随筆集

2023年9月15日

平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき 27 横浜―釣鐘状入海の現在―

(抜粋) 奇数月の14日更新
文・写真 平嶋彰彦
全文は  http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53496882.html

 JR総武線で東京から千葉方面に向かうと、小岩駅の次が市川駅である。途中、江戸川を渡る。川が県境になっていて、渡ると千葉県である。市川市には国府台の地名がある。古代における下総国府の所在地とされる。京成本線に市川真間駅があり、その北側一帯の地名を真間という。そこが『万葉集』で詠われる真間の手児奈(ままのてこな)の伝承地である。

 江戸川(利根川)は、真間から南東方向に約4キロ下ったところで、江戸川本流と旧江戸川に分岐する。旧江戸川はそれよりさらに南西方向に蛇行しながら流れて、約10キロ先で東京湾に注いでいる。この旧江戸川の左岸に開かれたのが行徳である。

旧江戸川河畔。常夜灯公園。市川市関ケ島1-9。2022.09.27

 行徳については連載その16で書いている。ご覧になっていただきたい。行徳は昨年9月にも大学写真部時代の友人たちと訪れた。街歩きをした後の懇親会で、古代下総の文化的中心だったといわれる市川真間のあたりをいつか歩いてみようということになった。忘れかけた宿題をはたしたのは今年の6月27日。

 この日はJR市川駅で集合したあと、駅西側にある40階建ビルの展望台から市街を俯瞰した。眼下に江戸川が滔々と流れるさまに思わずおおっと息を呑む。北東方向を眺めると、鉄橋が3本。JR総武線、国道14号そして京成本線である。対岸の円形の模様はアマチュア野球のグラウンドらしい。

 江戸川を眺めているうちに、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』で、犬塚信乃と犬飼見八(現八)が決闘をするくだりを思い出した。場所は滸我(現在の茨木県古河市)の芳流閣。古河には足利成氏(古河公方)が拠点とした平山城があった。芳流閣は馬琴の虚構と思われるが、利根川(江戸川)河畔に築かれた3層構造の物見櫓である。

 信乃と見八の犬士2人は組み合ったまま、屋根から利根川に繋がれた小舟に転落。小舟は2人を乗せたまま、川の流れに任せて下り、行徳に漂着したところを、地元で旅店(はたご)を営む文五兵衛なる町人に発見された。

 古河から行徳まではおよそ70キロの距離である。信乃と見八の漂流のくだりは、室町時代に船便による水上交通が、行徳と古河の間に発達していたばかりでなく、行徳が利根川河口の要衝であった歴史を馬琴が承知していたことを物語る。ちなみに1373(応安6)年というから、『南総里見八犬伝』の時代より100年ほど前になるが、利根川の流路に沿って散在した香取神社(下総一宮)の川関の1つが、行徳の河畔にも設置されていたとのことである。

 古河から行徳までの途中に五霞町(茨木県猿島郡)と野田市(千葉県野田市)がある。五霞町は古河から10キロほど下った利根川の右岸にある。街歩きのメンバーの1人伊勢淳二君はこの町の住人である。利根川は五霞町の東南で江戸川と分岐する。五霞町の隣が野田市である。市域は東西を利根川と江戸川に挟まれ、南北が裾拡がりに細長い。その南端に利根川と江戸川を繋ぐ運河がある。これは近代になってから開削された。

 野田には多久彰紀君が住んでいる。かれもまた街歩きのメンバーである。2013年11月と翌年4月に彼の案内で、野田の街歩きをすることがあった。2度目のときは花見の季節だったので、幸手市の権現堂堤まで足を延ばした。権現堂川は利根川の支流である。堤防の桜並木は関東屈指の桜の名所として名高い。街歩きの後、伊勢君から五霞町の自宅に招かれ、ご馳走になった思い出もなつかしい。

 野田の醤油生産は戦国時代に遡るとのことだが、地回りの醤油産地を意識した本格的な生産体制が確立するのは、安永(1772~81)の頃だとされる。享保年間(1716~36)というと、江戸に幕府が開かれて100年が過ぎているが、江戸市中で消費される醤油の4分の3は関西産のいわゆる下り醤油だったという。流通の観点からいえば、生産地は消費地に近い方が望ましい。そこで下り醤油に代わる地回りの醤油産地が求められた。

 幸いなことに、野田は利根川にも江戸川にも面していた。寛永年間(1624~44)に利根川の河川改修工事があり、それを契機に、双方の川筋には水運の拠点が形成されていた。船で醤油を運ぶなら行徳まではいくらも時間がかからない。地回りの醤油生産地としては、利根川河口の銚子が野田に先行して発展していた。しかし、幕末のころになると、野田が生産高で銚子を凌ぐようになった。その理由は、江戸に近いのみならず、江戸川の水運を利用できたことにあったという。(以下略)。