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2024年2月27日

元学芸部編集委員、水落 潔さんが「ジーザス・クライスト=スーパースター」の思い出を

「ジーザス・クライスト=スーパースター」初日自由劇場前で(2月17日)

 2月半ばに劇団四季のミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター(以下JCS)」を見に行った折、久しぶりに堤哲さんと会い、「何か書かないか」とお誘いを頂いたので、「JCS」の思い出を書くことにした。

 「JCS」はイエスキリストの最後の七日間を描いたロックミュージカルである。

 1971年にブロードウエイで初演し世界的にヒットした作品で、今では四季の財産演目の一つになっている。

 作詞はティム・ライス、作曲はアンドリュー・ロイド=ウェバー。二人の共作には「エビータ」があり、ロイド=ウエバーは後に「キャッツ」「オペラ座の怪人」などを作曲しミュージカル界の巨匠になるのだが、「JCS」を作曲した時は22歳の無名に近い若者だった。

 しかもキリストの人生をロックで描くという破天荒な作品で、宗教者を中心に反発を受け、上演禁止を求める運動が起こり、アメリカではちょっとした騒ぎになっていた。

 劇団四季の浅利慶太はレコードで曲を聴き、初演のブロードウエイの舞台を観て四季での上演を決意、73年に完成した中野サンプラザのこけら落とし公演でこの作品を上演した。

 私は演劇記者としてこの舞台を観たのだが、正直のところ仰天した。あのサンプラザの劇場一杯にロックががんがんと鳴り響き、歌舞伎風の隈取をした白塗りの人物が五台の大八車に乗って舞台を駆けまわったからである。

 初演を演出した浅利慶太は敢えてブロードウエイの舞台とは全く違う日本風の奇抜な舞台を創り上げた。キリストは鹿賀丈史、ヘロデ王は市村正親で共に二十歳代、これが二人の事実上の初舞台であった。

 この演出は後に「ジャポネスク・バージョン」と呼ばれることになるのだが、多くの観客は呆気にとられ度肝をぬかれた。

 当時の日本の演劇界はスター女優を看板にした華やかな舞台が人気を集めていた。ミュージカルも上演されていたが、「マイフェア・レディ」や「サウンド・オブ・ミュージック」など美しいメロディを聴かせる作品が主流であった。

 歌謡界は美空ひばり、三波春夫ら演歌の最盛期だった。確かに若者の世界ではロックが人気になっていたが、大人からは危険な音楽と白眼視されていたのである。

 「JCS」の初演の舞台は賛否両論であった。しかし若者世代は熱狂的に支持し、浅利は76年にまったく違った演出の「エルサレム・バージョン」を日生劇場で上演し、多くの観客を集めた。

 あれは79年だったと思う。「JCS」がサンシャイン劇場で上演されることになった。なんだかんだと話題になってきた舞台ということで、地元の商店街の主人たちが団体で観劇することになった。当時の支配人からその話を聞き当日劇場に出掛けた。

 二時間足らずの舞台なのだが、途中から一人、二人と観客が外に出てくるのである。感想を聞くと「あの騒音に耐えられない」「息子と話が合わない理由が分かった」など世代の断絶を訴える言葉が多かった。

 ところが劇団四季の俳優たちに聞くと「JCS」の舞台や音楽に魅かれて四季に入ったという人が実に多いのだ。「JCS」はその点で画期的な作品になった。

 私自身、その後何度もこの舞台を観るうちに、次第に曲が耳になじみこの作品が好きになった。今では初演の時、何故あんなに吃驚したのか不思議な気がする。

 どんな世界でもその時代に生きた者でないと実感出来ないことがあるものだが「JCS」は演劇界でのそういう作品だったと思う。

 初演から丁度半世紀、開場したサンプラザは取り壊され、浅利さんも亡くなった。感無量である。

(水落 潔)

 水落潔さんは昭和11年11月生まれ。現在、満87歳。昭和36年入社。