新刊紹介

2019年6月15日

改めて紹介!小倉孝保著『100年かけてやる仕事』

 朝日新聞の6月15日付読書欄で紹介された。
立命館アジア太平洋大学学長・出口治明氏の書評全文――。

 ■ルーツを読み解く、土台の言葉

 2013年、連合王国(英国)で100年の年月をかけて『中世ラテン語辞書』が完成した。当時、ロンドンに駐在していた著者は「時を超える」働き方に興味を持つ。自分たちの生きている時代に完成しそうもない、自分たちが使うあてもない辞書をつくることになぜそれほど精力を傾けたのか。こうして取材が始まった。それが本書である。

 マグナ・カルタもニュートンの論文も中世ラテン語で書かれている。第一、中世ラテン語は現在のヨーロッパ諸国のアイデンティティーのルーツを読み解く鍵なのだ。辞書編集はハチが花の上を飛ぶのに似ている。図書館が森、書棚が樹木、文献が花、編集者はハチ。西欧とそれ以外の世界を分ける基準がラテン語。連合王国の歴史は中世ラテン語によって記録されてきたので、この辞書の完成は、自分たちの歴史を理解する道具を手に入れたことになる。つまり必要だったから、多くの人が自分の時間の何分の1かを後世のために使ってきた。それは「青銅よりも永遠なる記念碑」なのだ。

 翻って日本はどうか。日本の辞書は中国語を説明する形式から9世紀にスタートした。公(英国学士院)が関与した中世ラテン語辞書とは異なり、日本の辞書づくりは私(民間)の仕事であって、国が作った辞書は一冊もない。『言海』しかり、『大漢和辞典』しかり、『広辞苑』しかりなのだ。日本の言葉に対する危機感の薄さに、ある識者は警告を発する。「土台の言語を失った言語は脆弱(ぜいじゃく)になる」「アイヌ語を守らなくてはいけない。アイヌ語の絶滅は将来、日本語の存続を脅かすことを知るべきだ」と。中世ラテン語は土台の言葉なのだ。

 現代の日本は、市場原理主義、スピード重視で何よりも効率を最優先する社会だ。しかし、市場経済では計れない価値が芸術や文化の世界には厳存している。働くことの意味を考えさせてくれる一冊だ。

 (プレジデント社、1,944円)

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 おぐら・たかやす 1964生まれ。毎日新聞編集編成局次長。『柔の恩人』で小学館ノンフィクション大賞など。

(堤  哲)