随筆集

2023年6月1日

福島清さんの 「活版工時代あれこれ」 ⑫活版が消えていった

 1988年になると天皇の病状が悪化。1面に「天皇陛下のご容体」として体温、脈拍、血圧、呼吸数が報道されるようになりました。政治面はCTSに移行していましたが、社会面はじめ多摩、長野、茨城など地方版はまだ活版制作だったため、活字とCTS両方の予定稿準備という余計な仕事が加わりました。Xデー対策に振り回されたことを思い出します。

 平成となった1月8日以降、順調に移行が進み、1989年12月には完全移行できるメドがたちました。そこで最後の活版制作面を何日付にするかを決める時、一計を案じ、私の51歳誕生日である12月11日付にしようと考えました。若干の前後は問題にされませんでしたので、12月10日組み込み、11日付の群馬、栃木版が毎日新聞活版制作最後の面として、記録に残ることになったのです。そして群馬版はOBの青木靖夫さん(写真・左)、栃木版は同竹原昌治さん(同・右)が大組を担当しました。

活版さよならパーティー

 CTS移行が終わった1989年12月13日。広い活版場に活版OBと東京本社関係者を招いて、「活版さよならパーティー」を開催し、活版に別れを告げました。

献酒する柳田利男さんと加藤親至さん=右
鏡割りする石丸昌義元活版部長、吉田順一制作部長(中央)とOB・現役の代表

活版資材の売却

 CTS移行紙面が大半となった1989年10月からは、膨大な活版資材の処分を開始しました。

 残っている処分記録を見ると、「鉛」59㌧、「アルミニウム」約30㌧などでした。これらの売却代金と活版さよならパーティーへの先輩からのご祝儀は、約510万円となり、制作部特別会計として、活版制作終了記念品制作などに充当しました。

 この会計処理に会社からは何の文句も出なかったのは、活版消滅への香典がわりとしたのでしょうか。

 昭和初期から稼働していたとトムソン活字鋳造機、RACモノタイプ、FLT連数字鋳植機、見出し鋳植機など、鉛を溶かして活字にする機器の撤去は大掛かりな工事になるので、CTS化完了後になりました。

 CTS制作へ移行後、活版工たちは制作部員として新聞制作にあたってきました。私が1995年末に定年退職後、技術革新はさらに急ピッチで進行し、編集者が組版することができる端末が完成し、制作部員の仕事が徐々になくなっていき、1999年9月30日をもって、制作部は廃止されることになりました。

 1999年9月17日、B1毎日ホールで「制作部さよならパーティー」が開催され、上記のように270人が参加しました。参加した活版OBたちにとっては、「活版さよなら」として欲しかったのではないかと思います。最後まで残った58人の制作部員は、9月、10月に企画制作室、広告連絡部などに異動となり、名実ともに活版は消えたのでした。 

(福島 清・つづく)