随筆集

2019年10月3日

OBの季刊同人誌『人生八聲』が20巻の記念号に

 元主筆、木戸湊さんが提案して5年前から有志で発行している季刊の同人誌『人生八聲』が2019年10月発行の秋季号で20巻に達しました。毎日新聞OBを中心に、現役時代に書き残した話やリタイア後の生活記録など毎号20数人が執筆し、多彩な内容となっています。

 20巻の執筆者を、目次を転載して紹介すると――

アフガニスタンに愛をこめて その六堀川 ひろ子
バック・ギア           香水 敏夫
「女王」はなぜクリクリ坊主に     長岡 民男
玉山とカムチャッカ斎藤 清明
北海道 地名探り―⑳ 佐渡 征昭
中国旅行なか むろ太
ニュースコラム・イン・ハワイ高尾 義彦
ある先輩記者の「図書館」 阿部汎克さんを偲ぶ永井 浩
当番弁護士制度を支援する会・大阪津村 裕子
杖ともに(その十五)木戸 洸
京の美味礼賛家村 隆子
随筆「文・ぶん・ブン」の(十五) 〝大権の行方〟さぎさか れん
原爆ドーム、丹下健三、ヤン・レツル、宗像政、市川崑(第二回)高谷 尚志
ツィッター俳句 「続無償の愛(一五)」河 彦
万博提案(4) タイム・カプセルの収納品について東方 洋雄
BC級戦犯を考える(Ⅱ) 2つの「聖地」──戦犯と特攻朝野 富三
2500年前の「悩み」神谷 周孝
AI(人工知能)とビッグデータ北畠 霞
「運命」の思い出川鍋 亮
ならしの日記(20) 勝又 啓二郎
遺伝子の意思保苅 文雄
鳳便り 15 鳳 蘭
「馬のもの言い事件」 調書を取られた江戸町民三十五万人仁科 邦男
北の国から 築二十年の悲劇福岡  洋子
やりましたホール・イン・ワン Ⅰ DID IT‼ Ⅱ宗岡 秀樹

 馴染みのない名前もあるかと思いますが、木戸さんの友人・知人なども参加し、元宝塚の鳳蘭さんは「毎日スポーツ人賞」の審査員を務めてもらった関係などから、参加していただいています。その木戸さんですが、今年1月に脳梗塞で左半身が不自由となり、リハビリの日々で、目次に名前のないのが残念です。
(なか むろ太は石井公明さん、さぎさか れんは山藤簾さんのペンネーム。河彦は高尾の俳名。常連の吉川泰雄さんは今回お休み。大島幸夫さんはボストンマラソン参加などの機会に随時)

 発刊当初から、東京五輪・パラリンピックまでは継続すると申し合わせ、少なくとも2020年中は発行すべく同人一同、「書くこと」に意欲を持続しています。「書くこと」を通じて、現役の記者たちにも頑張って欲しいとのエールも込めているつもりです。

 20巻の大きな区切りを機会に、全巻=写真=を揃えて国立国会図書館に近く寄贈する計画です。毎日新聞出版など出版社の場合、国会図書館への納本義務がありますが、同人誌や自費出版などは、自主的に寄贈する必要があります。印刷は株式会社毎栄=創刊時は毎日新聞東京センター=にお願いしており、公共的な施設で永久保存してもらいたいと願っています。

 秋季号など多少の余部があります。発行は寄稿者が必要経費を出し合って賄っており、ご希望の方には1部1,000円でお送りします。残部の範囲で対応しますので、次のメールアドレスにご連絡ください(高尾義彦)。

2019年9月19日

物故社員は8099人!

 秋のお彼岸に合わせ、先覚記者と物故社員の追悼会が9月18日(水)に毎日新聞東京本社で開かれた。ことし新たに279柱が合祀(ごうし)され、物故社員は計8099柱になった。丸山昌宏社長は「社員一丸となって諸先輩方が築いた毎日新聞の伝統を守り、発展させていく」と、追悼の辞で述べた(9月19日付け毎日新聞朝刊)。

 追悼会で配られた合祀者の名簿には「第155回先覚記者・第159回物故社員中央追悼会」とあった。この行事は、一体いつから始まったのか。

 『毎日新聞は百年史』に大正6(1917)年9月24日第1回物故社員追悼会を浜寺本社倶楽部で催す、以後大毎と東日で毎年春秋2回交互に催す、とある。

 102年も続いていることになる。

 その3年後、大正9(1920)年3月21日先覚記者追悼会を物故社員追悼会と同時に開く(以後毎年春秋2回)。

 追悼会の名簿は、A4判、本文34ページに霊名がぎっしり並んでいる。

 先頭は先覚記者。当初は以下の10人だった。
 柳川 春三
 岸田 吟香
 栗本 鋤雲
 福地源一郎(東日初代社長)
 成島 柳北
 末広 鉄腸
 沼間 守一
 藤田 茂吉
 福沢 諭吉
 ジョン・R・ブラック

 大正14(1925)年に以下の10人を追加した。
 島田 三郎
 西村 天因
 中江 兆民
 黒岩 涙香
 原   敬(大毎3代社長)
 渡辺巳之次郎
 池辺 三山
 田口 卯吉
 小松原英太郎(大毎4代社長)

 その後、浜田彦造(ジョセフ・ヒコ)が加わり、さらに大毎の初代社長・渡辺治(台水)、朝日新聞の社主・村山龍平らを加え、現在は40人が先覚記者として掲載されている。

 時事新報で福沢諭吉の教えを受けたやり手経営者・大毎5代社長の本山彦一社長が始めた。第1回先覚記者追悼会は、大毎(大阪毎日)東日(東京日日新聞)とも記事を載せている。

  先覚新聞記者
   十名士の霊を祀る
    本社並びに東京日日主催
   献饌(神前に物を供えること)質素、儀式簡単
    故人の遺風を追慕す

 この時、追悼の言葉を述べた本山も没後、先覚記者に祀られている。

 残り19人は——。
   矢野 文雄(龍渓)
   陸  羯南
   本山 彦一(大毎5代社長)
   高木 利太
   村山 龍平
   高橋 健三
   鳥居 素川
   犬養  毅(木堂)
   内藤 湖南
   関  直彦
   三宅 雪嶺
   竹腰与三郎(三叉)
   奥村信太郎(大毎改め毎日新聞6代社長)
   徳富 蘇峰
   高石真五郎(毎日新聞7代社長)
   丸山 幹治(侃堂)
   阿部真之助
   城戸 元亮

 2ページ目からは「物故社員」で、先頭は甫喜山景雄56歳、次に初代「大毎」社長・渡辺治30歳。

 明治5(1872)年創刊の東京日日の創始者の名前もある。篠野伝平72歳、西田伝助73歳、落合幾次郎72歳、広岡幸助90歳、岸田吟香73歳、福地源一郎66歳……といった具合だ。

 2022年、毎日新聞は創刊150年を迎える。

毎日新聞の電飾広告(東京メトロ有楽町駅で)

(堤  哲)

2019年8月25日

コラムニストから法曹へ
司法試験に合格して修習中の大高和雄さん

 福島支局の10年後輩で、経済部時代の同僚だった前「近事片々」子、大高和雄くんが、3月末に選択定年で退職し、法曹の道を歩むことになった。批判することに長けていたコラムニストが、どう実人生に関わっていくのか、今後が大いに見ものだ。

 千葉支局長から資材本部委員を歴任して論説室に移り、この2年間夕刊1面コラム「近事片々」を担当していた大高くん。「トランプもシンゾーくんもめちゃくちゃなので、コラムは書きやすい」と軽快なタッチでコラムを書いていたのに、4月に届いた社報には彼の選択定年が載っていてビックリした。まだ58歳だったはず、どうして?と電話して、またビックリした。

 日本で一番難しいとされる司法試験に受かり、12月から司法修習生になるので、少し早めに辞めさせてもらった、と言うのだ。「お前、そんなに優秀だったの?」と言ったら「えぇ、まぁ」だと。17年に予備試験に通り、昨年本試験に合格したのだとか。彼は「近事片々」を担当する前は、激務の論説副委員長も務め、そんな勉強をするヒマはなかったはず。どこで、どうして、なにゆえにそんな勉強をしたのかを尋ねたところ、うなってしまう答えが返ってきた。

 彼は東北大の経済学部出身で法律とは無縁だった。ところが、09年に千葉支局長から資材本部委員になった時、「これで記者職に戻る道はなくなった」と思ったのだとか。経済部の先輩から「時間に余裕があるなら、何か資格でも取ったら」と言われ、社業に役立つのは行政書士かなと思い、これは1年で資格が取れた。次に目標にしたのが、どうせやるならと、あの最難関の「司法試験」だった。

 法科大学院に入る余裕はない。それで、1万人が受験して400人が受かる予備試験を目指して、出勤前の1時間を大手町の喫茶店で勉強したのだとか。今は予備試験向けの参考書がたくさんある。受かるとも思わず、勉強を重ねたら、7年目に予備試験に通り、その7~8割が合格する司法試験にも18年に受かった。

 これから1年間、司法修習生として裁判所、検察庁、弁護士事務所で実務を学び、20年12月には弁護士資格を取って、自宅に弁護士事務所の看板を掲げるつもり。「弁護士の肩書きが役に立つこともある。少年絡みの事案で、世のため人のための支えとなる存在になれればいいな、と思っている」とか。

 大高くんには才媛の小学校教諭のカミサンはいるが、子どもはいないから、こんな思い切ったことができたのかも。あんまり金儲けがうまい方とも思えないから、こりゃ、髪結いの亭主弁護士だな。ともあれ、60歳にしてのコラムニストからの法曹の世界への転身を、注目して見守りたい。

文責・岩橋 豊(1973年入社、68歳)

2019年8月14日

奈良泰夫さんが始めた東日印刷サマーフェスが30回に

 ありがとう
 感謝していると
 つぶやけど
 奈良に届くか
 花火の咲く空  悠々

フイナーレ恒例の役員揃っての三本締めの前に挨拶する武田芳明社長

 8月10日、第30回トーニチ・サマー・フェスティバルが東日印刷の顧客をはじめ、地域の人たち、社員家族、OBら800人が参加して、4階屋上で開かれた。  冒頭の短歌は、元東日印刷役員・牧内節男さん(元スポニチ社長・会長)の欠席通知のはがきに書き込んであった。

 「この歌の意味を分かる社員がいるだろうか」と、元総務部長・赤松徳禎さん(79歳)がつぶやいた。

  第1回の開催が1989(平成元)年8月12日。前年7月に現在の新社屋が完成。4階屋上から晴海の花火大会がよく見えたことから、旧友会の花火鑑賞会となったのだ。「OB29人出席」と、『東日印刷50年史』にある。

 新社屋の完成披露のあと、東日印刷とスポニチの社長を兼務していた和田凖一さんが急逝(享年80)、東日印刷の社長に奈良泰夫(2012年没、86歳)、スポニチの社長に牧内節男が就いた。2人とも毎日新聞社の元常務取締役で、陸軍士官学校の同期(59期)。花火鑑賞会は両社長就任の翌年に始まったのだ。ついでながら陸士59期に、毎日新聞社会部で消防記者としてならした開真さん(2008年没、82歳)がいた。

 その後、晴海の花火は中止となったが、真夏のOB総会は続いている。この日のOB参加者は80人にのぼった。第1回から参加しているのは当時監査役の萩原康則さん(90歳)と現役の部長だった中川秀仁(86歳)。平田睦夫(82歳)、前田和彦(81歳)、副部長クラスで神田富佐玖(82歳)、伊藤義一(80歳)、塚本登(74歳)各氏ら。

 これで牧内さんの歌の意味が理解できたと思います。牧内さんは春秋の毎日新聞社会部旧友会のゴルフ会に参加していて、ことし8月31日に94歳の誕生日を迎える。

(東日印刷元監査役・堤 哲77歳)

2019年8月11日

日本女性初の五輪メダリスト人見絹枝さん

1928年アムステルダム五輪で入場行進する人見絹枝さん

 人見絹枝さんは1928(昭和3)年のアムステルダム五輪陸上800メートルで2位に入り、日本人女性初の五輪メダリストになった。人見さんはその時、毎日新聞の前身大阪毎日新聞(大毎)のスポーツ記者だった。

 東京五輪まであと1年を切って、再び人見絹枝さんにスポットライトが充てられている。最近毎日新聞が主催したトークイベント「人見絹枝~駆け抜けたパイオニア」で、大阪本社副代表・小笠原敦子さんが以下の報告をしている。

 ——人見さんが(大阪)毎日新聞社に入社したのは1926年。19歳でした。この年、開催される第2回万国女子オリンピックに参加し、記事を書いてもらおうと考えて採用したようです。二足のわらじ、今で言う見事な二刀流でした。

 連載のタイトルは「女子運動家の旅日記」。現地のスウェーデンから署名入りで記事を書いています。記事の一つの見出しに「廿(にじゅう)代の女が多い」というのがありました。当時、日本の女性スポーツは学校体育止まり。女学校を卒業するかしないかの年齢で結婚して家庭に入るような時代で、20代でスポーツをするなんてあり得ませんでした。世界と日本の環境の大きな差を感じたことでしょう。

 アムステルダム五輪に出場したのは2年後の21歳。日本選手団唯一の女性でしたから、いろいろ苦労もあったでしょう。大会の前に1カ月余りロンドンに滞在、女性陸上クラブで調整しました。クラブでは、学生ではなく仕事を終えた女性たちが集まってスポーツを楽しんでいました。その姿を伝える記事では「英国の女子選手は幸福」と何度も記しています。
 人見さんは早世しなければ、日本で同じような組織を作ったのではないかと思います。

 人見さんの残された言葉で一番好きなのは「努める者は何時(いつ)か恵まれる」。努力は裏切らないという意味です。来年の東京大会に向けて、この言葉は大事に考えたいと思います。

 人見絹枝さんは1907年、岡山県で生まれた。二階堂体操塾(現日本女子体育大)を卒業後、大阪毎日新聞社(毎日新聞社の前身)に入社。26年の第2回万国女子オリンピックの走り幅跳びで当時の世界新記録となる5メートル50をマークするなど好成績を収め、総合成績で個人優勝を果たした。

 日本の女子選手として初めて五輪に出場した28年アムステルダム五輪では、8月2日に行われた女子800メートルで銀メダルを獲得した。大阪毎日新聞の運動記者として記事の執筆や講演なども行い、女子スポーツの普及にも貢献した。

 アムステルダム五輪の3年後の31年8月2日、肺炎のため、24歳で亡くなった。

(堤  哲)

2019年8月4日

阿部菜穂子著『チェリー・イングラム』英語版
'Cherry' Ingram: The Englishman Who Saved Japan's Blossoms

ハードカバー: 400ページ、11ポンド(約1400円)
出版社: 英Chatto & Windus社
2019年3月21日刊行

 阿部汎克さんを偲ぶ会(8月1日日本記者クラブ)で毎日新聞OBの永井浩さんが『チェリー・イングラム』英語版が出版されたことを紹介した。

 日本語版が日本エッセイストクラブ賞を受賞した際、菜穂子さんの初任地京都支局の同人が日本記者クラブに集まり、お祝いをした。その時の模様は、この毎友会HP「集まりました」に載っているが、当時の京都支局長磯貝喜兵衛さんは「次は英語訳を出して、日英桜の秘話を世界に広めよう!」と祝杯を上げました、と書いている。

 それが実現したのだ。

アメリカ版
日本語版(岩波書店刊)

 英国に続いてアメリでも出版された。詳しくは菜穂子さんのHP: www.naokoabe.comで。

(堤  哲)

2019年7月28日

毎日新聞社にラグビー部があった!大毎にも東日にも

 これは1929(昭和4)年3月21日に浜松の全舷で行った「大毎」対「東日」のラグビー試合の際の記念写真である。

 写真説明をなぞってみる。

 「社会人になってからも久富さんはラグビーをやめなかった。大毎に入社してまもなく、久富さんは大毎、東日両社にラグビーチームを作った。そして両チームは毎年、東京大阪間のどこかの都市で試合をおこなった」

 久富達夫、東大ラグビー部の第2代キャプテン。東京府立一中→一高→東大工学部→卒業後、東大法学部政治学科に再入学→1925(大正14)年3月卒業、4月大阪毎日新聞社入社。26歳だった→社会部→26(大正15)年4月アフリカに特派。「東アフリカの旅」を大毎に連載→27(昭和2)年満州・北支に出張。上海から帰国する船に、蒋介石が密かに乗船しているのを知ってインタビュー。宋美齢と婚約をしていて、特ダネの「時の人」になった→政治部兼本山彦一社長の秘書。柔道5段のボディーガード?→27(昭和2)年東京日日政治部→34(昭和9)年6月政治部長。35歳である。

 政治部長時代の活躍ぶりは、牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」2013年(平成25年)11月1日号追悼録(506) http://ginnews.whoselab.com/131101/tsuido.htm「特ダネ号外を出した久富達夫さん」を読んでいただくとして、40(昭和15)年8月に退職、内閣情報局次長となる。

 総理大臣近衛文麿から「貰い」がかかり、愛国者の久富は「この時機、ピッチャーからキャッチャーにポジションが代わったようなもの。チームは同じです」と話していた。

 読売新聞の「昭和史の天皇」に久富の功績が2つ紹介されている。「内閣情報局次長として、広島に落とされた新型爆弾は原爆であると閣議に報告した」(陸軍は特殊爆弾として戦争継続を主張した)ことと、敗戦の混乱を避けるため「終戦の玉音放送を進言した」こと。

 戦後、公職追放されるが、1964年東京五輪の際は国立競技場の場長だった。1968(昭和43)年没、70歳。

 写真を見てもらいたい。後列中央の背の高い男の左、恰幅のよいのが久富だ。背の高い男は、1922(大正11)年にラグビーの第1回早慶戦を行った時の早大マネジャー中村元一。中央気象台で過去のデータを調べて、「晴れの特異日」11月23日開催を決めた男だ。

 中村の右が野球殿堂入りの元慶大の名投手・小野三千麿。もうひとり野球殿堂入りの桐原真二もいる。

 「東日」には岩下秀三郎(慶大)、柳茂行(明大)らのラガーメンの他、明大の初代応援団長相馬基らが写っている。毎日新聞は人材を揃えていた。 大毎ラグビー部は1926(大正15)年1月、関西の実業団チーム第1号として創部。記念写真の2か月前、29(昭和4)年1月には、近鉄の前身大阪電気軌道(大軌)ラグビー部のファーストマッチの相手となり、6-3で勝利している。強かったのである。

 「大毎」は、現在花園で開かれている全国高校ラグビー大会を1918(大正7)年に始めている。久富が入社してラグビー部創設は当然のことに思われる。

 実は、この写真、8月早々に発売される『国鉄・JRラグビー物語』(交通新聞社刊、@1,800円+税)に掲載されているのだ。その第5章は「大鉄・近鉄・大毎」である。

 著者は小生。書店にあったら、見てください。

(堤  哲)

2019年7月15日

ハワイの日本語新聞「日刊サン」1面に高尾義彦さん

 夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 とおい空……。

 これは、童謡「夏の思い出」(江間章子作詞、中田喜直作曲)の歌詞の一節だが、7月になると、「蝉が鳴く頃」と、政府高官逮捕を予告したロッキード事件捜査当時の検察幹部の言葉を、懐かしく思い出す。 もう事件から43年が経過し、逮捕された田中角栄元首相が鬼籍に入って久しい(1993年死去)。

 後輩の新聞記者に昔話をしても、「私が生まれる前の話」とシラケる反応が返ってくる。それでも日本の政治史にとって、「戦後最大の疑獄」であることに変わりはなく、さらに現在の日米関係に共通する問題も内在し、語り継ぎたい。

 事件は、1976年2月に米上院外交委多国籍企業小委員会の調査・証言から、日本にもたらされた。捜査に乗り出した東京地検特捜部を、30歳の社会部司法記者としてフォローし、その頂点が7月27日だった。

 早朝、霞が関の検察合同庁舎正面玄関で、特捜検事に伴われて黒塗りの車から降りた元首相は、報道陣のカメラの砲列に、「いよっ」という感じで右手を上げ、足早に庁舎の中に姿を消した。

 たちまち、列島に大きな衝撃が走った。

 6月頃から、ロッキード社とともに日本の航空会社にトライスター売り込みを図った商社の丸紅や、この大型機を購入した全日空の社長らが次々と逮捕されていた。司法記者たちは、政治家をターゲットに、特捜部がいつ強制捜査に踏み切るのか、日々の夜回りで検察幹部と「禅問答」のような会話を繰り返していた。

 そのプロセスで検察幹部の口から洩れた言葉が「蝉の鳴く頃」だった。元首相逮捕の朝、検察庁舎向かいの日比谷公園では、蝉が盛んに鳴いていた。 検察が描いた事件の骨格は、ロッキード社が全日空へのトライスター売り込みのため丸紅を通じて元首相に働きかけを要請し、採用決定後の73年から74年にかけて4回に分けて5億円の賄賂を提供した、という構図だった(受託収賄罪)。

 首相就任直後のニクソン大統領とのハワイ会談(72年8月31日、9月1日)で、日米貿易不均衡の問題が議題になり、航空機購入の話が両首脳間で交わされたとの疑惑が伏線として存在し、いまも解明されない歴史の謎となっている。

 捜査が開始された2月に、最初にクローズアップされたのは、ロッキード社の秘密代理人として巨額の報酬を受け取っていた児玉誉士夫氏の存在であり、日本政府がそれまでに米国から購入してきた戦闘機などの売り込みに、この右翼の大物が関与した疑惑だった。

 日本の航空産業は、第二次大戦後の占領期に、敗戦国として開発や製造を禁止され、その後も低迷期が続いた。1970年代まで戦闘機の購入は、米国メーカーの機種を選択するしか方法がなかった。それが、次期対潜哨戒機(PXL)の選定をめぐって、1972年2月の閣議は、国産化の方針を決定し、転換期を迎えた。

 ところが田中首相就任後である同じ年の10月に開かれた国防会議議員懇談会では「国産化白紙撤回」の方針を確認。政府は2年後にはロッキード社のP3C オライオン導入に舵を切った。 米国議会の暴露で、秘密代理人・コダマには21億円にのぼる報酬が支払われたとされた。

 メディアの関心も当初はP3Cに集中し、所在不明だった児玉捜しに手を尽くした。結局、児玉は世田谷区の自宅にいることが分かり、特捜部が取り調べに乗り出したが、主治医は脳梗塞と診断、真相の解明は進まなかった。

 児玉周辺では関係書類の焼却など証拠隠滅の疑いも指摘され、脱税による起訴には漕ぎつけたものの、それ以上の捜査の進展はなかった。焦点の人物は謎を抱えたまま裁判中に亡くなった。

 作家、真山仁さんが『ロッキード 角栄はなぜ葬られたのか』を週刊文春に連載中で、一部取材に協力したが、米国からの軍用機購入の歴史を洗い直し、捜査がトライスター売り込みをターゲットにした経過に疑問を投げている。

 軍用機ではなく民間機の売り込みに絞った捜査は、米国側から提供された極秘資料に「TANAKA」の名前があったことなどが契機となり、一方のPXLの問題が捜査の対象から消えた真の事情は、いまだに明らかになっていない。特捜部の捜査結果が、米国にとって望ましい結果になったことだけは否定できない。

 話は一気に現在に飛ぶが、米国のトランプ大統領は国賓として来日した5月、安倍首相との会談後の記者会見で、日本がF35ステルス戦闘機105機を米国から購入する、と明らかにした。ロッキード・マーティン社を中心に開発された機種。

 日本にとって1機100億円を超える買い物に税金をつぎ込むわけで、大統領はG20サミットで来日した際にも、「防衛装備品の(日本の)購入について協議したい」と述べている。 軍用機や武器を、米国が日本に売り込む構図は、ロッキード事件以後も変わっていない。

 43年前、PXLをめぐる日米の謎が解明されていれば、という思いを抱きながら、安全保障の問題を含めて、国際情勢の動向を見つめている。

(日刊サン 2019.07.13)

 ――日本にいながらハワイの新聞がよめるのですからいい時代です。

(堤  哲)

2019年6月27日

東日印刷の「アスナビ」佐藤凌選手に応援を!

2019年6月27日、日本陸上選手権LIVE画面から

 9秒97の日本記録を持つサニブラウン・ハキーム(20=米フロリダ大)の快走ぶりを見ようと日本陸上選手権のLIVEを見ていたら、走高跳決勝に東日印刷のアスナビ選手・佐藤凌クン(24歳)が出てきた。

 ユニフォームに「東日印刷」。残念ながら第3位に終わったが、「JAL」「味の素AGF」と有名ブランドにつぐ「東日印刷」である。

 佐藤選手のことは、すでにこの毎友会HPで紹介しているが、改めてプロフィールを。

 1994年7月21日生まれ、新潟県長岡市出身。

 東海大学を卒業して、2017年4月1日に東日印刷に入社した。

佐藤凌選手の見事なジャンプ!

 目標は、「2020東京オリンピックの陸上走高跳でメダル獲得」というから頼もしい。

 「アスナビ」とは、日本オリンピック委員会(JOC)が実施しているトップアスリート就職支援ナビゲーションの略称。企業の支援を望むトップアスリートと、会社の活性化やブランド力の強化を図りたい企業との採用をマッチングするのだ。

 東日印刷も本社は江東区越中島だが、2020年東京五輪で江東区内に9競技の会場ができる。アスナビ採用が、従業員の一体感醸成に必ずや繋がるだろうとの思いから、2015年5月にJOCと江東区が共催したアスナビ説明会に初参加、佐藤凌選手と出会った。

 毎日新聞グループ全体で応援したいものだ。

 跳べ佐藤選手! あと15センチだ、メダル獲得を確実にするには。

(堤  哲)

2019年6月17日

「毎小」に連載小説を書く予定だった田辺聖子さん

毎日新聞6月17日付夕刊から

 おセイさんが亡くなった。6月6日、91歳だった。

 田辺聖子さんは、毎日小学生新聞の愛読者だった。「毎小」が創刊60周年を記念して発刊した『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』(NTTメディアスコープ、1997年)に、寄稿文が載っている。全文を紹介する。

 なつかしい「チンペラ新聞」

 小学生のころ、私はずっと「毎小」を取ってもらっていた。弟も妹もそれを読んだ。連載小説もたのしんだが、歴史・地理・理科の記事は、かみくだいておもしろく説かれているので、学校の勉強より身についた。私は活字中毒の子どもだったから、新聞の隅から隅まで読むのであった。

 子どもたちの夕食は早いので、大人が晩ご飯のとき、ちょくちょく店番をいいつけられる。(私のうちは写真館であった。夜、写真を撮りにくる人はいないが、出来あがった写真を取りにくる人はある)。私は店番がいやではなかった。ストーブは暖かだし、電燈は明るいし、いつも祖父や父が座る事務机の回転椅子はくるくるまわって面白いし、何より部屋は広いから両手を大きく拡げて「毎小」を捧げ持ち(大人がやっているように)顔をあちこち動かして、好きな記事を拾い読みできるってもんだった。

 あるとき、晩ご飯を終えた祖父が事務所へきて、私のそんな姿を見、
 「チンペラが一人前の格好をして、チンペラ新聞みよるわ」
 と抱腹した(古い大阪人はチンピラといわす、なぜかチンペラという)。私は小学四年か五年くらいだったろうか。チンペラ新聞は弟や妹にひきつがれ、ながく家にあった。

 三十代の私は毎小編集部にいた瀬川健一郎氏の知遇を得、もしかしたら毎小の連載小説を書かせてもらえるかもしれぬ、ということになり、私はわくわくして順番を待った。

 ――まさにそういうとき、芥川賞をもらってしまった。とたんに書かねばならぬ原稿が押し寄せ、児童小説連載の夢は遠のいてしまった。——しかし「毎小」はなつかしい、私がいまも新聞好きで、テレビより新聞にしたしむのは「毎小」のせいかもしれぬ。

 おセイさんが第50回芥川賞を受賞したのは、1964年、36歳だった。もし芥川賞をとっていなかったら、「毎小」に連載小説が載った?

 担当の瀬川健一郎氏をネットで検索すると、大毎社会部出身で元和歌山放送社長・会長の北野栄三さん(89歳)が大阪北野高校の同窓会「六稜会」HPで大先輩の瀬川さん(1989年没、76歳)の思い出を語っていた。

 瀬川さんは北野中学から東大の美学を卒業、小学生新聞=1936(昭和11)年12月22日創刊=の生え抜きで、学生新聞の副部長(デスク)をしていた。その後編集長?

 「手塚治虫が世に出るきっかけを作ったのも瀬川さんやったと僕は考えているんです」

 漫画家・手塚治虫が「毎小」デビューをしたのは、1946(昭和21)年1月4日から3月31日まで連載した「マァチャンの日記帳」である。

 瀬川さんは作家の織田作之助と親しく、小説のモデルとして登場する。

 「織田作は二度結婚してます。最初のは長い恋愛のあと戦争中に結婚してるんですが、そのとき瀬川さんが仲人をするんです。一番親しかったと思いますよ」

瀬川健一郎氏(六陵会HPから)
左から織田作之助、白崎禮三、瀬川健一郎各氏

(堤  哲)

2019年6月16日

週刊文春6月20号に板垣雅夫記者のロッキード事件取材秘話

福田太郎氏の病床での証言を報じる紙面(左)=『毎日新聞 ロッキード取材 全行動』から

 NHK社会部の司法記者だった中尾庸蔵氏から電話があり、作家の真山仁氏が週刊文春 に連載しているノンフィクション「ロッキード」の取材に協力してくれないか、と頼まれた。新潟勤務時代に一緒だった中尾氏はロッキード事件当時、東京地検担当だったので、「自分は取材範囲が狭く、遊軍取材班にいた板さんにお願いしたい」というのである。

 その後、文春の編集者から電話があった。私は当初、会ってお話しするような材料はない、電話でしゃべるから、それでいいじゃないの、と断った。編集者は、作家の真山が会いたがっている、というので引き受けることにした。

 プレスセンターで真山氏と文春の編集者と3人で会った。真山氏は、40年以上前に刊行された『毎日新聞 ロッキード取材 全行動』の本を持参し、そこに何十枚もの付箋が付けられていることに驚いた。会話の中でも、実に多くの資料にあたり、事件のディテールを含めて深い知識を持っていた。かつて中部読売の記者をしていたという。

 その後、真山氏と編集者から「板垣さんが、事件のカギを握っていた福田太郎氏を追いかける取材話を聞いて、その臨場感に感激しました」と同じようなことを言ってきた。そんなつもりはまったくなかったので、はてどんなことかな、と自分では不思議だった。

 その時の取材結果は6月20日号の週刊文春に掲載された。私は実名で登場し、「76歳の板垣は、溌剌として、今でも事件が起きれば駆けだしていきそうだった」と紹介された。この記述は元社会部記者として率直に嬉しかった。

「すき間産業」の取材体験が効果的だったと大学校友会のサロンで講演

 もう40年以上前の事件について週刊文春から取材されたきっかけは、たぶん2年前、10人ほどを相手にロッキード事件について話した地元でのミニ講演会だったと思っている。早稲田大学校友会の逗子葉山稲門会で毎月、「早稲田サロン」を開き、会員たちが交互に現役時代の経験談を話している。新人会員の私は、講師が病気などで来られなくなった時のピンチヒッター役として登録していた。講演の機会は意外と早くやってきて、ビールで歓談しながらロッキード事件取材のよもやま話をした。

 その主な内容は、ロッキード事件前の警視庁取材担当時に、政治家らの圧力による事件つぶし・もみ消しが横行していたこと。警視庁の捜査員からネタが取れないので、銀行総務部や中小証券、興信所、企業情報発行人など新聞社にとって「すき間産業」を取材し、それがロ事件の取材に役立ったこと。アメリカから情報がもたらされたロ事件は既にその概要が国民に知られているので政治家の圧力による事件つぶしはできないと確信したこと。ロ事件を取材していてアメリカのカゲを何となく感じていたこと、などだった。

 しかし、この時の私のミニ講演は不評だった。講演の最後で私は「ロッキー事件の摘発によって、日本の政財界を取り巻く暗部が取り除かれ、日本は比較的きれいになった。これは結果的にはアメリカのおかげかもしれない」と私見を述べた。ところが海外勤務経験者も多かったサロンの出席者は「アメリカのおかげ」に猛反発した。「そんなことはない」「アメリカは日本のためを思って行動するはずがない」「日本の世の中はきれいになんかなっていない」と、酒の勢いもあって激しい反論だった。たまたま初めて参加していた元大学教授もあきれるほど騒がしい発言が続いた。

逗子のミニ講演が鎌倉、藤沢、横浜、東京の講演会と広がっていった

 こっちは無料で取材体験をしゃべっているのだから少しは遠慮しろ、と不機嫌になったが、捨てる神あれば拾う神ありである。ありがたい反響は意外なところからやってきた。このミニ講演を聴いた人のクチコミで知ったという鎌倉市の50人ほどの勉強会から声がかかり、同じテーマでしゃべってくれ、と言われた。鎌倉市後援の公的勉強会だった。見る人はちゃんと見ていたのである。

 鎌倉の会場で話をすると、今度は藤沢市と横浜市の方から声がかかり、70人、100人を相手の講演会を頼まれた。藤沢市の会場では、席の前方にロッキード事件当時の社会部長、牧内節男大先輩が「陸士の同期生から誘われた」と言ってドンと座っていた。これでは釈迦に説法ではないか。緊張からノドがカラカラになり、逃げ出したくなった。

 講演依頼はその後も続き、三井企業グループ各社のOB会では都内の某三井企業本社で80人近くを相手にしゃべった。三井物産はアメリカからの航空機輸入も扱っており、ロッキード事件の内情については私よりはるかに詳しい人もいたが、元第一線現場記者の奮闘ぶりを興味深く聴いてくれた。さらに、その後は神奈川県内のロータリークラブからも頼まれて、当時の自民党政治とロッキード事件について話をした。

 とにかく、この事件の世間の関心は40年以上たっても、ものすごく高いと思った。田中前首相逮捕という昭和の衝撃的大事件だったこと、何年か前から再び田中角栄元首相礼賛の本が出回っていたこと、などから、いまだに人々は事件に興味を示し、熱心に耳を傾けてくれた。

 10人余のミニ講演会から次々と大きな講演会に広がつた反響には自分でもびっくりするほどだった。そのことを今年の年賀状で元NHKの中尾氏に「昨年はロッキード事件の講演を5回もしました」と書いた。彼は新潟勤務時代から田中角栄について取材し、厳しい目を向けていた。世間の田中礼賛ムードを鋭く批判する本を2年ほど前に出版していた。

 中尾氏は、週刊文春からロッキード事件連載の取材に協力してほしいと言われ、私の名前を思い出して、冒頭の電話につながったのだろう。私はそう思っている。ご縁とは誠に不思議なものである。まったく予期しない方向へ発展するものだ。

(板垣 雅夫)

2019年6月3日

活躍する「ヤメ毎」ライター

 月曜日朝、一番に読む山田孝男特別編集委員の「風知草」。今朝は《「日本国紀」をめぐって》 。

 国民のある層が熱心に読む本を、他の層は読まないし、関心がない。
 作家、百田(ひゃくた)尚樹(63)の近著「日本国紀」(2018年11月、幻冬舎刊、累計65万部)も、そういうベストセラーである。

 まず紹介しているのが、ニューズウィーク日本版6月4日号「百田尚樹現象」。
 ノンフィクションライター、石戸諭(さとる)氏(35)のリポートである。
《百田と幻冬舎社長のインタビューを含む豊富な取材と公平な書きぶりで、ほぼ完売したそうだ》

 先週、図書館でこの特集を読んだ。百田現象がよく分かった。
 記事を読んでいて元毎日新聞の記者であることを知った。
 ネットで検索すると、1984年生。立命館大卒業後、毎日新聞→BuzzFeed Japan→個人事業主。記者/ノンフィクションライター。『リスクと生きる、死者と生きる』は読売新聞「2017年の3冊」に選出されたとあった。

 毎日新聞を途中退社して、他紙や他メディアの記者、ノンフィクションライターとして活躍している人たちを「ヤメ毎」と呼ぶそうだ。
 明治・大正・昭和の戦前は、新聞記者の転社は当たり前のようにあった。
 例えば読売新聞「編集手帳」の名コラムニスト高木健夫。記者になったのは徳富蘇峰の「国民新聞」。1927(昭和2)年だった。駆け出しの山形県米沢通信部から社会部。デスクに鈴木竜二(のちプロ野球セ・リーグ会長)がいた。警視庁を担当して、「読売新聞」にスカウトされる。そのあと毎日新聞の前身「大阪毎日新聞」(大毎)の社会部記者に。再び東京に戻って「二六新報」→古巣「国民新聞」→1930(昭和5)年満州「大新京日報」→「読売新聞」新京支局長。「2・26の時は東京社会部にいた」。社会部デスクから東亜部デスク→1938(昭和13)年北京で大毎元社会部長が創刊した「東亜日報」へ。戦後、引き揚げてきて「読売新聞」に戻ったのが1946(昭和21)年6月。「編集手帳」を担当したのは、49(昭和24)年3月1日からだ。
 「新聞記者ほど面白い仕事はない」
 これだけ自由に飛び回れば、そう思うのが自然だ。

 鉛筆1本の人生である。「社畜」を嫌った「ヤメ毎」記者の活躍を祈る!

 石戸氏は、自身のツイッターで「風知草」に取り上げらたことに触れている。
 《古巣・毎日新聞の名物コラム「風知草」にニューズウィーク「百田尚樹現象」を取り上げていただきました。山コラムの後半で山田孝男さんが指摘しているように、近現代史は現代政治と結びついていて、歴史認識は論争の火種になります。だからこそ、現象を分析する意味があるというわけです》

(堤  哲)

2019年5月15日

森正蔵著『あるジャーナリストの敗戦日記』

 5月14日朝刊2面の「火論」で玉木研二客員編集委員が「大本営発表という麻酔」で森正蔵著『あるジャーナリストの敗戦日記』から引用している。

 <満州事変以来、新聞記者の活動が窮屈になつて、つひには発表ものだけで新聞を造ると云(い)ふ程度にまで押込まれて来た。記者はそこで特に勉強しなくてもやつてゆけることになり、殊に取材の苦心、記事の書きこなしなどといふことを知らなくなつてゐる。若い記者の再教育、新しい記者の養成が当面の大きな問題にとなつて現はれて来たのである>
=1945(昭和20)年8月25日の日記。

 玉木は、横浜の日本新聞博物館に展示された戦時新聞を素材に、大本営発表を基に、記事、写真、地図を展開した「殲滅(せんめつ)」紙面を批判している。

 1942年6月、「ミッドウェー海戦で致命的大敗をしたことをあたかも勝ったように取り繕ったものだが、記者たちが発表を深く疑った形跡はない。むしろ、景気よく戦勝ムード一色の紙面作りに、高揚していたかのようにも映る」と綴る。

 詳しくは「火論」を読んでもらいたい。

 森正蔵は敗戦まで論説委員をつとめ、辞表を提出している。

 「私儀今次戦争期間を通じ戦争に直接関係する社説を執筆し来り候処、戦局は我が敗北を以て終結致候段顧みて責の軽からざるを思ひ茲に辞表願出候也」

 しかし、辞表は受理されず、社会部長を命ぜられる。

 森正蔵が社会部の記者とともに執筆、敗戦4か月後に出版した『旋風二十年―解禁昭和裏面史』は一大ベストセラーとなった。「抑圧された言論、歪められた報道」で国民に知らされなかった「真実」を明らかにしたものだ。

 玉木客員編集委員が引用した『あるジャーナリストの敗戦日記』の続編として、森の息子で元毎日新聞編集委員の森桂(77歳)は父親の残した42冊の日記を3年がかりで『挙国の体当たり―戦時社説150本を書き通した新聞人の独白』(2014年、毎日ワンズ刊)を発刊している。

(堤  哲)

2019年5月7日

「EEE-CHEE-ROH」③

 佐藤健著『イチロー物語』の元になった毎日新聞連載「わたしの生き方 イチロー」(1995年3月14日~7月1日)で写真を担当した荒牧万佐行元写真部編集委員から連載で紙面化された写真が届いた。

 写真説明は、左上から時計まわりに、
「体をほぐすイチロー」。イチローストレッチである。
「イチローは帽子を後ろ向きにかぶるのが好きだ」
「ユニフォームを脱ぐと鋼鉄のような体」
「守備につくと風向きをチェック」

 それにしてもイチローは若い。あどけない。21歳の素顔である。

(堤  哲)

2019年4月26日

『ロッキード事件取材全行動』と『児玉番日記』

 「週刊文春」のGW特集号に『毎日新聞ロッキード取材全行動』(毎日新聞社会部著、講談社1977年2月刊)が出てきた。

 ロッキード事件の第一報が1976(昭和51)年2月5日朝日新聞朝刊2面に掲載された日のことを「ロッキード角栄はなぜ葬られたか」連載第45回で綴っている。

 ――5日未明の毎日新聞の様子は、同社社会部がまとめた『毎日新聞ロッキード取材全行動』に克明に記されている。

 ロッキード事件報道は、ここから始まった。

 毎日新聞編集局では、朝刊が降版したあとに外信部のデスクが、UPIから配信されていたといってテレックスを社会部デスク(故原田三朗)に持ってきた。

 米上院チャーチ委員会で「児玉誉士夫がロッキード社から708万5千ドル(約21億円)を受け取った」事実が明らかになったのだ。

 翌日の朝刊に入れたのは朝日新聞だけで、それも2面だった。

 原田は夕刊での紙面展開のため、警視庁クラブをはじめ警察庁、司法クラブ、航空・運輸担当者に電話連絡した。

 ――当時、毎日新聞の司法クラブ担当だった高尾義彦は、早朝に電話で叩き起こされた。

 「毎日新聞の司法クラブ員で一番の若手の30歳で、検察担当でした。朝日の記事を読んですぐに、検察庁に向かいました」

 ――「最初のミッションは、児玉の居場所を探すことでした」と高尾。

 ここで『児玉番日記』が紹介される。最初はサツ回りが交代で児玉邸を張っていたが、そのうちに首都圏をはじめ地方支局から応援を得た。

 張り番の記録を大学ノートに残した。

 《体と神経がすり減るのに、新聞に児玉番の記事が1行も出ない日がほとんどだ。
  忍び、耐える。》

 これをサブデスクの故根上磐がまとめ、毎日新聞出版局から出版したのだ。

 毎日新聞の最初の特ダネが「児玉、臨床尋問へ」。3月5日夕刊1面トップだった。

 故才木三郎が掴んだ。

 午後2時55分、黒塗りの乗用車が児玉邸通用門前に止まり、検事らしい2人が階段を駆け上って通用門をくぐった。

 しかし、東京地検は、この事実さえ認めない。むろん発表もしない。

 『全行動』にこうある。《ふつう、夕刊で抜かれた記事は、夕方、印刷する朝刊の早版までには追いつくのが通例である。結局、他社が確認できたのは、検察幹部の家へ夜回りに行ってからのことだった。これだけ、鮮やかな抜きっぷりというのは、まったく珍しいことだった》

(堤  哲)

2019年4月9日

「EEE-CHEE-ROH」②

 佐藤健著『イチロー物語』を読み返してみた。

 ――実物のイチローを初めて見たのは94年秋である。当時、私は新聞で「若者観察学入門」という記事を連載していた。若者としてのイチローを観察しに所沢の西武球場へ出かけて行ったのだ。

 これが書き出しである。

 毎日新聞の連載「わたしの生き方 イチロー」は1995年3月14日~7月1日とある。

 95年10月5日発行で、手元の本は、2週間後の10月25日5刷となっているから、売れ行きがよかった。

 イチローは1973(昭和48)年10月22日生まれ。体重が4280gもあった。

 二男なのに、「一朗」だ。

 3歳の時に野球に出会い、チチローは右利きのイチローを左バッターに変えた。

 「何といっても左バッターは有利ですから」

 小6の時に書いた「夢」という作文。

 ――ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校で全国大会へ出て、活躍しなければなりません。活躍できるようになるには、練習が必要です。ぼくは、その練習にはじしんがあります。ぼくは3歳の時から練習を始めています。3歳~7歳までは半年位、3年生の時から今までは365日中360日は、はげしい練習をやっています。…けいやく金は1億円以上が目標です。

 愛工大名電で春、夏甲子園に出場。1991年ドラフト4位でオリックスから指名された。契約金4千万円、年俸430万円。

 プロ入り3年目。新監督仰木彬が、登録名をイチローに変えた、といわれる。

 「3試合で5本のヒットが打てる」とコーチから太鼓判を捺されていた。

 ミスタータイガース藤村富美雄がシーズン140試合制の時につくった最多安打191本を115試合目に追いつき、130試合のシーズンを終えて210安打、本塁打13本、打点54、盗塁29、打率3割8分5厘。史上最年少でMVPを獲得した。

 これから先の活躍は、ご存知の通り。今回も国民栄誉賞を辞退したというから立派だ。

(堤  哲)

2019年4月5日

センバツ優勝「東邦」学園の理事長は毎日新聞OB

 「平成のセンバツ 最後の栄冠も東邦に輝く」

優勝を喜ぶ榊直樹理事長

 これは学校法人東邦学園(名古屋市)のHPにアップされた記事だが、東邦のセンバツ優勝は30年ぶり。平成の始まりと、終わりにセンバツを制したのである。

 センバツ優勝回数も最多の5度目である。アルプススタンドの応援席でこの快挙を見届けた同学園の理事長・榊直樹さん(68歳)は、元毎日新聞の政治部記者。元号取材班の1人として、現在の小松浩主筆らとともに「平成」を追った。

 「因縁を感じますね、平成の最初と最後の優勝。これほどの感激はありません」

 毎日新聞の朝比奈豊会長が浦和支局長時代の次長(デスク)。「彼はがんばり屋で優秀な次長でした。毎晩、支局に泊まり込み状態で県版の内容を販売店にファックスして愛読者拡張に貢献してくれました。頼りになるデスクでした」と朝比奈会長。

 毎日新聞での記者生活は32年。政治部デスク、政治担当論説委員、編集総センター室長などを歴任した。

 2006年に曽祖父の創設した東邦学園に転じ、2008年から理事長。2009年から東邦高校校長を2年間兼務し、2015年4月には愛知東邦大学学長に就任している。

 おめでとう!榊理事長!

(堤  哲)

2019年4月3日

脊椎6個も骨折手術 闘病記 2019/3/24

 2011年1月末にリタイアした。それから1か月半後に東北大震災が起きて、忘れられない年になった。

 さらに4か月後、私は自宅で脳梗塞になって救急車で病院に運ばれて、2週間入院した。回復はしたが、長年の疲労も重なって、心身脳力は落ちて日常生活のペースはなかなか戻らなかった。

 さらにさらに、2016年8月には乳がんの手術をしたが、術後すぐに動いて炎症を起こして再入院、結局2か月をまた病床ですごすハメになった。

 がんは克服したが、足の筋肉が衰えて歩くことが難しい。少しずつ自己流トレーニングで長い距離も歩けるようになったら、こんどは脊椎をやられてしまった!

 というわけで、竹橋を離れてからの8年のほとんどを、病気を道連れに過ごすことになっている。その間、『サンデー毎日』連載、文春新書上梓と「終活」ができたことは、周囲の方々のご支援の賜物、感謝、感謝です。

 さて、最新情報の「脊椎圧迫骨折」の闘病記をお届けしたい。高齢社会のほとりで出会った「災難」は、寝たきり・介護・入院・リハビリなどなど、カケラではあるけれど、やがて来る日々の予行演習みたいなものだと、反省も込めて向き合っている。

 お役に立つ情報もあるかと思い、悪魔のような痛みの記憶のなかから、3か月を再現してみた。

☆  ☆  ☆

 気の向くままにバス停に立って、やってきたバスに乗る。都バスを利用すると、「遠出」の選択は広がる。高齢者用のシルバーパスのおかげで、懐具合を気にせずに出歩ける。

 2018年12月22日、冬至の午後。友人宅を訪ね、バス停近くまで来たら、目の前をバスが! 乗り遅れては大変と猛ダッシュして、間に合った。長いこと、ゆっくり歩いて、青信号でも時間の余裕を見てわたるほど用心していたのに、これはもう長年身体に刻み込まれた「条件反射」としかいえない危険行為だった。しかし、なんという反応もなく帰宅して、小さな「勇気」は忘れてしまった。

 夜更けに、ベッドで寝がえりを打とうとした瞬間、ギャーっと声をあげるほどの痛みが襲った。胸の骨組みがバラバラになってしまうように激しく揺らいで、そのままうずくまり、どれほど経ったか、ようやく少し身動きできた。それでも痛みが治まったので、翌日はクリスマスイヴの日曜日だから、病院は何処も休みだろうと、じっと、そっと、ベッドに横たわって過ごしたが痛みは治まらず、救急外来を訪れた。ヘルパーさんに頼んで同行してもらった。しかし、担当が内科医だけとのことで、心電図と血液検査だけで内臓には問題はないと帰された。

 翌日に整形外科へという選択もあったが、救急外来で紹介なしなので1万円も取られていたため、また同じ請求を受けるのかと二の足を踏んで、鍼灸治療に行った。痛みは変わらなかったが、身体はほぐれて楽になった気分だった。しかし、ちょっと動くと激痛が襲う状態は変わらない。思い切って、友人が通ったという整形外科に、タクシーで出かけた。

 レントゲンを撮るだけで痛い! しかし、丁寧に診察してくれて、「リハビリを3か月ほどすれば痛みは消えるだろう」とのこと、痛み止めと湿布をもらって帰宅するが、近くのタクシー乗り場までも行けずに、クリニックの事務員が介助してくれた。この整形外科はAKAー博方式という独自のリハビリで、結果も良いといわれている評判に背中を押されて、二週間に一度の通院を始めた。

 並行して鍼灸治療も続けて年を越し、1月半ばになると、激痛が取れてきた。痛みはあるが、寝返りもできない状態から解放されて、また出歩き始めた2月末の朝、軽いはずの小さな椅子を持ち上げたとたん、ギックリ腰になって、動けなくなった。

 都内の高齢者向けのサービスに、警備会社にコールすれば、すぐに駆け付けてくれるシステムがあって、連絡して、警備会社からガードマンが駆けつけて、119番通報、救急車がやってきた。友人も駆けつけて救急車に同乗し、病院へ。ガードマンは同乗できないので、付き添いが必要になる。

 救急対応で入院、数日して歩けるからと退院させられ、自宅に帰ったが、その晩再び寝返りが打てない。痛み止めを手の届く枕のわきに置いておいたが、反対側を向いていた時に痛みが襲ったので、これを取ることができない。深夜ながら、近所の友人が助けてくれた。

 独り暮らしの知恵で、緊急事態が予想されるときは、携帯電話をパジャマのポケットに入れて取り出せるようにしておいたので、これを使って再び警備会社に連絡した。システムとしては、緊急用のボタンがついてペンダントともう一つの器械を手元近くにおいて、誰かの手が必要と思ったら、ボタンを押せばガードマンが駆けつける。しかし、手元にないとダメ、今回も警備会社には携帯で連絡し、ふたたび呼びだして救急車を呼んで医療センターに行った。

 今度も、痛みが取れたら帰宅、というふうなことをドクターが言うので、「入院!」と強く要求し、その晩から入った。有料個室だが、広くて新しい部屋が1日15000円、痛みがなければ快適ではある。生命保険で全額ではないがカバーできる。

 MRIの結果、脊椎6個に損傷があり、4個は完全に圧迫骨折、2個はスカスカ状態と血管がダメとかで、一度に手術、通常は2時間だが、倍はかかったようだ。局部麻酔ではあるが、意識はなく、終了後は痛み止めを必要としている。しかし、すさまじい痛みから解放されて、救われた。

 救急病院のリハビリ体制は完ぺきではないとのことで、リハビリに重点を置く病院に移り、現在は午前と午後にみっちりリハビリをしている。

 独り身で、身近に動いてくれる親族もなく、転院手続きはすべて救急病院のソーシャルワーカーと先方病院の事務方が進めてくれた。さらに、これまで介護予防システムの世話をしてくれたケアマネージャーが、介護申請もしてくれ、また、脳梗塞以来ケアしてくれるヘルパー事務所からヘルパーに来てもらって、退院や外出をサポートしてもらった。

 行政窓口に相談すると、困っているところは、かなりサポートしてもらえることを、高齢者はもっと知ったほうが、安心して暮らせると思う。それぞれの地方自治体でシステムは異なるが、選択できるものを利用したほうが、そしてできれば困ってからではなく、早めに調べておいたらいいかと、思っている。私は、脳梗塞のあと、「区報」の情報を頼りに支援を依頼したのが、今回の援護につながっていた。

(岩尾光代)

2019年3月26日

「EEE-CHEE-ROH」

 イチローがメジャーデビューをしたのは、2001年。マリナーズ球団は、日本からの新人ICHIROについて、「EEE-CHEE-ROH」と発音してください、とファンに広報をした。「ITCH―eee―roh」や「eee-CHEER-oh」では、ダメですよ、と注意をよびかけたのである。

 マリナーズはその年、116勝46敗。勝率7割1分6厘という驚異的な勝率を残した。1番・ライトのイチローは692打数、242安打、打率3割5分で、ア・リーグの首位打者、盗塁も56を記録して盗塁王にも輝いた。そしてMVP(最高殊勲選手)に選ばれた。

 誰がこれだけの活躍を予想しただろうか。

 イチローは引退の記者会見で、メジャー挑戦の恩人として、当時のオリックス監督の仰木彬の名前をあげた。1991年ドラフト4位で愛工大名電高からオリックスに入団した。

 契約金4千万円、年棒430万円。

 打者としての才能を見抜いたのは、オリックスのスカウト三輪田勝利だった。毎日新聞運動部の六車護元部長は、早大野球部の同期で親友だった。

           ◇

 宗教記者として有名になった佐藤健は、2002年暮れにがんで亡くなった。その病室にはイチローのカレンダーがかかり、サイン入りのスパイクを見せて「イチローが送ってきたんだ」と得意気だった。

2002年12月東大病院病室で

 佐藤健の著書に『イチロー物語』(1995年10月毎日新聞社刊)がある。六車運動部長のあっせんでイチローを取材、毎日新聞に長期連載したものをまとめたものだ。 沖縄のキャンプで「健さん、また二日酔いでしょう」とイチローからいわれるほど、イチローと親しくなっていた。

 編集委員室でよくイチローの真似をした。打席に入ってからの独特の仕草を、寸分違えずに演じるのだが、右でバットを構え、「イチローは左だぞ」と六車部長から茶々が入ったこともあった。

 佐藤健は、がんとの闘いを亡くなるまで毎日新聞で連載していて、もはや自身で執筆はできなくなって、社会部後輩の萩尾信也記者(のち日本記者クラブ賞を受賞)が病室で聞き書きをしていた。

             ◇

 写真をもう1枚。昨年6月20日、ヤンキースタジアムで私が撮った。ヤンキースとマリナーズの試合前。同行の日ハム球団の小嶋武士元社長がヤンキースに出向していた時に、キャッシュマン現GMと一緒に仕事をしていた関係で、GM室に表敬訪問したあと、グラウンドに降ろしてくれた。

2018年6月20日NYヤンキースタジアムで

 イチローはマリナーズの選手と一緒にストレッチをし、試合前の練習をしていた。試合が始まればベンチにも入れないのだから、ツライと思うのだが、引退会見では、試合に出ないのにチームに帯同して練習を繰り返していたことを評価していた。

 イチローの引退会見は、午後11時56分から始まり、85分に及んで、終了は午前1時20分過ぎだった。BS日テレで最後まで見てしまった。

 菅官房長官は翌27日の記者会見で国民栄誉賞を検討しているといったと伝えられる。2001年にも国民栄誉賞は検討された。その時は、イチローが「まだ28歳。発展途上」を理由に辞退している。

(堤  哲)

2019年3月1日

『ゆうLUCKペン』第41集に、反響第1号。

社会部の事件記者(知能犯の警視庁捜査2課担当)、サンデー毎日編集長を務めた牧太郎さんのブログ2月15日からーー。

「自由」とはなんだろう?毎日新聞の堀込藤一先輩に学んだ

 最近「俺は自由なのか?」と考えている。

 相変わらず自由にモノを書いているつもりだが……実は雁字搦め!という気分になることも、ないではない。すると、ちょっと落ち込む。

 このところ、同期生が次々に、この世を去り、俺にも「その日」が確実にやって来ると思うと……これから、どう生きるのか?

 何となく「不自由な余生」を予感したりする。

 この歳になると「自由に生きること」の難しさを、ことさら感じる。

 大体、俺にとって「自由」って、何だろう?

 昨日(2月14日)、三田病院で例の糖尿の検査をしている時も、そんな愚にもないことを考えていた。

 糖尿病で好きなものが食べられないのは、やっぱり「反自由」だ(笑)。

 仕事場に戻ったら、毎日新聞OBが作る同人誌「ゆうLUCKペン」が届いていた。

 なにげなく、パラパラと巡ってみたら

 【私にとっての「自由」堀込藤一】という作品が目にとまった。

 堀込先輩は東京、大阪、中部本社で広く活躍された方だが、年齢も離れ、名前ぐらいしか知らない。90歳の大先輩である。

 その大先輩が「生まれて初めて“自由”を意識したこと」を書いている。

 長野県神川小学校4年生の思い出。掘込少年が地面を赤く塗った友人の風景画に「赤い土なんかない。土は茶色だよ」とケチをつけた。すると先生は「夕焼けに照らされた土は赤く見える。澄んだ川も雨で泥が流れ込めば、黄色ににごる。見たまま、感じたままを自由に描くのが大切だ」と話した。

 この堀込先輩の「思い出」で、やっと「自由」の正体が分かったような気がした。

 「見たまま」「感じたまま」に、生きれば良いんだ。他人と違って良いんだ!

 当たり前のことかも知れないが……そう思ったら、ちょっと元気になった。堀込先輩、ありがとう。

 そうそう、血糖値の検査結果はまずまず。医師に「頑張りましたネ」と言われたが……以後、我が減量生活はどうなるのか?(笑)

(牧 太郎氏)

2019年1月10日

60年安保6.15の社会面をつくった三木正デスク

毎日新聞時代の三木正さん

 『新聞記者 山本祐司』(水書房2018年刊)に、牧内節男さんが追悼文を寄せているが、山本祐司さんが入社した昭和36年は「逸材が少なくない」として、その理由に、毎日新聞の60年安保6.15報道を挙げている。

 《6月16日朝の毎日新聞の紙面は朝日・読売と違って異彩を放っていた。それはなぜか。わが社は感情的な部分を削って、起こった事実だけを報道したのに、他社は編集局の幹部が原稿をチェックしたからである》

 《この紙面を見て有為な人材が毎日新聞に入って来た。山本君はその一人であった》と。

 では、この日の社会面は、誰がつくったのか。社会部長杉浦克己、当番デスクは三木正。

 《毎日新聞の紙面に対し、読者室にも販売店にも、感謝と激励の電話が寄せられた。しかし当時の社会部長は社長や編集局長から叱責を食った》とも書いている。

 毎月一回、毎日新聞5階の毎友会の事務局で、毎日カフェが開かれている。主は元情報調査部の松下礼子さんだが、ここの書棚で三木正さんの著作を見つけた。6.15社会面づくりのことも書いているが、三木さんは「直前まで各紙の先頭に立って安保闘争の世論をあおっていた対抗紙が、6月16日付朝刊で豹変した紙面づくりをした」と ショックを受けたことを吐露している。

 三木さんは、その後「サンデー毎日」デスクから編集長になるが、最大のヒットは「大学合格者高校別一覧」の掲載である。

 1964(昭和39)年3月末。編集長岡本博。デスクの三木は、帰宅の電車内で大学新聞の東大合格者の名簿を見ているうち「合格者を高校別に調べたら面白い記事になるかもしれない」。帰宅してすぐ編集部の増田れい子さんにペラ30枚(200字の原稿用紙で30枚)の記事を手配。自らは高校別の一覧表を徹夜して作成した。

 「これが東大合格ベスト20高校」

 5ページの特集記事だった。それが売れた。

 翌年は編集長になって、大学を広げて「有名大学へどの高校から入るか――出身校別合格者一覧」となった。

 三木さんは、サンデー毎日の発売日、都心のターミナル駅の売店を見て回っていたが、この号は、2日目にはどこの売店も売り切れだった、と書いている。

 社内から「教育の毎日が受験戦争をあおるような企画をやるのはケシカラン」という批判があり、筋の通ったタテマエ論に、説得力のある反論は難しかった、とも。

 この企画は、現在も続いている。「サンデー毎日」の売り物のひとつには違いない。

 もうひとつ、三木さんの当意即妙ぶりに感心したことがある。かつて「サンデー毎日」の売り物だった長谷川町子の「いじわるばあさん」連載開始のいきさつである。

 三木さんは編集長になって、連載「エプロンおばさん」の作者、長谷川町子さんに挨拶に行った際、《「エプロンおばさん」は「サザエさん」と同じホームマンガで、疲れたから、もうやめたい》といわれた。

 その時、とっさに《それなら「いじわるばあさん」をお願いしたい》と対案を出した。

 長谷川町子さんによると、「サザエさん」はヒューマニズム、「いじわるばあさん」は煩悩だという。自由奔放、果敢に世の偽悪をあばいて痛快無比。「サンデー毎日」で圧倒的な人気を誇った。

 三木正さんは、1990年8月27日没、70歳だった。

(堤  哲)

2018年12月21日

麹町寮の思い出

 弟と私の小学校の1学期が終わると同時に、我が家は甲子園から千代田区平河町、毎日新聞麹町寮の裏隣の借家へ引っ越した。

 その春、大阪本社から東京本社へ転勤した父は、麹町寮に滞在しながら新居を探していたが、寮母の小泉さんのお世話で、麹町寮の隣の借家へ住めることになったのだ。

 麹町寮を取りしきる寮母の小泉さんは、伝説の編集長の未亡人。一人娘であるお嬢さんの夫は、当時、毎日新聞に「教育の森」を絶賛連載中の学芸委員、村松喬さん(お父上は作家村松?風、甥御さんは直木賞作家村松友視氏)だった。そして村松夫妻は、我らが新居と同じ家主、同じ敷地の借家に、先にお住まいだったのだ。

 寮母小泉夫人の亡夫の伝説とは:

 第2次世界大戦敗戦後の混乱期、社受付に、抜身の日本刀を引っさげた右翼が、編集長との面会を求め、氏は素手で一人、敢然と対面し、右翼を追い帰し、毎日は事無きを得た。しかし、他社は対応を誤って大混乱に陥った。

 ― というものだった。

 とにかく寮母小泉さんはしっかりした方だった。父幸川彰が西部本社へ転勤になった折も、当初、私達家族は、父と一緒に北九州へ越そうとしていたのだが、家族は平河町に留まり、父が単身赴任になったのも、小泉夫人が、私達子供達、特に弟のために、今の教育環境を手離すべきでは無い。母と子供は留まるべき、と母を説得したからだった。

 麹町寮は、東京へ出張して来た社員の宿として、あるいは父の様に、東京へ転勤が決まり、新居を探す者の仮りの家としての役割以外に、盛んに宴会場として使われていた。

 宴会の夜はとてもにぎやかだったが、当時、静かな住宅街の平河町でも、そんなことを問題にする人はいなかったようだ。

 宴が終わりに近づくと、すぐにわかった。カラオケのない時代である。宴たけなわの頃に歌われるのは流行歌。やがてそれが軍歌になり、

 ―あの子はだ?れ、だれでしょね?
 ―夕焼?け、こやけぇの、赤トンボ?

 童歌になると、間もなく終わる。

 寮と我が家の間の、石塀の両側には、足場に木箱が置いてある。村松夫人がご母堂の小泉夫人との往き来に使っていたのだ。

 童歌が終わって静かになると、父が石塀を乗り越えて帰って来る。

(幸川 はるひ)

2018年12月3日

「竹橋通信」が丸谷才一さんにほめられた

客員編集委員 冠木雅夫さん

 毎日新聞の書評欄「今週の本棚」の評判がよいのは、こんなことにも起因している。12月3日付朝刊に掲載された客員編集委員・冠木雅夫さんのエッセーの再録。

 今は亡き作家の丸谷才一さんがプロデュースし、今も元気に続いている毎日新聞の「今週の本棚」が登場したのは1992年4月、ぜいたくな執筆陣の長文の書評と和田誠さんのしゃれた紙面設計で読書界をアッと言わせたものでした。英国流の書評文化を日本でも、という丸谷さんの提案を当時の編集局長が「ほいきた」と受け入れて始まった紙面です。私がデスクを担当したのは開始から3年半後、先生方とのお付き合いも含め楽しい時間を過ごせたと思います。

 週3ページをデスク1人記者1人という最小の編集部で切り盛りできた秘密は、「竹橋通信」というニュースレターにありました。竹橋は毎日新聞本社の所在地。A4判 10ページ前後で30人余の執筆者だけに週1回郵送するミニコミ紙です。掲載スケジュールや編集部に届いた新刊本のリストなどの連絡が主ですが、この「書評サロン」を維持するために大切なものがありました。あいさつ代わりの400字から800字ほどの前説、落語でいえば枕です。なにしろ読者はそうそうたる皆さん。「ゆめゆめ手を抜かないように」というのが前任者からの引き継ぎでした。少しは気の利いたものをと力んでみたものの、浅学非才の身、埋めるのがやっとだったと思います。

 苦し紛れに書いたのが編集部の楽屋話。たとえば、ある先生に誘われ、ぎっくり腰をおして京都の都おどり見物にいった話。痔(じ) の手術で休んだら同病の先生が次々と名乗り出た話。さる会社の引っ越しに遭遇し、不要品の椅子やクツベラをもらってきた話。故郷の喜多方で朝ラー(朝のラーメン)を食べてきた話。まあ、どうということのないものばかりでした。

あの言葉は一生の宝になりました

 そうこうするうち迎えた97年4月、書評欄関係者が一堂に会するパーティーで、あいさつに立った丸谷さんがこう切り出したのです。

 「この間、村上陽一郎さん(執筆者の一人、科学史家)にお目にかかりましたら、『竹橋通信の前説の文章、面白いですね』とのことでした。たしかにその通りで私も毎日曜、あれを楽しんでいます。うちのものも愛読者でして、わたしが読み終わるとすぐ、読んでクスクス笑って、それから『短評一つ書いてあげなさいよ』などといいます。実にあっさりと冠木さんの術中にはまっているわけです」(短評とは短い書評、不足して前説で訴えることもありました)

 身に余る賛辞に私は身を縮めていましたが、話は3人の前任者も含めて「知的で明るい文体で書評執筆者の趣味に合っている」と進んでいき、さらに、他の新聞が同じことをしたらということで、

 「もしも築地通信社の前説ならば、戦後民主主義の精神と読書人の使命(笑い)なんてことを書く、大手町通信の前説ならば、今週のジャイアンツに一喜一憂してばかりいる(笑い)。あまり面白くないでしょうね」と続いたのです。丸谷流のジョーク全開でした。

 いや、なぜ私がスピーチを克明に再現できるかと言うと、当時の「竹橋通信」のコピーを今も大事に持っているからです。会合でのスピーチも定番記事でした。

 丸谷さんは月曜午後に電話をかけてきて、書評欄を品評するのが常でした。執筆者には手紙で注文を付けたり称賛したりしていました。怖い半面、やる気の増す人もいたでしょうが、そうやって書評チームを運営していたのです。私も術中にはまったのですが、それはともあれ、あの言葉は一生の宝になりました。私の当時300号を超えた「竹橋通信」、今では1320号を迎えています。

2018年11月8日

父の思い出

 私の父は幸川彰(1996年没、70歳)、1996年に70歳で亡くなりましたが、「幸川」と名乗ると、「あぁ、あの幸川さんの娘さんですか」といまだに言われます。先日、竹橋女子会に出席したおりに、「父の思い出」を書くようにと勧められて、二つほど書きました。これも、毎日新聞のささやかな「記録」になればいいなぁと思いつつ。

父の思い出 その1「スクープ記事を作る」

 「ほら見てみい、すごいやろ!」父が広げた紙面の上半分を大きく占める写真には、外国の空港の滑走路で、機体がポッキリと二つに折れた旅客機が写っていました。

 整理部にいたころです。

 父が語ったところによると、その日は特に大きな出来事が無かったので、紙面のトップを何にするか悩んでいたところへ、アメリカの空港で起きた、センセーショナルな光景の航空機事故の写真が、外電で配信されて来たのだそうです。

 これでいこうと閃めき、早速、米国の駐在経験もあり、名文家で知られた外信部の山内大介さん(のちの社長)に、「これトップにするから記事書いてくれへんか」と依頼。その空港にも詳しい山内さんは、まるで事故現場を見て来たように臨場感たっぷりな記事を付けました。大きく衝撃的な写真と、大介さんの活き活きとした文章で、大事件の紙面はできました。

 半日遅れで他紙は続々と後追いし、機体の損傷の大きさにもかかわらず、奇跡的に人的被害の少なかった外国の航空機事故も、スクープになってしまいました。

 大介さんの、ペンの力業です。

 山内さんと父は、部長賞をいただきました。

父の思い出 その2「単身赴任した「絶海の孤島」の孤独な日々」

 昔、各本社は、全く別々に紙面を作っていました。ファクシミリなど通信回線の発達があり、各本社間で連携していく過程で、西部、大阪、東京と、三本社の整理部の経験のある父は、60年代後半から、その基盤作りに単身、西部本社整理部に赴任しました。

 西部本社の方達は、父を、西部本社整理部をなくすため、合理化のためにやって来たと思いました。実際、その時点では、各本社の役割分担は、まだ確と決まってはいなかったようです。

 父の机の周りにも、天井からも、「東京本社の犬の幸川は、東京へ帰れ!!」というビラが貼りめぐらされ、毎日、一日中、にらむか、見えないかのように無視され、誰一人、口をきいてくれず、父の机は絶海の孤島。多弁な父が、誰とも話せない孤独の日々が続いたそうです。

 その後、父にとっても、整理部のキャリアをスタートさせた西部本社整理部の、全毎日の中での在り方が決まり、足かけ7年の単身赴任は終わり、父は無事、私達家族の待つ東京へ帰って来ることができました。

 20余年の後、父が亡くなった折には、西部本社の整理部員だった方々からも、今日の自分が在るのも父のおかげなどと、丁重な、お悔みのお手紙をいただきました。

(幸川 はるひ)

2018年10月14日

僕の後半生を育ててくれたのは、毎日新聞てした――井上靖

井上靖氏

 毎日新聞10月14日付「今週の本棚」に、長男が選ぶ井上靖「この3冊」が掲載されたが、井上靖(1991年没、83歳)は元毎日新聞記者である。

 1936(昭和11)年入社。「サンデー毎日」に小説を応募・受賞したのがきっかけだった。「サンデー毎日」編集部、軍隊から戻って学芸部で美術と宗教を担当した。敗戦の45(昭和20)年8月15日、大阪本社社会部の当番デスクだった。「玉音放送を拝して」を自ら書いて、社会面を埋めた。

 《十五日正午――それは、われわれが否三千年の歴史がはじめて聞く思ひの「君が代の奏だった……詔書を拝し終わるとわれわれの職場毎日新聞社でも社員会議が二階会議室で開かれた……一億団結して己が職場を守り、皇国再建へ発足すること、これが日本臣民の道である。われわれは今日も明日も筆をとる!》

 1950(昭和25)年、小説「闘牛」で芥川賞を受賞した。モデルは同じ毎日新聞記者で5歳下の小谷正一(1992年没、80歳。早瀬圭一著『無理難題「プロデュース」します』=岩波書店、2011年刊)だった。

 その年に、下山事件を題材にした『黯い潮』(文藝春秋)を発表している。「自殺」説を貫いた毎日新聞社会部の平正一キャップら毎日新聞記者がモデルである。

 翌51年に退社して、作家生活へ。井上が新聞記者だったのは、29歳から44歳までの15年間だった。

 1976(昭和51)年文化勲章受章。新聞記者出身の作家としては初、と社史にある。

 『「毎日」の3世紀』には、こんな言葉を紹介している。

 《「僕の第2の故郷は関西です。気候が温暖な伊豆の田舎に育ったので、心情的に合わない面もありましたが、一生のうちでもっとも大切な時期を関西で送りました。僕の後半生を育ててくれたのは、毎日新聞てした》

 さて、長男の筑波大名誉教授・井上修一さんが選んだ「この3冊」は、①しろばんば②夏草冬濤(ふゆなみ)③北の海、である。

(堤  哲)

2018年10月12日

広島カープの初代監督石本秀一(野球殿堂入り)は毎日新聞OB

 広島カープがセ・リーグV3。
 本拠地マツダスタジアムは、真っ赤に染まる。それを支える「カープ女子」。こんな現象を誰が予測しただろうか。

 広島カープ初代監督は、「真剣刃渡り」で有名な石本秀一(1897?1982)である。元毎日新聞広島支局員。

 石本は、広島商業の投手として、現在の夏の甲子園大会の第2回、第3回に連続出場した。1916、17(大正5?6)年である。石本キャプテンのとき、1年生だった浜崎真二(野球殿堂入り)は「当時の広商に監督はおらず、石本さんがすべての指揮をとった」と、著書に書いている。

 関西の大学を1年で中退、満州に渡って、三井物産に勤務し、大連実業団で活躍する(「わが信念の野球」ベースボール・マガジン1950(昭和25)年6月号)。

 満州の早慶戦、大連実業対満鉄戦(実満戦)で活躍。地元大連商のコーチをして、夏の全国大会に2回出場させている。1921(大正10)年は初出場でベスト4に食い込だ。

 1923(大正12)年9月、故郷に帰った石本は大阪毎日新聞広島支局の記者になる。26歳である。

 仕事の合間に母校広島商野球部のコーチをした。そして翌24(大正13)年、甲子園球場が落成した年に全国制覇している。文字どおり「夏の甲子園」優勝第1号である。商業学校が初めて優勝したこと、深紅の優勝旗が神戸以西に初めて行ったことを大会史は特筆している。

 広商は、1929、30(昭和4?5)年に夏の甲子園大会2連覇。さらに31(昭和6)年春のセンバツで優勝、そのご褒美でアメリカ遠征をした。

 石本は、アメリカ報告を毎日新聞広島版に連載、それを元に『広商黄金時代』(1931(昭和6)年大毎広島支局刊)を出版している。

 伝説の「真剣刃渡り」は、その際の選手の精神統一法で取り入れたが、当時の選手鶴岡(旧姓・山本)一人(野球殿堂入り)が書いている。

 《全国大会の前には、甲子園の近くの民家を借りて合宿した。その時にやらされたのが「真剣刃渡り」である。…日本刀の刃を上にして置き、かけ声もろとも、それを素足で踏んづけて渡る。気合を入れ、気持ちが集中してさえいたら傷つかない。それで度胸もすわるというのが「真剣刃渡り」だ。実は刃はついていないのだが、見ただけでも恐ろしかった》=「私の履歴書」(1984(昭和59)年日本経済新聞連載)

 石本は、1936(昭和11)年、プロ野球大阪タイガース(現阪神)の監督に招かれ、毎日新聞記者を退職する。打倒巨人! 翌37(昭和12)年秋のシーズンと、翌38(昭和13)年春に連続優勝した。

 その後、名古屋金鯱軍2年―大洋―西鉄。戦後、結城―金星2軍―大陽ロビンスと、監督を転々とした。

 そしてセ・パ2リーグとなった1950(昭和25)年、創設された市民球団広島カープの初代監督に就任する。

 ここではお金集めに苦労する。シーズン途中で選手の給料が払えない事態に陥った。伝説の「樽募金」が始まったのは、この時である。

 石本は、監督業そっちのけで後援会づくりに走り回った。

  身売りか解散か
   カープに危機

 《カープ全選手の給料支払いがすでに20日も遅配となり、そのため選手の留守家族から連日矢の催促が遠征先に舞い込み、ために選手の士気もとみに低下の一途をたどっている》=「日刊スポーツ」同年11月18日付。

 カープは、セ・リーグ8チームの最下位に終わった。

  41勝 96敗 1分、勝率.299

 優勝した松竹ロビンスとは、59ゲームも差がついた。

 最下位の1つ上、第7位は国鉄スワローズだった。

  42勝 94敗 2分、勝率.309

 今シーズン、優勝はカープ、2位はスワローズだから、時代は変わるものである。

 石本が生きていたら、どういうコメントを出しただろうか。

 石本は、選手を育てる名人といわれ、ミスタータイガース藤村富美男、タイガースの西村幸生、西鉄ライオンズでは稲尾和久(いずれも野球殿堂入り)、中日ドラゴンズでは権藤博投手らを大選手に仕立てた。

(堤  哲)

2018年10月12日

記者という仕事

 ――記者という仕事は、法的に許された大人の最高の楽しみだと思いませんか。一日の半分は世界について学び、人に話を聞き、物事を理解するために使う。残りの半分でそれを伝える努力をする。地方紙で仕事を始めて半年ではまりました。

 これは、今朝の朝日新聞(10月12日朝刊)に載った「新聞と民主主義の未来」特集で、「ニューヨーク・タイムズ」(NYT)紙の発行人、アーサー・グレッグ・サルツバーガーさん(38歳)が語った言葉てす。発行人に就いたのはことし1月。

 「ニューヨーク・タイムズ」紙は1851年創刊だが、1896年、米国南部テネシー州の地方紙を経営していた元植字工のアドルフ・オークスによって買収された。

 現発行人の高祖父で、この一族がそれ以来、発行人を出している、と記事にある。

 見出しを拾うと――。

 トランプ氏に直言 耳を傾けたようにも見えたが
 有料読者300万人視野 いずれデジタルだけに
 地方紙の衰退 この時代の最大の危機の一つ

 そして本人の紹介に――
 代々発行人 デジタル優先の先駆け

 どこかで全文を読んでください。示唆に富んだ内容です。

 ――就任のあいさつで「危険な力が合わさり、報道の中心的役割を脅かしている」との危機感を示しました。「危険な力」とはどういう意味ですか。

 「報道の自由の存亡に関わる三つの大きな力が存在していると思います。一つはビジネスモデルの変化です。紙媒体からデジタルへということですが、裏にあるのは広告収入に支えられるビジネスモデルが揺らいでいることです。二つ目は信頼の低下。科学から大学、司法機関までさまざまな制度への信頼が揺らいでいますが、ジャーナリズムには特に顕著です。三つ目はフェイスブックやグーグルなど巨大なプラットフォームが登場し、報道機関と読者の間に介在するようになったことです」

 ――そうした大きな変化のなかで、NYTは有料のデジタル購読が好調です。

 「我々のような伝統的メディアは大きな変革のときを迎えています。重要なことは、いずれデジタルだけの報道機関になるときが来る、という事実を受け止めなければならないということです。すぐにそのときが来るのか、まだ先かと聞かれれば、まだ先だと思います。紙で新聞を読むために多くのお金を払っている熱心な読者が100万人いるのですから。ただ、ずっとそうだというわけではないのです。私たちはデジタル優先のメディアにならなければならないということを受け入れました」

 「デジタルは急速に伸びており、300万人近いデジタルだけの有料読者がいます。デジタルの広告収入は規模が小さく、野心的なジャーナリズムを支えることは出来ません。購読者からの収益を支えとするビジネスモデルに変えることで、この会社で働く全員がジャーナリズムの使命のもと一丸となりました。読者は中身の濃い報道にお金を払い、そのお金で私たちは使命を果たすことができるという良い循環を生みだすことができます」

 ――NYTはデジタル展開をする新聞社なのか、新聞も出すデジタルメディアなのか。どちらだと思いますか。

 「すでに後者になったのだと思います。我々の取り組んだ重要な成果はまずデジタルで発表され、追って新聞でも掲載されます。オンラインの音声番組であるポッドキャストやVR(仮想現実)、動きのあるグラフィックなどに力を入れていますが、これらは紙媒体では展開できません」

 そして最後に

 ――今年、発行人に就任した直後に育休を取りましたね。

 「その質問をしたのは、あなたが初めてです。育児がいかに大変なことかを学び、すばらしい体験でした。また、就任1年目で私が実際に取得したことで、実際の人生で本当に活用してよい制度だというメッセージを与えたと言われたのはうれしい驚きでした」

(堤  哲)

2018年7月11日

ドゥーラで活躍する木村章鼓さん

 インターネットで検索すると、ドゥーラ(doula)をこう解説している。

 ギリシャ語で「女性の奴隷」。他の女性を援助する、経験豊かな女性をいう。1970年代にアメリカの人類学者Dr. Dana Raphaelがこの言葉を母乳育児の分野で紹介、妊娠期から産褥期、主に分娩時に、身体的、心理・社会的サポートを提供する人をいう。

 木村章鼓さん。2児の母。元アリタリア航空のCA(何故そうなったかは、Akiko Kimuraオフィシャルホームページで)。自分の出産体験からドゥーラに興味を持ち、出産の文化人類学を学んでドゥーラとなった。

 立教大学文学部卒、エジンバラ大学大学院医療人類学(Medical Anthropology)修士。

 夫の転勤から「世界を旅するドゥーラ」と呼ばれる。スコットランド、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス……。

 本日、(7月11日)パリから帰国した。しばらく日本に滞在して講演などでドゥーラの普及活動を行う。

 8月7日 (火)午後6時?9時、慶應義塾大学信濃町キャンパス「考養舎」で開かれる同大学の公開講座<患者学>でゲスト講演をする。

 参加費・無料、申し込み不要と案内にあります。興味を持たれた方は是非!

 このHPと、どんな関係があるのか?

 木村章鼓さんは、元社会部記者・新山恒彦さん(2003年 7月11日没、55歳)の娘さんである。

 新山クンは青森県出身で、ズーズー弁が印象に残る。仕事は出来た。

 2002年に「胆管がん」と診断され、その闘病記「胆管がん放浪記」を毎日新聞のサイトに連載した。しかし、2か月ほどで亡くなった。

 「胆管がん放浪記」は、2004年7月、毎日新聞社から出版された。

 この記事がアップされた(7月11日)は、奇しくも新山クンの命日だった。あれから15年経つ。

(堤  哲)

2018年6月25日

黄昏の事件記者の『最後のメッセージ』―
「老いぼれ記者魂:青山学院春木教授事件四十五年目の結末」
(早瀬圭一著、幻戯書房, 2018年3月刊)を読んで

 あとがきに「これがわが人生最後の1冊となるであろう」と書いている。

 あれ、早瀬氏の絶筆なのか?と驚いた私は、「巻を措(お)くあたわず」で2時間で一気に読了した。登場人物はいずれも毎日新聞での旧知の先輩、同僚であり、その半世紀にわたる来し方と終活に深い感慨を覚えた。

 1973年3月の春木事件発生当時、著者は毎日新聞社会部遊軍記者として取材陣に加わり、青山学院関係者の間を駆け回った。のちのサンデー毎日時代にはこの事件を題材にした石川達三の「七人の敵が居た」(同誌1979-80年連載)では、助手役をつとめた。

 1982年、早瀬氏は「長い命のために」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。新聞記者兼作家として、今もノンフィクションライターのトップランナーで独走してきた。一方、早瀬氏が尊敬する鳥井守幸氏は1979年8月、「サンデー毎日」編集長となり、独自のスクープを連発する。

 中でも春木事件に注目し特別取材班を編成して「冤罪キャンペーン(7回)」をはり、1981年7月には出所後の春木氏との独占インタビューを行い、この事件の冤罪の核心部分の全証言を引き出し、その後、独力で再審請求弁護団を結成して奔走してきた。

 しかし、無実を訴えてきた春木老教授は、94年1月にアパートの1DKで壁に「死して戦う」との墨書を残して84歳で孤独死する。鳥井氏は毎日を退職後、大学教授、テレビキャスターとして華々しく活躍したが、鳥井氏は毎日を退職後、大学教授、テレビキャスターとして華々しく活躍したが、その後隠遁生活に入り、一時、消息不明の時期もあった。

 事件以来、すでに半世紀が経過した。

 歳月人を待たず。老いされば人生行路の終着駅が見えてくる。75歳を超えた早瀬氏は最後の仕事に鳥井氏の志を継いでこの事件に決着をつける旅にでた。本書は春木事件追跡の記者物語でもあり、その正義派新聞記者の友情物語でもあり、著者のたそがれの挽歌でもある。

 ロッキード疑獄(1976年)が起きた際、「政官財マスコミ癒着」の構造汚職という言葉が生まれた。

 1980年代に免田,財田川、松山事件の死刑再審無罪事件が連発した際も日本型の司法の冤罪構造が問題となった。

①警察の見込み捜査と自白強要、非科学的捜査
②マスコミの犯罪報道の犯罪
③検察の証拠隠し、証人潰し
④「疑わしきは罰す」の裁判官の体質
⑤警察、検察、裁判所一体の強固な司法癒着構造である。

春木事件は今騒がれているセクハラ事件の嚆矢といえる。

 しかし、その内実はよくある美人局事件の複雑系である。青山大という有名私学のアメリカ帰りの国際法の老教授(63)が女子大生を研究室で暴行、レイプしたというハレンチな事件として、マスコミは大騒ぎしたが、冤罪の構造が丸見えの事件である。

①「大学の先生が女学生を自分の研究室に連れ込んだならば強姦も、和姦もない。起訴される。」「男女の間でトラブルになったら男の負けだ』(後藤田正晴元警察庁長官)の警察の見込み捜査。

②事件のカギをにぎる春木の下にいた大学助手Oは逮捕1週間後に春木の無実を訴えて担当弁護士や学長に「自分も含む反春木派の仕組んだ陰謀であるとの報告書』を提出したが、東京地検が逮捕して、潰した。
Oは一転して「催眠術にかけられたようなでたらめの作り話を書いた」と報告書の内容を否定、検察は不起訴処分とした。これなどは典型的な検察の冤罪手口である。

③事件のポイントは強姦されたという(T子)、T子に迫られての和姦(春木)との食い違いだが、バブル期の「地上げの帝王」最上恒産の早坂太吉がレイプ後に即座に現れて恐喝する手口は、典型的な美人局事件であることがうかがえる。T子は最上恒産会長の娘とあってみれば、この事件の背景がくっきりと見えてくる。

④春木に2回にわたって暴行、強姦されたT子が手紙を添えたバレンタインのチョコレートを贈っている矛盾は、和姦の証拠でもあろう。物的証拠の少ない事件で唯一の証拠物(下着その他)の鑑定も不十分で、裁判官は無視した。

⑤春木はT子を美人局ともしらず、見事にだまされた点を率直に証言していて真実性が感じられるが、T子の証言は矛盾撞着しており、その背景の捜査も不十分で、冤罪事件特有の矛盾だらけの内容である。

 本書の前半部分ではこうした事件と裁判の経過、冤罪のプロセスがわかりやすく、簡潔に書いている。

 また、事件を生んだ背景である『白い巨塔』と並ぶ「学閥の虚塔」の大学内部にも早瀬氏一流の緻密な取材で鋭いメスを当てている。

 青山学院大とは「年間100人以上の情実入学が院長の裁量で組織的に行われていた」(毎日新聞スクープ1982年1月18日付)という「魑魅魍魎の世界」であり、この学内派閥の熾烈な戦いと青学のすぐ隣にある『最上恒産』の早坂の地上げ工作の陰謀とがミックスされた事件の可能性が高い。

著者の「45年の目の答』

 最後に近い第5章「時間」で膨大な事件、裁判、関係資料を読みこなし、関係者にも総当たりして、事件の真相をつかんだ著者の「45年の目の答』が示されている。

 T子の動機は春木が進めていた国際部に勤めたい一心での接近ではなかったかとみて、67歳となっているT子の追跡に全力を挙げ「名簿屋」から手に入れた高校の同窓会などの名簿で片っ端から電話して居所を探し出し、ついに発見する。恐る恐る電話するといきなり本人が出た。

早瀬氏とA子の息づまる電話対決シーンは圧巻の迫力

 この電話を切られれば、最後の糸は切れてしまう。少しでも長引かせて事件をの核心に迫りたいベテラン事件記者とA子の息づまるこの電話対決シーンは圧巻の迫力である。

 押し問答が続き、なんの質問にも「答える必要はありません」「記憶にありません」と肚の座った返事が返ってくる。17,8分の会話の中盤で、いきなりT子が「あなたはおいくつですか」と問いただしてきた。一瞬たじろいだ早瀬氏は「もう70代後半です。あなたよりも1回り上です。そろそろ死んでもおかしくない歳です。その晩節に私なりに、春木事件に決着をつけたいのです」と答えた。

 「それがあなたの記者魂ですか・・」とT子は切り返した。

 すでに70近くになったT子の冷静沈着な受け答えに、著者はタジタジしながら、裁判で、春木教授がT子にやり込められた姿がダブって見えてきた。

 筆者も事件、裁判ドキュメントは数多く読んできたが、この電話での1問1答ほど人間性の本質と老いの哀歓がにじみ出たやり取りを読んだ記憶はない。ハラハラドキドキの見事なハイライトシーンである。

そして、エピローグ。

 早瀬氏は鳥井氏に早速、ケイタイから電話し、留守電に報告した。たどたどしい声で、5分間のメ―セージを入れてくださいとある。「鳥井さん、T子の居場所を突き止めたよ。危険水位ギリギリのまで調査したよ・・」とT子の近況、生活ぶりを手短に伝えた。

 最後に「聞いたら電話してほしい、本来なら会って話したい、どこか施設にいるならば会って話したいよ」と86歳になった鳥井先輩に訴えるラストシーンには涙が止まらなかった。早瀬先輩の事実にギリギリとどこまでも肉薄する刑事を上回る圧倒的な取材力とそぎ落とした簡潔、鋭利な文章力があいまって第一級のノンフィクションに仕上がっている。

 後輩の新聞記者、事件記者のための必読書として「早瀬さん、まだまだ書き続けてくださいよ。お願いします」。

前坂俊之(1969年毎日入社、元東京情報調査部副部長)

2018年6月17日

337拍子の生みの親・相馬基さんのこと

明治大学応援団OB会HPから

 NHK総合テレビの人気番組「チコちゃんに叱られる」( 毎週金曜日)で、元毎日新聞の相撲記者・相馬基さん(1981年没、85歳)が紹介された。
 「どうして応援は337拍子なのか?」

 1921(大正10)年、相馬さんは明治大学の相撲部員で、応援団の初代団長だった。当時、野球の早慶戦は1906(明治39)年に中止になったまま。早慶戦の復活は、明大が中心になって1925(大正14)年春に東京六大学野球連盟が結成されてからになるが、10月19日早大戸塚球場での復活第1戦は、明大野球部の湯浅禎夫(のち大阪毎日新聞運動部長→プロ野球毎日オリオンズ総監督)が球審をつとめている。

 当時の明大野球部は、打倒早稲田、打倒慶應の意気に燃えていた。応援団長相馬は、「勝った方がいい! 勝った方がいい! 勝った方がいいったら、勝った方がいい!」という声と手拍子の応援を生み出した。それが337拍子だった。

 「チコちゃんに叱られる」では、現在の夏の甲子園で応援の定番となっているX JAPANの「紅」や、ピンクレディーの「サウスポー」も337拍子であると解説した。

 相馬さんは、1924(大正13)毎日新聞の前身「東京日日新聞」に入社するが、相撲記者の他に、「編集兼印刷発行人」という肩書を持っていた。新聞紙法(明治42年施行)により、1949(昭和24)年に廃止されるまで、新聞の題字下に発行責任者の名前表示が義務付けられ、相馬さんは1929(昭和4)年から「編集兼印刷発行人」だった。

 新聞記事が「国家総動員法違反」に問われる。名誉棄損で訴えられることは日常茶飯だった。

 そのたびに編集責任者である主幹や主筆が呼び出せられていたのでは、仕事にならない。で、苦情処理係、叱られ役、社内では「前科引受人」とも呼ばれていたという。

 何故、若い相馬が全責任を負わされたのか。相馬は、応援団長として有名だったうえ、相撲記者としても顔が売れていた。

 こんな相馬の証言が残っている。

 ――当時の検事局とか警察の偉い人とか、弁護士といった連中には、相撲のファンが多くて、それも極端なファンがいましたからね。(私の)顔をみればもうはじめからわかっている。(『私の昭和史Ⅳ 世相を追って』1974年、学芸書林刊)

横綱大鵬の断髪式での相馬さん(1971(昭和46)年10月)

 毎日新聞の訃報(1981年9月25日朝刊)には、大正13年入社、相撲記者として昭和50年夏まで、最古参記者として健筆を振るった。その後も日本相撲協会教習所教師として相撲道、詩吟などを教えるなど、相撲ひと筋だった。大相撲の近代化をはかるため、相撲協会に仕切りの制限時間を進言した、とあった。しかし、「編集兼印刷発行人」であったことは、触れられていない。

(堤  哲)

事件記者とは別の越後喜一郎さん

 直木賞作家・古川薫さんの訃報(5月5日逝去、92歳)を見て、越後喜一郎さん(2010年没、72歳)を思い出した。

 岩倉使節団の旅を追う「歴史紀行 新・米欧回覧」の1ページ特集が始まったのは、1992(平成4)年4月4日付朝刊だった。毎日新聞創刊120周年企画のひとつだった。

 《岩倉使節団が先進文明吸収の大命題を背負って、世界一周の壮途についた日から、こんにち経済大国を誇る日本人が「もはや欧米に学ぶものはない」と豪語するまで、120年という歳月が流れた。

 『米欧回覧実記』(随行の久米邦武=のち帝国大学教授、歴史学者=ら編)を合わせ鏡として、変容する欧米の現況を写してみたい。それが日本及び日本人における「文明開化の世紀」とは何だったのかを探る私の『新・米欧回覧』である》

 第1回で古川さんはこう書いた。

 使節団の団長は岩倉具視。副使に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら。当時9歳の津田梅子ら女子留学生も5人いた。明治4年(1871年)11月に横浜港から出発し、1年10か月後に帰国した。

 古川さんに同行したのが、当時編集委員だった越後さんで、特集ページに「取材カバン」のカットでミニコラムを執筆した。もうひとり、元写真部員でフリーのカメラマン・平沢一郎さんが写真撮影に当たった。

 最終30回は、翌93(平成5)年4月4日付で、見開き2ページの展開で、左面を越後さんが「取材カバンを担当して」と延々と記している。

 《約半年、アフリカまで足を延ばした取材の旅。当時の使節団の幹部、伊藤博文(31)、大久保利通(42)、木戸孝允(39)は、今の政治家と比べ若い。だが、欧米の文化、政治をいかに日本に導くか、といった純粋の真心と燃える情熱があった。使節団の生きざまを今の政治家たちこそ見習ってもらいたい》

 越後さんは強運の持ち主だった。横浜支局で事件記者として特ダネを連発、社会部に引き上げられたが、三億円事件を担当したあと、町田通信部。本人は「左遷」とふくれ顔だったが、その夏、初出場の桜美林高校が夏の甲子園大会で優勝した。その動静取材に同行したのは越後さんだった。

 【甲子園で越後記者】の記事が連日、東京版に掲載された。

 優勝戦は、延長11回の死闘だった。4-3でPL学園を降した。

   青春〝満開〟
   〝無欲と粘り〟誇らか桜美林
   わき返る町田市、熱闘2時間43分

 夏の甲子園大会は、ことし第100回。それを記念して朝日新聞はベストゲームを1ページ特集しているが、4月21日付でこの試合を取り上げている。

   60年ぶりに東京に優勝旗
     初出場で校歌を5回も

 仙台支局長時代、アップジョン医学記事賞(1988年、第7回)を受けている。

 宮城版に「生きていくために――腎臓病を考える」を1年間にわたって連載したのである。企画は、越後さんの発想だった。

 親しくしていた国分町の飲み屋のママとその家族が腎臓病の治療で難儀していることを知って、入社3年目の石川健次記者(現東京工芸大学教授)に取材を命じた。

 「連載は約1年で、全部で50数回のうち1回を除いてすべて私が書きました。連載が始まってからは、越後支局長は時折、内容にアドバイスをする程度でしたが、むしろ夜な夜な国分町に連れて行っていただいて、連夜、激励と酒の日々でした」と、石川教授は懐かしむ。

 越後さんというと、強面の事件記者と思われがちだが、鋭い感性を持つ、社会派記者であった。歌はうまいし、踊りはジルバはお手のもので、タンゴもフロアいっぱいを使って踊った。酒も強かった。

 住んでいた浦安で暮れに「第九」の演奏会を開き、夫婦して合唱団に加わった。「記者の目」を書いている(1990年12月11日付)。

  第九は、まちづくりの大合唱
   浦安に響いて9年
    新旧住民がハーモニー

 駆け出しの長野支局で一緒だった大島幸夫さん(80歳)は、「3ナンバーの男」と評した。「排気量が大きい。発進力も馬力もデカい」と。

(堤  哲)

元サンデー毎日編集長の高松棟一郎さん

「私の卒業論文」(東京大学学生新聞会編、1956年同文館刊)から

 「高松棟一郎を知っていますか。私のいとこです。戦前、特派員としてアメリカに渡るとき、横浜港で『氷川丸』を見送りました」

 つい最近、90歳になる夫人から尋ねられた。インターネットで検索すると、1935(昭和10)年東大独文卒、東京日日新聞入社。ロンドン、ニューヨーク特派員。戦後、社会部副部長、48(昭和23)年「サンデー毎日」編集長。50(昭和25)年9月退社後、東大新聞研究所教授。59(昭和34)年没48歳。作家林芙美子の恋人だったといわれる、とあった。

 《ロンドンからニューヨークに渡って、ブロードウェイに立ったときは、光の洪水に、よくもこういう明るい世界があったものと、呆然とした。
 8月15日の夜日本に勝ったVデーのその夜、その広場を群集が埋めつくした。正面タイムス・スクエーアーニューヨークタイムスの電光ニュースのたもとには、新しく平和の女神像が建立されてあったが、その他は、開戦当時と変わらぬまぶしさであった》=「アメリカ映画」1947年7月号。
 日本が敗戦した日、高松記者はNYブロードウェイにいたのだ。

 林芙美子の小説「浮雲」の富岡兼悟、桐野夏生の小説「ナニカアル」(2010年新潮社刊)で林芙美子が恋をした妻子ある新聞記者は、高松がモデルといわれる。

 清水英子著「林芙美子・恋の作家道」(2007年文芸社刊)に、林芙美子が学芸記者・辻平一に宛てた昭和12年6月18日付の手紙が載っている。
 《昨日、東日から草津へ参りました。一行は久米(正雄)さん、邦枝(完二)さん、村松(梢風)、吉屋(信子)、獅子(文六)、永戸(俊雄)、高松(棟一郎)、大宅(壮一)、木村(毅)の皆さん、とても面白い旅行でした》

 東京日日新聞は、1933(昭和8)年5月、学芸課を学芸部に昇格させ、阿部真之介(元NHK会長)を部長に据えた。「花やかな阿部学芸部長時代」(毎日新聞百年史)で、阿部は、作家や文化人を顧問・社友・嘱託として次々に採用した。菊池寛、久米正雄、吉川英治、高田保、大宅壮一、木村毅、今日出海。それに森田たま、林芙美子、吉屋信子らの女性作家。阿部が主宰した「東紅会」は、女流芸術家らの集まりで、毎月一度夕食会を開き、時には一泊旅行をしたという。
 久米正雄は、阿部のあと38(昭和13)年から2年余、学芸部長を務めている。入社3年目の高松も、草津温泉旅行に同行している。作家たちの面倒見係だったか。

 辻平一も、「文芸記者三十年」(1957年毎日新聞社刊)に林芙美子との思い出を綴っている。芙美子が亡くなる(1951年6月28日没、47歳)1か月前、「東紅会」旅行で木更津のホテルでの楽焼。
  《私は林さんに、小さな徳利を出した。
  「この恋ハもへがら辛らきかな  芙美子
  と書いてくれた。これが、最後の思い出になった》
 意味深である。辻は、芙美子の2歳年上だった。

 息子の辻一郎著「父の酒」(2001年刊)によると、平一は、大阪外語ロシア語科を卒業して、1927年見習生3期生として「大毎」へ入社した。31年から学芸記者となり、作家との付き合いが始まった。1950年「サンデー毎日」編集長。後輩高松棟一郎のあとを継いだ形だが、終戦直後に大阪で、戦時中に改題した「週刊毎日」編集長をつとめており、2度目の編集長だった。源氏鶏太の「三等重役」が爆発的人気を呼んで、在任2年間で部数を30万部から80万部に増やす功績を残している。1981年没、80歳。

 さて、高松棟一郎である。1949(昭和24)年に設立された東大新聞研究所(現・大学院情報学環)初代所長の小野秀雄著「新聞研究五十年」(1971年毎日新聞社刊)によると、翌50年に朝日新聞の千葉雄次郎(2代目所長)とともに、東大新研の教授として迎えられた。翌51(昭和26)年には日本新聞学会が創設されるが、その発起人に小野、千葉とともに名前を連ねている。

  訃報は、1964年東京五輪の招致決定を報じる1959(昭和34)年5 月27日付で各紙に掲載されたが、心臓マヒによる急逝だった。享年48。
 「そういえば棟一郎の妹が、林芙美子さんからの万年筆を兄からもらったと、大事そうにしていたのを覚えています」と、90歳のその夫人はいった。

 毎日新聞の人脈は、広くて深い。そのうえ高い。

(堤  哲)

「諏訪メモ」スクープから60年

 昨年暮れに出版された元朝日新聞記者・上原光晴著『現代史の目撃者』(光人社NF文庫)に、「松川事件被告無罪の陰に(倉嶋康)」の見出しで、「諏訪メモ」スクープが紹介されている。

 門田勲、笠信太郎、深代淳郎、斎藤信也、疋田桂一郎などなど朝日新聞の名物記者が並ぶ。冒頭に下山事件で他殺説を展開した矢田喜美雄(1936年ベルリン五輪で走高跳5位入賞、朝日新聞社会部記者)を取り上げているのに違和感を覚えるが、毎日新聞社会部高橋久勝記者らの自殺説の証言、占領軍の命令で警視庁捜査本部が「自殺」発表を中止した事実も記している。

 さて、「諏訪メモ」である。山本祐司著『毎日新聞社会部』(2006年河出書房新社刊)の出版記念パーティーには、「諏訪メモ」により死刑判決から無罪となった佐藤一さん(2009年没、87歳)の姿もあった。

1957年6月29日付毎日新聞福島版

 倉嶋康さん(85歳)は、当時入社2年目の福島支局員だった。サツ回りは、県警本部・所轄署とともに、地検・地裁を担当した。
 クラさんは、地検の検事に食い込んでいた。福島地検の宮本彦仙検事正に「諏訪メモ」の存在を確認した。大学ノートに鉛筆で書いた団交のメモ、佐藤死刑囚らのアリバイを証明するメモだった。
 クラさんは、「諏訪メモ」の存在を記事化したのである。

 松川事件は1949(昭和24)年8月17日未明、東北本線松川―金谷川間で貨物列車が脱線転覆し、機関士ら3人の乗務員が死亡した。警察は人員整理(首切り)に反対していた地元の東芝労組と国鉄労組などの組合員たちが引き起こしたものと見て20人を逮捕、起訴した。
 一審判決は東芝労組の佐藤一さんら5人に死刑、残り15人も有罪。二審仙台高裁でも死刑4人を含む17人が有罪。
 「諏訪メモ」スクープは、最高裁に上告中の報道だった。最高裁は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した(1959年)。そして1961(昭和36)年8月8日、仙台高裁は被告全員に無罪を言い渡した。

 『現代史の目撃者』にこうある。
 佐藤一は無罪となったあと、占領・戦後史研究家の道をあゆみ、平成18(2006)年3月、都内でひらかれた「占領当時を振り返る」講演会で、倉嶋を「私の命の恩人」と紹介、二人はかたい握手をかわした。

 倉嶋さんは元社会部。ことし発行の「ゆうLUCKペン」40集への寄稿によると、松本・長野両支局長を10年。定年後、スポニチ長野支局を立ち上げ、1998年長野冬季五輪の組織委員会委員。五輪終了後、次回開催の米ソルトレーク市まで化石燃料を使わずに帆船と自転車でメッセージを運んだ、NASL国際環境使節団の団長。
 私は、駆け出しが長野支局。クラさんとは社会部遊軍のとき、夕刊三面担当のサブキャップと兵隊という関係でお世話になりました。

(堤  哲)

 

「アンデスの聖餐」柴田寛二さん

 1月に届いた社報2018年冬号で、元論説委員の柴田寛二さん(2017年10月12日逝去、82歳)が「アンデスの聖餐」をリポートした特ダネ記者であったことを初めて知った。論説OB主催の「毎日新聞メディア調査団」で何回か海外のメディア取材にご一緒したが、そのことを自慢するような人ではなかった。

 社報の「故人をしのんで」は当時のサンデー毎日デスク徳岡孝夫さんが「バンチョウ・ロッジ(社の麹町寮のことか)で一晩がかりで書き上げた」と偲んでいるが、「サンデー毎日」1973(昭和43)年2月4日号の表紙は――。

 本誌記者が南米に飛び
 現地取材した戦慄の人間記録
 アンデスの聖餐

 「氷雪の世界で72日間を死とたたかった若者たち」、「感動と戦慄の記録!」とうたう。

 「本誌 柴田寛二」の署名入り前書き――。

 「氷雪のアンデス山脈標高三千メートルに墜落した飛行機。その残骸の中で、死の谷をのぞきながら不屈の意志で七十二日間をたたかいぬき、苦しい熟慮と討論のすえ、死んだ友の肉を食い、そして文明への帰還をはたした十六人のことを、私は、南米ウルグアイとチリで取材して、いま帰ってきたばかりだ」

 特集記事は15ページに及ぶ。それにグラビアが9ページ。

 事故は、1972年10月13日に起きた。ウルグアイからチリに向かった旅客機が遭難した。乗客・乗員45のうち、28人が生き残っていた。捜索は難航し、8日後には中止された。最終的に乗員5人全員と乗客24人が死亡、2人が山を下りて救助を求め、計16人が12月23日までに生還した。乗客はラグビーの試合に向かう頑健な若者たちだった。

 柴田リポートは、克明を極めた。スペイン語での取材が完璧だった。特集記事の最後にカトリック国ウルグアイのナンバー2の精神的指導者である副司教のインタビュー記事を載せている。「彼らが食べたのはキリストの血と肉」

 最後に編集長のお断りを掲載している。

 「人間が人間の肉を食べる――あまりにも恐ろしい、あまりにも異常なことです。

 本誌編集部は掲載に当たって正直なところ、二の足を踏みました。しかし、柴田記者の取材してきたものは、〈生きることとは何か〉〈死ぬこととは何か〉〈人間とは何か〉の根源を考えるうえで、きわめて感動を呼ぶ内容であり、陰惨な事実をも超越する瞑想性を持っていたことから、あえて、これほどまでのスペースをさき、記事とグラビアでとりあげました」

 翌週号に読者の声を特集している。

 ・凄絶なまでの人間ドラマ
 ・「アンデスの聖餐」涙が出ました!
 ・記者の勇気を称える
 ・柴田記者と編集部に敬意を表します
 ・私がもし、あの(友の肉を食べたと明かした)記者会見の席にいたら、おそらく私も大きな拍手を送るコトが出来たと思います

 当時の新聞報道も調べてみたが、各紙とも控えめに扱っているだけだった。それだけに柴田リポートのインパクトは強烈だった。

(堤  哲)

 

西郷隆盛はパーマをかけていた――。
 話題沸騰!仁科邦男さんの西郷本

 NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」が始まった。冒頭は、上野公園の西郷隆盛像除幕式(明治31年12月18日)で、西郷の妻イトが「こげな人じゃなかった」と訴えるシーン。

 仁科邦男(69歳)著『西郷隆盛はなぜ犬を連れているのか: 西郷どん愛犬史』(草思社)には、イトの言葉が〈「顔が似ていない」という意味なのか、「こんな格好で人前に出るような人ではない」という意味なのか、解釈が分かれる〉とある。

 西郷はおしゃれだった。細い青竹を火鉢の灰の中に差し込み、髪にあててパーマをかけていた。「戎服(じゅうふく)(軍服)を着ればそれ相応に頭髪も手入れせんければならん。頭髪の鏝(こて)じゃよ」と、この青竹の使い途を説明した。

 パーマの話は、鹿児島出身で社会部の先輩・小畑和彦さん(2012年没、67歳)からB1で飲んでいるときに出た話だという。

 のちに「西南戦争」と呼ばれる、その出陣の際は、陸軍大将の正装をして、舶来の葉巻をくゆらせていた。

 上野公園の銅像についても解説している。〈西郷が犬を連れて兎狩りに行く姿である。左の腰に下げているのは兎の通り道に仕掛ける兎わなである。実際にはこのような着流し姿では狩りに行かなかった。西郷像はわらじ履きに素足である。狩りに行く時、西郷は狩猟用の足袋を履く。素足、むきだしの足の脛(すね)では、すり傷だらけになってしまう。

 西郷像は散歩しているように見える。犬に首綱をつけ、散歩する習慣は文明開化とともに日本に入って来た。ここには新しい時代の日常がある。狩り姿と普段着の西郷が混然となっている。……

 犬は小さい。西郷像の高さは1丈2尺(約360センチ)で、実物(身長180センチ)の倍あるが、それをもとに計算すると犬の体高は31-32㌢前後。柴犬よりも小さく、ダックスフンドよりは大きい。これでもモデルになった薩摩犬より大きく作った。モデルの犬は西郷が飼っていた犬ではない。薩摩出身の海軍中将・仁礼景範(にれ・かげのり)が飼っていた桜島産の犬で、サワという名のオス犬である〉

 とにかく詳しい。よく調べている。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』にはしばしば犬の話が出てくるが、「愛犬と祇園の茶席に上がる」という一文には誤りがある、とズバリ指摘する。元社会部記者の面目躍如である。

 1月7日付け朝日新聞書評欄で、早速話題の書として取り上げられた。とりわけ〈巻末の『西郷隆盛と犬』の略年表」は圧巻だ〉とベタ褒めである。「犬2匹を連れ兎狩り」「犬13匹を引き連れ鰻温泉に止宿」など、犬好き西郷を史料から丹念に拾った。

 年表に、坂本龍馬とお龍夫妻が慶応2(1866)年3月10日に鹿児島に着き、10日から4月11日まで日当山などの温泉をめぐった、新婚旅行の始まり?もあった。

 著者略歴に「名もない犬たちが日本人の生活にどのように関わり、その生態がどのように変化してきたか、文献史料をもとに研究を続ける」とある。動物文学会会員。

 絶滅したといわれる薩摩犬を追って、毎日新聞西部本社報道部にいた筆者が鹿児島の離島・甑島に渡ったのは、1978(昭和53)年2月。ちょうど40年前である。そのころから「いつか西郷隆盛を書きたい」と資料収集、取材を続けてきた。

 この本は、「犬の伊勢参り」(平凡社新書)、「犬たちの明治維新 ポチの誕生」(草思社)、「伊勢屋稲荷に犬の糞 江戸の町は犬だらけ」(草思社)に続く、仁科邦男犬シリーズの第4弾である。

 1月5日には、NHK歴史秘話ヒストリア「西郷どんのイロハ 維新の英雄・3つの愛」に出演して、西郷隆盛の「忠犬への愛」についてコメントを述べた。再放送は1月14日午前0時05分から(13日深夜)。見逃した方は是非見てください。

(堤  哲)

 

秋空に 旗二〇六 お堀端 河彦

 東京五輪まで1000日。毎日新聞社は竹橋のパレスサイドビルに二〇六の国と国際機関の旗を飾った。ギリシャから日本まで、皇居周辺を走るランナーたちが見上げる。今日の新聞は、これに合わせて五輪企画を全面展開。

 これは河彦の名前で続けている私の俳句ツィッターのうち、10月28日の作品です。朝刊に掲載された写真を見て、これは自分のカメラで写真を撮りに行かねば、とこのビルで働く後輩達への一体感を強く感じさせてもらいました。

 この「国旗デコレーション」は、2階から7階までの壁面を使い、国際オリンピック委員会(IOC)加盟206カ国・地域の旗を掲げ、平和の祭典を盛り上げる企画の一つです旗は横210センチ、縦140センチの布製で、掲示は11月5日まで。

 その左側に掲示された「世界は一つ 東京オリンピック」の標語は、1964年東京五輪の際に毎日新聞社による公募で選ばれました。

 個人的な思い出話ですが、1964年に大学進学のため東京に出てきて、五輪の準備が進む代々木の国立競技場で、リヤカーを引いて会場のあちこちに花を飾るアルバイトに汗を流しました。体操で金メダルを獲得した遠藤幸雄選手とパレードの列の中で握手した日から53年。そして3年後に向けて、夢をふくらませ、毎日新聞がさらに存在感を大きくする日を楽しみにしています。

(高尾義彦)

 

50年前、1面を飾った特ダネ写真!

 1967(昭和42)年8月2日付朝刊1面と社会面。北ア西穂高岳で長野県立松本深志高校の集団登山の列に落雷が直撃、11人が死亡、13人が負傷する惨事があった。その現場の生々しい写真が載っている。尾根道に雷撃で飛ばされて横たわる高校生が何人も写っている。特ダネ写真だった。

 その時の現場取材の模様を、長崎和夫さん(74歳)が、「日本記者クラブ会報」第572号(10月10日)に「報道写真 今と昔」というテーマで書いている。

 〈当時、各社は夏と冬に上高地に記者を駐在させており……、入社2年目の筆者も上高地駐在だったが、当日は単独で奥穂高岳に登山中。頂上直下で雷雨に見舞われ、下山しかけると西穂方面が騒々しい。あわてて西穂高岳に登り直したが、他社のように現場に行きつけない。シャッターチャンスどころではなく、下山者から写真をもらうことにした〉

 結果的にこの判断が正しかった。下山者から現場写真を借りることができたのだ。

 〈ところがその中に生徒と何体の遺体が一緒に写っている1枚があった。特ダネ写真だとして1面7段の破格な扱いとなった。今ならば絶対に紙面化できない類いの生々し過ぎる写真だ。半世紀で写真に対する考え方がずいぶんかわった〉

 長崎さんは、入社1年目にも社会面トップの記事を書いている。駆け出しの長野支局員として松代地震を取材中に、地滑りが起き、それに乗った、という体験ルポだった。

 事件・事故にツイている。長崎さんはその後、社会部にあがって警視庁捜査1課を担当、政治部に移って政治部長、論説委員長、専務取締役まで栄進した。

 私は長崎さんの入社2年先輩。誰からも好かれる人柄のよい後輩で、「チョーさん」とか「親分」と呼んで、よく権堂に繰り出した。

 この日の対社面に、都市対抗野球大会で日立製作所が前年優勝の熊谷組を破ったという記事が載っていた。それで思い出したが、私はその年、長野支局から水戸支局に転勤となり、水平雷撃のあったときは、水戸支局から日立製作所について後楽園球場で取材していた。

(堤  哲)

 

社会部旧友会の3句聖

 月刊「俳句」(角川文化振興財団発行、(株)KADOKAWA発売)9月号の読者投句欄「平成俳壇」の「秀逸」に選ばれた2句――。

  菩提寺の未完の塔や藤の花  一閑
  胸張って泰山木の花咲けり  一閑

 故郷(ふるさと)を詠むシリーズで、「故郷の建物」がお題。バックナンバーを調べたら、8月号、7月号にも「秀逸」作品があった。

  雨乞や溜池に飛ぶ祈りの火  一閑
  遠山に雨のくるらし菊根分  一閑

 俳壇の新星・一閑とは誰? 某先輩に尋ねると、森浩一さんであることが分かった。元社会部長、元スポニチ社長である。

 「俳句」10月号の予告に特集「戦後俳壇」。筆者に学芸部OBの酒井佐忠さんの名前があった。

 社会部旧友会メンバーで「俳人」で知られるのは、かつて「銀座一丁目新聞」で俳句道場を主宰していた牧内節男さん(一閑さんの先輩の社会部長、スポニチ社長・会長)。

 HPから最近作を拾うと――。

  鶏頭に天下の秋見つけたり    悠々
  ボケ防止心に響く牌の音     悠々
  数の子の歯ごたえ確か我老いる  悠々

 もうひとり、『無償の愛とビールの泡につぶやいて』(牧内俳句道場で「天」)の句から、『無償の愛をつぶやく Ⅱ』のタイトルで雑文交じりの句集を出版した高尾義彦さん(前日本新聞インキ社長)。

  台風に 情け求めて 同窓会   河彦
  佐原さん 偲んで秋の 百花園  河彦
  蕎麦の花 三鉄沿線 津波跡  河彦 

 社会部旧友会同人には、他にも俳句を楽しんでいる人がおられたと思いますが、最近作を寡聞にして存じ上げないので、割愛。失礼!

(堤  哲)

 

東日印刷の「アスナビ」佐藤凌選手に応援を!

佐藤凌選手の見事なジャンプ!

 東日印刷は、従業員が約360人の小ぢんまりとした企業です。しかし、毎日新聞グループホールディングスの東日本の中核印刷会社と位置づけられ、新しいことに挑戦する意気込みにあふれています。ウェブ事業の開始、OA機器販売会社のM&A、理系大世界最高水準のインド工科大生の採用。何とか毎日グループの発展に貢献できないかと、模索を続けています。その中で、幾分ユニークで爽やかな試みが「アスナビ採用」です。

 「アスナビ」とは、日本オリンピック委員会(JOC)が実施しているトップアスリート就職支援ナビゲーションの略称です。企業の支援を望むトップアスリートと、会社の活性化やブランド力の強化を図りたい企業との採用をマッチングします。 東日印刷はアスナビの趣旨に賛同し、今年4月、陸上競技・走り高跳びの佐藤凌選手を採用しました。東日は2020年東京五輪で9競技の会場となる江東区内に所在しています。アスナビ採用が、従業員の一体感醸成に必ずや繋がるだろうとの思いがありました。2015年5月にJOCと江東区が共催したアスナビ説明会に初参加して以来、素敵なアスリートを採用するため、さまざまな選手やJOC担当者へ積極的にアクセスし、これが実を結びました。

 佐藤選手は、昨年の日本陸上競技選手権大会で準優勝した期待の若手です。写真でも分かる通り、今風に言えば「イケメン」の風貌で、スピーチ、気配り、身のこなしもスマートな好青年です。入社前の海外遠征で足首を痛めてしまい、今年度の目標としていた世界陸上への出場は叶いませんでした。今は気持ちを切り替え、9月の全日本実業団対抗陸上競技選手権出場に向けて、治療とリハビリトレーニングに励んでいます。

 佐藤選手は週に1日出勤し(オフシーズンは週2日予定)、それ以外は会社の支援のもと選手活動に専念しています。社内では、応援プロジェクトを立ち上げ、応援グッズや等身大パネルなどを作成し、プロモーションを推し進めています。

 8月5日、東日の夏の恒例行事「納涼と懇親の夕べ」では、顧客や近隣住民の皆さんの前で、佐藤選手のお披露目が盛大に行われ、応援の熱い熱気に包まれました。

 東京五輪出場が佐藤選手と会社の最大の目標。それに向けた長い戦いは既に始まっています。

佐藤 凌(さとう・りょう)選手のプロフィール

生年月日:1994年7月21日(満23歳)
競技種目:陸上・走り高跳び
出身地:新潟県長岡市
学 歴:東海大学
入社日:2017年4月1日

主な戦績

2016年6月 2016 日本学生陸上競技個人選手権大会  優勝  2m20cm
2016年6月 第100回 日本陸上競技選手権大会  2位  2m25cm

(東日印刷・西川光昭=社会部OB)

 

沢田教一写真展に、毎日新聞の特ダネ紙面

 ベトナム戦争でピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」。報道写真家・沢田教一さん(1970年カンボジアで狙撃され死去、34歳)の写真展が日本橋高島屋で開かれている(8月28日まで)。

 朝日新聞社主催だが、会場に毎日新聞の紙面が拡大コピーして展示されていた。

 「おお、母子は無事だった」の大見出しがついた1966(昭和41)年7月3日付。「安全への逃避」の被写体になった2家族5人を沢田さんに同行して探し出して記事にしたのだ。特ダネだった。

 クレジットに【サイゴン二日発柳原特派員】。柳原義次氏(1995年没68歳)。大阪本社社会部から外信部、ソウル特派員からサイゴン特派員になった。そしてボン支局長から大阪本社社会部長(第25代)。ちなみに24代は北爪忠士氏、(2009年没84歳)、26代は松永俊一氏。

 〈「柳(やな)ちゃん」の愛称で親しまれた。堺の古い家柄に生まれ、東大経済学部時代は作家の辻井喬(堤清二)氏らと、学生運動の旗を振ったこともあり、闘志と正義感は人一倍強かった〉

 〈振り出しの大阪社会部時代は若手造反グループ「デンケン会」の中心人物の1人で……外信部に移ってからも、毎日労組の委員長にかつがれ、「柳原執行部」という名の一時代をつくった〉

 〈(ボン支局長時代の)東欧では自由化の波がソ連の戦車に押しつぶされた「プラハの春」に同情のペンをとった〉

 大毎社会部100年史『記者たちの森』に、後輩の社会部記者・磯貝喜兵衛さん(元毎日映画社社長)が「ダンディズムと人情」の見出しで紹介している。

 沢田教一氏は、三沢基地の写真店で働き、1960年に上京してUPI通信社東京支局に入社した。同支局は有楽町の毎日新聞東京本社内にあった。1965(昭和40)年7月にUPIサイゴン支局のカメラマンとなり、「安全への逃避」は1966年にピュリツァー賞を受賞している。

(堤 哲)

 

フクちゃん横山隆一さんの珍コレクション

上の写真は「週刊新潮」7月27日号に掲載
上は、東大安田講堂事件の時壊された「大理石」
下は、洞爺丸遭難 「一等船室の窓枠」「救命具のひも」「救命ボートの破片」など

 高知市の横山隆一記念まんが館(高知市文化プラザかるぽーと内、電話088-883-5029)で開催中の「隆一 珍コレクション展」(8月27日まで)。どんな珍品があるか、『週刊新潮』7月27日号で紹介された。

         

 冒険家植村直己さんの足の豆だこ、ハイセ―コーの毛などと並んで、〈東大安田講堂事件の時こわされた大理石、鍛治(壮一)氏贈〉、〈洞爺丸遭難、一等船室の窓枠など、毎日新聞函館支局坪松竹雄氏〉と、毎日新聞記者からが2点あった。

 横山隆一さんは毎日新聞朝刊に「フクちゃん」を長期連載(1956(昭和30)年1月1日?71(昭和46)年5月31日まで5534回)、毎日新聞社内でよく姿を見かけた。

 写真部から社会部記者となった鍛冶さんは、「母校」東大安田講堂事件の取材をして、現場から投石された同講堂の壁石を持ち帰ったのだろう。安田講堂落城(封鎖解除)は1969(昭和44)年1月19日だった。

 洞爺丸事故(1954(昭和29)年9月26日青函連絡船「洞爺丸」が台風第15号の暴風雨によって転覆、死者・行方不明1155人を出した。海難史上最大の惨事)の坪松さん(1994年没、81歳)は、当時函館支局長。支局員に命じて洞爺丸の乗船名簿を入手、それを特報した記者として名を残している。その詳細は『毎日新聞の24時間』(1955年刊、鱒書房)に本人が書いている。

 当時の新聞を見ると、毎日新聞は発生を報じる9月27日付朝刊1面に乗客名簿を載せている。専用線で電話送稿したのだから1千人を超す名簿を送り終えるまで何時間かかったのだろうか。翌日の夕刊にもさらにスペースを割いて掲載している。他紙は27日夕刊からで、名簿が特ダネになったわけだ。参考までに、この日の朝刊1面を。

昭和29年(1954年)9月27日(月曜日)本紙朝刊紙面

(堤 哲)

 

25日の都市対抗野球決勝は小池百合子都知事が始球式

前年優勝のトヨタ自動車から黒獅子旗の変換を受ける丸山昌宏毎日新聞社社長

 ちょうど90年前に始まった都市対抗野球大会。ことしは第88回を迎え、7月14日に東京ドームで開幕した。参加32チーム。優勝戦は25日午後6時からだ。始球式は東京都知事小池百合子さんだ。

開会式でスタンドに向かって並ぶ大会役員
(女性=金子めぐむ総務大臣政務官)
左隣が丸山昌宏毎日新聞社社長

 この大会は、明治神宮外苑に4万人収容の野球場新設(1926(大正15)年10月完成)から始まった。東京日日新聞と朝日新聞に各5千円の寄付が持ちかけられ、それを知った当時の東京日日新聞の野球好きの記者たちが、東京に相応しい一大野球大会を創設しようと企画した。ヘッドハンティングしたのが橋戸頑鉄(1879~1936)だった。

 頑鉄はイの一番で野球殿堂入りしているが、当時は大阪朝日新聞から大正日日新聞の記者をしていた。頑鉄は第1回早慶戦、日露戦争のときにアメリカ遠征したときの早大主将。その著『最新野球術』は、全国のプレヤ―の教科書となった。

 米大リーグを参考に都市対抗野球としたのは、頑鉄のアイデアだった。頑鉄は全国を回って社会人チームに参加を呼びかけた。優勝旗は画家の小杉未醒(のち放庵)に依頼、バビロンのレリーフから黒獅子が生まれた。

 参加12チーム。「暑中でもあり簡素を尊ぶ意味から入場式を省略し」と記事にある。華やかな開会式は夢のまた夢だったのだ。

大会始まりを伝える東京日日新聞夕刊

昭和2年8月4日付東京日日新聞夕刊から抜粋。
左側の写真(上)西久保市長の始球式、下が観客

(堤 哲)

 

終戦秘話 幻の和平工作 藤村先輩、スイスで活動

社友 河合喜久男

藤村義朗氏

 今年は戦後72年。毎年8月15日が来ると、日米直接和平工作に尽した先輩・藤村義朗海軍中佐(当時)のことが思い出される。

 当時、終戦工作として、モスクワでのソ連仲介工作、中国・重慶での繆斌(ミョーヒン)工作とともに、スイス・ベルンでの藤村先輩の和平工作があげられる。中でもスイス大使館付武官の藤村武官と米戦略機関欧州長官のアレン・ダレス氏との交渉が、最も実現性が高かった。しかしいずれも成功せず、歴史の歯車は正常に戻らず、日本のポツダム宣言受諾、降伏に至ったことは痛恨の極みである。

 藤村武官は、大阪の旧制堺中学の15年先輩で江田島の海兵卒、昭和15年海大卒、ドイツ大使館付武官補に赴任。私は京大卒、毎日新聞社に入社、休職、海軍予備学生として特訓後、昭和18年末士官任官、海兵教官に就任。先輩とは海軍でもご縁がある。

 昭和20年3月、先輩は敗戦で断末魔のベルリンからスイスに転任。親日家のドイツ人、ハック博士の紹介で米ダレス長官と終戦和平交渉に入る。先輩は若い頃から国士的で、日本をドイツの様にしてはならず何とか救いたいとの一念からだった。藤村武官から東京に緊急第一電が発せられたのが同年5月で、以後35通も暗号電を打たれたが、満足な返電は得られなかった。

 この交渉に協力した人に、海軍嘱託・大阪商船の津山重美駐在員(暗号電作成)や朝日新聞社特派員、笠信太郎氏、横浜出生・ダレス機関員ブルーム氏らがいる。機密保持しながら東京の首脳部に打電された。しかし東京では、ソ連仲介を重視、スイスでの交渉には積極的でなかったようだ。

 日本側は和平条件に、①日本の主権・国体維持②商船隊の維持?台湾・朝鮮の維持を主張。米国側は①②は良いが?はヤルタ会談で決定済みで難しいとのことだった。

 戦況はいよいよ悪化、広島、長崎に原爆投下、沖縄焦土戦、東京空襲、米軍の日本本土上陸計画など、昭和天皇は陸軍の本土決戦計画、竹槍戦法などお叱りになり、終戦を決意される。スイスでの終戦和平工作は幻の挽歌に終わることになる。

 敗戦後、藤村先輩は帰国、日本再建に貢献すべく、神田で露天商を始め、東京・青山で貿易商・ジュピターコーポレーション開業、社是の第一条には「会社、社員の人格即ち品性を磨くこと」とある。また海兵の5省訓の第一条には「至誠に悖るなかりしか」とあり、「モラロジー」(最高道徳)を研鑚、品性を高め、まごころを貫くことにつとめられた。千葉県富津市にハイテク工場建設、特異な貿易商社として発展せしめ、平成4年3月富津で永眠、信望を集めた内外から悔やまれた。

 帰国後の藤村先輩に、米内海相は「スイスでの和平交渉に賛成、実現につとめたが力及ばず申しわけなかった」と詫びられたと、本人から聞かされた。

 スイスでの終戦和平交渉は、藤村先輩自身の「思い出の記」やテレビドラマ「欧州から愛をこめて」、映画「アナザウエイ」、テレビドキュメンタリー「祖国へ緊急暗号電」等で記されている。

 先輩は「真の情報をつかみ、判断を的確にするのは、その人の品性による。非常時における最高リーダーの資質と判断がいかに大事であるか」を経験したと、私に語ってくれた。「知識より叡智を、真の情報をつかみ判断を誤らぬように」と先輩からの教訓でもある。(平成29年7月6日記) (注)河合喜久男さんは本年5月で満96歳になられました。

(河合喜久男)

 

続・写真部、有楽町最後の日

 写真部OBの中尾豊さんから「オレは有楽町最後の泊まり番だった。その日の写真をファイルしていたので送ります」とメールで。

1966(昭和41)年9月22日最後の日の勤務表
デスク 夕刊大沢勇之助、朝刊染谷光雄
泊    橋本保治、*中西浩、*中尾豊
早    *川島良夫
残?10  三十尾清、影山日出男、*永井誠
内勤   藤田君幸、鈴木久俊
明    荒井英雄、松野尾章、*酒井孝一
羽田   山添昭二
時短   明け
欠    上村勉
                 (*印は存命者)

 左から中尾豊、橋本保治、山内巖、伊神碩人、石井清(部長)、吉村正治(デスク)、その上藤田君幸、右に寺尾勇、大沢勇之助(デスク)、影山日出男、上に中西浩、三十尾清、手前木村謙二、右に佐藤龍彦、新倉義政、南川昭雄

 存命は、中尾豊、中西浩の2人だけです。

(中尾 豊)

 

有楽町最後の写真部スナップ

 51年前、毎日新聞東京本社が有楽町から竹橋パレスサイドビルに引っ越すときの写真が、東京写真部OB会(6月10日開催、「集まりました」参照)で披露された。当時事務補助員の八木英雄さん(69歳)が保管していた。

 真ん中で椅子に座っているのが寺尾勇、その後が木村謙二。顔半分の人は不詳で、右に佐藤龍彦、山内巌、橋本保治、手前新聞を開いているのが新倉義政。その右奥は地方部員。中央から左に三十尾清、影山日出男(敬称略)。全員鬼籍に入っている。左端が当時18歳の八木さんだ。

 写真の左端にカメラ機材搬送用のジュラルミンケースが数個と段ボール箱が山積みになっている。引っ越し作業が一段落して、写真部員が撮影したスナップである。

 八木さんによると、当時、航空写真は、有楽町の東京本社上空で生フィルムをパラシュートに付けて投下、地上でキャッチして現像していた。「この仕事がスリリングで面白かった」といっている。現在はデジカメで撮影したデータをパソコンに取り込み、スマホでヘリから機上電送する。フィルムの投下も現像もない。空撮の映像が写真部、いや写真映像報道部デスクのパソコンに現れる。暗室が消えて何年になるのだろうか。

 八木さんは、1963(昭和38)年中卒で補助員となり、定時制高校から24歳で大学を卒業するまで9年間働いた。その後、鷺宮製作所―高千穂交易―インテック。36歳で㈱八木ビジネスコンサルタントを設立。大型コンピューター向けのプログラム作成などで、年商5億円にのぼる。5年前に社長を引退、社員から登用した社長がすでに3代目になっている。2004年、創立20周年記念で200万円を毎日新聞東京社会事業団に寄託した。一番裕福な写真部OBである。

(堤 哲)

 

野球殿堂入りの毎日新聞関係は美嶺さんが19人目

 ことし野球殿堂入りした元毎日新聞運動部記者鈴木美嶺さん(1991年没、70歳)の殿堂入りセレモニーが5月27日(土)東京六大学春のリーグ戦最終週早慶1回戦の試合開始前に行われる。

 毎日新聞関係者で野球殿堂入りは、美嶺さんが19人目。野球の発展に、毎日新聞がどれほど貢献してきたか。

 野球試合の報道はもとより、プロ野球がない時代に、学生野球のスターらを社員に採用して「大毎野球団」をつくった。日本で最強の野球チームとなって、全国に遠征して地元中学(旧制)の野球部を指導した。アメリカにも遠征して、米大統領を表敬している。春のセンバツ大会、夏の都市対抗野球大会を主催。戦後、プロ野球がセ・パ2リーグになったとき「毎日オリオンズ」を結成、パ・リーグで優勝し、さらにセ・リーグの覇者松竹ロビンスを降し、日本一に輝いている。初代である。

 ここで19人を紹介したい。まずは橋戸頑鉄から、生年月日の古い順に。この情報を掘り下げて「野球文化學會」の論叢集「ベースボーロジー」第12号(今秋出版予定)に執筆しようと思っている。もっとも学会誌なので、論文審査にパスしたらの話ですが。

 では――。

 ①橋戸 信頑鉄、1879?1936)青山学院―早大。第1回早慶戦(1903年)、早大アメリカ遠征(05年)の主将。『最近野球術』出版。日本初のプロ球団日本運動協会結成に参画。大阪朝日記者として夏の中等学校優勝大会に関与、大阪毎日(大毎)・東京日日(東日)記者として都市対抗野球大会創設に尽力。「橋戸賞」に名を残す。

 ②三宅大輔(1893?1978)慶大―大毎。1925年早慶戦が復活した時の慶大監督。1927年都市対抗野球第1回大会に東京倶楽部から出場。大会第1号ホーマー(ランニング)を記録。プロ野球誕生に参画し、巨人軍初代監督。阪急監督も。「野球入門」など著書多数。

 ③腰本 寿(1894?1935)ハワイ出身。慶大―大毎。「大毎野球団」アメリカ遠征のキャプテン。慶大監督。15シーズンで7回優勝し、「エンジョイ・ベ-スボール」で慶大の黄金時代を築いた。選手からは「お父っあん」と慕われた。40歳で病没。

 ④岡田源三郎(1896?1977)早実で第1回全国中学校優勝野球大会出場。1番捕手。明大―大毎。1923?35年明大監督で黄金時代を築く。1925年ハワイ遠征の帰国船で大毎野球団と乗り合わせ、湯浅投手、天知捕手ら主力6選手を大毎へ。名古屋金鯱軍初代監督。

 ⑤小野三千麿(1897?1956)慶大―大毎。野球殿堂HPに「米大リーグ相手に初の白星を挙げた剛球投手」とある。大毎野球団の大黒柱。大毎体育部長(戦時中運動部を改称)。都市対抗野球大会の補強制度を考案。「小野賞」に名を残す。

 ⑥石本秀一(1897?1982)大阪毎日新聞広島支局。母校広島商業監督として、1924年、29?31年の4回夏の甲子園で優勝。31年センバツも優勝して、夏春夏と甲子園制覇。「真剣刃渡り」の伝説を残す。1936年大阪タイガース二代目監督。名古屋金鯱軍、大陽ロビンス各監督。1950年創設の広島カープ初代監督。

 ⑦桐原眞二(1901?1945)北野中―慶大―大毎。1924(大正13)年慶大キャプテン。遊撃手。早慶戦の復活に全力をあげ、翌25年秋、19年ぶりに早慶戦が復活し、学生野球人気が過熱した。大毎経済部長から出征し、戦死した。

 ⑧浜崎真二(1901?1981)広島商―神戸商―慶大―満鉄。身長150㌢の左腕投手。夏の全国大会、早慶戦で活躍。大毎野球団の満州遠征に参加。都市対抗野球第3回大会で大連満州倶楽部の優勝に貢献。阪急、高橋、国鉄の各監督。「球界のご意見番」。

 ⑨天知俊一(1903?1976)捕手。明大―大毎。湯浅禎夫投手と黄金のバッテリーといわれた。東京六大学・甲子園大会の審判員。帝京商(現帝京大高校)監督。選手に杉下茂投手。中日ドラゴンズ監督。1954年杉下茂投手を擁して日本シリーズ優勝。

 ⑩井口新次郎(1904?1985)和歌山中学で1921、22年全国中学校優勝野球大会2年連続優勝。早大で三塁手4番。1929年大阪毎日新聞に入社した年に大毎野球団が解散、記者として活躍、西部本社運動部長。センバツ、高野連、日本野球連盟の役員を歴任。

 ⑪横沢三郎(1904?1995)明大―大毎。名二塁手。1923年秋のリーグ戦で明大初優勝に貢献。大毎野球団解散後、東京六大学専属審判員。都市対抗野球の1930年第4回から第9回まで東京倶楽部で4回優勝。プロ野球東京セネタース監督。パ・リーグ審判部長。

 ⑫小川正太郎(1910?1980)左腕投手。和歌山中学でセンバツ、夏の甲子園に計8回出場。センバツ優勝でアメリカ遠征、夏では8連続三振を記録。早慶戦で宮武三郎、水原茂と投げ合った。34年大毎記者。日本社会人野球協会(現日本野球連盟)の発展に寄与。

「毎日オリオンズ」関係では――。

 ⑬若林忠志(1908?1965)ハワイ生まれの日系2世。法大―川崎コロムビア―阪神。“七色の魔球”で1930年30勝。元祖・頭脳派投手。42年阪神で監督を兼任、戦後1946年38歳で阪神に復帰、50年毎日オリオンズに移籍、53年監督。

 ⑭西本幸雄(1920?2011)和歌山中学―立教大学。1949年別府星野組の監督兼一塁手で都市対抗野球大会優勝。翌50年毎日オリオンズ入団。大毎、阪急、近鉄20年間の監督生活で8度リーグ優勝。しかし、1度も日本一に就けず、「悲運の名将」といわれた。

 ⑮別当 薫(1920?1999)甲陽中学―慶大―阪神―毎日オリオンズ。50年43本塁打、105打点で本塁打王、打点王の2冠。打率.335、盗塁34で初のトリプルスリー。1954年オリオンズ監督。その後近鉄(62?64)、大洋(1967?72、77?79)、広島(73)監督。

 ⑯荒巻 淳(1926?1971)別府星野組―毎日オリオンズ。「火の玉投手」。1949年都市対抗野球大会優勝、最高殊勲選手賞「橋戸賞」を受けた。翌50年プロ入りして26勝8敗、防御率2・06で最多勝と防御率第1位となり、パ・リーグ初代新人王。

 ⑰山内一弘(1932?2009)川島紡績(現・カワボウ)―1952毎日オリオンズ。「打撃の職人」。60年本塁打王と打点王の2冠、MVP。その後阪神に移籍、プロ野球史上初の300本塁打。オールスター16回出場「オールスター男」。ロッテ、中日で監督を務めた。

 ⑱榎本喜八(1936?2012)早実ー1955毎日オリオンズ。「安打製造機」。新人で開幕戦5番デビューし、新人王。首位打者2回(60年 .344、66年 .351)。プロ野球史上最年少の31歳7か月で2000本安打を達成した。2016年殿堂入り。

 ⑲鈴木美嶺(1921?1991)「みれい」はフランスの画家ミレーから。東大野球部から日刊スポーツを経て1950年毎日新聞入社。都市対抗野球大会で運動面連載の「黒獅子の目」は逸品だった。殿堂入りはプロとアマの野球規則書を統一した功績。

(毎友会HP随筆欄・諸岡達一さんの記事参照)

(堤 哲)

  

45年前のセンバツ優勝戦も雨で一日順延された!

1972年4月8日付 運動面と東京版

 ことしのセンバツは話題豊富で面白かった。早実・清宮幸太郎クン人気に、延長15回引き分け再試合が2試合連続であったうえ、決勝は大阪勢同士。89回を数える大会で、史上初が重なった。

 同じ地区代表が優勝を争うのは、1972(昭和47)年以来45年ぶりと話題になったが、大阪本社社会部員だった私は、この年(毎日新聞創刊100年)のセンバツ担当だった。キャップが3年先輩の津田康さん。京都大学野球部時代、関大の村山実投手(のち阪神)と投げ合ったというのが自慢だった。

 決勝は、2連覇を目前にした日大三高と、ジャンボ仲根正広投手(のち近鉄、故人)の日大桜丘。今回同様、雨で一日順延となり「決勝は神宮球場に帰ってやったら」と嫌みをいわれた。観客席に空席が目立った。

 社会面をどんな記事で埋めるか。ドキュメント東京勢兄弟決戦を企画、両校キャプテンが大会本部でジャンケンで先攻・後攻を決める現場から取材を始め、15時14分のゲームセットまで球場内を駆けずり回った。そこそこ面白い読み物になったと思った。しかし、いかんせん長すぎた。ナンパは応援の先輩記者がサラサラと書いてくれた。

 ドキュメントは東京版に掲載されたことをあとで知った。

 大阪桐蔭の優勝を詳報することしの運動面には、高校日本代表監督小枝守さん(65歳)の大会観戦記が載っていた。その小枝さんは、45年前の甲子園ではV2を逃した日大三高のコーチだった。その後、日大三高、拓大紅陵高校の監督として、甲子園でおなじみの顔となった。

 ついでながら1年置いて1974(昭和49)年に再度センバツを担当した。さわやかイレブン池田高校が準優勝した年で、相方は酒井啓輔さん(元毎日グラフ編集長)だった。

(堤 哲)

  

「金メダル16個! 五輪成功の“立役者”」大島鎌吉

 1964年東京五輪の日本選手団団長、故大島鎌吉さん(毎日新聞運動部OB、1985年没76歳)が、「東京五輪を作った男」として2月22日午後9時からのNHKニュースウォッチ9で紹介された。

 NHKのHP:http://www9.nhk.or.jp/nw9/digest/2017/02/0222.htmlからまず写真を2枚。

東京オリンピックの開会式。日本選手団団長として行進する大島鎌吉さん。
1932年関西大学生としてロス五輪三段跳びで銅メダル(15メートル21)

1934(昭和9)年 毎日新聞社入社。
1936(同 11)年 ベルリン五輪出場。旗手兼主将。
1939(同 14)年 毎日新聞ベルリン特派員。
1945(同 20)年 ベルリン陥落を送稿。帰国後政治部→運動部。
1952(同 27)年 ヘルシンキ五輪特派員。ローマ法王謁見。アテネ採火式。
1959(同 34)年 ミュンヘンIOC総会で64東京五輪開催決定。JOC委員。
1964(同 39)年 東京五輪で日本が金メダル16個を獲得。選手団長。

 大島さんは、選手強化対策本部長として、競技ごとに専属のコーチやドクターをおき、最新のスポーツ科学や栄養学を導入した。伴義孝関大名誉教授は「竹槍精神ではどうにもならないんだぞ、根性主義と科学をミックスさせないと、金メダルを取ることはできない」と大島さんはいっていたという。

 番組では、大島さんが生涯にわたって訴え続けたメッセージを紹介する。「オリンピックは平和のためにある」。日本はアメリカに同調して1980年モスクワ五輪をボイコットしたが、当時71歳の大島さんは「日本はボイコットすべきではない」という声明文を英語とドイツ語で100か国以上のオリンピック委員会に送っている。

 そして録音テープに残されたメッセージを紹介する。

 「世界の平和を考えるのはオリンピックだけじゃないかと確信している。この空気が日本によく伝わっていない。スポーツが毒されちゃ困る、何とかしなけりゃならんというのは、“スポーツ馬鹿”がこれからやる仕事のひとつだ。まぁ、しっかりやってくれよな」

 これが2020年東京五輪・パラリンピックへの遺言だ、と番組はいう。

 大島さんから直接指導を受けた毎日新聞の後輩、元大阪本社運動部長の中島直矢さん(2009年没96歳)は『スポーツの人 大島鎌吉』(1993年関大出版部刊、伴教授との共著)を出版、東京本社運動部の伊東春雄(1993年没69歳、東京体育専門学校(現筑波大学)が箱根駅伝に初参加した1947年から2大会連続出場、48年の第24回大会は1区2位の記録が残っている)は大島鎌吉の後継者として国民皆スポーツ運動に取り組んだ。ヘルシンキ五輪の400H、1600メートルリレーに出場した岡野栄太郞さん(86歳、元東京本社運動部長、同事業本部長、元毎日新聞取締役)は大島イズムを中央大学の学生時代から聞かされ、東京五輪の取材で活躍した。

 そして現役の滝口隆司記者(現水戸支局長)は、「五輪の哲人 大島鎌吉物語」を2014年11月から35回連載、2014年度ミズノスポーツライター賞優秀賞に輝いた。

ベルリン陥落直前の模様を伝える大島特派員の電話連絡

(1945年4月24日付毎日新聞)

(堤 哲)

  

パロディ展に、懐かしの「毎日グラフ」

 ヒゲを生やしたモナリザ。マルセル・デュシャンの作品を表紙にした「毎日グラフ」が、東京ステーションギャラリーで開かれている「パロディ、二重の声――日本の1970年代前後左右」展で展示されていた。

 パロディを特集した1979(昭和54)年6月3日号。編集長は鈴木茂雄(元写真部長)、取材スタッフに山田国雄、西井一夫(3人とも故人)とあった。

 同展で展観中の目玉作品、木村恒久「都市はさわやかな朝を迎える」も紹介している。NYマンハッタンのビル群にナイヤガラの滝をコラージュした傑作だ。

 「毎日グラフ」は戦後間もない1948(昭和23)年7月に創刊。最大のヒットは74(昭和49)年から刊行した別冊「一億人の昭和史」だった。単行本も含め95冊、延べ1900万部を販売したと社史にある。

 「毎日グラフ」が廃刊となって久しいが、ネットオークションではバックナンバーに結構高い値段がついている。

 同展は4月16日(日)まで同ギャラリー(JR東京駅丸の内北口)で。

 注:会場内での写真撮影は禁止されています。掲載の「毎日グラフ」はプレビューの際、許可を得て撮影しました。

(堤 哲)

  

エスプリ記者・・・鈴木美嶺さん「野球規則の風神」

 元毎日新聞運動部記者・鈴木美嶺(すずき・みれい=1991年10月死去・享年70)さんが2017年1月、野球殿堂入り(特別表彰)した。美嶺さんは1955年、プロ・アマ別々だった公認野球規則の一本化と編纂に尽力するとともに、野球ルールを明瞭に説明した多くの著書で、野球の普及に貢献した。有楽町時代に運動面作りをしていた僕は、たびたび美嶺さんと「野球談議」をしたので、殿堂入りの第一報に涙が出た。

 鈴木美嶺さんが「自ら」野球規則を新規に規定させた出来事がある。美嶺さんの目の前で大変なことが起こったのだ。昭和26(1951)年3月18日、後楽園球場、春の社会人野球大会「大昭和製紙」対「全藤倉」。4回裏、大昭和は走者1,2塁でバッター朝比奈三郎が右翼スタンドに大ホームランを放った。二塁走者・石井藤吉郎は三塁を回ったところで一塁走者の浅井礼三を待って握手。嬉しさの余りか、浅井が石井を追い越して一瞬「入れ替わった」が、三人相次いでホームイン。3点。と、そのとき全藤倉監督・土井寿造「浅井が追い越したっ。アウトだアウトだ」と猛抗議。美嶺さんの顔に向かって飛び掛からんばかり。三塁審判は美嶺さんだった。運動部記者が審判もやっていたのである。社会背景といい人間の自由さといい《嬉しい時代》だったねえ。三塁審判美嶺さんは当然「インプレイで、マエの走者をアトの走者が追い越せばアトの走者がアウト」という規則は知っていた。自分の目の前で「見た」出来事……だったが、ン?? 今のはホームラン。「試合停止球」でのこと。とっさのことで頭の中が混乱した美嶺さんは審判団を集めて協議(何分くらいか忘れるほど長かった)……美嶺さん結論「インプレイでも試合停止球中でも走者の順序は同じである。今のは浅井がアウト!」。当時曖昧だった「走者追い越し規則」がこのときの美嶺発言どおり決定し、1951年5月からセ・パ両リーグもルールブックに明記された。

 「規則の鬼」どころか「野球ルールそのもの」の美嶺さんは「無通告代打モンダイ」「2ストライク後のホームスチール」「捕手の故意落球モンダイ」「塁審が守備を助けた噺」「第三アウト後の得点」「投げたグラブに打球が当たった」「蹴ったタマがスタンドに入った」などなど……野球規則難問が大好きだった。「こんがらがった糸」にたとえて英語ではknotty problem。 野球界では「baseball’s knotty problem」。もめごとを面白がるアメリカでは本が様々出ていて美嶺さんは片っ端から読んだ(左の写真はThe sporting news社が1990年に刊行したPaperbackの表紙)。なんせ美嶺さんは昭和30(1955)年に毎日新聞が招いたニューヨーク・ヤンキースの通訳兼世話役を任されてミッキー・マントルやビリー・マーチンら大スター選手と仲良しになるくらい英語が堪能だった。帝国大学(東大)での専攻が「西洋史学」……さぞかし原書を読んだのだろう。

 美嶺さんは昭和25(1950)年春に始まった「日本の野球界全体に適用される規則」を作製するプロ・アマ5団体会議の書記を担当して以来、歴史的ルールブック編纂にかかわった。ために、美嶺さんは昭和26(1956)年春、日本初の「公認野球規則」(当時は非売品・恒文社刊)の「はしがき」を書いた。肝心な一文は『……疑念のある個所は米国規則委員会に問い合わせ、つとめてアメリカ・日本の解釈に統一性を持たせるように心がけた。<ただ一つの規則>が日本の野球界に出来上がったということは野球史上画期的なことであるという喜びをもって、本書を諸兄に贈る次第である』と、誇っている。これをだいぶ後になって美嶺さんは「なんとまあコチコチで舌足らずの文章を書いたもんだなあ」と述懐しているから面白い。「美嶺さん、はしがき頼みますよ」と規則の神様・山内以九士に言われてからずっと、お亡くなりになる(1990年)直前まで書き続けた。

 美嶺さんは旧制八高(現・名古屋大学)を昭和17年卒→帝大では野球部。二塁手だったが昭和18年?昭和19年(1943?1944)は六大学野球が中止となり「野球のない野球部に籍を置いていた18人」中の1人だった(美嶺さん筆の東大野球部史)。公式戦はなかったが元住吉へ遠征して法大と練習試合、東長崎で立大と練習試合して、それぞれジャガイモをご馳走になった。早稲田戸塚球場を借りて京大との定期戦もやっている。昭和18年10月かの有名な雨降りしきる明治神宮競技場で行われた出陣学徒壮行会には、動員を掛けられながらも参加しなかった野球部員もいた(美嶺さんの行動は不明)。

 それからというもの、一誠寮(本郷・野球部合宿所)では出征の決まった選手らが「……堂々と陣を組んで白山の花街に行った。これがこの世の別れだと全員が心の中で思った。宴は終わった。芸者が寮まで送ってくれた。じゃ、お達者でね……彼女たちは軍歌を唄いながら夜の道を帰っていった。翌日から一誠寮の窓は、ひとつ消え、ふたつ消え……」と、同じ部史にある。

 美嶺さんはお茶目だ。ルールブックにまつわる著書に「歳末狂騒曲の中を“なんの因果で”野球規則編纂委員会なんかに出席しなければならないのか……上司である小川正太郎さんに頼まれては仕方がない……」などと大っぴらにグチをこぼしているのだから相当のエスプリ男である。美嶺さんの毎日新聞社内野球での活躍ぶりも運動部球史上で輝いているが、整理部との定期戦での諧謔プレーは傑作だった。一塁走者になった美嶺さん、ピッチャーが捕手(諸岡)の返球をマウンド上でポロリと落とした。美嶺さん「ボーク、ボーク」と言って二塁へ歩いて「野球規則8・05(g)だよ!」と笑った。それを聞いたT君怒ってグラブとボールをグラウンドに叩きつけた。美嶺さん「あ、またボーク、ボーク」。平然として三塁へ歩いた。

 *注 野球規則8・05(g)は、現規則では6・02(7)。

(諸岡達一・記)

一般財団法人全日本野球協会 Baseball Federation of Japan (略称B.F.J.)の英文サイトに、鈴木美嶺さんの野球殿堂入りと、「野球文化學會」再興総会の記事が掲載されました。

Press announcement was attended by new inductees and guests as well as a large number of media and observers. (Photo: Courtesy of Baseball Hall of Fame and Museum of Japan)

“Mr. Rule Book of Japan” and a Former Amateur Umpire were posthumously inducted into Japan's Baseball Hall of Fame

Japan’s Baseball Hall of Fame and Museum announced on January 16, 2017 that Mirei Suzuki (1921?1991), a former member of the nation’s Baseball Rules Committee, and Hiroshi Goshi (1932-2006), a longtime umpire in high school, college and industrial league baseball, were chosen by the Special Selection Committee. They received votes on 12 of 14 valid ballots.

Two members of professional experts category; former Chunichi Dragons Senichi Hoshino and The Taiyo Whales’ (now Yokohama DeNA BayStars) Masaji Hiramatsu, and one professional players category; former Seibu catcher Tsutomu Ito were also voted into the Hall of Fame bringing the total number enshrined to 197.

Seventy-five percent ? or 250 votes from veteran baseball-covering media and Hall inductees who have been enshrined at least from the previous year ? was needed in the players category this time. The same percentage of votes (84 in this case) was also required for entry via the experts category, which features former players and coaches.

Mirei Suzuki went to WWII under the student mobilization order in the middle of his studies (and baseball club) at the Tokyo Imperial University (now the University of Tokyo). After being demobilized, he worked with The Mainichi newspaper as a sports writer and was instrumental in running the Rules Committee from 1955 to 1991. Up until 1955, Japan’s professionals and amateurs relied on the rule books of their own which were consolidated in 1956 and subsequent issues have been renewed annually by reflecting the changes in the Official Baseball Rules of the Major League. Suzuki paid careful attention to the Japanese translation so that it may accurately convey the meaning and implication of the U.S. Rules and often referred to the Major League for clarification. Suzuki read the Stars and Stripes of the U.S. occupation forces to learn what was going on at the Major League during the time when there had been limited supplies of news from overseas.

◇Baseball Federation of Japan 公式サイト:http://baseballjapan.org/eng/

  

円谷幸吉選手に銅メダルをかけた高石真五郎IOC委員

 東京五輪まであと3年。毎日新聞社会面の連載「東京2020への伝言」は、第1回にマラソンの円谷幸吉選手を取り上げた。1964東京五輪の陸上競技で日本が獲得した唯一のメダル。国立競技場に初めて日の丸を揚げたのだ。

 「よくぞ円谷! 闘志の“日の丸”」毎日新聞は社会面トップで円谷の健闘を伝えた(10月22日朝刊)。金メダルは五輪2連覇のアベベ(エチオピア)、銀メダルが国立競技場内で円谷を抜いたヒートレー(英国)。メダルを授与したのが、手前の禿頭・高石真五郎元毎日新聞社長(86歳)である。

 高石は、20世紀最初の1901年(明治34年)慶應義塾大学法学部を卒業して大阪毎日新聞社に入社。日露戦争後のロシアへ一番乗り。文豪トルストイと会見など「外電の毎日」を背負って立った花形記者、と社史にある。

 東京五輪の標語「世界は一つ 東京オリンピック」は、毎日新聞が募集して35万通の中から選ばれたが、その最終選考委員会で「世界は一つ」でどうだろうか、と発言したのが高石だった。

 IOC(国際オリンピック委員会)委員となったのが、戦前の1939(昭和14)年。敗戦直後に毎日新聞の社長を3か月務め、その後日本自転車振興会(現JKA)の会長。64年東京五輪、72年札幌冬季五輪招致に寄与したが、1967(昭和42)年に亡くなった。88歳だった。

 慶應義塾野球部の初期のメンバー。ゴルフ好きで、相模原ゴルフ倶楽部や武蔵カントリークラブの初代理事長。「一眼 二足 三胆 四力」。柳生新陰流の極意がゴルフに通じると、真五郎書の額が相模原ゴルフ倶楽部などに掲げられている。

世界は一つ標語の垂れ幕が掛かった
毎日新聞旧社屋

 毎日新聞社内のゴルフコンペで一番の伝統と格式を誇る「高石杯」は、今も続いている。

 「東京五輪の報道戦は大勝利」と、仁藤正俊東京本社運動部長に社長賞が贈られたが、高石をはじめ取材班をバックアップしたOB人脈もスゴかった。日本選手団長・大島鎌吉(1932年ロス五輪三段跳び銅メダル)▽陸上競技監督・南部忠平(同金メダル、元大阪本社運動部長)▽マラソンコーチ・村社講平(1936年ベルリン五輪陸上5千、1万メートル入賞。びわ湖毎日マラソン、全国高校駅伝を創設)▽水泳監督・葉室鉄夫(1936ベルリン五輪水泳200メートル平泳ぎ金メダル、甲子園ボウルを創設)▽組織委競技部長・藤岡端(前東京本社運動部長)▽組織委接伴部委員・藤田信勝(論説委員、「余録」筆者)▽日本陸連国際部長・北沢清(戦前ツールドフランスに倣って大毎・東日主催で自転車競技大会をいくつも企画・実行した。戦時中の文部省体育課長。元運動部記者)▽日本陸連管理部長・小沢豊(広告OB)▽国立競技場長・久富達夫(元政治部長)。

 2020年東京五輪の紙面はどうなるのか、楽しみでもある。 [敬称略]

(堤 哲)

  

戦艦武蔵の生き残り、塚田義明さんの思い

 12月4日放映のNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期」に、社会部の先輩、皇室ジャーナリスト塚田義明さん(89歳)が出演した。

 「戦艦武蔵」の生き残りの塚田さんは、1942年(昭和17年)中学2年のとき、第1期海軍練習兵(特別年少兵)を志願。砲術学校を卒業して、「武蔵」の乗組員となった。16歳だった。

 全長263メートル、最大幅38・9メートル。排水量6万4千トン。

 主砲の46センチ砲は、砲身の長さ20メートル、射程距離四方2キロ。主砲弾は長さ2メートル、重さ2トン。

 とてつもない装備をした不沈艦だった。

 しかし、1944(昭和19)年10月24日のレイテ沖海戦で米軍機の爆撃・魚雷を受け、沈没する。「乗組員2399人のうち生還者は430人。沈没時に救助された乗組員(1千人以上)の多くが陸上戦に動員され玉砕した」

 番組で塚田さんはこうコメントしている。「乗組員がいかに戦い死んでいったのか、知ってもらいたい」「悲惨な結末、戦争のむなしさを知って欲しい」

 塚田さんが書いた『戦艦武蔵の最後:海軍特別年少兵の見た太平洋海戦』(1994年光人社刊)は文庫本にもなっているが、この中で唯一の救いは、塚田さんが「艦内の有名人になった」という項目。昼食後、当番以外の乗組員全員が甲板に出て「海軍体操」を行う。約30分。その号令をかける人は決まっていない。乗艦して20日ほど経ったとき、号令台に人がいなかった。「私は号令台になる機銃指揮所の塔頂に、一気に駆け上がった」。

 その後、兵学校出身の少尉と2人で交代でやるようになったが、「あの少年兵やるじゃないか」とすっかり有名人になったという。

 私の知っている塚田さんは、シャイで、大勢の前で号令をかけるのは得意と思わなかったが、水兵さんは元気いっぱいだったのである。

(堤 哲)

                          

[ワシントン発ロバートソン黎子]頑張れ新聞!

 米ワシントン在住の元毎日新聞記者ロバートソン黎子さんは、ナショナルプレスクラブに属し、日本のメデイアに情報発信している。84歳の現役ジャーナリストである。

 11月25日付熊本日日新聞のコラムは、新大統領に決まったトランプ氏を取り上げているが、見出しは「アメリカ民主主義最後の砦」。頑張れ、新聞である。

 大統領選でニューヨークタイムズなど主要紙は、クリントン支持を表明した。「真実を報道しない」とマスコミ批判を繰り返したトランプ氏だが、ニューヨークタイムズには自ら出掛けて記者たちと会見した。

 同紙は、その模様を記事、社説できっちと取り上げた。

熊本日日新聞のコラム
「ウーマンズ・アイ」第151回

 〈アメリカの民主主義を守る大きな柱は新聞である、という認識が、昔からアメリカ社会にはある〉 

                  

 〈「新聞は社会の木鐸」という自負が、日本の新聞にも昔からある〉

 〈読者のよりどころとなる新聞に、エールを送りたい〉

 ロバートソン黎子さんは、1957(昭和32)年早大政経卒。駆け出しの仙台支局でフルブライト留学生募集を知って応募、ヴァージニア大学に1年間留学。59年10月帰国後は外信部。日曜夕刊一面のインタビュー記事をまとめて『もしもしハロー-私は第一線婦人記者』を出版している61年退職、結婚してアメリカに渡った。 

           

 メールには「日米は、これからどうなってゆくのかな、混沌としていますね。

 トランプ本人にもわっかちゃいない、というのが本音かもしれませんが」とあった。

(堤 哲)

                          

「君は毎日オリオンズを覚えているかい?」

野球雑誌「野球雲7号」表紙
絵は火の玉投手 荒巻 淳

 耄碌すると少年時代の出来事だけは「やたらと思い出す」。不思議だねえ。おとついも朝食時に電子レンジを開けたら昨夜チンしたカレーが入ったまんまになっていて「なんじゃこりゃ!」なのだが、小学4年生で観戦した「巨人・パシフィック戦」(昭和21年6月30日・後楽園)は詳細に覚えているんである。昭和25年の「毎日オリオンズ」なんぞは、親父が「株主優待券」を毎試合くれたんで、学校サボって観に行った。

 で、噺はぶっ飛ぶが「野球雲」という名の野球雑誌7号が「戦後の流星 毎日オリオンズ」特集号を刊行(2016年9月)した。1950(昭和25)年?1957(昭和32)年のパ・リーグを背負った球団の8年間の全貌を描いている。毎日新聞関係者なら「なんという、ああもう、なんちゅう本じゃっ」と絶叫するね。中身が濃いーの濃いの。「オリオンズ盛衰史」「パ・リーグ黎明の星 奇跡と軌跡」「オリオンズ・スター列伝 別当薫から榎本喜八まで」「断然強いと前評判の松竹ロビンスを負かした日本シリーズ全6試合のボックス・スコア」「オリオンズのファーム史」「8年間の全記録」「野球と共に歩んだ毎日新聞」……たまりません! 

 何故に、こよなくも、この特集号が愛おしいかというと、我が毎友会会員2人も耄碌アタマを絞りに絞ったら記者病がブリ返し、この特集に僅かながら協力したのである。自慢すりゃあキリないが僕は1950(昭和25)年3月18日、19日、後楽園球場での毎日2-1近鉄、毎日6-5大映、東都初見参(オリオンズ創設5、6戦目)を内野席最前列ネットに指を突っ込んで観たもんね。

 しっかしさ、新聞社運動部長からいきなりプロ野球の監督になったのは湯浅禎夫だけである。第1回日本シリーズ第1戦(神宮球場。モチ観たよ)で若林を先発投手とした思考は理論派湯浅の策謀。ランエンド・ヒットや中継ぎ抑えの継投策などを考案したのも湯浅野球哲学である。野球殿堂入りしてもいい「このうえなき大物」なのだが、惜しむらくは平和台事件……。

 オリオンズOB会で土井垣さんと喋った時「俺達ゃあ、引き抜かれたんとちゃうで! 若林も別当もな、それぞれが自分の意志でオリオンズに来たんや。本堂なんかはサイン盗みの名人だから、俺が連れてきたんよ」と、しつこく叱責された。むべなるかな。

(諸岡 達一)

ソ連崩壊直後、ロシア・シベリア旅行の思い出

広場に箱を並べただけの店。そんな“何でも屋”で買い物をする主婦。

 1993年、12月19日付けの中学生新聞に掲載した写真で、中央シベリアの奥地、人口6万人ばかりの町レソシビルスクの青空マーケットで撮影したものである。

 外国人を、ましてやアメリカ人など見たことも無い辺境の町の主婦が、米ドルで買い物をしているのに出会った。恥ずかし気に見せてくれた財布には、他に1ドル紙幣が3枚入っていた。

 こんな辺境の町の主婦が、どうして米ドルを持ち、買い物までしているのだろう。

 1991年、ソ連邦が崩壊し、年間7000パーセントものハイパー・インフレに見舞われたロシアだったが、エリツィン大統領が、旧1000ルーブルを新1ル―ブルへと、千分の一もの大デノミを敢行して乗り切った。日々暴落するルーブルに対して、かつての仮想敵国の通貨米ドルのみが輝きを増していた時でもあった。

米ドルのお客様歓迎の張り紙を出したブティック。

 埃を巻き上げて広場に入ってきたトラックが荷台を開くと、待ち構えていた人たちが取り囲む。ブドウが2キロで400ルーブル、卵が1ダース270ルーブルだった。

 世界同一価格を標榜するマクドナルドのハンバーグ・セットが、当時の東京で100円、モスクワで1300ルーブルだったから、ここレソシビルスクでも、米1ドルは1300ルーブルで換算されていると考えてよいだろう。

ブティックの張り紙を拡大すると、「ドル札($)買います」の表示。米ドルがそれほど欲しがっていたのだった!

 当時シベリアの人々の平均月収は2万ルーブルと言われていた。ドルに換算したら20ドルにも満たない。厳しい暮らしを強いられている人々の懸命に生き抜く姿を垣間見た思いでもあった。

 今にして思うのだが、どん底にあえぐロシア経済を象徴する風景を、なぜ本紙の夕刊の持って行かなかったのだろう。浪人者のOBには、本誌持ち込みは、いささか敷居が高かったのだ。

(東 康生)

思い出のモントリオール五輪取材 東康生

 女子重量挙げ48キロ級で銅メタルに輝いた三宅宏美選手だが、競技終了後、一旦戻りかけた足を競技台に戻し、いとおし気にバーベルを抱きしめ、頬摺りした姿をTVで見て心打たれた。16年間、一緒に練習を続けてきたバーベルに「ありがとう」と感謝の言葉を語りかけたのだという。ガッツな父に育てられ、自身もハードな競技を戦ってきた彼女の予想もしなかった心根の優しさに思わず“大和撫子”と呟いていた。

 翌日の新聞は、単純に喜びの写真だけで、私が期待していた頬摺りの写真は載っていない。軽い失望と同時に、1976年のモントリオール・オリンピック取材での痛恨事が生々しく蘇ってきた。重量挙げスーパーヘビー級のソ連のワシリ・アレクセーエフ選手が世界新記録で優勝した喜びの写真を撮り落とした悔しい思い出だ。

 重量挙げの撮影は、単純、退屈な作業である。そして、この時も、称賛の大歓声を聴きながら、いつもの通りに写真説明をつけようとカメラから指を離したその瞬間だった。

 アレクセーエフ選手が、挙げていたバーベルを競技台に落とすと、その反動に乗って高々と歓喜のジャンプする姿が、視野の片隅に見えた。すかさずシャッターは切った。とは言うものの、その瞬間にカメラから指を離していた失態は覆うべくもない。世界から集まったカメラマンが、三脚にカメラを据え、露出から構図まで決めているその前で起きた感動の一瞬を逃した大きさに私は絶句した。

 当時、撮影したカラーフィルムは、翌朝の航空便で東京に送って現像する。13時間の時差に対応するためだ。そのため、撮影した一コマ、一コマには、東京の編集者に判るようにきちんとした説明をつけておかねばならなかった。とは言え、世界から集まった5?60人ものカメラマンの前で起きた感動的シーンを撮りそこなったのは事実である。

 翌朝、各社の朝刊を開くのが怖ろしかった。ところが、何とした事か、この写真がどこにも載っていない。誰も写せなかった・・・?痛恨の思いが一瞬和らいだが、最後に地元紙モントリオール・スターを開いて愕然とした。あの瞬間が、しかも感動的ショットで載っているではないか。すぐスターの写真部に電話を入れた。写真部デスクは、前年に開かれた万国博覧会の取材で知り合ったマックニールだ。オリンピック取材の各国カメラマン懇親パーティーで、日本・カナダ親善の証しと、二人並んで壇上に立ち挨拶を交わした仲である。

 私のぶしつけな質問に「あの写真な?。実は、系列の地方紙の記者から頼まれ、義理もあってな、遊びに行かせてたんだ。仕事に真っ当なカメラマンには撮れる瞬間じゃないヨ。並みいる本職は誰も撮れなかったんだから、気にしなさんな。でも、スゲ?、胸震える感激の一枚だね」。

 写真(上)が翌年の世界報道写真コンテストのスポーツ部門で金賞に輝いた。(下)は私が撮った月並みな写真(毎日グラフ)

「昭和群像」の花森安治氏

(41年前の夕刊連載コラム)写真は花森安治氏

 ちょっと長いが、連載記事の書き出しを紹介する。

 ―暮らしの手帖社社長の大橋鎮子さんを十数年ぶりにたずねたら、開口一番「あれからちっとも変わってないんですよ。私がただ年をとっただけ」というあいさつ。十余年前、大橋さんをたずねたのは、雑誌「暮らしの手帖」の創刊を中心に、彼女の奮闘ぶりを取材するためだった。だから大橋さんの「あれからちっとも」の中には、同誌創刊の(昭和)二十三年九月以来、の意味もこめられていた。

 二十三年以来、現在まで、日本人の暮らしはずいぶん変わった。それなのに、暮らしを主題とする「暮らしの手帖」はなぜ変わらないのか。いや、何が変わらないのか。

 答えを先に書いておこう。同誌創刊以来の編集長・花森安治氏の信条が、である―

 今から41年前、戦後30年企画として、1975(昭和50)年の正月から毎日新聞夕刊3面で連載された「昭和群像」。反戦平和を訴え、日中文化交流を進めた中島健蔵氏に続く2人目が、花森安治氏(1911~78)だった。NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」で唐沢寿明演ずる花山伊佐治である。1936(昭和11)年東大文学部美学科卒。大学時代、軍事教練を拒否して陸軍二等兵から上等兵まで辛酸の限りを経験する、とある。その信条は、縮刷版にあたって連載を読んでもらうとして、最終5回にこうある。

「いまの時代がね、心配で心配で、なにかまた(いやな時代が)きたなみたいな感じがね」

「君が願うところの……ささやかなマイホーム的幸せを手に入れるためには、たぶんその何倍かの〈いささかの勇気〉がなければだめなのだ」

 筆者は社会部編集委員の浅野弘次氏(86年没、61歳)。若い部員から人気のあった知性派記者だった。(堤 哲)

セイシェルの野鳥 背黒アジサシ 元出版写真部 東康生

 新聞社の常識とは言え、突然に、しかも、思いもかけない仕事が飛び込んで、てんてこ舞いさせられたものだ。

 1967年のこと。「毎日グラフ」永戸編集長から「ムツゴロウさんのお供でアフリカに行く、帰りにセイシェルで途中下車?して、野鳥を撮ってきてください。あそこは世界的に貴重な野鳥天国で、まだ日本人カメラマンが入っていない島々なのです」

 当時、BOACがセイシェル経由のナイロビ便を週に一便で飛ばし始めたばかりだった。だから、ここで飛行機を降りると、次の便は一週間後になる。これが取材時間と言うわけだ。

 とは言え、会社を卒業後WHOの事務局長を勤めた野生動物通の永戸さんと違い、私の方はニュース一筋、鳥の写真なんて考えたことも無い。「小さな島ですからね?。鳥は沢山飛んでいるはずですよ」。まるで公園の雀を写しにでも行くように簡単に言う。

 何はともあれ、銀座のイエナで“Bird of Seychelles”なる鳥の図鑑を買い、訳も分からぬままに飛び立った。

 アフリカ取材の撮影フィルムをムツゴロウさんに託して、右も左もわからない島に残されると、撮影への不安が肩に重くのしかかる。一人、インド洋の青空を仰いでいた。宿の親父に図鑑を見せて鳥を写しに来たのだがと尋ねると「そこらに幾らでも飛んでるじゃない?」と言う。島に唯一の観光案内所でも「ここは世界的に著名な鳥の楽園です。沢山飛びまわっているじゃないですか」。何を心配しているのかと言わんばかりで、一向に要領を得ない。

 ともかく私に与えられた時間は一週間だ。レンタカーで島内をかけ廻るがスズメやカモメ、茂みにいるのはキジバトばかりで、図鑑にある珍鳥たちの姿を全く見当たらない。

 一枚もシャッターを切れないままに日が流れてゆく。眠れないままに迎えた一週間目の朝、覚悟を決めた。東京には「けん責」を覚悟でフライトを更に一週間延ばすと電報を打った。夜は、やけっぱち、飲みつぶれても良いと、それまで足を向けなかった島にただ一軒のナイトクラブ“プシー・キャッツ”に繰り込んだ。

 1600ミリと600ミリのドデカイ超望遠レンズをつけたニコンとスナップ用のニコン。それにハッセルブラットと全撮影機材を胸からぶら下げて店に入ると、先ずは女の子たちが驚きの声を上げた。それを聞きつけて男たちがワヤワヤと集まってきた。

 そして一斉に「あの鳥は写したか?」「あそこの岡の茂みを覗いたかね?」。「あの鳥を撮るのなら、あの男のテントを訪ねるべきだ・・・・」。

 もう酒を飲んでる余裕はない。懸命にメモするのが精一杯だった。

 翌朝からノートを頼りに車を走らせた。言われたところに行くと、探し求めていた鳥類図鑑の鳥たちが、目の前を飛んでいる。鳥の観察者たちも私を温かく迎えてくれる。情報はさらに深まった。

 こうなるとポイントを巡って、手当たり次第にシャッターを切りまくるだけだ。世界に16つがいしか確認されていない長い尾が美しい“セイシェル・サンコーチョウ“を、しかも抱卵しているメスに他所のオスがチョッカイをかけているところに、舞戻った亭主?が、メスを守る滅多に見られない情景が撮れた。100羽しか生息していないのではないかと言われる“セイシェル・チョウゲンボー”、特産種“セーシェル・タイヨーチョウ”など貴重な鳥たちが毎日撮れる。

 50羽しかいないとされる“ブラック・パロット”は、餌場への鳥の到来が遅く、ぎりぎり待たされ、帰国便出発10分前に滑り込むというハラハラの撮影にもなった。

 お陰様で「毎日グラフ」は、表紙から57ページを組むこれまでにない大特集になり、お陰でけん責を免れた。

 なお、何度かお茶を一緒したセイシェル共和国大統領(人口4万人の国)からは、返事が無かったが、南アフリカ共和国観光大臣からは、感謝状が届けられた。

 ギタリストで日本のフュージョン界を代表する高中正義さんは、“セイシェル”と言うLPレコードを作ってくれた。

写真は、年に一度、65万つがいの“背黒アジサシ”が集まり産卵し、雛を育てるバード・アイランドで撮影したもの。写真Aは、コロニーへの乱入者を威嚇して、私の後頭部を狙ってくる“背黒アジサシ”を振り向きざまに写した一枚。この写真は、コンテストで優勝し、レコードジャケットにも使ったのだ。毎日グラフの目玉写真は、これにするべきだったかな?。いまも気になっている一枚である。写真Bが毎日グラフ特集の目玉として見開きに大きく使った写真で爽やかさを狙ったものだ。

旧毎日新聞社京都支局 (京都市登録文化財保存1928ビル)を訪ねて

 2泊3日で京都に遊び、1928ビルを訪ねた。ビル上部「大毎」のマークが誇らしげだった。

 東海道の起点三条大橋につながる、かつてのメーンストリート三条通りにある。1928(昭和3)年建設だから、米寿を迎えたことになる。設計は武田五一氏。「社章を象った星型の窓やバルコニーに見られる独創的なデザインだけでなく、ランプカバーや床のタイル、壁に施されたアール・デコの意匠は、今なお斬新」とパンフレットにあった。

 1階に現代美術のギャラリー(入場無料)。B1と2階はカフェ。「壁があの頃のまま残っています。まさに『兵どもが 夢の跡』です」と磯貝喜兵衛元京都支局長。

 講堂のあった3階は劇場になっていて、写真にあるように「ギア」が2012年4月からロングラン公演中。残念ながらこの日は休演だった。

 ビルの前の歩道に道路案内が埋め込まれていた。京都の人はこれで1928ビルに行ける。

 祇園祭直前で、京都駅にも祇園囃子が流れていた。(堤 哲)

安倍晋太郎さんと、先輩の激励

 先日(2016,6,30)の合同懇親会で朝比奈さんが社長8年間の足跡を振り返ったお話は立派でした。感銘深く拝聴した。

 そのあと安倍晋三現首相のお父上、安倍晋太郎先輩のことを思い出した。ご承知のように晋太郎さんは毎日政治部出身、首相候補と目されながら志半ばで病に倒れられた。毎日が新社に移行した当日(1977,12,1)だったと記憶する。9F大会議室で社員大会が開かれ、平岡敏男社長が今後の方針を説明した。会場は満員、遅れて来た人達は社長の話の間、開け放した入口の外から聴いていた。

 私は司会役で入口付近に立っていたが、外から覗き込む人々の間から安倍晋太郎さんのお顔を発見、驚いた。安倍さんは前月、福田改造内閣で官房長官になったばかり。そんな忙しい中を駆け付けてくれたのだ。社長の話が終わり、私はマイクで次の議事を会場に告げたあと、急いで入口に引き返したが、もう安倍さんの姿はなかった。先輩たちは古巣のことを本当に心配しているのだなあ、と今でも忘れられない想い出である。もう1人、坊秀男先輩は当時、大蔵大臣だったと思う。立場上、あからさまに動けなかっただろうが、ピンチの古巣を心配して陰に陽に手を差し伸べてくれたと当時、人づてに聞いていた。有り難いことである。こうした諸先輩の古巣を思う心と有形無形の励ましによって、以後わが社は再建の歩みを始められたのだと思っている。

 毎日出身の有名人は今も各界で活躍中であり、ご同慶に堪えない。それぞれお忙しいことと思うが、できれば合同懇親会か秋の毎友会総会か、その1回だけにでも顔を出して現役経営陣を激励してくれたら、現役諸君もどんなにか心強く力づけられることだろう。合同懇親会の帰りの電車で、ふとこんなとり止めない思いに取りつかれたのでした。(名誉職員・本田克夫)

阿部菜穂子さん(元毎日記者)が日本エッセイストクラブ賞受賞

 元毎日新聞記者の阿部菜穂子さん著「チェリー・イングラム」(岩波書店)が第64回日本エッセイストクラブ賞に選ばれた。(授賞式は6月29日日本記者クラブ)

 菜穂子さんは、阿部汎克元論説副委員長(84歳)の娘さんで、2001年夏からイギリス人の夫、2人の息子とともにロンドンに住み、フリーのジャーナリストとして活躍している。

 日本で桜というとソメイヨシノ。パッと咲いてパッと散るという印象が強い。イギリスでは多品種の桜が植樹され、次から次へ満開を迎える。桜花を楽しめる期間がずっと長いのだ。

 取材をしていくうちに、イングラムさん(1880?1981)が明治・大正時代に3度来日して、多種多様な桜を持ち帰って、大事に育てていたことを知る。「桜辞典」も発表している。

 桜の本家・日本では江戸時代には250種もの栽培品種が生まれたが、明治維新で荒廃。もっぱらソメイヨシノが植樹された。戦時中は「みごと散りましょう 国のため」と、桜のように散るのが最高の美徳になってしまったという。本の副題は「日本の桜を救ったイギリス人」。伝統の桜はイギリスで多くが生き残り、「里帰り」も実現している。

 菜穂子さんのブログをみると、満開の桜の写真がいくつも載っている。「太白」や遅咲きの八重「寒山」などが青空に映える。(堤 哲)

 菜穂子さんのHPは www.naokoabe.com

 *桜の写真は阿部菜穂子ブログより。

ファッションモデルにもなった伝説的記者 市倉浩二郎
堤 哲

ファッションモデルにもなった伝説的記者
鳥居ユキさんのファッションショーにモデルとして出演したときの市倉浩二郎

 中野翠さんが「サンデー毎日」に連載している長寿コラムに、元社会部のナンパ記者・市倉浩二郎(1965年入社)が登場した。連載は1985(昭和60)年7月に始まり、31年目に入っているが、中野さんに執筆を依頼したのが市倉だったのだ。

 〈Iさんは軽快でオシャレな横浜っ子だったが、お互いの父親同士が同じ新聞社の横浜支局で働いていたことが判明した。

 父にIさんの話をしたら「エーッ、I君の息子さんが!」とうれしそうにしていた。ちょっと親孝行をした気分。

 それから間もなくIさんは急逝。まだ四十代だったはずだ〉=ヨ「サンデー毎日」4月17日号「満月雑記帳」1095回。

 誰からも「いっちゃん」と親しまれた。読売新聞の記者だった父親も、やはり「いっちゃん」と呼ばれていた。

 84年ロス五輪の特派員として開閉会式の1面を書いた。その後ファッション記者に転身。ワインにも詳しいグルメ記者でもあった。

 94年春のパリコレから帰った直後、鳥居ユキのショーの取材を終え、「悪寒がする」と帰宅して意識不明に陥った。4月25日没、享年53。ことしが23回忌である。

球史に残る「社内野球」優勝戦 堤 哲

環境シリーズ最終第11巻表紙
大東京竹橋球団S・ライターズ発行『野球博覧』の表紙

 追悼録にある松尾俊治さんが出場した社内野球の決勝戦。60年安保の翌春である。投手は末吉俊信(34歳)とスポニチ有本義明(29歳)の早慶対決。初回4番末吉が先制打、5回に8番相沢の適時打で加点した。末吉は被安打5、奪三振6で完封。2-0で運動部が優勝した。

 運動部のラインナップをご覧いただきたい。

    ⑤鈴木美嶺(東大野球部。「黒獅子の目」)
    ⑧北野孟郎(慶大ラグビーの快速ウイング)
    ④岩崎 恒(明石中ー国学院大で投手)
    ①末吉俊信(早大―毎日オリオンズ投手)
    ⑥松尾俊治(慶大の捕手)
    ③石川泰司(早大英文科卒の名文記者)
    ⑦柿沼則夫(都市対抗野球予選に出場)
    ②相沢裕文(立大山岳部、高校は野球部)
    ⑨岡野栄太郎(陸上400H五輪選手。中大)

 東京本社の社内野球は、終戦翌年の1946(昭和21)年、後楽園球場を借りて始まった。2007年秋の第114回を最後に開かれていない。

 その間、運動部では野球殿堂入りの小野三千麿、小川正太郎、早大野球部の初代マネージャー弓館小鰐、テニスの福田雅之助、戦前サンモリッツ冬季五輪に出場した竹節作太らが出場した。

 『野球博覧』に社内野球史が載っている。塁間90フィートはどう決まったのか、「野球創生」の詳細がある。川上哲治、大下弘、藤村富美男、長嶋茂雄ら人物野球伝がある。「大毎野球団」の誕生から消滅。「三角ベースで育ったわれら」の素朴実在論もある。

 2014年大東京竹橋野球団S・ライターズが創設30周年記念で発行した『野球博覧』。多少残部があります。送料とも@1,180円でお分けします。

 申し込み先:tsukiisland@gmail.com
 振込用紙を同封して郵送します。

二つの環境シリーズを書き終えて 川名 英之

環境シリーズ最終第11巻表紙
環境シリーズ最終第11巻表紙

 『世界の環境問題』シリーズ全11巻を昨年11月、11年がかりで完結した。その前に出した『ドキュメント 日本の公害』は全13巻。このほかのテーマを合わせると、32年間に書いた環境の本は35冊で、全部積み重ねて見たら110センチを超えた。世界の環境問題は外国に取材に行かなければならないので、費用がかさむ。執筆は難行苦行の連続だった。こんな仕事に取り組もうと心に決めたのは、毎日新聞社会部の環境庁担当記者時代に地球環境問題が人類の未来を閉ざしかねない重要な問題だという危機意識に目覚めたためであった。

 仕事は難行苦行だったが、喜びもあった。例えば大学で環境問題の環境関係の卒論指導に携わった時、多くの学生が私の著書を参考図書として使ってくれていることを知り、充足感を味わった。また『ドキュメント 日本の公害』は公害・環境問題の最初かつ唯一の通史としての評価が定着したように思われる。残念に思うのは、日本では地球温暖化が環境と人々の日常生活にもたらす影響についての認識が欧州主要国はもちろん、世界平均と比べても著しく低いことである。このため政府の意識も低く、2030年の温室効果ガス削減目標はドイツや英国の半分以下である。

 著名な専門家の多くが地球温暖化の進行で現代文明が崩壊の危機に瀕していると警告している。わが国の温暖化対策の貧困は改められなければならないとの思いを強くしている。

植木信吉さんのこと 小林弘忠

植木信吉さん氏
若いころの植木信吉さん=「天に問う手紙」の表紙より

 2016年1月、天皇、皇后両陛下のフィリピン訪問で、天皇がキリノ大統領(当時)の孫娘と会い「63年前のことは忘れません」と語ったとの報道に接し、思い浮かんだのは植木信吉さんのことだった。1953年、BC級戦犯が恩赦によって死刑囚含め108人全員がマニラのモンテンルパ刑務所から釈放され帰国できた陰に、1947年以降復員局(現厚労省)の法務調査官、植木さんの献身的救済活動があったのを知っていたからだ。

 マニラ裁判では、すでに17人が処刑されていた。戦時中の日本軍の「暴虐」に対する復讐裁判との声 も聞かれる中、植木さんは公務員の分限をはみ出し、服役囚支援にひたすら没頭した。1950年、ワラ半紙にガリ切りした冊子「問天」を創刊して刑務所に送り、以後一人で定期発行しで受刑者の詩歌、手紙も掲載した。死刑囚の作詞作曲による歌謡曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」はこの過程で生まれた。政治家、著名人に恩赦を働きかけ、日本から慰問団を派遣するまでにこぎつけ、これら一連の行動が大統領の心を動かしたのである。

 私は植木さんの許可を得て、創刊号以来年月別にバインダーに分散格納されている膨大な冊子をバッグに詰めるだけ詰めて借り、返却するとまたつぎの冊子を借りる方法で、神奈川県座間市のお宅と東京の自宅を毎月5、6回往復、「問天」の全部に目を通し、2008年7月『天に問う手紙』(毎日新聞社刊)としてまとめた。冊子は戦犯たちが帰国した後も発行され、親睦・支援団体「モンテンルパの会」もつくられた。植木さんは2015年3月、93歳で他界したが会は存続、子、孫へと感謝の心が受け継がれている。

幕末の政治家板倉勝静 小林弘忠

岡山県・松山藩主 板倉勝静
岡山県・松山藩主 板倉勝静

 江戸幕府最後の筆頭老中、岡山県・松山藩主、板倉勝静(かつきよ)の名は、あまり知られていないのではないか。鳥羽・伏見以降の宇都宮、奥羽、函館戦まで、官軍対幕軍のいわゆる戊辰戦争全般にかかわってきた幕府軍の旧譜代大名である。(写真は老中、後に奧州越列藩同盟参謀・板倉勝静)

 第十五代将軍徳川慶喜はすでに政権を放擲、幕府の権威は壊滅しているのに、なぜ白旗を上げずに頑なに新政府と戦っていたのか。それは、きわめて不透明な時代の政治家として、二つの節(せつ)を統合しようとしたからだと思う。天皇への忠、徳川家への義。「忠義」の狭間に悩み、義に殉じようとしたのである。

 彼の側用人だった辻七郎左衛門が明治二年に記した『艱難実録』(岡山県高梁市郷土資料刊行会、復刻書)には、自訴を勧める家臣団とあくまで戦闘続行を主張する勝静との動きが克明に描かれ、戊辰戦争の裏面がうかがい知れる。復刻書の中で辻は、「わが君のことを世間にては高名に伝すれども、実はさほどのことは之なし。正直固情に深きご性質にて(略)質朴簡便を好みて詐欺修飾をにくむこと甚し」と、その頑迷さにいささかあきれたように、主君を評している。

 勝静は、流浪の果てに新政府軍にとらえられ、赦免後の明治十年、上野東照宮の神職に任じられたまま、二十二年六十六歳で波瀾の人生を閉じた。勝静についての文献は多くないが、果然とした一幕末政治家の姿を、国民への義を忘れ、党利党略、個利個略に走りがちな現代政治家と比較して見直すのも意義あるかもしれない。

旧日本陸軍の秘密戦基地「登戸研究所」 小林弘忠

今も残る陸軍のマークのある消火栓=明大生田キャンパス内で
今も残る陸軍のマークのある消火栓=明大生田キャンパス内で

 旧日本陸軍の秘密戦基地「登戸研究所」の施設は、現在は明治大学生田校舎(川崎市多摩区)となっているが、キャンパス内に面影を色濃くとどめている。 実験に供された動物慰霊碑、火災時に用いた錆びついた消火栓(写真①)、研究中の犠牲者を祀った神社、朽ち果てそうな薬品庫、そして秘密戦の全容を示す各種資料を集めて二〇一〇年に開館された資料館。このキャンパスには、これまで三度足を運んだものだ。

 秘密戦とは、防諜(スパイ防止)、諜報(スパイ活動)、謀略(破壊、暗殺)、宣伝(敵国の攪乱)の四活動をいい、戦争の裏面を形成するものである。この研究所は実際に秘密戦に用いる突飛な兵器を研究、製造していた。戦時中、川崎市登戸地区にあったので通称登戸研究所といわれ、その存在そのものが極秘とされていた。

 爆弾、焼夷弾を搭載してアメリカに着弾させた風船爆弾(写真②)は、謎の物体としてアメリカ軍の心胆を寒からしめた。遅速性で、のちに死に至る新毒物・青酸ニトリルは、戦後の帝銀事件で用いられたとして話題となった。

10分の1に縮小した風船爆弾の模型=登戸研究所資料館で
10分の1に縮小した風船爆弾の模型=登戸研究所資料館で

 このほか敵国の小麦を死滅させる小麦細菌の創製、蛇の毒を合成する生物兵器の開発、ライター、マッチ、ステッキ型秘密カメラ、缶詰、レンガ、トランク型爆弾の製作、さらに中国国内を混乱させる目的の法幣(中国の統一通貨)の偽造――が、外界から隔絶された研究施設内で密かにおこなわれていたのである。

                                            

 科学研究は人類発展のためにあるが、ひとたび戦争となれば、科学は最大限悪用され、人間の理性、人道面を喪失させることを登戸研究所の戦跡、資料館を訪れるたびに想った。狂気というより道化、無謀というより愚鈍さを。戦争で悪魔の化身とされる生物兵器が現実に使用されなかったのは、せめてもの救いであったろう。

 校内には「すぎし日はこの丘に立ちめぐり逢う」の句碑(一九八八年建立)もある。かつて厳重な緘口令により、機密は墓場まで持って行こうと決意し、戦後数十年を経て、やっと口を開くことができた喜び、研究所の日々のせつなかった気持ちを表している。

 遺跡、資料館の資料を見るたびに戦争の暗部を見せつけられる気がして、帰りの小田急線電車内の学生の明るいにぎわいが、あらためて尊いものに感じたものだった。明大生田キャンパスへは、同線生田駅南口から徒歩約十五分。