随筆集

2023年7月11日

信州人なら誰でも歌える長野県歌「信濃の国」

 テレビを見ていたら長野県の県歌「信濃の国」の特集をやっていた。信州人でこの歌を歌えない人はいない。集まりがあると、最後は必ずこの歌の合唱だ。結婚式でも必ず歌う。

 私たちの「長野会」も最後にこの歌を歌ってお開きになる。

〽信濃の国は十州に
  境連ぬる国にして
 聳ゆる山はいや高く
  流るる川はいや遠し
 松本伊那佐久善光寺
  四つの平は肥沃の地
 海こそなけれ物さわに
  万ず足らわぬ事ぞなき

 歌詞を見ながらだが、最後の6番まで。4番は転調してゆるやかなメロディとなり、5番から元に戻る。

村田俊雄
武田武

 この記事は、毎日新聞長野版のトップ記事である。1964(昭和39)年11月17日付。

 筆者は62年入社、支局3年生の村田俊雄さん(のち中部報道部→政治部→水戸支局次長→地方部副部長→宇都宮支局長)。信州人である。元ロンドン支局長・黒岩徹と私(堤)は、長野支局の1年生だった。

 連載のきっかけは、当時の長野支局長、武田武さん(のち千葉支局長→編集委員→大阪本社地方版編集長→内信部長)が「しなの週評」で「すぐれた“信濃国歌”」と書いたことだった。賛否両論が寄せられた、と前文にある。否定論者は「戦前の『信濃教育会』を思い出す。アナクロだ」という意見だった。

 「信濃の国」は、1899(明治32)年に長野師範学校教師の浅井洌(きよし)が作詞した。同僚の音楽教師・依田弁之助が作曲したが、流行らなかった。

 4年後の1903(明治36)年に、音楽教師・北村季晴(としはる)が作曲し直して運動会で発表され、一般に歌われるようになった、と記事にある。

 日清戦争の後で日露戦争の前、西欧列強に肩を並べんと躍起だったころ。「郷土愛を通じて愛国心を引き出そうとしたものだった」と長野県史にある。

 本文の書き出しは、1964(昭和39)年10月の東京五輪聖火リレー。「聖火を迎える長野市民のつどい」が長野市営球場で開かれ、そのアトラクションとして女子中学生400人が音楽遊戯「信濃の国」を行った。「市民に忘れていたものを思い出させるような懐かしい印象と感動を与えた。終戦まで『信濃の国』の歌と遊戯は必ず秋の運動会の最後を飾るメーンイベントだった」のである。

 「信濃の国」が長野県歌として制定されたのが、1968(昭和43)年5月。長野版連載の4年後である。

 連載の最終7回目に識者の意見を特集している。

 作家で評論家の臼井吉見。「郷土の姿を歴史的、地理的に説明しているのだから、他県の人々が聞いたらさぞやひとりよがりで、無遠慮な歌と思うだろう。同窓会や県人の宴会があれば必ずといってよいほど出てくる。共通した思い出として自然発生的に歌う——それでいいのだ」

 長野県人ではない当時国立音大教授の岡本敏明。岡本は、玉川学園の校歌、輪唱曲「蛙の合唱」「どじょっこふなっこ」などの作曲者で知られる。「日本は敗戦でよりどころを失ったが、それと一緒によい歌まで失った。ところが『信濃の国』だけは失わなかった。郷土愛を歌い上げたすぐれた歌、得がたいホームソングであるからだ」

 JR長野駅の北陸新幹線ホームの発車メロディは、「信濃の国」である。2015(平成27)年3月の金沢駅延伸に先駆けて、「信濃の国」になった。

 以下に2番から6番までを掲載したい。カラオケで歌ってみて下さい!

〽四方に聳ゆる山々は
  御嶽乗鞍駒ヶ岳
 浅間は殊に活火山
  いずれも国の鎮めなり
 流れ淀まずゆく水は
  北に犀川千曲川
 南に木曽川天竜川
  これまた国の固めなり

〽木曽の谷には真木茂り
  諏訪の湖には魚多し
 民のかせぎも豊かにて
  五穀の実らぬ里やある
 しかのみならず桑とりて
  蚕飼いの業の打ちひらけ
 細きよすがも軽からぬ
  国の命を繋ぐなり

〽尋ねまほしき園原や
  旅のやどりの寝覚めの床
 木曾の棧かけし世も
  心して行け久米路橋
 くる人多き筑摩の湯
  月の名に立つ姨捨山
 しるき名所と風雅士が
  詩歌に詠てぞ伝えたる

〽旭将軍義仲も
  仁科の五郎信盛も
 春台太宰先生も
  象山佐久間先生も
 皆此の国の人にして
  文武の誉たぐいなく
 山と聳えて世に仰ぎ
  川と流れて名は尽ず

〽吾妻はやとし日本武
  嘆き給いし碓氷山
 穿つ隧道二十六
  夢にもこゆる汽車の道
 みち一筋に学びなば
  昔の人にや劣るべき
 古来山河の秀でたる
  国は偉人のある習い

 村田さんは2000年10月21日没62歳、武田さんは2008年2月5日没89歳だった。

(堤  哲)