随筆集

2024年5月7日

東京六大学野球リーグ戦が始まって100年。毎日新聞の野球人は?

 神宮球場で活躍した明治大学のエース丸山清光さん(70歳)が『東京六大学野球人国記—激動の明治、大正、昭和を乗り越え1世紀』(鳥影社)を出版した。丸山さんは朝日新聞社販売局に就職、関連会社の社長も務めた。明大の名物監督島岡吉郎を描いた『なんとかせい!島岡御大の置き手紙』(文藝春秋2020年刊)の著作もあり、「文武両道」である。

 東京六大学野球リーグ戦が1925(大正14)年に始まって、来年100年を迎える。その機会に日本の野球史を振り返り、第1回早慶戦から2023年までの各校のスタメン(先発メンバー)を網羅した力作だが、毎日新聞記者らの野球人がゾロゾロ出てくる。

 まず第1回早慶戦(1903年11月21日)。早稲田大学のキャプテン橋戸信(頑鉄、青山学院中、野球殿堂入り)、マネジャー弓館芳夫(小鰐、盛岡中)。

頑鉄は、萬朝報→大阪朝日新聞から東京日日新聞記者。1927(昭和2)年都市対抗野球大会を創設、最高殊勲選手賞にその名を残す。

 小鰐は、萬朝報から1918(大正7)年入社。東京日日新聞社会部デスク→運動課長→写真部長→運動部長を歴任した。「早慶戦は全部見ている」が自慢だった。

 1906(明治39)年秋の早慶戦。早大の7番左翼手に西尾守一(旧制北野中の前身堂島中)。西尾は、09(明治42)年飛田忠順(穂洲、水戸中、野球殿堂入り)キャプテンのマネジャー(学生マネジャーの初め=『早大野球部百年史』)となり、10(明治43)年6月の早大ハワイ遠征にも参加した。同年秋、大毎主催の関西初の国際試合早大対シカゴ大戦で審判を務め、翌年6月大毎に入社、本格スポーツ記者の第1号となった。

 飛田は、シカゴ大に東京と関西で6連敗した責任をとって、キャプテンを辞任した。

 大阪毎日新聞社が「大毎野球団」を結成したのは、1920(大正9)年3月だった。「日本最強の野球チーム」だったが、10年後、突然解散した。

初代監督阿部真之助、キャプテン日下輝(慶應普通部)。のち学芸部長→NHK会長の阿部は旧制富岡中(群馬)で捕手。日下は慶應義塾の名三塁手。1911(明治44)年の慶大米国遠征に参加。16(大正5)年に卒業、東京日日新聞に入社した。

 「大毎野球団」は慶大閥だった。15(大正4)年の高浜茂(神戸一中)以来、歴代キャプテンが「大毎」へ入社した。16~17年三宅大輔(慶應普通部、野球殿堂入り)、19~20年森秀雄(Y校・横浜商)、21~22年高須一雄(同志社中)、23年新田恭一(慶應普通部)、24年桐原真二(北野中、野球殿堂入り)と、18(大正7)年を除いて、ずっとである。

 キャプテン以外では、都市対抗野球「小野賞」の小野三千麿(神奈川師範、野球殿堂入り)、エンジョイ・ベースボールの名監督腰本寿(慶應普通部、野球殿堂入り)ら。

 明治大学からは、22(大正11)年岡田源三郎(早稲田実業、野球殿堂入り)、翌年投手渡邊大陸(神戸二中)だが、25(大正14)年ハワイ遠征の帰途、ホノルルから乗船した東洋汽船「コレア丸」で、アメリカ遠征帰りの大毎野球団と乗り合わせた。

 明大監督は、大毎を辞めて就任した岡田源三郎。投手湯浅禎夫(米子中)、捕手天知俊一(下野中、野球殿堂入り)、二塁手横沢三郎(荏原中、野球殿堂入り)、キャプテン三塁手谷沢梅雄(明星商)、外野手中川金三(下野中)ら。

 この5選手に、前年のキャプテン大門憲文(東洋商)を加え計6選手が入社。大毎野球団は慶明連合軍の選手構成となった。

 東京六大学リーグ戦は、明大ハワイ遠征の25年秋から始まった。その開幕試合明大対立大戦は7-1で明大が勝ち、エース湯浅は東京六大学初の勝利投手となった。

 5尺8寸、17貫500匁(176㌢、65・6㌔)。長身から投げ下ろす速球と外角のカーブ(アウトドロップといった)に威力があった。

 立大長崎球場開きとなった立大2回戦では、ノーヒットノーランを達成。東大3回戦と合わせ、シーズン2回のノーヒットノーランと、シーズン奪三振109個は「100年を経てもいまだ破られていない」と、『東京六大学野球人国記』は特筆している。

 湯浅は、このリーグ戦で19年ぶりに復活した早慶戦第1戦の球審を務めている。塁審は同じ明大の岡田源三郎と二出川延明(のちパ・リーグ審判部長)。この2人は野球殿堂入りしているのに、湯浅は何故か殿堂入りしていない。

 湯浅は、戦後1950(昭和25)年、プロ野球が2リーグに分裂して「毎日オリオンズ」が結成された際、大毎運動部長から出向して総監督に就任。パ・リーグで優勝し、第1回日本シリーズも松竹ロビンズを破って日本一に輝いた。

 同年11月5日、パ・リーグの消化試合となった西宮球場での阪急ブレーブス戦で、48歳1ヶ月の湯浅と、48歳11ヶ月の阪急監督・浜崎真二(神戸商→慶大、野球殿堂入り)が先発登板。2人合わせて96歳の最長老投手対決が話題になった。

 実は、浜崎は神戸商時代の22(大正11)年8月末からの「大毎野球団」満鮮遠征に加わっている。「中学の選手が実業団に加わって海外遠征をするなんておかしな話だが、当時はそれほど奇怪とも思わなかった」と浜崎(『球界彦左自伝』恒文社78年刊)。

 浜崎は、22年夏、鳴尾球場での第8回全国中等学校優勝野球大会決勝で敗れ、準優勝に終わった。優勝は井口新次郎(早大→「大毎野球団」→西部本社運動部長、野球殿堂入り)が4番・投手の和歌山中学だった。

 戦時中の東大の選手鈴木美嶺(旧制八高、野球殿堂入り)。「バットを捨てて銃を手に——野球のない野球部員」と東大野球部史に書いた。

 1943年10月21日雨の神宮競技場で行われた出陣学徒壮行会。《東大では、運動会所属運動部員全員がこの壮行会に動員されたが、野球部員の中には参加しないものもあった》

 丸山さんのスタメン表は、1944(昭和19)~45(昭和20)年の見開き2㌻、6校すべて空白である。

 美嶺さんは50年毎日新聞入社。都市対抗野球大会期間中の連載「黒獅子の目」は、人気があった。野球ルールに詳しく、「公認野球規則」制作の中心的役割を果たした、と野球殿堂博物館の解説にある。1991年没70歳。

 「最後の早慶戦」の記念写真に収まった慶大松尾俊治(灘中)。試合は、出陣学徒壮行会の5日前、10月16日に早大戸塚球場で行われた。松尾は、1年生で控えの捕手。丸山さんのスタメン表には載っていない。毎日新聞運動部では「アマチュア野球の松尾」で、東京六大学・甲子園関連の著書多数。そういえば松尾は、甲子園球場が完成した1924(大正13)年生まれ。2024年、生誕100年である。2016年没91歳。

 東京六大学で通算44勝(20敗)、歴代3位の記録を持つ末吉俊信(小倉中→八幡製鉄(現日本製鉄)→47年早大)。うち10勝は早慶戦で挙げた「早慶戦男」である。

1952年毎日新聞に入社、プロ野球「毎日オリオンズ」に出向した。選手生活3年で8勝12敗。最初の年はオールスターゲームに出場した。引退して記者生活に入り、社会部でサツ回りをしてから運動部記者となった。2016年没89歳。

 私(堤)の周辺にいた東京六大学出身のプレーヤーたち。明大の投手尾島一平(宮崎・大淀高)は65入社。東京本社第三広告部長、事業本部次長、メディア事業局次長など歴任。社内野球では広告局のエースとして活躍した。2021年没78歳。

 70入社、早大の投手六車護(高松一高)。プロ野球担当から経済部記者を経て、運動部長・論説委員。『名スカウトはなぜ死んだか』(講談社2002刊)は、早大同期のオリックス編成部長三輪田勝利(中京高)が自殺したナゾを追う。三輪田は、イチローをオリックスに入団させたことで知られる。

 毎日新聞退職後「警備保障タイムズ」を創刊。現在は会長を務める。

 東大で1勝をあげている投手石渡明(日比谷高)。4年生だった69年秋の慶大1回戦、初回にあげた3点を3回の1失点で、救援投手を仰ぎ、守り抜いた。東大は立大から勝点をあげ、このシーズン4勝で5位に食い込んだ。

石渡は、70年春のシーズンも出場した。東大紛争の影響で卒業が6月以降となったための特例で、毎日新聞に入社して神戸支局に赴任したのは、71年7月だった。

 文学部西洋哲学科卒、専攻はヘーゲルだった。

 丸山さんのことは、この毎友会HPですでに紹介している。

https://www.maiyukai.com/topics/20200907-2.php

 「新聞もなんとかせい!」元朝日新聞販売局丸山清光さん ――他人事ではなく、新聞販売の現場に「喝!」

(堤  哲)