随筆集

2024年3月1日

元印刷局・労組執行委員、戸塚章介さんが、今は亡き輪転職場と佐野巌さんの思い出を綴る

 佐野巌さんが亡くなったのは2021年2月2日で享年91。佐野さんは1958年度の平田満夫執行部で本部執行委員、給与対策部長だった。当時は賃金部を給与対策部と言った。その時私は東京支部青年部の書記、部長は支部が飯沼元次さんで本部が山野井孝有さん。賃上げ闘争を前に、青年部主催で賃金学習会を開いた。場所は麹町寮で、講師は佐野給与対策部長、佐野さんは青年の賃金を低く抑える年功序列賃金を批判した。私たちは「その通りだ」と拍手したものだ。

 翌年、佐野さんは本執を退任し、輪転課に戻ってきた。私と3年先輩の服部一良さんと佐野さんは何故か気が合った。朝刊印刷終了後に休憩室で、世の中や会社の悪口を言い合いながら「花の友」という合成酒を飲んだ。しかしまもなく佐野さんは副課長に昇進する。とたんに過激な立身出世主義者に変身した。服部さんも職場の労働運動に敵対する側に移った。一方私は闇雲に職場活動家の道を突っ走った。深夜の職場休憩室でベトナム反戦映画を上映して会社からけん責処分を受けたのは1968年。その頃私は支部執行委員(相棒は大貫安弘君)で佐野さんは印刷部長、職場交渉で真っ向対立した。佐野さんとの関係は最悪期だった。

輪転職場休憩室にて。優秀な印刷労働者の雰囲気が漂っている。
支部執行委員当時の大貫安弘君と。咥えタバコがめずらしい。

 77年10月、私は都労委委員に就任、職場を離れて新聞労連専従になった。佐野さんは大阪高速印刷に移籍して社長になった。大阪高速は毎日本体の経営危機のあおりを受けて倒産寸前だった。それを労働組合の徳山重次委員長とタイアップしてかなり荒事の経営合理化を行い、なんとか再建させた。その頃大阪のどこかで佐野さんに会ったことがある。佐野さんは「大阪の共産党はお前らと違って物分かりが良い」と皮肉を言った。私は「何言ってやがる。徳山委員長の手玉にとられているだけじゃないか」と内心では思ったが口には出さなかった。

大阪高速印刷労組結成40周年記念集会で。佐野巌さん(左)と松上文彦毎日新聞労組委員長=1987年11月8日。堺市羽衣荘

 さらに数年経って、大阪高速印刷労組の創立記念パーティーで佐野さんに会った。向こうから私にビールを注いで乾杯し、抱きついた。会場には毎日新聞労組からも大勢参加していて、そのうちの1人が私と佐野さんが抱擁している写真を撮って「輪転職場に対する裏切り行為だ」と笑い半分でなじった。私も笑い返した。パーティーを主催した徳山委員長も服部さんも大貫君もそして佐野さんもあの世に行ってしまった。人生って何だろな。

(戸塚 章介)