随筆集

2016年1月8日

幕末の政治家板倉勝静

岡山県・松山藩主 板倉勝静
岡山県・松山藩主 板倉勝静

 江戸幕府最後の筆頭老中、岡山県・松山藩主、板倉勝静(かつきよ)の名は、あまり知られていないのではないか。鳥羽・伏見以降の宇都宮、奥羽、函館戦まで、官軍対幕軍のいわゆる戊辰戦争全般にかかわってきた幕府軍の旧譜代大名である。(写真は老中、後に奧州越列藩同盟参謀・板倉勝静)

 第十五代将軍徳川慶喜はすでに政権を放擲、幕府の権威は壊滅しているのに、なぜ白旗を上げずに頑なに新政府と戦っていたのか。それは、きわめて不透明な時代の政治家として、二つの節(せつ)を統合しようとしたからだと思う。天皇への忠、徳川家への義。「忠義」の狭間に悩み、義に殉じようとしたのである。

 彼の側用人だった辻七郎左衛門が明治二年に記した『艱難実録』(岡山県高梁市郷土資料刊行会、復刻書)には、自訴を勧める家臣団とあくまで戦闘続行を主張する勝静との動きが克明に描かれ、戊辰戦争の裏面がうかがい知れる。復刻書の中で辻は、「わが君のことを世間にては高名に伝すれども、実はさほどのことは之なし。正直固情に深きご性質にて(略)質朴簡便を好みて詐欺修飾をにくむこと甚し」と、その頑迷さにいささかあきれたように、主君を評している。

 勝静は、流浪の果てに新政府軍にとらえられ、赦免後の明治十年、上野東照宮の神職に任じられたまま、二十二年六十六歳で波瀾の人生を閉じた。勝静についての文献は多くないが、果然とした一幕末政治家の姿を、国民への義を忘れ、党利党略、個利個略に走りがちな現代政治家と比較して見直すのも意義あるかもしれない。

(小林 弘忠)