随筆集

2023年3月1日

福島清さんの「活版工時代あれこれ」 ⑩活版が賑やかだった頃

 新聞各社は1970年代から紙面制作方式を活版からCTS(コールド・タイプ・システム)への切り替えを開始し、朝日新聞は1980年に築地に移転すると同時に、活版方式から「ネルソン」と称した全面CTSに移行しました。毎日新聞も1969年にサプトンによる案内広告のCTS制作を開始しましたが、まだ小規模で、活版制作が主流でした。

 その頃の活版部は、1970年2月1日現在の「活版部人名表」によると総数は348人。各課の構成は以下のようになっていました。

 活版部(部長、副部長、部付など) 10人  活版管理課 4人
 さん孔課(原稿をさん孔機で入力) 45人
 文選課(採字=活字を手で拾う) 42人
(ラドロー=見出し文字作成) 11人
(モノタイプ=文字自動鋳造機)31人
 組版課(植字) 41人
(大組) 79人
 広告組版課(広告版下作成) 31人
 整備課(活字・インテル鋳造と補充) 26人
 インタータイプ課(英文毎日) 28人

 活版部には入社年月順の「勤続表」がありました。1966(昭和41)年4月のそれをみると、毎年の入社数はバラバラ。筆頭にいる54歳・勤続41年の湯川佐平さんは、1925(大正14)年3月入社ですから10歳で入社していました。戦前の1930(昭和5)年以降、敗戦の1945年までも毎年採用したでしょうが、詳細は不明です。戦後の1946年以降はどっと増えて、夕刊発行再開の1953年には何と37人も採用しました。55歳定年ですから全体に若く、1966年の平均年齢は34.7歳でした。

 応召・入営休職者の苦悩を想像する

 「❾太平洋戦争と活版工」で昭和20年3月1日付「毎日新聞社工務局人名一覧表」を紹介しましたが、活版からの応召者は47人、入営休職者(人名一覧表の数には入っていないので無給で在籍ということか)が20人いました。これらの方々の応召先は中国、朝鮮なのか国内かは不明です。

1961年8月、中国新聞工作者代表団4人を迎えて、腕を組み、「東京―北京」を歌った(活版休憩室で)

 有楽町時代、夜勤で仕事が一段落して雑談になると、中国へ派遣され敗戦で帰還した先輩は、戦中の慰安所通いの体験などを話した一方、全く寡黙でひたすら仕事をしている人がいました。同じ植字にいたHさんもその一人で、毎日4合瓶の日本酒を持ってきて植字台の下に置き,呑みながら仕事をし、時間がくると平然として帰っていきました。亡くなられて弔問に伺った時、ご家族は「詳しいことは話しませんでしたが、戦地で大変な苦労をしたようです」と言っていました。

 この工務局人名一覧表で、応召の◎印が付いている人と入営休職者のほとんどは、名前と顔が思い浮かびます。これらの先輩たちは、1980頃にはみな定年退職でいなくなりました。人名簿にはありませんが、在職中に戦病死された社員もいたはずです。

 東京本社で最大人数だった「活版部」

 1975年5月1日付東京本社職員録で、各部別の人数を見ると、活版部は394人で最大です。次いで印刷部346人、これに印刷局写真製版部56人、紙型鉛板部104人を加えると、印刷局総数は特別嘱託、組合専従含めて976人。一方、編集局は地方機関含めて331人、販売局436人(内発送部が319人)、広告局128人。このほかに出版局、経理局などがあります。

 東京本社総計では、社員3,204人、嘱託18人、事務補助員40人、特別嘱託165人、組合専従4人となっていますので、約1割が活版部員だったことになります。

 かつてある編集関係者が、賃金体系問題をめぐって「ミソ(編集)とクソ(現場労働者)を一緒にするな」と言いました。しかしその後の毎日新聞労組の運動は、ミソとクソが団結して発展させたのです。

 技術革新はクソを追い出し、インクで手を真っ黒にした活版大組はなくなり、印刷は別会社です。技術革新全てを否定するものではありません。技術革新下でバラバラにされた労働者と市民が団結して闘うために何が必要か、何をすべきかを考える時だと思います。

(福島 清・つづく)