元気で〜す

2018年8月10日

前和歌山市長、大橋建一さん(72歳)

 これは「大橋建一ブログ」の表紙である。本人と、選挙には欠かせない夫人の似顔絵か。

 東大文学部を卒業して1971年毎日新聞に入社。整理本部に長く、2002年、56歳で和歌山市長に就任。3期12年務めた。

 お父さんが元和歌山県知事。その関係で市長選に担ぎ出されたのだろうが、とにかく真面目で、政治家とは縁遠いタイプに見えた。

 何かの折、市長室を訪ねたことがあった。阪神タイガースのグッズに埋まっていた?という印象が残っている。

 市長時代からブログで情報発信していたが、「根っからの歌好き」。自著『百歌自典』(2012年アガサス刊)は、105曲もの歌を時代背景やエピソードを紹介したエッセイ集。

 最近の生活について《暇な日々でカラオケに月1~2回、市内の「うたごえ喫茶」に月1回、週2回「元気開発研究所」と称する年寄り向けジムのような所で1時間ほど体を動かすのが健康法》だとか。

 8月3日のブログは「狙いうち」。

 ――高校野球、夏の甲子園が間もなく始まる。今年は記念すべき100回大会ということで、主催の朝日新聞社は例年以上に盛り上がっている。その一方で、外国のメディアには「こんな酷暑に、甲子園のようなカンカン照りの球場で高校生に野球をやらせるとは信じられない。虐待のようなものだ」と非難する声もあり、時期や甲子園開催についてネット上で論争が起きている。しかし、朝日新聞や朝日放送は何が何でも「灼熱の甲子園大会」を守ろうと必死でキャンペーンしているように見えて痛々しい。そう感じるのは私だけか。

 ブログには自身の略歴も載っていて、【趣味】スポーツ観戦、音楽(なんでも)鑑賞、読書(ミステリー)、パソコン、雑文書き、温泉めぐり、とあって、そのあと【名前の由来】。

《終戦直後の昭和21年6月22日、焼け野原となった日本に生を受けた私に、父が日本復興の願いを込めて「大きな橋を一番に建てる」という意味でつけた名前です。だから「建」には「にんべん」がついていないのです》

(堤  哲)

                                 

2018年7月18日

元毎日新聞記者の歌人松村由利子さん

 何気なくテレビをカチャカチャやっていたら、毎日新聞で一緒に仕事をした女性が現れた。歌人の松村由利子さんである。石垣島に住んでいて、原発難民?だった歌人の俵万智さんを引き寄せたといわれる。

 NHK短歌(Eテレ毎週日曜午前6時放送、 再放送・毎週火曜午後3時)の選者である。

 番組のHPで選者を紹介している。

 松村由利子(まつむら ゆりこ)1960年福岡市生まれ。「かりん」同人。馬場あき子に師事。歌集に『大女伝説』(第7回葛原妙子賞)『耳ふたひら』など。著書に『与謝野晶子』(第5回平塚らいてう賞)『31文字のなかの科学』(科学ジャーナリスト賞2010)『短歌を詠む科学者たち』など。全国紙の記者として働いた後フリーに。

 選者の抱負――。

 【晶子の多才ぶりを伝えます】

 与謝野晶子は、実に多才な歌人でした。女性が経済的に自立する大切さを説くなど、さまざまな社会評論をものにし、子どもたちのために数々の童話も書きました。でも、デビュー作である『みだれ髪』の情熱的な恋の歌しか知らない人も多いのではないでしょうか。ワーキングマザーの先駆けだった晶子の生き生きとしたまなざしを、彼女の歌と文章から紹介してゆこうと考えています。

 私自身、折々に彼女の言葉に勇気づけられ、隣にいる大先輩「晶子さん」のような親しみを感じてきました。皆さんにもその魅力が伝わりますように。

 番組でも晶子の作品をクイズ風に紹介した。
 〇〇〇〇には何が入ると思いますか。
 ゲストの言語学者金田一秀穂さん(金田一京助の孫)は「うつくし」、司会の有森也実さんは「酔いどれ」。
 正解は「かわゆし」だった。

 番組の冒頭で紹介された彼女の短歌は――。
  フェミニズムは
  もう終わりだと
  友は笑み
  天然酵母ビール
  飲み干す

            松村由利子

(堤  哲)

元運動部・スポーツ事業部長、江成康明さん

画像
憩いの宿「夢見る森」HPから

 長野県白馬村でペンションを経営する傍ら松本大学非常勤講師もつとめている江成康明さんから、「若者のためのエナジー通信」第27号(2018年5月20日) が届いた。

♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜

 きょう、68歳の誕生日を無事に迎えることができた。
 体のどこにも異常なく、ここまで何事もなく生きてこられたのは、両親が健康に生んでくれたから、と改めて感謝した。盲腸以外に入院したことはないし、病院通いも全くない。ちょっと血圧が高いぐらいで、体調不良で生活に支障があったこともない。何より、骨太に生んでくれたことがうれしい。いろいろなスポーツをしてきたが、骨折は一度もなく、腰痛もなかった。何と幸せなのか。仏壇に線香をあげ、ひとり手を合わせた。
 そして、楽しい人生の糧となっている家族と孫のありがたさ、なんでも言い合えた仕事仲間、道で会って笑いながら会話ができる地元の人たち、祖父のような年齢の私の話を真剣に聞いてくれる学生たち…。付き合いのあったひとたちみんなに「ありがとう」と心で言った。
 (略)
 自由気ままに生きている、とわが身を思う反面、最近相次いだ訃報に「人間は生かされている」ことを実感した。時代の象徴だったアイドル歌手の西城秀樹さんが亡くなり、若大将シリーズで女性のしとやかさと華やかさを教えてくれた星百合子さんも他界した。頭には、ほとばしる汗も気にせず全身で歌っていた西城さん、素敵なお姉さんとそっと恋心を抱いたこともある星さんの姿しか残っていないのに、ともにそれなりの年になり、寿命に屈した。「生かされている」生命は必然的に終焉を迎え、私の中の「昭和」もひとつずつ消えていく。
 身近な人の死はさらに空しい。若いころの憧れであり、多くのことを教えてくれた会社の先輩が2人、続くようにあの世へ旅立った。
 学生時代に毎日新聞社の政治部で原稿取りのアルバイトしていた時、2人は同じころ支局から政治部へ上がってきた。橋本達明さんと岸井成格さん。私より5歳ほど年長で、新聞記者を目指していた私にとってはまさに生きた教科書だった。ベテラン記者が多い中で、ともに若さをそのまま押し出すような歯に衣着せぬ発言と行動力があった。
 とくに沖縄返還密約事件に端を発した西山事件のころは、毎晩のように社へ上がってきて、紙面の内容に対して上司にかみついていた。「この見出しはおかしい」「社としてどう考えているんだ!」。その声は編集局中に響き渡った。活気があった。新聞記者への憧れはさらに増した。
 2人は仲が良く、酒も好きだった。アルバイトごときの私を「飲みに行こう」と誘ってくれた。まだ付き合い始めたばかりの私の妻も一緒だった。酒が苦手な私をこのころからかわいがってくれた。
 私が記者になってからも、橋本さんはいつも気にかけてくれ、相談に乗ってくれた。岸井さんは廊下ですれ違うたびに声をかけてくれた。社の幹部になっても、出来の悪い後輩への接し方は全く変わらなかった。
 橋本さんが4月14日に胆管がんで亡くなった、と紙面で知った。体調が良くないとは聞いていたが、こんなに早く、とショックを受けた。会いに行けなかったことを後悔した。奥様に手紙を送り、私の中ではまだ生きている橋本さん宛の「礼状」もしたためた。
 それから1か月後の5月15日、岸井さんの訃報をテレビで知った。がんとの闘病で入院している時、「タツ(橋本さん)はどうしてる」と夫人に聞いたという。弱っていた岸井さんに、橋本さんの死を告げられなかった、と夫人は橋本さんの奥様に語ったそうだ。
 同じころ入社し、同じように政治部記者として活躍し、同じように社の屋台骨になり、同じ時期に天国行の列車に乗った2人に、「どこまで仲がいいんだ!」と胸の中で叫んだ。横で、妻も涙ぐんでいた。
(略)
 政界には相変わらずウソがはびこり、大学アメフト界でもとんでもないことが起きた。日本人の根底にあったフェアプレー精神と潔さはどこへ行ってしまったのだろう。
 いつも今の政治や社会を憂いていた橋本さんと岸井さんに話を聞いてみたい。何というのだろうか。

 江成さんは、運動部デスク、長野支局長から事業本部スポーツ事業部長をつとめた。退職して白馬のペンション「夢見る森」オーナーだ。

(堤 哲)

元点字毎日編集長・銭本三千年氏(87歳)

画像
お孫さんが描いた錢本さん(2008年8月)

 「点字毎日」が日本記者クラブ賞の特別賞を受賞するニュースを聞いて、その関連を調べているうちに「点毎」編集長を15年つとめた、というブログに出くわした。

 銭本三千年氏。インターネット上に公開されている自己紹介は――。1954(昭和29)年同志社大学法学部政治学科を卒業して毎日新聞入社。1971(昭和46)年2月「点毎」編集長に就任。31年勤めた毎日新聞社を定年後、大阪千里ニュータウンから岡山・吉備高原都市へ転居した。

 高梁市の短大に介護福祉士養成の保健福祉専攻コースを創設し、保健科保健福祉専攻主任教授に就任。新聞記者在職中も大阪市立大学で非常勤講師をつとめ、大学・短大での教職歴は通算25年という。

https://zenmz.exblog.jp/13441950/

 ブログでの発信は、岡山県に転居してすぐ始めたようで、2002 年(平成14 年)4月6日の「古希残照の日々」に、「吉備高原で古希老人が明日に託する想い/あなたと分かちあいたい残照人生の余録」とある。

 昨年8月2日の【吉備野庵】。「先月、87歳の誕生日を迎えたのを機に私のブログに日英両語で日記をつけることにしました」

 同8月23日。「高齢者の健康維持に最も理想的な修練はウオーキングです。私は起床と同時に庭に出て、日の出の太陽に向かって大きく数回、深呼吸をします。それからウオーキング開始。約30分間、速足で歩きます。2003年定年以降、もう14年間も日課として続けてきました」

★ Walking is the most ideal practice to stay healthy for the elderly people. As soon as I get up, I go out and breathe deeply several times towards sunrise. Then get it started to walk at fast pace for half an hour. It has been my daily routine for 14 years since I retired in 2003.

 こんな具合である。「点毎」関連では、点字新聞の発行を促した好本督(1973年没95歳)、初代編集長中村京太郎(1964年没85歳)両氏にも直接会って、話を聞いている。

 1955(昭和30)年、3度目の来日をしたヘレン・ケラー女史(68年没87歳)は、点毎を視察した。入社2年目の銭本が取材をした。

 「点字は盲人を暗黒から解放しました。日本の盲人は”点字毎日”で自らの言論を得ました」

 女史が、「点毎」の意義をこう述べた、とブログに綴っている。

 7月19日に88歳の誕生日を迎える。米寿である。

(堤 哲)

80歳の現役事件記者は、毎日新聞OB

画像

 この顔を知っている人も少なくないと思います。
 中京テレビ三重支局の服部良輝さん。三重県警本部を担当する現役記者で、5月末で引退するという記事が地元「伊勢新聞」などに報じられた。

 各紙の記事を総合すると、服部さんは、津市香良洲町出身。農家の四男坊で、地元の定時制高校を卒業して、21歳の時に、毎日新聞津支局の運転手になった。「特勤」である。
 クルマの運転だけが仕事ではない。出先のクラブや通信部から電話で入る原稿を受ける。IT時代では考えられないことだが、原稿はざら紙に鉛筆で書いた。
 写真の現像も任される。その前に、現像液や定着液をつくらなければならない。これは事務補助員の仕事になっていたが、「特勤」さんもよくやらされていた。
 出先から送られるフィルムを現像→焼き付けして写真ができると、次は電送にかける仕事が待っている。
 そのうちデスクから「スケッチ写真でも撮ってきてよ」などと写真撮影を頼まれる。
 事件・事故の現場には、記者と一緒に出掛けて、報道合戦の仲間入りする。
 入社直後に、死者・行方不明5千人余を出した伊勢湾台風に見舞われた。1961(昭和36)年の名張毒ブドウ酒事件では、現場の聞き込み取材に動員された。
 39歳の時、鈴鹿支局へ異動。記者職に転身した。1993(平成5)年に毎日新聞を定年退職。その後、中京テレビに再就職。三重県警本部の記者クラブに常駐して24年になる。県警本部の有名人であえる。56歳から詰めているから、現在80歳の事件記者である。

 各紙の見出しは――。
 「書かなあかん」 80歳記者、孫世代とスクープ合戦(朝日新聞)
 80歳の現役記者「事件から逃げたらあかん」若手にエール(産経新聞)
 スクープ追い続け50年 津出身の80歳記者、服部さん引退へ(伊勢新聞)
 むろん中京テレビの番組でも報道された。

 記事にはこんなことも書かれている。
 「けがは? 現場は信号あるん?」。交通事故について警察署に電話取材する力強い声が記者クラブに響く。周囲の記者がパソコンを使う中、取材が済むと愛用の軟らかい3Bの鉛筆で原稿用紙に記事を書き、ファクスで送信した。

 服部さん、お元気で。毎友会も応援しています。

(堤 哲)

曽孫が5人、月刊誌に連載を持つ88歳、碓井彊さん

画像
碓井 彊さん

 藤原新一郎さん(2月13日逝去、92歳)の追悼録をお願いした碓井彊(つとむ)さん(88歳)と日本記者クラブで会い、天野勝文さん(元筑波大教授)と3人で懇談した。

 「1年先輩(昭和26年入社)によくしてもらいました。藤原さんをはじめ、上田健一さん(2016年没89歳)、小野満さん(1996年没 66歳)、岩間一郎さん(1987年没63歳)、石塚俊二郎さん(2002年没74歳)ら皆亡くなられて、健在は藤岡周三さんくらい」

 懐かしい名前が次々に飛び出してくる。

 碓井さんは、早大政経学部経済学科卒、1952(昭和27年)入社。西部本社編集局→福岡総局→京都支局→大阪本社経済部→東京本社内信部→エコノミスト編集部。デスクから別冊編集長をつとめ、定年まで18年、エコノミスト誌とともにあった。

 日本記者クラブ会報2008年4月号に「編集者のみた戦後エコノミスト」を書いているが、経済白書の歴代執筆者と親しくお付き合いしていたことが分かる。

 大来佐武郎。何でも頼みを聞いてくれる「ホイキタさん」。「動」の金森久雄、「静」の宮崎勇。「景気探偵」赤羽隆夫はマンガ経済学をエコノミスト誌に発表した。

 経済学者を大学に訪ねている時に、慶応大商学部の入試問題漏洩事件の情報をキャッチ、社会部に通報して、社会面のトップを飾る特ダネとなった。「これは雑誌編集上の付録である」と記している。

 1984(昭和59)年の定年退職後は、桜美林大、創価大の講師、高崎商科短大教授。2001(平成13)年に4年制の大学にして、学長に就任した。

 日本エッセイスト・クラブ監事。日本船長協会の月報「Captain」に2006年から、その時々の話題を書き続け、現在もなお執筆している。

 「川崎市の地元図書館と、日比谷図書館は常連」といいながら、日本記者クラブでも参考文献のコピーに余念がなかった。

 奥さまに先立たれたが、親しい友人の紹介で再婚。「原稿を書くことはボケ防止にもなります。元気の秘訣ですね。曽孫が5人になりました」と目を細めた。

画像
1977年5月25日付毎日新聞社会面

(堤 哲)

東日印刷旧友会の新年会

画像
東日印刷旧友会の記念撮影
最前列右から秋野健、萩原康則、取違孝明、前田和彦旧友会会長、高梨一夫、武田芳明、木村栄作、平田睦夫旧友会前会長、福沢里次元旧友会会長、伊藤義一元東日役員
毎日OBは敬称を略しました。

 恒例の東日印刷の新年会が1月26日午後4時から、越中島の本社ビル5階大会議室で開かれた。

 昨年社長に就任した武田芳明氏が元気に新年の挨拶をして、懇親会がスタートしたが、毎日新聞出身で最高齢は、昨年米寿を迎えた萩原康則さん。「小池クン(唯夫元毎日新聞社長、昨年11月30日逝去、85歳)のお別れ会は2月20日だったよね」

 ロッキード事件が起きた1976(昭和51)年、萩原さんは夕刊編集長で、小池さんは政治部のデスクだった。ちなみに社会部長が牧内節男元スポニチ社長。

 萩原さんが東日印刷の監査役になったのが、1985(昭和50)年である。和田凖一社長時代だった。ともかく元気で、記憶力もバツグンだ。

 ついで岩崎鴻一さん(81歳)。少し下がって78歳が4人。千葉伸郎さん、赤松徳禎さん、岩田健一さん、坂戸悦偉さん。77歳が吉沢孝さん、秋野健さん、大野裕朗さん。76歳が元社長の木村栄作さん、川浪猛さん、それに私(堤)。

 73歳が星輝雄さん、72歳で取違孝昭元社長、松上文彦さん。イヌ年で年男の松崎仁紀さんはまだ71歳、若者の部類である。

 現会長高梨一夫さんは、69歳。先輩たちに「ことしもよろしく!」を繰り返していた。

 欠席者のはがきが貼り出されていた。毎友会HPにも原稿を寄せている元取締役の河合喜久男さんは、大正10年生まれ。ことし5月10日に97歳の誕生日を迎える。取締役就任が1977(昭和52)年2月である。

 もうひとり牧内節男さん。ことし8月31日に93歳になるが、そのはがきにあった近況報告。「ネットの新聞『銀座1丁目新聞』を開設して、今年で21年目に入りました。月に12本の原稿を書いております。書くことは生きることと思い、あと10年つづける所存です」

 100歳を超えて、なお書き続ける。威勢のよい宣言に、勇気と元気をもらった気がする。

(堤 哲)

森桂氏主宰の東京港区地域限定月刊紙が100号に

画像

 退社後に長期滞在のハンガリーから帰国して移り住んだ東京都心高輪で、森桂氏が発行した地域限定月刊紙「共和会だより」が、創刊8年目の昨年12月、100号に達した。森氏が居住する町は旧東海道の元品川宿と江戸入口「高輪大木戸」址間に位置、町内には高輪公園、幕末は大英帝国最初の公使館で臨済宗の名刹東禅寺。近くには泉岳寺。閑静な佇まいの中の史跡レポート目立ったが、最近、付近が東京大改革の目玉に浮上、急に慌ただしくなった「街づくり」が一段と紙価を高めている。(写真は森氏)

画像

 森さんが高輪にぶらり現れたのは10年ほど前だった。以前、品川付近に住み、土地勘がある高輪の大学同窓生を訪ねて相談するうちに、そこの町が気に入った。私(平野裕)が町会長。付近にはK大出身者も多く住むなど、もともと人付き合いがいい彼には打って付けの場所柄だったらしい。

 間もなく、私が会長職を譲ったのが彼のK大同窓で、森さんは副会長になりカメラ片手に大活躍、町内の人気者。広報担当を勤める私は言わば配達係り。いま、町内ではマンション建築問題で六年越しの建設会社との紛争を抱えるだけでなく、町内に都心環状4号線が乗り入れる都の大工事が本格化、域内の戸建住宅が立ち退きを迫られる事態になっている。

(写真 左は09年6月発行の創刊号。オールコック英公使の着任150年記念講演会特集。下は100号、左が一面、右が裏面。一面では前述のマンション建設批判記事。裏面で創刊100号の弁)

画像
    

(平野 裕)

明けましておめでとうございます。長沼芳夫

画像

 皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

 この絵は昨年5月、房総白浜海岸への都展撮影会で 描いた水彩50号です。

       

2018年元旦

 今年90歳。大分、体力的に絵もしんどくなりつつあります。

(元英文毎日。退職後コカ・コーラ。都展評議員。90歳)

(平野 裕)

88歳のジャーナリスト・野村勝美

 正月にネットを検索していて、社会部の先輩の文章を見つけた。

 〈明けましておめでとうございます。と書きながら何がおめでとうだという気分が、来年には90歳になる老生にはある。もう5、6年、もっとになるか年賀状は出さないし、正月料理も食べない。お雑煮は入歯がはずれ、のどに詰まるおそれがあるので小さな餅を一コか二コ用心しながら口にする〉

 野村勝美さん(88歳)である。「サンデー毎日」デスクから「毎日ライフ」編集長。繰上定年後、おもちゃ店経営とプロフィールにあった。ニッパチ(昭和28)入社。「司法記者として初陣の造船疑獄取材に頭角を現す。多角的な視野に立つ記事で多くの読者の感動を呼び起こした」とも。

 毎友会には必ず顔を見せる律義な先輩である。

 引用したのは、ことし1月1日付けの「浜田山通信」No208。見出しは「♯Me Too」。

 〈ことしはまちがいなく女性ファーストの年になると確信する。去年アメリカやヨーロッパで始まった♯Me Too運動はアジアでも、日本でも起こるはずだ。日本でジャーナリストの伊藤詩織さんが立上った〉

 〈私の一番信頼する評論家斎藤美奈子さんによると、昨年のアメリカでもっとも検索件数が多かったのは「フェミニズム」だったそうだ。トランプに対する「ウイメンズ・マーチ」などもフェミニズムがアメリカの昨年の言葉になった原因だ〉

 そして最後は〈日本の男女平等度は世界で百十四番目。…女も男もみんなフェミニストになろう〉と結んでいる。

 野村さん自身は、大変なフェミニストである。同僚女性記者の増田れい子さん(2012年没、83歳)や、「広島第2県女2年西組 原爆で死んだ級友たち」の関千枝子さんらと親交があった。

 いつまでもお元気で、健筆を期待したい。

(堤 哲)

『やすらぎの郷』と『返さなくてよい奨学金』

 テレビドラマ「やすらぎの郷」が評判になっているが、毎日新聞OBの大久保貞義さん(82歳)は、介護付有料老人ホーム「ロイヤルハウス石岡」(茨城県石岡市)と「ロイヤル川口」(埼玉県川口市)を経営する。

 東大を卒業して1959(昭和34)年に毎日新聞に入社、政治部記者となったが、その時の政治部長・小林幸三郎さん(元RKB毎日会長、2014年7月没102歳)は、ここで最期を迎えた。現在は論説OBがお世話になっている。

 大久保さんは、在社中に米スタンフォード大学、プリンストン大学に留学、さらに米議会の奨学生として留学して議員の政策担当秘書を経験したという。

 1967(昭和42)年、30歳で退社して、東海大学広報科助教授。72(昭和47)年に独協大に移り、70歳定年まで教授を務めた(行動科学論、マーケティング論)。指導したゼミの学生は34年間で500人にのぼる。

 記者から大学教授へ。政治部の先輩・諏訪正人さん(2015年没84歳)は「ジャーナリズムとアカデミズムの幸運な握手」と、大久保さんを称えた。

 「ロイヤルハウス石岡」の完成は、1988(昭和63)年。米留学中に見た老人ホームは、日本の「養老院」とは全く違っていた。高齢者が優雅に暮らせる老人ホームは、大久保さんの夢の実現であった。テレビドラマの「やすらぎの郷」に似ている。

 入る際には相応のお金が必要だが、あとは悠々とした生活が楽しめるし、終身介護も受けられるのである。

 もうひとつ、大久保さんは、自身の米留学が返却しないでよいアメリカの奨学金を受けたことから、一般社団法人「ロイヤル福祉助成法人」をつくり、2016(平成28)年から返さなくてよい、もらいっぱなしの奨学制度を創設、とりあえず大学生5人に計400万円、ことしは7人に計500万円を寄付している。若者の将来に期待してのことだ。

 目指すは日本一の老人ホームと、大久保さんは夢を語っている。

画像
大久保貞義さん

(堤 哲)

野球雑誌に記事を書いています! 元サンデー毎日編集長の鳥井守幸さん(85歳)

画像
「鉄道と野球」の旅路」  本の表紙

元サンデー毎日編集長の鳥井守幸さん(85歳)が久ぶりに野球の記事を書いた。現在発売中の「野球雲」08号(1200円+税、啓文社書房)で「最強門鉄と九州の野球」。炭鉱の町大牟田出身で、九州の野球に思い入れが深い。

 都市対抗野球で黒獅子旗した門司鉄道管理局(現JR九州)、八幡製鉄(現新日鉄住金)、西日本鉄道、別府星野組の4チームをはじめ、日鉄二瀬、志免鉱業所、植良組などの球団と選手たちを紹介している。小鶴誠、木塚忠助、武末悉昌、濃人渉、古葉竹織(毅)、権藤博……。毎日新聞OBの末吉俊信投手(故人)は早稲田大学に入る前に八幡製鉄にいた。

画像
鳥井守幸さん(左)と豊田泰光さん(故人)
(2003年4月撮影)

 股関節を痛めて杖をついているが元気だ。写真は「野球文化學會」のパーティーで豊田泰光さん(故人)とだが、福岡ダイエーホークスのスパイ事件(1998年)では、パリーグ特別調査委員を務めた。野球グッズのコレクターでもあり、著書に『野球ふしぎ発見』(毎日新聞社)。

 本が発売された日に、社会部OBの天野勝文、加納嘉昭、沢畠毅氏らが東上線若葉駅近くの回転寿司に集まってお祝いをした。車イスで現れた鳥井さん。「イエスの方舟事件はねぇ」などと昔話の独演会。いつ起きたのか必ず年号を口にしたので記憶は確かだ。いつまでも現役ジャーナリストでいて欲しい。

(堤 哲)

「音楽は平和を運ぶ」と訴える被爆者松尾康二さん

画像

昭和21年2月、広島の「未完成」

 シューベルトの名曲が聴こえるように楽譜を添えて、「それは生き残った人々に、共感と勇気を与えました」。

 こんなユニークな全面広告が2月16日の毎日新聞をはじめ、朝日、読売、日経と地元中国新聞の5紙に掲載された。

 広告主は、特定非営利活動法人「音楽は平和を運ぶ」。

 エッ、社会部OBで、カルビー元会長の松尾康二さん(79歳)が理事長をつとめるNPO法人じゃないか!

 昨年5月、オバマ米大統領が広島入りした日に合わせて、中国新聞に全面広告を出した。

画像
President Obama, Eradicate All War 
   オバマさん 戦争を廃絶してください

 そして今回――。《原爆投下の半年後、1946年2月、爆心地から4㌔離れた高校の講堂で、シューベルトの「未完成交響曲」の演奏会がありました。これはほとんど死に絶えた広島の人たちの心情から始まり、しかし苦難の中でようやく立ち上がろうとする人々の悲痛なうめきに近い気持、ここまでは短調で表現されていますが、ようやく復興が始まったところから長調、短調が交互に現れ苦難を乗り越えていく広島の人々の心をよく表現されています》

 この演奏会が広島の人たちをどれほど勇気づけたか。「広島の復興はクラシック音楽と共にあった」と広告の中見出しでうたっている。

 松尾さん自身被爆者である。《8歳の時、1・6キロ地点で被爆し、木造建築の下敷きになり…大人たちに助けられ焼死をまぬかれました。近い親戚3家族18人のうち合計10人が直接、間接に被爆死したことになります》

 そして《私の家族5人は全員無事だったので「奇跡」といわれました》。

 父親は焼け野原にいちはやく木造建築の食品工場をつくり、松尾少年も一緒に働いていた。(株)カルビーの始まりである。

 旧制広島高等師範付属中学校(現広島大学付属中・高等学校)の講堂で、かつて同中学の音楽教師だった竹内尚一氏(故人)が指揮して開かれた演奏会。国民学校2年生の松尾少年も聴衆のひとりだった。

 全面広告の反響は大きかった。指揮者の次男(69歳)が電話をしてきた。「私も聴いた」と当時旧制高校の学生(90歳)らからも。演奏会の模様が鮮明になりつつある。

 松尾さんがNPO「音楽は平和を運ぶ」を立ち上げたのは、2014(平成26)年8月。以来、指揮者の大野和士さんを迎えるなど広島市内でクラシックコンサートを開いている。

 ホームページ(http://music-peace.jp/#)では、この全面広告をクリックすると、シューベルトの「未完成」交響曲が流れるのだ。

 この活動ことは松尾さん自身が、毎日新聞の同人誌「ゆうLUCKペン」39集(2017年2月26日刊行)に綴っている。

 「ゆうLUCKペン」39集は、頒価@1千円+送料180円。申し込みは「ゆうLUCKペン」刊行委員会(〒171-0044 豊島区千早1-34-9 千早町ガーデンハウス303 中谷範行気付 TEL080-1027-9340)へ。

ヴェネチア大運河 長沼芳夫(元英文毎日編集部)

画像
「ヴェネチア大運河」長沼芳夫画

 明けましておめでとうございます。

 この絵は昨年(2016)、第52回都展で「寿賞」を頂いた水彩50号「ヴェネチア大運河」です。又絵で賞をもらいました。

 今年も皆さまのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

毎友会運営委員会・運営委員の言葉

平野 裕

 毎友会の現会員は皆、もう40年前になる未曾有の経営危機時代を経験した仲間です。このサイトは「毎日ジャーナリズム」とは何かを読み取って頂きたいと思い開設しました。真実の追及、使命感、ヒューマニズム、知識欲、友情、献身などその核心は数々の文章に滲みでています。私はソ連末期のモスクワで働き、生命を燃焼させ、生後6か月の息子を失う経験をしました。それも一つのエピソード。サイトへの寄稿をお待ちしています。

石井國範

 元気で健康な生活を送っている要因は2つあります。第一は人とのコミュニケーションを大切にすること。第二は愛犬との散歩です。

 在社時、各業界の方々との交友のおかげで、現在でも付き合いを継続し、社に役立つ情報を収集、また年齢的なこともあり、医療や社会保障問題に限らず日常の出来事等にも関心を持ってお互いに話し合っていることが精神的に良い結果を生み出しているように思います。

 犬(シベリアンハスキー・生後3年)とは、日々1万5千歩、歩くことを目標とし毎朝午前5時、夕方は日暮れ前トータル約2時間散歩します。

 四季折々の花々を眺め、いろいろな鳥の鳴き声を聞きながら散策すると気分爽快で最高です。今後も身体の続く限り実行していくことで元気もりもり、気力、精神力が充実した証になると確信しています。

教養と教育を活かして 岩崎鴻一(1959年定年)

 参院選から18歳以上に選挙権が与えられたが、18の逆さまは81歳。「まだ何も知らないが18歳。もう何も覚えていないが81歳」とか。

 あと1年で81になる運命、培った教養と教育を活かして頑張ってます。「きょう用がある、きょう行く所がある」。5月に発売された週間ダイヤモンド「日本を動かす慶応三田会」は、増刷するほど売れたとか。世界に860以上もあるOB組織の三田会、その二つの会長、毎友会の運営委員など。すべて無給ですが、教養と教育が元気の源です。

絵を描いています 上谷川 勉

画像

 絵は、小学校の低学年のとき、正月の飾り餅を描いて先生に出したら教室に掲示されました。この時の喜びの感動から絵を描くのが好きになり、四季折々の景色や草花を描き続けて今に至っています。

 自然のありがたさを味わいつつ老後の余暇にこれからも絵を描き続けて行こうと思っています。

 右の写真は、奥飛騨平湯大滝にて(平成25年8月描く)

男の料理教室 今野当夫(元制作部)

画像

 板橋区の「男の料理教室」に参加して11年になります。女性の先生指導のもと、毎月1回2時間30分の講習です。1回2時間30分の講習です。料理内容は和洋中と幅広く、12月にはクリスマスケーキを作ります。

 会員20名が5テーブルに分かれて、レシピをもとに下ごしらえから取り掛かりますが、調味料の量を間違えたり、食材の切り方を間違えたり、鍋の入れ間違えなどで中高年の教室はワイワイガヤガヤと一気に賑やかになります。出来上がった料理はその場で食べますが、各テーブルで味・形が異なるところが愛嬌です。まれに家でも料理はしますが、腕前はどうでしょうか。

田中 稔

 10数年前から連日のように、現役時代の夢をみる。先輩、同年代の諸氏に聞いてみると、同じ答えで安心したりもするが、多分高齢者特有のものであろう。

 昔に固執するのではなく、新しい夢をみたいとの思いから、年寄りの冷や水と言われながら、最近は地域の環境保護を目的とするボランテイア・サークルに顔を出すようにしている。やり出すと止まらないヘキもあって、カケモチをしたりしてけっこう忙しい日々を過している。

 これによって、3年後、5年後、10年後に新しい夢がみられるか、はたまた永遠に見られないか、分らないが新しい事に挑戦することで、生きがいを充実させたいものと、自分なりに自己満足をしている今日この頃である。

田口正穂

 リタイアして5年、東京の平井と館山市の実家をいったりきたりしています。館山の小さな庭でバラを育てています。そして、身体のために、毎日8000歩のウオーキングと月2回のゴルフ、頭のボケ防止に英会話、そして心のビタミンとしてアルトサックスを習いクラシックギターを江戸川ギターマンドリングクラブで弾いています。

 昨年11月に胃がんの手術を受け、お酒はかなり弱くなりましたが、現在はほぼ手術前の生活に戻りました。

 この7月は全英オープンを観戦後、セントアンドリュースに移動、ゴルフをしてきます。

 身体と頭と心のバランスをとって、音楽を聴きながらバラの香りを楽しんでいます。

インゲン豆  松下礼子(元情報調査部・社会事業団)

画像

 持続可能な社会をと、ささやかですが省エネでシンプルな日常生活を試みています。

 ベランダ菜園?もひとつ。早期退職で八ヶ岳山麓へ移った学友を年に1、2回訪ね、帰りにリュックサックいっぱいのお土産、昨年は幅広インゲン豆も加わりました。5月に残しておいた豆を蒔いてみたら何と芽がでました。今では支柱からベランダの柵までツルが伸び、朝の水やりから一日が始まります。

乗馬を始めました 山口 恒夫

 何か新しいことにチャレンジしようと思っていたところ、知人から乗馬を誘われました。今までいろいろなスポーツを楽しんできましたが、乗馬の経験は全くなく、どのようなものなのか想像がつきませんでしたが、なんとなく興味が湧きました。始めてみると難しい。あんなに大きな馬に乗って揺られながら姿勢を崩さずに保つことは本当に大変なこと。思っていた以上の運動量です。

 最近、そこで行われている障害をもつ人のための乗馬ボランテイアに参加しています。普段、車椅子で生活している子供たちが馬に乗り本当に楽しそうな満面の笑顔が素晴らしいです。社会事業団に在籍中、手足の不自由な子供たちのキャンプを行っており、その経験の継続と考え、続けていきたいと思っています。

中村 淑子(元販売管理部)

もう街はすっかり秋!
今年は冬の訪れも早いようです。
それで散歩途中の50%OFFの看板につられ、うっかり一歩踏み込んだのが運のつき。
ついダウン(擬き)のハーフコートを買って終いました。
でも、こん些細な事でストレス解消、気分もウキウキ・・・。
何時も何時も、何て私は単純なんでしょう!

荒川冨士男

 毎友会の運営委員に任じられて平成28年9月で15年になります。時の経つのは早いもので、自分では歳を取ったという感じは余りしないのですが、市からは、最近「健康診査受診券」「埼玉県後期高齢者医療健康長寿歯科健診のご案内」など後期高齢者に対する医療関係の受診案内が届くようになり、「後期高齢者の仲間入りをしたんだなあ」と実感しています。

 まだまだ健康には自信があると自負していますから、ボケ防止のためにも物事には前向きに対処して行こうと考えています。

 これからも月一のゴルフや週3回のウオーキングを中心に、武蔵野の面影を残す狭山丘陵の散策、歌舞伎、演芸、ユリ展やバラ展等の鑑賞を夫婦で楽しみ、健康管理に心を配りしながら暮らしていこうと思っている今日この頃です。

乗馬を始めました 山口恒夫

画像
横浜三ツ沢公園馬事練習場にて

 何か新しいことにチャレンジしようと思っていたところ、知人から乗馬を誘われました。

 今までいろいろなスポーツを楽しんできましたが、乗馬の経験は全くなく、どのようなものなのか想像がつきませんでしたが、なんとなく興味が湧きました。始めてみると難しい。あんなに大きな馬に乗って揺られながら姿勢を崩さずに保つことは本当に大変なこと。歩き方によっては馬の上に立つ、座るを繰り返します。インストラクターから「前かがみにならない!!胸を張って!!真っすぐ前を見て!!手綱を短く!!」などと指導され、跳ね上がる馬の上で電車の吊革みたいな鐙の上に立つことを繰り返します。冬でも汗をかき、思っていた以上の運動量です。

 最近、そこで行われている障害をもつ人のための乗馬ボランテイアに参加しています。 普段、車椅子で生活している子供たちが馬に乗り本当に楽しそうな満面の笑顔が素晴らしいです。馬の複雑な動きが体に良い影響を与え、高い目線もとても気持ちが良いようです。 社会事業団に在籍中、手足の不自由な子供たちのキャンプを行っており、その経験の継続 と考え、続けていきたいと思っています。キャンプに参加していた二人の子供も乗馬に来ており、再会することができました。一週間にレッスンとボランテイア、山歩き、飲み会 など元気に忙しくしております。

私のボランティア
「認可保育園」と「小規模事業保育園」が出来た

成田 紀子(元販売局)

 この保育園に私の次女がお世話になってから、43年が経過しましたが、娘が卒園してから30年余りは保育園と連絡をとることもなく、離れていました。しかし娘の子供たちがお世話になることになって、また私と保育園の接触が始まったのです。

 その時この保育園はNPOを発足させる準備をしていたのですが、理事長候補が見つからなくて困っていたのです。そんな中に私が飛び込んでしまったわけです。64歳の頃で、昼間特に何もしていなかったので、当時の園長が、ちょうどよいとばかりに、「理事長は、年に3日登園してくれればよい」などという甘い言葉で釣り、保育のことは全く分からないまま、理事長を引き受けさせられてしまったのです。そして保育士さんたちの低賃金に驚いたりしながら、4年ほど理事長をやり、その間に、おんぼろの園舎から子供たちが通いやすい場所で、耐震のしっかりした建物に移転し、なんとか経営を軌道に乗せることができたのです。しかし保育士の待遇改善まではできないまま、事情があって、理事長を退任しました。

 しかし昨年春また理事に復帰するよう頼まれて、NPOの運営に加わりましたが、そこでは無認可園から認可園に変わる運動が進んでいて、1月には横浜市から認可園の新設を認められたとのことでした。認可園にするためには、これまでの子供たち30数名(0歳〜2歳)という定員を60数名(0歳〜5歳)まで増やさなければなりません。そのため、大きな園舎が必要という大問題に直面しましたが、その後いろいろ紆余曲折があった結果、その目途もたって、昨年夏には新園舎の建設を始めることが出来ました。しかしその矢先、9月初めにこれまで理事長だった71歳の男性が急性の進行性末期の胃がんで倒れてしまいました。理事長として最高に多忙な時期でしたので、直ちに代行を立てなくてはということで、定職を持たない私のところへそんな役が回ってきてしまったのです。断ってぐずぐずしている時間的な余裕はありませんでした。

 それからは目が回るように忙しくなりました。今までより大きい保育園の組織を作るために、建物ばかりでなく、新しい要員の体制を整えなければならなくなったのです。まず、これまでの無認可園の保育士やその他の職員のうち3分の2を新しい認可園に移し、3分の1はもとの園に残しました。もとの無認可園は国と横浜市が進めている19人以下の小規模事業の保育園に新たに衣替えすることにしたのです。しかしとても保育士や調理師が足りないので、あらゆる募集をかけました。マスコミでは保育士不足がいろいろ取り上げられていましたが、本当に保育士探しは難航しました。採用を約束していた人が数日後にキャンセルしてくることが度々あったりして、シッチャかメッチャかでした。全く体力ぎりぎりまで追い詰められた感じでした。4月1日に両園がなんとかオープンできた時は、本当にほっとしました。そんなわけで、4月5月には、いろいろな人的対策を打ちながら、なんとか保育を進めるという有様でした。

 しかしそんな中でも、皆が何とか少しでも良い保育をしていこうという姿勢で臨んでいたことは、ありがたかっです。

 5月22日には、開園式とお披露目会を無事ひらくことが出来ましたが、何よりも地域の方たちが保育園ができたことを喜んでくださったのは、うれしかったです。

 6月9日に今年度のNPOの総会が開かれ、これまでの理事長が辞任したため、私が改めて理事長に選任されました。子供たちに少しでも良い保育をすることは当然ですが、今度こそ、保育士の待遇をなんとしてでも改善して、資格を持っている人たちが皆喜んで働きたいと思えるような保育園にしなければと現在考えているところです。

画像
認可保育園
画像
小規模事業保育園

 2016年7月7日

中村 淑子(元販売管理部)

 当たり前だった健康が、今では一番大切なものになりました。夫婦での街歩きや、友人らとの食事やおしゃべりに、たまーにですが旅行へ出かけるのが一番幸せな時間です。そして昨年から、歌舞伎や落語に加え、世界トップダンサーの選手権大会に接したり、あまり馴染みでは無かった新しい世界に触れようと、ささやかながら心がけております。相変わらずの生活、平凡で穏やかな毎日が、如何に貴重で有難いことかと、しみじみ実感しております。

◇社会部OBの中村静雄氏が船橋市会議長に

堤 哲

 社会部OBの中村静雄氏(69歳)が船橋市議会の第59代議長に就任、そのお祝いの会が11月23日船橋グランドホテルで開かれた。

 集まったのは、松戸徹船橋市長をはじめ、国会、県会、市会議員、支持者ら250人。毎日新聞関係では、乾杯の音頭をとった広田勝己常務執行役員、OBの井草隆雄(84歳)、堤哲(74歳)、高木康紀(70歳)の計4人。

画像

 中村氏は4月の統一地方選で4期目の当選を果たし議長に選ばれた。「戦後70年の節目の年に議長に就任できたのも、ここにお集まりの皆さまのお蔭」といって頭を下げた。

 中村議長は1970年に英文毎日記者となり、その後社会部で事件記者、船橋支局長から山形支局長となったが、1996年50歳で退社して政治の道に進んだ。

 井草先輩は「37年前に知り合いましたが、円満な性格で、モテました」と現役時代のエピソードを披露したあと、「船橋の政令指定都市化を頼む」と激励した。

 毎日新聞関係で市会議長になった現存者は、埼玉県志木市の永井誠市議(77歳、10期、1964年入社・写真部OB)がいる。

 

松下礼子(元情報調査部・社会事業団)

 豊島区地域講座から発展した混声合唱団に入って2年余り、厳しくても懇切丁寧な先生の下で汗だくで歌っています。未経験者中心の発足5年足らずの合唱団ですが、今年は区のコーラス大会と地域の文化祭に加えて初めて単独ミニコンサートを行いました。

画像

 歴史ある高レベルのアマチュア合唱団とは到底比較になりませんが、経歴も年齢も様々な人々とそれなりに調和するのは快感です。

 運営委員の一人として、この毎友会HPが交流の広場になることを祈っております。