随筆集

2024年4月11日

『東大ラグビー部百年史』から③ 元東京本社編集局長・三宅俊夫さん

 元東京本社編集局長・三宅俊夫は、東大ラグビー部OBである。編集局長は、1952(昭和27)年10月から55(昭和30)年10月まで3年間務めた。前任の編集局長は工藤信一良(のち副社長)、後任は山本光春(のち社長)である。

 東大ラグビー部に入るきっかけは、久富達夫(第2代キャプテン)から誘われたことだ。追悼録『久富達夫』(1969年刊)にこう書いている。

 《大正12年4月、私が東大へ入学して間もないころ、東大グランドで陸上競技の練習を眺めていると、ラグビーボールを抱えた、見るからに逞しそうなラグビー選手が肩をポンと叩き、「どうです一緒にやりませんか」とニッコリ笑って、そのままグランドへ馳けて行った。これが当時ラグビー部主将をしていた久富さんだった》

 《私は大学でもテニスをやるつもりでいたのに、久富さんにポンと肩を叩かれたばかりにラグビーをやるようになった》

 六高時代はテニス部の選手だった。中学からの同級生・和田博雄(農林省官僚→第1次吉田内閣農林大臣→参議院議員→衆議院議員、緑風会から社会党、分裂で左派社会党に属した)とペアを組んでいた。

 ラグビー部ではFW。第一列で久富とスクラムを組んだ。当時、東大ラグビー部は、強かった。「草創期黄金時代」といわれる。創部したばかりの早稲田や明治と対等の試合をした。

 『東大ラグビー部百年史』からピックアップすると——。

 〇東大14—3明治大●(1924年11月29日)

 FW第一列は、三宅、久富と清瀬三郎(第4代キャプテン、戦後日本体育協会理事長、国体の生みの親)が第一列だ。HBに石田啓次郎(第3代キャプテン、国鉄ラグビー部を創部)、TBに入沢文明(朝日新聞記者)、湯川正夫(八幡製鉄ラグビー部を創部、同社副社長、日本ラグビー協会第4代会長)。

 〇東大9-3早稲田大●(1925年1月14日)

 この試合もFW第一列は、三宅・久富・清瀬である。HB石田、TB入沢、湯川ら。

 1926(大正15)年に卒業、大阪毎日新聞社(大毎)に入社した後も、OBとして試合に出場している。

 1927(昭和2)年10月に行われた明治神宮大会で、ラグビーは関東・関西のOB戦を行っている。関西チーム(西部ラグビー蹴球協会)のFW第一列フッカーが久富、3番が三宅だった。

  〇関西33—0関東●

 三宅の著書に『太平洋海戦二万キロ』(東京講演会出版部43年刊)がある。「東京日日新聞」体育部長だった三宅が海軍報道班員として1942(昭和17)年正月から5か月間、ウェーキ島からビスマルク群島・ラバウル・ニューギニア・ソロモン諸島を従軍、その体験をまとめた。

 《海軍報道班員は普通の従軍記者ではない。南海の波涛を蹴って或いは密雲を衝いて、果敢な渡洋爆撃に壮烈な敵前上陸に、第一線将兵とともに参加、つぶさに戦ひの辛苦を味ふペンの戦士であり勇士である》

 これは大本営海軍報道部課長・海軍大佐平出英夫の序文。終わりは、こう結ばれている。

 《開戦第二年、一億総進軍の一大決戦に臨む日本人としての心構へを作る上に於て、国民必読の好著たるを信じて疑はぬ。敢てここに推薦する所以である》

 戦後甲子園のセンバツ野球大会は、1947(昭和22)年の第19回大会で6年ぶりに復活、徳島商業が優勝するが、当初GHQ(連合国軍総司令部)の民間情報教育局(CIE)はセンバツ開催に反対した。

 体育部長・三宅は、全国中等学校野球連盟(現高野連)副会長佐伯達夫らとCIEノーヴィル少佐の説得にあたった。同じ三宅姓の通訳の女性が「少佐、センバツを中止したら、あなたは一生日本人にうらまれますよ」と言ったことが、軟化につながったといわれる。

 三宅は、その後運動部長→整理部長→編集局次長→編集局長→印刷局長→監査役→スポニチ大阪本社代表取締役社長。

 1983(昭和58)年6月逝去、80歳だった。

=敬称略(堤  哲)