元気で〜す

2024年3月5日

67歳から水彩画、個展を開くまでに 元政治部松田博史さん76歳

アイガー北壁トレイル中の松田博史さん

 「絵心」。自分とは無縁の言葉と思っていた。なぜ67歳になって突然、絵筆を持ったのか。自分でも不思議でならない。60歳を過ぎて蕎麦打ちを始め、打っては食して楽しんだ。

 64歳から山歩きを再開し、国内だけでなくスイスの氷河ハイキングにまで足を延ばした。おそらく最後の道楽が、67歳からの水彩画だろう。だが、水彩画との出会いだけは今でも不思議でならない。なぜ絵筆を持ち、なぜ描けたのか。

 「絵心」がないことは自分が一番よく知っている。今思えば、自分しか作り出せない「創作」への強い憧れがあったのか。それに加えて、「創作」したものをいつまでも残したいという老人特有の喜びを感じたかったのかもしれない。

個展の案内状

 まずは絵筆を持つきっかけになった10年前の出来事を思い出してみたい。きっかけは二つの声掛けだった。ひとつは毎日新聞時代の仲間、渡部節郎さん(元運動部長・故人)の一言だった。編集局時代からよく飲んだ仲だったが、2014年1月21日夜、久しぶりに日本橋のおでん屋で待ち合わせた。「ボク、絵を描いているんだ。松ちゃんも描いてみたら。結構楽しいよ」と突然、芸術的な話題を投げかけてきた。「無理、無理!絵心なんてないよ。描けたら楽しいだろうが、日ごろ、家でも『絵は下手ね!』と言われている」と両手でさえぎった。

 ところが、その翌々日、ナベさんから水彩スケッチを印刷した2枚のポストカードが届いた。1枚が早大大隈講堂、もう1枚が銀座4丁目交差点界隈の風景画。「スケッチ。思い立ったが吉日。楽しみです」と誘いの言葉。軽いタッチで描かれた水彩スケッチは見事な出来栄え。自分には手の届かぬ技量をうらやましく思った。それでもポストカードを見ながらいつの間にか鉛筆を持ってスケッチをまねてみた。まるで絵になっておらず、「やっぱり絵は駄目だ」とすぐにくずかごに捨てた。その後も雑用紙に何回かスケッチのまねをしてみてはがく然として破り捨てた。「懐かしい江の島をスケッチできたらなあ」。いつしか絵心のない自分に愚痴をこぼしていた。

 もう一つのきっかけは高校時代の親友3人の集まり「歩く小田急沿線の会」でのこと。同年10月28日、3人の家からほぼ等距離にある小田急線中央林間駅の改札口に各自が自宅から約3時間歩いて集まり、ランチで懇談する企画だった。ネットで調べると、私の自宅から中央林間駅までは約13㌔。歩いて2時間44分。スマホ持参の二人はナビを頼りに歩くのだろうが、当時はまだ「らくらくホン」だった私は機器に頼らず、ネットの地図を参考にA4のコピー用紙5枚に13㌔のルートを描き、目標地点間の距離と歩行時間を書き添えた。ランチの席でこの手作りマップを目にした仲間の画伯から驚きの一言が飛び出した。「これは地図ではない。絵だよ」「絵心があるからな」。赤面してしまうほどの画伯のお世辞に私は「ちょっと待った。やめてくれ。ただ書き写しただけの雑な地図だよ」と反応するしかなかった。

 しかし、この画伯の「おだて」はしばらく私の頭から離れず、ナベさんからのポストカードを引出しから出しては見つめる日々が続いた。この年の4月、500㌻の回顧本の執筆を終え、やっと肩の荷が下りた気分で「創作」に飢えていたのかもしれない。「67歳からの手習いで何か自分の作品を残してみたい」。そんな思いがふと頭をよぎった。蕎麦打ち、山歩き、ゴルフとは違った「創作」への憧れ。しばらく考えていると、絵画、版画、彫刻といった未体験の世界が頭に浮かび、「よし、とりあえずは基本のデッサンから始めてみよう」となった。早速、ネットで「デッサン講座」を検索。翌日には本屋に駆け込んでデッサン本を探し、図書館で3冊のデッサン本を借りた。文房具屋で三菱鉛筆「UNI 2B」を購入し、その日から線や円の引き方、遠近法とか初歩的な手法を雑用紙に描いてみた。「絵心はないのだから上手な絵は描けない。それでも67歳の年寄りが自力で描いたものこそ自分の『作品』だ。生きている間、最後に自分が満足できる『一枚の絵』を描けたらいいな」。素直な気持ちで「描いてみたい」と意欲がわいてきた。絵筆を持つことを決めたのはこの時だった。

 早速、11月13日、ネットで「水彩画11点セット」を見つけて注文、翌14日には自宅に届いた。中学時代以来かと思うが、久しぶりに手にした絵の具、パレット、スケッチブック、鉛筆、消しゴム、水差しなどの11点。「00ねん00くみ 名前0000」と名前を書き込むラベルが貼ってあり、思わずほおが緩んだ。

 ついに翌15日、ほぼ半世紀ぶりに絵筆で描く瞬間がきた。我流ながら自分がどんな絵を描くのか、自分でも興味津々だった。「何でもいいから描いてごらん」と自分自身に問いかけてスケッチブックに臨んだ。どうせ下手なのだから自分が一番描いてみたい風景に挑もうと、2年前にポルトガルで目にした「ポルト旧市街」を選んだ。

 まずは2B鉛筆での下描き。ドウロ川に浮かぶワイン船、後方の旧市街と描いた。さあ深呼吸してから絵の具の箱を開けた。久しぶりだ。まずは船の色塗りだが、見た目通り黒に近い茶色で船の前半分を塗りつぶした。塗った後で「いけない。これでは塗り絵だ」と筆を置いた。船全体がこげ茶色に見えるからといっても、そこには多少の工夫が必要だった。目に焼き付いているポルト旧市街の風情とは程遠い。仕方がない。これが絵心のない年寄りの半世紀ぶりの絵であり、これが現実なのだと納得。絵の出来栄えよりも「描けた」ことの嬉しさ、充実感は正直、かなり大きかった。3日後には同じ絵を描き直した。その後も描き直し、今回展示するのは5作目の作品。

 慣れないデッサンには今でも手こずっている。坂道を前にして、頭の中のスケッチブックに上り坂を描き、「下り坂なら?」なんてイメージトレーニングをしながら歩くことも。魚売り場へ行くと、買う気もないのにイワシやアジの青みの色合いをのぞき、藍色、茶、赤、黄、黒など「十匹十色」の輝きを観察している。

 師匠のいない無手勝流とはいえ遠近法やら初歩的なことを知ろうと入門書を購入した。手本の通りに静物画や風景画をまねて描いた。素直に技法を吸収できたが、YouTubeで画家が描く水彩画を目にしてがく然とした。水を張ってから大胆にいろいろな色をバサッと落としていき、混色が進んでいくと描こうとしている景色が見事に浮かび上がってくる。もちろん、先まで見通しての混色だろうが、初めて目にした私は「こりゃ、マジックだ!」とお手上げした。それ以降、プロ画家のYouTube は見ないことにした。

 私はあくまでも無手勝流だ。「絵の具の白は使わずに紙の地色を白に見立てる」という考え方があるようだ。決まりではないだろうが、確かに最初に買った絵の具セットには白が入っていなかった。白壁や波、雲、氷河などを白色絵の具なしで塗るのには当惑した。でも、そこは無手勝流、何の気兼ねもない。ついに5年目から「禁」を破って白を思いのたけ使うことにした。おかげで雪渓や朝霧、白壁、白煙・・・の色塗りが思うようにできてきた。今では「透明水彩絵の具」ではなく、強烈に白を表現できる「不透明水彩絵の具」のガッシュホワイトで色濃く塗っている。不透明水彩の絵の具は透明水彩に比べ顔料分が多いので、塗り重ねても下の色を覆い隠してしまうという。

 また極細の線を引くのに、超極細の絵筆が見つからないので代用できるものを探した。習字の筆、歯ブラシ、鳥の羽根とか考えてはみた。カラスの羽根に目をつけたが鳥インフルエンザを警戒してあきらめ、取り入れたのが爪楊枝(つまようじ)だった。今では壁の汚れ、桟橋のひび割れなどの極細描写に絶好の小道具として駆使している。歌舞伎役者がメイクをするときに使う極細の面相筆より意外と役立っている。

 画友・ナベさんと水彩談義をすると、「水彩は混色が命だな」「木を描くにもいろんな色が見えてくるよな」と盛り上がり、ついつい深酒になった。ふと彼の手先をのぞくと小さな画帳にペンを走らせていた。「隣の女性だよ。横顔をスケッチしたんだ」。そんなナベさんだから体調を崩して入院しても絵筆は離さなかった。

 ナベさんからのメールや手紙が頻繁に届くようになったのは亡くなる半年前、2021年の春からだった。白血病と診断されていたナベさんがコロナの陽性となり、入院して二正面作戦での治療となった。病院のナベさんとの連絡はもっぱらメールと絵葉書、手紙となり、亡くなる直前の2カ月間で29回、連絡しあった。最後のメールは、亡くなる18日前の7月7日だった。「西武の松坂投手が引退表明したね。一緒に松坂と会った時のいろんな人の顔が浮かんできました。懐かしい」。ナベさんの訃報を聞き、送ってくれたイワシ絵を前に、同じ「3匹のイワシ」を描いて偲んだ。私が描いた「3匹のイワシ」は個展に展示し、短い文章をパネルに貼って添付する。(下の絵と文)

作品『初のイワシ絵 描けば「十匹十色」の青い輝き』

 〈ともに新聞社を去り、私に絵を描くことを勧めた畏友・渡部節郎さんが入院先からメールを送ってきた。「イワシの絵が看護師さんらに評判で描いてあげた」「命を救ってくれた医療チームの皆さんをお招きして赤坂で感謝のジャズリサイタルを開くから来てね」。私の家にもそのイワシ絵が届いた。イワシの独特な青みが混色の技法で見事に表現されており、その出来栄えに驚いた。コロナ禍で会うのは避け、メールで絵の出来栄えや混色の難しさを意見交換していた。最後にアジサイの絵はがきが届き、東京五輪が開幕してまもなく彼の訃報を聞いた。

 彼のイワシ絵を毎日眺め、初めて魚の絵に挑戦した。いかに青みを表現するか。見慣れたイワシだが、よく見るとさまざまな色の輝きが私の目には映る。彼が描いた群青色もあるし、もっと薄い青や黒、茶、紫、緑、黄なども。ナベさんの絵に近づこうと描き始めたが、仕上がってみると群青系からは離れた色合いに。間違えたかな、と近くの魚屋でチェックしてみたが、やはり「十匹十色」。自分はこれでよし、とした。予想外の出来栄えはナベさんの見えない力が私の絵筆を動かしてくれたのか。〉

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 絵筆を持って10年が経過した。ひょんなことから「個展をやろう」と声を掛けていただいた。会場は神奈川県藤沢市にある母校の県立湘南高校・歴史館ギャラリーだという。これまで150点ほど描いたが、どれも人に見せる目的ではなく、描いては写真を撮って紀行文のようなエッセイとともにA4用紙1枚に収めてきた。この手作り画集のタイトルを「水彩紀行」と名付け、現在3冊目で160ページになった。

 「個展?」。一瞬、頭が真っ白になった。「人に見せる絵なんてないよ」。友人の画伯からの声掛けに言葉が続かなかった。「ありえない体験ができる」、と同時に「素人の私が個展?」・・・。好奇心と緊張感が交錯した瞬間だった。私みたいな素人の絵を並べて個展を開いていいものか。家族に相談したって返ってくる言葉は分かっている。「あんた、気は確か?」と取り合ってくれるはずがない。これまで描いた絵を眺めながら一晩考えた。母校からのせっかくのお誘いに応えたいが、展示できる絵があるか。素人の水彩画だけを並べたのでは、おこがましい。なにか一味違った絵画展にできないものかと考えてみた。書き溜めたエッセイ風の拙い文章を絵の下に添付した一風変わった個展にしたらどうだろうか。仲間に相談したら「絵を見に来られるので、文章なんか読まないよ」とけんもほろろな反応だった。ここも無手勝流で意地を通したい。エッセイ付きの風変わりな個展を手探りで推し進めることを決めた。22作品の原稿を横書きに変え、文字サイズも当初の2倍まで大きくしてA4サイズに収めた。3度、4度と原稿を削り落とし、13行以内に収めた。拙い原稿だが、絵を見た人がこの短い文章を読んで「えー、なるほど…」と、もう一度絵に目を戻してくれないだろうか。私は、そんな反応を心ひそかに期待している。

作品『氷河ハイキング 目の前に迫る大氷河のうねり』

 スイスの山歩きは「登る」より「下る」のが主流なので苦ではない。1896年にはアイガー山麓の岩盤にトンネルが掘削され、1912年に終着駅ユングフラウヨッホ(3454m)まで登山鉄道が開通。国内の登山道は総延長6万6200km。地球の1.5周分にあたる。32のハイキングコースが設定され、なんと憲法88条で「コースは良好で安全な状態に保たれていなければならない」と規定されている。

 2014年夏、シュテリー湖近くのフルアルプ小屋(2606m)に宿泊。夜、小屋の女主人から秘蔵のアルコールが振る舞われ、そのお返しに日本語「一期一会」の漢字と意味を熱く伝授した。その後、女主人が日本人宿泊客に披露したかは興味深いところだ。

 翌日、ローテンボーデン(2815m)から歩くと、目の前に大氷河の威容が飛び込んできた。ゴルナー氷河が大きく曲り下り、そこにシュヴァルツ氷河とブライトホルン氷河が合流する大パノラマだ。この氷河の白色でついに「禁」を破ることにした。絵の具の白を使わずに紙の白地を生かせというが、無手勝流ゆえ、あえて白色を重ねた。

≪水彩紀行展≫
会期:4月15日(月)~7月19日(金)
   月曜~土曜日(日曜・祝日は休館)
   午後1時~5時
会場:神奈川県立湘南高校歴史館ギャラリー
   藤沢市鵠沼神明5‐6‐10
   電話0466‐50‐0386
   小田急線藤沢本町駅 徒歩7分(500m)

(松田 博史)