元気で〜す

2020年1月16日

「出版社を引き継ぎました」と社会部OB滝川徹さん

 「出版社を引き継ぐなんて、よく火中の栗を拾う気になったね」。業界の集まりに行くと、心配そうに声を掛けられる。苦笑しながら「まあ、なんとか」と答えるのだが…。

 

 ほぼ1年前に「株式会社海象社」を引き継いだ。そのいきさつは後述するとして、最初に手掛けた「石橋をたたいて渡るネット株投資術~シルバー世代の小遣い稼ぎ」(1460円+税)を説明させてください。

 

 年金だけでは老後の生活に2000万円足りないとの報告書が昨年話題になったのはご存知の通り。優良会社を定年になって十分な企業年金をもらっている人たちは別として、(わが社を含め)一般的には年金だけでは暮らしていくのが精いっぱい、なかなか優雅な老後は送れません。でもたまには家族で温泉旅行したり、話題のレストランで友人と食事したり、ちょっといいコースでキャディ付きゴルフをしたいじゃないですか。

 

 しかし、安倍政治による実質ゼロ金利で100万円を1年間定期預金しても金利は100玉1個のみ(さらに税金がひかれる)。証券会社で株式投資や投資信託しても儲かるとは限らないし、損したとの話もごろごろしています。それでも、手数料が8分の1で済むネット株取引を活用して「ローリスク、ほどほどリターン」を心がければ、楽しく活動的な老後を送れる程度は稼げますよ、という本です。

 

 情報を集めて頭を使うことでボケ防止にもつながります。一攫千金なんて求めません。筆者は日経新聞の元諭説副主幹で環境問題の著書が多い三橋規宏さんで、7年間、年平均15%の利益を出した自身の実践報告です。

 

 海象社は20年前に創設され、「ローカーボン グロウス」「環境立国日本の選択」「原発からの命の守り方」など約50冊の本を出してきたが、社長が大病を患い「後継者がいなければ廃業しかない」状況を知人から知らされ、再就職先を辞めてヒマだったこともあって手を挙げた次第です。

 

 先が見えない出版不況の中、取次ぎとの慣行的な商習慣、印刷の値段の複雑さ、アマゾンの無礼で一方的な仕切り~など苦労と出血は重ねているけれど、活字文化を守るため微力は尽くしているつもりです。「こんな本を出したい」などあれば、ぜひご連絡を。連絡先や出版本は海象社のホームページを見てください。 

            

(滝川 徹)

                         

 滝川氏は71歳。定年退職後、「海上保安新聞」「エネルギーと環境」編集長をつとめた。「日本環境ジャーナリストの会」発足時(1991年6月)からの会員で、元会長・理事。

2020年1月14日

新聞の切り抜きを今も続ける、今年91歳になるOB

 社会部OBの野村勝美さんは、ことし6月1日に91歳の誕生日を迎える。

 ネットマガジン「知の木々舎」に1か月2回「浜田山通信」を連載している。№257は「観測史上最高の温暖化」で、16歳のグレタさんと、トランプ米大統領のやりとりを書いているが、その中に「新聞の切り抜きを今も続けている」と書いている。

 スズメ100まで踊り忘れずか。エライ先輩である。

 https://chinokigi.blog.ss-blog.jp/2019-12-27-5

 —―新年早々もうしわけないが、「人々は苦しみ、死にかけ、生態系全体が崩壊しかけている、私たちは絶滅にさしかかっているのに、あなたたちが話すのは金のことと、永遠の経済成長というおとぎ話だけ」、スペイン・マドリードで開催されたCOP25(国連気候変動枠組み条約第25回締約国会議)でのグレタ・トウーンベリさん(16)の演説が頭から離れない。私は新聞記者時代からの習慣で新聞切り抜きをいまも続けているが、グレタ演説のあとは、気候変動関連の記事しかスクラップしなくなった。

 米誌「タイム」」が恒例の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」を選ぶと、トランプ米大統領はツィッターで(この人はメデイアとの記者会見を一切やらず、一方的にツィッターで政策から批判、中傷まで発表する。フォロワーが何千万もいるそうだ)「とてもバカバカしい。落ち着けグレタ。落ち着けっ」とやゆし、「怒りの制御に取り組んで友だちと古き良き映画を見に行った方がいい」とも書き込んだ。

 これを受けてグレタさんは「今は落ち着いて友だちと古き良き映画を見ています」とツイッターに書き込んだそうだ。どちらが大人なのか。

 金儲け一本でやってきて、アメリカ・ファースト、グレート・アゲイン一本鎗でやってきた米大統領は、ほんとうは無視したかったのだろうが、世界中のとくに若い人たちに火がついてしまったので放っておくわけにもいかず、つい「映画でも」とツイートしてしまったのだろう。

 もう一人、温暖化の旗振り役ブラジルのボルソナロ大統領は「グレタだっけ、先住民がアマゾンを守っていたから殺されたとか言っていたな。あんなガキにマスコミがスペースを割くなんて驚きだ」とまくしたてたそうだ。ガキはポルトガル語で「ピラリア」といい、グレタさんは「私はピラリアです」と返事した。若いからこそ温暖化をくいとめなければ、私たちの未来はないというのだ。

 アマゾンの熱帯雨林は酸素を作り出すが、ブラジルは開発して農地にしたり、工場を作りたい。温室効果ガスの大量発生はまぬがれず気温上昇は惨憺たるものになる。アマゾンの大規模な山火事は、政府側が火をつけたとの報道もあるが、とんでもないことだ。山林火災はアメリカでも西海岸でひどく、カリフォルニアでは高級住宅地も脅かす。昨年はオーストラリアで大規模な森林火災によりユーカリの森も焼け、コアラが犠牲になった。フランスは最高気温47,1度。日本でも41,1度の、観測史上最高温度を記録した。

 もっとも世界の人口は、18世紀には10憶人にも満たなかったのが、2世紀の間に70憶人に達した。人間がこれだけ増えると温室効果ガスも当然増える。人間が増えたのは、産業革命以来、経済が成長し、暮らし向きが良くなったからだろう。

 日本は、昨年は観測史上一番高温だったそうだ。それでも私は夏も冬もエアコンつけっ放し。日本国がCOP25で二回目の「化石賞」をもらったからと言って文句をつける資格はない。

(堤  哲)

2020年1月10日

写真家・荒牧万佐行さんは「野鳥を撮ります!」

 写真部OBの写真家荒牧万佐行さん(78歳)からの年賀状に、上の3枚の写真が入っていた。

 近くの和田堀公園で撮ったカワスミとカイツブリの親子、それに北海道知床でのオオワシ。いずれもエサをくわえている。相当粘らないとモノにできない作品である。 

 「野鳥のカメラマンとして第2のスタートです」と、荒牧さん。「100枚とか作品がまとまったら写真展を開きたいと思います」

 荒牧さんは、日大芸術学部写真学科卒。建築写真家で、日本写真家協会会長を長く務めた渡辺義雄日大教授(2000年没、93歳)に師事。1967年中国文化大革命で天安門広場などの現場を撮影した。また鎌倉の円覚寺に通って、舎利殿や禅僧を撮影、写真集を出版している。

(堤  哲)

2020年1月10日

元選挙・世論センター副部長、濱田重幸さんが『昭和天皇と明仁皇太子を救ったのは誰か』(仮題)を執筆中です

 「終戦直後 学習院長の日記 『人間宣言』関与 山梨勝之進」。1月6日付け毎日新聞一面に掲載された特ダネ記事=写真=を読んでいて、「山梨の足跡を執筆中の濱田重幸・元毎日新聞記者(71)が入手して調査した」とのくだりに気づいた。岐阜支局次長、社長室MAP商品改革本部委員などを歴任、日本陶芸展運営委員も務めた濱田さんの顔が浮かび、記事の筆者の一人、岸俊光さんを通じて連絡をとったら、近況が届いた。

 「現在、極度の腰痛(新聞社時代の過労が原因です)による冷え性に悩まされています。両足の先端に血流が回らず、真夏でも湯たんぽを手放せません。気温が激しく上下する日は終日寝込むことは珍しくありません。外出する際は転倒防止のため杖を突き、リュックに湯たんぽを忍ばせています。さらに認知症の義母を施設から自宅に引き取って介護をしています。老老介護です。介護をする妻の補助のため洗濯や食器洗いを受け持っています。このため、パソコンに向かう時間が十分に取れないのが悩みです。また、2時間以上座ったまま仕事をしていると、腰が痛み出します」

 「執筆中のタイトルは『昭和天皇と明仁皇太子を救ったのは誰か』(仮題)です。敗戦直後、存続の瀬戸際に立たされた皇室を誰がどのようにして護ったのかを解き明かすのが狙いです。稀にみる戦略家である山梨勝之進さんが明治末から戦後にかけて数々の仕事をした足跡を実話でたどる話でもあります。研究者は誰も気付いてはいません。山梨さんは司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』の主人公のひとり秋山真之提督の愛弟子です。『昭和天皇と明仁皇太子を救ったのは誰か』は『坂の上の雲』の続編に当たると自負しています。文献の裏付けがある話だけを集めました。

 よほど歴史に詳しい人でないと山梨さんの名前を聞いてもピンときません。ご本人も自己宣伝はゼロに近い人で、数々の功績も当時の上司がした、と功を譲るタイプの人です。人間宣言も同様で、当時の宮内大臣がしたと語っています。取材を受けても、ご自分の活躍シーンは上手にそらしてしまいます。

 『山梨日記』に記されていた儒学者佐藤一斎の「須要有事天之心」「不要有示人之念」の漢詩(「物事はどんなことをする場合でも、すべて(天)に仕えるような気持ちで行うことである。他人の目を意識してはならない」)の内容から見て山梨さんは「天が知っていればよい」と考えていたとみています。

 例えば、山梨さんは、海軍の父といわれる山本権兵衛の副官を務め、山本権兵衛内閣の組閣時に事実上の〝総理秘書官〟として活動しました。しかし、そのことを全然PRしていません。大正政変時の話です。海軍関係者も知りません。海軍士官として初めて体験する組閣時の話を誰にも話していないのです。山梨さんが取材を受けたある本に「政友会本部に行った」と1行だけ記されていました。インタビューした記者もそのことの重要性に気付かず、別の話題に移っています。この記述で、濱田は初めて山梨さんが政治活動をしていたのでは、と気付きました。吉田首相の岳父、戦前の重臣牧野伸顕は、山本内閣の組閣時、山本の相談役だったことがその日記から分かります。原敬と山本、牧野らがどんな駆け引きをしたのか。立ち会っている山梨さんが語らない限り、永遠に分かりません。『原敬日記』の記述はあまりありません。

 本紙に記された小泉信三さんと山梨さんとの交流については親族の誰も知りませんでした。濱田の調べでは、山梨さんは小泉さんが19歳のとき、慶応義塾大学のときに知り合いました。小泉さんが出場するテニスの試合を新婚の山梨さん夫婦が観戦に行って以来の交際でした。このことのウラを取るのに数年掛かりました。『小泉信三全集』全巻に目を通してもヒントはありませんでした。

 山梨さん夫婦はなぜテニスの試合を見に行ったのか。カギは山梨夫人でした。夫人の実父が小泉さんの父親と明治初年以来、交際があり、大蔵省では上司と部下という関係を文献で突き止めました。はかま姿でテニスのラケットを手にする娘時代の夫人の写真を『1億人の昭和史』の中から見つけました。新婚の山梨さん夫婦もテニスをしていたのです。

 山梨さんの息子が結婚した際の媒酌人は、小泉さんの義兄松本丞治さん(商工大臣、本紙がスクープした憲法草案・松本試案の作成者)でした。47年4月に小泉さんが東宮御教育参与に選任されたのは、山梨さんが推薦したからです。山梨さんは公職追放される自分の後継者として小泉さんを推したことになります。このことを研究者は誰も指摘せず、小泉信三全集にも記されていません。

 日本国憲法成立に山梨さんが関与したとする研究者がいますが、濱田の調べでは裏付けが取れませんでした。状況証拠を集めると、相当疑わしい点がありますが、歴史の闇の中に消えたままになりそうです。

 『山梨日記』に記されていたGHQ渉外局長ベーカー准将と同民間情報教育局長ダイクの2人は意外な場面に登場します。2人とも日本側の憲法制定作業の模様を情報収集しているフシがあるのです。

 衆議院議員植原悦二郎は今では忘れられた存在ですが、明治43年、英国ロンドン大学大学院のとき、Political Development of Japan(日本の政治的発展)を発表しました。明治以降の日本政治史をつづった書ですが、この中で植原は「天皇はシンボルである」と説明しています。この書は西欧の日本研究者にとって基本文献になっています。

 敗戦直後の45年秋ごろ、ベーカー准将は植原に会っています。ダイクは植原と鈴木安蔵(憲法学者、「憲法調査会」の一員)、宮沢俊義ら憲法学者を銀座の料亭に招待して憲法改正の動向を探っています。植原はこのとき、Political Development of Japanをダイクに見せて「天皇はシンボル」と説明したことを自著で明らかにしています。また、首相官邸で開かれた「憲法調査会総会」に参考人として招かれた際、同じことを陳述しています。占領最初期のGHQの幹部の中で一番の切れ者のダイクが、この話をマッカーサーにしたのかどうか、文献がなく分かりません。日本国憲法第1条の「象徴」の言葉は日本人の発案なのかどうか、研究する人も少ないです。

 民俗学の柳田國男さんと山梨さんが親友だったと言うと、皆首をかしげるでしょう。21歳、海軍少尉候補生の山梨さんは、23歳の東京帝国大学法科大学生柳田さんと知り合いました。柳田さんの実弟が山梨さんの海軍兵学校の同期だったのです。柳田さんのおいの挙式の際、山梨さんが媒酌人を務めています。

 「人間宣言」草案作成の事前準備として、神道に詳しくない山梨さんは、柳田さんのアドバイスを受けたのでは、と仮説を立てて調べてみました。用意周到な山梨さんは、先を読んだ行動をするからです。濱田の推論は、今後発表する論文をお読み下さい。

 柳田さんが、神道と日本人の信仰の問題を深く考え始めたのは戦争末期とみられています。戦争の終結前から柳田さんは、なぜ神道に関する研究に拍車をかけたのか。戦争末期、70歳を超えた柳田さんがなぜ「いよいよ働かねばならぬ」と奮い立ったのか。敗戦直後、なぜ寝食を忘れて憑かれたように執筆活動をしたのか。なぜ柳田さんは敗戦を予期したのか。柳田さんの研究者からは、これまで合理的な説明はなされていませんでした。

 柳田さんの『炭焼日記』を分析すると、柳田さんは山梨さんに会って「戦争に負ける」と告げられてから、神道研究に邁進したとみられます。柳田さんなりに日本の再建をしようとしたのでしょう。濱田の推論です。

 山梨さんが経済に詳しい、ということを裏付ける話があります。27(昭和2)年の金融恐慌の最中、経営危機の川崎造船所(現川崎重工業)を当時、海軍艦政本部長だった山梨さんが救済しました。閣議でいったん救済を決めながら、後日見捨てた川崎造船所を一時的に海軍の〝直営工場〟とすることで倒産から救いました。同造船所に海軍の「臨時艦船建造部」を設置したのです。同造船所は、倒産せず、従業員の解雇数は少なくなり、軍艦はそのまま建造されことになりました。川崎造船所と川崎重工業の社史には、詳しい話は収録されていません。

 田中義一内閣が救済を放棄した話を柔軟な発想をした山梨さんが救ったことになります。川崎造船所が仮に倒産したら、大騒動が起きるところでした。神戸市にある川崎造船所の従業員、その家族、出入りの下請け業者、商人などを含めると、同造船所に関係する人々は約20万人に上り、当時の神戸市人口の3分の1を占めていました。

 山梨さんは当時の海軍大臣が決めたと、川崎造船所救済の功を譲っています。「人間宣言」とときと同じです。戦後、山梨さんは「臨時艦船建造部」は米国の例をヒントにし、「一石三鳥」だったと発言しています。川崎造船所が持つ潜水艦の製造技術を護る目的もありました。山梨さんの三回忌で、川崎造船所に派遣された機関出身の少将が、山梨さんの〝仕事〟と証言しています。山梨さんが第一次世界大戦時の米国経済に詳しかったことを裏付ける話でもあります。

 米国がドイツに宣戦布告したとき、総力戦態勢を取りました。造船会社などを国有化して国の資金を大量に投入したのです。まるで社会主義のようなやり方でした。日本の軍部が航空機製造会社を国有化したのは、戦争末期の45年でした。日本は米国のやり方を全然研究していなかったことになります。残念ながら現在でもこのことを研究する人は少ないです。

 海軍の「臨時艦船建造部」は、同様に倒産寸前の大阪市の藤永田(ふじながた)造船所(戦後、三井造船に吸収合併)にも設置されました。駆逐艦の「藤永田」といわれていました。作家谷崎潤一郎の夫人松子は、藤永田造船所の創業者一族です。谷崎の小説『細雪』のモデルとなっています。同造船所建造第一号の駆逐艦の進水式で、娘時代の松子がハンマーで薬玉を割ったことを自著で明らかにしています。

 〝軍人外交官〟としての山梨さんの洞察力を示す言葉が残っています。山梨さんは米国の国民性について「矛盾が多い大国(中略)。国民の性格が矛盾しているのです。非常にきれいな品の良いところがあると思うと、ごろつきみたいなところが同時にある」「神様みたいなことを言うかと思うと、野次馬で、非常にごろつきみたいなところが一方にある。両方見ないといけない」(『歴史と名将』)とズバリと記す。禁酒法時代の米国の話です。

 米国民は神様なのか。ごろつきなのか。昨今の米国政治の現状をまるで予見したかのような指摘です。上記のことを山梨さんは海上自衛隊のエリート将校に説明していたのです。

 さらに中国について山梨さんは「アメリカは日本を相手にせずに支那をかわいがり、支那もまた非常に日本を排斥してアメリカをひいきにし、アメリカは支那にうんと金をつぎこんだ」「ところが、今日のアメリカの最大の敵は支那であり、支那の最大の敵はアメリカである。(中略)これほどの失策というものはない」(『山梨勝之進先生遺芳録』)と19世紀末以来の米国の中国重視外交の失敗の歴史を分析。「支那人は口達者である」「世界の名人である」「(プロパガンダは)支那人というのは、世界一であって、これにかなうものはない」と中国との外交交渉の難しさを説明しています。現代の米国と中国の有り様をこれまた予言しているようです。

 最後に「人間宣言」について、『学習院百年史 第3編』に収録された山梨さん自身の言葉を紹介します。敗戦直後の皇室の危機的な状況について、山梨さんは55年9月の学習院中等科回顧座談会でこう語っています。

 『私の頭に皇室は大丈夫だな、従って陛下の御身分も皇太子様も大丈夫というような見当が髣髴(ほうふつ)として決まりかけるような気持になるまでは、何がどうなるか判らない。御勅語のあたりからそういう空気になってきて、やっと落ち着いた気分になったのです」

 山梨さん流の言い方ですが、「私の頭に」「御勅語」(濱田注:人間宣言のことを指す)という言葉からみて、事実上の関与を認めたのではないか。「皇太子様も大丈夫」の言葉は何を指すのか。人間宣言が皇太子の境遇にどう関係したのかは、46年から座談会があった55年の間、誰も気付いてはいません。45年末当時、皇太子の米国留学は、米国の人質になるのと同じでした。

 山梨さんの足跡を追う作業は、上記のようなことの繰り返しです。数十冊の文献を読んでも収穫があるのは数冊です。砂山の中から金の粒を見つけるようなことを繰り返しています。10年近く調査していますが、分からないことだらけです」。

 腰痛と介護の苦労を乗り越え、著書の刊行が待たれます。

(高尾 義彦)

 

 【山梨勝之進学習院院長・海軍大将の経歴・人柄】
=文献の裏付けに基づく濱田さんの調査結果です

 仙台市の士族の生まれ。同志社の分校・東華学校で米国人宣教師から英語を習う。人力車夫などをしながら海軍兵学校を受験する。1900(明治33)年、軍艦「三笠」回航委員に就任し、1年7月間、英国に滞在する。夏目漱石の訪英時と重なる。日露戦争に従軍し、08(41)年~13(大正2)年の間、海軍省副官兼海軍大臣秘書官と山本権兵衛付属副官を計4年間務める。13年の山本権兵衛内閣組閣時、事実上の〝総理秘書官〟として活動する。第一次世界大戦では、14年、インド洋の英国のシーレーンを独艦の攻撃から護るため英軍司令部に連絡将校として派遣され、「日英海軍の活ける鉄鎖」と報じられた。秋山真之提督の愛弟子で、16年、秋山と共に欧州戦線と米国を7カ月にわたって視察した。

 21(大正10)年のワシントン海軍軍縮会議では各国軍人らと水面下で交渉した。「軍人にとってこの軍縮は弾丸をうたない戦争」との言葉を残す。海軍次官時、暗殺の危険にさらされながら、30(昭和5)年、ロンドン海軍軍縮会議を取りまとめ、「軍政家」といわれた。同会議問題を巡って統帥権干犯問題が起きた。英国から贈られた、サーの称号が付くKBE勲章を所持する。連合艦隊司令長官山本五十六と首相・海相の米内光政は山梨に兄事した。33年、強硬派の圧力で海軍を追われたが、第二次世界大戦中、学習院院長(39~46年)として明仁皇太子と義宮を護り抜いた。

 戦後、昭和天皇の地方巡幸の準備に関わり、GHQの圧力で廃止の瀬戸際の学習院を存続させた。学習院編『学習院の百年』は「(山梨の)先見の明と透徹した判断に負う」と評している。公職追放の対象となり、学習院院長退任直後、天皇の命で東宮御教育参与に就任する。海上自衛隊創設に裏面で活動し、軍人恩給復活、「記念艦三笠」の復元などに関与した。52(昭和27)年、天皇と吉田茂首相の依頼で、巣鴨プリズンに収監中のA級戦犯らを慰撫する。56(31)年、天皇の義母、香淳皇后の母親の葬儀の際に葬儀委員長を務めた。64(39)年、常陸宮夫妻が挙式した際、山梨夫妻が皇室の儀式、「三箇夜の餅(みかよのもち)の儀」に加わる。吉田茂元首相に続いて66(41)年、宮中杖(鳩杖)を贈られた。

 舎監となった宮城県の学生寮「五城寮」(舎監は51~58年)は、「最後の松下村塾」と評する人もいる。山梨が英米の詩人、古今東西の名将、政治家の講話をするほか、吉田茂首相ら政財学界人が山梨の依頼で時々講演に訪れた。創設期の海上自衛隊幹部学校で89歳までの11年間、各国の戦史などの講話を続けた。海上自衛隊エリートたちの精神的な指導者だった。胸像が同幹部学校、水交会、記念鑑「三笠」に残る。

 大正時代以降、山梨さんに接触した人々の山梨評の一部を紹介する。「ウラを喝破」「人間洞察力」「柔軟な思考」「機を見るに敏」「抜け目がない」「政治家」「綿密周到」「深謀遠慮」「数理的頭脳」「智嚢(ちのう)」「記憶力抜群」「先見の明」…。海上自衛隊の歴代トップも同じ感想をもらす。明治以降の陸海軍軍人の伝記・評伝の中で、「ウラを喝破する」というような表現をされる将軍・提督はいない。従来の山梨評と異なる「ウラを喝破」と「抜け目がない」は長谷川清海軍大将が山梨の三回忌で語った評である。

 戦後は終始狭い家に住み、清貧な生活を続けた。小柄で温和な外貌のため海軍提督時代、「商事会社の番頭さんみたいに、ものやはらか」と評された。威圧するように肩を張り、猛々しい軍人のイメージとは正反対の人だった。威張り散らすこともなかった。他人の悪口・批評も絶対に言わないのだ。学習院院長時代は、門衛や小使いと間違われた。寮の舎監時代は植木屋と勘違いされた。脳いっ血で入院中の山梨に昭和天皇と皇后は果物を、美智子さまは自ら摘んだチューリップを、常陸宮はスッポンのスープを贈った。亡くなったとき、6畳と4畳半の二間の自宅に安置された柩の周囲は昭和天皇と皇族からの生花で埋まった。葬儀には常陸宮夫妻が弔問した。

2019年11月13日

19年間で9冊の著作、今吉賢一郎さんの執念

 飛田八郎さんから最近刊『異界九夜』(藍書房刊、2200円+税)が送られて来た。

 内容を紹介するペーパーに、こうあった。

  戦に命 奪われて
  闇を漂う 私らは
  地上に生きる 人々に
  いまはっきりと 申したい

  

  地上に執着 なさりませ
  地上の命 大事にし
  無駄に失い 給うなよ
  一回限りの ものだから

  もしも戦を 無くすなら
  地上に勝る 楽土など
  どこにも無いと 思われよ
  命きらめく 至上界

 巻末に飛田八郎著作目録がある。

『カッパが見える日』短編集2000年10月
『少年の四季』2001年12月
『自然歩道で 』上・下巻 2003年5月
『隅田川』2005年10月
『黒いプカプカ』2007年2月
『影絵―続・隅田川』2010年1月
『三百六十六日の自然』2012年7月

 2000年から19年間で9冊著している。大変な書き手である。

 飛田八郎は誰か、と謎めかして書こうとしたら、牧内節男さんが自身発行のインターネット上の「銀座一丁目新聞」ブログ「銀座展望台」に《毎日新聞時代の友人今吉賢一郎君から『異界九夜』(ペンネーム飛田八郎。出版社藍書房)が送られてきた》(10月15日)と書いている。

 今吉賢一郎、ことし82歳。

 残念ながら一緒に仕事をしたことはない。東大文学部卒、61年入社。社会部、サンデー毎日編集部、毎日グラフ・サンデー毎日各編集長、編集委員。

 毎日新聞4万号(1987(昭和62)年8月30日)をきっかけにした連載記事が『毎日新聞の源流』—江戸から明治 情報革命を読む―という単行本になっている(毎日新聞社1988年刊)。

 毎日新聞の源流「東京日日新聞」は1872(明治5)年2月21日(旧暦)に創刊するが、「出板願」を当時の大蔵省に提出したのは戯作者粂野伝平(1832~1902)、貸本屋の番頭西田伝助(1838~1910)、浮世絵師落合幾次郎(1833~1904)の3人。1,2か月後に出版人の広岡幸助(1829~1918)が加わった、とある。

 「この4人が250円ずつ出し、千円で始まった」と、広岡の証言を紹介している。

 とにかくよく調べていて、人物も当時の世相もやたらと詳しい。

 2022年、毎日新聞は創刊150年を迎える。それに向けての準備は始まっていると思われるが、担当者は、まずこの本を読んでもらいたい。

 今吉さんの父親顕一さんも毎日新聞の記者だった。大阪本社の地方部長から応召、1944(昭和19)年7月9日、中国戦線で米軍の空襲を受けて戦死した。享年42。

 社報に追悼文が載っているが「軟派ものを書かせては当時東京社会部随一といはれた」とある。親子2代のナンパの書き手だった。 父親のことは『黒いプカプカ』に詳しいが、《父は空襲の際患者の退避が終わってから最後に経理室に駆け戻り、重要書類と金庫とを運び出そうとした。そのとき直撃弾を受けた。病院への投下爆弾は37に及んだという。父の身体は粉々になり、瞬時に異郷の土と化したはずである》。

 今吉さんは父親の戦死の模様をニューヨークタイムスにあたる。1944年7月10日付紙面に「重慶9日発AP」は「米空軍は作戦上の重要基地を攻撃した」とあり、翌11日付には「重慶発10日発UP」で「米空軍の爆撃機、戦闘機は衡陽北方で洞庭湖南東岸にある新市の日本軍補給基地を攻撃し、輸送車、燃料、弾薬を爆破炎上させた」。

 ペンネーム飛田八郎について、ある先輩記者はこう解説してくれた。「トンダヤロウと読める。数え8歳、国民学校1年生の時、父親が戦死した。新刊書の帯にある『どうか地上から戦争が無くなるように』は今吉さんの心からの願いだ」

(堤  哲)

2019年8月14日

戦艦武蔵の生き残り塚田義明さんの、もうひとつの闘い

 ことしもまたNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期」が再放送された。「戦艦武蔵」の生き残り、社会部の先輩で、皇室ジャーナリスト塚田義明さん(現92歳)が映し出された。

 塚田さんは、1942(昭和17)年、中学2年のとき、第1期海軍練習兵(特別年少兵)を志願。砲術学校を卒業して、「武蔵」の乗組員となった。16歳だった。

 全長263メートル、最大幅38・9メートル。排水量6万4千トンの「不沈艦」は、1944(昭和19)年10月24日のレイテ沖海戦で米軍機の爆撃・魚雷を受け、沈没する。

 「乗組員2399人のうち生還者は430人。沈没時に救助された乗組員(1千人以上)の多くが陸上戦に動員され玉砕した」

 塚田さんは、著書『戦艦武蔵の最後:海軍特別年少兵の見た太平洋海戦』(1994年光人社刊)で、その悲劇を克明につづり、文庫本にもなっているが、吉田裕著『日本軍兵士』(中公新書)は、この著作から「水虫との戦い」の部分を引用している。

 《戦後、色々な水虫治療薬が出て、そのつど試してみたが、かえって炎症を起こし、真っ赤に腫れあがって、歩くことができないほど、ひどい目にあったこともあった。わが水虫のしつこさにはうんざりだったが、昭和が平成に改まり、やっと私にあった治療薬に巡り会い、二年越しの根気ある治療が実って、やっと退治したのだった。じつに、半世紀に及ぶ水虫とつきあってきたわけで、オーバ-な言い方をすれば、これで私の戦後は終わった。それが実感であった》

 塚田さん、いつまでもご長命で、戦争の悲劇を語り続けてください!

(堤  哲)

2019年5月24日

椎名裁定で活躍した元政治部・池浦泰宏さん

 日本記者クラブ会報2019年5月号の「マイBOOK マイPR」欄に、元政治部の池浦泰宏さんの名前を見つけた。

 一般社団法人日本外交協会の理事長として、同協会が発行した波多野澄雄『日本外交の150年』(4104円)の案内をしている。その紹介文――。

 2019年は外務省設置150年。令和改元の年でもある。その節目の年に「日本外交の初の通史を残そう」と旧知の波多野澄雄・国立公文書館アジア歴史資料センター長に執筆を依頼し、A4判380㌻の本ができた。幕末から平成まで、国益と内外情勢のはざまで苦闘した外交指導者たちの行動の軌跡をたどり、その功罪を問い直した。フルカラーで年表、索引も充実、高校生以上なら無理せず読める本に仕上がったと思う。ぜひ書店でご覧ください。

池浦泰宏氏

 池浦さんは1936(昭和11)年北九州市生まれ。ことし83歳。60年早大卒、毎日新聞入社。静岡支局→政治部。川島(正次郎)派の番記者。椎名悦三郎(官房長官・外務大臣・自民党副総裁などを歴任)に食い込んでいた。田中角栄首相の後継を三木武夫と決めた「椎名裁定」にもかかわった。「椎名悦三郎秘録」15回を『サンデー毎日』1979年1月4日号~80年2月17日号まで連載している。

 政治部副部長で退職、日本外交協会の理事長をつとめる。

 表参道のスナックで何回か一緒になったが、ゴルフが上手で、日本記者クラブのゴルフ会の幹事をつとめていた。

(堤  哲)

2019年2月28日

磯貝喜兵衛

 1月31日のFacebookに次のようなコメントと写真を入れました。

<馬齢を重ねて「卆寿」を迎えました。おおぜいの皆さんのご祝辞に感謝し、「独立自尊」「独立自活」に努めたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。(写真 ㊧ゼロ歳、㊨90歳)

 Facebookでつながっている「友達」約200人の中から、天野勝文、前坂俊之両君がこれを見て過日、日本記者クラブでの昼食会にお招き頂き、久しぶりに歓談できましたことは何よりの幸せで、『元気で〜す』への寄稿もすすめて頂きました。

 毎日映画社をリタイアしてから早くも25年。このうち20年間は慶応のメディア・コミュニケーション研究所(旧新聞研究所)の後輩たちを相手に「マスコミ塾」を続けていましたが、家内が4年間のがんとの闘病で亡くなったためクローズ。以後は男声合唱と、横浜日独協会での活動をしながら、”独身生活”を続けています。

 横浜日独協会では、横浜市が姉妹提携をしているフランクフルト市へ高校生代表を派遣するための「作文コンテスト」を担当し、向こうから派遣されて来るドイツ人高校生のホームステイも引き受けています。

 男声合唱は地元の60人近いメンバーが30数年前から続けているもので、こちらもドイツ・ベルリンの男声合唱団と提携して、交互に訪問して合同演奏会を催したりしています。10年ほど前からは、その中のシニアだけで12人ほどのコーラスグループ(銀獅子クラブ)をつくり、定期的に神奈川県三浦市の老人向けケアー付きマンションのロビー・コンサートに出演したりして、音楽を通じての交流の輪を広げています。

 私のささやかな健康法は「音楽」プラス「入浴」で、『風呂は百薬の長』をかたく信じています。そして、楽しみは2020年の東京五輪を観ること。2013年9月に二度目の日本開催が決まったとき、近藤健君と夕刊特集ワイドで<OB対談>をしました。対談の最後に私が『開会式の毎日新聞夕刊1面には「世界は一つ」の見出しが踊っている。いつの間にか五輪精神が消え、商業主義が台頭してしまった。戦争もなくならない。もう年だけど、お祭り喜兵衛、また東京五輪の取材がしたいね。』と話したら、近藤君が『え? 磯貝さん、2020年には90歳を超えてますよ』と笑ったところで終わっていました。私より若い、その近藤君が先年、亡くなったのが何より残念です。心から御冥福をお祈りいたします。

2019年2月24日

日本記者クラブの囲碁大会で優勝の牧野賢治さん

日本記者クラブ会報2019年1月10日号

 以上が「日本記者クラブ会報」第587号にある記事。

 牧野さんは、1934(昭和9)年1月生まれだから、85歳である。

 大阪社会部から東京社会部に異動して科学記者として活躍。定年退職後は東京理科大学の理学部教授を務めた。

(堤  哲)

2019年2月1日

お得意のロシア語を披露した89歳の萩原康則さん

「東日、進化中です」

 元日付けの毎日新聞に東日印刷の全面広告が掲載されたが、1月25日(金)に開かれた旧友会の新年会に出席したOBたちも、その進化ぶりにびっくりしていた。

 新年会が開かれた4階社員食堂は「スカイビューレストラン」と名前を変え、外部の人にも開放した。超高層ビル群が借景になって、ランチの値段もリーゾナブル。「結構流行っているんですよ」と総務部長さん。

 ローケーション事業が結構な収入になっている。東日ビルがテレビドラマやコマーシャルの撮影に利用されているのだ。新年会では放映された画面を大型スクリーンで流したが、「エッこれがこのビルで?!」。5階の事務室も、土日に使われている。「すでに800万円は稼ぎました」と武田芳明社長。

 昨年入社してロケ事業部で働くのが、ロシア人のミハリョーワ・マリアさん(26)。旧友会出席者で最長老の萩原康則さん(89歳)は、ロシア語で話しかけ「正しいロシア語です」とマリアさんに褒められて相好を崩した。

 萩原さんは海兵出身。戦後神戸外語大学に入学、「今さら英語なんて」で、ロシア語を第一外国語で履修した。

マリアさんと。左は岩崎鴻一さん

(堤  哲)

2019年1月18日

従軍記者ら90人が死亡した事実の検証
64年入社中安宏規さん発行の「濁水かわら版」

 中安宏規さん(78)がユニークな情報紙をつくっている。創刊は2017年5月で、これまで74号を発刊しているから、1カ月に3回発行していることになる。

 「濁水かわら版」。「荘子」山木篇の「濁水を見て清淵を知る」からという。

 不定期発刊で、1号A4判3枚程度。PDFをメール添付で送信している。無料。

 「ボケ防止を兼ねて」と謙虚だが、最新の74号は、「日本の戦争22 支那事変シリーズ」。戦争の連載を22回も続けているということだ。

 73号に従軍記者が何人死亡したか、自ら各社別に集計している。

 ①毎日新聞     66人
 ②同盟通信(現共同)56人
 ③朝日新聞     47人
 ④読売新聞     41人
 ⑤NHK      37人

などとなっている。

 毎日新聞社は、1952(昭和27)年に『東西南北―毎日新聞社殉職社員追憶記―』(毎日新聞社終戦処理委員会編、非売品)を発行しているが、占領地の現地で新聞発行にあたった社員を含め、毎日新聞関係の死者は90近くにのぼる、と記してある。

 『東西南北』の表紙が載っている「濁水かわら版」第73号と、70号をこのページにアップします。

(堤  哲)

2018年12月3日

プロ野球のリプレー検証は、審判への冒涜である――諸岡達一

 毎日新聞社の編集委員室発祥の「野球文化學會」。その第2回研究大会が12月1日(土)午前10時半から東京新宿区の法政大学市ヶ谷キャンパス田町校舎(T 511教室)で開かれた。

 テーマは「野球と審判-その不可欠な存在と将来像-」。

 その目的は「野球文化の中核の一つともいうべき審判(アンパイア)及びその判定の在り方を取り上げ、 野球文化の更なる発展を企図すること」。

 基調講演は、元プロ野球審判員 で現在NPB(日本野球機構)審判技術員の 山崎夏生さん(63歳)。2010年、55歳定年で引退したが、1984年の初ジャッジから試合出場数は1451。自慢?は、ロッテ監督の金田正一をはじめ「退場!」を言い渡したのが17回。日本最多である。

 『プロ野球審判ジャッジの舞台裏』(北海道新聞社 2012年刊)の著書もある。

 「プレーボール」と高らかに宣言して始まった講演は、大変興味深かった。北海道大学文学部国文科を卒業して、日刊スポーツ新聞社に就職した。大学では野球部で投手をしていたが、ケガで4年生のシーズンを棒に振ったという。プロ野球の審判という職業を知って、2年余で新聞社を退社。なんとかパ・リーグと審判契約を結んだ。年俸は160万円だった。

 ことしから始まったリクエスト制度。今シーズン計858試合で、リクエストの要求でビデオ判定したのが494回。その結果、判定が覆ったのは162回、32.8%だった。

 一番の問題は、審判のジャッジが「仮判定」になってしまったことだ。野球規則には、打球がフェアかファウルか、投球がストライクかボールか、走者がアウトかセーフかの裁定は「審判員の判断に基づく裁定は最終のものである」と決められていた。従ってプレーヤーや監督も「その裁定に対して、異議を唱えることは許されない」とあった。

 リクエスト制度に痛烈な批判をして、予定の50分の最後に「退場!」と叫んで、講演を終えた。

 パネルディスカッションでは、東京プロ野球記者OBクラブ会長の菅谷齋さん(共同通信編集委員)が「長嶋ボール」「王ボール」「稲尾ストライク」があったことを証言。ビデオ判定・AI(人口頭脳)が将来「審判は不要なプロ野球」への道を進んでいる、と断言した。

 野球文化學會の鈴村祐輔会長(法政大学客員学術研究員)は、米大リーグのビデオ判定、チャレンジ制度について現状を話したが、2018年シーズン、チャレンジは1442件あって、そのうち判定が覆ったのは698件、48.4%だったこと、審判が判定を誤る割合は全体の14.4%とも明らかにされた。

 鈴村さんは、最後に「最新のIT技術を活用し、審判の判定を補正することも重要である」とまとめた。

 フロアーからトップバッターで発言したのが、この学会生みの親の諸岡達一さん(82歳)。元毎日新聞整理本部のカリスマ、レジェンドであることはご存知ですよね。

 マイク不要のでかい声で曰く「野球の審判の判断がゼッタイであって、ビデオ判定導入には断固反対です。審判が<アウト>と言えば、どんな場面であっても<アウト>なのです。たとへ誤審があったとしても誤審こそ“野球のうち”なのです。ルールブックにない試合中の全ての出来事に対して審判は絶対的権能を持っています。原本は<Each umpire has authority……>。リクエストだかチャレンジだか知りませんがあんな馬鹿げたことで試合が中断するなんぞはもってのほか、審判の権威が損なわれ、堕落のはじまりです!」。

 野球のドラマは、誤審とともにあったともいえる。「オレがルールブックだ」は二出川延明主審。「あー円城寺 あれがボールか 秋の空」といったザレ歌も生まれた。リクエストが当たり前になって、今シーズン「退場!」はたった3人。それも選手ばかりで、監督は1人もいなかった。

 監督の抗議と「退場!」と叫ぶ主審。あのドラマは、もう見られない。

 いつまでも野球を愛し、元気いっぱいの諸さんであった。

(堤  哲)

2018年9月18日

「銀座一丁目新聞」牧内節男さん

 8月31日に93歳の誕生日を迎えた牧内節男さん。

 17日の敬老の日にブログでこう発信した。

   100歳以上の人6万9785人。
   うち男性8331人、女性6万1454人。
   女性の方がはるかに長生きだ。
   「生涯ジャーナリスト」を目指す私はまだ93歳。あと7年もある。
   一応目標にして健康に注意していこう。

 陸士59期。卒業寸前、敗戦で全てがご破算になった。食うために昭和21年1月から新聞記者の道に入った(1年半地方記者、あとは全国紙)――。(東京本社編集局長・常務取締役西部本社代表・スポニチ社長などを務めた。)

 9月20日の銀座一丁目新聞には、新聞記者生活を振り返って、以下のように書いている。

 愛知県岡崎の地方紙時代、逮捕前の殺人容疑者と単独インタービューする貴重な経験をした(昭和22年夏)。当時つけられたあだ名は「青柿君」。文章のカタさからつけられたもの。

 白山丸でモンテルパノ戦犯たちが帰国した取材では横浜港外に停泊した白山丸に舷首に備えられた取っ手を伝って軽業師のように乗船する苦労をした(昭和28年7月)。帰国者の中に「モンテンルパの夜は更けて」を作曲した57期の伊藤正康さんがいた。

 台風で孤立した村へ濁流をくぐって渡る取材もした(昭和29年秋)。

 「退く戦術 われ知らず 見よや歩兵の操典を」(歩兵の歌)。ともかく突っ走った。その苦労は本科時代一週間連続での夜間演習に比べれば大したものではなかった。

 警視庁記者クラブ在籍時代。「麻雀」「花札」「競馬」「碁」などを覚えた。何人かのキャリアの課長(その後警察庁長官や宮内庁をやった人たちである)と雑談するうち読書の大切さを教えられた。時の警視庁総監からは「人毛嫌いしすぎる、人の短所をみす、長所を見てつきあいなさい」と忠告された。

 上司にも恵まれた。連載企画を任され企画立案のノウハウを自然と覚えた。この部長は当時「伍長」というあだ名があった。

 新聞記者は事件に育てられるといわれる。戦後の多くの事件を手がけた。下山事件、造船疑獄、日通事件、田中章治事件、ロッキード事件などである。

 戦術では「決心攻撃、矢(攻撃の重点)は左」と教わった。どこに取材の重点を置くかを考えた。『作戦要務令』が役にたった。「軍の主とする所は戦闘なり。故に百事皆戦闘を基準とすべし」だから「寝食を忘れ家庭を顧みず」働いた。電通の「鬼の10則」を拳々服膺する所以である。

 何が働き改革だといいたくなる。「凡そ兵戦の事たる独断を要することすこぶる多し而して独断はその精神において決して服従と相反するものに非ず」おかげでデスク、部長時代についたあだ名が「独断と偏見」「ドクヘン」であった。

 昭和43年メキシコ五輪の際。社会部から誰を出すかという時、社会部長に呼ばれた。「君は独断と偏見の持ち主で協調性がない。これではメキシコへ支局長として出すのをためらう」という。

 私は言った。「それは大変な誤解です。私をメキシコに出したら名支局長になって見せます」。部長の決断でメキシコ五輪を取材した。良い経験をした。

 ロッキード事件では論説委員から50歳で社会部長になった。それまで50歳を過ぎて社会部長になった人は1人しかいなかった。それだけ激職ということだ。同期入社の編集局長の要請であった。その後の私の人生を激変させたが親友の願いに応えた。

 ロ事件では「作戦要務令」に従って取材人員の配置を取材対象ごとに柔軟にした。記事も「コラム」「企画連載」も取材も効率的に進めることができた。私は常に「作戦要務令」が言う「為さざると遅疑するとは指揮官の最も戒むべきところとする是此の両者の軍隊を危殆に陥らしむることその方法を誤るよりも更にはなはだしきものあればなり」を念頭に置いていた。

 当時「毎日新聞を見ればロッキード事件のことがよくわかる」と言われたのを誇りとする。

 全国紙からスポーツ紙に移ってから文化事業に力を入れた。

 定年後もネットで新聞を出している。

 一貫して心の底流にあるのは「義を取り名節を貴び廉恥を重んず」という士官候補生の矜持であるように思う。これは2年8ヶ月の士官学校生活で身に付いたものであろう。

 戦後、阿南惟幾大将(敗戦時陸軍大臣で自決された)が「勇怯の差は小なれど責任感の差は大なり」を座右の銘としていたことを知って仕事する上での責任感について考えさせられた。

 男は常に責任を問われる。与えられた仕事は責任を持ってやることだと気が付いた時、死が怖くなくなった。その意味では戦後忌避されている陸海軍の将帥の伝記は後世に伝えるべきものであると痛感する。

銀座一丁目新聞
http://ginnews.whoselab.com/180920/safe.htm

(堤  哲)

2018年8月10日

前和歌山市長、大橋建一さん(72歳)

 これは「大橋建一ブログ」の表紙である。本人と、選挙には欠かせない夫人の似顔絵か。

 東大文学部を卒業して1971年毎日新聞に入社。整理本部に長く、2002年、56歳で和歌山市長に就任。3期12年務めた。

 お父さんが元和歌山県知事。その関係で市長選に担ぎ出されたのだろうが、とにかく真面目で、政治家とは縁遠いタイプに見えた。

 何かの折、市長室を訪ねたことがあった。阪神タイガースのグッズに埋まっていた?という印象が残っている。

 市長時代からブログで情報発信していたが、「根っからの歌好き」。自著『百歌自典』(2012年アガサス刊)は、105曲もの歌を時代背景やエピソードを紹介したエッセイ集。

 最近の生活について《暇な日々でカラオケに月1〜2回、市内の「うたごえ喫茶」に月1回、週2回「元気開発研究所」と称する年寄り向けジムのような所で1時間ほど体を動かすのが健康法》だとか。

 8月3日のブログは「狙いうち」。

 ――高校野球、夏の甲子園が間もなく始まる。今年は記念すべき100回大会ということで、主催の朝日新聞社は例年以上に盛り上がっている。その一方で、外国のメディアには「こんな酷暑に、甲子園のようなカンカン照りの球場で高校生に野球をやらせるとは信じられない。虐待のようなものだ」と非難する声もあり、時期や甲子園開催についてネット上で論争が起きている。しかし、朝日新聞や朝日放送は何が何でも「灼熱の甲子園大会」を守ろうと必死でキャンペーンしているように見えて痛々しい。そう感じるのは私だけか。

 ブログには自身の略歴も載っていて、【趣味】スポーツ観戦、音楽(なんでも)鑑賞、読書(ミステリー)、パソコン、雑文書き、温泉めぐり、とあって、そのあと【名前の由来】。

《終戦直後の昭和21年6月22日、焼け野原となった日本に生を受けた私に、父が日本復興の願いを込めて「大きな橋を一番に建てる」という意味でつけた名前です。だから「建」には「にんべん」がついていないのです》

(堤  哲)

                                 

2018年7月18日

元毎日新聞記者の歌人松村由利子さん

 何気なくテレビをカチャカチャやっていたら、毎日新聞で一緒に仕事をした女性が現れた。歌人の松村由利子さんである。石垣島に住んでいて、原発難民?だった歌人の俵万智さんを引き寄せたといわれる。

 NHK短歌(Eテレ毎週日曜午前6時放送、 再放送・毎週火曜午後3時)の選者である。

 番組のHPで選者を紹介している。

 松村由利子(まつむら ゆりこ)1960年福岡市生まれ。「かりん」同人。馬場あき子に師事。歌集に『大女伝説』(第7回葛原妙子賞)『耳ふたひら』など。著書に『与謝野晶子』(第5回平塚らいてう賞)『31文字のなかの科学』(科学ジャーナリスト賞2010)『短歌を詠む科学者たち』など。全国紙の記者として働いた後フリーに。

 選者の抱負――。

 【晶子の多才ぶりを伝えます】

 与謝野晶子は、実に多才な歌人でした。女性が経済的に自立する大切さを説くなど、さまざまな社会評論をものにし、子どもたちのために数々の童話も書きました。でも、デビュー作である『みだれ髪』の情熱的な恋の歌しか知らない人も多いのではないでしょうか。ワーキングマザーの先駆けだった晶子の生き生きとしたまなざしを、彼女の歌と文章から紹介してゆこうと考えています。

 私自身、折々に彼女の言葉に勇気づけられ、隣にいる大先輩「晶子さん」のような親しみを感じてきました。皆さんにもその魅力が伝わりますように。

 番組でも晶子の作品をクイズ風に紹介した。
 〇〇〇〇には何が入ると思いますか。
 ゲストの言語学者金田一秀穂さん(金田一京助の孫)は「うつくし」、司会の有森也実さんは「酔いどれ」。
 正解は「かわゆし」だった。

 番組の冒頭で紹介された彼女の短歌は――。
  フェミニズムは
  もう終わりだと
  友は笑み
  天然酵母ビール
  飲み干す

            松村由利子

(堤  哲)

元運動部・スポーツ事業部長、江成康明さん

画像
憩いの宿「夢見る森」HPから

 長野県白馬村でペンションを経営する傍ら松本大学非常勤講師もつとめている江成康明さんから、「若者のためのエナジー通信」第27号(2018年5月20日) が届いた。

♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜

 きょう、68歳の誕生日を無事に迎えることができた。
 体のどこにも異常なく、ここまで何事もなく生きてこられたのは、両親が健康に生んでくれたから、と改めて感謝した。盲腸以外に入院したことはないし、病院通いも全くない。ちょっと血圧が高いぐらいで、体調不良で生活に支障があったこともない。何より、骨太に生んでくれたことがうれしい。いろいろなスポーツをしてきたが、骨折は一度もなく、腰痛もなかった。何と幸せなのか。仏壇に線香をあげ、ひとり手を合わせた。
 そして、楽しい人生の糧となっている家族と孫のありがたさ、なんでも言い合えた仕事仲間、道で会って笑いながら会話ができる地元の人たち、祖父のような年齢の私の話を真剣に聞いてくれる学生たち…。付き合いのあったひとたちみんなに「ありがとう」と心で言った。
 (略)
 自由気ままに生きている、とわが身を思う反面、最近相次いだ訃報に「人間は生かされている」ことを実感した。時代の象徴だったアイドル歌手の西城秀樹さんが亡くなり、若大将シリーズで女性のしとやかさと華やかさを教えてくれた星百合子さんも他界した。頭には、ほとばしる汗も気にせず全身で歌っていた西城さん、素敵なお姉さんとそっと恋心を抱いたこともある星さんの姿しか残っていないのに、ともにそれなりの年になり、寿命に屈した。「生かされている」生命は必然的に終焉を迎え、私の中の「昭和」もひとつずつ消えていく。
 身近な人の死はさらに空しい。若いころの憧れであり、多くのことを教えてくれた会社の先輩が2人、続くようにあの世へ旅立った。
 学生時代に毎日新聞社の政治部で原稿取りのアルバイトしていた時、2人は同じころ支局から政治部へ上がってきた。橋本達明さんと岸井成格さん。私より5歳ほど年長で、新聞記者を目指していた私にとってはまさに生きた教科書だった。ベテラン記者が多い中で、ともに若さをそのまま押し出すような歯に衣着せぬ発言と行動力があった。
 とくに沖縄返還密約事件に端を発した西山事件のころは、毎晩のように社へ上がってきて、紙面の内容に対して上司にかみついていた。「この見出しはおかしい」「社としてどう考えているんだ!」。その声は編集局中に響き渡った。活気があった。新聞記者への憧れはさらに増した。
 2人は仲が良く、酒も好きだった。アルバイトごときの私を「飲みに行こう」と誘ってくれた。まだ付き合い始めたばかりの私の妻も一緒だった。酒が苦手な私をこのころからかわいがってくれた。
 私が記者になってからも、橋本さんはいつも気にかけてくれ、相談に乗ってくれた。岸井さんは廊下ですれ違うたびに声をかけてくれた。社の幹部になっても、出来の悪い後輩への接し方は全く変わらなかった。
 橋本さんが4月14日に胆管がんで亡くなった、と紙面で知った。体調が良くないとは聞いていたが、こんなに早く、とショックを受けた。会いに行けなかったことを後悔した。奥様に手紙を送り、私の中ではまだ生きている橋本さん宛の「礼状」もしたためた。
 それから1か月後の5月15日、岸井さんの訃報をテレビで知った。がんとの闘病で入院している時、「タツ(橋本さん)はどうしてる」と夫人に聞いたという。弱っていた岸井さんに、橋本さんの死を告げられなかった、と夫人は橋本さんの奥様に語ったそうだ。
 同じころ入社し、同じように政治部記者として活躍し、同じように社の屋台骨になり、同じ時期に天国行の列車に乗った2人に、「どこまで仲がいいんだ!」と胸の中で叫んだ。横で、妻も涙ぐんでいた。
(略)
 政界には相変わらずウソがはびこり、大学アメフト界でもとんでもないことが起きた。日本人の根底にあったフェアプレー精神と潔さはどこへ行ってしまったのだろう。
 いつも今の政治や社会を憂いていた橋本さんと岸井さんに話を聞いてみたい。何というのだろうか。

 江成さんは、運動部デスク、長野支局長から事業本部スポーツ事業部長をつとめた。退職して白馬のペンション「夢見る森」オーナーだ。

(堤 哲)

元点字毎日編集長・銭本三千年氏(87歳)

画像
お孫さんが描いた錢本さん(2008年8月)

 「点字毎日」が日本記者クラブ賞の特別賞を受賞するニュースを聞いて、その関連を調べているうちに「点毎」編集長を15年つとめた、というブログに出くわした。

 銭本三千年氏。インターネット上に公開されている自己紹介は――。1954(昭和29)年同志社大学法学部政治学科を卒業して毎日新聞入社。1971(昭和46)年2月「点毎」編集長に就任。31年勤めた毎日新聞社を定年後、大阪千里ニュータウンから岡山・吉備高原都市へ転居した。

 高梁市の短大に介護福祉士養成の保健福祉専攻コースを創設し、保健科保健福祉専攻主任教授に就任。新聞記者在職中も大阪市立大学で非常勤講師をつとめ、大学・短大での教職歴は通算25年という。

https://zenmz.exblog.jp/13441950/

 ブログでの発信は、岡山県に転居してすぐ始めたようで、2002 年(平成14 年)4月6日の「古希残照の日々」に、「吉備高原で古希老人が明日に託する想い/あなたと分かちあいたい残照人生の余録」とある。

 昨年8月2日の【吉備野庵】。「先月、87歳の誕生日を迎えたのを機に私のブログに日英両語で日記をつけることにしました」

 同8月23日。「高齢者の健康維持に最も理想的な修練はウオーキングです。私は起床と同時に庭に出て、日の出の太陽に向かって大きく数回、深呼吸をします。それからウオーキング開始。約30分間、速足で歩きます。2003年定年以降、もう14年間も日課として続けてきました」

★ Walking is the most ideal practice to stay healthy for the elderly people. As soon as I get up, I go out and breathe deeply several times towards sunrise. Then get it started to walk at fast pace for half an hour. It has been my daily routine for 14 years since I retired in 2003.

 こんな具合である。「点毎」関連では、点字新聞の発行を促した好本督(1973年没95歳)、初代編集長中村京太郎(1964年没85歳)両氏にも直接会って、話を聞いている。

 1955(昭和30)年、3度目の来日をしたヘレン・ケラー女史(68年没87歳)は、点毎を視察した。入社2年目の銭本が取材をした。

 「点字は盲人を暗黒から解放しました。日本の盲人は”点字毎日”で自らの言論を得ました」

 女史が、「点毎」の意義をこう述べた、とブログに綴っている。

 7月19日に88歳の誕生日を迎える。米寿である。

(堤 哲)

80歳の現役事件記者は、毎日新聞OB

画像

 この顔を知っている人も少なくないと思います。
 中京テレビ三重支局の服部良輝さん。三重県警本部を担当する現役記者で、5月末で引退するという記事が地元「伊勢新聞」などに報じられた。

 各紙の記事を総合すると、服部さんは、津市香良洲町出身。農家の四男坊で、地元の定時制高校を卒業して、21歳の時に、毎日新聞津支局の運転手になった。「特勤」である。
 クルマの運転だけが仕事ではない。出先のクラブや通信部から電話で入る原稿を受ける。IT時代では考えられないことだが、原稿はざら紙に鉛筆で書いた。
 写真の現像も任される。その前に、現像液や定着液をつくらなければならない。これは事務補助員の仕事になっていたが、「特勤」さんもよくやらされていた。
 出先から送られるフィルムを現像→焼き付けして写真ができると、次は電送にかける仕事が待っている。
 そのうちデスクから「スケッチ写真でも撮ってきてよ」などと写真撮影を頼まれる。
 事件・事故の現場には、記者と一緒に出掛けて、報道合戦の仲間入りする。
 入社直後に、死者・行方不明5千人余を出した伊勢湾台風に見舞われた。1961(昭和36)年の名張毒ブドウ酒事件では、現場の聞き込み取材に動員された。
 39歳の時、鈴鹿支局へ異動。記者職に転身した。1993(平成5)年に毎日新聞を定年退職。その後、中京テレビに再就職。三重県警本部の記者クラブに常駐して24年になる。県警本部の有名人であえる。56歳から詰めているから、現在80歳の事件記者である。

 各紙の見出しは――。
 「書かなあかん」 80歳記者、孫世代とスクープ合戦(朝日新聞)
 80歳の現役記者「事件から逃げたらあかん」若手にエール(産経新聞)
 スクープ追い続け50年 津出身の80歳記者、服部さん引退へ(伊勢新聞)
 むろん中京テレビの番組でも報道された。

 記事にはこんなことも書かれている。
 「けがは? 現場は信号あるん?」。交通事故について警察署に電話取材する力強い声が記者クラブに響く。周囲の記者がパソコンを使う中、取材が済むと愛用の軟らかい3Bの鉛筆で原稿用紙に記事を書き、ファクスで送信した。

 服部さん、お元気で。毎友会も応援しています。

(堤 哲)

曽孫が5人、月刊誌に連載を持つ88歳、碓井彊さん

画像
碓井 彊さん

 藤原新一郎さん(2月13日逝去、92歳)の追悼録をお願いした碓井彊(つとむ)さん(88歳)と日本記者クラブで会い、天野勝文さん(元筑波大教授)と3人で懇談した。

 「1年先輩(昭和26年入社)によくしてもらいました。藤原さんをはじめ、上田健一さん(2016年没89歳)、小野満さん(1996年没 66歳)、岩間一郎さん(1987年没63歳)、石塚俊二郎さん(2002年没74歳)ら皆亡くなられて、健在は藤岡周三さんくらい」

 懐かしい名前が次々に飛び出してくる。

 碓井さんは、早大政経学部経済学科卒、1952(昭和27年)入社。西部本社編集局→福岡総局→京都支局→大阪本社経済部→東京本社内信部→エコノミスト編集部。デスクから別冊編集長をつとめ、定年まで18年、エコノミスト誌とともにあった。

 日本記者クラブ会報2008年4月号に「編集者のみた戦後エコノミスト」を書いているが、経済白書の歴代執筆者と親しくお付き合いしていたことが分かる。

 大来佐武郎。何でも頼みを聞いてくれる「ホイキタさん」。「動」の金森久雄、「静」の宮崎勇。「景気探偵」赤羽隆夫はマンガ経済学をエコノミスト誌に発表した。

 経済学者を大学に訪ねている時に、慶応大商学部の入試問題漏洩事件の情報をキャッチ、社会部に通報して、社会面のトップを飾る特ダネとなった。「これは雑誌編集上の付録である」と記している。

 1984(昭和59)年の定年退職後は、桜美林大、創価大の講師、高崎商科短大教授。2001(平成13)年に4年制の大学にして、学長に就任した。

 日本エッセイスト・クラブ監事。日本船長協会の月報「Captain」に2006年から、その時々の話題を書き続け、現在もなお執筆している。

 「川崎市の地元図書館と、日比谷図書館は常連」といいながら、日本記者クラブでも参考文献のコピーに余念がなかった。

 奥さまに先立たれたが、親しい友人の紹介で再婚。「原稿を書くことはボケ防止にもなります。元気の秘訣ですね。曽孫が5人になりました」と目を細めた。

画像
1977年5月25日付毎日新聞社会面

(堤 哲)

東日印刷旧友会の新年会

画像
東日印刷旧友会の記念撮影
最前列右から秋野健、萩原康則、取違孝明、前田和彦旧友会会長、高梨一夫、武田芳明、木村栄作、平田睦夫旧友会前会長、福沢里次元旧友会会長、伊藤義一元東日役員
毎日OBは敬称を略しました。

 恒例の東日印刷の新年会が1月26日午後4時から、越中島の本社ビル5階大会議室で開かれた。

 昨年社長に就任した武田芳明氏が元気に新年の挨拶をして、懇親会がスタートしたが、毎日新聞出身で最高齢は、昨年米寿を迎えた萩原康則さん。「小池クン(唯夫元毎日新聞社長、昨年11月30日逝去、85歳)のお別れ会は2月20日だったよね」

 ロッキード事件が起きた1976(昭和51)年、萩原さんは夕刊編集長で、小池さんは政治部のデスクだった。ちなみに社会部長が牧内節男元スポニチ社長。

 萩原さんが東日印刷の監査役になったのが、1985(昭和50)年である。和田凖一社長時代だった。ともかく元気で、記憶力もバツグンだ。

 ついで岩崎鴻一さん(81歳)。少し下がって78歳が4人。千葉伸郎さん、赤松徳禎さん、岩田健一さん、坂戸悦偉さん。77歳が吉沢孝さん、秋野健さん、大野裕朗さん。76歳が元社長の木村栄作さん、川浪猛さん、それに私(堤)。

 73歳が星輝雄さん、72歳で取違孝昭元社長、松上文彦さん。イヌ年で年男の松崎仁紀さんはまだ71歳、若者の部類である。

 現会長高梨一夫さんは、69歳。先輩たちに「ことしもよろしく!」を繰り返していた。

 欠席者のはがきが貼り出されていた。毎友会HPにも原稿を寄せている元取締役の河合喜久男さんは、大正10年生まれ。ことし5月10日に97歳の誕生日を迎える。取締役就任が1977(昭和52)年2月である。

 もうひとり牧内節男さん。ことし8月31日に93歳になるが、そのはがきにあった近況報告。「ネットの新聞『銀座1丁目新聞』を開設して、今年で21年目に入りました。月に12本の原稿を書いております。書くことは生きることと思い、あと10年つづける所存です」

 100歳を超えて、なお書き続ける。威勢のよい宣言に、勇気と元気をもらった気がする。

(堤 哲)

森桂氏主宰の東京港区地域限定月刊紙が100号に

画像

 退社後に長期滞在のハンガリーから帰国して移り住んだ東京都心高輪で、森桂氏が発行した地域限定月刊紙「共和会だより」が、創刊8年目の昨年12月、100号に達した。森氏が居住する町は旧東海道の元品川宿と江戸入口「高輪大木戸」址間に位置、町内には高輪公園、幕末は大英帝国最初の公使館で臨済宗の名刹東禅寺。近くには泉岳寺。閑静な佇まいの中の史跡レポート目立ったが、最近、付近が東京大改革の目玉に浮上、急に慌ただしくなった「街づくり」が一段と紙価を高めている。(写真は森氏)

画像

 森さんが高輪にぶらり現れたのは10年ほど前だった。以前、品川付近に住み、土地勘がある高輪の大学同窓生を訪ねて相談するうちに、そこの町が気に入った。私(平野裕)が町会長。付近にはK大出身者も多く住むなど、もともと人付き合いがいい彼には打って付けの場所柄だったらしい。

 間もなく、私が会長職を譲ったのが彼のK大同窓で、森さんは副会長になりカメラ片手に大活躍、町内の人気者。広報担当を勤める私は言わば配達係り。いま、町内ではマンション建築問題で六年越しの建設会社との紛争を抱えるだけでなく、町内に都心環状4号線が乗り入れる都の大工事が本格化、域内の戸建住宅が立ち退きを迫られる事態になっている。

(写真 左は09年6月発行の創刊号。オールコック英公使の着任150年記念講演会特集。下は100号、左が一面、右が裏面。一面では前述のマンション建設批判記事。裏面で創刊100号の弁)

画像
    

(平野 裕)

明けましておめでとうございます。長沼芳夫

画像

 皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

 この絵は昨年5月、房総白浜海岸への都展撮影会で 描いた水彩50号です。

       

2018年元旦

 今年90歳。大分、体力的に絵もしんどくなりつつあります。

(元英文毎日。退職後コカ・コーラ。都展評議員。90歳)

(平野 裕)

88歳のジャーナリスト・野村勝美

 正月にネットを検索していて、社会部の先輩の文章を見つけた。

 〈明けましておめでとうございます。と書きながら何がおめでとうだという気分が、来年には90歳になる老生にはある。もう5、6年、もっとになるか年賀状は出さないし、正月料理も食べない。お雑煮は入歯がはずれ、のどに詰まるおそれがあるので小さな餅を一コか二コ用心しながら口にする〉

 野村勝美さん(88歳)である。「サンデー毎日」デスクから「毎日ライフ」編集長。繰上定年後、おもちゃ店経営とプロフィールにあった。ニッパチ(昭和28)入社。「司法記者として初陣の造船疑獄取材に頭角を現す。多角的な視野に立つ記事で多くの読者の感動を呼び起こした」とも。

 毎友会には必ず顔を見せる律義な先輩である。

 引用したのは、ことし1月1日付けの「浜田山通信」No208。見出しは「♯Me Too」。

 〈ことしはまちがいなく女性ファーストの年になると確信する。去年アメリカやヨーロッパで始まった♯Me Too運動はアジアでも、日本でも起こるはずだ。日本でジャーナリストの伊藤詩織さんが立上った〉

 〈私の一番信頼する評論家斎藤美奈子さんによると、昨年のアメリカでもっとも検索件数が多かったのは「フェミニズム」だったそうだ。トランプに対する「ウイメンズ・マーチ」などもフェミニズムがアメリカの昨年の言葉になった原因だ〉

 そして最後は〈日本の男女平等度は世界で百十四番目。…女も男もみんなフェミニストになろう〉と結んでいる。

 野村さん自身は、大変なフェミニストである。同僚女性記者の増田れい子さん(2012年没、83歳)や、「広島第2県女2年西組 原爆で死んだ級友たち」の関千枝子さんらと親交があった。

 いつまでもお元気で、健筆を期待したい。

(堤 哲)

『やすらぎの郷』と『返さなくてよい奨学金』

 テレビドラマ「やすらぎの郷」が評判になっているが、毎日新聞OBの大久保貞義さん(82歳)は、介護付有料老人ホーム「ロイヤルハウス石岡」(茨城県石岡市)と「ロイヤル川口」(埼玉県川口市)を経営する。

 東大を卒業して1959(昭和34)年に毎日新聞に入社、政治部記者となったが、その時の政治部長・小林幸三郎さん(元RKB毎日会長、2014年7月没102歳)は、ここで最期を迎えた。現在は論説OBがお世話になっている。

 大久保さんは、在社中に米スタンフォード大学、プリンストン大学に留学、さらに米議会の奨学生として留学して議員の政策担当秘書を経験したという。

 1967(昭和42)年、30歳で退社して、東海大学広報科助教授。72(昭和47)年に独協大に移り、70歳定年まで教授を務めた(行動科学論、マーケティング論)。指導したゼミの学生は34年間で500人にのぼる。

 記者から大学教授へ。政治部の先輩・諏訪正人さん(2015年没84歳)は「ジャーナリズムとアカデミズムの幸運な握手」と、大久保さんを称えた。

 「ロイヤルハウス石岡」の完成は、1988(昭和63)年。米留学中に見た老人ホームは、日本の「養老院」とは全く違っていた。高齢者が優雅に暮らせる老人ホームは、大久保さんの夢の実現であった。テレビドラマの「やすらぎの郷」に似ている。

 入る際には相応のお金が必要だが、あとは悠々とした生活が楽しめるし、終身介護も受けられるのである。

 もうひとつ、大久保さんは、自身の米留学が返却しないでよいアメリカの奨学金を受けたことから、一般社団法人「ロイヤル福祉助成法人」をつくり、2016(平成28)年から返さなくてよい、もらいっぱなしの奨学制度を創設、とりあえず大学生5人に計400万円、ことしは7人に計500万円を寄付している。若者の将来に期待してのことだ。

 目指すは日本一の老人ホームと、大久保さんは夢を語っている。

画像
大久保貞義さん

(堤 哲)

野球雑誌に記事を書いています! 元サンデー毎日編集長の鳥井守幸さん(85歳)

画像
「鉄道と野球」の旅路」  本の表紙

元サンデー毎日編集長の鳥井守幸さん(85歳)が久ぶりに野球の記事を書いた。現在発売中の「野球雲」08号(1200円+税、啓文社書房)で「最強門鉄と九州の野球」。炭鉱の町大牟田出身で、九州の野球に思い入れが深い。

 都市対抗野球で黒獅子旗した門司鉄道管理局(現JR九州)、八幡製鉄(現新日鉄住金)、西日本鉄道、別府星野組の4チームをはじめ、日鉄二瀬、志免鉱業所、植良組などの球団と選手たちを紹介している。小鶴誠、木塚忠助、武末悉昌、濃人渉、古葉竹織(毅)、権藤博……。毎日新聞OBの末吉俊信投手(故人)は早稲田大学に入る前に八幡製鉄にいた。

画像
鳥井守幸さん(左)と豊田泰光さん(故人)
(2003年4月撮影)

 股関節を痛めて杖をついているが元気だ。写真は「野球文化學會」のパーティーで豊田泰光さん(故人)とだが、福岡ダイエーホークスのスパイ事件(1998年)では、パリーグ特別調査委員を務めた。野球グッズのコレクターでもあり、著書に『野球ふしぎ発見』(毎日新聞社)。

 本が発売された日に、社会部OBの天野勝文、加納嘉昭、沢畠毅氏らが東上線若葉駅近くの回転寿司に集まってお祝いをした。車イスで現れた鳥井さん。「イエスの方舟事件はねぇ」などと昔話の独演会。いつ起きたのか必ず年号を口にしたので記憶は確かだ。いつまでも現役ジャーナリストでいて欲しい。

(堤 哲)

「音楽は平和を運ぶ」と訴える被爆者松尾康二さん

画像

昭和21年2月、広島の「未完成」

 シューベルトの名曲が聴こえるように楽譜を添えて、「それは生き残った人々に、共感と勇気を与えました」。

 こんなユニークな全面広告が2月16日の毎日新聞をはじめ、朝日、読売、日経と地元中国新聞の5紙に掲載された。

 広告主は、特定非営利活動法人「音楽は平和を運ぶ」。

 エッ、社会部OBで、カルビー元会長の松尾康二さん(79歳)が理事長をつとめるNPO法人じゃないか!

 昨年5月、オバマ米大統領が広島入りした日に合わせて、中国新聞に全面広告を出した。

画像
President Obama, Eradicate All War 
   オバマさん 戦争を廃絶してください

 そして今回――。《原爆投下の半年後、1946年2月、爆心地から4㌔離れた高校の講堂で、シューベルトの「未完成交響曲」の演奏会がありました。これはほとんど死に絶えた広島の人たちの心情から始まり、しかし苦難の中でようやく立ち上がろうとする人々の悲痛なうめきに近い気持、ここまでは短調で表現されていますが、ようやく復興が始まったところから長調、短調が交互に現れ苦難を乗り越えていく広島の人々の心をよく表現されています》

 この演奏会が広島の人たちをどれほど勇気づけたか。「広島の復興はクラシック音楽と共にあった」と広告の中見出しでうたっている。

 松尾さん自身被爆者である。《8歳の時、1・6キロ地点で被爆し、木造建築の下敷きになり…大人たちに助けられ焼死をまぬかれました。近い親戚3家族18人のうち合計10人が直接、間接に被爆死したことになります》

 そして《私の家族5人は全員無事だったので「奇跡」といわれました》。

 父親は焼け野原にいちはやく木造建築の食品工場をつくり、松尾少年も一緒に働いていた。(株)カルビーの始まりである。

 旧制広島高等師範付属中学校(現広島大学付属中・高等学校)の講堂で、かつて同中学の音楽教師だった竹内尚一氏(故人)が指揮して開かれた演奏会。国民学校2年生の松尾少年も聴衆のひとりだった。

 全面広告の反響は大きかった。指揮者の次男(69歳)が電話をしてきた。「私も聴いた」と当時旧制高校の学生(90歳)らからも。演奏会の模様が鮮明になりつつある。

 松尾さんがNPO「音楽は平和を運ぶ」を立ち上げたのは、2014(平成26)年8月。以来、指揮者の大野和士さんを迎えるなど広島市内でクラシックコンサートを開いている。

 ホームページ(http://music-peace.jp/#)では、この全面広告をクリックすると、シューベルトの「未完成」交響曲が流れるのだ。

 この活動ことは松尾さん自身が、毎日新聞の同人誌「ゆうLUCKペン」39集(2017年2月26日刊行)に綴っている。

 「ゆうLUCKペン」39集は、頒価@1千円+送料180円。申し込みは「ゆうLUCKペン」刊行委員会(〒171-0044 豊島区千早1-34-9 千早町ガーデンハウス303 中谷範行気付 TEL080-1027-9340)へ。

ヴェネチア大運河 長沼芳夫(元英文毎日編集部)

画像
「ヴェネチア大運河」長沼芳夫画

 明けましておめでとうございます。

 この絵は昨年(2016)、第52回都展で「寿賞」を頂いた水彩50号「ヴェネチア大運河」です。又絵で賞をもらいました。

 今年も皆さまのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

毎友会運営委員会・運営委員の言葉

平野 裕

 毎友会の現会員は皆、もう40年前になる未曾有の経営危機時代を経験した仲間です。このサイトは「毎日ジャーナリズム」とは何かを読み取って頂きたいと思い開設しました。真実の追及、使命感、ヒューマニズム、知識欲、友情、献身などその核心は数々の文章に滲みでています。私はソ連末期のモスクワで働き、生命を燃焼させ、生後6か月の息子を失う経験をしました。それも一つのエピソード。サイトへの寄稿をお待ちしています。

石井國範

 元気で健康な生活を送っている要因は2つあります。第一は人とのコミュニケーションを大切にすること。第二は愛犬との散歩です。

 在社時、各業界の方々との交友のおかげで、現在でも付き合いを継続し、社に役立つ情報を収集、また年齢的なこともあり、医療や社会保障問題に限らず日常の出来事等にも関心を持ってお互いに話し合っていることが精神的に良い結果を生み出しているように思います。

 犬(シベリアンハスキー・生後3年)とは、日々1万5千歩、歩くことを目標とし毎朝午前5時、夕方は日暮れ前トータル約2時間散歩します。

 四季折々の花々を眺め、いろいろな鳥の鳴き声を聞きながら散策すると気分爽快で最高です。今後も身体の続く限り実行していくことで元気もりもり、気力、精神力が充実した証になると確信しています。

教養と教育を活かして 岩崎鴻一(1959年定年)

 参院選から18歳以上に選挙権が与えられたが、18の逆さまは81歳。「まだ何も知らないが18歳。もう何も覚えていないが81歳」とか。

 あと1年で81になる運命、培った教養と教育を活かして頑張ってます。「きょう用がある、きょう行く所がある」。5月に発売された週間ダイヤモンド「日本を動かす慶応三田会」は、増刷するほど売れたとか。世界に860以上もあるOB組織の三田会、その二つの会長、毎友会の運営委員など。すべて無給ですが、教養と教育が元気の源です。

絵を描いています 上谷川 勉

画像

 絵は、小学校の低学年のとき、正月の飾り餅を描いて先生に出したら教室に掲示されました。この時の喜びの感動から絵を描くのが好きになり、四季折々の景色や草花を描き続けて今に至っています。

 自然のありがたさを味わいつつ老後の余暇にこれからも絵を描き続けて行こうと思っています。

 右の写真は、奥飛騨平湯大滝にて(平成25年8月描く)

男の料理教室 今野当夫(元制作部)

画像

 板橋区の「男の料理教室」に参加して11年になります。女性の先生指導のもと、毎月1回2時間30分の講習です。1回2時間30分の講習です。料理内容は和洋中と幅広く、12月にはクリスマスケーキを作ります。

 会員20名が5テーブルに分かれて、レシピをもとに下ごしらえから取り掛かりますが、調味料の量を間違えたり、食材の切り方を間違えたり、鍋の入れ間違えなどで中高年の教室はワイワイガヤガヤと一気に賑やかになります。出来上がった料理はその場で食べますが、各テーブルで味・形が異なるところが愛嬌です。まれに家でも料理はしますが、腕前はどうでしょうか。

田中 稔

 10数年前から連日のように、現役時代の夢をみる。先輩、同年代の諸氏に聞いてみると、同じ答えで安心したりもするが、多分高齢者特有のものであろう。

 昔に固執するのではなく、新しい夢をみたいとの思いから、年寄りの冷や水と言われながら、最近は地域の環境保護を目的とするボランテイア・サークルに顔を出すようにしている。やり出すと止まらないヘキもあって、カケモチをしたりしてけっこう忙しい日々を過している。

 これによって、3年後、5年後、10年後に新しい夢がみられるか、はたまた永遠に見られないか、分らないが新しい事に挑戦することで、生きがいを充実させたいものと、自分なりに自己満足をしている今日この頃である。

田口正穂

 リタイアして5年、東京の平井と館山市の実家をいったりきたりしています。館山の小さな庭でバラを育てています。そして、身体のために、毎日8000歩のウオーキングと月2回のゴルフ、頭のボケ防止に英会話、そして心のビタミンとしてアルトサックスを習いクラシックギターを江戸川ギターマンドリングクラブで弾いています。

 昨年11月に胃がんの手術を受け、お酒はかなり弱くなりましたが、現在はほぼ手術前の生活に戻りました。

 この7月は全英オープンを観戦後、セントアンドリュースに移動、ゴルフをしてきます。

 身体と頭と心のバランスをとって、音楽を聴きながらバラの香りを楽しんでいます。

インゲン豆  松下礼子(元情報調査部・社会事業団)

画像

 持続可能な社会をと、ささやかですが省エネでシンプルな日常生活を試みています。

 ベランダ菜園?もひとつ。早期退職で八ヶ岳山麓へ移った学友を年に1、2回訪ね、帰りにリュックサックいっぱいのお土産、昨年は幅広インゲン豆も加わりました。5月に残しておいた豆を蒔いてみたら何と芽がでました。今では支柱からベランダの柵までツルが伸び、朝の水やりから一日が始まります。

乗馬を始めました 山口 恒夫

 何か新しいことにチャレンジしようと思っていたところ、知人から乗馬を誘われました。今までいろいろなスポーツを楽しんできましたが、乗馬の経験は全くなく、どのようなものなのか想像がつきませんでしたが、なんとなく興味が湧きました。始めてみると難しい。あんなに大きな馬に乗って揺られながら姿勢を崩さずに保つことは本当に大変なこと。思っていた以上の運動量です。

 最近、そこで行われている障害をもつ人のための乗馬ボランテイアに参加しています。普段、車椅子で生活している子供たちが馬に乗り本当に楽しそうな満面の笑顔が素晴らしいです。社会事業団に在籍中、手足の不自由な子供たちのキャンプを行っており、その経験の継続と考え、続けていきたいと思っています。

中村 淑子(元販売管理部)

もう街はすっかり秋!
今年は冬の訪れも早いようです。
それで散歩途中の50%OFFの看板につられ、うっかり一歩踏み込んだのが運のつき。
ついダウン(擬き)のハーフコートを買って終いました。
でも、こん些細な事でストレス解消、気分もウキウキ・・・。
何時も何時も、何て私は単純なんでしょう!

荒川冨士男

 毎友会の運営委員に任じられて平成28年9月で15年になります。時の経つのは早いもので、自分では歳を取ったという感じは余りしないのですが、市からは、最近「健康診査受診券」「埼玉県後期高齢者医療健康長寿歯科健診のご案内」など後期高齢者に対する医療関係の受診案内が届くようになり、「後期高齢者の仲間入りをしたんだなあ」と実感しています。

 まだまだ健康には自信があると自負していますから、ボケ防止のためにも物事には前向きに対処して行こうと考えています。

 これからも月一のゴルフや週3回のウオーキングを中心に、武蔵野の面影を残す狭山丘陵の散策、歌舞伎、演芸、ユリ展やバラ展等の鑑賞を夫婦で楽しみ、健康管理に心を配りしながら暮らしていこうと思っている今日この頃です。

乗馬を始めました 山口恒夫

画像
横浜三ツ沢公園馬事練習場にて

 何か新しいことにチャレンジしようと思っていたところ、知人から乗馬を誘われました。

 今までいろいろなスポーツを楽しんできましたが、乗馬の経験は全くなく、どのようなものなのか想像がつきませんでしたが、なんとなく興味が湧きました。始めてみると難しい。あんなに大きな馬に乗って揺られながら姿勢を崩さずに保つことは本当に大変なこと。歩き方によっては馬の上に立つ、座るを繰り返します。インストラクターから「前かがみにならない!!胸を張って!!真っすぐ前を見て!!手綱を短く!!」などと指導され、跳ね上がる馬の上で電車の吊革みたいな鐙の上に立つことを繰り返します。冬でも汗をかき、思っていた以上の運動量です。

 最近、そこで行われている障害をもつ人のための乗馬ボランテイアに参加しています。 普段、車椅子で生活している子供たちが馬に乗り本当に楽しそうな満面の笑顔が素晴らしいです。馬の複雑な動きが体に良い影響を与え、高い目線もとても気持ちが良いようです。 社会事業団に在籍中、手足の不自由な子供たちのキャンプを行っており、その経験の継続 と考え、続けていきたいと思っています。キャンプに参加していた二人の子供も乗馬に来ており、再会することができました。一週間にレッスンとボランテイア、山歩き、飲み会 など元気に忙しくしております。

私のボランティア
「認可保育園」と「小規模事業保育園」が出来た

成田 紀子(元販売局)

 この保育園に私の次女がお世話になってから、43年が経過しましたが、娘が卒園してから30年余りは保育園と連絡をとることもなく、離れていました。しかし娘の子供たちがお世話になることになって、また私と保育園の接触が始まったのです。

 その時この保育園はNPOを発足させる準備をしていたのですが、理事長候補が見つからなくて困っていたのです。そんな中に私が飛び込んでしまったわけです。64歳の頃で、昼間特に何もしていなかったので、当時の園長が、ちょうどよいとばかりに、「理事長は、年に3日登園してくれればよい」などという甘い言葉で釣り、保育のことは全く分からないまま、理事長を引き受けさせられてしまったのです。そして保育士さんたちの低賃金に驚いたりしながら、4年ほど理事長をやり、その間に、おんぼろの園舎から子供たちが通いやすい場所で、耐震のしっかりした建物に移転し、なんとか経営を軌道に乗せることができたのです。しかし保育士の待遇改善まではできないまま、事情があって、理事長を退任しました。

 しかし昨年春また理事に復帰するよう頼まれて、NPOの運営に加わりましたが、そこでは無認可園から認可園に変わる運動が進んでいて、1月には横浜市から認可園の新設を認められたとのことでした。認可園にするためには、これまでの子供たち30数名(0歳〜2歳)という定員を60数名(0歳〜5歳)まで増やさなければなりません。そのため、大きな園舎が必要という大問題に直面しましたが、その後いろいろ紆余曲折があった結果、その目途もたって、昨年夏には新園舎の建設を始めることが出来ました。しかしその矢先、9月初めにこれまで理事長だった71歳の男性が急性の進行性末期の胃がんで倒れてしまいました。理事長として最高に多忙な時期でしたので、直ちに代行を立てなくてはということで、定職を持たない私のところへそんな役が回ってきてしまったのです。断ってぐずぐずしている時間的な余裕はありませんでした。

 それからは目が回るように忙しくなりました。今までより大きい保育園の組織を作るために、建物ばかりでなく、新しい要員の体制を整えなければならなくなったのです。まず、これまでの無認可園の保育士やその他の職員のうち3分の2を新しい認可園に移し、3分の1はもとの園に残しました。もとの無認可園は国と横浜市が進めている19人以下の小規模事業の保育園に新たに衣替えすることにしたのです。しかしとても保育士や調理師が足りないので、あらゆる募集をかけました。マスコミでは保育士不足がいろいろ取り上げられていましたが、本当に保育士探しは難航しました。採用を約束していた人が数日後にキャンセルしてくることが度々あったりして、シッチャかメッチャかでした。全く体力ぎりぎりまで追い詰められた感じでした。4月1日に両園がなんとかオープンできた時は、本当にほっとしました。そんなわけで、4月5月には、いろいろな人的対策を打ちながら、なんとか保育を進めるという有様でした。

 しかしそんな中でも、皆が何とか少しでも良い保育をしていこうという姿勢で臨んでいたことは、ありがたかっです。

 5月22日には、開園式とお披露目会を無事ひらくことが出来ましたが、何よりも地域の方たちが保育園ができたことを喜んでくださったのは、うれしかったです。

 6月9日に今年度のNPOの総会が開かれ、これまでの理事長が辞任したため、私が改めて理事長に選任されました。子供たちに少しでも良い保育をすることは当然ですが、今度こそ、保育士の待遇をなんとしてでも改善して、資格を持っている人たちが皆喜んで働きたいと思えるような保育園にしなければと現在考えているところです。

画像
認可保育園
画像
小規模事業保育園

 2016年7月7日

中村 淑子(元販売管理部)

 当たり前だった健康が、今では一番大切なものになりました。夫婦での街歩きや、友人らとの食事やおしゃべりに、たまーにですが旅行へ出かけるのが一番幸せな時間です。そして昨年から、歌舞伎や落語に加え、世界トップダンサーの選手権大会に接したり、あまり馴染みでは無かった新しい世界に触れようと、ささやかながら心がけております。相変わらずの生活、平凡で穏やかな毎日が、如何に貴重で有難いことかと、しみじみ実感しております。

◇社会部OBの中村静雄氏が船橋市会議長に

堤 哲

 社会部OBの中村静雄氏(69歳)が船橋市議会の第59代議長に就任、そのお祝いの会が11月23日船橋グランドホテルで開かれた。

 集まったのは、松戸徹船橋市長をはじめ、国会、県会、市会議員、支持者ら250人。毎日新聞関係では、乾杯の音頭をとった広田勝己常務執行役員、OBの井草隆雄(84歳)、堤哲(74歳)、高木康紀(70歳)の計4人。

画像

 中村氏は4月の統一地方選で4期目の当選を果たし議長に選ばれた。「戦後70年の節目の年に議長に就任できたのも、ここにお集まりの皆さまのお蔭」といって頭を下げた。

 中村議長は1970年に英文毎日記者となり、その後社会部で事件記者、船橋支局長から山形支局長となったが、1996年50歳で退社して政治の道に進んだ。

 井草先輩は「37年前に知り合いましたが、円満な性格で、モテました」と現役時代のエピソードを披露したあと、「船橋の政令指定都市化を頼む」と激励した。

 毎日新聞関係で市会議長になった現存者は、埼玉県志木市の永井誠市議(77歳、10期、1964年入社・写真部OB)がいる。

 

松下礼子(元情報調査部・社会事業団)

 豊島区地域講座から発展した混声合唱団に入って2年余り、厳しくても懇切丁寧な先生の下で汗だくで歌っています。未経験者中心の発足5年足らずの合唱団ですが、今年は区のコーラス大会と地域の文化祭に加えて初めて単独ミニコンサートを行いました。

画像

 歴史ある高レベルのアマチュア合唱団とは到底比較になりませんが、経歴も年齢も様々な人々とそれなりに調和するのは快感です。

 運営委員の一人として、この毎友会HPが交流の広場になることを祈っております。