務めた。茨城笠間日動美術館、山形酒井市美術館、茨城しもだて美術館と地方の美術館を歩き、地方では開催しにくい展覧会を人脈を通じて開いていた。

 頑固で強持てした半面、面倒見の良い人だった。絵描きさんの中にも安井さんに後押ししてもらった人も多かったのではなかろうか。世話になった人たちは最後のお別れが出来なかったのを残念に思っている人が多いはずだ。

(斎藤 修)

佐々木叶さんを偲ぶ

 彼とは60年のつきあいである。思い出が次から次へと出てくる。彼が何年か前にこういったことがある「10年近くに及ぶ私の特捜事件取材メモには、300人からの参考人(灰色)の政治家の名前がある。職務権限や金銭授受の趣旨から逮捕をまぬがれた人々だが、政治家としての“汚点”には変わりないよ」。彼はいつまでたっても新聞記者魂を忘れなかった。また或事件で彼と一緒に検事のところへ夜討ちに行った。その論理的な質問の仕方と粘り強さにはほとほと感心した。彼は毎日新聞屈指の事件記者であった。

 彼とは亡くなった佐々木叶さんである(5月1日死去・享年92歳)。もちろん毎日映画社の社長として業績を大いに伸ばしたし、毎日新聞社取締役・労務担当としても実績を上げた。佐々木さんの最大の特色は自分の気に食わないことがあると上も下もなく噛みついたことである。だから彼に対する評価が分かれる。私は尊敬すべき記者・経営者として高く評価する。

 ロッキード事件で社会部長になった時(昭和51年3月)、早速、編集委員であった佐々木叶さんに「遊軍としてロッキード事件を取材してほしい」と頼んだ。佐々木さんは警視庁クラブキャップ・裁判所クラブキャップ・社会部デスク・水戸支局長を経験したベテラン記者であった。即座に「言われなくてもやるつもりであった」という返事をいただいた。今更何を言っているのだという顔をされた。

 社会部のロッキード事件取材編成表には佐々木さんの名前はない。全く別行動取材であった。毎日新聞社会部編「毎日新聞ロッキード取材全行動」(講談社)を見ると、佐々木編集委員の特ダネが3ページにわたり記述されている。その年の8月12日朝刊一面トップに6人の政府高官が丸紅の専務を通じて全日空から200万円から500万円の金を受け取り捜査線上に浮かんだことを顔写真入りで報道したのである。田中角栄以外に初めて明らかにされた政治家たちの名前で影響する所が大きかった。この日は佐々木さんの53歳の誕生日であった。

 その年の5月下旬に起きた「三木武夫首相おろし(ロッキード事件つぶし)」に対するキャンペーンを張った際にも署名原稿を書いていただいた。折に触れ佐々木編集委員とはコーヒーをのみ、貴重な情報と意見を聞いた。私は今でも感謝している。

 その後、毎日映画社の社長時代には裁判所クラブ時代の人脈を生かしてユニークな映画を製作して業績を上げた。その手腕を買われて毎日新聞の取締役にもなった。彼が労務・総務担当の時(1983年6月から1985年6月)、西部本社代表であったので、時折、東京の情報を教えてくれた。当時の平岡敏男社長には私淑していた。意見具申もしたらしいが毎日新聞では唯一頭の上がらない人であったようである。業界紙に寄せた佐々木さんの「平岡敏男を偲ぶ」(昭和61年8月6日死去、76歳)は名文であった。

 彼からあまりものを頼まれたことがないが、スポニチ新聞社の社長時代、息子さんの就職について相談された。“親父に似て正義感が強く行動的であろう”と思い、即座にスポニチへ入れた。数年前に定年退職した。もう一人の息子さんについても早稲田時代ラガーマンであり、卒業後TBSに就職、よい仕事していると嬉しそうに話していたのを覚えている。

 時は容赦なく流れる。彼が闘病生活を送っていると風の便りに知った。ここに彼の訃報を聞く(5月8日)。サッと一陣の風が体を吹き抜ける。人との巡り合いは不思議なもの。深く長く…あっけない。まことにさよならだけが人生であるとしみじみと知る。

 晩唐の詩人于武陵は詠んだ。「君に勧む 金屈巵 満酌 辞するを須(もち)いず 花発(ひら)けば風雨多し 人生別離足る」

 ここに佐々木叶さんのご冥福をこころからお祈りする。

(社会部同人 牧内節男)

<Mr.ロータリー>牧野 誠さんを偲んで

<Mr.ロータリー>牧野誠さんのおっさん力!

 富士スピードウェイ(静岡県小山町)で「ミスター・ロータリー」の異名を誇った牧野誠カメラマンに出会わないことはなかった。レースのない平日でも、である。密かに試走するマシンの取材・撮影をしていた。呆れたオッサン・カメラマンだった。

 超花形レーサー生沢徹と牧野誠と僕と3人が御殿場のホテルのバーで飲んだトキの大事件。

 JAFグランプリ決勝を明日に控えた夜のこと。当時のレースは様々モンダイを含んでいて選手たちは不満多々。酒の勢いもあり「明日さあ、問題提起したらどうよ、テツっちゃん、イワレタトオリノ選手宣誓するの? 造反しなきゃあ」。けしかけたのは牧野さんと僕。1970(昭和45)年5月のこと。これが大事件! 翌日の開会式、高松宮さまの挨拶直後に、生沢徹が本当にやってしまったのだ。「主催者にひとこと言いたい。ここまで努力してきた日本人レーサーが不当に扱われている!……ために選手宣誓を拒否します」。大観衆は「いいぞ、いいぞ」やんやの大喝采だった。こりゃあ社会面トップだぞ。勢い込んだ写真と原稿(電話送り)は最終版で「雑記帳」だったのが忘れられない。

 そんなこんなでその後、日本グランプリは不開催となった。そこに目を付けたのが毎日新聞社。河野一郎やらも絡んで一時期は富士スピードウェイ経営に毎日新聞社も係わった。排ガス対応などを理由に日産がレース参戦をやめるとトヨタも続いた。レーサー達の気持ちや志をよく理解していた牧野さんらが動いた。「時代は自動車メーカー主導から個人レーシングチーム中心だよナ」。大概が飲み屋談議だったが、富士スピードウェイ経営陣(毎日OBら)にも伝わった。こうして始まったのが我が社主催「富士グラン・チャンピオン・レース」(裏話をすればキリがないのでいきさつは省略)である。2座席レーシングカーやGTカー(市販車改造マシン)に乗るドライバーが主役のレースという路線を打ち出したこともあり、スポーツカーが若者を捉えた社会現象も手伝って年間6戦で総合チャンピオンを決する「富士グラチャン」は人気爆発、観客動員力バツグン。牧野カメラマンの「かっこいい写真」が紙面に躍った。

 折から「シグマMC74・ロータリー」という国産マシンが日本人ドライバーとともにフランスの「ル・マン24時間レース」に出場して初めて完走した(21位)。結果は完走車のなかでは最下位だったが、サルテ・サーキットでは「珍しいレーシングカーだ。573CCのロータリー・エンジンを2個積んだアイディアが面白い!」。エンジンも車体も日本製、ドライバーも日本人というシグマは話題を呼び、ヨーロッパ自動車メーカーを初めレース仲間の注目を集めた。チェッカーフラッグをくぐるなりドライバーは優勝車のようにシャンパンを浴びた。タイヤ破裂、電気系統故障、サスペンション不能、ハンドル破損などピットイン10時間以上の修理を交えての完走に「シグマ! シグマ! シグマ!」の連呼も浴びた。帽子も飛んできた。世界で一番の過酷な耐久レース……なんせ60万人が集まったウルトラ・イベントでの椿事?だった。

 そのル・マン現場から「ジャポネ 奇跡の完走」というタイトルで送稿してきたのが牧野誠特派員。延々と電話を受けて(未明の午前3時ごろ)記事に仕立てたのが僕。夕刊3面1ページを使っての大原稿であった(1974年6月17日付け夕刊)。以後、シグマ車は「富士グラン」にも度々出場、生沢徹をドライバーにして一世を風靡、自動車レースが一層華やいだ。こうしてマツダのロータリー・エンジンは一般車でも価値を高めた。断続的にもル・マン24時間レースに参戦し続けたマツダは日本の自動車メーカーとして唯一総合優勝(1991年)している(マシンは「マツダ・787B」、このときはドライバーは外人)。

 牧野カメラマンはマツダのエンジニア連中とは「ポン友」となり、メカニック並みの知識を豊富に持ち、レーシングカー世界の顔であり、取材に強かった。東京写真部も「特別配慮」するっきゃアない。牧野カメラマンは「ミスター・ロータリー」と呼称され、自らもロータリー・エンジンのスポーツカーを“何台か所有”し、日ごろもぶっ飛ばしていた。編集局の自由な時代の象徴的記者だった。

 牧野カメラマンは1973(昭和38)年から4年間、大阪本社写真部にいた。「毎日新聞ニュースサイト公式HP」のメニュー「めっちゃ大阪 関西50年前」という企画欄を見ていたら「池田市のガス爆発」やら「ヤンマージーゼル新人・釜本邦茂のゴールシーン」など牧野カメラマンの撮影した写真が掲載されているのを見つけた。どんなにして動き回っていたんかしら……なんだかね? 懐かしいような、哀愁に満ちているような。お亡くなりになった今、つくづく姿を思い出す。

 生沢徹とともに人気を博していた風戸裕と鈴木誠一が富士スピードウェイのスタンド前でポジション争いから接触してフェンスに激突炎上、二人とも死亡した事故(1974年)の生々しい写真(死体の写っている写真は紙面不掲載)は、某理由(いわく)があって僕の家の額に入れて、当時からずっと飾ってある。牧野カメラマンは定年後も長谷見昌弘、高橋国光、津々見友彦といった往年のドライバーと出会い、昔噺に興じていた。撮影魂とともに彼の自動車レースに対する執念深さは人並み外れていた。

(諸岡達一)

人生を多彩に生きた波多野裕造氏

波多野裕造氏(2011年ギリシャで。彼は午年)

 4年前に出た、親しかった73人の文集「大森実ものがたり」に、波多野さんが毎日入社4年目(1957年)に米国留学した当時の大森さんとの出会いを書いた「授賞式で“黒田節”を歌う」の一文がある。大森ニューヨーク特派員は彼に大量の署名企画記事を翻訳してもらい、米大学の外国新聞記者賞を獲得、一躍世に名を馳せた。 ―授賞式から戻った大森さんの話である。「授賞式はよかったんやけどなあ、賞もろうた記者はみなスピーチさせられたんや。しやぁないから、ワシは檀上で日本文化紹介するゆうて、黒田節歌うてやった。アッハッハッハ……」いかにも大森さんらしいエピソードである―と彼は大森さんを描いている。

 大学生で毎日新聞社主催マッカーサー杯英語弁論大会優勝。英語は堪能だったが、文章も上手だった。留学後、ワシントン特派員を勤めて帰国、政治部配属直後の1960年10月日比谷公会堂で、浅沼稲次郎社会党委員長が演説中に少年に刺殺される事件をすぐそばで取材する幸運にも恵まれたが、1975年、彼の人生を大きく変える転機が訪れた。毎日新聞社の経営危機である。彼は45才。外務省にスカウトされて外交官に転身した。振り出しがエジプト大使館の次席公使。アラファト議長のPLO(パレスチナ解放機構)とコンタクトを付ける密命を帯びたこともあったらしい。英国公使、アイルランド大使、カタール大使などを勤めた。

 あれは平成最初の秋の園遊会、外交官の彼ご夫妻と久しぶりに会った。海外勤務を終え、居合い抜き道場で体を鍛えていた。まもなく退官して白鴎大学(栃木県小山市)教授に。「物語アイルランドの歴史」など著書を残している。新聞記者―外交官―大学教授と渡り歩きながら、どこでも休みなく走り続けた。お互い忙しく、毎日の同期生でありながら、茨城古河市に住む彼と年に一度の年賀状のやりとりだけになった。数年前「人生は楽しいよ」と何やら調子が変わったと思ったら再婚。ご夫婦の楽しげな写真入り年賀状が届くようになった。今年は杖つきやつれた写真に「蒼空に翼拡げて飛びたたん 不死鳥のごと限りなきときを」の短歌を添え、本当に飛び去ってしまった。2月17日、享年86才。

 彼の毎日退社は利己的な転身ではない。外務省にスカウトされたのは2人。石塚俊二郎氏は外務省付属機関「日本国際問題研究所」専務理事になった。会社は経営難で退職勧告もした。2人ともこれからの時期に、後ろ髪引かれながら率先して退社した。前述の「大森実ものがたり」には大森さんの毎日新聞“復帰”を思いとどまらせるべく1974年秋、関口泰外信部長と軽井沢滞在中の大森さんに会うため夜を徹して車を走らせた話が書かれている。「当初は激怒した大森さんは私も社を辞める氣で居ることが分かると私に私心がないことを理解してくれた」とある。私はまだモスクワにいたが、当時の状況から見て、彼らの判断は全く正しかったといまでも思っている。

 毎日にはこのように人生を豪快に渡り歩いた仲間がいたことも記憶に留めておいてほしい。

(平野 裕)

玉置和宏氏の追悼文

 玉ちゃん、苦しかったね。本当にご苦労様でした。昨年4月6日、野田市の小針病院にお見舞いに行ったとき、玉ちゃんはやせ細り、苦しそうに息をゼイゼイ吐きながら、会話もほとんどできませんでした。以前玉ちゃんが食道がんの大手術をしたとき、築地のがんセンターに見舞った際は、「たばこはダメだよ」というと、「まあな」とはぐらかし、ずっと元気だったのに・・。後に玉ちゃんは「食道から癌を30数片、とったのだよ。学会でも報告された」と、むしろ楽しそうに話しました。玉ちゃんと僕の縁は深かった。経団連の記者クラブで初めて出会い、ウマが合ったのでよく酒を飲んだ。次に経済企画庁のポストを玉ちゃんが去った後、それを僕が引き継ぎ、玉ちゃんが日銀キャップになった時、僕はサブでした。この時代一番の問題は、森永総裁の後を誰が引き継ぐか。玉ちゃんも僕も、胃がキリキリ痛む思いでした。しかしさすが玉ちゃん、最後の土壇場で毎日新聞の最終版に「後継は前川氏」を打ち込みました。脱帽です。経済の論説委員も二人だけで、しばらくの間、すべての経済分野をカバーして書きましたね。愉快至極でした。最近は月に1,2回、日本記者クラブに行くと、決まったように玉ちゃんと出会い「村ちゃん、ワイン飲もうか」。実に楽しい思い出になっています。 合掌。

 *29年2月17日逝去、享年78歳。

(村屋勲夫)

「高橋正賢さん」追悼録

「S・ライターズ」の選手名鑑から。

 「セイケンさん」。この人を「高橋さん」と呼称する人はモグリです。「マサカタ」なんていう正しいヨミは誰も知りません。舌ア噛みます。セイケンさんが社会部から整理部に異動して来た(1962年=昭和37・有楽町時代)とたん、大革命を企て……いや、超革命を起こしたのです。紙面改革でも新聞整理のやり方でも、新風を吹かすヌーベルバーグ見出しを付けたのではありません。野球部のユニフォームを揃えたのです。それまでは運動靴に白いシャツかなんかでまちまち……ステテコで2塁に滑り込んだヤツもいました。セイケンさん一声「15着揃えましょう。スパイク履きましょう。ミットやバット揃えましょう」。即座に監督の座も奪い、石神井球場(毎日新聞社員クラブ)で特訓合宿までしたため昭和38年社内野球大会は準優勝でした(Bクラスですが)。 その勢いで、スポニチ、産経、報知、朝日、東京タイムス、デーリースポーツ、読売、日本工業、日経、共同通信、日刊スポーツ、日本工業、毎日……各社整理部対抗野球リーグ戦を仕組んだ一人でもあります(いまじゃあ、信じられない大がかりなリーグ戦で、審判員は各社が回り持ちで試合ごとに3人ずつ派遣しました)。

 整理部OBの集いで、つい先日(2015年春)お会いした時も「人工透析は一日おき、ナイター中継は毎晩。モロちゃん、大谷(翔平=日本ハム)はイイねえ」。野球人間は《永久に不滅です》もんね、セイケンさん、さすが!です。

 セイケンさんは身長171センチ・80キロ(当時・会社の身体検査)、肉体美?を誇っていたせいで、オリンピック面は昭和39年の東京五輪から殆どを担当、運動面整理の「セイケン」を握っていました。ウインブルドン・テニスでコート夫人がキング夫人を倒して三冠王を達成したときの決勝戦……『美しく長かった2時間27分 強きもの汝の名は女』という美しい見出しを付けた(と、記憶しています)。札幌オリンピックでは「可愛いジャネット・リンが……」「……ジャネット・リン可愛いねえ」と連日大騒ぎ「あんな可愛いい転倒はないですよ。フィギュアスケートの審判は見る目がないですね」を連発していました。可愛い系の女性が好きでした。奥様も当然とても可愛いかたで、それが自慢のタネでしたね。セイケンさんは言葉も丁寧で先輩にも後輩にも「俺」でなく「僕」。「だよ」ではなく「です」でした。生まれながらにして笑顔に印刷されていたのでしょう……目や口の配置がやわらかく、心も優しいく誰にでも愛されました。

 ガキ時代から野球に興じ、東京中野区の神明国民学校から府立10中(都立西高)→慶應義塾大学では硬式野球部を窺いましたが、山村泰弘(首位打者)、岩中英和、吉岡宏ら格違いの強打者が揃っていて「こりゃあダメだ」…………「こっちがちょうどよいですね」と言って準硬式野球部に入り野球を続けました。そんなわけで、編集局でも仕事姿よりはユニフォーム姿のほうが似合う人でした。

 出番係が「インチキしてくれて」セイケンさんは社内野球や各社対抗戦には毎試合出場しました。コントロールのよいピッチャーでしたが肩が衰えてからは三塁手、バッターは4番が定位置でした。運動面の開祖者(故・高原誠一さん)に「バッチングで凡打が多いのは腰の回転が変だよ」と指摘されて奮起、各社対抗戦では肝心な場面で打点を挙げる猛打ぶりを見せるようになりました。福島支局長から社報編集長になり定年を迎えました。整理本部は真夏の休刊日を丸一日「セイケンさん引退試合」と銘打って紅白戦を開催しました。吾妻橋際でのビール会では涙々々、感極まって飲めないのに酔いつぶれました。

 整理部野球部の背番号は「18」。「僕は、野口二郎が好きなものですから……」(野口二郎は投手で1シーズン19完封という記録を持ち、打者では31試合連続安打、長打率+出塁率が5割9分4厘という強打者)。野口二郎にあやかっての背番号を選ぶなんて「ただの18番とは18番が違うね」と感じ入ります。後年所属した大東京竹橋野球団「S・ライターズ」では背番号「15」。 「へへへ、これ西沢道夫ですよ」。西沢もまた大投手で強打者。野球は二刀流でなきゃあ……セイケンさん、黄泉野球団では背番号「11番」を付けているんじゃあないかしら、ね。「はじめまして。えー、みなさんっ、大谷翔平って、見たコトないでしょう。11番なんですよ」。得意気に目許を弛ませながら、人なつこいあのスマイルで新入りの挨拶してますよ。

(諸岡達一)

多門さんと黄色の鉛筆 森 浩一

 多門一條さんが亡くなった知らせを受けた夕刻、私はいつになく酒を2合ほどのんだ。そうせずにはいられない気持ちだった。多門さんの黄色い鉛筆が脳裏を行き来して、鉛筆の形は次第にはっきりしてきた。

 編集局で夕刊当番のとき、山内大介社長から電話があって、すぐに伺うと、経営企画室に、と内示があった。しばし私は言葉を失った。5階の総務局、経理局、経営企画室について私はまるでうとかったからである。しかし、5階全般の仕事に精通し、バランスのとれた考えを持っていた多門さんのおかげで、私はスムーズに仕事に入ることができたのだった。

 経営企画室は簡単に言えば役員会の事務局である。取締役会、常務代表会にかかる稟議すべてにかかわって仕事をしている。稟議書の原案を作るとき、計画を練るとき、多門さんは細い罫のA4紙を使い、手には片方に消しゴムが付いた長い黄色のTombow鉛筆を持っていた。たいてい新しいのを削ったばかりのものだった。これは多門さんが仕事に向かうときの態度を示していたのだと思う。書いては、これは?というところは、指で鉛筆を前方に半回転させて、消しゴム使い、また書き進める。そのころからもう四半世紀がとうに過ぎて、多門さんは逝ってしまった。

 当時、全国紙は印刷分散工場突入時代を迎え、わが毎日も福島、厚木そして北海道や大阪、九州へと工場建設を広げた。厚木の土地の物色、交渉には多門さんも加わった。大阪新社屋移転も顕在化、堂島社有地の売却と新社屋用地の取得、建設へと困難な課題への全社的な取り組みとなり、新しい長期計画の策定に迫られた。多門さんたちと合宿して計画を練った。忙しい、しかも秘匿を要する仕事を抱えた経営企画室だった。

 やがて編集局に戻った私は多門さんに編集総務部長をお願いした。その人柄と経験、事務能力にたけた多門さんに編集局内の予決算や事務上の見直しを一度してもらおうと思ったのであった。

 いまから2、3年前だったかと思う。久ぶりに多門さん、長崎和夫さん、三村泰史さん、私の4人で昼食を共にした。透析しているときを除けば普通の生活をしていますよと、多門さんはビールを少々口にした。それが多門一條さんとの最後になった。

 仕事をしていたころに戻ろう。ありがとう、多門君。

*1月7日逝去、享年80歳。

(森 浩一)

追悼 早川仁朗さん 和田之宏

 短い研修のあと、私は横浜へ、早川さんは遠く青森の、それぞれの初任地に散った。それ以降、互いに相会う機会もなく、音信はあるものの、十年、いやそれ以上の年月が過ぎて整理部で再会したのだ。それは有楽町でのことだったか、それとも竹橋だったか。整理部で私は軟派、早川さんは硬派面の担当で、近くて遠い友のようなものだった。しかし、早川さんの一本、芯の通った硬骨ぶりは見習うべきものであった。

 思い返してみる。私がまだ駆け出しのころ「サンデー毎日」に書いた記事を見て、青森から手紙をくれたのだ。「読んでいるよ」と。早川さんは誠意あふれる人なのだ。

 有楽町の夜、つるんで飲んだような覚えはない。ちょっと残念だが。しかし、私は早川さんに厚い信頼を寄せ、同期のよしみを頼りに、仕事上の相談をよくもちかけた。私の整理本部長時代のことだ。早川さんはよき助言者だった。

 川の流れ、時の流れを私と早川さんは、硬派と軟派それぞれの地点でみつめていたことになる。田中ロッキード事件など遠い昔のことになってしまったが。 

 早川さん、やすらかに。謹んで哀悼の意を捧げよう。

*1月1日逝去、84歳。
1956(昭和31)年に毎日新聞社入社。東京本社整理本部長や同編集局次長。
94年下野新聞社長。

(同期生 和田之宏)

青木利夫さんを偲んで 小元 広悦

 数年前の今じぶん。「厄払いの誕生パーティーでもやろうか。隣の金さんも呼ぼうか」と、バカ話をした記憶がある。年こそ違え、誕生日は、青木さんが1月7日、私が1月8日、金正恩・労働党委員長が1月8日(?)。

 そんな冗談はさて置いて、78歳の誕生日のこの日、どこまで行ったのだろうか。故郷の伊豆の空か、愛してやまなかった母校・韮山高等学校のあたりか。

 青木さんとの初対面は、半世紀以上前の昭和40年の夏。青木さんは町田駐在から警視庁5方面のサツ回りへ。私がその後任で町田駐在へ。その事務引き継ぎが8月1日だった。

 当時の多摩地区は開発が急で、人口も2〜3倍に膨張しかけていた。青木さんは、その変化の数々を数字で説明してくれた。ワープロもパソコンも出現前の時代である。私は、多摩の膨張よりも、青木さんの緻密さに驚いた。数年して青木さんは遊軍席の一員に。衆参院選、都議選がやってくるたびに、データ収集管理の技が光った。それも手書きの技である。誰言うなく”社会部の選挙事務局長”。

 青木さんの亡き父親ゆずりの会員権を頼りに、青木、山田尚宏(当時、経済部)、中田章(政治部)、小元(社会部)の4人で30年近くも毎夏那須通い。

 那須与一にあやかろうと「よいち会」と名づけたのが悪かったらしく、結局、青木さんだけが平成19年3月14日、大宮カントリーでホールインワンが叶えられ、「よいち会」は幕を閉じようとしている。

 平成28年12月16日、青木さんが入居のホーム近くの居酒屋で3月の花見を約束して4人は別れた。その2週間後の29日未明、青木さんは心筋梗塞で旅立った。奥さんの敏江さんによると、枕元の新年用の日記帳には「1月―白内障手術、健康診断……」ときれいな字でメモしてあったそうだ。

 12月29日逝去、享年78歳。

(小元広悦)

吉村正治さんを偲んで 米津 孝

写真部OB会で(2012年6月パレスサイドビル「花」)

 私が入社した昭和27年。写真部は大型カメラ「スピードグラフィック4×5」(スピグラ)が主流で、取材に出掛ける時は、最新型のアメ車。航空写真も始まっていて、時代の先端を行くスマート職場でした。

 3歳年上だが、若くして入社した吉村さんは10年先輩。働き盛りで新しい紙面づくりの担い手でした。スマートな吉村さんの襟に色鮮やかなネッカチーフ。「カッコヨカッタ」。

 昭和20年5月25日夜半の空襲で当時有楽町にあった本社も新館のプラネタリウムに焼夷弾が落下、炎上した。3月10日の大空襲の時もそうだったが、空襲のたびに屋上にカメラを持って上った。

 昭和23年7月1日毎日グラフ創刊。表紙は高峰秀子。先輩カメラマンの助手をした。

 昭和27年5月1日皇居前広場の血のメーデー。スピグラで3枚撮り、夕刊最終版に間に合うと社に駆け戻った。

 東京写真部OB会が出版した「【激写】昭和」に吉村さんの証言が載っています。戦中・戦後の生き証人でした。

 昭和39年の東京オリンピック前、アメリカ特派員で取材された中の1枚、ロサンゼルスの高速道路をチャーター・ヘリからの空撮写真は、とりわけ印象深い。自信に満ちた吉村さんの取材姿勢に、自分の夢が託されていく幸わせ感を持ったものです。

 ビジュアル化していく紙面のデスク時代、取材を指示する立場にはご苦労が多かったと思います。

 そのあと出版写真に移って、新聞写真と違った息の長い仕事に手本を示して頂きました。歌人の塚本邦雄氏との長い付き合いもその一つだったでしょう。最後までスマートな姿勢に、変わりありませんでした。

 定年後、OB会運営にも精力的で、若手論客との写真談義は毎回楽しみでした。

 今夏庭で転んで骨折し、入退院を繰り返した時も、リオ五輪のTVにシャッターを押していたそうです。あやかりたい終わり方です。それを追いかける私…。

(米津 孝・88歳)

粋狂な自由人・青野丕緒さん安かれ 大島 幸夫

 身過ぎ世過ぎは草の種とは申せ、70~80年代のサンデー毎日編集部には一癖も二癖もある個性派ライターが机を並べていた。その一角で才気煥発の異彩を放っていたのが青ちゃん(と呼ばせてもらう)だった。

 当時のサンデーは、毎週の締切出稿日ごとに三々五々部員たちが新宿2丁目の巷に繰り出し、花嵐館、ライブラ、ユニコンといったひいきのスナックで酒宴を構えたものだったが、青ちゃんは得意のギターを抱えるなり、ジャーン!と絃をひと掻きして『兄弟仁義』を健サンよろしく「オレの目を見ろ、何にも言うな…」ときたモンだ。

 カラオケなんぞまだなかったころである。音痴もダミ声もあったものか。各自興じるままに持ち歌を歌い尽くしては朝まで呑んで、呑まれて、また呑んだ。

 徹夜の呑んだくれギタリストは札付きのサユリストでもあった。それもそのはず。吉永小百合さんとは幼稚園から小学校もずっと同窓で、幼少のみぎり、学芸会の初共演者同士だったのだとか。

 筆者にとっては得がたく貴重な人生の共演者だった。拙宅が思わぬ火事に被災した当の夜、焼け残った部屋の石油ランプの下に見舞いの寝袋を並べてくれて語り合った相棒も青ちゃん。気一本な友情が半端ではなかった。

 いたずら小僧の茶目っ気をほの残し、鬼面人を威(おど)す遊び心も備えていた粋狂な自由人は、毎日グラフ、アミューズ各編集長から江戸川大学教授に転じていたが、16年1月、何を急いだか、突然、鬼籍に。墓参の日、斎場は鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)として、参集した多くの毎日同人がその人望を偲んだのだった。  

(大島幸夫)

塚本哲也さんを偲ぶ  黒岩 徹(元ロンドン特派員、日本記者クラブ賞受賞)

 1968年8月、ソ連軍がチェコに侵入し、プラハの春を潰しました。そのとき、外信部の新人として配属された私は、塚本哲也という名前入りのローマ字のテレックス文を日本語に書き換えていました。毎日プラハからやってくるその文を読んでいると、この記者が事実を直視し、かくまで人の心に入る記事を書いているということに驚きを覚えました。ここにジャーナリストの鋭い目があると感嘆しました。

 それから何十年後かにお会いして話し合っていたとき、塚本さんは、40年も前に訪れたウィーンの居酒屋の情景をこと細かく語ってくれました。その観察力と記憶力は作家のものだ、と感じ入ったことがあります。塚本さんは、このジャーナリストと作家の二つの目をもって、講談社ノンフィクション賞をとった「ガンと戦った昭和史」と大宅賞を受賞したベストセラー「エリザベート」を書きあげました。

 凄かったのは、その後です。脳出血で倒れ半身不随になったにもかかわらず、「マリー・ルイ―ゼ」「メッテルニヒ」「わが家の昭和平成史」という大著を出版しました。なんと左手の人差し指一本でパソコンを叩いてつくりあげたのです。ここに持って参りましたが、これらの本の分厚さは、枕にするには高すぎるほどなどです。鋭いジャーナリストと細部まで見通す作家の目があってこそできたことでした。

 その目は優しかった。塚本さんの著書や新聞に書いた文を読めば、その書き手がいかに優しさに溢れていたかが分かります。人間関係においても優しさを見せました。心ならずも女子大の学長を引き受けたのも、間に立った方を傷つけてはいけない、という思いやり、人の立場を思う優しさからでした。

 卒業式で塚本学長が語った「レントゲンの娘」の話は、いまなお心に響いています。

 X線を発見したレントゲン博士は、ドイツ最大の電気会社から共同開発と特許取得の申し出を受けましたが、「私の発見は全人類のものだ。一個人の利益を求むべきではない」とこれを拒否しました。その70年後、塚本さんは、養老院にいた高齢のレントゲンの娘にインタビューしたのです。そのとき、レントゲンの娘はこう言いました。「父があのとき、大会社の特許をえていたら、私はいまごろお城のような家に、たくさんの人にかしづかれて暮らしていたことでしょう。しかし今はこうして一人で暮らしています。それだからこそ私は感謝しているのです。父は身をもって私に、自らを捨てて、人のために生きることを教えてくれました」。

 塚本さんは、その話を新聞に書き、女子大生に語りました。塚本さんがレントゲンの娘の言葉に深く感動したのは、心の美しさ、清らかさに感動する心をもっていたからでしょう。

 いや塚本さん、あなた自身の心が美しく清らかだったからでしょう。80歳を超えてなお亡きルリ子夫人への清らかな愛を話していたのは、塚本さん自身の心の清らかさを物語っています。

 塚本さんと会うとき、よく「レントゲンの娘」の話が出ました。そして「レントゲンの娘」というタイトルでもう一冊本が書ける、その草稿の90%は頭の中にある、と語っていました。できることならこの本を書かせてあげたかった。書く時間と力を天が塚本さんに与えてほしかった、それが残念でなりません。

 塚本さん、あなたは、素晴らしいジャーナリストであり、素晴らしいノンフィクション作家であり、素晴らしい教育者でありました。そしてなによりも人として心の美しい清らかな方でした。安らかにお休みください。

(黒岩 徹=11月26日イグナチオ教会で行われた葬儀での弔辞)

上田さんの背中

 今から45年ほど前、私がまだ若輩の外務省詰めの政治部記者でしたが、このさなか沖縄の返還機密を漏えいしたとする「西山事件」が起こります。舞台は外務省でしたが、国会や世論を騒然とさせた一大言論事件です。この時の政治部長が上田健一さんでした。

 事件後私も外務省内で露骨ないやがらせを受けたりしますが、上田さんのご苦労に比べたらものの数に入りません。詳しい経過等は「毎日の三世紀」(毎日新聞社史)などに譲りますが、事件を起こした西山太吉さんは結局は、上田部長にすべてを話さなかったようです。そこを突かれて検察からとんでもない反撃を食らい、ひどいゴタゴタの末、一年たらずで部長辞任のやむなきに至るのです。

 しかし上田さんは終始西山さんに、恨みごとなど一切いいませんでした。あくまで西山さんを信じ、あとは自分の責任だと最初から心に堅く誓っていたようです。

 私ものちに部長となり役員となり、関係会社の社長などになります。いずれもどうにかやってこられたのは、そうした上田さんを何かにつけて思い出したからです。

 後輩たちを信用せず、責任だけ彼らに押しつけて平然としていたら、誰も決して動きません。

 上田さんの背中は、ことのほか大きなものでした。改めて心より感謝申し上げ、私の最後のお別れのご挨拶とさせていただきます。

 合掌

(上西朗夫)

菊池 哲郎さんを偲んで     岩尾光代

 文京区の護国寺桂昌殿で執り行われた菊池哲郎さんの通夜の席では、往年の名記者たちが、みんな哲郎さんがいなくなったことを知らんふりするように、元気にふるまっていた。哲郎さんを愛した仲間たちの、ほんとうは悲しみいっぱいの「送別会」だった。

 哲郎さんは、論説委員長、常務・主筆と要職を駆け抜けて、六十八歳で亡くなってしまった。

 出版局がパレスサイドビルの九階にあったころ、哲郎さんがエコノミスト編集部へやってきた。私は隣りの毎日グラフ編集部にいた。エコノミスト編集長が菊池敬夫氏だったので、菊池部員は名前で呼ばれるようになって、それは亡くなるまで変わらなかった。

 彼がロンドン特派員になった。ソレッとばかりにエコ編集部にいた中村淑子さんと私は、ロンドンに出かけて菊池家に泊まり、楽しい三日間を過させていただいた。

 帰国した哲郎さんに『アミューズ』誌上で連載をお願いして、のちに単行本にまとめたが、タイトルは、『ヒトはかならず死ぬのだ』。しかし、著者がこんな急ぎ足で消えてしまうなんて、想定外もいいところだ。

 哲郎さんは「ユニーク」だと評されることが多かったが、本人は自分こそが「あたりまえ」だと信じていた、と思う。そして、友たちを、終生変わらずたいせつにした。

 のんびりした福島弁が、いまでも聞こえてくるように思って、振り向いてしまう。

 ありがとう哲郎さん!

(岩尾光代)

「ベビーギャング」上妻教男さんを偲んで

 大阪社会部19年10か月。歴代No2と紹介された。その童顔とお茶目ぶりから「ベビーギャング」。

 上妻(こうづま)教男(みちお)さん(8月31日没、81歳)を偲ぶ会が11月21日(月)夜、毎日新聞大阪本社向かいの「ガーデンシテイクラブ大阪」で開かれた。参加80人余。 

         

 遺影の脇に社会部長時代の日誌2冊。1979(昭和54)年1月28日(日)のページに「三菱銀行事件犯人梅川昭美逮捕am7.42」。どうやら資料収集魔だったようで、日記帳は学生時代から、阪大の合格通知や大学新聞時代の名刺もあって、会場で配られた小冊子に幸代夫人が「遺品でゴミの山」と嘆いている。

 そのうちのネクタイ約70本が並べられ、「よろしかったらお持ち帰りください」。

 

 大阪スポニチ社長退任後、「ジャーナリズム研究 関西の会」代表幹事をつとめた。

 〈生き生きとしたニュースを追い、掘り下げて、単に「読まれる新聞」というだけでなく「読まざるを得ない新聞」づくりを心掛けます〉

 社会部長時代のもので、「地をはう社会部記者でありたい」「瓦版づくりの精神で」と見出しがついている。

 偲ぶ会では、毎友会(大阪)会長の迫田太氏が呼びかけ人代表で挨拶。河野俊史スポニチ社長が献杯、北村正任元毎日新聞社長、川島慶雄大阪大学名誉教授が思い出を語った。最後に幸代夫人。「 2020年東京五輪まではといっていましたが、叶いませんでした」

(堤 哲)

「小柄な大投手」末吉俊信氏を偲ぶ

 東京六大学で通算44勝(20敗)。そのうち早慶戦で最多の11勝。優勝投手に5回輝いている。ことし野球殿堂入りした山中正竹(法大)の48勝、江川卓(法大)47勝に次ぐ歴代3位の記録を持つ。

 小柄なアンダースロー投手。直球に伸びがあり、コントロールのよいカーブ、シュート、シンカーが小気味よかった。「ミラクル投手」と呼ばれた。

 1952(昭和27)年早大卒、毎日新聞入社。毎日オリオンズ球団に出向し、投手として3年間プレーをした。通算8勝12敗。入団1年目にはオールスター戦に出場している。

 駆け出しの社会部では上野署のサツ回り。1955(昭和30)年11月から運動部で野球担当記者となった。社内野球ではむろんエースで、優勝に貢献した。そして1967(昭和42)年に退社して、伊勢丹系列のファッション店役員やスポーツクラブの社長を務めた。

 人柄がよく、誰もが「スエさん」と親しみを込めて呼んだ。

 訃報は6月4日付運動面に載った。3か月も前の2月24日死去、89歳とあった。簡単な略歴があるだけで、追悼の談話もないあっさりしたものだった。

合掌 

(堤 哲)

元東京事業本部次長 稲田威郎氏を偲ぶ

 展覧会づくりのプロ・稲田威郎さんが5月24日急逝した。76歳だった。

 1989(平成元)年3月、「モネとその仲間たち展」の成功で社長賞を受けている。同展は茨城近代美術館の開館記念展に合わせて企画したものだが、そのあと福島、京都の美術館を巡回、大きな収益をあげた。

 事業本部次長で定年退職後、東京駅ステーションギャラリーの副館長に迎えられた。2006年3月に東京駅の創建時復原工事のため一時閉鎖されるまで、11年間も務めた。美術界の大御所・高階秀爾さん(大原美術館館長。文化勲章受章者)の推薦だというから、その「実力」を認められたのだろう。

 国会図書館で資料検索すると、稲ちゃんの多彩な仕事ぶりが分かる。「建築家前川國男の仕事」「国芳暁斎なんでもこいッ展だィ!」「20世紀を生きたモダニスト : 猪熊弦一郎展」「真鍋博展」「浮世絵アヴァンギャルドと現代」「 浮世絵に見る幕末・明治期の世相」「山口薫展」……。

 亡くなる1か月前、東京駅前でばったり会った。相変わらず腹は出ていたが元気そうだった。「磐さん(根上磐)、富さん(久富勝次)と事業本部長が次々と亡くなり、寂しくなりましたね。これからステギャラのプレビューを覗いてきます」と別れたのが最後となった。

合掌 

(堤 哲)

井草隆雄さんを偲んで

故根上磐さんを偲ぶ会で(2015,7,22)

 井草さんが千葉支局長時代の支局メンバーで年に何度か「千葉井草会」を開いている。兵隊頭?の高木康紀さんが音頭をとり、千葉県新浦安のホテルで食事をしながら、思い出話や近況を語り合ってきた。今年の4月2日、当時、三席の冨田淳一郎さんが福岡から上京したのを機に会を開いた。井草さんは昨年11月から胆管を患い入退院を繰り返していた。「這ってでも行く」と言っていたのに、当日の昼頃、「新しい杖を買ったけど、ふらふらするので、失礼する。皆さんによろしく」と高木さんに電話で伝えた。会は井草さんの支局長時代の話で盛り上がった。翌日、高木さんは冨田さんからの博多土産をお宅に届けた。入口でパジャマの井草さんはかすれ声で「悪いな、こんなにやせちゃったよ」と言い、「必ず治るからよ」と微笑んで右手をあげた。

 群馬県前橋市出身で東京外国語大学イタリア語科卒、東京新聞を経て、昭和42年10月毎日新聞に入社した。36歳の青年は髪を七三にわけ、上質のスーツとピカピカの靴で決め、当時の社会部長が「こんな身ぎれいな記者は社会部史上初めてだ」と感嘆した。私は、43年9月に警視庁クラブに上がり、交通担当となったが、井草さんは花の捜査一課三課担当。フチなし眼鏡でイタリア語、英語をしゃべるダンディ男は銀行員か商社マンが似合った。でも、上州なまり?のしゃべり方が野性味を感じさせ、麻雀、花札など勝負事も強く、いつしか「イタリアのペテン師」と仲間内で呼ばれるようになった。

 警視庁キャップ、社会部デスクと社会部の本流を歩み、千葉支局長に。54年8月、私は社会部から千葉支局次長になり、二度目の同一職場となった。井草さんは、部数と広告を伸ばすためどんどん社外の知己を増やし成果を上げた。人事管理でも気を使っていた。初の女性記者が赴任した時は「この業界(マスコミ、警察)は男社会だから、目立つ格好はしないように。特に、スカートははかないこと」とまじめな顔で説 いた。夜は、若い支局員ともども、よく、慰労と称して飲みに連れて行ってもらった。割り勘話を持ち出すと上州やくざの口調を真似て「お前さんよ、親分に恥をかかせちゃいけねえよ。金は天下の回り物。生きているうち使わにゃ」と笑った。 井草さんは、有り金を使いきって天国に旅立った。6月6日死去。ありがとうございました。

(沢畠 毅)

四方洋さんを悼む

四方洋さん
4月29日死去。葬儀は東京麹町の聖イグナチオ教会で5月3日。享年80歳。

 四方洋さんは肩書に「元サンデー毎日編集長」を使うことが多い。例えば、国土交通省の平成27年度河川愛護月刊「絵手紙」の審査員を務めた際の肩書もそうだ。JR東日本がこの4月から山手線で新しい情報提供サービスを始めたが、その検討会には「ジャーナリスト」として名を連ねている。

 とにかく原稿を書くスピードが速かった。それでいて流麗な文章であった。そんな文章力は京都大学新聞時代に培われたものなのだろうが、名文家の一人であることは間違いない。確かに、サンデー毎日編集長につき、定年間際には学生新聞本部長も務めた。サンデー毎日の編集長といえば、世間には受けがいい。しかし毎日新聞社内では優遇されたとは言い難いのではないか。

 「文化放送番組史」番組列伝によると、1983年は「おはようキャスター四方洋です」が掲げられている。82年「中島みゆきの世界」「野沢那智の東京サンセット」「ユーミンランド」、84年の「伊東四朗のあっぱれ土曜ワイド」「夢口上武田鉄矢商店」にはさまれて堂々たるものだ。86年「落合恵子‥‥」87年「小倉智昭‥‥」と続くのだ。

 四方洋という人物の一番のすごさは、彼を取り巻く人の輪の厚さだろう。四方洋さんを兄貴分とも言うべき存在としている瀬下恵介さんが「故岩見隆夫から『四方の人脈はすごいぞ。なにかあったら頼れ』とアドバイスされたことがある」と書いている(2016/5/3『ペン森通信』)。

 人脈はただ取材して書いているだけでは培われない。四方洋さんは一度会った人間を取り込む名人だった。一対一でのつながりを作るだけではなく自分を中心とした輪として形づくるのである。その輪が日比谷一水会であり、ニュース研究会であり、八方会であり、丹水会であった。1980年代以降、このようなネットワークづくりにいそしんだ。

 例えば、ニュース研究会は日本の有力企業数十社の広報マンをメンバーとしていた。毎月の定例会には権力の中枢にいる政治家やその取材に明け暮れる政治記者を招いてオフレコ懇談会を開いた。企業が新聞社との窓口にしているのは広報部であり、新聞社にとって企業取材の入り口が広報である。両者の関係は繋がれるべくして繋がれたといえよう。

 現在は一流企業の会長を務めている人物を応援するためにある会をつくって社長就任を応援したこともある。「そば会」という会もつくったが、これはのちの「月刊めん」編集長や季刊蕎麦春秋編集長の肩書につながった。

 毎日新聞社は四方洋さんの人脈を頼りにしたことはあるのだろうか。そんなことを考えながら四方洋さんを悼みたいと思う。

(澁澤 重和)

高山武久氏(元大阪総合企画本部長)を偲ぶ

高山武久氏

 毎日新聞OBで元日本高校野球連盟副会長の高山武久さんが4月22日、急性膵炎のため亡くなった。74歳だった。

 ブーちゃんは富山支局から大阪社会部。街頭班(サツ回り)で一緒だった。小柄だが、いつも背筋をピンと伸ばし、生真面目な信州人そのものだった。整理部に異動して、運動面の担当になると、面白い見出しづくりに格闘した。

 著書『G線上のアリャリャ!』(2006年たる出版刊)に詳しいが、例えば――。

 秋の日のダメ虎の身にしみて ひたぶるにうら悲し

  ポンポコ5発 江川KO
     広島アーチ攻勢 10点
   みんな打ってコイコイコイ
                           2007年3月27日センバツ
  投壊の虎泣き濡れて7連敗              開会式(甲子園球場)当日
                               といった具合。

 当時朝刊1面に塚本邦雄のコラム「けさひらく言葉」が連載されていたが、運動面にどんな見出しが躍っているか「けさひらく運動面」と社内で話題になった。

 総合企画本部長で定年後、スポーツニッポン新聞大阪本社の取締役から日本高野連の副会長。最近はもっぱら絵筆を楽しみ、ことしの年賀状には日曜画家展で佳作賞「ジャズの夕べ(ニューオリンズ)」とともに収まった写真と、草花の水彩画が添えてあった。

                                     合掌

(堤 哲)

久富勝次さんを悼む

杉山和一郎さん

 久富勝次氏が秘書室に入ったのは平岡敏男社長就任直後の1976年(昭51)夏。岩見隆夫秘書室長後を継いだのが80年12月平岡会長-山内大介社長の体制下、毎日新旧分離方式による再建が本格化したころ。それから平岡会長、山内社長が続いて世を去り、渡辺襄社長時代を含めて約15年、毎日の最も大変な激動の時代に経営トップの分身となって獅子奮迅の働きをしたのだった。

 享年72歳で4月7日亡くなった久富さんの10日の通夜と翌朝の告別式会場になった築地本願寺・和田堀廟所には生前の仕事ぶりを彷彿させるように社外の多様な分野の顔ぶれが参列した。本社関係も最終職場スポニチの新旧幹部はじめ、毎日でも若い頃からの組織を超えた出版、編集、事業、営業、英文毎日などの同僚たちがやって来て、押しと粘りは強いが人情味豊かだった彼の余りにも早い旅立ちに悲しみを分け合いつつ別れを惜しんだ。

 久富さんの父君は戦争中に東京日日新聞(現毎日新聞)政治部長を務めた久富達夫氏である。昨2015年夏、NHKの終戦記念特集で、終戦直前の鈴木内閣に下村宏情報局総裁‐久富達夫同局次長‐川本信正総裁秘書官という朝毎読出身者のトリオが生まれ、久富次長の発案で天皇による「玉音放送」計画が実現した秘話を放映、毎日新聞の終戦記念日の紙面を飾った。

(杉山和一郎 元英文毎日局・局次長・終身名職)

種村直樹さん(鉄道作家)を偲ぶ

種村直樹さん
葬儀会場に飾られた遺影と名刺(新幹線を象った名刺‐拡大)

 レイルウェイライター種村直樹さんを偲ぶ会の写真集と、友の会機関誌Railway Writer思い出号(2016年2月1日発行再増補改訂版)が由子夫人から送られてきた。

 偲ぶ会は昨年4月5日、東京ステーションホテルで開かれた。夫人、ひかり・こだまの2人の娘さんら集合写真に50人。会の終わりは、葬儀のとき同様、♪汽車の窓からハンケチ振れば…「高原列車」の大合唱だった。

 思い出号には65人が追悼文を寄せた。読者からの質問には必ず返事を出した種さん。中学・高校生からのファンが大勢いて、「先生、ありがとうございました」と感謝を伝える。

 種さんは1959(昭和34)年入社。高松支局―大阪社会部―中部報道部。68年『周遊券の旅』がデビュー作である。70年2月東京社会部。まず渋谷警察署担当のサツ回り。前任が5年後輩の私だった。遊軍から国鉄ときわクラブ。72年10月鉄道開業100年特集を1人でこなしたが、翌73年退社。

 4月レイルウェイライターとして独立した。79年国鉄全線完乗。国鉄最長片道きっぷの旅など、列車に乗っては紀行文をものにした。2014年11月6日逝去、78歳だった。

(堤 哲)

神尾時彦さんを偲んで

神尾時彦さん

 毎年、年賀状の交換をしていたのに、今年はこないなと思っていた矢先に、現役社員から昨年12月に神尾さんが亡くなられたと連絡がありました。驚いたのと同時に神尾さんの顔が・・・。

 私は昭和40年に入社、広告局の内勤部門の整理課に配属され、「大組担当」でした。神尾さんは地方課で作業場では一緒に仕事をしていました。有楽町時代なので、夏は暑く、冬は寒くて、大変でした。その時、神尾さんは野球部の監督兼マネージャーをされていました。有楽町で酒を飲んでいる時、野球部に入らないかと言われ、私は学生時代に野球をやっていたので入部しました。当時、社内野球大会は巣鴨の養和会グランドで朝9時から。神尾さんは、体型からも捕手タイプ。ピッチャーの私は安心して投げられました。

 4年間の内勤時代、社内野球では4、5回優勝したと思います。神尾さんの喜んだ顔を思い出します。2、3年して神宮絵画館前にグランドが変わりましたが、社内のチーム数も増え、Aグループ、Bグループに分かれました。この時、広告Aチームと広告Bチームの両チームがそれぞれのグループで優勝しました。同じシーズンにAグループ、Bグループの両方で神尾さんが采配を振るっていて、その時、神尾さんを囲んで飲んだ記憶は忘れられません。

 ご冥福をお祈りいたします。

(終身名職 尾島一平)

松尾俊治さん(元運動部)を悼む

松尾俊治さん

 5番ショート松尾俊治(当時36歳)。灘中―慶応の捕手。1943年(昭和18)10月16日、早大戸塚球場で行われた「最後の早慶戦」出陣学徒壮行早慶戦の記念撮影に、後列右端「KEIO」のユニホーム姿の写真が残る。

 慶応の先輩が発行していた「野球世界」の記者から50年に毎日新聞に入社。以来アマチュア野球専門に記者席から試合を見続けた。『六大学野球部物語』『最後の早慶戦 : 学徒出陣還らざる球友に捧げる』『神宮へ行こう』『ああ甲子園!! : 高校野球熱闘史』『選抜高校野球優勝物語』『都市対抗野球優勝物語』など著書多数。

 松尾の功績のひとつに創立100年の記念事業として編纂された『慶應義塾野球部史』(1960年初版発行)をあげたい。各大学の野球部史は、慶応の野球部史をお手本としてつくられている。――これは大東京竹橋野球団S・ライターズ編『野球博覧』に書いた1961年(昭和36)春の毎日新聞の社内野球決勝戦、運動部対スポニチ報道の記事の一部である。

 松尾さんが2月5日亡くなった。91歳だった。

松尾俊治さん

 私が神宮球場で最後に会ったのは2012年秋の早慶戦だった。松尾さんは、家族に抱きかかえられるようにして記者席に座ったが、実に嬉しそうだった。それもそのはずで、慶応の後輩でもあるフジテレビスポーツ部の孫娘が早慶戦をテーマにした番組づくりでベンチ裏を走り回っていたからだ。

 塾旗が飾られた式場には慶応のOBや野球関係者が多数駆けつけた。祭壇には現役時代の写真も飾られ、天皇杯を手にしたのもあった。  合掌

(堤 哲)

橋本哲男氏(元東京本社出版局図書編集部長)

橋本哲男氏

 押し入れの段ボールから橋本哲男さん(2015年1月17日没91歳)から贈られた本が出てきた。『海野十三(うんのじゅうざ)メモリアル・ブック』(B5判130ページ、海野十三の会2000年5月刊)。没後50年の追悼出版である。

 海野十三は日本のSF小説の生みの親といわれる。毎日小学生新聞に連載した「怪塔王」(1938年)、「火星兵団」(39〜40年)などは、大変な人気だった。作家の故小松左京氏は「毎日わくわくしながら読んだ。科学・SFに目を開かせてくれた」といっている。写真は『海野十三メモリアル・ブック』から

 毎日小学生新聞が創刊60年を迎え、『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』(1997年刊)を発刊した際、海野十三のことを寄稿してくれたのが橋本さんだった。

 1948年毎日新聞入社。社会部、学芸部デスク、出版局図書部長をつとめた。明治大学文学部時代に海野十三に師事と履歴にある。著書に『海野十三敗戦日記』(講談社、05年中公文庫)、『辻政信と七人の僧』(光人社)など。

 メモリアル・ブックには、1949年5月23日の海野十三告別式で弔辞を読む江戸川乱歩の写真が載っているが、写真撮影:橋本哲男とあった。

 気づくのが遅れてすいませんでした、橋本先輩。

(終身名職 堤 哲)

牧野喜久男さんを悼む

牧野喜久男さんを悼む

 初めて牧野さんにお会いしたのは1967年春、長岡支局からサンデー毎日編集部に異動したときだった。経済部出身で最も若いデスクと紹介された。三木正編集長で、野村勝美さんは書評担当でデスクだったか、先輩の兵隊には大熊房太郎、増田れい子、徳岡孝夫、山崎れいみ、西山正さんらがいた。筆頭デスクの高原富保さんや次の伊奈一男編集長のように、牧野さんはわれわれを銀座・赤坂・六本木へと連れ歩くことはなかったが、仕事はてきぱきとしてけれんなく「いいデスク」といつも感じた。ときに部屋の隅で初段同士で碁を打つこともあった。思えば、週刊誌の最も華やかな時代でもあっただろう。

 牧野さんが編集長だった1975年春と思うが、私は取材から整理部門への異動を申し出た。当時、毎夜のように私は新宿で大島渚、佐藤慶、若松浩二、松田政男、足立正生ら映画人と飲んで、その周辺にいた重信房子らとも知り合った。太田龍もよく面会に来て、カーデイナルで私がコーヒー代を払う間に姿を消して尾行も撒いた。拙宅には公安刑事や公安調査庁の来訪が頻繁で、電話も盗聴されており、鬱陶しかったのだ。この異動がきっかけで私はさらに編集局整理本部、学芸部へと移り、囲碁や映画担当となって記者人生を全うした。その振り出しに牧野さんがおられる。定年退職後ももっとお話を伺いたかったが、いずれ近いうちにまたお会いできるだろう。

 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

(松島 利行)

阿部脩三氏を偲ぶ

阿部脩三氏を偲ぶ
武藤完氏の本に載った妻京子さんとご夫婦の調理場での板についた在りし日の姿

 阿部脩三さん(アベちゃん)の訃報をこのサイトで知った。とげぬき地蔵脇にあった巣鴨とろろ屋のオヤジ。定年後の1986(昭和61)年に夫婦で始めた。オヤジはもっぱら大和芋すり。午前11時開店。お昼が終わると売り切れ閉店だった。

 味が評判だった。お客のブログが残っている。「麦とろ定食を食べました。食べただけでとっても幸せになれました。ご飯の後のずんだもち…。いやー、もう“ずんだ”サイコー!」

 毎日新聞夕刊で紹介された。社会部武藤完(故人)著『今すぐ行きたい!こだわりの味おいしい店』(広済堂出版1996刊)に載っている。私も女房を連れて何度かお邪魔した。2007年5月31日閉店と書き込みがある。8年前だ。ご無沙汰続きだった。

 アベちゃんは事件記者だった。水戸支局のデスクと兵隊。「堤クン、サンズイでこれから水戸市役所にガサをかけるといっているぞ」。茨城県警の捜査二課長と盛岡時代からの親友とかで、二課長から電話連絡が入っていたのだ。原稿を送ろうとすると「本紙に送り済みだ」。他社に抜かれる心配はなかったが、サツ回りの面目丸潰れである。

合掌

(堤 哲)

根上 磐さん「戻ってちょうだい」

7月22日東京本社ホールで開かれた根上磐氏追悼会の祭壇
7月22日東京本社ホールで開かれた根上磐氏追悼会の祭壇

「シェーン・カム・バァック!」。西部の草原に少年の絶叫がひびき、彼方には馬上にひとりの男――ご存じハリウッドの名作『シェーン』のラスト・シーンです。寡黙な旅のカウボーイが一人の女性とその息子を助け、無敵のガンマンを射ち倒す。そんな彼を慕う二人だが、シェーンは黙って去ってゆく。

 ここで小生、“ひと言”を加えたくなりました。「カム・バック」の前にです。それはなにか、というと「バーン」です。いやこれは拳銃の発射音「BANG(バン)」ではありません。そうです。『磐』であります。つまり、かの少年のように叫びたい。

 「カム・バック・ツー・ミー・バンチャーン!」と。

 さてそこで映画のシーンでは、どうしてシェーンは少年の呼び声に反応もせず、ただ黙々と去っていってしまったのか、といいますと、実はもう「死んでいたから」という説があるのです。すでに死んだシェーンは、ただ黙々と馬にゆられていたのだ、と。そうなんです。わがバンちゃんも去っていった。もちろん寡黙ではなかったけれど、ペラペラしゃべる人でもなかった。そして言挙げするでも自賛するでもなく、ただ黙々と去ったのです。

 だけどその功績は大きく、なによりも残された“ぬくもり”が懐かしい。だから私たちも絶叫したい。少年のように。 『バァン・カム・バック・ツー・ミー』と。

(水野 順右)

大沼 汎さんを偲んで

追悼 大沼 汎さん

 7月23日早朝突然御子息より電話で父が7月20日に他界したとの知らせを受けたあまりにも突然の知らせだったので一瞬信じ難い思いで聞いたが、話によると2・3日前から胸痛や腰痛の前兆を訴え病院嫌いな人が珍しく奥様の勧めを素直に聞いて病院に自転車で「これから行ってくる」と言って出かけたそうだ。ところが途中で倒れてしまい発見され病院に辿りつくまで1時間近くも遅れ意識不明のまま2日後に不帰の客となった。死因は急性心筋梗塞だったとの事。ご本人は苦しむこともなくまたご家族にも面倒をかけずに人生の終末をスマートに閉じられたのはいかにも彼らしいと思えてならない。

 昨年6月に数年ぶりに会いたいとの話を聞き石井氏と3人で銀座で昼食を共にし、昔話に花を咲かせた。その時はとても元気そうだった。近いうちに再会を約し別れたのだが、今思うとあれはきっと最後のお別れに会いにきてくれたのだと思われてならない。

 彼は経理マンとしては珍しく何につけてもダンデイズムが漂っていた。それは彼のルーツにあり、父君哲氏は器楽曲の作曲家として、声楽曲の作曲家山田耕作と対比される日本を代表する方で<選抜高校野球大会歌>(昭和6年〜平成4年)の作曲家でもあり又日本人として初めてフランスから「君が代」を放送された方でもある。

 彼も全舷などではとても上手な歌を聞かせてくれたし又スポーツは万能で特にスキーは準1級の腕前、ゴルフは経理局随一で、仕事の面でも要領よく処理していた。ご自分の事については「為(な)して恃(たの)まず」で謙虚な人だった。柩の中の彼は実に穏やかに清々しいお顔をしていた。ご冥福をお祈り申し上げます。

(終身名職 鈴木 崇矩)

中田永三さん

中田永三さん

 「これさあ、写真でかく行こう!」……中田さんの紙面整理は思い切りがよかった。金田正一(当時・国鉄スワローズ)が通算73完封してセ・リーグ新を記録した時、運動面トップに4段写真を置いた。六大学野球「慶法戦」での三本間挟殺プレーの写真を4段で扱った。3万人入った後楽園ナイターが午後7時5分過ぎ濃霧立ち込めて怒号の中、中止になった際の審判団と監督が話し合う写真を三段横広で扱い「この霧じゃあ、よそうよ」の見出し。その頃としは常識ハズレの新聞を「しゃらっとした顔」で創った。野球が大好き。野球面専門の高原誠一さん(故人)が休みの日は中田さんが代役で担当することも多く、それが気に食わぬ。ライバル心ムキ出しで野球紙面に取り組んだ。というのも二人は昭和23年入社の同期で「中田っ」「高原っ」と呼びあう親友だった。並んで仕事することもしばしばあり、活版場へ走る友に中田さんが「おい!高原っ」と大声で呼び止めた。そのときそばを通ったのが編集局次長・高原四郎さん、ジロっと中田さんを睨みつけ剣呑な空気が流れた。以来出世が止まった(というのは嘘である)。 昭和26年〜昭和44年まで編集整理19年、何が起こっても表情一つ変えず、淡々と冷静な判断力を示し、学ぶところが多々あった。

 中田イコール野球。名三塁手だった。社内野球では最もユニフォームの似合う選手として名をはせた。整理部チームが初めてユニフォームを揃えたのも中田さんが神田の運動具店と奮迅の値ギリ交渉、キャッチャー・ミット、ファースト・ミットからバット数本まで大割引させて購入し、我々は一人1000円ずつ支払ったのが忘れられない。ある試合で中田さんが好フィールディングを連発した。僕が「エエゾー、エエゾー、エイゾーっ」と ”誉めヤジ”を飛ばしたら「永三・三塁手」はムッとした顔でジロっと僕を睨みつけた。駄洒落オヤジギャグの類が通じないおっさんだった。 

(諸岡 達一)

藤井 弘さん

藤井 弘さん

 14年師走に亡くなった藤井さんには「不死身の―」という形容詞が似合った。頑健な体に異変が生じたのは一年半前。日中関係の悪化で最後になった訪中団参加を断念された。「彼がいると安心なのだがなあ」グループ創始者の石原萠記氏は残念がった。‶国士〟石原氏に最も信頼されていた。口は堅い。人柄、気配り、身のこなし天下一品。実はそれが毎日事業部スピリッツだと藤井さん自身が生前語っておられた―

 事業部に内山種二さんという剛腕の先輩がいた。平成13年秋、愛知県蒲郡「事業部東西OB会」の翌朝、急死された。79歳。過労死。当時の「ゆうLUCKペン」掲載の内山さんの絶筆「もっぱら乾杯要員」で「モーレツ生涯現役」ぶりが窺える。藤井さんは同年12月社報の内山氏追悼の辞に先輩が「後輩には厳しさをもって常に黒子に徹するよう指導された」と書いている。

 藤井さんの第二の人生は松前重義元東海大総長が創設した日本対外文化協会事務局長。間に加藤順一さん(元中部編集局長)が務められた時期をはさんでロシア関係のニューズレター(月刊)編集では随分私も手伝った。美術展やロシア関係の興行界に顔が広かったうえに、面倒見がよく、口が固いから女性問題で世話になった人もいた。共通の先輩関係のマドンナが設けた藤井さんの慰労宴にご相伴させられたこともある。

 戦時中の若い頃、通信技術学校で通信技術を叩きこまれた藤井さんの特技は録音テープ起こし。まさに神の耳と手を持っていた。享年84歳。

(平野 裕)