トピックス

2018年9月3日

竹橋引っ越し大作戦

 元英文毎日編集委員の半田一麿さん(83歳)から「You Tube」にこんな動画がアップされているよ」とメールで連絡があった。

 1966(昭和41)年、毎日新聞東京本社が有楽町から竹橋のパレスサイドビルに引っ越すときの映画である。

 「新聞はとめられない」(24分37秒)
 企画:日本通運(株) 制作:毎日映画社
 https://youtu.be/XAVcm819bko

 半田さん、通称半ちゃんは、私が初任地長野支局に赴任したとき、入れ違いで本社にあがった先輩で、半ちゃんの下宿をそのまま引き継いだ因縁がある。上智大学新聞学科卒。1960(昭和35)年入社。社会部にも一時在籍した。

 映画は、松代地震の現場から社会部に電話で原稿が送られ、遊軍記者がザラ紙の原稿用紙にカーボン紙を挟んで、3Bの鉛筆で原稿取りをしているところから始まる。

 当時は活版印刷である。活字を1本1本拾って、1ページ大に組み上げた。漢字テレタイプも導入されていたが、大事件や締め切り間際は、ベテランの活版部員が活字を手拾いをした。機械より断然早かった。

 カーボン紙は、何故か。ラジオ・テレビの速報用で、原稿が2枚必要だったわけである。

 松代地震。長野市の隣、埴科郡松代町(現長野市)で、前年の8月3日から始まった群発地震である。ひどい時には、有感地震が661回(約2分に1回)あり、うち震度5が3回、震度4が3回。家屋が破損する被害も出た。

 気象庁地震課長の「Xデー」オフレコ発言で、長野支局に大型バス位の編集車(写真の暗室と、無線電送機があった)が横付けされ、社会部、写真部、電送担当の連絡部、車両課の運転手さんと計7,8人が応援に来たことがあった。

 長野支局長末安輝雄(2012年没、88歳)。本番は屋代通信部員だった越後喜一郎さん(2010年没、72歳)で、1年生だった長崎和夫さん(75歳)が地滑りに乗って社会面トップを書いたことは、この毎友会HPで紹介した。

 社会部から最初に応援に来たのは、遊軍記者で気象庁を担当していた米山貢二さん(2012年没、83歳)と森浩一さん(83歳)だった。現場ルポは、森さんがカーボン用紙を挟んだザラ紙に、スラスラと鉛筆を滑らせた。

 「社会部の遊軍記者って、格好いいな」と思った。

 映画には昔懐かしい顔がいっぱい出てくる。引っ越しが終わって乾杯の発声をしたのは田中香苗編集主幹(のち会長)、葉巻をくわえているのが狩野近雄取締役出版担当(のちスポニチ社長)。

田中香苗編集主幹(のち会長)
狩野近雄取締役出版担当(前東京本社編集局長)

 1966年9月23日の引っ越し大作戦である。見てください。

(堤  哲)

2018年8月26日

TBSの新社長は、事件記者の息子さん

佐々木卓TBS新社長

 うかつにも、TBSの社長が6月の株主総会で替わったことを知らなかった。毎日新聞の社会部記者だった武田信二社長(66)から、専務の佐々木卓(たかし)さん(59)にバトンタッチされたのだ。

 新社長のオヤジさんは、「毎日新聞屈指の事件記者であった」佐々木叶さん(2017年5月1日没、92歳)である。自慢の息子の社長就任を喜んでおられることだろう。

 オヤジさんの追悼録は、この毎友会HPに、社会部の同僚記者だった元スポニチ社長の牧内節男さんが書いている。
→https://maiyukai.com/memorial.html

 佐々木新社長は、早稲田のラガーマンである。早大高等学院3年だった1977(昭和52)年、花園の全校高校ラグビー選手権大会に初出場。学部(法学部)に進んでも、ラグビー蹴球部でもまれた。身長168cmと小柄ながら、4年生の早慶戦(1981年11月23日)、早明戦(12月6日)に9番SH(スクラム・ハーフ)として出場、慶応には25―16、明治には21―15で、いずれも快勝している。

 早明戦に勝利したときの新聞の見出しは「荒ぶる涙、大西魔術」。名将・大西鉄之祐監督が17年ぶりに3度目の監督になった年である。

 佐々木新社長が、花園初出場を果たしたとき、早大高等学院を指導したのも大西鉄之祐監督だった。

 早大ラグビー部で1年下のスポーツライター藤島大さん(元スポニチ記者)は「佐々木さんは、大西先生の『最後の愛弟子』。大学でもチームのリーダー的存在となり、大西イズムを浸透させました」といっている。

 オヤジの叶さんは、私が社会部にあがって、サツ回りをしたときの警視庁キャップ。鬼の叶さんがいつの間にか、早稲田ラグビーのファンになっていた。息子の試合は必ず観戦していた。私が高校・大学を通じて息子の先輩だと知って、「大西先生はスゴイ。都会っ子を鍛えて、花園に連れて行ってくれた。卓が4年生のときの早明戦は、ワセダが4連敗中。予想は圧倒的にメイジ優勢だったんだ」と、熱く語っていたことを覚えている。

 TBSは、良心的な番組が多く、必ずしも視聴率を意識していないようにも感じるが、卓社長は、記者会見で「TBSは成績も上向きで現場の空気も明るくなりました。視聴者の皆さまに、もっと愛され、信頼される放送局にしていきたいと思っています」と語っている。打倒日テレが成るか、注目したい。

(堤  哲)

2018年8月24日

毎日新聞書道クラブ会員展、ОBも参加し、楽しく開催

 毎週月曜日に、毎日新聞5階の部屋で友野浅峰先生の指導を受けている書道クラブの会員展が、新聞社1階の毎日アートサロンで8月20日から25日まで開かれ、21人の「力作」が展示されました。

 入口に、亡くなった岸井成格さんの遺作「以和為貴」などが飾られ、お別れの会の際に配られた毎日新聞号外も添えられました。岸井さんは友野先生の弟子として3年に1回、銀座で開かれる湖心社展にも出品してきました。

 OBでは、北村正任さんが「一犬吠影百犬吠聲」、寺田健一さんが「明年此欲知誰健」、石崎ルリ子さんが、星野富弘さんの「あなたの胸の火がわたしに飛び火して全焼です」など一人2、3点を出品。「夢」など一文字だけの小品も展示されました。高尾義彦も自作の俳句「打ち水のたちまち乾く江戸のいま」などを、徳島の藍墨を用いて書いてみました。

 友野先生の作品は「ふるさとの山河よこたふ遠花火」。故郷・長野を思わせる山の形が文字になっています。書道を始めて1年ほどの女性は、筆の代わりに指に墨をつけて、半切の和紙に「一聲雷震」。型にはまった作品より自由な作風を、と指導されている先生の方針で、楽しい書道展となりました。 入会希望の方は是非、どうぞ。

(高尾義彦)

2018年8月15日

小野文恵アナが見た祖父の戦場

 社会部の先輩、野村勝美さん(89歳)が「浜田山通信」№223で、「非戦」を訴えている。
 このHPに転載したい。      堤  哲

 8月は原爆と戦争の悲惨を考える月である。異常気象の猛暑と集中豪雨のニュースをききながらクーラーのきいたリビングで毎日、テレビのドキュメンタリー番組に見入っていた。毎年ヒロシマ、ナガサキを見てきたはずだが、なぜかことしはより充実した番組が多かったように思われた。多分平成も最後だし、私のように戦時を経験している者が少なくなっていることも関連しているのだろう。

 私が見た番組名をあげておく。どれもすごい作品だ。何度再放送されてもよい。機会があれば何度でも見たい。ほとんどは録画したので、その気になればいつでも見れる。

 最初はことし亡くなった映画脚本家「早坂暁を探して」。昔ごひいきだった「桃井かおりが暁さん遍路ゆかりの地・松山の旅」。同じ4日の夜、「福井地震70年」。福井は終戦の年に空襲で全焼し、3年後地震で全滅している。5日にはTBSが「終戦SP・学徒出陣10万人が軍隊へ▽攻撃命令▽地上戦▽太平洋戦争の真実とは」。ほぼ同時刻にNHKがBS プレミアム「映像の世紀 独裁者ヒットラー、ムッソリーニ、スターリンの狂気」。これは何度オンエアしてもよい。独裁者はどのようにして民衆をかり立て、戦争で独ソ双方に4千万人もの犠牲者を出したか。関連してNHKEテレ「ヒトラーの専用列車」アメリカ号も興味深かった。

 原爆関係では他に8日NHKBS「ヒロシマの被爆樹木ニューヨークへ渡る」。9日「幻の原爆ドーム・ナガサキ戦後63年目の選択」。ETV特集「赤い背中が残したもの」。そしてなんといっても圧巻は12日NHKBS「"悪魔の兵器”原爆なぜ誕生? 科学者の闇 日本へ落とせ・・・誰が?」。マンハッタン計画の開始から完成、実験までを計画し実行したロスアラモス研究所とロバート・オッペンハイマーはじめ1200人の若き科学者やルーズベルト、トルーマン、オッペンハイマーの孫も登場する。アメリカがすべての資料を残していることにも感心するが、NHKBSの取材能力は絶賛に値いする。番組は最後に「人類はまた同じ悲劇をくりかえしていくのだろうか」としめくくっていたが、絶対にくりかえしてはならない。

 敗戦関連では8日NHKプレミアム「海の墓場トラック島」、12日「戦争孤児の闘い」、13日「船乗りたちの戦争」がいずれも出色のドキュメンタリー、年の故もあるだろうが涙がとまらなかった。

 もう一つ、NHKスペシャル、11日の「祖父が見た戦場」がすばらしかった。看板アナの小野文恵がフィリピンのルソン島で戦死した祖父景一郎の足跡を母公子と訪ね回るルポ。文恵はもちろん34歳で死んだ景一郎を知らない。生き残った戦友や、日本兵の死体を数えて記録した米軍の資料を取材し、ルソン島での祖父の足跡を辿る。そして旅の終わり、一人でマニラのホテルを訪ねる。そこはフィリピンの少女たちが日本兵の性暴力を受けた場所だった。どんなことがあっても戦争だけはやってはならない。

2018年8月13日

あれから33年、日航ジャンボ機墜落事故

 経済アナリストの森永卓郎さんが、自身のブログに日航機事故のことを書いている。

 ――ニュース番組にかかわるようになって20年以上、私の心のなかには、もやもやした疑問がずっとつきまとってきた。それは日本航空123便の墜落原因だ。1985年8月12日18時12分に、大阪に向けて羽田空港を飛び立った日航123便は、同日18時56分に御巣鷹の尾根に墜落した。乗客乗員524人中、520人が死亡するという、一機では、世界最大の航空機事故となった。

 疑問は墜落の原因である。機体後部の圧力隔壁が破損し、尾翼の一部が吹き飛び、油圧装置も破壊されて、機体のコントロールが不可能になり、墜落したとされた。

 同機は、過去に伊丹空港で尻もち事故を起こし、ボーイング社が修理した。圧力隔壁の修理が不十分で、それが破損につながったとされた。

 毎日新聞は、事故発生から4日後の8月16日1面で特報した。

1985年8月16日付毎日新聞朝刊1面

 森永さんは、元日航客室乗務員の青山透子著『日本航空123便墜落の新事実―目撃証言から真相に迫る』(河出書房新社)から、墜落直前の123便を2機の自衛隊のファントム機が追尾していた、訓練用ミサイルが123便の尾翼を破壊したのではないか、という著者の指摘を紹介している。

 そして3年前、「123便の残骸か…相模湾海底で発見」というニュースがテレビ朝日系(ANN)で流れた。

 それを引き上げて、検証すれば事故原因がはっきりするのではないか、と訴えているのだ。

 森永さんの父親、森永京一さん(2011年没、85歳)は、1965年ウィーン特派員→68年ジュネーブ支局長。森永少年も海外生活を送っていて「小4はウィーン、そのあとジュネーブで過ごした」。

(堤  哲)

2018年7月30日

金メダリストの元毎日新聞運動部長

1932年ロス五輪三段跳びで金メダルを獲得した南部忠平さんの跳躍

 1932年ロス五輪の三段跳び金メダリスト・南部忠平さんの妻久子さんの訃報が、運動面の片隅に載っていた。7月24日没、明治45年生まれの106歳。長寿だった。

 久子さんは90歳の時、マスターズ陸上の女子砲丸投げ(重さ3kg)で3メートル32を投げた。日本記録である。その後、砲丸の重さが2kgに変更された。従って永久不滅のレコードだ。

 夫の南部忠平さんは、毎日新聞大阪本社の運動部長をつとめた。1950(昭和25)年、第1回全国高校駅伝は大阪―堺間往復6区間32㌔で行われた。広島県立世羅高校が初の栄冠に輝いたが、優勝カップを授与したのが南部さんだった。

 南部さんは、旧制北海中学卒。札鉄(札幌鉄道局)に入社したあと、1927年(昭和2)に早大に進学、競走部へ。早大2年生の時、アムステルダム五輪に出場し、三段跳びで4位入賞した。

 アムステルダム五輪では、毎日新聞運動部(大阪)の記者だった人見絹枝さん(1931年没、24歳)が陸上女子800メートルで銀メダルを獲得している。

 南部さんは、1932(昭和7)年に毎日新聞運動部(大阪)の嘱託となり、7月30日から始まったロス五輪に出場した。

 本命は走り幅跳び。7メートル98の世界記録保持者だった。しかし、結果は3位。

 三段跳びは、前回アムス五輪金メダルの織田幹雄(南部より1歳年下の27歳)に期待がかかっていたが、南部さんは5回目の跳躍で15メートル72の世界新記録を出して優勝、金メダルに輝いた。4回目までの記録を一気に50㌢も伸ばしたのだ。3位の銅メダルは、関大の学生だった大島鎌吉(のち毎日新聞入社)が獲得した。

 1964年の東京五輪では陸上競技の監督。陸上競技で唯一メダルを獲得したのがマラソンの円谷幸吉選手で、その表彰式で銅メダルを授与したのがIOC委員の高石真五郎元毎日新聞社長だった。大島鎌吉さんは日本選手団長をつとめた(毎友会HP随筆欄「円谷幸吉選手に銅メダルをかけた高石真五郎IOC委員」、「金メダル16個! 五輪成功の“立役者”」参照)。

 南部さんは、毎日新聞社退職後、北海道女子短大、京都産業大学各教授、鳥取女子短期大学学長などを歴任した。1997年没、93歳だった。

(堤  哲)

2018年7月22日

浅利慶太さんが亡くなって思い出すのは

 劇団四季を創設し、「キャッツ」「ライオンキング」などのロングラン公演で日本にミュージカル文化を根付かせた浅利慶太さんが7月13日亡くなった。85歳だった。

 毎日新聞1面の「余録」を23年2か月、6354本を執筆した諏訪正人さん(2015年没、84歳)は、俳優の日下武史さん(2017年没、86歳)らとともに劇団四季創設メンバーの1人だった。

 「10人だった創立メンバーは、今や私ひとりになってしまった」と、舞台照明家の吉井澄夫さんが追悼している(7月20日付日本経済新聞)。

諏訪正人さん

 「旧制石神井中学の演劇部に入った私は、名コラムニストになる諏訪正さん(注:ジロドゥやコクトーの戯曲の翻訳、演劇評論などは「諏訪正」)と出会った。先輩の諏訪さんは、新進劇作家で慶応の予科で教えていた加藤道夫さんのもとに出入りしていた。加藤さんの縁で石神井と慶応の高校生がいつか芝居をやろうとメンバーに家に集まった。これが四季の母体だ」

 諏訪さんが日本記者クラブ賞を受けたパーティーのとき、浅利さんは、こんなエピソードを披露した。

 「パリに行ったとき、ちょうど諏訪さんが毎日新聞のパリ支局長。酔っぱらった勢いで、支局から総理官邸に国際電話をして、佐藤栄作首相を呼び出したんだ。諏訪さんは政治部の記者時代、佐藤番だったんですよ」

 「新聞記者は出ていけ!」。佐藤栄作首相がギョロ目をむいて憤然とした記者会見は、「退任時に国民にテレビで直接語りかけたら」と浅利さんがアドバイスした演出が裏目に出たものだった。

 浅利さんの著書『時の光の中で―劇団四季主宰者の戦後史』(文藝春秋、2004年刊)によると、劇団四季創立メンバーの俳優水島弘さんの父親が佐藤首相の鉄道省の先輩。その関係で寛子夫人に劇団四季の創立公演から毎回チケットを10枚買ってもらっていた。

 1967年2月、第二次佐藤内閣が発足した時、浅利さんは寛子夫人から呼び出された。「主人の長州なまりを直してほしい」と頼まれ、浅利さんは佐藤首相の家庭教師になった。

 まず直したのは、口癖の「そういうこんだ」を「そういうことだ」にしたこと。1対1の個人レッスンは、1年以上続いた。「セリフは、はっきり聞き取れるように」の劇団四季発声法を、佐藤首相が学んでいたのだ。

 「李香蘭」「異国の丘」「南十字星」。戦争の悲劇を語り継ぐ「昭和の歴史三部作」といわれる。その公演では、浅利さんは必ず劇場入口でお客さんを迎えた。諏訪さんも必ず姿を見せた。

(堤  哲)

2018年7月9日

東京五輪の特ダネ紙面

 元主筆・木戸湊さんらが発行している同人誌「人生八声」15巻(2018年7月発行)に、元社会部の宗岡秀樹さんが「64年東京オリンピックのレガシー そして……」を寄せている。

 東京五輪のとき、宗岡さん(社会部では宗ちゃんと呼んでいたので、以下宗ちゃん)は神奈川県立湘南高校の1年生だった。ヨットの選手村は大磯プリンスホテルで、宗ちゃんはサイン帳2冊を、父親が親しかったホテルの支配人に託した。記念に選手のサインをもらいたい、と思ったのか。

 大会が終わって2か月後に、サイン帳が手元に戻った。

 《(別のホテルに宿泊した)アメリカを除く各国の選手がランダムにそれぞれの書き方でサインやメッセージを残していた。中にはたどたどしいカタカナと漢字で「ドイツ東」と書いたサインもあった。

 片方のサイン帳には当時ノルウェー王室からの選手と話題になったハロルド皇太子の写真と「Herald」の文字が入ったブルーの小さな紙が貼り付けてあった。ハロルド皇太子はサインをしようとしたのだが、王室の随行者から「将来国王になるので」と止められたのだという。そこで大磯プリンスホテルの支配人が気を利かせて朝食の際にサインした伝票の一部を切り取って貼ったのだという》

 宗ちゃんのお宝だった。

 東京五輪から半世紀――。2014年、藤沢文書館は「東京オリンピックとふじさわ」展を開いた。宗ちゃんは「お宝」を出品した。

 そしてことし2018年5月。同文書館から「歴史をひもとく藤沢の資料3」の小冊子が送られてきた。

 《「宗岡秀樹家文書 資料年代1964年(昭和39年) 目録件数2件(現代2件)」とあり「東京オリンピックヨット競技選手のサインを収集したサイン帳。選手村であった大磯プリンスホテルにて収集」と記されていた》

 宗ちゃんは、江の島沖で行われたF D級(フライングダッチマン)レースで、毎日新聞が社会面トップで特ダネを報じたことも紹介している。

 その紙面のコピーを見て、水戸支局で一緒に仕事をした社会部出身の台博見さん(1984年没、 54歳)を思い出した。1967(昭和42)年春の異動で私は長野支局から、台さんは社会部からで、一緒に県警クラブを担当した。

 台さんは、都落ちが気に入らなかったか、もっぱら県警記者クラブのソファーで寝転がっていた。

 自慢話は一切しない人だったが、ある時、この特ダネをしゃべったことがあった。 

  これぞ人間愛の金メダル
   レース中止して救う
    落ちた他艇の乗員を

64年10月15日付

 風速15メートルの突風が吹き荒れる中、23カ国109艇で争われたが、27艇がチン(沈没)、27艇がレースを中止した。トップグループにいたオーストラリア艇の選手が海に投げ落とされ、艇もチンしてもう1人の選手も海中に。

 これに気づいたスウェーデン艇のキエル兄弟がレースを中断して100メートル以上もバックして2人を救い上げた。兄弟はその後レースに復帰したが、ビリから2番目の12位でゴールした、という佳話である。

 宗ちゃんの原稿によると、道徳の教科書にも取り上げられ、IOCのホームページでも「オリンピズム」のフェアプレーとして紹介されているという。

 この特ダネは「編集局長の賞」を受賞した。社報に受賞者が載っている。

 橋戸雄蔵(社会部、頑鉄の息子、故人)
 台博見
 大牟田育宏(富山支局→大阪経済部、中途退社)
 唐沢信一(写真部)
 丸亀弘明(横須賀支局→社会部→政治部、故人)
 若林武(嘱託)

 誰かがこの話を聞き込んで、チーム取材したものと思われる。

 東京五輪の取材配置表によると、橋戸さんがヨット取材のキャップ格だ。

(堤  哲)

2018年6月7日

モロさん、62年前の八百長試合(?)を糺す

 野球文化學會(The Forum for Researchers of Baseball Culture)の創設者、元整理本部の鬼才諸岡達一さん(82歳)が元気だ。

諸岡達一さん

 すでに会長を鈴村裕輔さん(41歳)=法政大学客員学術研究員=に譲り、6月3日(日)東京ドームホテルで開かれた総会では、顧問として乾杯の音頭をとった。

 「野球を人類不朽の文化とし、学問としての野球を確立する」

 そううたって野球文化學會を設立したのは、1999(平成11)年だった。元サンデー毎日編集長鳥井守幸さん(86歳)ら毎日新聞の仲間や、ベースボールマガジンの故田村大五さん、報知新聞の記録マニア故宇佐美徹也さんら野球好き文化人を呼び込んだ。論叢誌『ベースボーロジー』第1集を刊行した。

佐々木信也さん

 この日の総会では、ゲストスピーカーとして佐々木信也さん(84歳)を招いた。湘南高校1年生のとき夏の甲子園大会で優勝、慶大ではキャプテンをつとめ、プロ野球高橋ユニオンズに入団した。フジテレビ「プロ野球ニュース」のキャスターとして大活躍した。

 ミスタージャイアンツ、立大の長嶋茂雄より2年先輩。「シゲと呼び捨てしているのは、私1人ではないか」といった。 髪は黒々。「染めていませんよ」と断るほど若々しい。

 佐々木さんの話が一段落すると、「質問!」とモロさんが立ち上がった。

 1956(昭和31)年10月8日、浦和市営球場で行われたパ・リーグ高橋ユニオンズと毎日オリオンズとのシーズン最終戦についてだった。佐々木さんは二塁手として出場していた。

 「浦和まで見に行ったんです」。モロさんは成蹊大学の学生だった。安倍晋三首相の先輩である。

 ユニオンズは、この試合に敗れると、勝率が3割5分を割り、2年連続で500万円の制裁金を連盟に払わなければならなかった。結果は、4-3でユニオンズの勝利。52勝98敗4引き分け、勝率3割5分0厘6毛4糸9忽3微…。

 当時は、引き分けを0・5勝と数えたから、やっと制裁金を免れたのだ(相沢正夫「『窓際球団』高橋ユニオンズ」=Number1982年1月号)。

 もうひとつ。この試合で毎日オリオンズの山内和弘(一弘、故人)が二塁打を2本放ち、シーズン47本の日本記録を達成している。

 モロさんは指摘する。この試合、毎日オリオンズがわざと負けたのではないか。山内の2本の二塁打も、ユニオンズ外野手の打球の処理が不自然だった。シングルヒットで済むのに二塁打にして、日本記録をつくらせたのはないか。

 総会の出席者は約40人。戦後生まれが大半で、「プロ野球史に、こんな試合もあったんだ」とキョトンとして聞いていた。

 
画像
質問するモロさんと答える佐々木さん、中央は野球文化學會理事で報知新聞の蛭間豊章さん

 佐々木信也さんがどう答えたか。ここでは書きません。同席していた人に尋ねてください。

 総会が終わって、モロさんは鈴村会長らにメールを送った。

 《ベースボーロジーなるみなさま。総会は大成功。いいゲームでした。取り仕切った役員努力が素ん晴らしい!
感謝いたします。これからさらに「驚くことになります」よ! 諸岡達一》

(堤 哲=野球文化學會監事)

追伸
   モロさんから反論?がメールで着きました。掲載します。

……高橋ユニオンズ対毎日オリオンズの試合を例に出したのは「あれほど面白い野球はほかにない。さすが職業野球!」という大褒めの意味です。あの場で「そう喋った」ハズですが、いやあ表現が下手なもんで通じなかったかも。
 現代の野球ががんじがらめで面白くナイのに比べて「なんとも自由に野球をやっていた時代」なのです。そういう野球を103人が「好き」で観戦していた。(注:観客がそれだけしかいなかったのです)。そういう自由な野球と決まりきった現代野球の違いを「佐々木信也さん、如何に考えますか?」でした。

                             

「点字毎日」に日本記者クラブ賞特別賞

 毎日新聞が発行する日本唯一の週刊点字新聞「点字毎日」に、2018年度の日本記者クラブ賞の特別賞が贈られる。贈賞式は5月23日。

 「点毎」は1922(大正11)年5月11日、創刊した。戦争中の用紙難で週刊から旬刊になったことがあるが、休刊したことはない。4年後、創刊100年を迎える。

 発刊の経緯が「毎日新聞百年史」にある。
 「新聞社というものは長い間には、知らないうちに罪を重ねているものだ。善根を積んで、同業者の罪滅ぼしをしたらどうか」
 ロンドンに留学中の「大阪毎日」記者河野三通士は、好本督(ただす)氏からこういわれた。好本氏は、網膜色素変性症のため視力が減退、英国で貿易商を営む傍ら盲人福祉に尽くた。盲人初の文部省派遣海外留学生中村京太郎氏(当時32歳)を費用全額負担で実現させた。『日英の盲人』(1906刊)を著している。

 河野は、点字新聞の発刊を提案する。これを当時の本山彦一社長が受け入れた。大阪毎日新聞の新社屋堂島本社(現堂島アバンザ)完成記念として「サンデー毎日」「英文毎日」などともに創刊した。採算を度外視した社会貢献事業だった。初代編集長は、中村京太郎氏を迎えた。
 「点毎」は、1963(昭和38)年に菊池寛賞を受賞した。それを記念して翌64(昭和39)年に「点字毎日文化賞」を創設、第1回の受賞者に好本督氏を選んだ。

画像
「点字毎日」創刊号(左)と現在の「点字毎日」

 「点字毎日」は視覚障害者のために、日本で唯一、独立した取材と編集で発行している点字新聞である。視覚障害者に役立つニュース、暮らし・イベント情報、ラジオ・テレビ番組などを掲載している。

 A4判、60ページ。創刊から続く「点字版」のほか、弱視者や家族、ボランティアの人たちに利用されている大きめの活字の「活字版」(タブロイド判、12ページ)、音声で聞ける「音声版」などを出している。問い合わせは点字毎日(06・6346・8388)へ。

(堤 哲)

世界に誇れるパレスサイドビル

 月刊「東京人」5月号の特集は「1960〜1970年代 ビル散歩」。
 その内容紹介――。今年は日本初の超高層ビルとして霞が関ビルディングが誕生してから50年。その後40階を超えるビルディングの建設ラッシュが続きました。
 高層ビルが都市の発展の象徴であったいっぽうで、団地に変わってマンションが登場し、私たちの住環境も大きく変化しました。
 1960〜1970年代に建てられたビル群の時代の結晶を読み解きます。

 その34ページに「オフィスビルの日本代表」として、パレスサイドビルが紹介されているのである。うれしいではありませんか。
 「完成した時代ならではの格好よさに磨きをかけて、今も現役。世界を巡ると、そんなビルに出会うことが少なくない。そこに自信を持って送り出せる日本代表がこのビルだ」

 パレスサイドビルは、1991年に優れた既存建築物を表彰する第1回BELCA 賞のロングライフ部門に服部時計店、丸ビルなどともに選ばれた。建築業協会(BCS)賞、モダニズム建築20選に選ばれるなど、いくつもの賞を受けている。

 1966(昭和41)年完成。設計は日建設計の林昌二氏である。

(堤  哲)

横山大観展がお隣の近代美術館で開催中

 生誕150年、没後60年記念の横山大観(1868〜1958)展が5月27日まで北の丸公園の東京国立近代美術館で開かれている。毎日新聞の主催イベントだ。

 「群青富士」(展示は5月6日まで)や初公開の「白衣(びゃくえ)観音」など展示作品は約90点にのぼる。

 目玉は、重要文化財「生々流転」。長さ40メートル余が全巻展示されている。

 この作品は、第10回再興院展に出品された。上野公園「竹の台陳列館」での初日が1923(大正12)年9月1日。正午前、関東大震災に見舞われた。幸い作品には被害がなかった。

 この事実は、会場に流されている作品紹介のビデオで知った。大観が「生々流転」の下絵を描きあげたのはこの年の3月。それから半年間、80メートル以上の絹地を使って、完成させたという。無事でよかった!

 5月8日からは、「夜桜」と「紅葉」が同時に展示される。「夢の共演」と、同展のパンフレットにある。

 私は開催2日目の14日(土)に鑑賞して、帰りにパレスサイドビル「赤坂飯店」で久しぶりに野菜そばを食べた。「横山大観展に行かれたのですか」と店員に聞かれ、チケットを見せると、デザートとして杏仁豆腐のサービスがあった。

 パレスサイドビル内の飲食店などで「チケットサービス」を実施している。ただし日曜、祝日はビルが休館なので、サービスは受けられない。

 皇居の新緑を楽しんで、芸術鑑賞。そのうえ懐かしのパレスサイドビル飲食店で食事も一興だと思いますが、いかがでしょうか。

(堤  哲)

第90回センバツが23日(金)開幕

 「春は90回。夏は100回。高校野球は今年、春夏の大会とも節目を迎える」

 これは朝日新聞夕刊2面に、3月12日から5回連載の「春のセンバツをたどって」の書き出しである。
 「エッ、朝日がセンバツの連載」。正直、私はびっくりした。
 それどころか、朝日新聞は、朝刊スポーツ面でも「あの春 センバツ名勝負」を連載した。70年42回大会決勝簑島5-4北陽(延長12回)②89年61回決勝東邦3-2上宮(延長10回)③95年67回準々決勝今治西5-4神港学園(延長13回)④99年71回準決勝沖縄尚学8-6PL学園(延長12回)⑤03年75回準々決勝花咲徳栄2-2東洋大姫路(延長15回、引き分け再試合)。どれもスリリングな好試合だった。
 第1回の書き出しが、春はセンバツから――。
 これも「エッ!」だった。

 夏は1915(大正4)年、春センバツは1924(大正13)年に始まったが、夕刊の連載で、そのルーツは、運動具店の美津濃商店(現ミズノ)が企画して1913(大正2)年8月に豊中グラウンドで始めた「関西学生連合野球大会」だったとある。

 朝日新聞がその2年後に夏の大会を始めると、ミズノの大会は朝日の大会の代表を決める関西大会(大阪、和歌山、奈良)となり、第4回からは開催時期を1月、第8回からは3月に変えた。そして24年の第12回大会が最後となった。その年の4月1日から毎日新聞が名古屋でセンバツを始めたからである。
 その間の事情は、ミズノ創業者の生涯をまとめた『スポーツは陸から海から大空へ 水野利八物語』(1973美津濃刊非売品、翌74年ベースボール・マガジン社刊)に詳しい、と紹介している。

 夕刊の連載は、第1回「優勝旗は知る、大会の原点」②開催地、「名古屋に定めた」③「校風・品位」より前面に④21世紀枠、グンッと成長⑤時代連なって、今。
 最終第5回は、1995(平成7)年の阪神大震災2か月後に開催したことを紹介しているが、2011(平成23)年の東日本大震災は、センバツ開幕の12日前に発生した。「中止」の意見が圧倒的な中、朝比奈豊毎日新聞社長(当時)は、「こんなときだからこそ」と、第83回の開催を決意した。重い決断だった。
 開会式の選手宣誓。岡山創志学園のキャプテン野山慎介君はこう述べた。
 「私たちは阪神大震災の年に生まれました。そして今、東日本大震災で多くの命が奪われ悲しみがいっぱいです。今私たちに出来ることは、この大会を精一杯元気を出して闘うことです。頑張ろうニッポン。生かされている命に感謝して」

 朝日新聞夕刊連載の最終回は、こう締めくくっている。
 (阪神大震災の1995年)3月25日、第67回大会が開幕。開会式では犠牲者への黙祷(もくとう)などのあと、大会歌「今ありて」(作詞・阿久悠、作曲・谷村新司)が合唱された。
 《今ありて未来も扉を開く/今ありて時代も連なり始める》
 多くの困難も乗り越え、今年、第90回記念大会。23日の開会式ではこの曲にのって球児が入場行進する。

 編集委員・安藤嘉浩の署名があった。実は、安藤記者とは何回かお会いしたことがある。岐阜県立岐阜高校の高校球児で、立教大学では学生スポーツ紙「立教スポーツ」の記者をしていたという。

 センバツを盛り立ててくれた安藤記者にお礼をいいたい。

(堤  哲)

幻の新元号スクープ

新元号「平成」を発表する小渕官房長官(1989年1月7日)
新元号「平成」を発表する小渕官房長官(1989年1月7日)

 朝日新聞3月7日朝刊に、「幻の新元号スクープ/発表直前、毎日が入手」の大見出しが躍った。記事は、こう書き出している。

 1989年1月7日午後2時ごろ、首相官邸の記者クラブ。毎日新聞政治部の男性記者が、仮野(かの)忠男・官邸キャップに1枚のメモを手渡した。政府関係者から極秘入手した。それには、手書きで「平成」とあった。

 「取れました! 平和の『平』に、成田の『成』。ヘイセイです」

 仮野氏は東京・竹橋の本社で待つ橋本達明デスク(後の主筆)に電話した。

 毎日新聞創刊130周年を記念して発行した社史『「毎日」の3世紀』(2002年刊)には、こうある。

 この速報は読者数の一番多い夕刊3版から入った。小渕恵三官房長官(当時)が記者会見で正式に「平成」を発表したのは、それから30分以上も後の午後2時36分のことである。

 他社は小渕官房長官の会見を聞いて最終4版に入れるのがやっとだった。

朝日新聞の記事に戻る。
 元号をスクープしようと、報道各社は熾烈(しれつ)な競争を繰り返してきた。「大正」は朝日新聞の新人記者だった緒方竹虎(故人)が特報。昭和改元では毎日の前身、東京日日新聞が報じた「光文」が誤報となり、社長が辞意を表明する事態となった。平成改元で、毎日は「光文事件の雪辱を果たす」と誓っていた。

 新元号「平成」スクープ――。89年2月1日付の毎日の社内報には大見出しが躍る。

 だが新聞協会賞は申請されず、読売新聞は「平成改元」(行研)で「スクープもなく、新元号『平成』は決まった」とした。

 毎日新聞政治部の「元号特別取材班」榊直樹記者(現・愛知東邦大学長)は、予定稿に「平成」と入れ、出稿した。しかし、即、輪転機は回わらなかった。

 「光文事件の二の舞いになったら」。どうも、それがブレーキになったらしい。

 「平成」は誰が掴んだのか。A記者と匿名である。「ひとえに取材源を秘匿し守るためである」と社史は綴っている。  取材チームに「主筆賞」が贈られた。

 【特別取材班】担当デスク橋本達明、榊直樹、小松浩
 【首相官邸クラブ】キャップ仮野忠男、松田博史、長田達治、冠木雅夫、平松壮郎、中山信、龍崎孝

朝日新聞の記事の後半――。
 朝日新聞政治部では87年秋から、植木千可子記者(現・早大教授)ら2人が元号担当となった。中国の古書「四書五経」を引きながら、およそ100の私案を作成。その中には「平成」も含まれていた。

 当時、小渕官房長官の担当記者だった星浩氏(現・ニュースキャスター)は小渕氏が住む東京・王子の私邸を訪ね、植木記者らが作ったリストを2度見せている。その時ははぐらかされたが、小渕氏は後に「あの時は心臓が止まるかと思った」と打ち明けたという。

 平成31年5月1日から新元号に変わる。

 スクープ合戦は、すでに始まっている。

(堤  哲)

後輩が女子カーリングで初の銅メダル

東京夢舞いマラソン・ポタリング記念誌『笑顔の年輪』
初の銅メダルを喜ぶ日本女子カーリングチーム(左端が藤澤選手)=NHKテレビから

 おめでとう! カーリング女子 銅メダル! !

 「銅だね〜 そだね〜」

 北海道立北見北斗高校のHPに、カーリング女子日本代表のスキップ、藤澤五月さん(ロコ・ソラーレ北見)の活躍を称える記事が早速アップされた。

 藤澤さんは85期。昨年12月に同校で実施した壮行会で、「藤澤選手は、挑戦することが大事という話を生徒にしてくれました」と校長先生も誇らしげに、つぶやきを書き込んでいる。

 元編集委員、というより元毎日労組本部執行委員長大住広人さん(80歳)は、藤澤選手の54年先輩、31期卒業生である。  大住さんの母校愛は大変なもので、現役時代、同僚編集委員ら毎日新聞の仲間10人ほど(このうちの4人が鬼籍に入っている)でツアーを組んで北見北斗高校を訪問した。

 そのビデオを見たことがあるが、校庭で全員が輪になって、校歌を合唱した。メロディーがデューク・エイセスの「幼なじみの思い出は 青いレモンの味がする……」で始まる「おさななじみ」に似ているとかで、蛮声を張り上げた。

  オホーツク海の流氷は
    欧露の空の雨雲か
  北の鎮の北海を
    寒風すさみ流る時
  万目すべて凍るなり
    されど我等の校庭に
  千古に青き茂みあり
    常盤に茂れる林あり

 インターネット情報は恐ろしい。大住さんが同窓会で校歌を歌っている姿が映し出されたのだ。

https://www.musicjinni.com/CLqRy2jtDsF/%E2%99%AA%E5%BF%98%E5%B9%B4%E4%BC%9A%E3%81%A7%E6%A0%A1%E6%AD%8C%E5%90%88%E5%94%B1%EF%BC%88%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E5%8C%97%E8%A6%8B%E5%8C%97%E6%96%97%E9%AB%98%E6%A0%A1%EF%BC%89.html

(堤  哲)

東京夢舞いマラソン・ポタリング記念誌『笑顔の年輪』

東京夢舞いマラソン・ポタリング記念誌『笑顔の年輪』

 25日に東京都心を走り抜ける東京マラソンは、2007(平成19)年から始まった。ことし12回目だ。

 ボストン、NY、ベルリン、ロンドン……。「世界の大都市にあって日本にないのは、市民に開かれた首都マラソン大会」。毎日新聞OBの大島幸夫さん(80歳)が、その実現に向けて第1回「大江戸夢舞いマラソン」を実施したのは2001年1月1日だった。21世紀の初日、お台場海浜公園→代々木公園の42.195㌔。もっぱら歩道を走り、赤信号はストップだ。

 翌2002年1月に第2回を開いた後、銀座目抜き通りを走る市民マラソンの実現に向けて、のシンポジウムを開くとともに、大島さんを理事長に市民による市民のためのNPO法人「東京夢舞いマラソン実行委員会」が立ち上がった。そして10月の第3回は市民ランナー1000人が四ッ谷から都心の目抜き通りを走った。

 東京都の石原慎太郎都知事が乗り出してきたのは、それからだ。第7回東京夢舞いマラソンは、「祝東京マラソン開催」をキャッチフレーズに、女性の完走者には赤いバラ、男性には白い羽根をプレゼントした。

 これでNPOは初志の使命を果たしたことになるが、参加者の根強い人気で大会は現在も続き、JKA後援の第9回大会からは自転車も参加するポタリング(自転車での散歩)大会を併せて開催している。

 2013年、第26回ランナーズ賞(月刊ランナーズ主催)の受賞を記念して、NPOの広範な市民力で編まれたのがこの『笑顔の年輪』。活動を支えた多くの市民たちの声が快くも熱っぽい。本文156㌻。非売品。ただし、東京夢舞いマラソン・ポタリングNPO(http://www.tokyomarathon.jp/)への賛同寄付者(1口2000円)には各1冊を謝礼進呈している。

 大島さんが皇居周回ランナーになったのは42歳の時。サブスリー(フルマラソンを3時間以内で走る)を達成し、世界中の市民マラソンを体験して『市民マラソンの輝き― ストリートパーティーに花を! 』(岩波書店2006年刊)を出版するなどでマラソン文化論を展開している。ことしの目標は、ボストンマラソンを5時間以内で完走だ。

(堤  哲)

読売文学賞に輝く 米本浩二著『評伝 石牟礼道子―渚に立つひと―』(新潮社)

米本浩二著『評伝 石牟礼道子―渚に立つひと―』(新潮社)

 「評伝を、私に、書かせていただけませんか」

 石牟礼道子さんに、そうお願いしたのは2014年の初めだった。

 これが書き出しである。

 「著者は3年にわたって集中的な密着取材を行い、400時間をゆうに超える時間を石牟礼さんとともに過ごし、彼女の全体像に迫った」と、読売新聞の受賞者紹介欄にある。

 「苦海(くがい)浄土 わが水俣病」で知られる熊本市在住の作家で詩人、石牟礼道子さん(90歳)の初の本格的評伝だという。

 著者米本浩二さんは、毎日新聞西部本社学芸グループの記者である。57歳。

 同書の著者紹介によると、徳島県庁正職員を経て早稲田大学教育学部英語英文科卒。在学中に『早稲田文学』を編集、とあり、毎日新聞入社は1987年。筑豊支局などを経て2010年から西部本社で文学を担当している。

 毎日新聞の書評では「冷たい高みからではなく、著者自身が腰まで泥に浸(つ)かって対象に食い込む。一行のムダもない迫真性が、そこから生まれた」と絶賛。

 作家の池澤夏樹さんは、暮れの毎日新聞読書面で「2017年この3冊」に挙げた。

 池澤さん個人編集の「世界文学全集」は、日本人作家は石牟礼道子さん1人で、「苦海浄土」全3部が収録されている。米本さんは、池澤さんを「北海道のアニキ」と呼んで畏敬しているというのだ。

 贈賞式は2月21日午後6時半から帝国ホテルで行われる。

 その石牟礼さんが2月10日亡くなった。90歳だった。

 米本記者は、毎日新聞に「評伝」と、亡くなるまで最後まで寄り添っていたことを綴った。〈1月31日、亡くなる10日前のこと。ベッドに横になった石牟礼さんが寝息を立て始めた。そっと帰ろうとした私を「あの」と呼び止め、「筆記してください」と言う。私は急いでノートを広げた。石牟礼さんが語った言葉を以下に記す。

 「村々は 雨乞いの まっさいちゅう 緋の衣 ひとばしらの舟なれば 魂の火となりて 四郎さまとともに 海底の宮へ」〉

(堤  哲)

校閲記者の目ーあらゆるミスを見逃さないプロの技術

校閲記者の目 あらゆるミスを見逃さないプロの技術

 紙面を守るゴールキーパーだ、という。

 「誤りを見逃す=失点しても、自ら点を取りに行って挽回するようなことはできません。けれど、0点に抑えることはできる。負けない試合はできるのです。これこそ校閲の存在意義です」

 毎日新聞の校閲グループが元気だ。『校閲記者の目』(2017年毎日新聞出版刊、1,512円)に、校閲記者の自負がまずあった。

 この本の売れ行きが好調で、版を重ね、4刷が出ている。

 私が現役の時は、活版だった。活字を新聞1ページ大に組み上げる「大組」は、いつも降版時間ギリギリだった。大刷りは、まず校閲に回るが、チェックする時間はほんのわずか。ゴールキーパーは天手古舞いだった。

 新聞社では下積みの仕事と思われていたが、今、校閲記者志望が増え、人気なのだという。石原さとみ主演のドラマ「校閲ガール」(NTV)が高視聴率をとった影響もあるのか。

 毎日新聞のHPでも、積極的に情報を発信。「SNS(ソーシャル・ ネットワーキング・サービス)を駆使して、ネット時代の読者との新たな『つながり』に成功している」と、編集担当取締役は評価している。

 本の著者紹介欄。「毎日新聞は東京に40人余り、大阪に30人余りの校閲記者がいる。原則として広告などを除く全紙面について記事のチェックをしており、いわば新聞の『品質管理部門』。書籍などと比べてかなり短時間で仕事をこなさなければならないのがつらいところ。朝刊の校閲作業は深夜になるため生活は『夜型』である」

 ・午前0時を越えて体力充ちてをり大連立不発の記事を読み直す
 ・ガレー船とゲラの語源はgalleyとぞ 波の上なる労働を思ふ
 ・八月は被爆と野球に追ひまくられ眼痺れるころ朝刊成る
 ・人の死を伝へる記事に朱を入れる仕事 くるくるペンを回して
 ・文字として過ぎてしまった人の死を 缶コーヒーは手を温める
 ・「コンセントを抜く」は間違ひ「プラグを」と直して節電の貼り紙とす
 ・死者の数を知りて死体を知らぬ日々ガラスの内で校正つづく

 本の最後にあった、現役校閲記者の短歌である。

 校閲グループデスクの岩佐義樹さんは『毎日新聞・校閲グループのミスがなくなるすごい文章術』(ポプラ社・1,404円)を出版した。

写真は、元気いっぱいの校閲グループの皆さん

写真は、元気いっぱいの校閲グループの皆さん

(堤  哲)

 

毎日中学生新聞で育った文化功労者・高橋睦郎さん

 詩人で、歌人で、俳人でもある高橋睦郎さん(80歳)は、2017年に文化功労者に選ばれ、日本芸術院会員にもなった。

 その高橋さんが、1月14日日曜日の日本経済新聞文化欄に「80歳を零歳として」と題してエッセーを書いているが、その中にこうある。

 「(中学校で文芸部に入り)私はいつか詩作の真似事に熱中し、母が取ってくれていた毎日中学生新聞の投稿欄に送った。詩だけでなく、短歌も、俳句も、ついでに作文も投稿した。

 それらすべてを通して入選・入賞回数が1位。選者の先生がたの煽(おだ)てに乗って、3年生の頃には詩作の習慣は抜けられないものになり……」

 毎日小学生新聞(毎小)・中学生新聞(毎中、2006年に休刊)を読んで育った人は数知れない。毎小創刊60年を記念して出版した『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』(毎日新聞社学生新聞本部編、1997年刊)には、読者代表として作家の田辺聖子さん(89歳)、鉄道マニアの元JR東海会長の須田寬さん(86歳)のエッセーが載っている。

 作家の小松左京さん(2011年没、80歳)、ノーベル賞を受賞した化学者の野依良治さん(79歳)も読者だった。

 漫画家の松本零士さん(1月25日で80歳)も毎日新聞西部本社に作品を持ち込んだと本人が語っているが、漫画家では手塚治虫さん、藤子不二雄さん、園山俊二さんらが「毎小」でデビューした。

 頑張れ!「毎小」と声援を送りたい。

(堤  哲)

 

江成常夫作品展 「多摩川 1970-74」
1月5日(金)〜 1月28日(日) JCIIフォトサロン

江成常夫作品展 「多摩川 1970-74」

 毎日新聞写真部OBの写真家・江成常夫さん(81歳)は昨年6月、「多摩川1970−74」(平凡社、4,600円+税)を出版したが、その写真展が1月5日(金)から28日(日)まで、日本カメラ博物館のあるJCIIフォトサロン(千代田区一番町25、東京メトロ半蔵門線半蔵門駅4 番出口)で開かれる。入場無料。

 同写真集は、毎友会HPで紹介したが、展示されるのはモノクロ写真60点。「奥多摩の雪中に湧く源流、山女も遡上する清流や河原、そして、下流へ進むにつれて、廃棄物や生活排水の泡に埋め尽くされていく川の実相をとらえ、自然環境保全の大切さを訴える」(同サロンHP)。

 江成さんは、土門拳賞と木村伊兵衛賞の両賞を受賞している実力写真家である。是非、会場へ足を運んでください。

(堤  哲)

 

帰省ラッシュが間もなく

 平田明浩東京本社写真映像報道部長(かつての写真部長)が、「心に残る写真」というテーマで東京写真記者協会のHPにエッセーを書いている。

帰省客で混雑するホームで、出迎えの親類に駆け寄る女の子 (1998年12月、JR名古屋駅で)
帰省客で混雑するホームで、出迎えの親類に駆け寄る女の子 (1998年12月、JR名古屋駅で)

 1998年12月29日、JR名古屋駅の新幹線ホーム。〈デスクから帰省ラッシュの取材を依頼されて、眠い目をこすりながら徒歩数分の名古屋駅に向かった。

 ホームへの階段を上り、まずは帰省取材の王道であるホームが混雑する様子を撮影しようと脚立に乗って中望遠レンズを構えた。その時、東京方面からきた新幹線がタイミング良く到着した。ホーム上には大勢の帰省客に混じって初老の男性が立っていた。新幹線の扉が開いた。次の瞬間、車内から一人の女の子が両手をいっぱいに広げて勢いよく初老の男性に駆け寄った。あっという間の出来事。とっさに3コマ、シャッターを切った。撮影を始めてまだ数分だ。カメラには36枚撮影できるフィルムが入っていたので、取材を切り上げるには早い。でも、なんだかいい写真が撮れている気がして、急いで会社に戻った〉

 会社に戻り、ソワソワしながらフィルムを現像した。長いロールフィルムのまま、ルーペで確認すると、女の子が祖父に向けたなんともいえない笑顔が写っていた。

 写真は東京本社発行の新聞にも掲載された。…掲載後、「この写真を見て元気が出た」という内容のお便りをたくさんいただいた。写っている女の子と同じ年頃の孫を持つ方からのものが多かった。

 その後の私のカメラマン人生はというと、俗にいう歴史に残る瞬間に取材者として何度も立ち会い、撮影をしてきたつもりだ。だが、本当に心に残る写真は、会社から1キロも離れていない徒歩で行ける場所での写真なのである〉

(堤  哲)

 

永田ラッパにスカウトされた「大魔神」 追悼・橋本力(元毎日オリオンズ球団)

2017.03.21撮影(毎日新聞紙面から)

 毎日オリオンズOB会に土井垣武や西本幸雄、山内一弘、山根俊英らが飲み食い集っていた頃、僕は毎年「エピソードを確認」するのが楽しみだった。ある時、植村義信と橋本力が並んで座していた。畳の宴席なのに橋本力だけは特別扱いで椅子に座っていた。もともとデカイ図体は聳えんばかり。「腰痛でね」。隣の植村義信が言う。「大魔神ねえ(橋本力の仇名)、俺と甲子園は同窓なんよ。そして、毎日オリオンズ入ったのも同期生やん」。

 大投手・植村義信は芦屋高校で1952(昭和27)年夏の甲子園(第34回大会)優勝投手。橋本力は同じ大会で函館西高校(北海道立の公立高校)の外野手。そのときの函館西は メチャ強く話題を呼んだ。1回戦岐阜工と延長12回0-0引き分け、再試合7-1で勝ち、2回戦7-3愛知高校を破る快進撃。準々決勝で成田高校に負けたのだった。橋本は同年のセンバツ(第24回大会)にも出場、初戦で同大会優勝の静岡商業と対戦し田所善次郎投手を苦しめながら0-1で敗退した(惜しい!)。

オリオンズ帽をかぶった橋本力

 ドラフトなんぞナイ時分の1953(昭和28)年「超」高校級の植村と橋本は揃って毎日オリオンズ入り。カンペキに即戦力だった。後楽園球場で毎日オリオンズの試合を観戦しまくっていた僕は「超」に近い「鈍」高校生。2歳年上の橋本は「背番号1」。どんなヤツか。よよっ。橋本力が大遠投……ホームタッチアウト! 三塁からの走者をゲッツーで射止めた喝采プレーを見せた。「すっげー。肩の強いヤツが入ってきた」。オリオンズはこの年から別当薫監督になっていた。土井垣は東映に移籍するなどチーム若返り。1957(昭和32)年、橋本力は119試合に出て56安打の活躍だったが怪我で二軍落ちした。通算盗塁が30個なんて素晴らしい。いい選手に育ちそうだ、と思いきや。

 ところがどっこい。ファーム暮らし幸いを呼ぶとはツユ知らず。オリオンズのオーナーが永田雅一(ラッパ)となり、チーム名も「大毎オリオンズ」になった。何にでも顔を出すラッパのこと。春のキャンプを訪れた。ラッパがあちこちを見て、「おい、あそこにいる顔のゴツイの、なんっちゅうヤツだ」。「橋本力です」「おーい、橋本―っ。こっち来いっ」。呼ばれた橋本がラッパの前に来た。「キミぃ、いい面(ツラ)してんじゃあねえか」。

 折も折。ラッパ大映はベストセラー小説「一刀斎は背番号6」(五味康祐作)の映画化を考えていた。本物の野球シーンを指導する本物の選手が必要となり、ラッパが「橋本力しかねえよっ」。社長室に呼ばれて「キミぃ、やってくれっ」「どうせ、今シーズンは一軍には上がれんだろ」。一発で決まった。ついでに一刀斎チーム選手役でも出演した。180センチ近い肉体と“侍顔”が受けた。

侍の役柄をした橋本力

 橋本力は映画俳優(京都撮影所専属)になる。別のハナシでは「一刀斎は背番号6」撮影中、フライを捕球する際に大怪我をして、大映側が気の毒に思い俳優業を勧めたとも言われるが、僕が聞いた本人のハナシでは「ラッパの誘い」に決断したのである。ラッパの先見! まことに大当たり! そのとおり、確かに橋本力は大毎オリオンズになったシーズン(1958年)、試合数も激減して13安打どまりだったのだから。

 いやあ、オリオンズOB会の宴席でも「その面構え」は大いに目立った。彫が深く目玉が大きい。体格が立派。力が強い。声が太い。まさに俳優。そうは言っても演技はシロト。当初「三人の顔役」「ひげ面」「悪名市場」などに出演したが、ほとんどは悪役専門。だが、ツラの魅力が利して「座頭市血笑旅」「眠狂四郎魔性剣」……と仕事は増えた。そうしてやってきたのが主役の座! 本人が大笑いして言っていた。「うれしかったですよオ。あんとき、ね。大映映画の主演だもんね」。

 「それがよ……それがよ。ヌイグルミの中に入るんだとは知らんかったから、びっくりしたねえ」。特撮時代劇映画・大魔神シリーズ三部作。「大魔神」「大魔神怒る」「大魔神逆襲」。大魔神の中で動き回る。

 「あれ、重いのよ。俺、力あったんで、まあ、なんとか振舞ったけどね。1本映画撮ると疲れたねえ。目も疲れた」

 そう。モンダイは、大魔神の目は橋本力のホンモノの目だった。被り物の穴から目だけ出した。「瞬きしないでほしい」と監督が注文を付けたので、瞬きをしなかった。目に力を込めて、えいっと。1シーンを瞬きしないで通した?! 「ああなると、もう、意地だよ意地」。意地で瞬きを堪えるなんざあ、ね。外野手は飛球を睨んだら捕球するまで瞬きはしませんからね。さすが、である。

 その後は勝新太郎に気に入られ、その縁で香港映画「ドラゴン怒りの鉄拳」でブルース・リーの敵役で共演した。その件については「なんかねえ、あんまり覚えていないんだよね」だった。野球の一試合一試合は「結構覚えているけどねえ、映画に出たのは、一つ一つ、そんなに記憶がないんだよ」。そうだよナ。映画に出演する人間にとっては撮影が断片的で物語性に乏しい。野球は自分が連続ドラマに出ているから一球一球が脳に残るのである。

 のちに、佐々木主税(横浜太洋ホエールス、横浜ベイスターズの守護神)が「ハマの大魔神」と仇名された。あれは、佐々木の風貌と投げるときの目をむく様が、橋本力の「大魔神」に似ていたからである。その元祖「大魔神」も、2017年10月11日死去した。83歳だった。ついでに言っておくが「ハシモト・リキ」は芸名。本名は「つとむ」。

 僕はラッパ(永田雅一)のさまざまな行動に「妙な興味」を抱く。陸上短距離の飯島秀雄を「盗塁の名手」に仕立て、橋本力を「大魔神」に仕立てた。そもそも「毎日オリオンズ」という球団創設も、プロ野球2リーグ創立もラッパが絡んでいる。戦後まもない時代の自由な発想から「面白いコト」が始まるのが嬉しかった。「大魔神」の死が、昭和20年代……僕のガキ学生時分を思い浮かばせてくれる。

(諸岡達一)

 

「土太郎村」に土壁の家

 写真は、OB中島健一郎氏の自宅である。2017年度「日事連建築賞」(日本建築士事務所協会連合会)の優秀賞に輝いた。

 「版築のいえ」。版築とは土壁のことで、写真の中央から突き出ているのが版築。厚さが1.2メートルもある。高さ2メートル。この写真は、玄関の反対側からだが、玄関を入ってすぐのところから、ピアノのあるホールとダイニングキッチンを分けて、建物の外まで突き出している。

 両側に開いているのは厚さ70センチの土壁。建物の両脇も同じ土壁で、版築の壁が1本と、土壁4本が基礎となって、その上に木造のシャレた家が建っている。

 土壁は横方向に弱く、その補強のために竹を使っている。鉄筋コンクリートでなく、全く自然素材の「竹筋土造り」である。冬暖かく、夏涼しいのが、特徴である。

 「土太郎村」。市原市南部の高滝湖から車で数分。緑深い自然の中、敷地面積約10万坪の広大な「村」の建設工事が急ピッチで進んでいた――。

 これは朝日新聞千葉版の2017年元日紙面の書き出しである。

 〈テクノロジーの発展やライフスタイルの変化で、私たちの未来はどうなっていくのか。20XX年の未来予想図をシリーズでお伝えします〉の連載第1回。

 土太郎とはこの地の字(あざ)名だだが、目指すのが、エネルギーを自前でまかない、自給自足の生活をする「サステナブル・ヴィレッジ(持続可能村)」。太陽光パネルは4・3メガワットの発電が可能で、水力発電も計画している。

 すでに木造住宅が50戸が建ち、将来は130戸ほどに増えて、「土太郎共和国独立宣言」をしたい、と村長さんの中島健一郎さん(72歳)はいっている。

 ちなみに中島氏は、元社会部長、事業本部長から常務取締役を務めた。

(堤  哲)

 

新聞協会賞受賞を祝う会 3コマ、0.2秒に決定的瞬間!

 リオ五輪4×100mのボルト選手(ジャマイカ)とケンブリッジ飛鳥選手が並走している写真で、2017日本新聞協会賞を受けた梅村直承(なおつね)記者=現北海道支社報道部写真グループ=のお祝いの会が21日、パレスサイドビルB1毎日ホールで開かれた。

 毎日新聞の編集部門での受賞は29件、写真部門では昨年に続く連続受賞で7回目で、いずれも最多受賞である。

 まず丸山昌宏社長が「動画全盛の時代に、一瞬を切り取ったこの写真のインパクトは強かった。皆さんとともに受賞を喜びたい」と挨拶、朝比奈豊会長が乾杯の音頭をとった。

 続いてゲストの鈴木大地スポーツ庁長官。10月からスポーツ面にコラム「長官鳥瞰(ちょうかん)」を月1回執筆することになっている。タイトルも自ら考えたという。「スポーツ写真が新聞協会賞を受賞するのは初めてと聞いてびっくりしました」などとお祝いの言葉を述べた。

 会場には、受賞の写真を撮影したキャノンのカメラが600ミリの望遠レンズを付けてセットされ、キャノン代表も「私どもも社内で鼻高々です」と喜びを話した。

 受賞者梅村記者は「1秒で14コマの連射ができます。この場面が写っていたのは3コマ。ピントはすべて合っていました」と報告した。

 1÷14×3=0.21

 あの場面は、わずか0.2秒の出来事だったわけだ。一瞬を切り撮る作業は大変である。

(堤  哲)

 

2017日本新聞協会賞をこの写真が受賞しました!

リオデジャネイロ五輪陸上男子400メートルリレー決勝で競り合うアンカーのケンブリッジ飛鳥選手(左)とウサイン・ボルト選手=2017年9月7日(木) 毎日新聞「新聞協会賞受賞特集」から

毎日新聞の編集部門受賞は最多の29回/報道写真で7回目

 表彰式は、10月17日広島で開かれる第70回新聞大会で行われる。

 報道写真は、一瞬をどう切り取るか。それがすべてである。

 リオ五輪の男子4×100m決勝。毎日新聞は4人のカメラマンを投入した。2人はフィニッシュラインに構え、トラックレベルの低い位置に1人。この写真を撮影した梅村直承(なおつね)記者(40)=当時東京本社写真映像報道センター、現北海道支社報道部写真グループ=は、トラック全体を見渡せる高い仮設の撮影台が撮影場所だった。

 受賞報告で梅村記者はこう明かしている。〈私の撮影位置ならば超望遠レンズで最終バトンパスを撮影した後、少し焦点距離の短いレンズを装着したカメラに持ち替え、フィニッシュの場面を写すのがセオリーだ。だが、私は超望遠レンズのままケンブリッジ選手の表情を撮ることにした。「押さえ」の写真を撮る選択肢を捨てたのだ〉

 〈最終のバトンパスからフィニッシュまでの約10秒間、セオリー通りでは撮影が難しい位置で起きた一瞬を捉えることができた〉

 何百人ものカメラマンがこのレースを撮った。しかし、ウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)の「アレッ、何故日本の選手?」という驚愕の表情を捉えたのは、梅村記者の1枚だけだった。

 おめでとう!梅村カメラマン。毎日新聞入社は2000(平成12)年。振り出しは大阪本社写真部で、2008年北京五輪も特派されている。

 毎日新聞の新聞協会賞編集部門での受賞は、昨年の熊本地震「奇跡の救出」など一連の写真報道に続き2年連続29件目。

 写真部門の受賞は①1961年度「浅沼委員長刺殺」東京本社写真部長尾靖撮影②1986年度「車椅子の田中角栄元首相」東京本社写真部永田勝茂撮影③2006年度「パキスタン地震一連の写真報道」東京本社写真部佐藤賢二郎撮影④2007年度「長崎市長銃撃事件」長崎支局長澤潤一郎記者撮影⑤2011年度「3・11大津波瞬間のスクープ写真」東京本社写真部手塚耕一郎撮影⑥2016年度「熊本地震・奇跡の救出など一連の写真報道」西部本社写真部和田大典撮影。

(堤  哲)