新刊紹介

2021年7月26日

「関千枝子さん追悼集」発行 「ヒロシマ」被爆の残酷と核兵器廃絶を訴え続けたジャーナリスト

 今年2月21日、88歳で亡くなった関千枝子さんの追悼集が完成しました。「ヒロシマ通信」の竹内良男さんから「関さんの毎日新聞時代とその後についてまとめてほしい」と呼びかけられ、編集委員会に加わりました。安倍靖国参拝違憲訴訟、「ヒロシマ通信」などの関係者の追悼文で知った関さんの活動の質と量に圧倒されました。そして、巻末に掲載した関さんの長女・赤尾緑さんからの一文「百日法要を終えて」を読み、「ヒロシマ」被爆の残酷と核兵器廃絶を訴え続けたジャーナリストとして、そして人間として、初心を強烈に貫いた生き方だったと、強い感銘を受けました。

 関千枝子さんが毎日新聞に在籍したのは、1954年から67年までの13年間でした。早稲田大学文学部露文科卒業後、54年4月、毎日新聞東京本社へ入社。当時、「女にゃ無理だ」とされた支局勤務を強引に志願して千葉支局に赴き、56年4月社会部、59年5月学芸部、62年8月ラジオテレビ部と転々、男慣行に抗して鍛え抜き、折からのお后取材などで社史に残る実績を重ねました。

 この間、労働組合運動にも積極的に入り込み、61年には毎日新聞労働組合本部婦人部長として、男目線の鈍感さに一石も二石も投じています。

 最初の転機は67年、同じ毎日新聞の外信部記者だった夫・関元さんのワシントン総局転勤でした。別居を嫌って新聞記者を断念、アメリカ暮らしを選択しています。1年ほどでニューヨーク支局勤務に転じ、郊外の隣州ニュージャージー・グリニッジに住み着きましたが、ここでの関さんはPTA活動と、その延長の図書館活動に目を開かれ、入れ込んでいます。

 帰国も夫の転勤に伴う突然で、73年の夏には横浜にあった自宅に戻りました。既に中軸を担っていた図書館活動には、やりかけの企画もあって未練がいっぱいだったようですが是非もありません。これは持ち前の執念で横浜を舞台に仕切り直し、市民のための図書館運動として根づかせていますから、地域にとっては得難い実績となっています。

 次の転機は、いろいろあってのことでしょう、80年には離婚を選択しています。同時に喫緊は再就職。関さんは、迷わず、新聞記者復帰に絞っていました。右から左とはいきませんでしたが、同年中に「全国婦人新聞」への入社が決まり、再び新聞記者としての活躍の場を得ることになりました。一度、経営者との軋轢で退社しますが、期せずして編集同人一同による復帰要請が起り、経営側が容れて、編集長として復帰することになりました。関さんならではの異例といっていいでしょう。

 以来、64歳で編集長を降り、再び一記者に戻って同紙の休刊(廃刊)までの通算26年間を勤め上げています。『毎日新聞』時代に倍する記者活動の拠点でした。この間95年6月には題号を『女性ニューズ』と一新、女性解放と発展の発信源として尽力努めましたが、もう一つの時流、新聞離れには社として克服しきれず廃刊のやむなきに直面しました。

 もとより、これでやむ関さんではありません。併行して取り組んだ『広島第二県女二年西組』の取材活動は新聞記者の活動そのものであり、その延長での平和活動、そして図書館運動を軸とした地域活動は、関さんの緩むことない生涯活動であり、本追悼集刊行の主柱となっています。

 さらに特筆は、活動を共にした同人たちへの篤き思いです。毎日新聞労働組合のOBたちが始めた交流組織「無名会」(旅と呑み会)には全20回のうち欠席は2回だけでした。毎日新聞と毎日新聞労組のさまざまな集会にも、声がかかると積極的に応じておりました。

 また、全国婦人新聞の関係では、先任編集長で毎日新聞時代の先輩でもある平野正夫さんの在職死亡を悔やみ、通夜・法事等に率先して参集、振り返れば事実上のOB会の主役格になっていて、これにも27回忌まで無欠席だったと聞きます。半面、晩年になるにつれ積極的な独り住まいを実践、世情の孤独死悲惨論に強く反発したのも関さんらしい生き方でした。

 毎日新聞関係では、野村勝美、牧内節男、大住広人、大島幸夫、宮田貞夫、明珍美紀、福島清が書いています。追悼集は400部制作しました。残部少しあります。ご希望の方は福島まで。送料込み1000円です。(メール:misuzuya@jcom.zaq.ne.jp

(福島 清)