随筆集

2021年4月20日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その11(後編)

 写真が多いので、冒頭のみ掲載します。全文は下記のURLで検索を
 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(後編) 文・写真 平嶋彰彦

 先に述べたように、1682(天和2)年12月28日の大火は「駒込」より出火したあと、「本郷森川宿東側」から「松平加賀守上屋敷」(現在の東京大学)に燃え広がった、と戸田茂睡は書いている。

 ところで本郷森川宿とは、なんなのだろうか。宿といっても、旅行者を泊める宿場ではなさそうである。それもそうだが、現在のどのあたりをいうのだろうか。

 手持ちの資料をしらべると、もともとは1598(慶長3)年に没した森川金右衛門氏俊に与えられた与力・同心の大繩屋敷(集団知行地)だった。つまり、ここでいう宿というのは、居住地の意味である。与力は氏俊の親族ばかりで、全員が森川姓を名乗っていたことから、また中山道に面していたこともあって、森川宿の俗称がつけられた。

 ところが延宝年間(1673~81)になって、その大半が陸奥福島藩主本多家(のち岡崎藩主)の下屋敷として召し上げられ、それ以外が先手鉄砲組の組屋敷として残された。というのである。

無量寺。「足止め不動」で知られる。江戸六阿弥陀詣の3番目。西ヶ原1-34。2012.12.10
旧古河庭園。洋館はジョサイア・コンドルの設計。西ヶ原1-27。2012.12.10

2021年4月15日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その11

この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

全文は下記のURLで検索を(後編は19日)
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

その11 私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(前編) 文・写真 平嶋彰彦

 本郷追分は、中山道と日光御成道の分岐点になる。日本橋から1里の距離にあたり、1766(明和3)年に焼失するまでは、そこに一里塚があった。日光御成道は現在の本郷通りで、岩槻街道ともよばれた。本郷追分を越えると駒込で、次の一里塚は西ヶ原にあった。「ときの忘れもの」の所在地は、本郷追分と西ヶ原一里塚のちょうど中間点になる。

 2年前の6月になるが、大学写真部の旧友たちと白山と駒込の街歩きをした。このときの探索地に八百屋お七にゆかりがあるとされる円乗寺(白山1-34-6)、大円寺(向丘1-11-3)吉祥寺(本駒込3-19)が入っていた。

 八百屋お七の代表作とされる『天和笑委集』、『好色五人女』、『近世江都著聞集』、『八百屋お七恋緋桜』、『古今名婦伝』に目をとおすと、物語の概略は次のようになっている。

 八百屋の娘お七は、1682(天和2)年12月28日の大火で焼けだされ、一家とともに檀那寺に避難したとき、その寺の寺小姓と恋仲となった。年が明けて、実家にもどるが、恋慕のあまりその寺小姓との再会を願って放火、召捕られて、火あぶりの刑に処された。

八百屋お七の墓。円乗寺。白山1-34。右の石塔は岩井半四郎の建立。2018.05.23

 円乗寺は、『近世江都著聞集』や『古今名婦伝』では、お七が避難した檀那寺とされる。境内にお七の墓がある。墓石は三基あり、中央の首がもげた仏像形の石塔は寺の住職が、右側の石塔はお七を演じて好評をとった岩井半四郎が寛政年間(1789~1801)に、左側の石塔は近辺の人たちが270回忌に建立したという。

 大円寺は、『天和笑委集』によると、天和2年12月の大火の火元とされる。山門を入ったところにほうろく地蔵がある。これはお七の供養ために、享保4年(1719)に渡辺九兵衛という人物が寄進したという。ほうろく地蔵のかたわらに庚申塔がたつ。こちらは本郷追分の一里塚にあったものを移したものだそうである。

 吉祥寺は駒沢大学の前身である栴檀林のあった曹洞宗の名刹である。『好色五人女』や『八百屋お七恋緋桜』では、ここもお七が避難した檀那寺とされていて、境内にはお七・吉三郎の比翼塚が1966(昭和41)年に建立されている(ph9、ph10)。

 大円寺から吉祥寺にむかう途中、本郷通りに面した天栄寺(本駒込1-6-16)の門前に、「駒込土物店」の石碑がたっているのが。なんとなく目に入った(ph7)。「土物店」というのは青物市場のことである。

駒込土物店跡記念碑。天栄寺門前。本駒込1-6。2018.05.23

 あとで調べると天栄寺のあるところは、もとは麟祥院領駒込村の百姓地で、そこにさいかちの大木があったことから「一本さいかち之辻」と呼ばれた。近隣の農民たちが野菜を担いで江戸に向かう途中、その木の下で毎朝一休みするのが慣習となり、やがて付近の人たちがそこで野菜を買い求めるようになった。それが青物市場の始まりだいう。

 1660(万治3)年、その場所に天栄寺が本郷菊坂から移転してきた。本郷通りを隔てた東側が駒込浅嘉町・同高林寺門前であるが、そこにも土物店ができたことから、街道の両側一帯を駒込土物店と総称するようになった。やがて、町屋が許されるようになり、1745(延享2)年になると、それまでの領主支配から人別が江戸町奉行支配に変わった。駒込の青物市場は、かつては神田市場(現在の多町)を脅かすほど盛んだったということだが、1937(昭和12)年に巣鴨に移転した。

 前回にも書いたが、1854(嘉永7)年の『江戸切絵図』(尾張屋版)をみると、日本橋から本郷までの街道筋は市街地化されている。駒込まできてようやく農地や自然地の土地区分をしめす緑色があらわれ、随所に「植木屋多シ」の書込みがある。

 しかしおなじ駒込といっても、本郷追分から土物店のあった天栄寺の近辺までは、四方をびっしり家屋敷が立込んでいて、田畑や自然を確認することができない。駒込は江戸という都市空間が田園地帯と接触するいわゆる郊外の地であった。そして駒込という郊外を代表的な商売が植木屋であり、もう一つが八百屋だったことになる。

 八百屋お七の事件には異説が多い。異説が多いということは、事件の真相が分かりにくいことでもある。異説が多い原因として、江戸幕府の刑事判例集である『御仕置裁許帳』に記載がないことにくわえ、信頼にたる記録史料が見当たらないことがある。そうしたなかで、ただ一つ確からしくと思われるのが、戸田茂睡の『御当代記』である。

 この書には、1682(天和2)年の大火とその後の出来事については詳しい記述があり、翌年春のお七の事件についても、30文字たらずの短文であるが、次のような言及がある。

 「駒込のお七付火之事、此三月之事ニて廿日時分よりさらされし也」

 駒込の住人にお七という女性がいて放火の罪で召捕られた。事件はこの3月のことで、20日ごろ火刑に処され、遺骸はさらしになった。この箇所は追筆であるとされる。後日に噂話を耳にしたのだろうが、思うところがあり、書き留めたものとみられる。

 『御当代記』は5代将軍綱吉時代の様々な事件や世相をつづった見聞記で、1680(延宝8)年5月から筆をおこし、1702(元禄15)年4月で終わっている。その当時を知るうえで貴重な史料と思われるが、戸田茂睡の存命中に公開されることはなかった。

 当公方様ハ…天下を治めさせ給ふべき御器量なし、此君天下のあるじとならせタマハヾ諸人困窮仕悪逆の御事つもり、天下騒動の事もあるべし。

 家綱から綱吉への世継ぎを評した一文だが、思想表現の自由が許されなかった時代のことである。存命中の公刊など、思いもよらなかったにちがいない。茂睡の没後、自筆原稿は子孫の家に秘蔵され、1913(大正2)年になってから、佐佐木信綱がその存在を世に知らしめ、それより2年後、飯島保作による全文翻刻が『戸田茂睡全集』の一部として、国書刊行会から刊行された。

 『御当代記』にしたがえば、天和2年には2つの大火があった。1つ目は霜月28日、牛込川田が窪(現市ヶ谷柳町)より出火、四谷・赤坂・青山・麻布などの大名屋敷を次々と焼き払い、火の手は三田までおよんだ。

 物語や芝居で語り伝える八百屋お七の放火事件の発端となったとされる大火は、それよりちょうど1ヶ月後に発生した。こちらの火事は、

 極月二十八日、駒込より火出、本郷森川宿東がハ、それより本郷へ出、

 松平加賀守の本郷の上屋敷(現在の東京大学)を焼き払った、と戸田茂睡は書いている。さらに火の手は湯島をへて池之端、寛永寺黒門前から下谷へ延焼。そのいっぽう、南東方面にむかった火の手は、神田川の筋違橋、和泉殿橋、あたらし橋(美倉橋)、浅草橋を焼き落し、さらに、日本橋川の常盤橋前の町屋を焼いたあと、日本橋と江戸橋を焼き落した。それにとどまらず、飛び火して隅田川の対岸までおよび、両国の無縁寺(回向院)や深川の永代島八幡(富岡八幡)まで焼き払った、ということである。

 見逃せないのは、そのあとに掲げられた次の一文である。

 今年町同心八十人御ふちをはなたれ、あたけ丸のかこ丗人、この外方々の鳥見同心御ふちをはなれ候て、渇命いたし、火を付るとの沙汰なり。

 町同心は江戸町奉行所に所属する同心のことである。あたけ丸(安宅丸)は、この年に解体された全長30尋(57m)櫓100挺という幕府の巨大な軍船で、扶持を失った水夫(かこ)は、武士の身分であったとみられる。鳥見同心は、御鷹場で鶴・鴈・鴨などを飼育するのが役目で、かたわら町同心同様に隠密を兼ねたとされる。

お七吉三郎比翼塚。吉祥寺。本駒込3-1。2018.05.23

 いずれも下級職といっても、江戸市中やその海辺を警護・防衛する幕府の正式な役人である。その百数十人が、身に落度がないにもかかわらず、とつぜん扶持を放たれ、路頭に迷うはめになった。その腹いせに放火におよんだというのである。あくまでも噂であるといっても、どうみても尋常な社会的情勢とはいえない。

 そのような不穏な噂を裏づけるかのように、年が明けても火事は続いた。しかもどれもこれもすべて放火であった。

 去年霜月廿八日・極月廿八日両日の大火事より正月ニ至二月迄毎日之火事、昼夜ニ五六度八九度之時も有、是皆附火也。

 そこで町々に命じて、1つの町に火の見櫓を2基ずつ揚げさせ、その上に町内の大家役の者を登らせ、火の用心の監視を申しつけた。しかし、なおも放火は治まらなかった。

 それと併行して、中山勘解由直守を火付改加役に任命し、配下の与力・同心とともに、横行する放火を取り締まらせることになった。火付改加役は、後の火付盗賊改のことであるが、その捜査の仕方を戸田茂睡は次のように書いている。

 中山勘解由父子三人組与力同心ともに、火付見出し候やうに被仰付候ニ付、様々姿をかへ江戸中へ入はまり、火付を見あらはさんと仕候

 さまざまに姿を変えて江戸中に潜入したというのは、とかく弊害の多いとされる目明しを使ったにちがいない。目明しは、与力・同心の手先で、多くは犯罪者を放免し、その代償として他の犯罪者を探索させたといわれる。

 お七が処刑された2ヶ月後の5月、戸田茂睡は火付改加役の中山勘解由の捜査と取調べの方法を改めて問題視している。これもやはり噂だろうが、誤って捕らえられる人が夥しかった。くわえて、容疑者の取調べには、ためらうことなく拷問が用いられた。とうぜんの結果、身に覚えがない自白を強いられた犠牲者が夥しい数におよんだ、というのである。

 火事場ニてうろん成ものをとらへさせらるゝに、あやまりでとらるゝもの夥敷事也。問諍つよくいわざるうちハ死ぬるまでせむるゆへ、とても死するものゆへ火付ニなりても苦をのがれんと思ひ、火付ならぬものも火付と云、科人ならぬものも科といふゆへ、科人多く人の損ずる事夥敷事也。

 火付盗賊改役が設置された当初、火付盗賊改は、容疑者を召捕ると、一通りの取り調べを行い、町奉行所に引き渡すことになっていた。火付盗賊改はいわば予審裁判所で、町奉行所は本裁判所の感があった、と法制史学者の瀧川政次郎は『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』でのべている。

 そうであったとすれば、お七の事件の場合も、裁判を正式に執り行ったのは町奉行所と思われるが、その前段の捜査と取り調べは、火付改加役の手になるものだったにちがいない。それが自白偏重主義に凝り固まっていて、かつ拷問を常套手段にしていたのであれば、お七が犯人とされた放火事件も、火付改加役とその配下の与力・同心・目明しが結託して捏造した冤罪であった、という可能性もないとはいえないのである。(以上、前半)

2021年4月12日

英国フィリップ殿下の小さな思い出=元ジャカルタ特派員、秋山哲さん

ロンドン五輪開会式出席のエリザベス女王(中央)と殿下(右)=毎日新聞紙面から

 4月9日に99歳で死去されたイギリスのエディンバラ公フィリップ殿下には小さな思い出がある。

 1975年だからもう半世紀近くになる大昔の話である。当時、私はジャカルタ特派員だったが、エリザベス女王がインドネシアに非公式で寄港された。オーストラリアからの帰途だったと思うが、王室ヨットで女王一行は到着した。

 どういうわけか、女王はインドネシア駐在の外国特派員だけを招いて茶会を開いたのである。みんないそいそと出かけた。部屋の入り口で女王が記者たちを迎え、握手を頂戴した。

 女王は部屋の中を巡って、一人一人に声をかける。難しことを聞かれたら乏しい英語力で対応できるか、と不安だったのだが、「あなたはいつからインドネシアにいるのですか」と、こちらの対応力を見抜いてか、単純な質問であった。

 一安心して、ソビエトのタス通信の特派員とグラス片手に話しているところへ、スラリと長身のフィリップ殿下が、にこやかにやってきた。こちら二人がそれぞれ名乗りをすると、彼は質問したのである。

 「インドネシアで、日本の記者とソビエトの記者が何語で話しているのか」

 この人、ウイットの利いた話をするといわれているが、正にそうであった。

 私が答えたのだが、後で考えても、うまい答えをしたのである。

 「残念ながら英語で話しています」

 その後、殿下は近々、日本を訪問する、という話をしてくれた。1975年5月に女王夫妻は日本を公式訪問しているが、その話である。

 そして、女王の日本訪問は初めてだが、自分にとっては日本は2回目だという説明であった。1回目はいつだったのかと聞いた。その答え。

 「海軍に勤務していてミズーリ号に乗っていた。日本の降伏文書署名式を見ていた」

 1945年9月2日、東京湾に停泊したアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板で、マッカーサー元帥や重光外相らが署名するのを、女王と結婚する前のイギリス海軍士官フィリップは見ていたのである。この場面は映像でよく見るが、甲板の上には、白い軍装の人たちが歩き回ったり、式典を覗き見たりしている。その中にこの人はいたのである。

 これは、あまり知られていないことではないだろうか。フィリップ殿下の訃報を見て、書き残しておこうと思ったのである。

(秋山 哲)

2021年4月3日

国会福島原発事故調から見えたメディアも「規制の虜」? 事故調事務局経験から牧野義司さんが指摘

 東京電力柏崎原子力発電所(原発)で2020年3月以降、不正侵入検知の設備10か所に故障があったことが判明し、原子力規制委員会はテロ対策の不備だと問題視、1年後の今年3月24日、東電に対し核燃料搬入を禁止するなどの是正措置を出した。ニュースで大きく報じられたので、ご存知の方が多いだろう。それにしても原発の危機管理という点で、東電は何ともお粗末だ。

 東電の原発危機管理がルーズ、という点で言えば、私にとって特別な思いがある。実は、私自身が2011年3月に起きた東電福島第1原発事故の真相究明調査を行う国会事故調査委員会の事務局に1年近くメディア向け情報発信の担当者としてかかわった。事故調査を通じて見えた東電という企業の現実は、かつて毎日新聞経済部記者時代に、東電を取材した時とは全く別の顔を持っており、巨大組織病の数々だった。

 福島第1原発の事故調査に関しては当時、国会事故調以外に政府事故調、当事者の東電事故調、それに民間事故調がそれぞれ独自の立場で原因究明調査にあたった。この4機関のうち、政府事故調と東電事故調は事実上の「内部調査」で、仮に国に重大責任が及んだ場合、しっかりとした責任追及にまで踏み込めない弱みを抱えていた。これに対し、国会事故調は、超党派の立場で立法府が行政府を監視チェックし事故原因の究明も行う前例のない形の調査機関であること、特定の権益、利害にいっさい与さない、とくに政府から独立した機関として法的権限も与えられ厳しく真相究明にあたったことーーなどの特性を持っていた。このため、日本のみならず世界中が関心を持つ原発事故の調査を客観的に行える唯一の機関と言っていいのでないか、と私はかかわった当時、思った。

 現に、国会事故調報告書は、事故原因について、人災がもたらした事故とはっきり断定した。直接的には地震、そして津波によるとはいえ、土木学会評価を上回る津波が到来した場合に海水ポンプが機能不全を起こし原発サイトの全電源喪失、炉心損傷に至るというリスクがあること、その対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局、東電経営陣が問題を先送り、楽観的な見通し判断によって安全対策投資をとらなかったことが響いた。人災と言わざるを得ない、というものだ。また、監視規制する側の官僚が人事異動で十分な現場経験、政策ノウハウの蓄積がないまま、専門特化する監視対象の東電側に政策の方向付けをされるなど、結果的に「規制の虜(とりこ)」現象が起きている、といった問題を厳しく指摘したのも国会事故調だった。

 なぜ、私がそんなポジションにいたのか不思議に思われるだろう。実は以前から取材で面識のあった国会事故調の黒川清委員長(以下、当時の肩書)から電話があり「キミは毎日新聞とロイター通信の内外2つのメディアでの取材経験があり、今はフリーランスジャーナリストの立場だ。この調査には日本のみならず世界中が関心を持っており、情報発信が重要だ。記者クラブ制度の狭い枠組みを離れて大胆にやりたい。協力してもらえるか」という依頼だった。私が「意気に感ずです。お引き受けします」と答えたのは言うまでもない。

 黒川委員長の指摘どおり、私は毎日新聞で経済部を中心に約20年間、過ごし、45歳の時に毎日新聞を退社してロイター通信に転職し約15年、60歳過ぎからはフリーランスの経済ジャーナリストに転じ、77歳の今もその仕事を続けている。一方でフリーランスでの仕事中に、メディアで培った人脈ネットワークや経済部記者経験、それに問題意識が評価されたのか、アジア開発銀行からメディア向け情報発信でアドバイスしてほしい、との要請があった。そこで、最近の言葉でいう「両利きの経営」でいくことにした。その後、アジア開銀以外に日本政策金融公庫などいくつかでメディアコンサルティングにかかわった。

 さて、ここからが本題だ。私は、世界中を震撼させた巨大事故なので、メディアが記者クラブ制度の枠組みを離れて各社ごとに原発事故取材特別専門チームをつくり、その一環で国会事故調などを取材ターゲットするのだろうな、と期待した。外国メディアも同じ対応だと考え、情報発信の仕方にも工夫が必要だ、と思った。

 原発にからむキーパーソンの参考人聴取をすべてオープンにすれば、記者クラブ制度とは無関係に、メディアの独自の総合判断でニュースにして内外に向けて情報発信していくだろう、と私は判断した。そして国会事故調は、原発政策にかかわった政治家や経済産業省、資源エネルギー庁幹部、原子力委員会OB、東電幹部などの参考人聴取をすべて公開、かつ同時通訳を入れて即時に内外に情報発信できるような環境づくりで臨んだ。

 ところが、国会事故調問題の取材に関しては、各社とも旧態依然の横並びで、政治部の国会担当がカバーすることになった。それも原発事故をめぐる専門的な知識、問題意識の希薄な政治部の若い記者ばかり。取材を受けても、「何かありませんか」のご用聞き取材の域を出ず、問題の本質が何かをしっかりとおさえて書けるのかなと不安になるほどだった。

 黒川委員長もこのメディアの取材姿勢にいら立ちを隠せず、公開の参考人聴取後の記者会見でメディアへの不満を口にした。「参考人の考えに対する私の意見を聞くよりも、メディアが参考人聴取で明らかになった日本の構造問題を浮き彫りにし、独自取材で、その構造問題をさらに明らかにすればいい。その結果、検察が動くことになるかもしれない。それこそがメディアの役割でないのか」と。

 その黒川委員長は私に対しても不満をぶつけた。「規制の虜の問題は、メディアにも当てはまるな。本来ならばメディアは権力に対する監視機構なのに、その気概が感じられない。記者クラブは役所の広報機関、そこに属する記者、ジャーナリストは政府を代弁する御用記者になってしまっているのでないか。今回の原発事故は、そういった目線で対応すべきだ。オレが間違っているか?」と。

 私も、同じ思いだった。政府事故調が非公開・秘密主義なのに比べ、参考人聴取をオープンにする国会事故調はメディアにとって格好の取材チャンスなのに活かしきっていない。私の不満が募り現場記者にとどまらずKOL(KEY OPINION LEADER)の編集委員・論説委員クラスにも働きかけたが、なぜか反応は鈍く、正直、がっかりだった。私がさらにメディアの現場に不満だったのは、フォローアップ取材力の弱さだった。国会事故調報告をもとに検証という形で取材・報道が出来たうえに、世界各国から「真相を聞きたい」という声に対応して黒川委員長が講演行脚などを行った際、同行して世界各国の原発事故への受け止め方を報道すればいいのにと思った。しかし、これらの点に関して、どのメディアも希薄だったのはさらに残念だった。

 国会の対応もお粗末だった。国会事故調の報告書が衆参両院議長に提出された後、「立法府が行政府を監視する」と豪語?していた国会は、衆参両院に本来ならば超党派の特別委員会を立ち上げて、今後の再発防止策にとどまらず国の原発政策、エネルギー政策をどうするかを徹底議論するべきなのに、いっさいアクションを起さず、形だけの特別委員会を組織したのはずっと後だった。当初の驚きは、行政府に対して丸投げしてしまったことだ。

 国会事故調は事故調査報告に付随した提言で、1)規制当局への国会の監視、2)政府の危機管理体制の見直し、3)電気事業者の監視などに加え、国会に新たに独立の調査委員会の設置、端的には原子力事業者や行政から独立した民間中心の専門家からなる第3者機関として原子力臨時調査員会を設置すべきだ、と主張した。

 にもかかわらず、国会は、調査報告書を受け取った瞬間に、すべてが終わったような処理対応で、これら提言に対してアクションを起さなかった。それどころか、すでに申し上げたように、行政府への報告書対応の丸投げだったため、政府側は政府事故調の報告書、それに国会事故調の報告書の2つを抱え込み、対応に苦慮する始末だった。メディアがこれらの国会の対応を厳しく批判キャンペーンもしなかったのも驚きだった。

 原発事故から10年がたった今、原発問題にはまだまだ課題山積なのに、国会もメディアもまだまだ踏み込めていないのは、私の苛立ちだ。

(牧野 義司)

2021年4月2日

ラグビー日本代表・キャップ第1号、名フルバックだった寺村誠一さん



1930(昭和5)年9月3日付東京日日新聞

 まず、次の写真を見て下さい。

 「サンデー毎日」1930(昭和5)年11月2日号の表紙である。写真説明に、パント・キック【ラグビー遠征軍選手、寺村本社員】とある。

 91年前の1930(昭和5)年、ラグビーの日本代表が初の海外遠征を実施した。その代表選手に東大法学部を卒業、28(昭和3)年に入社したFB寺本誠一さんが選ばれたのである。

 もうひとり毎日新聞からFW岩下秀三郎さん(慶應義塾大学ラグビー部OB、30年入社)。2人は試合が終わると、原稿を書いて打電した。

 その第一報は、1930(昭和5)年9月3日付「東京日日新聞」にある。

 第1戦は、後半に逆転勝ちだった。「在留邦人も肩身が広くなったとで、その喜びはこの上もない」。カナダチームについては「背の高いことは勿論、体重が平均25貫以上(約94kg)、その上足が早いが、こちらが確実なタックルさえすれば、そう恐るべきものではないとの確信を得た」と書いている。

 終了後のレセプション。見出しに「番香坡で歓迎攻め/賞揚(しょうよう)されたスポーツマンシップ」。クレジットは「ヴァンクーヴァ―発」だ。

 初の海外遠征をした日本代表(香山蕃監督)の戦績は、6勝1引分けだった。10月15日、横浜港に帰国し、翌16日には神宮競技場で紅白試合、19日には花園ラグビー場で関西選抜と歓迎試合が組まれていた。花園には6000人の観客が詰めかけた、とある。

 凱旋したラグビー日本代表。「サンデー毎日」の表紙を飾ったFB寺村誠一選手は、W杯で活躍したFB五郎丸歩選手並みの人気だったのか。

 遠征中の成績は——。

① 9月1日 ○ 22-18 対バンクーバー選抜
②   6日 ○ 22-17 対バンクーバー選抜
③  10日 ○ 27-0  対メラロマ(バンクーバーのチーム)
④  17日 ○ 16-14 対ビクトリア選抜
⑤   20日 ○ 19-6  対ビクトリア選抜
⑥   24日 △ 3-3  対ブリティッシュコロンビア州代表
⑦  27日 ○ 25-3  対ブリティッシュコロンビア大

 日本代表選手の栄誉をたたえる「キャップ制度」は、1982(昭和57)年から始まったが、カナダ遠征の第6戦に出場した15+1の16人が、キャップ第1号の栄誉を与えられた。

 この試合、開始早々、⑪鳥羽善次郎(明大、のち東京鉄道局)がタックルの際、肩を脱臼して退場した。負傷交代は認められていない時代。カナダチームが選手を1人外したのに気づいた香山監督が15人に戻すよう申し入れたがカナダは聞き入れず、結局日本が鈴木秀丸を(法大)を補充。出場選手が15+1の16人になったのだ。

 その経緯は、この試合に出場した毎日新聞の2人の記者が速報した。試合は双方1トライずつだったが、日本代表の貴重なトライは、のちに毎日新聞のラグビー記者となる快足ウイング⑭北野孟郎(慶大)があげたという。当時トライは3点、だったのだ。

 ついでにトリビアをひとつ。寺村選手のジャージーの背番号は「1」だった。今なら「15」だが、当時、背番号はFBから始まっていたという。背番号「1」のジャージーは、日本ラグビーフットボール協会に保管されている。

 この毎友会HP「元気で~す」で佐々木宏人さん(79歳)の連載「ある新聞記者の歩み」第9回にある、寺村荘治さん(63入社)の父親「戦前のベルリン特派員寺村」は、上記の寺村誠一さんである。

1930年ジャパン(左)と1991年撮影(『東大ラグビー部七十年史』から)

 寺村誠一さんは東大法学部を卒業して1928(昭和3)年入社。ベルリンには1938(昭和13)年から3年間駐在、41(昭和16)年に帰国した、と書き残している。

 戦後、東京本社資料部長を3年ほど。日本新聞協会発行の「新聞研究」に「新聞切抜の実際」を書いた。「切抜きのぎっしり詰まったケースは日毎成長する生きた百科辞典ということができよう」と、切抜記事の重要性を説いている。

 その後、東京本社欧米部長、大阪本社外信部長、論説副主幹を歴任した。『暗号名イントレピッド—第二次世界大戦の陰の主役』など早川書房から何冊も翻訳本を出版している。

 2003年8月23日逝去。カナダ遠征チームで最長寿の97歳だった。

 キャップ第1号の同僚、岩下秀三郎(のち毎日広告社社長)は1987年12月27日逝去、83歳。北野孟郎(元運動部デスク)は1969年6月28日逝去、57歳だった。

(堤  哲)

2021年4月1日

「子ども大学」に託した一教育記者、矢倉久泰さんの夢

1日発行の季刊同人誌『人生八聲』26巻から転載



写真は「問いを学ぶー子ども大学かわごえ=「設立の助走」(2009年3月18日)から

 飛行機はなぜ空を飛べるのか、あんな重い物体が地上に落ちてこないのはなぜなのだろう。そんな子どもたちの素朴な疑問に答えながら、学ぶことの本当の楽しさを味わう場としてつくられたのが「こども大学」である。立ち上げ人の一人が、毎日新聞の教育記者だった矢倉久泰さんである。

 子どもは人間として成長する過程で、自然や社会についてさまざまな根源的な疑問を抱くが、現在の日本の教育は知識のつめこみ偏重になっているので、「学び」の原点を大切にしたいというのが彼の願いだった。二〇〇八年末に「子ども大学かわごえ」が埼玉県川越市に設立された。

 この構想を矢倉さんに持ちかけた元商社マンの酒井一郎さんによると、子ども大学の発祥の地はドイツである。ドイツでも子どもの学力低下への危機感から、教育改革への取り組みがなされるようになった。そのなかから、各地の大学を拠点に、大学の教員たちがそれぞれの専門研究分野に基づき高等教育のレベルの質を維持しつつ、子どもたちの知的好奇心にこたえ、かれらの探究心を養っていく構想がまとまっていく。

 二〇〇二年にチュービンゲン大学で子ども大学の第一号が誕生した。最初の講義は「なぜ恐竜は滅びたか?」。大きな反響を呼び、その後、同国の諸都市を中心にスイス、オーストリアを含め一〇〇近い子ども大学が開かれているという。

 酒井さんはドイツでのビジネスの第一線をし退いたあと、日本でも従来の教育では満たされなかった教育ニーズに応えるべく、ドイツのような試みに挑戦してみようと思い立った。日本の教育をよく知る矢倉さんと協力して、日本独自のモデルの構築に知恵をしぼり、川越の大学、行政、企業、市民、父兄などの協力を得て、日本初の「市民立大学」を誕生させた。

 カリキュラムは「はてな学」、「生き方学」、「ふるさと学」。地元の東京国際大学、東洋大学、尚美学園大学の教員のほかに外部の専門家たちを講師に、「なぜ飛行機は空を飛べるのか?」「なぜいのちを奪ってはいけないのか?」「『はやぶさ』と子どもたち」「原子力発電について考える」など、魅力的な講義が小学生の「学生」を相手に開講した。テレビをはじめ新聞、雑誌で引っ張りだこ凧のジャーナリスト池上彰さんも、客員教授を引き受けてくれた。彼の抜群のニュース解説力は、NHKの人気番組「週刊こどもニュース」でのお父さん役で磨き上げられたもので、池上さんは新大学の趣旨をよく理解してくれ、超多忙のスケジュールの合間をぬって、年1回の講義を続けた。

 私も一度、矢倉さんの推薦により講義をした。「『平和』ってなんだろう? ノーベル平和賞受賞者たちのしごと」というタイトルで、一〇〇名ほどの小学4~6年生と父兄を前に話をした。東日本大震災の翌年二〇一二年のことだ。私は当時、千葉市幕張の神田外語大学で教員をしていたが、大学生レベルのことを小学生にわかりやすく話すのは容易ではなく、いささか緊張した。

 まず、「『平和』という言葉を聞いて、どんなことを考える?」と質問すると、男の子と女の子が三、四人元気よく手をあげた。「毎日、おいしいものを食べられること」「朝起きてから普通の生活が送れること」「家族や友だちと仲良く暮らせること」という答えが返ってきた。たまたまだろうけど、「戦争のないこと」と答えたのは四人目の男の子だった。

 この反応には、やや意外な感じがした。というのは、大学生からは、平和=戦争のない世界という答えがまず返ってきて、それを受けて、現在の世界では平和とはもっと広い意味で理解されているのだという説明として、ノーベル平和賞受賞者の業績が軍縮や安全保障だけでなく、人権、民主化、環境、貧困などの問題解決への貢献を対象としている事実に言及することが多いからだ。

 でも子どもたちが真っ先にこのように答えたのは、「3・11」の衝撃の大きさによるのかもしれないと思いつつ、たとえばおいしいものを食べられるには何が必要かを子どもたちと一緒に考えていく。そこで、環境保護活動で〇四年のノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんの新聞記事のコピーを読んでもらう。

 地球環境が破壊されてしまったらおいしい食べ物を作ることはできない、そこでマータイさんが世界中の人びとに広めようとしたのが日本語の「もったいない」だと書かれていることを知ると、子どもたちは感動した表情になる。日本語が世界語になることを通じて、自分たちの身の回りの平和と世界の平和がつながっていることが発見できたのだ。

 戦争と平和についても、新聞記事を教材にした。〇三年三月にイラクに対する米英の侵攻が迫っていたころ、世界の六〇カ国で、一〇〇〇万人の人びとが同じ日に「戦争反対!」の行動に立ちあがったというニュースだ。その一〇〇〇万人のなかの一人である、米国の一三歳の少女シャルロット・アルデブロンさんが地元の集会で行った反戦スピーチの記事も添付した。スピーチは日本語など9カ国語に訳されてインターネットで紹介され、彼女のもとに三〇〇〇通の反響メールが届いた。

 新聞記事は小学生にはやや難しいのではないかと思われたが、小、中学校で教科書に新聞記事が載るようになったので、あえて教材にしてみた。講義後にかわいらしい文字で書かれた「学生」たちの感想文を読ませてもらった。ややわかりにくかった点はあるものの、みんながかなりきちんと私の話を理解してくれたようだということがわかり、ホッとした。

 子どもたちがとくに感動したのは、自分たちとほとんど年齢の違わない米国の少女の勇気あるスピーチ、マータイさんの「もったいない」運動。そして、日本の憲法が「戦争の放棄」とともに、世界中の人びとが私たちとおなじ「平和」な暮らしをしていけることをめざした「平和憲法」なのだということも学べたようだ。

 「今、『なぜ』と思うものはありますか」という感想文の最後の項目に、何人かがこう書いていた。「なぜ人は戦争をするのかを知りたい」。それとともに、次のような感想もいくつかあった。「平和は簡単にはつくれるものではないけれど、平和な世界をつくるための心を(一人一人が)持つことが、一番大切だと感じました」

 もう一〇年まえの貴重な体験がいまとてもなつかしく思い出されるのは、「3・11」から一〇周年を迎えたからだけでなく、それ以前の昨年一一月に矢倉さんが鬼籍に入られてしまったからである。

 矢倉さんとの最初の出会いは、文部省担当だったこの先輩記者の応援に、同じ社会部記者だった私が行かされたときである。どんな仕事をしたのかはまったく記憶にないが、ロクに役に立たなかったことだけは間違いない。その後、矢倉さんは教育記者として活躍し、私は外信部に移って国際ニュースを追うことになったが、付き合いは続いた。東京神楽坂の「みちくさ横丁」の行きつけの居酒屋、「小江戸」と称され旧い街並みが魅力的な川越市でふらりと立ち寄った一杯飲み屋で、美味しい酒を飲みながら談論風発した。

 アルピニストで毎年の年賀状には前年の山歩きの元気な写真が添えられていたが、昨年から持病が悪化してついに帰らぬ人となった。病院に見舞いに行きたくても、コロナ禍でそれもかなわなかった。

 「子ども大学」は川越に続いて鎌倉にも開学し、同市出身の解剖学者、養老孟司」東」・大名誉教授が学長を引き受けてくれたと嬉しそうに報告してくれた、矢倉さんの笑顔を忘れない。でも私が彼との思い出のなかで一番大切にしたいのは、やはり川越での講義であろう。

 故人の真新しい墓石には、「矢倉家の墓」ではなく、「平和」の二文字が刻まれている。なぜ一教育記者がそこまで平和にこだわったのか、平和とは何かについてもっと話し合いたかったが、その機会は失われてしまった。合掌。

(永井 浩)

 季刊同人誌『人生八聲』春季号(第26巻)は4月1日に発行されました。テーマと著者を紹介します。大半が毎日新聞OBです。お読みになりたい方は、高尾義彦まで、以下のメールアドレスでご連絡ください。送料込みで1部1,000円。yytakao@nifty.com

2021年3月22日

警視庁キャップ健ちゃんが訴えた「12の訓戒」

 社会部旧友・中島健一郎さん(76歳)がFacebookに、自身のメモを公開した。1985(昭和60)年8月1日に警視庁キャップになった時、クラブ員に話したものだ。

 ②の「異心円で回れ」は、他の記者と同じように取材して駄目という意味。⑤の「怠けるために働け」は、先手を打って特ダネを書けば、しばらくは怠けていても許されるという秘訣だそうだ。

 その時のメンバーは——。サブキャップ取違孝昭(元東日印刷社長)▽捜査一・三課担当恩田重男、広瀬金四郎(故人)、齊藤善也(毎日新聞大阪本社代表)▽捜査二・四課担当武田芳明(東日印刷社長)、丸山昌宏(毎日新聞社長)、原敏郎(パレスサイドビルなどを管理する毎日ビルディング社長)▽警備・公安担当森戸幸生(元スポーツニッポン新聞社長)▽防犯・交通担当中村静雄(船橋市議、元同市議会議長)。

 《僕はその年の4月にワシントン特派員から帰国し、宮内庁を担当した後、警視庁キャップになりました。3年間の警視庁時代にサブは取違、警察庁担当から横滑りの常田照雄(元専務)、森戸と3人。1課担当は藤本敏朗、小川一、防犯・交通担当も一瀬博明、平沢忠明と引き継がれました》

 《キャップになって直ぐロサンゼルスで起きた銃殺、傷害事件で三浦和義が疑われた「ロス疑惑」の取材に追われました。また8月12日にはグリコ森永事件の犯人からの「くいもんの会社 いびるの もお やめや」という終息宣言でバタバタしていたら夕刻に日航ジャンボ機墜落事件でクラブメンバーを8人現場や日本航空に取材に行かせる修羅場となりました 。とても「怠けるために働け」どころではなかったです》

 キャップ中島健一郎(68年入社)、いや健ちゃんは、伝説の特ダネ記者である。長野支局時代の連合赤軍「あさま山荘」事件。犯人逮捕、人質の山荘管理人の妻泰子さんが救出され、軽井沢病院に収容された。精神科医や警察が泰子さんに事情聴取している一部始終を報じたのが健ちゃんだった。

 《病院の前は各社の記者・カメラマンでごった返していた。1人裏手に回ったら、病室でのやりとりが聞こえた。機動隊が警備していたが、窓際にへばりついてメモをとった》

 「異心円で回れ」の典型である。

 警視庁捜査一課担当時代も特ダネを連発した。私(堤)は防犯・交通担当として警視庁クラブに一緒にいたので、よく憶えている。警視庁キャップ内藤国夫(1999年没62歳)、サブ澤畠毅(2021年没81歳)の時代である。

 健ちゃんは、その後ロッキード事件の取材班に加わり、警視庁二課担OBの板垣雅夫さん(65入社)と「中板コンビ」で発掘取材、特ダネを連発した。その活躍ぶりは『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社1977年刊)に詳しい。

 写真は、英会話の先生を囲んでの記念撮影である。警視庁クラブで毎週土曜日に英会話教室を開いていたというのだ。前列左から丸山昌宏、中島キャップ、ドーリーン先生、原敏郎。後列左から武田芳明、平沢忠明、森戸幸生、吉田弘之(アジア調査会専務理事・事務局長)、恩田重男、小川一(前毎日新聞取締役)、齊藤善也。

 《ナゼ事件記者が英会話かというと、事件の国際化もありますが、英語を学ぶくらいのゆとりがあるべきとの思いからでした。それにワシントン特派員の時に「もっと語学力があったらなー」と臍を噛んだから。七社会では東京新聞がマネして英語教室を始めましたね》

 《先生のドーリーン·バーデンさんはアメリカ大使館に紹介してもらいました。会話レッスンでは事件が話題になることが多く、ドーリーンさんは「日本が良く分かる」と喜んでいました》

 もう1枚。

 前列左から安藤隆春広報課長(のち警察庁長官)、三木賢治(警察庁担当)、小川一、中島健一郎、常田照雄。後列左から2番目から一瀬博明(故人)、吉田弘之、齊藤善也、川口裕之(現監査役)恩田重男、?、原敏郎、山本隆行

 《この野球の写真は七社会の対抗戦の時です。共同通信が優勝し、毎日新聞は準優勝でした》

 あれから36年——。現在の佐々木洋警視庁キャップ(2000年入社)は、健ちゃんの32年後輩で、警視庁キャップは19代あとである。

(堤  哲)

2021年3月22日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その10(後編)

 この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

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 その10 私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(後編)

 文・写真 平嶋彰彦

 『江戸切絵図』で、本郷通りを王子方面に向かうと、本郷追分を過ぎて、駒込の吉祥寺付近にたどりついたところで、ようやく緑色に彩色された田園風景が現われる。近世といっても幕末に近いが、駒込は江戸という都市空間の周縁であり、都市が田園と出会ういわゆる郊外だったことになる。

 駒込の田園風景を特徴づけるのは「植木屋多シ」の書き込みで、よく見れば、植木屋が軒を連ねていたのは、吉祥寺から六義園までの本郷通り東側と、それより染井霊園にいたる染井通りの北側であることがわかる。

 駒込の植木屋を考察した都市論の名作が川添登の『東京の原風景』である。

 川添登によれば、江戸時代の260余年を通じて、鑑賞用の植物としての花卉や植木の栽培技術は急速の進歩をとげた。日本の緑と花の文化が欧米に与えた影響は、浮世絵などよりはるかに大きいものがあった。そうした鑑賞用植物を栽培する最大の供給地が、桜のソメイヨシノで知られている染井を中心に、団子坂、駒込、巣鴨などの周辺地域に大きくひろがっていた、というのである。

 川添登は1926(昭和元)年生まれで、小学校1年まで駒込で育った。

 ソメイヨシノの発祥の地である染井通りから、東にやや入った個所は、『花壇地錦抄』の著者伊藤伊兵衛の菩提所西福寺と染井稲荷とが並んで建っていることは『江戸切絵図』でもみられるが、この染井稲荷の横を東へ曲がると、すぐに急な坂となる。私の生まれた家は、その中腹の左側にあった。

 文中に2カ所、方角を東とする記述があるが、これは誤りで、正しくは北または北北東。急な坂とあるのは、染井通りから染井銀座に抜ける染井坂をさすものとみられる。一家は関東大震災(1923年)の直後、染井坂の中腹にあった借家に引っ越してきたのだが、そこの大家が伊藤つつじ園の持主だった。裏木戸を開けるとつつじ園があり、あらゆる種類のツツジやサツキが植えられ、そこに自由に入って遊んだ、というのである。同書に明確な言及がないが、伊藤つつじ園の持主は、もとは藤堂家下屋敷の植木職人で、のちに江戸一番の植木屋とうたわれた伊藤伊兵衛家の系譜に連なる人物であったとみられる。

 江戸時代には、染井の植木屋はどこも花園を持っていて、その一帯は市中からの遊覧客でにぎわう江戸名所の1つとなり、浮世絵にも取り上げられた。しかし、明治時代に入ると経営が苦しくなり、昭和の初めごろには、貸家に切り替えるところが少なくなかった。それでも、大きな屋敷もそこここにあり、そのなかには植木屋の庭園もあったという。

 染井坂通りに「門と蔵のある公園」がある。植木屋を営んでいた丹羽家の跡地を整備した公園である。門は染井通りにあった藤堂家の腕木門を移築したもの。蔵は1936(昭和11)年築で鉄筋コンクリート造りの珍しいものである。周りには歴史を感じさせる大きな邸宅があり、染井稲荷からも遠くない距離にあることから、もしかすると、川添登の記憶に残っていたのは、この丹羽家の庭園のことであったかもしれない。

染井坂通り。門と蔵のある広場。藤堂家下屋敷の腕木門。駒込3-12。2021.1.15

 川添登が回想する失われた駒込(染井)の風景を、もう少したどってみよう。

 その頃、坂の下は水田が続いていたとのことであるが、すでに民家で埋まっており、とくに坂のすぐ下は、長屋が建ちならび、バラックと呼ばれ、その子供たちとあそんではいけないよ、と母にいわれていた。また染井通りの西側は、藤堂家をはじめとする武家屋敷のあったところで、高級住宅街になっていた。いずれもコンクリートの高い塀をめぐらし、大きな屋敷や本ものの西洋館が建ちならび、昼間でも人通りがなく、人さらいが出るから染井通りから先に行ってはいけない、といわれた。つまり、親から許されていた行動範囲は、染井通から坂(傾斜地)までの間、ということになる。

染井坂通り。門と蔵のある広場。植木屋だった丹羽家の蔵。駒込3-12。2021.1.15

 坂とは、染井坂通りのこと。そのころは、坂の下の低地を西から東へ、谷戸川が流れていた。かつて水田として開かれたその沿岸は宅地化され、長屋が建ちならんでいた。それをバラックと呼んでいたとある。バラックはその場しのぎの仮屋を意味する。この言葉が一般に使われだすのは、関東大震災の直後からである。

 もしかして、駒込のバラックの居住者の多くは、関東大震災の罹災者だったのではないだろうか。川添の一家も大震災の直後に引っ越してきた。母親の言葉にある「あそこの子供たちとあそんではいけないよ」というのは、経済的および社会的な格差があったことを示唆する。それにたいして、坂の上の染井通りの南側(引用文中の西側は誤り、正しくは南)の高級住宅街というのは、先に述べた岩崎弥太郎墓地付近のことである。

 そこは坂の下とは逆に、羨望の眼差しで見られていたのである。早いはなしが、坂の上も、坂の下も馴染みのうすい別世界だったのである。しかし、子どもたちが、親のいいつけをおとなしく聞いているわけがない。とうぜん越境をする。その冒険の輝かしい体験により、川添登は自分や自分の育った駒込(染井)の素顔を知ることになったのである。

 『東京ラビリンス』展を終えて間もない12月10日、六義園(写真・下)を訪れた。40年以上も前になるが、渡り鳥が越冬する都内の名所というテーマで、この名園を撮影したことがある。時期は12月の初旬で、庭園のようすはほとんど忘れてしまったが、オナガガモやマガモが遊ぶ水辺の樹々が、秋色に染まり美しかったことだけは覚えていた。

 問い合わせると、コロナ渦だが予約すれば入園できて、いまが紅葉の見どころだという。その日は前日から雨だったが、私が入園した直後に雨はやんだ。そのためか園内は人影がまばらで、鮮やかに色づいたモミジやカエデを贅沢な気分で眺めて廻ることができた。

 帰宅してから画像を整理していると、モミジやカエデと一口でいっても、たくさんの種類が植えられていて、素人目にはどこがどう違うのか見分けのつかないことに気づいた。

 そういえば、江戸一番の植木屋と評された伊藤伊兵衛政武は楓葉軒とも号している(註11)。伊藤伊兵衛といえばツツジが有名だが、モミジやカエデも得意にしていたのである。六義園で私が見たモミジやカエデの見事な植栽の背景には、駒込(染井)の植木職人が歴史的に培ってきた造園技術が受け継がれているにちがいない。

 『新編武蔵風土記稿』に次のような逸話が載っている。

 1727(享保12)年3月、将軍吉宗が伊藤伊兵衛政武の花壇植溜を観覧し、御用木として29種の草木を命じることがあった。その翌月、政武は江戸城に呼ばれ、御納戸役の松下専助から舶来の樹を示され、それについて問われると、即座に、自分はいままで見たことがないが、これは俗にいうところの深山楓によく似ているとこたえた。

 そのあと、さらにやりとりがあり、政武はその樹を呈せよと命ぜられると、1本の深山楓を盆に移した苗木と、それとは別に深山楓の実のついた折枝をそえて献上した。すると9月になって、松下専助より将軍の内命とのことで、深山楓に舶来の楓樹を接木したものを下賜された。これはたいへん珍しいものだから、生育させその種を世上に広めよ、と仰せつけられたというのである。

 上記の将軍吉宗は誤りで、観覧したのはその子の家重だという。『風土記稿』の記述がどこまで事実かはともかく、染井の植木屋が、樹木を採集したり栽培したりするだけでなく、品種改良まで試みていたことは間違いないように思われる。さらにいうなら、伊藤伊兵衛政武は植物の種類や栽培法をまとめた『増補地錦抄』『広益地錦抄』『地錦抄付録』を、先代にあたる三之丞もまた『花壇地錦抄』など、後世に名を残す書物を刊行している。伊藤家にかぎらず、染井の植木屋は、江戸時代の都市近郊における先駆的な農業技術者であるばかりでなく植物学者でもあったと考えられるのである。

 明治時代になり江戸が東京に変わると、駒込は近代都市として再編されていくが、川添登が子どもだった昭和の初めごろまでは、まだまだそこかしこに田園風景が残っていた。『東京の原風景』のなかに、川添登が師とも仰ぐ今和次郎の『日本の民家』のなかから、下記の一節が引用されている。文中の「郊外」を駒込(染井)と言い直してみれば川添登のうちなるわが街への想いのたけが、よりいっそう明確に伝わってくる。

 人の作ったものは美しい。神の作ったものはまた美しい。一方は都市で、一方は田園であるとするならば、郊外というものはこの二つの接触し合ったもの、とけ合ったものだから、郊外には二重の美しさが現われて、郊外に住家を営む人たちは幸福なわけなのだ。

 今和次郎は建築学や民俗学の研究者で、考現学や生活学を提唱した先駆者であるが、関東大震災の直後、上野公園のバラック建築を写真で記録している。『日本の民家』をみればわかるように、スケッチがたいへん上手な人だが、カメラが一般に普及する以前から、フィールドワークの記録手段として、写真を取り入れていたのである。

 今和次郎は、戦後間もないころになるが、早稲田の理工学部で教えるかたわら、学生写真部の部長を務めていたということである。情けないはなしだが、私は大学の写真部時代に、今和次郎の著作を読んだこともなければ、名前すら知らなかった。

 関東大震災のときのバラック建築の写真をふくめ、今和次郎が残した膨大な記録資料は現在、工学院大学の図書館に所蔵されている。仕事でも何でもないのにもかかわらず、その資料の所在を捜し出し、工学院大学に移管する橋わたし、さらにその整理にいたるまで、尽力を惜しまなかったのが、「ときの忘れもの」を主宰する綿貫不二夫・令子夫妻であったことは、つい最近になって知った。

2021年3月22日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その10(前編)

 この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

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 その10 私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(前編)

 文・写真 平嶋彰彦

 「ときの忘れもの」は、JR駒込駅の南方およそ300メートル、本郷通りと不忍通りの上富士交差点をわたって左折し、1つ目の筋を右折した裏通りにある(写真・下)。上富士交差点の北西側はす向かいには六義園がある。ギャラリーの南側80メートルにみえるのが駒込富士神社の社叢である。

 初めて訪れたのは、確か、2018年の秋だった。昨年秋の『平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス』の打ち合わせのためである。それ以来、ギャラリーにはなんどか足を運ぶことになり、時間があるときはその周辺を歩いてまわることにした。

ギャラリー「ときの忘れもの」は毎日新聞販売局に在籍していた綿貫不二夫さん、令子さん夫妻が1995年に青山で創立、その後駒込に移転し、26年目を迎えました。

 展覧会を開催中の11月18日、大学写真部時代の仲間との恒例の街歩きで、染井通りをはじめて歩いた。この通りは、六義園の角からまっすぐ北西方向にのびている。しかし、マンションが林立する街並みのようすから、近年に造られた道路と誤って思い込んでいた。このときの街歩きでも昭和の面影をのこすようなものは見あたらず、駒ゴルフガーデンにそびえるレバノン杉の大木と、その近くの「花咲か七軒町植木の里」と刻む石碑をアリバイ的に撮っただけだった。

 1週間後の25日、染井通りをもう1度歩くことになった。20年来の友人である詩人の中村鐵太郎さんが『東京ラビリンス』展を観に来てくれた。そのときに、彼の住む1938(昭和13)年に作られた共同住宅を一度ご覧になってみませんか、と薦められたのである。

 昭和の文化遺産ともいうべきその共同住宅は、染井通りから南に折れてJR巣鴨駅にぬける通りの途中、岩崎弥太郎墓地と三菱重工社宅の向かい側にあった。

 施主は東京帝大機械科卒の技術者で、三井金属に入社し、同社ベルリン支店に10数年勤務した。帰国後に、自宅住居を兼ねた欧米人向けの共同住宅の建設を試みたのが、この鉄筋コンクリート3階建の共同住宅だということである。南側の隣家は、1933年築の1戸建て高級住宅で、こちらも鉄筋コンクリート2階建の見るからに立派な近代建築だった。

 1878(明治11)年、岩崎弥太郎は六義園(大和郡山藩下屋敷)を払い下げた。六義園の西側に隣接していたのが藤堂家下屋敷(伊勢津藩)で、あとでわかったことだが、この共同住宅が建っているのはその屋敷地だった。1922(大正11)年、三菱財閥三代の岩崎久彌は、わが国最初の文化村ともいうべき高級住宅地「大和郷」を構想し、六義園周辺の大名屋敷跡を住宅地として整備し、これを分譲した。図書館もその文化村構想の一つで、2年後の1924年、東洋文庫(写真・下)を六義園近くに設立した。

 そんなことから、これまでうっかり見落としてきた染井通りがにわかに気になりだし、『江戸切絵図』「染井王子巣鴨辺絵図」(尾張屋版、嘉永7・1854年)にあたってみた。Googleマップで照らし合わせると、染井通りの道筋は江戸時代の後半とほとんど変わっていない。通りの南側ほぼ全域が藤堂和泉守の下屋敷になっていて、西側のつきあたりに建部内匠頭の下屋敷がある。ここは現在の染井霊園である。

 それにたいして、通りの北側一帯は百姓地や自然地を示す緑色に彩色されている。こちらは通りの全体に樹木の図を配し、現在の駒込7丁目およびその東側の6丁目と3丁目には、それぞれ「此辺染井村植木屋多し」「同断」「同」と書き込んでいる。

 そのなかに1カ所だけ町家(町並地)を示す灰色に土地区分されたところがある。先にのべた「花咲か七軒町植木の里」の石碑のたつ3丁目8番地のあたりで、そこには「駒込七軒町」と記し、「植木屋」と添書きしている。ということは、江戸時代にはこのあたりが染井村の中心地であったと想像される。

 「花咲か」の石碑は、通りに面した小さな広場の門前に建っていた。よく見れば、新しいものである。なかに入ると、面積は広くないが、菜園風の趣に造られていて、水路やポンプ井戸があった。門には「私の庭みんなの庭」の表札がかかり、その下の案内板を読むと、この地域の人たちがボランティアで運営しているということである。

 ところで、「ときの忘れもの」のある本駒込5丁目のあたりはそのころどんなようすだったのだろうか。『江戸切絵図』をみると、現在の六義園は「松平時之助」の下屋敷になる。時之助は大和郡山藩の藩主で、六義園を造った柳沢吉保の後胤である。本郷通り(本郷筋)の六義園前に「テンチウトイウ」の書き込みがある。通り沿いは灰色の色区分で「上駒込村百姓町家上富士前町」とあるから、町屋が並んでいたとみられるが、その奥は緑色の色区分で、「此辺テンチウ」「百姓地ウヘキヤ多シ」と記している。

 「テンチウ」は「伝中」と書くのだという。5代将軍綱吉は、股肱の臣ともいうべき柳沢吉保が造ったこの庭園をたびたび訪れた。このときばかりはお伴の家来が屋敷の周りに数多く待機し、あたかも殿中のようだった。しかし、そのまま書くのは憚られるから、伝中とされた、ということである。

 「ときの忘れもの」と駒込富士神社は、この絵図では範囲外になっている。このあたりが載るのは、おなじ『江戸切絵図』の「東都駒込辺図絵」である。

 駒込富士神社はどこかというと、「駒込富士前町」の東側に鳥居と社殿の図を描き、「本郷真光寺」と記しているところがある。そこが駒込富士神社になる。真光寺はいまも本郷4丁目にある天台宗寺院で、明治の神仏分離までは、駒込富士神社の別当寺だった(註5)。

 ときの忘れものがあるのは、その北側になるわけだが、このあたりは緑色の土地区分になっていて、「此辺富士ウラト云」「百姓地」「植木屋多シ」とされている。

 1680(延宝8)年の『江戸方角安見図』「三十三・駒込一(本郷すし・ひがし方)」に富士神社がでてくる(註6)。この絵図では富士塚とその頂上に社殿を描いて「富士」と記し、その横にさらに「ふじ権現」とある。

 神社の北側は、嘉永の頃とはちがって、「堀丹波守」の大名屋敷になっている。「ときの忘れもの」がいまある場所も、その広大な屋敷地のなかに含まれるとみられる。『江戸方角安見図』には、本郷通りの西側にはなにも記されていない。柳沢吉保が将軍綱吉から拝領した土地に7年がかりで六義園を完成させたのは、1702(元禄15)年である。それまでは富士権現のほか、このあたりに見るべきものがなかった、ということかもしれない。

2021年3月11日

クマノザクラでお花見を、と元大阪社会部の斎藤清明さん

 クマノザクラを、故郷の古座川(和歌山県)流域で愛でてきましたので紹介します。

クマノザクラを愛でる斎藤さんご夫妻

 去年は3月中旬に行って少し遅かったので、今年は早目にと先週4~5日に出かけました。ちょうど満開になったところでした。

 クマノザクラは、3年前に森林総合研究所(八王子市)が新種として日本植物分類学会誌に載せたものです。日本のサクラ属の野生種としては、1915年にオオシマザクラが発見・命名されて以来、百年余ぶりのこと。

 わたしが少年のころから親しんできたのが、じつは新種だったのです。

 ふつうのヤマザクラはいつも4月に咲くのに、古座川べりでは3月に咲くのもあって、「早咲きのヤマザクラ」と呼んでいました。それを近年になって森林総研が地元の県林業試験場の協力で調べると、ヤマザクラとは別種に分類できたのです。

 春に帰郷するたびに山にいち早く咲いているのを見惚れてましたが、クマノザクラということになって、いっそう美しく、誇らしく思えてきます。

 本州の最南端の清流に映え、濃い緑の山に散りばめられ、なんともいえない風情です。

 英国の阿部菜穂子さん(「チェリー・イングラムー日本の桜を救ったイギリス人」=岩波書店=の著者)に知らせると喜んでくれ、フェイスブックで紹介してくれました。彼女が新人で京都支局に来た時以来のつき合いです。

(斎藤清明=元京都支局・大阪社会部)

2021年2月22日

「社会部」が大阪で生まれて120年

 「大阪毎日新聞」(大毎、現毎日新聞)に1901(明治34)年2月25日、社会部が誕生した。20世紀最初の年である。ことし創部120年となる。

 「はじめて社会部の名称をウッ建てたのは、東西を通じてわが社が真っ先であった」

 これは東京社会部の初代部長となった松内則信(冷洋)が「大毎50年」の本紙連載(1932年3月)に書いている。松内は社会部発足の前年、1900(明治33)年入社。東京の「萬朝報」からで、それまで東京・大阪の新聞社に「社会部」はなかったというのだ。

 日本の新聞学の開拓者で、東大新聞研究所の初代所長・小野秀雄は、松内社会部長から誘われて「東京日日新聞」社会部員となる。

 「東日」がもっぱら名論卓説をぶちあげる「木鐸記者」であったのに、事件があればとにかく現場に駆けつける「大毎」社会部記者。《「頭の記者よりも足の記者が尊い」といわれたのは、この時からである》(小野秀雄著『新聞五十年』)。

 欧米の新聞社に「社会部」はない。日本独自のネーミングだが、《「社会部」が素直に定着していったところに、その後の日本の新聞を性格づける基礎があったといえるのではないだろうか。それは同時に反骨とか、野党的とか、反体制とかの精神が新聞活動の真骨頂であると認められることとも通じると思う》と、16代大毎社会部長、のちの編集主幹斎藤栄一が記している(『社会部記者 大毎社会部70年史』)。

 「問題意識の視点から取組む」社会部の誕生は、近代ジャーナリズムの幕開けとなったのである。

 「大毎」が追いつけ追い越せとライバル視していた「大阪朝日新聞」(大朝)が編集局に「社会係」を置くのが1904(明治37)年12月、と朝日新聞社史にある。東京の朝日新聞に「社会部長渋川柳次郎(玄耳)」が生まれるのが1910(明治43)年4月である。

菊池幽芳(『「毎日」の3世紀』から)

 以下に現在までの大阪と東京の社会部長一覧を掲載する。

 初代部長・菊池清30歳。文芸部主任からで、幽芳のペンネームで「己が罪」「乳姉妹」を連載。「家庭小説」の分野を開いた。「小説だけでなく、書も、歌も、菊づくりまで楽しむ趣味人だった」と部長紹介にある。

 第2代角田勤一郎・浩々歌客は、慶應義塾創立50年(1907年)に先立ち、1904(明治37)年3月に制定した旧塾歌の作詞者。

 第3代福良虎雄・竹亭は、東西の社会部長を務めている。他には第10代平川清風、第20代稲野治兵衛、第22代ヒゲの畑山博の計4人。

 第6代奥村信太郎・不染と、東京の初代松内則信・冷洋は、日露戦争で従軍記者として活躍。2人は1905(明治38)年と翌06(明治39)年の2回、鉄道早回り競争の選手として最初は10日間でどれだけ乗れるか、翌年は5,000マイルを何日で踏破できるか競った。

 鉄道が国有化される時期で、連日紙面で大々的に扱った。2人ともスター記者だった。

 奥村は1920(大正9)年の大毎野球団結成にもかかわり、25(大正14)年のアメリカ遠征では総監督として、ホワイトハウスでカルビン・クーリッジ第30代大統領と面会している。遠征メンバーに野球殿堂入りが3人いた。キャプテン腰本寿、投手の小野三千麿、遊撃手の桐原真二である。

 奥村はのちに社長となるが、戦後パージを受け、表舞台から消えた。

 第9代阿部真之助。のちにNHKの会長になるが、社史『「毎日」の3世紀』には《反骨のペン貫いた》と、その業績に4㌻も割いている。

 東京の学芸部長時代、菊池寛、久米正雄、横光利一、吉屋信子、大宅壮一、高田保、木村毅らを社友・顧問として迎え、学芸面の充実を図った。

 一覧表の阿部真之助の右側、東京社会部第4代島崎新太郎は、都市対抗野球大会をつくった。1925(大正14)年夏、明治神宮外苑に4万人が入る野球場を新設するので寄付の要請があった。「最高峰を行く野球大会を」と、当時の運動課長弓館小鰐(第1回早慶戦のときの早大マネジャー)と相談。大阪朝日新聞から大正日日新聞に移っていた橋戸頑鉄(第1回早慶戦のときの早大キャプテン)をスカウト、1927(昭和2)年に第1回大会を開いた。

 第11代徳光伊助・衣城は、大阪北浜の料亭「花外楼」のボンボン。城戸元亮編集主幹にスカウトされ、聯合通信社(現在の共同通信)からいきなり社会部長となった。読売新聞社会部から「文章のうまい遊軍記者」としてスカウトしたのが、のちの読売新聞1面「編集手帳」の高木健夫だ。

 「読者の目を射すような社会面づくりだった」と紹介されている。

 高木は、徳光の俳句を紹介している。
   外套を肩に新聞記者帰る
 格好いいね、決まってる。

 32(昭和7)年12月本山彦一社長が逝去、会長となった城戸が翌33(昭和8)年10月に会長職を追われるお家騒動があり、徳光とともに「聯合艦隊」と呼ばれた記者47人が一斉に辞めてしまった。高木も一緒だった。

 第13代本田親男は、城戸時代に長崎通信部に飛ばされた。1930年の大風水害の原稿をローマ字で海底電信に載せ、長崎―上海―マニラ―小笠原―東京と渡って、惨状を伝えた。

 49歳で社長となったが、「本田天皇」と呼ばれ、社長時代の評判は必ずしもよくない。

 第14代の大阪小林信司と東京村田忠一の在任中の1943(昭和18)年1月1日、題字を「毎日新聞」に一本化した。

 大阪の第15代浅井良任と東京の第17代森正蔵から戦後だ。

 森は45(昭和20)年12月に『旋風二十年』を刊行する。戦時中の昭和裏面史を嶌信正ら7人の記者が書いたもので、発売と同時に売り切れが続出、大ベストセラーとなった。

 東京第25代三原信一。51歳での部長就任だった。《まず断行したのは「新旧交代」「信賞必罰」を旗印にした大幅な人事異動だった》《3年間で53人を入れ替え、54人目に三原さんが去ったときの社会部の平均年齢は32・1歳》。

 1957年3月第5回菊池寛賞。社会面キャンペーン「白い手・黄色い手」「官僚にっぽん」。
    10月第1回日本新聞協会賞。社会面キャンペーン「暴力新地図」「官僚にっぽん」「税金にっぽん」。

 「50歳を超えて社会部長になったのは、三原さんに続いて2人目」と東京第34代牧内節男(95歳)。毎日新聞社会部編『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社1977年刊)がすべてを物語っている。

 東京第44代朝比奈豊。2008年社長、11年グループホールディングス社長。2020年にGH会長を退任するまで長期政権だった。

 最後に2017年4月に女性として初の社会部長となった磯崎由美。ことしの日本新聞協会賞「にほんでいきる」外国籍の子どもたちの学ぶ権利を問うキャンペーン報道。社会部長の時からキャンペーン報道に噛み、編集局次長として毎日新聞の編集部門受賞、32回目を達成した。=敬称略

(堤  哲)

2021年2月19日

お天気キャスターの先駆け・倉嶋厚さんのこと

 社会部の遊軍記者になって最初にやらされるのはお天気原稿だ。気象庁の天気相談所に電話して、気象概況を解説してもらい、夕刊早番から出稿する。遅くても午前10時半までにはデスクに渡さなければいけないので、結構シンドイ仕事だった。

 ことし関東地方に「春一番」が吹いたのは、2月4日だった。これまで最も早かったのが1988(昭和63)年2月5日。過去の記録を更新したのだ。これも異常気象?

 「春一番」は、お天気キャスター倉嶋厚さん(2017年没、93歳)が命名した、と社会部旧友・倉嶋康さん(88歳)がFacebookに書いている。

 [春一番] 2021年2月15日

 「春一番」は私と年の近い叔父の倉嶋厚が気象庁で予報官をしていた時に命名しました。そのころ私は竹橋の気象庁のすぐ近くにある毎日新聞東京本社の社会部にいて、時々気象庁に遊びに行っては特ダネをつかんだり、叔父がパレスサイドビルに来て地下で一杯やったりしていました。

 ある時大阪本社から同期の丹羽郁夫という記者が東京社会部に転勤してきました。私の一番の親友となりましたが、叔父の厚のことを知って私にこうこぼしました。

 「大阪で気象台を担当していた時にオレは『大南風』って名付けて盛んに使った。でも『春一番』のソフトなタッチには負けてしまった」と。

 自分が作った言葉が後世まで使われるってうれしいことです。え、私? そうだなあ、「ニア・ミス」を「異常接近」と訳したくらいかな。

 倉嶋さんは、気象庁主任予報官→札幌管区気象台予報課長→鹿児島地方気象台長を歴任し、1984年定年退職。そのあとNHKの気象キャスターとなる。

気象解説をする倉嶋さん(ネットから)

 お天気をわかりやすい言葉で説明した。「熱帯夜」(最低気温が25度以上の日)は倉嶋さんの造語だ。

 「雨一番」も。北海道など北国でその年初めての雪が混じらない雨を呼ぶそうだ。

 「台風は大きなバケツ」「ゲリラ豪雨」「光の春」(ロシアでは光のちょっとした変化で春を感じる)。『やまない雨はない』(文藝春秋)はうつ病を克服した自身の体験記の題名だ。「日の差す方角ばかり探している人に、虹は見えない」という言葉もある。

 いま人気の気象予報士・森田正光さんが偲んでいる。

 《倉嶋さんは、よく「人文気象学」あるいは「風流気象学」といって、普通の人々の生活感覚や、季節感、自然感が大切だと、おっしゃっていました》

 《倉嶋さんは、天気解説で大事なことは「おやまあ」「そうそう」「なるほど」の三つだといいます。「おやまあ」は、びっくりするような発見や出来事、そして「そうそう」というのは、今日は風が強くて困りましたね、というような共感、さらに「なるほど」というのは、視聴者の方がその説明を聞いて納得することだそうです》

 《倉嶋さんが亡くなられた8月3日は、一年の中で一番暑い時期です。その暑さも楽しみながら、来年から私は8月3日を「熱帯夜忌」と呼ぶつもりです》

 丹羽郁夫さんは1970年没、40歳だった。

(堤  哲)

2021年2月17日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その9

 この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を
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その9 姨捨山のつたかづら
文・写真 平嶋彰彦

 芭蕉の『更科紀行』は、1688(元禄元)年に中秋の名月を眺めるため、信濃国更級郡(長野県千曲市)の姨捨山を訪れたときの俳句と散文からなる小品である(註1)。

 姨捨山という刺激的な山名が史料に初めて登場するのは、『古今和歌集』の「雑の部」に載る「題しらず読み人しらず」の歌である(註2)。

  わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て

 『古今集』より約50年後、この姨捨山の歌は『大和物語』でも取りあげられた(註3)。同書は作者不詳の歌物語で、歌の背景には次のような出来事があったと書かれている。

 信濃国の更級に、若いときに母を亡くし、姨に育てられた男がいたが、男は妻にそそのかされ、いわれるままに、その姨を山奥に置き去りして帰った。おりしも中秋の名月で、男は月を眺めつつ、思い直して、いったんは捨てた姨を家に連れ戻した、というのである。

 ほぼ同じ内容の話は『今昔物語集』にも載っていて、そこでは舞台となった姨捨山は、千曲市南東にそびえる冠着山(「冠山」)のことだとされている(ph1、註4)。

ph1 冠着山。『今昔物語集』以来、中世にはここが姨捨山とされた。 2015.5.24

 芭蕉が訪れた姨捨山は、『今昔物語集』のいう冠着山ではなく、それよりも4キロあまり北側にある姨捨山放光院長楽寺周辺の山麓であった(ph2、3)。『更科紀行』の本文には、その所在地がどこかについて言及がなにもないが、芭蕉による別稿の「更科姨捨月之弁」には、次のように書かれている(註5)。

  山は八幡といふさとより一里ばかり南に、西南によこをりふして、冷(すさま)じう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山のすがたなり。

 「八幡」は現在の千曲市八幡のことで、武水別神社(旧八幡宮)を中心とした地域をさす(ph4)。姨捨山すなわち長楽寺はその南西約2キロにある。武水別神社付近からは「かどかどしき岩」は見えない。しかし、長楽寺境内には姨石と称する巨大な岩がある(註6)。

ph2 姨捨山長楽寺。江戸時代の姨捨山。正面奥の巨大な岩が姨石。 2015.5.23
ph3 長楽寺の観月堂。左が姨石。周りに多くの文学碑がたつ。 2015.5.23

 芭蕉は『更科紀行』の翌年、歳旦の句の1つに、こう詠んでいる(註7)

  元日ハ田毎の日こそ恋しけれ

 「田毎の日」が田毎の月を踏まえているのは、いうまでもない気がする。田毎の月とは、長楽寺門前に広がる四十八枚田と称する棚田の1枚1枚にうつる月をいう。四十八枚田は、阿弥陀の四十八願にちなんで、歌人の西行が名づけたといわれる(註8)。棚田の中央部には、宝永3(1706)年の銘をきざむ田毎観音が祀られている(ph5)。

 現在、観光名所になっている姨捨棚田は、この四十八枚田より南側の傾斜地にある(ph6)。芭蕉の来訪から9年後になる1697(元禄10)年、聖高原の大池からの用水堰が建設され、それにともない、姨捨棚田の大規模な開発が進められたのだという(註9)。

 それより86年後の1783(天明3)年、菅江真澄がこの地を訪れている。そのときに描いた「姨捨山の月見」をみると、たくさんの人が姨石の上に群がり、千曲川をはさんだ対岸の鏡台山からのぼる中秋の名月を眺めている(註10)。それよりもさらに70年ほど後になるが、歌川広重が『六十余州名所図会』の1枚として「信濃 更科田毎月鏡台山」を描いている。この図絵では、長楽寺の奥に峨々として姨石がそびえたち、門前の四十八枚田の1枚1枚に中秋の名月が描き込まれている(註11)

 『更科紀行』の本文には、先に述べたように、姨捨山が更科のどこにあるかの言及がない。そればかりでなく、田毎の月の言い伝えとか、その夜の名月の具体的な描写はなに1つ記されていない。芭蕉がひたすら書き綴っているのは、中山道の途中で出会い、更科まで同行することになった「道心の僧」との意外とも不思議とも思われるやりとりである。

 記述にしたがえば、中秋の名月のその夜、この僧は苦吟する芭蕉をみて、「旅懐の物憂さ」に落ち込んでいるのではないかと余計な心配をし、自分が若いときに廻った土地のことや阿弥陀如来の尊い功徳のこと、あるいは自分が不思議に思った体験などを話して聞かせ、気をもんでくれた。しかし、かえってそれが「風情のさはり」となり、芭蕉はただの一句もものにすることが出来なかった。

 とかくしてとりまぎれ、気づかずにいたのだが、ふと目をやると、宿のかべの破れから木の間がくれに月影が差し込んでいて、耳をすますと、鳴子の音や、鹿笛の音があちらこちらから聞こえてきた、というのである。それに続けて、「まことにかなしき秋の心、爰に尽くせり」とは書いているのだが、だからといって、芭蕉はすぐに句作を再開したわけではない。

 どうしたかというと、芭蕉は「いでや、月のあるじに酒振まはん」と口火をきり、宿の者にさかずきを出してもらい、この僧と酒を酌み交しはじめた、というのである。「あるじ」とは「あるじもうけ」のことだそうである(註12)。芭蕉が主人となり、お客として道心の僧を迎え、ご馳走をしたことになる。

 酒を酌み交わしながら、あるいはその後で詠んだのが、次の3句である。

  あの中に蒔絵書きたし宿の月

  桟やいのちをからむつたかづら

  桟や先ずおもいいづ馬むかえ

 最初の句の「あの中」の「あの」とは、もちろん中秋の名月のことだが、道心の僧と酒を酌み交わしたさかずきには「木曽の桟(かけはし)」の蒔絵が描かれていた。そのさかずきはふつうのものよりひとまわり大きく、図柄も見るからに稚拙で、風情を欠いていた。都の人なら、手にもふれようとしないとも書いている。しかし、考えてみれば、そんな代物を中秋の名月の中に描きたいと思うはずがない。そうではなく、見かけは田舎じみて卑俗な表現であっても、うちに込められた尋常ではない心模様の気高さを発見したのである。

 木曽の桟は、古代より中山道屈指の難所にかかる橋として名高かった。端(はし)とは、ものの発端であり、末端である。橋はこちらの岸とあちらの岸をかけわたす(註13)。それを飛躍させて、この世とあの世をかけわたす橋に重ねてみたのである。

 次の句では「いのちをからむつたかづら」と詠んでいる。かけわたされるのは、この世からあの世に生まれ変わる人間の生命ということになる。

 『古事記』によれば、ヤマトタケルは東国遠征から帰還の途中、伊勢国の能煩野(三重県亀山市から鈴鹿市にわたる地域)で横死した。その葬儀に詠われた挽歌のなかに野老蔓(ところづら)が出てくる(註14)。

  なづきの田の稲幹(いながら)に 稲幹に 葡ひ廻ろふ 野老蔓(ところづら)

 野老蔓は山芋の蔓草のことである。蔓草を生命に見立て、これをたぐり寄せる仕草をくりかえし、死者の魂を呼び戻そうとしたらしい。そうした古代の呪術儀礼がこの挽歌に詠み込まれているのではないか、ということである。(註15)。

 「木曽の桟のつたかずら」のデザインは、近ごろは見かけなくなった布団を包む風呂敷に描かれた唐草模様や、イギリスの童話「ジャックと豆の木」の豆の木にも通じるように思われる。植物の蔓草が絡み合いながら、どこまでも天空に伸びていく姿に、私たちは生命の不思議さを感じずにいられない、ということではないだろうか。

 3句目に「馬むかえ」とある。中古には信濃の望月の駒を朝廷に献上する習わしがあり、旧暦8月15日というから、中秋の名月の日になるが、左馬寮の使者が逢坂の関まで出向いて、その馬を迎えるのが恒例行事になっていたという(註16)。その故事を念頭に置いて詠んだわけだが、望月の駒とは反対に信濃へむかうこの旅で、芭蕉は徒歩ではなく、馬に乗っていた。それを信濃の国境のあたりで出迎えたのが、「道心の僧」ということになる。

 世阿弥作の謡曲に『姨捨』がある。中秋の名月を見るため、ある男が京都からはるばる更科まで旅をするのだが、その男を出迎えたのは、ほかならぬ捨てられた姨その人の亡霊という設定になっている(註17)。この物語で生命の象徴として登場する植物は、姨が捨てられた場所に生い茂っていた桂の木であった。桂は中国では月の中にあるという想像上の樹で、転じて月のことだとされるという(註18)。世阿弥は『姨捨』の地謡で、次のように語らせている。

  月はかの如来の右の脇侍として、有縁を殊に導き、重き罪を軽んずる、無上の力を得る故に、大勢至とは号すとか。

 かの如来とは、いわずとしれた阿弥陀如来のことで、勢至菩薩と観音菩薩を脇侍にしたがえ、一光三尊の善光寺如来として長野の善光寺に祀られている。先にも書いたように、姨捨の四十八枚田は、阿弥陀如来の四十八願にちなんだもので、歌人の西行による命名だとする伝承がある。西行はもちろん作り話に違いない。広重の「信濃 更科田毎月鏡台山」も、現実にはありえない視覚である。四十八枚田の一枚一枚に中秋の名月がうつるのは虚構であるが、阿弥陀如来の尊い功徳を求める切ない願望であったとみられる。

ph4 武水別神社。かつて別当の神宮寺があり、長楽寺はその支院だった 。 2015.9.1

 かつての馬むかえに見立てられたこの僧は、年のころ60歳ばかりで、腰のたわむまで荷物を背負い、息をせわしくさせ、足どりも覚束ないようすであらわれた、と芭蕉は書いている。それを見た越人と権七という芭蕉の従者が気の毒に思い、この僧の荷物を自分たちのものと1つにからませ、つまり一蓮托生の形に結わえ、芭蕉の乗る馬に括りつけ、一緒に旅をすることにしたのである。

 芭蕉はただの僧ではなく、わざわざ「道心の僧」と書いている。道心とは、仏道を修める心のこと、または13歳あるいは15歳から仏門に入った僧のことだというが、道心坊となると、物乞いをして歩く乞食僧のことだそうである。(註19)。だとすれば、腰がたわむまで背負った荷物はなにかを詮索するなら、町々や村々を廻って、手に入れたお布施の品々とみて、まず間違いない気がする。

 この僧が芭蕉の句作を妨げたことは、すでに述べた。若いときから、旅をしながら各地を廻り、阿弥陀如来の尊さを説くとか、念仏を唱えるとかして、人々の極楽往生を祈願したのであり、芭蕉にたいしても同じように話をして聞かせたのである。

 芭蕉は僧侶ではなかったが、身づくろいは僧の形にしていた。芭蕉が、自分は何者であるかを、自ら語る記述が『野ざらし紀行』のなかにある(註20)。

  腰間に寸鐵をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有。俗にゝて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。

 近世の60歳といえば、とっくに隠居していい年齢である。この「道心の僧」が、そのような高齢になってもなお、拝みに廻った家々から一紙半銭の施物を貰いうける勧進活動を続けたのは、それが唯一の生活手段になっていて、一所不住の旅をやめることは野ざらしになることを意味した、ということかもしれない。

  俤や姨ひとりなく月のとも
  いさよいもまださらしなの郡かな

ph5 田毎観音。田毎の月で名高い長楽寺門前の四十八枚田に祀られる。 2015.8.1

 ところで、こう詠んだ後、芭蕉一行はさらに足を延ばし、長野の善光寺を参詣している。『更科紀行』の目的は姨捨山の中秋の名月を眺めることだった。文脈からすれば、この「道心の僧」も善光寺まで同行したものと考えられる。そうだとすると、芭蕉の一行は、助けたつもりの乞食坊主に引かれて、図らずも、中秋の名月に身をもって阿弥陀如来の尊さを感得し、さらに引かれて善光寺参りをした、ということにならないだろうか。

 「牛に引かれて善光寺参り」の諺がある。これは信心のない老婆が、干していた布を角に引っかけて走り去る牛を追いかけ、図らずも善光寺参りをしたとされる説話だが、本来の形は「牛に引かれて」ではなく「御師に引かれて」ということだそうである(註21)。

 「道心」といえば、説経節の代表作の1つ『かるかや』が連想される(註22)。善光寺の門前に祀られる親子地蔵の由来をかたる唱導説話である。主人公の刈萱道心は筑前国苅萱の武士で、俗生活に無常を感じ、出家して高野聖となった。その子が石童丸で、父を慕って高野山に上るが、刈萱道心は親子の情愛が信仰の妨げとなると考え、高野山を後にして、信濃国へ向かい、善光寺のかたわらに身をよせ、高野聖から変じて善光寺聖となった。

 史実の高野聖は、近世になると、非事吏などと書かれ賎しめられたり、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」と悪口を言われたりしたというが、刈萱道心は高野聖の理想像であると同時に、善光寺聖の理想像でもあった。彼らは、善光寺の縁起と阿弥陀如来の霊験を語りながら、結縁の名号札を持って諸国を放浪したとも、村々に如来堂や太子堂を持って念仏講を主宰したとも、あるいは善光寺参りの御師や先達をつとめたともいわれる(註23)。

 連載その7では書き漏らしたが、私の郷里の念仏講の経本には、つぎのような御詠歌が載っている。

 ⇒ 以下、長文になりますので、(註)も含め、URLでご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

2021年2月15日

忘れられない若人たち<私の迎えた新人社員が続々定年>と新実慎八さん

 コロナ騒ぎで外出自粛。そこで、ふだん“積読” (つんどく)状態の自宅の書斎を片付けようと、本を並べ替えていたところ、本に挟んであった一枚の写真が出てきました。ラフな格好をした100 人近い若い男女の集合写真でした。よく見ると前列中央に禿げ頭の私らしいのが、笑みを浮かべて写っていました。しばらく考えて、38 年前の1983 年4 月、毎日新聞社の新入社員研修で富士山の5 合目まで登った際、ふもとの合宿所前で記念に撮った写真であることを思い出しました。

 研修が終わって、皆さんはそれぞれ全国の支局に赴任しました。この若人がその後一堂に会したことはないと思います。しかも今年までにみんな定年になったはず。再雇用で社に残って仕事を続けている人もいますが、当時の新入生がこのように揃ったのは二度とありません。まさに記念の写真でした。私は東京本社の編集局次長で新入社員研修の責任者でした。「校長先生」と呼ばれていました。各部のデスク(副部長)さんたちが先生として参加し、数人ずつのグループを受け持ってくれました。

 この研修のあと、地方勤務の支局を決めて、一人ひとり通告しました。皆さんの受け取り方は様々でした。九州出身のK君は 「青森支局」と告げられて、「なんで南の国から本州の北のはずれ、東北の奥へ行くのですか」とむくれていました。慶応ボーイのO君は、北海道支社といわれて 「飛ばされた」としょげていました。私は地方勤務の意味を説明し「飛ばしたり」「追いやったり」するつもりはないことを理解してもらったと思っています。

 K君は論説委員長として活躍し、定年後は専門編集委員として会社に残り、毎週コラムで健筆をふるっています。先日も国会冒頭の菅義偉首相について「物語性を欠く施政方針演説を聞き『もう無理かも』の6文字が頭から離れない」と辛辣でした。O君は中枢の要職、毎日新聞グループホールディングスの内部監査室長兼毎日新聞社社長室(局長職)の勤務を最後に定年退職しました。

 研修のとき大阪出身の女性OさんはK君、O君と同じグループだったと思いますが、私たち先生連中は 「あっちゃん」「あっちゃん」と呼んで人気がありました。神戸支局からスタートして大阪本社管内で幅広く活躍し、経済部長、京都支局長、総合事業局長、大阪本社副代表と、いずれも女性として初めてのポストを連続して見事に勤務し、昨年選択定年で退職しました。あっちゃんが経済部長のとき、東西の経済部長会で時折上京してきました。私もパレスサイドビル (現毎日ビル)の経営に当たっていたので、会議後、両部長と食事しようといいながら、時間の調整ができず実現しなかったのは残念に思っています。

 新人研修主任を終えて私は総務局長に就任し、新入社員採用の責任者として、84、85年度の採用試験に携わりました。このあと広告局長、中部本社代表となって6年間新人採用からは離れていましたが、名古屋から東京に帰ると、今度は労務・総務担当、続いて翌年には経理・総務を合わせて管理部門統括を命じられて、2年続けて採用業務に携わりました。

 ですから前後合計5年度にわたる新人との「縁」があったことになります。この新人とのご縁の前半3年間の皆さんは、すでに定年を迎えたか、続々定年を迎えつつあり、あるいは「いよいよ迫ってきた」と感じている皆さんだと思います。

 何事もないように、こんな言い方をしていますが、実は自分では、私が採用に当たった新人の定年を見届けるなんて、全く想像もしなかったことです。まして毎友会の仲間として歓迎し、また一緒に一杯飲めるなんて、びっくりです。うれしいことですが「爺さん、まだいたの」と言われるのが「落ち」でしょう。

 私は採用する新人を決めるとき、すぐ戦カとして使える人よりも、毎日新聞社の20年後、30年後を託せる人物であり、広くジャーナリズムの発展に寄与してくれる人材を選んだつもりです。明治の初めのころから、志を同じくする人たちがともに全力を投入して新聞を発行し、輝かしいジャーナリズムを発展させてきた毎日新聞社を、さらに成長させてくれる人たちであると信じて、試験委員の皆さんと〝合格"の判断をしたのでした。

 毎日新聞社が1977年に実質倒産し、新人を採用せず、新社を設立して再建を図っていることは、受験した皆さんは百も承知していました。他社に比べて賃金が安く、人員も少ない。「よくわかっています」とも言ってくれました。「でも、自由な雰囲気が好きです」「のびのびと働けると思いました」「本音では、もう少し給料がいいと…」。率直に話をしてくれました。そしてよく働いてくれました。採用に当たったものとして深く感謝しています。

 面接試験に臨んだ皆さんの真剣な表情。研修を受けていたときの熱心さ。夜一日のスケジュールが終わって、一杯飲みながら懇親会をやった時のおおらかさ・楽しさ、40年近い昔なのに、覚えているものですね。

 忘れられない一人の女性がいます。面接のとき、西武百貨店に勤務していて「歌舞伎」を書きたいから記者になりたい、というのです。いまでもはっきり記憶に残っています。「新聞社では自分の好きなことだけを書いているわけにはいきませんよ」「なんでもこなせる記者になる覚悟がなければ」。面接場は試験というよりたしなめるような雰囲気になりました。面接委員の判定は、「頑張り屋で熱意がありそうだ」「女性の歌舞伎記者が育つかも」と、採用が決定しました。彼女はいま、定年後専門編集委員として残り、歌舞伎を書き続けています。つい先日、中村勘三郎追善狂言の記事、読ませていただきました。

 わが子を心配する母親の愛情を強く感じたこんなこともありました。入社が決まって研修中のことでした。女性記者Yさんのお母さんから、娘に内緒で私に会いたいとの電話がありました。Yさんにはばれないように、社内でお目にかかると、「うちの娘は記者になれるのでしょうか。心配で、心配で」。「しっかりしたお嬢さんですよ。いい記者に育てますからご安心ください」とお帰りいただきました。Yさんは経済記者として立派に育ち、雑誌「エコノミスト」の編集長も務め、定年後、先輩記者がやっていた某業界の機関誌編集長を引き継いで活躍しています。過日、旧友会の時、Yさんのいる席でこの母親の話を紹介したら、「いやだわ、そんなことあったんだなんて。全然知らなかった」と、顔を赤くして恥ずかしそうでした。秘密を守っていた方がよかったのですね。反省しています。

 大学生のころアルバイトで編集局の専務補助員を4年もやっていたS君には、お茶を入れてもらったり、鉛筆を削ってもらいました。ワープロもパソコンもない時代でした。原稿はザラ紙1枚に30字ずつ、つまり新聞の2行分の原稿を書くことになっていました。記者は鉛筆で大きい字を書いて、印刷工場でわかりやすいようにと配慮していました。鉛の活字を一本一本拾って文章を組む手間のかかる印刷でした。そのS君が優秀な成績で筆記試験を突破して面接に。手心加えることもなく集中する質問を見事にさばいて合格。3か月後、局長になって職場で会ったら、S君は立派な営業マンの顔でした。

 研究機関に勤務していたK君、新聞社の営業がやりたいと受験。面接で趣味を尋ねたら「フランス料理を作って食べること」。面接委員から次々に質問が出て、30分間もフランス料理談義が続いたでしょうか。あとはなにも聞かず 「時間ですから」と判定を聞くと、全員「合格」。広告で頑張ったK君はこんな調子で営業成績を上げたのでしょうか。

 1年目の受験で僅差で落ち、2年目再挑戦で見事合格のT君。創価大学卒で、どうしても毎日新聞社に入りたかった、と面接で強調していました。なかなかの人物と期待していましたが、創価学会が放っておきませんでした。今や衆院議員として公明党で活躍しています。
毎日新聞社に入社され、ご縁ができた皆さん。定年を迎えられたいま、ぜひ毎友会に入られて、またご一緒に語り合い、論じ合い、呑もうではありませんか。とはいうものの、今年数えで卒寿の私、定年を迎えたばかりの若い皆さんの体力にどこまでついて行けるかわかりませんし、コロナ跋扈の中で老人はおとなしくしていなければならないのは、残念に思います。

(新実 慎八)

※新実慎八さんは、1932年生まれ。56年毎日新聞社入社。取締役中部本社代表、常務取締役管理部門統括、広告担当、パレスサイド・ビルディング(現毎日ビルディング)代表取締役など歴任。一般社団法人海外日系新聞放送協会理事長。

※日本記者クラブ会報2020年12月号「マイBOOKマイPR」から

「年表 移住150年史 邦人・日系人・メディアの足跡」

 新実 慎八(毎日新聞出身)

▼日本人移民史研究に必須の一冊

 幕末から令和まで150年にわたる、北米、南米を中心とした日本人移住の歴史を、年月日順に網羅した年表。移住先各国の実情、日系社会の出来事、邦字新聞の歩みが同時代史として一覧できる。重要語句には詳細な解説、索引をつけ、年表とは別に14カ国・地域の移住略史を加えた。筆者が理事長を務める海外日系新聞放送協会渾身の労作。日系人関係の仕事に半世紀にわたって取り組んできた同協会の岡野護専務理事(当クラブ特別賛助会員)がまとめた。

 風響社 / 5500円 / ISBN 4894892804

2021年2月12日

ロッキード事件から45年 — 岩見隆夫・才木三郎記者の追憶

岩見隆夫さん

 ロッキード社の秘密代理人児玉誉士夫に21億円——。米上院チャーチ委員会(外交委員会多国籍企業小委員会)から持ち込まれたロッキード事件。1976(昭和51)年2月5日だった。それからことしで45年である。

 「児玉を捜せ」。毎日新聞社会部で、最初に等々力の児玉邸へ向かったのは、澁澤重和(当時36歳)と堀一郎(2019年没78歳)だった。澁澤は、この事件の社会部取材班の事務局長として、紙面企画、予定稿の作成、取材費の予算要求まですべてを仕切ることになる。

 「児玉さんはご在宅ですか」

 「いません。地方に行っております」(『毎日新聞ロッキード取材全行動』講談社77年刊)

1976年2月27日朝刊3面

 児玉は、1年半ほど前に東映映画「あゝ決戦航空隊」を見ていて脳血栓で倒れた。神風特攻隊の創始者・大西瀧治郎中将を描いた映画で、児玉は大西中将の自決(敗戦の日)に立ち会っていた。

 以来療養生活を送っていた。「伊豆へ療養に行っている」のガセ情報も流れた。

 児玉邸に児玉番が張り付くのは9日から。「やはり自宅にいた」と最終確認できたのは12日になってで、24日には東京地検・警視庁・東京国税局が合同で外国為替管理法、所得税法違反容疑で家宅捜索が入った。

 当時、私(堤、当時34歳)は、警視庁公安部を担当していた。右翼は公安3課。その流れで児玉担当となった。

 といって児玉の知識はゼロ。ネタ集めをしているうちに、朝刊3面で連載が始まった。

 《病んだ保守 「児玉」の影を追って》

 政治部取材班キャップ岩見隆夫(2014年没78歳)だった。その手早さに感心した。

 政治コラム「近聞遠見」は高く評価された。亡くなったとき、毎日新聞は「評伝」を掲載した。

 児玉は、1945(昭和20)年11月、日本自由党(鳩山一郎総裁)が結党したとき、戦時中の「児玉機関」の財産一部を献金していた。保守党のスポンサーだった。そして政界の裏面で暗躍した。

 連載は22回に及び、取材の苦労話などの記者座談会を付けて、『黒幕・児玉誉士夫』(エール出版社、76年8月刊)として出版された。

 《「児玉と政界」については、私たちはこれまでもさまざまなうわさを小耳にはさんでいた。だが、断片的で、しかも裏舞台での不確かな情報ばかりだった。事件も中心人物として、いざ児玉がクローズアップされてみると、政治の内側から児玉を描く素材をほとんど持ち合わせていないことに気づかさざるを得なかった。

 児玉は一体、戦後の保守政界の隠れた部分がどんな役割を持ち、なにを画策してきたのか。

 「とにかく追え」と私は指示した》

 当時の政治部長江口宏(のち下野新聞社長、2017年没91歳)があとがきに記している。

 岩見については、当時の社会部長牧内節男(現95歳、元スポーツニッポン新聞社長・会長)が「銀座一丁目新聞」追悼録で偲んでいる。

 《彼との付き合いは50年に及ぶ。昭和38年8月、私が東京から大阪本社社会部デスクになった時、彼は入社5年目で、なかなかの書き手であった。大阪には優秀な人材が少なくなかった。東京に比べると多少時間的余裕があり勉強を怠らない記者たちがそれなりに励んでいたからだろうと思った。

 次に一緒に仕事をしたのは私が社会部長として指揮したロッキード事件(昭和51年)であった。彼は政治部のロッキード取材班のキャップであった。時に41歳。このころ政治部と社会部の風通しがあまり良くなかった。気心の知れた彼が来てくれたので万事スムースにいった。岩見君の政治情報は適確であった。ロ事件をつぶそうと「三木おろし」(当時・三木武夫首相)が起きた際、毎日新聞は1週間連続して社会面のトップを使って反対のキャンペンを展開したが、岩見班は協力してくれた。当時「毎日新聞を読めばロッキード事件がよくわかる」と評判になったのもその一因である。

 彼は当然、政治部長、編集局長を歴任しても良い人物であった。その器量を十分持ち合わせていた。何故ならなかったのか、当時の毎日新聞上層部の意向が働いたというほか言いようがない。彼の政治評論は面白かった。文章も上手であった。私は彼の「書き出し」が好きである。うまいと思う》=2014(平成26)年2月1日号。

 もうひとりの特ダネ記者を、「銀座一丁目新聞」から拾いたい。

1976年3月4日夕刊1面=この記事を執筆したのは、司法クラブ担当の高尾義彦記者(当時30歳)

 《毎日新聞がロッキード事件報道で大きく波に乗るきっかけを作ったのは『児玉誉士夫臨床尋問』の記事であった。才木三郎記者の情報が元であった。

 昭和51年3月4日の夕刊一面トップにでかでかと掲載された。白木デスクが「特ダネは派手な方が良い」とものすごく大きい活字を要求したという。

 夕刊には「10億円の脱税容疑・東京地検事件後初めて」の見出しが躍った。他社は東京地検に取材したが全面否定された。他社の夕刊は児玉の取り調べを一行も報道しなかった。他社が確認をとれたのは5日の夜になってからであった。

 ロッキード事件は新聞記者の良心と正義感をゆすぶった。それなりに成果を上げることが出来た。毎日新聞社会部編『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社昭和52年2月20日刊)が疑獄事件取材の教科書となっているのを今は亡き白木東洋さん(2012年没80歳)とともに喜びたい》=2012(平成24)年12月20日号。

才木三郎さん
                                         

 才木は、1967(昭和42)年入社。ロッキード事件が発覚した時は、司法クラブから遊軍記者になっていた。その取材力と童顔から「突貫坊や」と呼ばれた。押しの強い記者だった。

 児玉取材班に投入され、伊豆の温泉旅館で児玉を捜した。その後、児玉の主治医に密着マーク。主治医宅には他社も夜討ち・朝駆けの取材合戦だったが、正確な情報を社会部取材班にあげた。

 何故か78(昭和53)年12月に突然退職。甲府の岡島デパートに再就職して取締役にまでなったが、早世した。

 ロッキード事件は、「核心はP3C」といわれたが、それが解明されないまま終わった。

 児玉は1984(昭和59)年没、72歳だった。
=敬称略

(堤  哲)

2021年2月9日

将棋の駒の書体「無劍」は大毎取締役の号だった ― 連載小説「無月の譜」から

 毎日新聞朝刊の連載小説、松浦寿輝作「無月の譜」66回(2021年2月9日朝刊)に将棋の駒の書体についてのやりとりに、こうある。

 飛車の裏は龍王、角の裏は龍馬であるが、竜介が手にしている駒の「龍王」「龍馬」の字は、隷書よりももっと象形文字に近い、絵とか図のような感じがする記号だった。

 ――その「龍王」「龍馬」は、隷書体よりさらにいにしえに遡(さかのぼ)る、篆書(てんしょ)体の字なんだよ。歩の裏の「と金」も面白い字だろう。字というのか、記号というのか。人が武器を持って手を広げているみたいに見えるだろ。この無劍(むけん)という書体はたしか、われわれと同郷の、信州出身の政治家の手になる書から作られた、というんじゃなかったかな。

 竜介が後になって調べてみたところでは、「無劍」は、長野県松本市生まれの政治家・実業家である渡辺千冬(一八七六-一九四〇)の、書家としての号なのだった。隷書が得意な書家だったらしい。衆議院議員、貴族院議員となり、浜口雄幸内閣、第二次若槻礼次郎内閣で司法大臣を務めた。大阪毎日新聞社取締役、枢密顧問官といった重職にも就いている。理論物理学者の渡辺慧(さとし)は、その渡辺千冬の息子なのだという。

 渡辺千冬は、毎日新聞の社史に1932.12.21~39.9.1取締役とある(『「毎日」の3世紀』)。どういう経緯で取締役に就任したかは記述がない。

 ネットで調べると、1908(明治41)年衆院選で当選、政友会に入党。19(大正8)年養父国武が没し、子爵を襲爵。翌年、貴族院議員に選ばれ再び政界へ。29(昭和4)年浜口雄幸の民政党内閣で司法大臣に就任。36(昭和11)年、現在の国会議事堂が完成したとき、貴族院を代表して記念演説をした、などとある。

 その前段に《(東京帝国大学)卒業後、フランスへ留学し、帰国後、電報新聞社主筆》とあった。

 「電報新聞」は、千冬の養父渡辺国武が1903(明治36)年11月23日に創刊。3年後に大阪毎日新聞社に買収され、題字が「毎日電報」と変わっている。

 「電報新聞」創刊時、千冬はフランス留学中だったといわれ、「主筆」は一時期だったと思われる。

 「毎日電報」は、大阪毎日新聞の東京進出→全国紙展開の足掛かりになったもので、さらに1911(明治44)年3月1日付「東京日日新聞」は、「毎日電報」合同とうたった。

 「大阪毎日新聞」が「東京日日新聞」を吸収合併したのだ。「毎日新聞」に題字を統一したのは、1943(昭和18)年1月1日からだった。

 以下は、『慶応義塾出身名流列伝』(1909年6月刊)にある渡辺千冬の紹介である。

(堤  哲)

2021年2月6日

「たまげた話」木脇洋さんがいぶかしむ79年前の身内の戦死

 3月1日になると、思い出す。私の身内のKさんの命日なのだ。昭和17年3月1日、バタビア沖海戦で戦死したことになっている。享年30。志願あるいは赤札で徴兵されたわけではなく、サイゴンで今村均中将にオランダ語通訳としてスカウトされたらしい。将兵6万を53隻の大船団に乗せてのジャバ(インドネシア)敵前上陸作戦。午前1時過ぎの暗闇、米蘭豪連合軍の攻撃を受けながらも上陸に成功。ただ司令官の今村中将の龍城丸ほか4隻の輸送船が魚雷で沈没、沈座した。阿部知二、大宅壮一ら従軍作家のペン部隊と一緒の佐倉丸にいたKさんら百人が戦死した。

 その詳細を知りたくてこの作家たちの作品を読み漁った。Kさんに言及したものはなかったが、大木淳夫の作品に「東日の伊東修カメラマンが亡くなった」とあるのを見つけた。魚雷が命中して作家らは先を争って船底から脱出。仲間の頭を踏みつけて逃げ出す者もいたらしい。本社情報調査部に調べてもらった。その年の8月29日付紙面に伊東さん社葬の記事。ならば社報はもっと詳しかろうと、重ねてお願い。3月27日の社報に同行の片桐幸記者らが詳報を熱く書いていた。本社は7人の取材団を組んでいた。詳しくは省略。

1942年9月30日付社報。京都で行われた社葬の様子を掲載

 さて、その魚雷攻撃。実は日本軍の魚雷だったというネット記事が最近増えている。

 あの栗田中将の「最上」が発射したと。1984年刊の角田房子「責任 ラバウルの将軍今村均」には敵魚雷で海に投げ出されたとして書かれている。いつ変わったのか。その根拠は。国会図書館で出典を調べたいが、コロナ騒ぎで実現できていない。昨年大晦日の毎日新聞本紙に「海の戦没遺骨も収容」に政府が取り組むとあった。佐倉丸まで手が回るか、望み薄だろうな。

(木脇 洋)

 木脇さんは1965年入社。山口支局、西部報道部、那覇支局、福岡総局、山口支局、長崎支局勤務。西部代表室を経て、1995年社長室で退社。その後、スポーツニッポン新聞社、スポニチサービス(現プライム)に在籍。

2021年1月27日

夏の東京五輪・パラリンピックの行方は? 60年ローマ五輪出場の齊藤 修さん(82)の懸念

 菅首相は1月4日の年頭記者会見で、コロナウイルス対策としての緊急事態宣言の準備を発表すると同時に、夏の東京オリンピック・パラリンピックの開催にも触れ、「世界中に希望と勇気をお届けするこの大会を実現する決意のもと、準備を進める」と決意表明した。続いて13日に11都府県の第2次緊急事態宣言を発令。代表に内定している選手や大会関係者たちは、これを知ってどう感じただろうか。

 「オリンピックは遠のいた」と感じた人も多かったに違いない。

 20年4~5月の第1次宣言下では、ナショナルトレーニングセンター(NTC)の利用使用が中止となり、その後予定されていた各競技の国内、国際大会が次々に中止に追い込まれた。菅首相は「必ず1か月で改善を」と強く訴えているが、もし緊急事態が4月ごろまでずれ込んだら、どうなるだろう。選手たちの練習環境や実戦機会は失われ、厳しい状況になることは必至。外国選手代の来日も大いに懸念されている。

ボート競技の会場となった戸田漕艇場。聖火台も設置

 私が取材した64年の東京オリンピックは健康的で国民も期待を寄せる平和な大会だった。勿論、コロナウイルスなどの脅威はなかったし、大会開催に特に大きな懸念材料は見当たらなかった。

 私はオリンピック前年の63年に毎日新聞社に入社した。入社試験では中央大学の大講堂にぎっしり詰った受験生を見渡して、とても合格はおぼつかないと感じたが、結果は入社が許された。受験願書の備考欄に「60年ローマオリンピック・ボート(フォア舵手)代表」と記しておいたのが、大いに効力を発揮してくれたと今でも信じている。試験の成績はともかく翌年のオリンピック要員として採っておいても……と採用されたに違いない。

 誰に言われたか憶えてないが、「君はわが社で3人目のオリンピック選手だ」と。前の2人は大阪運動部の葉室鉄夫さん、そして東京運動部の岡野栄太郎さん。葉室さんといえばベルリンオリンピック・平泳ぎ200mの金メダリスト、岡野さんもアジア大会陸上中距離の金メダリストで、日本記録保持者だった。

 我が国のボート競技は、オリンピックには1928年のアムステルダムに初参加、以後エイト1種目を派遣してきた。60年は次回64年が自国開催なので小艇も経験させようと初めて舵付きフォアの参加を決めた。いわばおまけの参加だった。結果は予選、敗者復活戦とも惨敗。多分、当時の紙面では「予選敗退」の1行で片づけられたに違いない。個人の金メダリストたちと、全く実績のない選手とを、単に五輪経験者の枠で見られるのは面映ゆかった。

 毎日新聞の64年東京オリンピック取材班は、10月に入って4本社から約100人が召集され、私も赴任先の仙台支局から駆け付けた。取材、機材など関係者の結団式が行われ、それぞれ担当する競技が割り振られ、私は埼玉・戸田で行われるボートだけとなった。担当記者には茶色の厚手のブレザー上着が用意されていて驚いた。ブレザー代は後に給料引きでしっかり徴収された。

 カメラ2人と揃いのブレザーでチームを組み取材にあたったが、ボート競技は日程が早く、大会開始1週間後にはお役御免となった。日本勢は各種目全く振るわず、メダルどころか入賞も果たせなかったが、入社2年目で選評を書いたのは我ながら図々しいと思った。「支局からの出張者は用が済んだら帰れ」との指示で、せっかくのオリンピックなのにボート以外は何も見ずに仙台に戻り、支局のテレビで東洋の魔女たちがソ連を破るのを見て感動したのを憶えている。

東京オリンッピク取材スタッフ名簿。コピーは元大阪運動部、長岡民男さんが保存。長岡さんは陸上競技担当として参加

 その後、95年に定年退職するまで西部・報道部、東京・整理本部、同学芸部、論説室などを回ったが、いずれの職場もオリンピックとは無縁のところばかり。運動部には自分から志望したこともなかったし、お呼びもかからなかった。従って私とオリンピックの関りは前回の東京オリンピック以外は皆無である。80歳を超した今から思えば、何らかの形でもう少し五輪に関わっていてもよかったかとも思う。

 さて、コロナは収まる気配は見せず、ますます猛威を振るっている。オリンピックはどうなるのだろう。IOCはじめ政府も組織委、JOC、東京都も自ら進んで「オリンピックは辞めた」とは言い出せない事情があるのだろう。

 今のスポーツはイベント、強化など何をやるにも金がかかる。どの競技団体もサポーターと称する企業とは切っても切れない関係になってしまっている。IOCだって世界の有力企業との契約でがんじがらめになっているに違いない。

 東大ボート部の先輩で、多くの証言から昭和史の隙間を埋め、うそを暴いたジャーナリストの半藤一利さんが逝った。52年のヘルシンキオリンピックのエイト予選決勝で、慶応大クルーと競い50cm差で敗れ、惜しくも日本代表を逃した漕手だった。後年よく悔しがっていた。半藤さんならコロナ禍の五輪開催について「世界中どこの国も予選も満足にできないんだろ。準備も十分できない選手しか集まらないオリンピックなんか辞めちゃえばいいんだよ」と言いそうな気がするのだが。

(元論説室、齊藤 修)

※オリンピック出場経験者で毎日新聞に入社したアスリートには、葉室鉄夫さん、岡野栄太郎さんのほか、戦前の大島鎌吉さん、人見絹枝さんや1932年ロサンぜルス五輪・三段跳びで金メダルの南部忠平さん(後に大阪毎日新聞運動部長)、1936年ベルリンオリンピック5000メートルと1万メートルで4位の村社講平さん(大阪運動部長、取締役)らがいます。

《ローマ五輪日本選手団》ボート
エイト監督:堀内浩太郎
フォア監督:杉田美昭
斎裕教(東北大)・斎藤直(東北大)・斎藤宏(東北大)・佐藤哲夫(東北大)・田崎洋佑(東北大)・田村滋美(東北大)・千葉建郎(東北大)・広瀬鉄蔵(東北大)・三沢博之(東北大)
エイト:敗者復活戦敗退(6分24秒41)
大久保尚武(東大)・福田紘史(東大)・水木初彦(東大)・村井俊治(東大)・斎藤修(東大)
かじ付きフォア:敗者復活戦敗退(7分10秒50)

2021年1月25日

「諏訪メモ」スクープの紙面—倉嶋康さんのFacebookから

1957(昭和32)年6月29日付毎日新聞福島版

 2021年1月24日付け倉嶋康さん(88歳)のFacebook。連載している「記者クラブ」の第66回になって、やっと「諏訪メモ」のスクープ紙面が登場した。

 この報道をきっかけに、死刑判決を受け上告中の佐藤一被告(当時35歳)のアリバイが立証され、最高裁で無罪判決が言い渡される。 山本祐司著『毎日新聞社会部』の出版記念パーティーで、壇上に呼び上げられた佐藤さんは、「命の恩人」倉嶋さんと固い握手をして喜び合っていたのを思い出す。

 「サンデー毎日」に連載エッセーを書いている中野翠さんの『コラムニストになりたかった』(新潮社刊)を読んでいて、佐藤さんの夫人が三宅菊子さんだったことを知った。

 三宅菊子さんは、洋画家阿部金剛と作家三宅艶子の娘。《レッキとした「東京山の手のお嬢様」なのだが、変わり者のお嬢様だった。10代の頃は同じ山の手育ちのお坊ちゃんたちと乗馬やパーティーなどで遊んでいたらしいが、やがて新聞に取材記事を書くようになり、作家・広津和郎のおともをして松川事件を取材しに行き、被告の一人だった佐藤一さん(のちに無罪)と出会い、1965年に結婚。当時菊子さんは27歳、佐藤さんは44歳だった》。

 《佐藤さんは下山事件の解明に打ち込んでいて、それは、この76年に分厚い一冊の本、『下山事件全研究』(時事通信社)となって出版された。私も買って読ませてもらったが、まさに渾身の一冊だった。今では下山事件関連書の「決定版」と言われている。菊子さんはほんとうに嬉しそうだった》

 《最愛の佐藤一さんが他界してから3年後、2012年、菊子さんは亡くなった。74歳だった》

 中野翠さんは、1985(昭和60)年7月から始まった「サンデー毎日」連載のことも書いている。執筆を依頼したのは「サンデー毎日」のデスクをしていた元社会部のナンパ記者・市倉浩二郎(94年没、53歳)である。

 これはすでにこの毎友会HP「随筆欄」で紹介しているが、中野さんと市倉の父親は、読売新聞横浜支局で記者をしていた「奇縁」も明らかにしている。

 《父にIさんの話をしたら「エーッ、I君の息子さんが!」とうれしそうにしていた。ちょっと親孝行をした気分》=「サンデー毎日」2016年4月17日号「満月雑記帳」1095回。

(堤  哲)

2021年1月16日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その8

この連載は毎月14日に更新されます。

平嶋彰彦のエッセイ http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 その8 インドネシアの世継物語
文・写真 平嶋彰彦

 2009年8月31日、定年後の再雇用の3年が終わり、毎日新聞社を退職した。6月に刊行した『宮本常一が撮った昭和の情景』は、思ったより好評で、ちょうど4刷目の配本をすませたところだった。退職は会社員としての死を意味する。年をとれば、やがて1人前の仕事は難しくなる。引退してもらい、世代交代をする必要がある。

 年老いた親の世話で右往左往する一方、気がついてみれば、自分自身の老後が眼前の事実になりつつあった。否も応なく、先人たちが老いや死の問題をどのように向き合ってきたか、そして自分自身はどう向き合えばいいかを考えるようになった。

 そんな時期に、長年の同志ともいうべき友人に誘われ「トラジャ地方の自然と文化を訪ねる旅」に参加した(註1)。2010年3月のことである。トラジャは、インドネシア中央部に位置するスラウェシ島の山岳地帯にある。地名の原義は山の人だという。起伏のある斜面に広がる棚田は、日本の田園風景に似ていて、南緯2度で赤道直下だが、熱帯地方に特有な2期作ではなく、雨期と乾期の周期に合わせた1期作の稲作農耕が行われている(註2)。

 スラウェシ島はセレベス島の現在名である。私の子供ころ、郷里の南房総ではサトイモをセレベスとも呼んでいた。サトイモの原産地は熱帯アジアで、日本に渡来したのもかなり古い時代のことだという。セレベスはサトイモの1品種のことだが、イモが大きく収穫量も多いことから、サトイモの別名になったらしい。

 7泊8日の旅行の6日目、ボリ村というところで葬儀があるというので、その日の予定を変更して見に行くことになった。というのも、トラジャの文化は死の文化ともいわれ、死者の葬送儀礼は国際的なインドネシア観光資源の目玉の1つにあげられていたからである。

 死者はネ・シモン(シモンの祖父の意)という富裕な階層の人物で、5人の子どもと20人の孫がいた。正確な年齢は不明だが、たぶん100歳ぐらいだろうとのこと。死亡したのは葬式の1ヶ月余り以前で、遺体は家族の生活するトンコナンと呼ばれる高床式で舟型屋根の住居のなかに、葬儀までずっと置かれていた。トラジャでは死去から葬儀までの期間は1ヶ月どころか、場合によっては1年とか2年になることもあるという(註3)。

 わが国では現在、人が死ねば速やかに通夜と告別式をすませ埋葬してしまおうとする。だが、『古事記』や『日本書紀』などを読むと、古代には殯(もがり)といって、喪屋を設けて、埋葬までの間、死体をそこに安置する習わしがあり、その期間中は生死の境が定まらないと考えられたとのことである(註4)。それにたいしてトラジャでは現在でも、葬式のすむまでは、死者は死者として扱われるのではなく、熱い人と呼ばれ、病人に見立てられる。つまり死者の死を社会的に確認するのが葬式だというのである(註5)。

 トラジャの葬送儀礼でとりわけ異彩を放つのは水牛の供儀である。水牛は聖なる動物とされていて、その霊魂は死者の霊魂を守護する従者となり、「牛にひかれて善光寺参り」の諺ではないが、あの世へ無事に導いてくれるという信仰がある。供儀に捧げた水牛の角は舟型住居の正面に飾られるのだが、水牛の頭数は多ければ多いほど功徳も大きく、その数によって家の格式も評価されるという(ph1註6)。

ph1 死者ネ・シモンの舟型住居に飾られた水牛の角。ボリ村。2009.3.17

 葬儀が行われたのは死者の自宅屋敷で、舟形家屋と籾蔵などがならび、弔問客や観光客のための桟敷席も造られていた。また庭の一画に櫓を組んで仮屋を設え、そのなかに死者の棺を納めていた。裏庭をのぞくと、これから供儀に捧げられる水牛が飼い主に引かれて待機していた。ガイドの話によると、昨日は水牛3頭が供儀に捧げられたという。桟敷席に案内され、しばらくすると、庭に水牛6頭が引き出され、前脚を荒縄で縛られて杭に繋がれた。

 庭の反対側で血しぶきが飛ぶのが見えたか思うと、水牛がのたうちまわって暴れ、すぐに動かなくなった。水牛の供儀を始めたのである。危険だから桟敷から見るように、とガイドに言われた。大人しくしていたら、ろくな写真が撮れない。かまわず庭に下りた(ph2)。

ph2 水牛の供儀。死者の霊は、殺害した水牛の霊に守られ、あの世に導かれる。ボリ村。2009.3.17

 水牛は、小刀で喉元をえぐるように、一振りで切り裂いて殺す。役目の人は、1頭に対しそれぞれ1人。Tシャツにジーンズといったラフな格好だが、スカーフのような黒い領巾を首や腰に巻き、足元は裸足にしていた。殺した水牛は、その場で直ちに皮を剥ぎ、前脚部・後脚大腿部・背中などの部位に解体していく。皮剥と解体は分業化され、それぞれ2人1組で、この人たちは裸足でなく、サンダルや靴を履いていた(ph3)。

ph3 殺された水牛は、その場で解体する。正面奥は死者を安置した仮屋。左は主屋で、水牛の角や頭部を模した像を飾る。ボリ村。

 解体された肉は、死んだ本人・水牛を供出した近親者・葬式の運営に携わった役職者・水牛の殺害と解体を務めた人たち・村の有力者や一般の村民などに分配する。どの部位の肉をだれにどれだけ分けるかは、それぞれの親族が供出した水牛の頭数・死者との社会的な関係の深さ・葬儀における役目の重要度などにより決められるのだという(註7)。肉の配分をしている間に屋敷のなかを1回りすると、水牛の殺害と解体を務めた人たちが桟敷席の裏側に集まって、報酬にもらった肉を配分していた(ph4)。

ph4 報酬の肉を分ける水牛の殺害と解体に携わった人たち。ボリ村。2009.3.17

 死者の残した水田の相続は、葬儀に供出した水牛の頭数により配分が決められ、水牛を供出しないことは遺産相続の放棄とみなされるともいう。水牛の供出と肉の分配という葬送儀礼の制度は、遺産相続の制度と密接に結びついていることになる(註8)。

 死は永遠に帰宅しない留守のようなものである。死ねば空白が生じる。死者が所有した財産や生前の社会的な役割は、そのままにしておけない。相続の手続きを怠れば、残された家族や死者の属した世界は、大なり小なり不安定な状態に置かれる。水牛の供儀は、それを回避する安全装置であり、損耗した世界の再生装置ともいえる。

 死は永遠に帰宅しない留守のようなものである。死ねば空白が生じる。死者が所有した財産や生前の社会的な役割は、そのままにしておけない。相続の手続きを怠れば、残された家族や死者の属した世界は、大なり小なり不安定な状態に置かれる。水牛の供儀は、それを回避する安全装置であり、損耗した世界の再生装置ともいえる。

ph5 キリスト教プロテスタント派の女性牧師の説教。死者のネ・シモンはその信者だった。左奥に喪主の女性がいる。村。2009.3.17

 私の父親が亡くなったのは2006年になるが、親戚の人たちと事前に葬儀の相談をした。連載その7で書いたように、念仏講の死生観では、阿弥陀や釈迦など十三仏が来迎して、死者の霊をあの世に引導してくれることになっている。仏式の葬儀だから、供物に鳥獣や魚の肉が除外されるのは言うまでもない。

 相談の席で重要議題になった一つは、供物というよりも祭壇の飾りだった。具体的には白・金・銀の蓮華の造花・灯籠・光輪・くす玉・缶詰・生花など南房総に特有な装飾品のことだが、これを誰に出してもらうかであった。白蓮華は喪主と決まっているが、そのほかの飾りは喪主と親戚中で話し合って、頼む相手を決めることになっている。たいていは従来通りということになるのだが、とはいっても、人選にあたっては、喪主や葬家とのこれまでとこれからの関係の重要度が改めて判断されるのである。

 香典にもそれと似たところがある。どこの家でも詳細に記録を残していて、その金額の変化は家と家の関係性の変化とみなされる。南房総の郷里とインドネシアのトラジャでは、死生観や葬祭の様式には、天と地ほどの違いがある。だからといって、共通点がないわけでもない。葬送儀礼は死の確認であると同時に、世代交代の舞台になっているのである。

 郷里では、これも前回の連載で書いたように、告別式がすむと野辺送りをする。このときは家から寺まで列を組んで行進し、寺に着くと、境内を時計回りに3度廻る。そうすることで、死者の霊の目をくらませ、あの世とこの世の境を分からなくさせるのだという。また、葬式のなかには引導をわたす場面がある。死者に死の事実を認識させると同時に、この世への執着を諦めさせ、あの世への旅立ちを決心させるのだが、地方によっては、そのときに鍬を投げつけることもある、ということである(註9)。

 これを彷彿させるような場面が、やはりトラジャでも見られた。水牛の供儀がすむと野辺送りになる。死者の棺を櫓から降ろして、親族が最後の別れをする。棺の周りを参列者が輪になってダンスをするなか、棺は輿の上に乗せられる(ph6)。

ph6 櫓の仮屋から下された棺。周りでは参列者が輪になって踊る。ボリ村。2009.3.17

 10人余りの若者がこれを担ぎ、上下左右に激しく揺さぶりながら庭を練り歩いた後、いよいよ家の外に出ようとするそのとき、とつぜん担いでいる何人かが、棺をもとへ押し戻そうとする。あの世へ旅立たせるかこの世に引き返さすかを、担ぎ手同志で争っているのであろう。それを2度か3度か繰り返したあと、ようやく墓地に向かったのである(ph7)。詳しい信仰的背景は分からないが、死者の霊はこの世への執着を諦め、あの世への旅立ちを決心したものとみられる。

ph7 野辺送り。屋敷を出る間際、棺の担ぎ手が、死者をあの世に送るか、この世に留まらせるか2つに分かれ争う。ボリ村。2009.3.17

 墓地は集落のはずれの水田のなかにあった。トラジャの伝統的な埋葬の方法は、岩山に洞窟を穿ち、そこに棺を納めるいわゆる風葬なのだが、ここでは鉄筋コンクリート造りの建物を設けて、そのなかに安置するという形をとっていた。

 野辺送りには、どういうわけか、喪主や弔問者の姿がなかった。意外だったのは、墓地に10数人もの子供たちが待ちかまえ、納棺のようすを笑顔で見守っていたことである。そういえば、棺を担ぐ若者たちも、野辺送りの初めから終わりまで、笑顔を絶やさなかった。わが国の葬送儀礼では、何かと言うと、しめやかさばかりを強調する傾向がある。そうした伝統になれた感覚からすると、トラジャの葬儀は実にあっけらかんとしていて、意外というよりも不思議な気がしてならなかった。

 納棺のすんだのを見とどけ、帰ろうとしてふりかえると、墓所の施設の屋根に十字架が飾られているのが見えた(ph8)。死者のネ・シモンはキリスト教プロテスタント派の信者であり、式次第のなかには女性牧師の説教があった(ph5)。かれの死者儀礼は、19世紀にオランダの植民地政策に伴って浸透したキリスト教とトラジャの伝統宗教であるアレック・ト・ドロ(祖先のやり方の意)との混交した形で執り行われたのである。

ph8 野辺送り。棺を納めた墓地の建物に十字架が飾られている。ボリ村。2009.3.17

(註1)友人は前田速夫さんのこと。文芸誌『新潮』の元編集長で、私の加わっていた「白山の会」(庶民信仰の研究グループ)の同人。このインドネシアへの旅行を企画したのは桃山学院大学の沖浦和光名誉教授で、関西と関東から20人が参加した。沖浦先生は旅行直前に体調を崩し、同大学の寺木伸明教授が団長を務めた。
(註2)「トラジャ地方の風土・歴史・文化」(沖浦和光、「トラジャ地方の自然と文化を訪ねる旅」パンフレット所収、2010)
(註3)『死の人類学』第五章「トラジャにおける生と死」(内堀基光・山下晋司、講談社学術文庫、2006)
(註4)「大嘗祭の本義」(『折口信夫全集 第3巻』所収、中公文庫、1975)
(註5)前掲、『死の人類学』第五章「トラジャにおける生と死」
(註6)前掲、「トラジャ地方の風土・歴史・文化」
(註7)前掲、『死の人類学』第五章「トラジャにおける死の解決」
(註8)同上
(註9)『喪と供養』Ⅱ葬具論 七「鍬」(五来重、東方出版、1992)

2021年1月3日

4本足のニワトリ ― 元気な倉嶋康さん

 社会部の先輩・倉嶋康さんが元気だ。今週中に米寿を迎えるが、Facebookに精力的に書き続けている。

 〖新年のごあいさつ〗

 あけまして おめでとう ございます

 激しく揺れる世の中ですが、せめてお正月だけは心安らかに、そして豊かに過ごしたいと思っています。私も今月7日でようやく88歳になります。さまざまなことがありましたが、人の幸せとはそれぞれの心の立脚点によって違うものだと思っています。

 私は小さな幸せで満足する方です。そしてここまで来れば後方確認はしないで前方注視のみでゴールインする心算です。

 今年も昨年からのフェイスブック(FB)の連載2本を続けます(注:奇数日は「走れ!! 五輪へ」、偶数日は「記者クラブ」)。続いての企画も立てていますので、どうぞよろしくお付き合い頂きたく存じます。皆様もどうかお健やかに。そしてそれぞれの思いの中の幸せをつかまれますように。

 倉嶋さんは、暮れに「4本足のニワトリ」をアップした。

 《もう40年余り前になりますが、当時いた新聞社で同僚が「いまどきの若者はニワトリが4本足だと思っている」と発言したので周りにいた記者たちは「まさか」とか「そりゃあ飛ばしすぎだぜ」と笑いました。言い出した記者は憤然として「じゃあ、待ってろ」と姿を消しました。

 数日後、意気揚々と出社した彼は、おもむろに皆の前で大きな画用紙を広げました。のぞきこんだ一同、思わず息を吞みました。立派なニワトリが4本の足でしっかり大地を踏みしめているではありませんか》

 その絵が――。

 倉嶋さんの文章にある同僚が私(堤)なんです。1974(昭和49)年5月、大阪社会部から東京社会部に戻って遊軍・夕刊3面担当になった。キャップが高井磊壮さん(1990年没、59歳)、サブキャップが倉嶋康さん、兵隊が1年先輩の寺光忠男さんと私だった。

 夕刊3面については、整理マンの鬼才・諸岡達一さんが「ゆうLUCKペン」第42集(2020年発行)にスタート時のことを書いている。夕刊改革の目玉として誕生、1971(昭和46)年3月1日の初日は、国鉄鶴見線の12駅が無人駅となって「駅員76人が”消えた”」。

 社会部の名文記者・杉山康之助さん(1979年没、42歳)がルポを書き、諸さんがレイアウトを担当した。

 「4本足のニワトリ」の話は、秋田版から拾った。「都会ならあり得るかも知れないが、秋田で?」と疑問の声が出て、即現地へ出張。秋田大学の学生が画いた「4本足のニワトリ」の何枚かを先生から借りてきた。

 かなりの反響があった。

 夕刊3面誕生からことしで半世紀になるわけだ。

(堤  哲)

2020年12月15日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その7

この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429087.html

その7 祖霊信仰と念仏講の解体
文・写真 平嶋彰彦

 2006年8月24日、この日は私の定年式だった。といっても、そのさき3年間の再雇用が決まっていて、それも引続き同じ職場で働くことになっていた。一方では、それまでとそれからの時間には大きな断絶があることも確かだった。なんとなく落ちつかない気持ちのまま、定年式と退職に伴う手続きをすますと、習志野の自宅へ飛んで帰った。そして、取るものもとりあえず、妻と一緒に実家のある館山へ車で向かった。

 この日は南房総では地蔵盆にあたっていた。私の家では、この年の3月に父親が亡くなり、8月1日から31日までの1ヶ月間に新盆の行事がいくつかあり、地蔵盆の日には、旧西岬村の6箇所にある地蔵さまを廻りお参りする習わしがあった。

 実家のある集落には、そのころまではまだ念仏講が残っていた。その法要で唱える念仏の1つに「六地蔵」がある。現在残されている経本は、もとの形が崩れているらしく、意味のとれないところもあるが、この地蔵廻りの趣旨をそれとなく感じとることができる。

 一、南無仏の大慈大悲の誓いにて、弥陀の浄土へ守り給へよ(小沼)
 二、無始よりの造りし罪も其の訳(まま)に、法の功徳で照らせ給へよ(根本)
 三、地獄・餓鬼・畜生・修羅や、人間の快楽を当へ給えよ(伊戸)
 四、倉を満ち一切衆生末の世の願いままに授け給えよ(川名)
 五、菩提心発せば到る彼の岸へ、唯一筋に送り給えよ(洲崎)
 六、さぞさぞや衆羅で迷いし六道を、早く静めて得させ給ゑよ(波左間)
 七、極楽の辻にたたれし地蔵尊、導き給へ弥陀の浄土へ

 上記の旧西岬村の西岬というのは、館山市の南部から西側に突き出た岬のことで、東京湾の入口に位置する海上交通の要衝である。館山市との合併は1954年、私が小学校2年のときだった。実家があるのは「六地蔵」で最初の札所になっている小沼という集落だが、時間がなかったので、6番目の波左間から車を使って逆廻りにお参りすることにした。

 波左間に着いたときは、すでに午後4時をまわっていた。この日は地蔵盆の幡が立つから、場所はすぐ分かると聞いていたが、すでに片づけてしまったらしく、それらしきものは見あたらない。漁港近くの雑貨屋で尋ねてみると、70代のおばさんが出てきて、場所を教えてくれたついでに、こんな話を聞かせてくれた。

 新盆の家はもちろんだが、そうでなくとも、むかしはこの日に地蔵廻りをする人が多かった。自分が若いときには隣近所の女たちと誘い合って、念仏に唄われる6箇所だけでなく、坂田や見物などにも札所があり、そこにもお参りをした。なにしろ暑い盛りのことだから、涼しいうちにということで、日の出前から歩きはじめた。波左間から洲崎を廻って小沼までは海岸沿いで、上り下りが少ないから、まだましだった。しかし、そこから先は急な山道になっていて、切通しの先のトンネルを越えて、最後の東漸寺(見物)に着くころには、暑さと疲れで身体がへとへとになった。地蔵廻りを終えると、近くの雑貨屋に立ち寄り、一息つくのだが、お茶を飲みながら余所の人たちとおしゃべりするのが楽しかった、という。

 実家のある小沼では、この日に堂番が3人出て、朝5時から地蔵堂を掃き清め、お茶とお菓子を用意するなどして、地蔵廻りの参詣客を待ち受けた。午後2時ごろになると、集落の女たちが三々五々お堂に集まってきて、念仏を唱えるのが習わしになっていた。

 家に帰るころには薄暗くなっていた。母は窓を閉め切ったまま扇風機もつけず、テレビを見ていた。庭の盆灯籠と仏壇の前の盆棚に火を灯し、墓参りに向かった。1週間前に供えた花は見事に枯れていた。飾る花のないまま、白木の灯籠と切子提灯に火を灯し、線香をあげた。お堂は鍵がかけられ、本尊の地蔵菩薩は拝めなかった。地蔵廻り最後に、切子提灯の1つを焼却炉で焼いた。むかしは墓に飾ったままにしたが、雨風にさらされ汚いので、そうすることになった。

 私の郷里では念仏講が葬式や供養の中心的な役割を担ってきた。20軒足らずの集落だが、十七日講を名乗る講が2つ、二十日講を名乗る講が1つ、都合3つの念仏講があった。月に1度の寄合講で、講名は開催日にちなむ。家が単位だが、実態は女だけの女人講である。在家の自主管理で運営され、菩提寺は曹洞宗だが、寺の関与はほとんどない。私の家が入っていたのは十七日講で、8軒で構成され、月々の会場は8軒で持ち回りにしていた。

 ふだんの念仏講は夕食後の夜7時とか8時から催された。法要を営むのは仏壇のある部屋で、西国三十三箇所観音霊場の掛け軸が懸けられた。最初は百万遍の数珠繰りで、輪になって座り、大小合わせ108個の数珠を揉むようにして順繰りに回していく。

ph1 実家で催された念仏講。百万遍の数珠繰り。館山市小沼。2011年10月17日。

 終わると、仏壇に向かって座り直し、念仏の読誦となる。先達と呼ばれる2人が鉦をたたいて音頭をとり、全員で念仏を唱和する。読経の順番は、「般若心経」、「香偈」、「帰依三宝」、「六地蔵」、「御詠歌」、「回向」で、時間は30分から40分。近年には経本を見ながら念仏を唱えていたが、ひと昔前までは、口から口へ言い伝えるもので、私の母なども、意味は分からないまま、念仏の経文はすべて暗記していた。

ph2 実家で催された念仏講。念仏の読誦。館山市小沼。2011年10月17日。

 法要が終わると別の部屋に移り、お茶とお菓子が出て、懇親目的の雑談会になった。農事に関するいろいろな相談とか、近隣の市町村で起きた出来事や、集落のなかの噂話など、話題はとりとめがない。情報交換の場であり、老若同席の教育の場でもある。女による女のための学校だったとも言える。

 通夜のときの念仏は、「六地蔵」の代わりに「十三仏」を唱える。これは十三仏の来迎を仰いで、極楽浄土へ引導してもらうのだという(註)。この念仏は午後8時、10時、12時と3回。戦前には午前2時に4回目もあったらしい。文字通り夜を通しての法要だったのである。1回目は般若心経から始めるが、2回目からはこれは省く。3回目のみは、最後に次の誦句を唱和して締めくくる。

  かりの世にかりの身体を借りて来て、今たちかえる弥陀の浄土へ

 通夜と告別式の導師は菩提寺の住職が務めるが、念仏講の主催する法要に住職が同座することはまずない。告別式を終えると野辺送りをするが、納骨をすませると必ず郷念仏をした。郷念仏とは集落にある3つの念仏講が総出で催す念仏のことをいう。

 私の母は最晩年には、「私は長生きをしすぎた。友だちはもう誰もいない。十七日講に送ってもらい、早くあの世に行きたい」と口癖のように繰り返していた。神仏の恒例行事は動もすると怠りがちで、信仰とは無縁に近い生活ぶりだったが、念仏講の催しだけにはなぜか心の安らぎを見出していたのである。

 その母が亡くなったのは2018年11月で、96歳だった。しかし、そのときにはすでに念仏講は消滅していた。そのため、通夜の念仏も納骨後の郷念仏もないまま、母をあの世への旅立たせることになった。念仏講が解体したのは、講中の人たちが高齢化するばかりで、後継者がいなかったからである。私の母はそのなかでも最年長だった。90歳を過ぎても、1人暮らしをしていたが、さすがに夜間の1人歩きは危険になり、講を休むと言い出した。そのほかも80代が4人、70代が3人、60代以下は0人、という異様な年齢構成で、しかも孫子どもと暮らしているのは1軒だけだった。

 3つの講はどこも同じような状況だった。そのため、相互に話し合い、講組織を1つにまとめるとか、夜の催しを昼にするなど、存続の工夫を試みたという。しかし、そんなことで抜本的な解決ができるはずがない。念仏講は2015年ごろまでに活動を停止し、郷里における死者の葬送と供養で中心的な役割を担ってきた近世以来の歴史に幕をおろした。

 母は最晩年の3年余りを養護施設で暮らしていた。口のなかが痛いと頻りに訴えていると施設の担当者が言うので、病院で診てもらうと末期の舌癌だった。医師の勧めもあり、苦痛をともなう手術は諦めて、なるべく苦しまないで死を迎える方法を選んだ。それよりちょうど半年後、病院から夜中に連絡があり、容態が急変したというので、駆けつけてみると、すでに息を引きとった後だった。

 葬儀社とすぐに連絡をとった。父の葬儀のときは、通夜は実家で、告別式は斎場で行った。しかし、母の場合は、両方とも斎場で行うことにした。先に述べたように、念仏講が解体してしまい、通夜の念仏と納骨後の郷念仏が出来なくなった。また、実家はふだん誰も住んでいないから、大勢の弔問客に対応する準備が難しくなっていた。

 母の遺体は自宅に帰すことをしなかった。病院から斎場に移し、そのまま安置してもらうことにした。行ってみると、安置室が用意できるまで、遺体は倉庫のような部屋に置かれていた。わずかな時間とは言いながら、ひどく無惨な気がして胸がつまった。写真に撮って置かなければ駄目だと思い、カメラを取り出し、何枚かシャッターを切った。

ph3 母の死。館山市北条の斎場。2018年11月3日。

 忘れがたいことがもう一つある。野辺送りを簡略化することを親戚の人たちから勧められたのである。野辺送りは葬家から菩提寺まで列を組んで行進する。そのために四本幡・天蓋・龍頭など何種類かの葬具を親戚の人たちで準備する。しかし、作れる人はほとんどいなくなっていた。作るにしても、作り方もあやふやだから、やっかいきわまりない。これからは四本幡や天蓋を作るのは止めようというのである。

 親戚に同行してもらい、菩提寺の住職に相談すると、さすがに承知してくれなかった。野辺送りには集落の人たちが見送りに集まってくる。死者の霊は、個人というよりも仲間の1人として、あの世に旅立つと言ってもいい。住職からすれば、従来通りに出来ないとしても、何もかも止めてしまったら、葬送儀礼としての格好がつかない。結局、外の葬具は別にして、四本幡と天蓋だけは、これまで通りに作る、ということで妥協することになった。

 戦争体験のある私の親たちの世代とちがって、戦後生まれの私たちは、都会で働くようになると、そこで所帯を構えるようになった。私もその1人だが、菩提寺の住職も同じで、檀家からのお布施だけでは生活が成り立たないから、東京の蒲田で建築関係の仕事に携わっている。都会で所帯を持ち、孫や子どもがいたりすると、老後になっても郷里に戻るのが難しくなる。自分では出稼ぎのつもりでいても、働きに出た先に根を下ろしてしまい、郷里に人口流出の結果をもたらすことになる。

 母の葬儀はなんとか無事に終えたが、その3ヶ月後、親戚の1軒にも不幸があった。

ph4 野辺送り。画面の正面奥に四本幡。館山市小沼。2019年2月21日。
ph5 野辺送り。画面右が天蓋。館山市小沼。2019年2月21日。

 亡くなったのは念仏講の1人で、私の両親が結婚の仲人を務めた。父の死から12年後になるが、その間に郷里の死者儀礼には大きな変化が生じていた。どんな田舎でもあっても葬送と供養にまつわる昔ながらの風習は段々に廃れ、都会と同じように、家族葬が一般的になりつつある。それは日本人の死生観の歴史的な転換点を意味し、行きつく先には祖霊信仰の終焉が待っているような気がする。

(註) 十三仏は通夜の臨終仏であるばかりでなく、初七日から三十三回忌までの供養の引導仏ともされてきた。具体的には、不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文殊菩薩(三七日)、普賢菩薩(四七日)、地蔵菩薩(五七日)、弥勒菩薩(六七日)、薬師如来(七七日)、観音菩薩(百ヶ日)、勢至菩薩(一周忌)、阿弥陀如来(三回忌)、阿閔如来(七回忌)、大日如来(十三回忌)、虚空蔵菩薩(三十三回忌、忌い切り)というように、それぞれの忌日に明王・菩薩・如来を振り分けて祀り、死者の極楽往生を仰いだ(「葬の俗信・迷信と十三仏巡礼」、五來重、『葬と供養』所収、1992、東方出版)。

(ひらしま あきひこ)

2020年11月30日

旧友の便り懐かし冬炬燵 ―― 社会部大先輩からの便り

 2020年11月、社会部旧友会懇親ゴルフ会(名誉会長牧内節男、会長山本進)が60回を迎えた機会に参加者一覧を作成した。関係者にはメール配信したが、パソコンをやらない長老にはプリントアウトして郵送した。

 元社会部長・竹内善昭さん(92歳)。《旧友ゴルフ会の記録をよくまとめられ感服しました。ゴルフ会の成績はさておき、昔の仲間の名前が懐かしく、次々に出てきて、本当に楽しいひとときを過ごさせて頂きました。

 もう、この歳になれば往時茫々、すべて夢の如しです。

 お礼に駄句をひとつ。

 「旧友の便り懐かし冬炬燵」

 小生は一応元気でよぼよぼ人生をやっています。老妻と二人暮らし。リハビリセンターの世話になったり、好きな俳句仲間とやりとりしています》

 元学生新聞本部長・中村侔さん(90歳)。《“密”な作業にびっくり。労作ありがとうございました。なつかしく昔をふり返っています。

 絵は少しだけ続け、このところは植木が相手で、あちこち悪い女房(85歳)の面倒をみながら、当方も病院がよいです》

 元社会部長・愛波健さん(84歳)からは電話。《石田ゴミさんも参加されていたのですね。私の初任地千葉支局の柳卯平支局長と仲がよかったのを憶えています。安永道義さんも》

 石田さんの名前は、確か「あさお」と記憶しているが、パソコンのワードに入っていない。雁垂れに日と木、「ゴミみたいな字」から「石田ゴミさん」が愛称になった。千葉支局長は柳卯平さんの2代前、1960(昭和35)年の1年間務めている。

 この懇親ゴルフ会は、第1回を1987(昭和52)年に土浦CCで行った。残念ながら記録が残っていない。ただ岩崎繁夫さんが日記に付けていた。優勝岩崎グロス82(40,42)、3打差で準優勝米山貢司さん。岩崎さんはホームコース鳳凰CC(群馬県太田市)のクラチャン・シニアの部で2年連続優勝した腕前だ。

 第2回は、永井康雄さん(89歳)のホームコース姉ケ崎CC。第3回から元運動部長仁藤正俊さんのホームコース我孫子ゴルフ倶楽部と高坂CCで交互に。昼にカレーライスを食べて支払いは3万円。「こんな高いところ行けるか」と文句も出たが、我孫子で11回、高坂で6回行っている。

 仁藤さんが高齢でリタイアしてからは、泉CC、久邇CC、川崎国際、八千代GCと転々、カルビー元会長の松尾康二さんのホームコース飯能グリーンCCでも。そして2006年から若洲ゴルフリンクスに定着した。近隣各県から足の便がよい、というのが最大の理由。しかし、コンペ予約の電話がなかなかつながらなくて、毎回確保するのに苦労している。

 2002年秋第25回の記念撮影(2002.10.1川崎国際)
前列左から遠藤満雄、青木利夫、牧内節男、長田達三、米山貢司、森浩一
中列左から堤哲、近藤義昭、鳥潟貞幸、田中浩、大澤栄作、牧野賢治、松尾康二
後列左から浮田裕之、佐々木叶、中村侔、堀井淳夫、川合多喜夫、西重義、畝村治男

 参加はのべ70人にのぼる。うち物故者は以下の29人である。

安永 道義 1992年1月16日没、66歳
村山 武次 1994年7月22日没、68歳
仲西 三郎 1998年6月6日没、66歳
石田 ●雄 1999年6月5日没、85歳(●=厂に日+木)
内藤 国夫 1999年7月8日没、62歳
中村  均 2002年11月30日没、74歳
岩崎 繁夫 2003年3月20日没、76歳
加藤 正雄 2003年12月4日没、90歳
西  重義 2004年12月19日没、75歳
仁藤 正俊 2006年6月14日没、92歳
上村  勉 2006年10月28日没、74歳
浅井 建二 2008年5月28日没、79歳
松野尾 章 2008年12月3日没、76歳
武藤  完 2009年5月20日没、68歳
越後喜一郎 2010年8月4日没、72歳
高橋 久勝 2011年5月14日没、86歳
米山 貢司 2012年7月13日没、83歳
大澤 栄作 2012年8月12日没、80歳
有馬 寧雄 2013年5月8日没、73歳
長田 達三 2013年10月10日没、89歳
四方  洋 2016年4月29日没、80歳
井草 隆雄 2016年6月6日没、84歳
青木 利夫 2016年12月29日没、78歳
佐々木 叶 2017年5月1日没、92歳
堀井 淳夫 2017年5月31日没、90歳
白根 邦男 2017年8月27日没、80歳
小元 広悦 2018年1月23日没、83歳
田中 青史 2018年5月12日没、68歳
中村 恭一 2018年6月23日没、75歳

(堤  哲)

2020年11月19日

関東大震災で炎上する警視庁赤レンガ庁舎 東京日日新聞は焼失を免れた

 森浩一さん(85歳)から「燃える警視庁」の写真がメールで送られてきた。警視庁旧庁舎の最後の「七社会」毎日新聞キャップ堀越章さん(88歳)が大正12年9月1日の関東大震災で焼失したと書いたことに触発されて、書棚から見つけたものだ。

 《燃える警視庁の写真は,東京交通会館が昭和40年に出した『有楽町』(非売品)に関東大震災の記録として掲載。その冊子には、有楽町時代の毎日新聞社のこともいくつか載っていました。三菱地所が昭和15年発行の『丸の内今と昔』を定本として昭和27年に非売品として出した『縮刷 丸の内今と昔』も出てきました。ここにも燃え始めた警視庁の写真がありました》

―――警官は騎馬で活躍の時代なので、警視庁の裏から毎日新聞社のあたりまで厩が密集していた。

―――警視庁南面総監室官房の屋根のひさし合いから内部に火を吸い、(火は)赤煉瓦の庁舎の窓から噴き出した。午前3時20分警視庁は焼け落ち、隣の帝劇も焼けてしまった。(『有楽町』)

―――警視庁は厳めしい赤煉瓦造り、帝劇はルネッサンス式の典雅な白色タイル張り、その対象が・・・(『丸の内今と昔』)

 震災前の警視庁は、現在の第一生命館の場所にあった。朝日新聞社会部著『有楽町有情』によると、警視庁の裏手は、騎馬隊の馬小屋、警視総監官舎、さらに毎日新聞社のあった現在の新有楽町ビルのあたりまで警察官の官舎が並んでいた、とある。

 毎日新聞のビルは延焼を免れた。罹災を免れた新聞社は、報知新聞、都新聞と計3社だけ。読売新聞は新社屋を建設してこの日落成式を行うことになっていたが、焼失した。現在マロニエゲート銀座があるところだ。

 『毎日新聞百年史』には《本社が火災から免れたのも、まず内部から火を出さなかったこと》《つぎは社内から道具を持出して破壊消防作業を実施したからである》とし、《本社が火災から免れたのは天祐であった》と記している。

 警視庁から迫る火勢を社員たちが破壊消防で食い止めたというのだ。

 「新聞は決して休刊しない」。当時の城戸主筆はこう宣言したが、電気は停電、ガスも供給停止で、印刷は不可能になった。で、当日発行した号外は、散乱した活字を拾い集め、足踏み機械で印刷した、と百年史にある。

 毎日新聞社内に関東大震災のパネルが掲げてある。

 翌日の新聞と、皇居前広場に設けた臨時編集局、下段左は焼け残った毎日新聞のビルである。

2020年11月16日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ  「東京ラビリンス」のあとさき その6

この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429086.html

その6 『宮本常一が撮った昭和の情景』——絵巻物の手法
文 平嶋彰彦
写真 宮本常一

 2009年に『宮本常一が撮った昭和の情景』(以下、『昭和の情景』と略称)を刊行した。『宮本常一 写真・日記集成』(以下、『写真日記集成』と略称)の廉価版といっていい。3000点の写真を3分の1に圧縮し、日記は割愛した。版型もB5からA5に縮小した。

 『写真日記集成』では写真に対応する形で日記全文を載せている。そのため写真キャプションは、それ以外は基本的に撮影時期と撮影場所を記すだけにとどめた。それにたいして『昭和の情景』では、宮本を知らない読者にも写真を理解してもらいやすくするため、『写真日記集成』だけでなく、『私の日本地図』(全15巻、同友館)など宮本常一のさまざまな著作からの引用文を多用することにした(註1)。

 『写真日記集成』の刊行後、原稿に使った写真の整理をしながら、『私の日本地図』を始めて通読した。その第1巻目『天竜川に沿って』 の「あとがき」で、宮本常一はこのシリーズの意図と方法を次のように述べている。

 「写真を中心にして写真を説明するような形式で、時には写真をとったときよりもまえの旅のことなどを回想しつつ書いて見ることにした。そうすれば写真とつかずはなれずの文章になる。これは古い絵巻物の形式になる。鎌倉時代中期以前の絵巻物はかならずしも絵と文章が一致していない。それがかえって両者たすけあって生き生きしたものになっている。そこで私はこの書物を絵巻物の手法で通して見ることにした」

 併行して、手元にある宮本の代表的な著作を改めて読み返してみた。すると、写真の載らない文章だけの著作であっても、これはあの写真、あれはこの写真という具合に、文章に対応する写真がなんとなく頭に思い浮かんでくることに気づいた。そうこうするうちに、写真キャプションは宮本常一のいろいろな著作からの断片的な引用文で構成することを考えついた。キャプションと写真が必ずしも一致していなくとも、つかずはなれずの関係にあればいいのである。宮本は「かえって両者たすけあって生き生きしたものになっている」とも書いている。

 キャプションの文字量は、連載その5で書いた『1960年代の東京 路面電車の走る水の都の記憶』の経験から、写真が見開きの扱いなら300字から400字、2分の1ページ大なら150字前後、それ以下ならば25字前後を目安にした。実際にページ構成にとりかかると、予想した通りで、7割程度は写真に対応する引用文を探し出すことができた。

 見つからないものは、著作集の監修者である田村善次郎先生に教えを乞い、該当すると思われる書籍や雑誌をお借りした(註2)。それでも見つからないものが1割ほどあったが、これは私が文章を書いて田村先生に見てもらうことにした。

 今回のブログ連載では、宮本常一が旅の途中で、列車や自動車の中から撮影した写真4点とキャプションを末尾に載せている。いずれも『昭和の情景』からの転載である。参考までにぜひご覧になっていただきたい。

 列車や自動車の中からみた景色を文章や絵の形でメモをとるのは容易ではない。じっとしていないからである。あっという間に通りすぎてしまう。しかし、写真はそれをわけもなく写しとることができる。肉眼ではその物自体の形や周りとの関係を瞬間的に把握するのが難しくとも、カメラであれば画面の4隅を決めれば、それを迅速かつ正確に写しとってくれる。写真は肉眼で見えるものだけではなく、見えないものまで写し込む。

 乗り物から外の景色を写す場合、じっくり見てからカメラをかまえるのでは埒が明かない。そもそも、私たちは自分に必要と思われないものは見過ごしてしまう悪癖がある。反対に、意外なものにとつぜん遭遇すると、思わずそれに目を奪われてしまう。そうなると、たいていは写真を撮ることに頭がまわらなくなる。

 そんなふうに考えていくと、移動中の列車や自動車のなかで、右手の人差し指でいつでもシャッターを押せるようにカメラをかまえる宮本常一の姿がなんとなく目に浮かんでくる。次々と通りすぎる窓の外を横目で追いながら、これから思いがけない景色に出会えるかも知れないという期待に胸を躍らせていたのである。見えてから写真を撮るのでは間に合わない。物の気配を感じたら、迷わずシャッターを切るようにしていたに違いない。

 宮本常一がフィールドワークの記録手段として、いつから写真を用いるようになったかはいま一つはっきりしないが、1934年4月11日に「宮本君より「採集と写真」について話あり」という記事が『口承文学』第9号に載っている。宮本が26歳のときで、大阪で小学校の教師を務めながら、民俗学への道を歩きはじめた時期にあたる(註3)。

 『河内国瀧畑左近熊太翁旧事譚』は宮本の2冊目の著作で、1937年にアチックミューゼアムから刊行された。この著作には、聞書きをとった左近熊太翁やその孫あるいは住居など数点の写真が掲載されている。現地取材は前年の1936年である。それより2年後の1938年、宮本はこの著作を左近熊太翁に寄贈するため現地の瀧畑村を再訪した。翁は掲載の写真を目にすると、「こんな汚い山家でもかうも美しうなるものか」と感に堪えぬ風であったと、宮本は『アチックマンスリー』(第13号)でその報告記事を書いている(註4)。

 宮本常一は1955年、現在の一眼レフカメラの前身ともいえるアサヒフレックスを買い求めた。10万カットと言われる撮影フィルムとプリントが整理・保存されているのはそれ以降のものである。さらに5年後の1960年になって、宮本はハーフサイズカメラのオリンパスペンSを手に入れた。先にも触れた『天竜川に沿って』 の「あとがき」のなかで、宮本は自分自身の写真についての考え方を次のように述べている。

 「アサヒフレックスを買ってからできるだけたくさんとるようにしたが、眼につき心にとまるものを思うにまかせてとりはじめたのは昭和三五年オリンパスペンSを買ってからである。別に上手にとろうとも思わないし、まったくメモがわりのつもりでとってあるくことにした(中略)だが、三万枚もとると一人の人間が自然や人文の中から何を見、何を感じようとしたかはわかるであろう」

 「思うにまかせてとりはじめた」というのは、フィルム代が嵩むのを苦にしなくてすむようになったからである。というのも、オリンパスペンSは1本のフィルムから72枚も写すことができた。ふつうのカメラの2倍である。それに加えて、手のひらに収まる大ささだった。フィールドワークで持ち歩くのにうってつけのカメラだったから、宮本はこのオリンパスペンSのシリーズを晩年になるまで愛用することになった。

 写真は「メモがわり」だと宮本はいう。その一方では、「別に上手にとろうとも思わない」ともいっている。メモだから、なにが写っているか分かればいい、ということかも知れない。しかし、下手よりは上手な方がいいし、「好きこそ物の上手なれ」の諺もある。この物言いにはどこか棘があるように思えてならない。宮本から見ると、上手かも知れないが、つまらない写真が世間に溢れているということだったのではないだろうか。上手に撮ろうとした写真が、私もそのなかの1人ということになるが、報道メディアあるいはカメラ雑誌の写真を示唆しているのは、言うまでもない気がする。

 宮本にとって写真は「眼につき心にとまるもの」の「メモがわり」だったことになる。『あるくみるきく』の編集長を務めた長男の宮本千晴によれば、宮本は若い研究者たちを旅に送り出すとき、
「はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ」
を手向けの常套句にしていたという。「眼につき心にとまるもの」というよりも、「はっと思ったら」「おやっと思ったら」という言い方のほうが、ずっと実践的で説得力があるように思える。

 写真は「メモがわり」だと宮本は述べている。メモは忘れないための覚え書きのことで、ふつうは文字で書き記したものをいう。「メモがわり」と一口に言っても、写真と文字の表現を比べると天と地ほどの違いがある。しかしというか、だからこそというか、写真は文字によるメモと一致しなくとも、つかずはなれずの関係にあるのは確かなことで、文字に匹敵するもう1つの記憶装置になりうる、ということである。さらに言うならば、1人の人間が眼前に広がる茫漠とした現実をいかに認識するかの道しるべになりうると、宮本常一は主張しているようにみられる。

(註1) 『私の日本地図』(全15巻)は、1967~1976年に、同友館より刊行。絶版になっていたが、香月洋一郎編の『私の日本地図:宮本常一著作集別集』(全15巻)が未來社より2008~2016年に刊行された。
(註2) 田村善次郎先生。元武蔵野美術大学名誉教授。『宮本常一著作集』(未來社)の監修者。2006年、今和次郎賞受賞。著作に『ネパールの集落』(古今書院)、『ネパール周遊紀行』(武蔵野美術大学)など。
(註3) (『宮本常一日記 青春篇』資料編「口承文学」、毎日新聞社、2012)
(註4) (『宮本常一日記 青春篇』資料編「『河内国瀧畑左近熊太翁旧事譚』より「河内国瀧畑入村記・左近翁に献本の記」

ph1 福岡県田川市。日田から小倉への車窓から。いくつもボタ山が見える。「そのボタ山もボタを積まなくなって久しいものが多く、(中略)やがてここに木が茂り、独自な山容をもった小山が、炭坑地帯の記念として長くのこっていくのではないかと思われる(『私の日本地図11』)
ph2 佐賀県鹿島市浜町。昔ながらの河港の姿を残す浜川と川沿いの町並み。長崎から博多への列車の車窓から。右手前に停泊している船には寝具と見られる洗濯物が干してある。道端では2人の男が立ち話をし、その傍らをネコが道を横切ろうとしている。川の両側に小屋があるが、その中で養殖カキの実を取りだす作業をしたといい、河原にはカキ殻が散らばっている。「4月27日。(長崎)。晴。よい天気になる。8時半の博多行準急にのる。よくすいている。もう菜の花もさかりをすぎている。博多にて1.50の山陽にのる。車中『週刊公論』をよむ。柳井でのりかえて大畠へ6時すぎにつく。そして終バスの1つまえのバスにのる。家へかえって見るとテレビすっかりとりつけてあり、(三男の)光見ている。これが家の生活をかえるだろうか」(『日記』)
ph3 青森県むつ市から新潟県新潟市へ。車窓から。藁葺き屋根の集落。庭に馬が繋がれている。青森県内(8月29日)。「一つだけ見、一つだけ書きとめても、たいしておしえられるものではありませんが、いくつもいくつも、スケッチしたり、見たことを書きためていますと、そのなんでもないもののなかにも、たいせつな意味があったり、またそれをつくり出した人自身も、たぶん、気づいていなかったようなことまで、わかってくるのです。(中略)私は屋根の形を見るのがすきです。そして汽車の窓からながめていて、書きとめておくのですが、汽車は走っているのですから、すぐにゆきすぎてしまって、ていねいにはかけません。それでもたくさんたまると参考になることが多いのです」(『宮本常一著作集7』)
ph4 青森県。下北半島。車窓から。破船。「5月15日。朝8時に起きて9時市役所へゆき、それより大湊から脇野沢、九艘泊までゆき、川内へひきかえす。昼食をたべて畑、野平、仏ガ浦、佐井、大間、大畑、田名部。山本さんの家で夕はんをたべ、下北から汽車。野辺地で寝台車にのるとすいている」(『日記』)。「昭和30年を境にして、船は木造から鋼船にきりかえられることになり、それには補助金も出ることによって、木造船の多くは焼きすてられた。しかし焼ききれずに捨てた船も少なくない。そうした船が渚に打ちあげられて、半ば砂に埋もれているのを下北半島の陸奥湾の沿岸で何艘も見かけたが、下北ばかりでなく種子島の東海岸でも見かけた。家庭でプロパンガスを使うようになると、船の古材を薪にする者はいなくなったのである」(『空からの民俗学』)

 写真とキャプションは『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(毎日新聞社、2009)からの転載。

2020年11月16日

大阪警視庁・府警キャップ列伝メモ —— 古野喜政さんから寄稿

 大阪警視庁・府警キャップ列伝を読んで、大阪社会部第29代社会部長・古野喜政さん(84歳)から思いついたことのメモが届いた。以下、全文を紹介します。

 *熊田潔さん(2009年没91歳)とは、お会いした記憶が残っています。

 *伊予馨さん(1998年没81歳)は、ミナミの宗右衛門町だったかキャバレーの主人におさまっていました。仲々の男前でした。敗戦後、日本人記者が広島に入った時の毎日の“特派員“でした。「ピカドン」という言葉を初めて記事に入れた記者でした。伊予さんは「ボクが作ったわけでもなんでもない。広島の人が原爆といわず『ピカドン』と云っていました」と言っておりました。

 *立川熊之助さん(1989年没69歳)は、ほんのわずかな期間、上司でした。立川は「タチカワ」「タテカワ」と広辞苑に出ていますが、「一族のものはタツカワが正しい」といっておりました。日常的には「タッチャン」と呼ばれていました。

 立川文庫の本家でしたから大変な金持ちでしたね。当時はカズノコが宝石のようにありがたがれておりました。正月、部員の大半がこのカズノコを目当てに、立川邸に集まりました。50人以上はいたと思いますが、その部員が「もうけっこう」というほどカズノコと酒が並びました。

 タッチャンは“物識り”の評判の高い人でしたが、部長席の左の大きな抽き出しに辞典が数冊入っていて、部員がワイワイ云っておりますと、その辞典をそっと見て、「それはなや」と一席ぶっていました。小生はタッチャンの秘密を目撃したわけです。

 大毎社会部では、事件担当としては初めての本格派だったかなと思います。

 *藤村拓郎さん(1983年没58歳)は、小生の知る限り社会部一の飲兵衛でした。事件記者でしたが、マージャン狂でもありました。大久保文男さん(府庁担当が長かった)と奥さんが姉妹でしたね。死んだのも同じ歳だったと思います。
 特ダネも特ダネでしたが、フジさんは特ダネを他紙にやられた時の収拾の仕方は、小生の知っている先輩の中では、No1でした。

 *寸田政明さん(2003年没74歳)は、小生の識っている事件記者の中で比較の対象になる人がいませんでした。寸ちゃんがキャップ、小生がサブで警備公安担当。公安事件で明日逮捕というのに名前がとれない。A、大阪府下に住む30台の男で原稿にしました。寸ちゃんは「名前は書けんか」。「それが取れませんで」と頭をさげました。「そうやなぁ、これで出そう」とカンニンしてくれました。恐らく彼なら実名はとれたでしょうね。
 KC庁を回っていた時、刑事から逮捕令状を借りて、デスクに見せて「ホンモノや」と証明したという伝説がありますが、あれは本当ですね。小生、勝ち負けはトキの運だと思いますが、寸ちゃんは別格でした。

 *吉山利嗣君も強かったですね。だが、刑事をつかまえるのに時間がかかった、寸田さんより。1967(昭和42)年のタクシー汚職。寸田さんは、司法担当になって10日目くらいでしたか。事件の担当検事が会議を開いたのですが、夜9時頃、寸田さんが社に戻ってきて「これをコピーしてくれ」と2頁の書類を出しました。その日の会議の要項をまとめたものでした。主任検事から借りてきたということでした(メモは実名入り)。
 それが8月中旬で、関谷勝利代議士を逮捕したのが12月25日。最初の読み通りに事件が展開しました。こんな話をしてもほとんど信じる人はいなかったでしょうね。次の年の4月、彼が府警キャップ、小生がサブになりました。

 *早死にしてしまいましたが、川村正文君(2000年没62歳)も強かったですね。「マルセル」事件。読売新聞主催のロートレック展で盗まれ、時効が成立した後、朝日新聞に持ち込まれた。これを川村府警キャップが聞き込んで記事にした。あのネタ元は、小生と2人で捜査1課を回っていたころにつくったところで、川村君は誰にもネタ元を明かしませんでした。小生はソウル特派員をしていて、快哉を叫んだ覚えがあります。
 川村君でなければとれなかったでしょうね。

 *府警キャップのエピソードはまだまだあります。また書きます。

(古野 喜政)

 *古野さんは大阪ユニセフ協会を2001年に立ち上げ、副会長をつとめている。

2020年11月13日

桜田門旧警視庁庁舎、最後のキャップから反響

 軍事アナリスト小川和久さんがFaceBookにアップした写真が毎友会HPに転載され、その時の警視庁キャップ堀越章さん(88歳)から「落書を書いてみました」と以下の一文が届いた。

43年前のキャプション

堀越章キャップ時代、旧警視庁七社会のお別れ会。左からぐるっと(敬称略)、坂巻煕、その後、諸岡達一、白木東洋、前田昭、宮武剛、加納嘉昭、今吉賢一郎、市倉浩二郞、松田博史、(2人の女性を除いて)根上磐、山本進、内藤国夫、佐々木叶、開真、山口清二。中央に堀越章キャップ

堀越  章

 「KC庁」と書き、「警視庁」と読む。東京社会部在籍中の常用部語。いま使われているかどうか。すでに古語かもしれない。タテ約12センチ、ヨコ約16センチ。広げた手の平大のザラ紙が原稿用紙。黒の軸に金文字で「毎日新聞」と彫りこまれた特注品の3B鉛筆は、やがてボールペンになる。デスクが使う朱は、筆からサインペンになった。「打つ」時代の前、書いていた時代が長くあった。

 「KC庁」が、いまの桜田門外に居をかまえたのは昭和6年(1931)である。日本初の警察組織として東京警視庁が創設されたのは明治7年(1874)。鍛治橋にあった旧津山邸を改築して庁舎とした。いまのJR東京駅の近くである。そのあと日比谷のお堀端にできた赤レンガ庁舎に移り、関東大震災で焼け、宮内庁の敷地内に仮住まい。桜田門庁舎は大正15年(1926)着工、5年をかけて地上5階、地下1階の鉄筋コンクリート建が完成した。独特の「A型」建物の設計と建築を仕切ったのは旧大蔵省営繕局の技官たちである。以来、壁面がこげ茶色のこの建物は、よくも悪くも昭和史の舞台となった。

 毎日が所属する記者クラブは3階のお堀側にあった「七社会」。加盟社は朝日、読売、東京、日経、共同の6社。事件記者たちは廃業してなくなった「時事新報」を忘れないの思いを込めて「ナナシャ」のまま改名しない。

 その建物を壊し新庁舎を作ることになる。昭和52年(1977)、仮住まいの内幸町庁舎への引っ越しが始まる。

 「七社会」移転の直前、かつて「七社の毎日」で夜回りと朝駆けに暮れ、ソファーで仮眠したつわものどもが、まことにさりげなくその小部屋に集まった。散会したあとの夜おそくやってきた者も何人かいた。ビールもつまみもない。それでもしばらくいて「じゃーな」と言って去った。

 最後の日、庁内散歩のあと地下の用務員詰所に行った。大きな囲炉裏があり炭火が絶えない。用務員が待ってましたよという笑顔で言った。

 「やっぱり来ましたね。ちょっと前に総監がおみえになって、きっと毎日のキャップが来るよっておっしゃっていました」

 散歩の締めくくりは予定どおり総監室。当時の警視総監は土田国保氏であった。

 堤哲さんから歴代KC庁キャップの名簿と一枚の写真が送られてきた。追いかけるように同じものが森浩一さんからもきた。写真は旧KC庁クラブの小さく狭い部屋にかつてのクラブ員と現役が集まっている43年前のもの。遥かなる茫々の中で写真説明を書いた。

2020年11月11日

大阪警視庁・府警キャップ列伝

 警視庁キャップ一覧についで、大阪本社社会部の府警キャップ戦後一覧をお届けしたい。大毎社会部100年史『記者たちの森』(2002年4月刊)にあった名簿の転載である。従って最近20年ほどのキャップ名はない(敬称略)。

 大阪本社社会部は、日本の新聞で初めて発足した「社会部」で、2021年2月に創部120年を迎える。

 ●杉本 一郎 1960年没、45歳。
 ●小口 織穂 1978年没、63歳。
 ●熊田  潔 2009年没、91歳。
 ●伊予  馨 1998年没、81歳。
 ●熊田  潔 前述
 ●浅野 廣三 2019年没、100歳。
 ●立川熊之助 1989年没、69歳。
 ●畑山  博 2010年没、90歳。
 ●島田 一松 2000年没、79歳。
 ●吉野 恵三 2005年没。79歳。
 ●北爪 忠士 2009年没、84歳。
 ●藤村 拓郎 1983年没、58歳。
 ●稲本 年穂 2002年没、78歳。
 ●檜垣 常治 2007年没、82歳。
 ●三浦秀一郎 2006年没、86歳
 ●岩井 昭三 2014年没、86歳。
 ●松永 俊一 2019年没、89歳。
 ●寸田 政明 2003年没、74歳。
 ●京谷 利彌 2014年没、83歳。
 ●上妻 教男 2016年没。81歳。
  奥村 邦彦
  古野 喜政
  永田  孝
 ●川村 正文 2000年没、62歳。
 ●佐倉 達三 2008年没、69歳
 ●河竹皓一郎 2010年没、75歳
  木戸  湊
  荒武 一彦
  高橋 裕夫
  神谷 周孝
 ●菅沼 完夫 2019年没、74歳。
  津野 恭誉
 ●吉井 秀一 2011年没、64歳。
  吉山 利嗣
  中島 耕治
  平野 幸夫
  藤原  健
  武田 哲夫
 ●幸良 雄史 2015年没、65歳。
  池田  昭
 ●三谷 佳弘 2018年没、62歳
  氷置 恒夫
  黒川 昭良
  渋谷 卓司
  相原  洋
  鈴木 龍一

 チェックをしてもらおうと、大阪社会部OBで大阪毎友会の迫田太前・会長(88歳)にメール送りしたら、思わぬ答えが返ってきた。

 「リストの一番上の杉本一郎氏は、私が昭和29年4月に毎日新聞に入社して鹿児島支局に配属された時の支局長でした。杉本氏はその後、阪神支局長に転勤。私も神戸支局に転勤して親しく付き合ってきました。杉本氏は支局から帰宅する時に阪急西宮北口駅で電車とホームの間にはさまれて死亡。西宮市内のお寺での葬儀にも参列しました。懐かしいお名前をリストで見て改めてご冥福を祈りました」

 調べると事故死したのは1960(昭和35)年1月14日夕。45歳だった。

 「事件記者として20年。俊敏果敢な記者で、記者クラブなどで君の姿が見えないと、他社の連中がさがしまわるほどだった」と社報で同僚記者が追悼している。

 実は、大阪市にも警視庁があった。1948(昭和23)年9月から54(昭和29)年6月までの5年10か月。杉本は、警視庁になる前に山口支局次長に転勤した。2番目の小口織穂が初代警視庁キャップと思われる。次の熊田潔は2度キャプをつとめている。

 私(堤)は1971(昭和46)年8月から74(昭和49)年4月までの2年9か月大阪社会部に在籍した。編集局長は稲野治兵衛と立川熊之助、社会部長は檜垣常治と北爪忠士だった。

 大阪赴任の年、「大毎社会部70年史」が発刊された。その中に昭和37年(1962)の社会部10大ニュースに「立川デスク東下り(東京デスクへ)」とある。

 大毎はご本社だから、東京社会部への転勤は「あずま(東)下り」なのである。

 立川は、「立川文庫」の御曹司で知られる。1年後の63年8月、大阪社会部長で戻る。その時、東京社会部から一緒に西下したのが牧内節男と白木東洋だった。 牧内は「銀座一丁目新聞」に書いている。

 《立川さんはもともと大阪社会部で事件記者として鳴らした人である。大阪に帰るにあたって東京から牧内節男と白木東洋の二人を連れて行く。牧内は警視庁キャップから遊軍長になって5ヵ月ぐらいたっていた。大阪では社会部デスクをやることになった。白木は警察には強い記者であった》

 社会部記者の東西交流である。白木は大阪府警クラブで東京流の事件取材方法を伝授した。

 逆に大阪から警視庁クラブに送り込まれた事件記者は寸田政明だった。東京社会部長は稲野治兵衛。「組織暴力の実態」で1964年度の新聞協会賞を受賞した。連載の前書きは部長が自ら筆をとった、と「新聞研究」の受賞報告で記している。

 山口組三代目組長、田岡一雄をはじめ暴力団の組長にインタビュー取材をしたが、そのセッティングをした多くが寸田だったといわれる。

 連載は、名文記者吉野正弘(1989年没56歳)がアンカーとなった。

 毎日新聞百年史に取材班の名簿が載っているが、吉野以外は、いずれも事件記者である。社会部デスク佐々木武惟、社会部員道村博、寸田政明、山崎宗次。

 寸田の東京社会部在籍は、64(昭和39)年2月から67(同42)年1月まで丸3年。ある時、犯人に逮捕状の前打ち原稿を出稿した。「本当に大丈夫か」といぶかる上司に、それならと寸田は「逮捕状」を捜査員から借りてきて示した、という伝説が残っている。

 寸田はその後、大阪社会部のデスクとなる。新任デスクはセンバツ担当となるが、61年入社津田康がキャップ、私がサブだった72年センバツの担当デスクだった。

 ヒゲの畑山博は、生粋の事件記者。大阪と東京で社会部長をつとめた。東西の社会部長経験者は、稲野治兵衛につぐ。

 特ダネの周辺を綴った自著『三四郎記者』(1963年刊)に、「1時間に120行以上のペースで書き飛ばさないと、いい事件記者にはなれない」とあった。雑用紙1枚(5字3行で当時の新聞1行分)を遅くても30秒以内。10分で20枚、30分で60枚、1時間で120枚という計算である。私にはとても無理である。

 正直、こんなキャップの下にいたら大変だ。使われなくてよかったと思うが、私を大阪に転勤させた部長でもあった。東京駅の新幹線ホームで見送りの写真が残っている。

 私が街頭班(サツ回り)のときの遊軍キャップ上妻教男。童顔から「ベビーギャング」と呼ばれた事件記者だった。府警キャップは奥村邦彦(86歳)。奥村は、1982(昭和57)年10月から12月まで60回にわたり夕刊1面で《まぼろし紀行「稲荷山鉄剣の周辺」》(毎日新聞社から出版)を連載した。事件記者というよりナンパ記者だったか。

 次の古野喜政(84歳)は私を府警クラブに引っ張り込んだキャップである。のちソウル特派員。金大中大統領と親密な関係を築いた。著書に『韓国現代史メモ:1973-76 わたしの内なる金大中事件』(1981年)、『金大中事件の政治決着 : 主権放棄した日本政府』(2007年刊)、『金大中事件最後のスクープ』(2010年刊)。金大中事件は、ライフワークなのである。

 サブキャップが佐藤茂(1993年没55歳)。1970年植村直己らがエベレスト登頂をした登山隊に同行、社会部長もつとめた。捜査2課担当が鳥越俊太郎、私はその裏の捜査3、4課担当だった。神谷周孝が捜査1課担当で最若手だった。

 川村正文は、府警キャップ時代に、展覧会場から盗まれたロートレックの絵画「マルセル」が朝日新聞大阪本社に持ち込まれたのを察知、7年1カ月ぶりに「マルセル」無傷で戻ると1976年1月30日付朝刊で報道した。1面、社会面と大展開した朝日新聞を悔しがらせた。盗まれたのは読売新聞が京都国立近代美術館で開催したロートレック展の会場からだったが、読売新聞は特オチとなった。

 63年入社の木戸湊(81歳)。大阪本社編集局長時代に阪神淡路大震災が起きた。いちはやく「阪神大震災」と紙面でうたった。被災者のための「希望新聞」も始めた。その後、東京本社編集局長→主筆→副社長。

 退職後、『記者たちよハンターになれ!―元毎日新聞主筆の回想録』(2009年刊)を出版した。牧内節男が高く評価して《この本こそ「己の足と才覚で掴んだ」真実のニュース取材物語である。若い記者達は共感した所に赤線を引き拳々服膺したらよい》と、「銀座一丁目新聞」で紹介した。

 藤原健は、大毎社会部100年のときの社会部長。大阪編集局長→スポニチ常務。66歳で沖縄に移住。大学院で学び、『魂マブイの新聞―「沖縄戦新聞」沖縄戦の記憶と継承ジャーナリズム』、『終わりなき<いくさ> 沖縄戦を心に刻む』を出版している。

 黒川昭良は毎日新聞出版社社長を務めた。出版不況の中、黒字経営を実現したというから立派だ。

 下から2番目相原洋は、私が千葉支局長のときの支局員だった。

(堤  哲)

2020年10月30日

社会部警視庁キャップ物語

 一枚の写真をきっかけに、元社会部の堤哲さんが「社会部警視庁キャップ列伝」をまとめてくれた。関連して、キャップの一人、森浩一さんから「警視庁キャップの転勤」を寄稿していただいた。二つまとめて、「警視庁キャップ物語」。

老耄独語 21 警視庁キャップの転勤

森 浩一

 老いぼれでも何かがきっかけで、その何かにかかわる、ある一部分を鮮明に思い出すことがある。堤 哲君から毎日新聞社会部の歴代警視庁キャップ一覧表がメールで送られてきた。いつもながら堤君の作業に感心する。

 ・・・・・夜、王子でピストル射殺事件が起きた。王子署の捜査本部に警視庁捜査1課4号部屋が出動した。当時、捜査1課は班別に6つの部屋を構えていたと思う。その班の主任刑事を部屋長と呼んでいた。4号の部屋長は郷間六平氏であった。逃げる男を店主が追いかけ、男は振り向きざまピストルを発射して行方をくらましたという事件である。目撃者もなく捜査は難航した。しばらくしたある日、熱海の海岸でおぼれた男が救助されたという小さな記事があった。4号の一部の刑事が帰宅していない日夜が続いた。われわれは、この男と帰宅しない刑事がいることに関心を持った。

 山崎宗次さんと僕は熱海に飛んだ。救助されたからには男は熱海のどこかの病院にいるに違いない。病院をあたった。そこでいきなり出会ったのが白衣に聴診器を下げ、みごとに医者に変装した郷間部屋長ともう1人のK刑事だった。2人の顔だけは変えられない。

 われわれが熱海にいる間に、警視庁キャップの佐々木武惟さんが西部本社報道部デスクに転任の人事があった。山崎さんは佐々木さんが乗った列車が熱海駅に停車する時刻を調べ、われわれはウイスキーを買って駅で待機した。たしか車内放送を頼んだと思う。列車の先のほうに乗っていた佐々木さんが窓からだったかデッキからか身を乗り出した。手を振っている。われわれはホームを走った。列車は静かに動き出した。

 渡せずじまいのウイスキーを部屋長に差し入れようと話しながら、われわれは駅を後にした。自殺を図った男は間もなく逮捕された。名前はM。もう60年ほども前のことである。いまは亡き佐々木さん、山崎さん、郷間さんの顔が老骨には重なって見える。

(2020・10・29記)

社会部警視庁キャップ列伝

堀越章キャップ時代、旧警視庁七社会のお別れ会。左からぐるっと(敬称略)、坂巻煕、その後、諸岡達一、白木東洋、前田昭、宮武剛、加納嘉昭、今吉賢一郎、市倉浩二郞、松田博史、(2人の女性を除いて)根上磐、山本進、内藤国夫、佐々木叶、開真、山口清二。中央に堀越章

 軍事アナリスト小川和久さんがFaceBookにアップした写真が10月21日毎友会HPに転載されたが、この写真を見ているうちに、オープンさん(右端の立っている方)から聞いた歴代警視庁キャップ列伝を思い出した。

 オープンこと開真さんは、仙台陸軍幼年学校→陸士59期。同期に、菅義偉首相が師と仰いだ故梶山静六元官房長官、毎日新聞では95歳でなお現役ジャーナリストの牧内節男さん、元東日印刷社長・故奈良泰夫さんがいる。

 戦後早大文学部を卒業して、毎日新聞記者となる。事件記者ひと筋。警視庁を担当しているときに東京消防庁の記者クラブに配属されたことから消防に食い込み、「消防総監」と呼ばれたほどだ。むろん警視庁キャップも務めている。1967年前後だ。1981年の定年退職時に『泣き笑い消防記者二十八年』(毎日新聞)を発刊した。

 定年後は青梅通信部主任として「生涯一記者」を貫いた。2008年没、82歳。

 さて、歴代警視庁キャップである。むろん戦後である。故人に●をつけたら、存命は牧内節男さん、森浩一さん、堀越章さん……。

 最初に名前があがった杉山為さん。国鉄ときわクラブの先輩として、昔話を聞いたことがあるが、警視庁キャップ経験者とは知らなかった。

 若月五郎さんは、2度警視庁キャップを務めた。その間の柳さんと石口さんは論説委員になっている。石口さんは小平義雄事件を担当し、小平の手記『小平のざんげ告白』を47年に発刊している。

 井上七郎さんは水戸支局の支局長として仕えたが、酔っぱらうと「たわけなやっちゃ」が口癖だった。事件記者として活躍ぶりは、残念ながら知らない。

 このあとのキャップたちは、牧内さんの「銀座一丁目新聞」に何らかの形で登場する。「銀座一丁目新聞」の検索欄にキャップ名を入れて下さい。

 皇太子妃美智子さんの取材班のデスクが柳本さん、牧内さんも宮廷記者桐山さんらと担当した。新聞協会賞、菊池寛賞を受賞した連載「官僚にっぽん」。森丘デスクの発案だったとある。

 佐々木武惟さんは、特ダネ記者だった。夜回りの元祖といわれる。ブーちゃんとかゴジさんと呼ばれた。『事件記者 ― スクープにかけた30年』(1980年刊)に、内藤国夫さんがまえがきを書いている。「特ダネより特オチの告白を」と持ちかけたが、「抜かれたことがないんだなぁ」とゴジさんは答えている。

 ゴジさんが社会部長のとき、警視庁キャップに命じたのが内藤国夫である。事件取材の素人は、「期待に応えることなく、キャップ失格のレッテルを貼られた」と。

 その後釜に中部本社報道部のデスクから呼び戻されたのが森浩一さんで、社会部長が牧内節男さんだった。ロッキード事件が始まった直後である。

 佐々木叶キャップからは、社会部の職制となったので、就任年月日がはっきりしている。

 以下に毎日新聞東京本社社会部の警視庁キャップ一覧を――。

 ●杉山 為七
 ●若月 五郎1950年
 ●柳  卯平
 ●石口  基
 ●若月 五郎1952年2度目
 ●井上 七郎
 ●桐山  真
 ●柳本 見一
 ●森丘 秀雄
 ●佐々木武惟1958年~
  牧内 節男1961年8月~
 ●藤野好太朗1963年3月~
 ●道村  博
 ●山口 清二
 ●開   真1967年
 ●佐々木 叶1968年2月~
 ●石谷 龍生1969年8月~
 ●高井 磊壮1970年8月~
 ●山崎 宗次1971年8月~
 ●米山 貢司1973年2月~
 ●井草 隆雄1974年2月~
 ●内藤 国夫1975年2月~
  森  浩一1976年3月~
  堀越  章1976年9月~
 ●根上  磐1977年9月~
 ●前田  明1979年5月~
  加藤 順一1982年5月~
  田中 正延1982年12月~
  比留間英一1983年11月~
  中島健一郎1985年8月~
  取違 孝昭1988年2月~
  朝比奈 豊1989年4月 
  三木 賢治1991年3月~
  常田 照雄1992年2月~
  臼井 研一1994年10月~
  斎藤 善也1996年4月~
  西川 光昭1999年2月~
  田中 公明2000年4月~
  尾崎  敦2001年10月~
  丸山 雅也2002年10月~
  大坪 信剛2004年4月~
  河嶋 浩司2006年4月~
  遠山 和彦2008年4月~
  千代崎聖史2010年4月~
  鮎川 耕史2012年4月~
  川辺 康広2014年4月~
  長谷川 豊2016年4月~
  川上 晃弘2018年4月~
  佐々木 洋2020年4月~

(堤  哲)

2020年10月14日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ  「東京ラビリンス」のあとさき その5

文・平嶋彰彦

この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429085.html

その5 『1960年代の東京 路面電車の走る水の都の記憶』――池田信の眼差し
文 平嶋彰彦   写真 池田信

 最初は『みなと写真散歩』という写真資料集を再編集したら、出版企画として成立するのではないか、ということだった。この写真資料集は港区内の街並み2253カットをまとめたもので、1968年に自費出版された。著者の池田信は日比谷図書館の元資料課長で、亡くなった後、原稿に使ったプリントは遺族から毎日新聞社に寄贈されたとのこと。

 問題は撮影範囲が港区だけでは、営業的な吸引力に欠ける点にあった。しかし、話を聞いていくと、プリントだけでなく、撮影フィルムも寄贈され、情報調査部のアーカイブセンターで、デジタル化を進めているという。だったら、『宮本常一 写真・日記集成』と同じように、撮影フィルムの一切合切を自分の目で見てみたい。もし、ものになりそうであれば、私にこの本の編集を任せて欲しいと申し出た。

 撮影フィルムを調べてみると、『みなと写真散歩』に掲載したのはごく一部で、撮影地は港区ばかりでなく、伊豆七島を除く都内のほぼ全域に及んでいた。また撮影期間は1961年から1972年までだが、写真の大半は東京オリンピックのあった1964年までに集中していた。目を通したのは、たしか35ミリフィルム200本前後で、撮影フィルムには密着写真が添付され、3分の2強のカットに撮影地と撮影年月日が書き込まれていた。

 池田信は『みなと写真散歩』のはしがきで、東京の町を写真に撮るようになったいきさつを次のように書いている。

 「昭和36(1961)年、気がついて見ると、オリンピック東京大会準備の為ということで、東京の町は俄かに且つ極端にその容貌を変えはじめました。(中略)私は都立日比谷図書館で資料を預かる立場にあり、毎日そこで管理している東京資料やその他の古い資料をながめているうちに、まだ明治や大正の俤をいくらか残している東京の姿を記録しておいたらと考えるようになりました」

 1961年11月、池田信は渋谷の東横デパート屋上から、並木橋方面と宇賀川町方面の俯瞰写真を撮っている。そのあと、渋谷駅の南側で渋谷川の埋立工事を撮り、さらにそのあと、渋谷駅北側の宮益橋から渋谷川の上流方向の景色を撮っている。

渋谷川。宮益橋からの眺め。左はのんべい横丁。右は渋谷東映。1961年11月

 ルーペで覗くと、宮益橋から上流は、まだ埋立工事が始まっていない。水が流れているのである。思わず目を見張った。探しあぐねていた落とし物が見つかったときの感じと言えば分かってもらえるだろうか。右岸はのんべい横丁で、左岸は渋谷東映。奥に見えるのは宮下公園である。『昭和二十年東京地図』の取材で、ここから約600メートル下流の並木橋から渋谷駅方向を撮ったことがある。のんべい横丁もそのときに撮っていて、すぐ傍をかつて渋谷川が流れていたことは、同行取材した西井一夫から聞いていた(註)。

 ところで、池田信が高所から撮った写真は、このとき以外には見当たらない。並木橋方面を撮ったカットには渋谷川の工事現場も写っているが、彼の主な関心は宇田川町方面の遠景にあったに違いない。そこには東京オリンピックの国立代々木競技場や選手村の建設予定地があった。戦時中までは陸軍代々木練兵場だったところで、戦後はGHQに接収され、ワシントンハイツと称する米軍の居住施設になっていた。日本に返還されるは、これより2年後、オリンピックの1年前である。

 ワシントンハイツ西側の縁に沿って流れていたのが宇田川(河骨川)で、渋谷川の支川である。宇田川はそれより井の頭通りへ出て、現在の西武デパートのA館とB館の間を流れたあと、JR山手線を潜った先で、写真を見れば分かるように、渋谷川のもう1つの支川である隠田川と合流していた。

 大正元(1912)年に発表された小学校唱歌の「春の小川」は、国文学者の高野辰之が代々木八幡の自宅近くを流れるこの川をモデルに作詞したと言われる。渋谷川とその上流である宇田川に沿った景色は、「明治や大正の俤をいくらか残している東京の姿」であり、池田信にとって東京の原像となる水辺の景観の1つだったのではないかと思われる。

 年末年始の休暇に入ったその年の12月29日から大晦日までの3日間、皇居内濠に沿った丸の内のオフィス街と、首都高の埋立工事や架橋工事の進む外濠・京橋川・楓川・日本橋川沿いの有楽町・銀座・京橋・日本橋などの街並みを、池田信は精力的に写している。

 そのなかに丸の内仲通りの三菱3号館の角で撮った印象的なカットがある。このあたりは、連載その4で述べたように、中世までは日比谷入江と呼ばれる海岸線だった。徳川家康の関東入府(1590年)以降に埋め立てられ、江戸時代には大名屋敷が建ちならんでいたが、明治時代になると三菱財閥に払い下げられ、ジョサイア・コンドルや曾禰達蔵によりイギリス風の様式に統一された赤レンガ造りのオフィス街が建設された。

丸の内仲通り、三菱3号館の角。屋台の石焼イモ屋が出ている。1961年12月

 3号館の竣工は1894年である。それにたいして渋滞する自動車とそれをかき分けるように道路をわたる女性の服装や髪形は、明らかに1961年当時のデザインである。彼女が悴んだ手を合わせて向かおうとする、あるいはたんに通りすがるだけかも知れない石焼イモ屋にたいする私たちが持つ歴史的イメージは、三菱3号館の時代よりもっと古い。おそらく江戸時代の後期まで遡るものである。この写真のどこが面白いかといえば、まるで底引き網で漁をするように、一つの画面に重層するいくつもの歴史的時間がまるごと捕らえられているからである。

 池田信が人物をスナップした写真は、200本前後のフィルムのなかで、わずか数カットに過ぎないが、そのうちの5カットを見開きで載せている。狙って撮ったというよりも、通りすがりのあいさつ代わりといった感じの撮り方なのだが、どのカットも画面の隅々まで目配りが利いていて、人を引きつけて離さない何かを感じさせる。

 そのなかでもとりわけ私が好きなのは、1963年4月に六本木で撮った金魚売りのカットである(ph3)。正面はアルゼンチン大使館。こんなところをなぜ金魚売りが売り歩いているのか。しかも2人もそろって。その可笑しさと不思議さに引かれて、見開きで使うことにしたのだが、キャプションをつける段になって調べると、可笑しくもなければ不思議でも何でもない。私がこのあたりの歴史や地理について何も知らないだけのことだった。

アルゼンチン大使館前の金魚売り。現在は六本木ヒルズの一画。1963年4月

 このカットには撮影地の記載がなかった。アルゼンチン大使館の住所をたどると、現在は元麻布2丁目に移転しているが、この当時は六本木6丁目11にあったことが分かった。大使館の塀の角に「北日ヶ窪分譲住宅入口」の標識がある。現在の地図と見比べると、大使館跡もこの団地跡も再開発されて、なんと言うべきか、六本木ヒルズの一角になっている。

 肝心の金魚についてだが、南側に坂を下ったところは旧地名で南日下窪町と呼ばれ、その辺りでは、高台からの下水(したみず)や湧き水を利用して、江戸時代から金魚の養殖が盛んだった。窪地一帯には金魚池があちこちにあって、六本木ヒルズの建設が始まる直前まで、その一部が営業を続けていた、いうことである。

 撮影フィルムから写真を選ぶのは、理屈よりもどちらかと言えば勘が頼りである。しかし、キャプションは意味や理由が分からないと埒が明かない。そこで資料にあたる。写真の撮られた背景を探っていくと、池田信という写真家の人物像がおのずと見えてくる。

 池田の撮った東京には、自分が生まれ育ったわが町という想いに連なる眼差しが感じられる。池田は1911(明治44)年の東京生まれで、第一東京市立中学校(現在の九段高校)を卒業した。それ以上のことは分からないが、ちゃきちゃきの江戸っ子、生粋の東京っ子ということだろう。しかも東京都の職員だった。とうぜんと言えばとうぜんかも知れない。

 池田がこだわったのは、先に触れたように、彼自身の言葉によれば、「まだ明治や大正の俤をいくらか残している東京の姿」だった。明治以前の江戸でも昭和の東京でもなく、明治や大正の東京だと言っているのが見逃せない。

 というのも、関東大震災が起きたのは1923(大正12)年で、池田が12歳のときである。東京は1945(昭和20)年にも米軍の大空襲があり、やはり壊滅的な被害をこうむった。したがって、「明治や大正の俤」というのは、彼が子どものころに目の前で直に見た「路面電車が走る水の都の記憶」ではなかったかと想像されるのである。

 そういう意味合いから、表紙には隅田川に架かる新大橋の写真を使った。このアールヌーボー風のいかにも瀟洒なデザインの橋は1912年の竣工で、それから間もなく市電(都電)も開通した。関東大震災にさいしては、1万人以上の罹災者がこの橋の上に避難して、九死に一生を得たと伝えられる。1977年、惜しまれながら現在の橋に架け替えられたが、池田の言う「明治や大正の俤」を残す象徴的な東京の橋だった。

隅田川に架かる旧新大橋。1912年の竣工。関東大震災で1万人以上がこの橋の上に避難して助かった。1962年11月

 この写真集についてはもう一つ書いておきたいことがある。

 編集制作にあたって頭を抱え込んだのは、引き伸ばし暗室がなくなっていたことである。『宮本常一 写真・日記集成』のように、自分でプリントが出来なくなっていた。寄贈されたプリントは画質が悪く、もちろんプリントの外注は予算的に論外だった、

 仕方がないので、写真選びとページ構成は、撮影ネガと密着写真を頼りに、パソコンのExcel上でおこなった。それだけではすまなかった。印刷にさいしても、印刷所に頼み込んで、プリント見本をつけないまま、ネガフィルムから直接スキャニングしてもらう、という乱暴な方法をとった。仕事に苦労はつきもので、泣き言をいっても始まらないが、自分が時代錯誤のカメラマンであることをつくづくと思い知らされた。

(註)連載その1「『昭和二十年東京地図』と西井一夫」を参照。

 写真は『1960年代の東京 路面電車の走る水の都の記憶』(毎日新聞社、2008)からの転載。

(ひらしま あきひこ)

2020年10月6日

1936年ベルリン五輪「友情のメダル」誕生まで ― 元大阪本社運動部・長岡民男さんの回顧録

 元大阪本社運動部の長岡民男さん(56年入社、89歳)が同人誌『人生八聲』24巻(2020年10月発行)に、1936年ベルリン五輪の記録映画「民族の祭典」秘話を書いている。レニ・リーフェンシュタール(2003年没、101歳)女性監督の名画である。

 沢木耕太郎著『オリンピア—ナチスの森で』(集英社1998年刊)によると、棒高跳の決勝は8月5日午後4時から、午前中の予選を通過した25人によって争われた。

 3m60から始まって、4m15をクリアしたのは、日米5選手。4m25で世界記録保持者のウィリアム・クレーバーが失敗、優勝争いは4人に絞られた。

 日本の西田修平(早大→日立製作所)と大江季雄(慶大)、アメリカのアール・メドウス、ウイリアム・セフトンの4選手である。

 「午後8時、4㍍25の試技が終わると完全に日が暮れ、場内に13万ワットのライトが点灯された。雨は上がっていたが、外気の温度は急激に下がってきて、西田も大江も用意した毛布にくるまって体を暖めはじめた」

 バーは4m35に上がった。これをクリアしたのはメドウス1人だけで、メドウスの金メダルが確定した。

 2位は日米3選手による順位決定戦となったが、アメリカのウイリアム・セフトンが脱落、西田、大江両選手のメダル獲得が決まった。

 「2人は長い闘いに疲労していた。日章旗が2本揚がることは決まったのだ。別に同国人の2人で争うまでもない。西田が試技をやめると伝えると、審判員も了解してくれ、そこで競技は終了ということになった。すべてが終わった時、午後9時を過ぎていた」

 表彰式は、翌日回しになった。4m25を1回目に跳んだ西田が銀メダル、2回目に成功した大江が銅メダルと決まった。

 表彰式で2位の台に大江を上げたのは西田だった。「次の1940年東京五輪で金を狙うのは大江だから」の配慮だった。

3位の台に立つ西田(手前)と大江
銀・銅半分の「友情のメダル」

 「だが、1940年の東京大会が幻となり、大江がフィリピンで戦死する未来は、このとき誰にも見えていなかった」と沢木は結んでいる。

 『人生八聲』には、西田さんから直接聞いた話として、こう書かれている。

 《「あれはおかしいんだ。2位決定戦をやらないのだから2人とも2位(銀メダル)ですよ。当時のルールでは決定戦をやって順位を決めるんです」》

 1964年東京五輪で、西田さんは陸上競技の審判長をつとめ、長岡さんは大阪本社運動部からオリンピック取材班に派遣され、国立競技場で陸上競技を取材した。

 記録映画「民族の祭典」の撮り直しのことにも触れている。

 《「皆さん、明日はフィナーレです。全競技が終わったら、ポール(棒)を持って選手村の練習場に集まって下さい」。レニさんは5人に再撮影を告げた》

 《3m80から始まり4m20まで来ると、選手それぞれのフォームに個性がにじみ出るのが、映画人にもわかるようだ。

 「みなさん、軽々と跳んでいるけど落とすシーンも欲しいな」というレニさんの求めには笑いが渦巻いた》

 《西田さんが言う。「映画館で見て実写か、撮り直しかの区別なんかつきませんよ。撮影した人たちと我々選手以外はね」》

 2020東京五輪を前に、昨年12月21日(土)東京・京橋の国立映画アーカイブ(旧 東京国立近代美術館フィルムセンター )で午後1時から「民族の祭典」、4時から「美の祭典」が上映された。私にとっては、この2作品とも2度目だったが、棒高跳のシーンが撮り直したものも取り込まれているとは気づかなかった。

 《棒高跳のシーンは実写80パーセント、補強撮影20パーセントといわれる》と、長岡さんの原稿にあった。

 「友情のメダル」は、現在、早稲田大学史資料センターに、戦死した大江のメダルは秩父宮記念スポーツ博物館に保存されている。

(堤  哲)

2020年9月16日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ  「東京ラビリンス」のあとさき その4

 文・写真 平嶋彰彦

 この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索を
 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429083.html

 2006年8月に定年退職になった。『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編)が最後の仕事だった。「1966年の開館から40周年を迎える今、その革新的な建築技術・デザインとそれを具現したひたむきな情熱の原点を解読する」はこの本の帯の一節で、私が書いた。仕事を受けた時は編集だけのつもりだったが、いろいろな成り行きから写真も撮ることになった。連載その2でも書いたが、会社勤めの締め括りに現役のカメラマンであるのが夢だったから、誤解を恐れず言うなら、棚から牡丹餅みたいな話で、私にとっては忘れがたい仕事の一つとなった。

 表紙カバーには、パレスサイドビルを皇居北桔橋門から平川濠越しに撮ったカットを使った(ph1)。この門をくぐるとすぐ目の前が皇居本丸の天守台である。撮影はその年の5月3日。朝起きると雨上がりの空が抜けるような青さだった。憲法記念日で祝日だったが、こんな天気を逃したら後で悔やむことになると自分に言い聞かせ、不承不承ながら撮影に出かけることにした。案の定で、撮影は午前中で一段落したが、午後になると靄がかかってしまい、その日以降、ビルの特徴である白亜の円筒を際立たせる天候条件は一日もなかった。

 カバーの裏に使ったのは、屋上の庇で羽根を休め、皇居と東京の市街を見守るアルミ製鋳物の伝書鳩のカットである。西洋建築にも日本建築にもよくある魔除けの呪物だが、たいていは鬼や妖怪の類を守護神として飾っている。恐ろしくも何ともないハトというのは奇抜と言えば奇抜で、自由闊達な毎日新聞社になんとなく似つかわしいと思った。

 新聞社はどこもそうだが、伝書鳩がニュース速報の花形として長いあいだ活躍した。それに加え戦後になると、ピース(たばこ)のオリーブの枝をくわえたハトというデザインの影響が大きいと思うが、ハトは平和の象徴であるというイメージがひろまった。(註1)。パレスサイドビルはベトナム戦争が泥沼化した時代の建築である。ハト(伝書鳩)というモチーフには、武器ではなくペンによる平和を実現しようとする新聞社ならではのメッセージが込められていたように思われた。

 改めて資料を見直すと、パレスサイドビルは奇抜と言えば奇抜だらけだった。以下に紹介するのはその極めつけとも言える。巻頭の見開きに竣工当時の航空写真を使っている。撮影は建築写真の第一人者として知られる村井修。東正面玄関の車寄せに庇があるが、上から見下ろすと、なんと言うことか、庇の表面は白地に真っ赤な日の丸のデザインになっている。パレスサイドビルの設計は林昌二(日建設計)であるが、林は藤岡洋保(東京工業大学大学院教授)との対談で、その理由を次のように述べている。

 「あの頃は敗戦が悔しくて、上から見ると四角を白く塗って、真ん中の丸を真っ赤にしたんです。そうしたらそのちょうど上の2階にリーダースダイジェスト東京支社の社長室があって、トンプソンさんという人がびっくり仰天したらしいんです(笑)。でも塗り替えろとは言われなかった」(註2)

 リーダースダイジェスト東京支社の旧社屋は1951年の竣工で、アントニン・レーモンドが設計した。レーモンドはフランク・ロイド・ライトの弟子で、1919年に帝国ホテルの建設のため来日。そのまま日本に滞在し、聖路加病院や東京女子大チャペルなどを手がけた。1938年にいったん米国へ戻り、1941年には東京の設計事務所を閉鎖するが、戦後の1948年に再来日し、建築活動を続けた(註3)。

 林昌二は中学生のとき、空襲で家を焼失した戦争体験があった。米軍は日本本土を空襲するために焼夷弾を使用した。木造家屋を効率よく焼き払うこの爆弾の開発には、日本の住宅事情に詳しかったアントニン・レーモンドの協力があった、と林は言及している(註4)。

 そのレーモンドはリーダースダイジェスト旧社屋の建替計画を知ると、

 「自分の怒りを表現すべき言葉が見当たりません」

 と抗議文をパレスサイドビルの施主である3社に送った。これにたいする林昌二の言葉はこうである(註5)。

 「レーモンドは先生でありライバルでもあった。それが私たちの跳躍台になり、パレスサイドビルが建てられたのではないかと思う。リーダースダイジェスト社屋とはDNAを共有している。パレスサイドビルはリーダースダイジェスト社屋の“同地転生”である」

 パレスサイドビル正面の全面ガラスのカーテンウォールをリーダースダイジェスト旧社屋の写真と見比べれば、レーモンドのデザインを継承しつつ、さらに飛躍させようとしているのは素人目にも確認できる。屋上に造られた庭園もまた、旧リーダースダイジェスト社屋にあったイサム・ノグチが造った庭園を強く意識したもので、英国風の植栽で整備された芝生に置かれた自然石もノグチの庭園にあったものをそのまま利用している。

 私は28歳のときから40年余りパレスサイドビルに通った。建築は門外漢だから、オフィスビルとしての良し悪しは分からない。しかし、どことなく堅苦しく気取った名前にもかかわらず、人を威圧する雰囲気をまったくと言っていいほど感じさせない。そこが私のパレスサイドビルの好きなところだった。

 昨年の2月、皇居東御苑を訪れることがあった。大学写真部の旧友たちと続けている東京の街歩きで、パレスサイドビルの向かいにある平川門から入り、二の丸・本丸をめぐって、大手門に出るというコースだった。二の丸から本丸に通じる坂が2つあるのだが、灯台下暗しというか、不勉強というか、坂の名前と由緒はこのとき始めて知った。

 その1つが梅林坂で、ちょうど外国人観光客たちが満開に咲く梅の花を背景に記念写真を撮っているところだった(ph2)。家に帰ってから千代田区観光協会のHPをみると、梅の木は1967年の東御苑の開園に併せ植樹されたもので、坂名は1478(文明10)年に太田道灌が菅原道真を祀り、梅の木数百株を植えた故事によるという。そこで戸田茂睡の『紫の一本』(1681~83・天和年間成立)にあたってみると、次のように書かれている。

 「梅林坂 御城の内に在。此所に昔天神の社在り。是は太田道灌、武州入間郡川越御吉野の天神を勧請せらる」(註6)。
もう1つが汐見坂である(ph3)。汐見というからには、ここから海が見えたに違いない。『紫の一本』で改めて調べてみると、この坂にも言及があり、思った通りで、戸田茂睡はこんなふうに書いている。

 「塩見坂 梅林坂の上切手御門の内之此所より海よくみへ、塩のさしくるときは波たゞこゝもとによるやうなるゆえ塩見坂といふ。今は家居にかくれて海みえず」

 「塩見坂」は汐見坂のこと。「家居」は、大手町から日比谷までの一帯に大名屋敷が建ち並ぶ、いわゆる大名小路のことを指す。『江戸切絵図』(1849・嘉永2年)をみると、大名小路北西のはずれに御舂屋がある。現在地図に照らし合わせると、その跡地にパレスサイドビルが建っているのが分かる(註7)。

 海が見えなくなったのは、埋め立てたからである。太田道灌が江戸城を築いた1457(長禄元)年のころ、城内から間近に海が見渡せたことは知っていたが、汐見坂の坂名が今でも残っているのは新鮮な驚きだった。後代の史料になるが、『江戸名所図会』(巻之六、「自得山静勝寺」、1836・天保7年)によれば、太田道灌は寛正年間(1460~66)に上洛したとき、天皇から平生の眺望を問われると、次の歌を詠んで応答した(註8)。

 「わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞみる」

 「庵」は江戸城内にあった道灌の居館のことで、静勝軒とも呼ばれたという。「海」は日比谷入江と称された遠浅の海岸線。浜松町・新橋から日比谷公園をへて、パレスサイドビルに隣接する丸紅ビルのあたりまで食い込んでいた。道灌にとって日比谷入江と富士の眺望は一番の自慢だったに違いない。

 日比谷入江は徳川家康が関東に入府すると埋め立てられ、1628(寛永5)年までに市街地(宅地)化された。パレスサイドビルの正面に平川濠と平川門があるが、平川は神田川の旧名で、現在は駿河台をへて浅草橋の先から隅田川に合流する川筋だが、もとは平川門の辺りで日比谷入江に注いでいたという(註9)。

 徳川幕府は日比谷入江を埋め立てる一方で、軍事的戦略と経済的流通の両面の観点から、江戸城を中心に濠と運河を縦横に開削した。林昌二の言葉を借りるなら、家康の江戸は道灌の江戸の“同地転生”であり、残された絵画や写真の史料を見れば、東洋のベニスと呼ばれるにふさわしい水辺の都市空間だったことが分かる。

 汐見坂近くの展望台に立つと、パレスサイドビルが一望にされた(ph4)。今から400年ほど前には、この辺りが日比谷入江の最奥部だったのである。画面手前が白鳥濠。その奥にみえる急斜面が汐見坂である。坂の正面方向を真っすぐたどると大手濠。その対岸の高層ビルの林立する一画に将門塚(大手町1-2-1)がある。

 将門塚の辺りには、現在は駿河台にある神田神社(神田明神)の旧社地があった(註10)。神田神社について、次のような記述が『永享記』にある(註11)。

 「神国[田]の牛頭天王、安房洲崎明神と一体にて、武州神奈川・品川・江戸、何[連]も此の神を祝ひ奉る。或る人の云く、平親王将門の霊を、神田明神と崇め奉るとかや」

 この記事によれば、神田明神の祭神は牛頭天王で、安房洲崎明神(天比理刀咩命)と本地垂迹の関係にあり、併せて平将門を祀っていたことになる。

 安房洲崎明神は航海の守護神で、所在地は東京湾の出入口である館山市洲崎。神奈川(現在の横浜市神奈川区南部)、品川、江戸に安房洲崎明神が勧請されたのは、そこが武蔵国における海上交通の要衝だったからだとみられる。ということは、神田明神の旧社地の辺りは、諸国からの廻船が集散離合する湊になっていたことを示唆する。中世のころの江戸城の位置は学術的には実証されていないというが、「松原つづき海近く」と道灌が詠んだ水辺の景観は、現在の大手濠辺りのことではなかったかと想像される。

(註1)タバコのピースが、オリーブの枝をくわえるハトのデザインで売り出されたのは1951年。このデザインの美しさは鮮烈で、タバコは吸わなくても小さいころから、ピースが平和を意味することは知っていた。
(註2)「デザインや技術、モノづくりに対する高い志を結晶させた大規模複合ビルの先駆」(『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』所収、毎日新聞社、2006)
(註3)「RAYMOND」(株式会社レーモンド設計事務所HP)。
(註4)『建築家 林昌二毒本』(新建築社、2004)
(註5)「アントニン・レーモンドを超えて」(土屋繁、『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』所収)
(註6)『紫の一本』(上巻、1714・正徳4年発行本、国会図書館デジタルコレクション)。御吉野は三芳野。
(註7)「御江戸大名小路絵図」(『江戸切絵図』所収、尾張屋版、1849・嘉永2年、国会図書館デジタルコレクション)。御舂屋は「江戸幕府営中の諸士に給する領米をつく所」(『精選版 日本国語大辞典』)
(註8)『新訂 江戸名所図会5』(ちくま学芸文庫、1997)
(註9)「江戸の上水」(『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』所収、鈴木理生編、柏書房、2003)
(註10)「神田神社」(『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』所収、平凡社、2002)
(註11)『永享記』は永享の乱(1438年)とそれ以後の関東の動乱を描いた軍記物語。作者、成立年代は不明。『続群書類従』所収。

(ひらしま あきひこ)

2020年9月1日

東大新聞創刊100年、毎日新聞で活躍したOBたち

 東大新聞をウィキペディア(Wikipedia)で見ると——。

 1920(大正9)年12月「帝国大学新聞」創刊。
 1944年京都帝国大学新聞と合併して「大学新聞」と改題。
 戦後1946(昭和21)年4月「学園新聞」(京都大学新聞の前身)を分離。5月「帝国大学新聞」。
 1947年10月「東京大学新聞」。
 1948年末休刊。
 1949年「東京大学学生新聞」創刊。
 1957(昭和52)年「東京大学新聞」と改題。

 東大新聞は、ことし創刊100年を迎える。「暮しの手帖」花森安治、作家の田宮虎彦、杉浦明平、「週刊朝日」の名編集長扇谷正造らを生んだが、毎日新聞にも何人もOBがいる。

 卒業年

 久富達夫(1925)政治部長。東大ラグビー部第2代キャプテン。「創刊に関わった」
 水野可寛(1925)南方新聞部長。スポーツ毎日編集長。水野順右(58年入社)の父。
 大塚虎雄(1926)ベルリン特派員。新聞連載『学界新風景』『学界異聞』を出版。
 野沢隆一(1927)「帝国大学新聞」社長と呼ばれた。共同テレビニュース社長。
 宮崎健蔵(1929)校閲部長。上智大学教授。
 松浦年三郎(1931)札幌支局、学芸部、政治部、整理部。
 平岡敏男(1932)経済部長。ロンドン支局長。毎日新聞社長。
 高原四郎(1933)学芸部長。サンデー毎日編集長。西部本社編集局長。監査役。
 高松棟一郎(1934)NY特派員。サンデー毎日編集長。東大新聞研究所教授。
 沢開 進(1939)編集委員。「ときの人」欄担当。
 莇 仁蔵(1940)エコノミスト編集長。経済部長。東京本社編集局長。
 柳原義次(1952)ソウル特派員。東欧特派員・ボン支局長。論説委員。
 天野勝文(1957)論説委員。筑波大教授。日大教授。
 高木暢之(1960)シンガポール・ジャカルタ支局長。論説委員。日大教授。
 橋本光司(1966)大阪本社編集局長。西部本社代表。
 潮田道夫(1974)ワシントン特派員。経済部長。論説委員長。帝京大教授。
 瀬川至朗(1977)ワシントン特派員。科学環境部長。早大政経学術院教授。

 高原四郎の「回想の東大新聞」(月刊「文藝春秋」1956年12月号)、元共同通信・東大新聞研究所所長・殿木圭一「帝国大學新聞のころ」(日本記者クラブ会報1979年1月10日号)などから毎日新聞に入社してトロッコから記者になった人達のエピソードを拾うと——。

 久富(旧姓:郷)は工学部造兵科と法学部の2学部を卒業している。一高時代に柔道部、水泳部に入り活躍、ボートも漕いだ。東大ラグビー部は、1921(大正10)年11月香山蕃が三高のラグビー部員ら31人で創部したが、そのメンバーに久富は入っている。

 久富は、香山のあとの第2代キャプテン。大阪毎日新聞に入社して、ラグビー部をつくり、選手としても東西対抗に出場している。

 《この人はあけっぴろげの明るい性格で、学生たちによく酒をのませた。会えば必ず家にのみにこいというので、本郷金助町という地の利もあってときどき大挙して久富家へ押しかけていった。学生たちは久富氏に「親分」の愛称を捧げていた》

 久富家には4斗樽が置かれ、政治部の記者やラグビー仲間、東大の学生らでいつも大宴会だったという。

 関東大震災では、罹災した避難民3千人が東大構内につめかけた。久富は先頭に立って避難民の救護にあたった。

 東大セツルメントは関東大震災で生まれるが、社会部旧友水野順右の父親水野可寛の名前がある。可寛は「セレベス新聞」にも派遣された。

 高原が「帝大新聞」の「社長」だったと書いている野沢隆一(1902~1991)。東京日日新聞での実績は分からないが、人事録には戦後信越放送社長、フジテレビ取締役、共同テレビニュース社社長・会長などとある。

 《帝大新聞のボロ社屋に平岡氏を始終訪ねてくる顔色の悪い学生がいて、その名前を津島といった。これが後年の太宰治であった》

 旧制弘前高で太宰と一緒だった平岡敏男。毎日新聞社が経営危機にあったとき、新社を設立して、社長に就任した。その後、旧社に残した負債を返済して、新旧合併して今の毎日新聞社がある。1986(昭和61)年の広島原爆忌に亡くなった。77歳だった。

 柳原義次。写真家・沢田教一がピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」。写真に写った家族を探し出して記事にしたのが柳原だった。

 ここまでは実際に話したこともない大先輩。「東大新聞」OBといえば、社会部旧友天野勝文だ。1957(昭和32)年東大文学部社会学科卒で、毎日新聞入社が2年後の59(昭和34)年。この2年間、経営破綻した「東大学生新聞会」が「財団法人・東京大学新聞社」として新発足し、その専従職員だった。

 リクルート創業者である江副浩正(1936~2013)が自伝『かもめが翔んだ日』に、天野との出会いを書いている。《「新聞は販売収入より広告収入が上回る時代になった。広告もニュースだ。明日から新聞を広告から読んで、東大新聞の広告を開拓してくれないか」といわれたと》

 「新聞は下から読め」「広告もニュースだ」から、東大新聞に大手企業の求人広告が続々掲載されるようになった。江副は、そのノウハウを持って「東大新聞」をおさらばする。

 東大新聞の復刻版が発行されている。関東大震災で東大の図書館も焼けた。収められているのは、1923(大正12)年11月以降。第1号~第56号(大正9年12月25日の創刊号から大正12年10月)までを版元の不二出版も探している。

 なお、日本で最初の学生新聞は慶應義塾大学の「三田新聞」で1917(大正6)年5月創刊した。「東洋創始」をうたった。1971(昭和46)年に休刊したままである。

(敬称略)

(堤  哲)

2020年8月14日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その3 『宮本常一 写真日記集成』――最後の暗室作業

この連載は毎月14日に更新されます。下記のURLで検索をしてください。
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53432163.html

文  平嶋彰彦
写真 宮本常一

 『宮本常一 写真日記集成』の上下巻に収録した写真は約3000カット。宮本常一の撮影ネガは約1700本。撮影年は1955年から1980年。フィルムはフルサイズが3分の1、ハーフサイズが3分の2という感じだろうか。所蔵する周防大島文化交流センターによると、総カット数は約10万とされる。その中から約5400カットを選んで、六つ切りサイズのプリントを2セットつくった。1セットはもちろん印刷用原稿であるが、1セットは周防大島文化交流センターへの寄贈するためだった。

 写真選びは周防大島へ出向き伊藤幸司と2人で行った。プリント作業は、最初から私1人でこなすことにし、他人にまかせるつもりはなかった。

 一番の理由は、編集経費を抑える必要があったからである。

 専門のラボに外注することは予算的に問題外だった。といって、私の古巣だった出版写真部にも頼むわけにもいかなかった。社内制度がそうなっていなかった。仮に引き受けてくれたとしても、プリント代は予算の許容範囲を超えていた。しかし、私自身が処理すれば、印画紙代と薬品代の実費ですんだ。社内業務であるから、さすがに暗室の使用料を払えとまでは言わない。

 編集経費だけでなく、印刷経費も圧縮しようと考えた。

 そのため、写真集しかも豪華本の体裁であるにもかかわらず、1折(16ページ)か2折を除いて、色校はとらない方針だった。その前提として調子の揃った統一感のあるプリントが必要不可欠だった。しかもカット数は4桁と中途半端ではない。私自身で暗室作業をするのが、手っ取り早いだけでなく、安全かつ確実な方法だった。

 西井一夫と2人で、『20世紀の記録』(全20巻)の準備作業として、毎日新聞写真部のネガ倉庫を探索し、埋もれた写真資料を発掘したことがあった。そのときの経験から、1日平均50カットはプリント出来そうに思われた。実働日数を20日とすれば、1ヶ月に1000カットということになる。

 事前に選んだのは4000カット前後だった。印画紙4枚で完成品2枚、つまり1カットにつき没プリント2枚という目安で予算を立てた。実際に作業を始めてみると、思ったほど無駄を出さなくてすんだ。そこで、その分だけプリントするカット数を増やし、最終的には約5400カットをプリントした。ネガは2回に分けて借り出したが、その間に予期しない空白期間が生じたりして、暗室作業を始めてから終わるまでに半年余りかかった。

 1日の作業時間は、ほかに予定がなければ、朝9時半に出社して、夜8時には作業を打ち切った。それ以上やっても能率が悪くなり、翌日の作業に支障をきたした。朝はネガの見直しと準備、夜は後片づけとプリントの整理で、それぞれ1時間から1時間半を費やした。1日に暗室に籠れる時間は7時間半程度だった。昼食は時間が惜しいので、妻に弁当をつくってもらい、出版写真部のスタジオでとった。

 引き伸ばし機はイルフォードのマルチグレード・システムで、現像機はやはりイルフォードの自動現像機。自動現像機の利点は、プリントが出力されるまでの間にもう1台の引き伸ばし機を使って、同時並行的に作業を進行させられることにあった。

 テストプリントは本番と同じ六つ切りサイズ。結果がよければそのまま完成品にし、気に入らなければ、全体の露光時間の増減、焼き込みと覆い焼きの仕方、それぞれの場合の印画紙の号数の使い分けなどをテストプリントに書き込み、それを見ながら焼き直しをした。出力したプリントは1枚ごとに、明るいところへ持って出て、プリント見本と見比べた。これはあらかじめ印刷所と相談し、傾向の違うネガから引き伸ばして10枚ほど用意しておいた。展示用のプリントとしては、少しコントラストが足りない気もしたが、印刷用のプリントとしては、その方が画像調整しやすいというので、それにしたがった。

 もう一つ、私が自分でプリントすることにこだわった理由がある。

 宮本常一の写真をプリントした2003年には、報道メディアの撮影機材は、フィルムカメラからデジタルカメラにほとんど移行していた。そのため、白黒写真のプリント暗室は無用の長物となり、毎日新聞社でも4本社1支社の写真部に置かれた暗室はすべて撤去されてしまい、たった一つ出版写真部の暗室だけが残っていた。

 東京本社のあるパレスサイドビルが竣工したのは1966年で、3年後に私は入社した。そのころ、プリント暗室は写真部(新聞部門)と出版写真部(雑誌・書籍部門)の2つに分かれていて、どちらも最新鋭の仕様になっていた。引き伸ばし機の主力はフォコマートで、壁の両側に何台も並んでいた。また、部屋の中央には、半切の印画紙が処理できる現像液と定着駅のバットが1列に置かれていた。現像液は硬調と軟調の2種類があり、現像液も定着液も蛇口をひねるだけ、液温も自動的に調節される仕組みになっていた。

 私が写真を覚えたのは白黒写真が全盛の時代だった。印画紙を現像液のバットに浸すと、わずか1分半か2分の間に、画像が浮かび上がってくる。まるで神仏の奇跡を目の当たりにするようなわくわくする興奮は、この年齢になっても忘れられない。出版写真部での仕事は白黒写真とカラー写真が半々だったが、私にとって写真と言えば白黒写真のことで、撮影もさることながら写真は暗室でつくるものだった。

 暗室が必要でなくなれば、白黒写真のプリント技術者も必要でなくなる。中間管理職になり撮影をほとんどしなくなっても、出版写真部に在籍していた間は、毎日欠かさず暗室に入るように心がけた。撮影もプリントもスポーツと同じで、日ごろの訓練を怠ると、感覚が鈍り技術も衰える。白黒写真のプリント技術は、私にとってカメラマンとしての存在理由でもあった。宮本常一の写真5400カットをプリントする仕事は、カメラマン人生の最後として願ってもない檜舞台だった。

 この六つ切りの印刷原稿をそのまま使って写真展を開催することが2回あった。

 最初は『宮本常一 写真日記集成』の刊行直後で、写真家の伊藤愼一から連絡があった。写真雑誌『グラフィカ』の創刊号で、宮本常一の写真を巻頭特集に組みたい、併せてギャラリー・ガレリアQ(新宿3丁目)で個展を開きたい、という。伊藤は毎日新聞写真部の後輩にあたり、「ガレリアQ」の中心メンバーで『グラフィカ』の編集人の1人だった。

 雑誌に掲載した写真は約60カット、個展の点数はそれよりやや少なかったと思うが、どちらも写真選びと構成は伊藤愼一が行った。この個展では、額装して見せることにした。晴れの日のよそ行きの衣装という感じだろうか。

 もう1回は、その年の「写真の会賞」をもらったときの記念展覧会で、フォトギャラリー・Place M(新宿1丁目)が会場だった。このときは200点余りを透明のビニール袋に入れ、それをピンで止め、壁面に隙間なく並べた。こちらの写真選びと構成は私が行い、ガレリアQでの展示との重複感を避けるため、印刷原稿の雰囲気を生かす方法を考えた。

 『宮本常一 写真日記集成』(上下巻別巻1)には附録があり、そこでは私の敬愛する写真家の荒木経惟と森山大道から、聞書きの形であるが、好意的な感想記事を寄せてもらっていた。そのおかげで、自分が的外れな企画に血道を上げているのではないか、という不安に悩まされることはなくなっていた。そして、予期もしなかったこの2つの写真展を開いてもらったとき、それまで自分がしてきたことを、自分でも少しは褒めてやっていいかも知れないと思えるようになった。
写真は『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(毎日新聞社、2009)からの転載。

(ひらしま あきひこ)

香川県丸亀市本島笠島。草履の芯縄をなう。1957年8月31日。
山口県萩市見島。剣崎イカを干す。1960年8月3日。
佐賀県東松浦郡玄海町。農耕牛を連れた若い女性。1962年10月2日。
青森県むつ市大字田名部。恐山地蔵堂。死者の口寄せをするイタコとそれに聞き入る参詣客。1964月7月22日。

2020年8月11日

来年も8・6にはヒロシマへ——88歳、関千枝子さん

 関千枝子さんのブログ8月上旬号——。

 新型コロナの蔓延とまらず、小池都知事は、不急不要の出掛けは控えろ言っています。そんなことで今年の廣島原爆忌 8月6日は広島行きを止めた人、団体が多く、市の式典もほんの少数に制限、総理ら要人が来ているためか、式のときは、平和公園の式場のあたりは一般の人を入れず腹立たしい86でしたが、私は「不要」ではないぜひとも広島に行くぞと広島に行ってきました、私の作品「広島第二県女二年西組」を朗読劇にしてくださっているグループが幾つかあるのですが、そんな公演が、コロナのため全部中止になる中、一つのグル―プは大阪府島本町の平和反核の展示会で観客を20人にしぼってですが、公演を成功させたのです。奇跡的な事と思いました。その俳優の方々が、広島に見えるというので、私も張り切り関係場所を紹介し、また6日、街の慰霊祭は取りやめたところが多いのですが、私の学校の慰霊祭はちゃんとやったのです、俳優の人たちも参加し、花を捧げてくださいました。当時の先生が99歳になる方(女性)がいらっしゃるのですが、先生この日福山から見え、私が慰霊祭に来たことを涙を流して喜んでくださいました。

 本当に残念な86でしたが、私にとっては忘れられない8月6日になりました。

 式典でも広島市長は平和宣言で、核兵器禁止条約に署名、批准せよと言ってくださいました。去年までは少しもこもこしていたのですが、今年は、決然と。それに対して相変わらず触れようともしない安倍総理、私は本当に腹立たしく思っています。

 ヒバクシャにもさまざまな考えの方がおられますが一致しているのは、あんな爆弾はもういらない。ヒロシマナガサキで終わりにしよう、あんなひどい爆弾はどこの国人の上にも落としてはいけない、ということです。それを実現するには核兵器禁止条約しかありません。

 とかく弱腰の廣島市長が今年ははっきり言ってくれたこと本当にうれしかったです。

 いつの8月5日、6日には人で一杯になる広島でしたが、今はコロナのため本当に寂しかった。でも広島に来た人もたくさんいるし、皆さん核兵器廃絶の思いを強くされたと思います。

 原爆から75年。広島は本当に美しくたくましく繁栄しています。然し私は75年前のことが今もそのまま甦ります。私のクラス全滅したクラスメートが生きていたら。クラスメートのためにも生徒を抱きおんぶして死んだ恩師のためにも;私の生きている間に核兵器をなくしたい。

 でも、それは難しいかなあ、今回の旅有意義でしたしコロナも大丈夫ですが、何しろ私も88歳、相当くたびれました。でもまだまだ頑張るぞ。来年もまた86にはヒロシマに行きたい。

2020年8月11日

補聴器と出会ってからの日々―田原総一朗さんにも勧めて 鳥越俊太郎さんのつぶやき

 私は60歳過ぎた頃から耳に変調が出始めた。恐らく新聞記者、週刊誌記者、そしてテレビのキャスターとして全速力で生きてきたことのストレスが、年齢が積み重なると共に耳という弱い部分に手を出してきたんだろう。

 最初は耳鳴りだった。

 ある日ゴルフに行って午後の最初のホール、ドライバーを構えた背後で虫が鳴いているのに気づいた。うるさいなぁ。振り返った背後には、ただ芝生が広がるだけで樹木は一本もなかった。あれ?おかしいなぁ?虫はいないな。その日はその虫の疑問を引きずりながらゴルフを終えた。

 私は自分が運転する車で帰途についた。すると、なんと車の中にあの虫がいるのだ。道路の脇に車を停めて車の中をチェックした。だけど、車に虫なんかいない。あれえ?どうしたんだろう?

 私は暫し呆然として立ち尽くした。

 その時だ。あ、そうか、あの虫は外じゃない、耳の中にいるんだ!

 ようやく虫の存在の実態に気づき、それが私の耳の障害との付き合いの始まりだった。やがて聞こえの悪さに気づき、そのうち目眩が起きるのを経験した。ようやく訪れた病院で医師から

 「あなたの耳の病気はメニエール病です」

 そして、分かったのはメニエール病には根本的治療法はないということだった。症状は三つだが、耳鳴りと目眩は自分で受け止めるしかなく、今でも半狂乱になる一歩手前でなんとか生きている状態だ。

 ただ、耳の聞こえには救いの道が開けていた。そう、それが補聴器だ。そして私の前にシーメンス補聴器が現れたのだ。今ではシグニア補聴器と呼ばれている。

 私は左の耳がほとんど聞こえない。だから、テレビでインタビューをする時は、相手は必ず、右側に座ってもらう。そんな人の知らない苦労をしていたが、補聴器と出会ってからはその苦労も改善された。

 手足の不自由な障害者は誰もが気づいてくれる。しかし、耳の障害には誰も気がつかない。家の中でもテレビのドラマは字幕がない限り理解不能な物語だ。ニュース番組も聞こえないのでどうしても音量を上げてしまう。今では妻も私の耳の障害を理解して、音量の異常さを分かってくれる。ただ、補聴器を装着するようになってから、テレビ音量問題も解消した。

 そういう耳の障害と格闘していた頃に田原さんと話す機会があったのだと思う。実は私はその出会いを実は覚えていない。まあ、高齢者だから仕方がない。

 田原さんが補聴器を装着するようになって、「補聴器つけて気持ちおだやかに」と言っておられると聞いて嬉しい。

 ほとんど誰にも理解されない耳の障害者の身になってみるとそんなことが、嬉しいのだ。

 「ああ、この辛さを分かり合える人がここにもいた!!」

(鳥越 俊太郎)

 ※新聞記事は朝日新聞7月27日付生活面

2020年7月22日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その2

 『宮本常一 写真日記集成』――「親父の雑駁な写真」がテーマです。平嶋さんのエッセイは毎月14日に更新されます。下記URLで検索ください。

http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429084.html?fbclid=IwAR36UweTTN8KJCBnB3BL30dvnZ1MBoOdi0xHmwP7MRCXYwMEKAsKAL5W0Zo

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その2 『宮本常一 写真日記集成』――「親父の雑駁な写真」 文 平嶋彰彦  写真 宮本常一

 「東京ラビリンス」(『昭和二十年東京地図』)を撮影したのは1985年から86年にかけてだが、それから1年後、41歳のときに出版写真部のデスクになった。写真取材の手配と写真のとりまとめが仕事である。ちょうど、自分なりの写真が撮れるかも知れないと思いはじめた矢先だったから、デスクワークに専従する気持ちにはなれなかった。わがままを聞いてもらって、1ヶ月のうち10日ぐらいは自分でも撮影に出るようにした。

 しかし、部長職になると、それも怪しくなった。46歳のときである。そもそもデスクが仕事をくれない。考えてみれば無理もない。だからといって、好き勝手にふるまうわけにもいかない。写真が撮れないとなると、写真職場に執着する意味もなくなった。

 50歳のとき、出版制作部長への人事異動を打診された。用紙と印刷の管理部門で、写真職場とはまったく畑ちがいである。無茶な人事だと思ったが、断る理由も特に考えつかないので、言われるまま黙って引き受けた。

 思いがけないことはもう一つあった。1年ほど過ぎてからだったか、用紙と印刷の管理をしながら、併行して雑誌の編集をしなければならない羽目になった。私に編集する能力があったわけではない。しかたなく、後述する伊藤幸司の紹介で、フリーの野地耕治(編集者)と三村淳(デザイナー)に助けを求めた。彼らの後ろ姿をみながら、絵に描いたような50歳からの手習いで、編集の仕事を少しずつ覚えていった。

 2005年に『宮本常一 写真日記集成』(上下巻別巻)を刊行した。定年退職する1年前、59歳のときである。出版制作部からビジュアル編集室へ移って4年目にあたる。夢とも理想ともつねづね思っていたのは、野球の野村克也に倣えば、退職にあたって、生涯1カメラマンだと自信をもって言えることだった(註1)。といっても、写真職場にもどれる可能性はまったくなかったし、またもどったところでどうなるものでもなかった。どのみち、自分の仕事は自分でつくるしかないことになる。

 私のカメラマン生活の総決算と言えば理解してもらいやすいかも知れない。自分としてはめずらしく気負って取り組んだのがこの『宮本常一 写真日記集成』だった。実質的な編集期間は1年足らずだが、企画から刊行までに4年半を費やした。

 宮本常一が一枚の写真を読み解き、それについて1時間でも2時間でも話ができることを聞いたのは、1970年代の半ばで、30歳前後だった。また宮本自身も好んで写真を撮り、ハーフサイズのオリンパスペンが愛用のカメラだというのである。教えてくれたのは先にも書いた伊藤幸司である。早稲田大学写真部の同期生だが、かけ持ちで探検部にも所属していた。大学を卒業した後は、フリーの編集者として身を立てながら、宮本常一の主宰する日本観光文化研究所(観文研)の活動に参加していた。

 自分の撮った写真にキャプションをつけるのは、日常的な業務の一環だった。しかし、1時間も2時間も話すとなると、まるで話が違ってくる。自分にはとうてい真似することはできない。写真を解読する並外れた能力を想像すると空恐ろしさを感じた。しかし、その場の話として聞き流してしまい、その後に読んだ著作も『越前石徹白民俗誌』と『山に生きる人々』、それに『庶民の発見』だけだったような気がする。

 網野善彦を神奈川大学の日本常民文化研究所(常民研)に訪ねることがあった。網野は言わずと知れた歴史学者で、常民研の所長も務めていた。出版写真部にいたころで、1990年代だった。用件は『エコノミスト』の原稿依頼で、デスクの北村龍行に同行を誘われ、ついていっただけなのだが、雑談のなかで、次のような興味深い話を聞くことが出来た。

 網野善彦は、まだ常民研が水産大学に仮住まいしているころ、この研究所に在籍することがあった。宮本常一の席は目の前で、あいさつや日常会話を交わすことはあったが、一緒に調査活動をする機会に恵まれなかった。しかし、海からの視点で日本史を見直す必要があるとか、日本列島の東と西では文化的な差異が認められるという自分なりの歴史観は、後年になって読んだ宮本常一の著作からの影響が大きかったという。

 また、神奈川大学に移転して以降は、高取正男が所長を務めるはずだったが、若くして急逝してしまった(註2)。自分は高取正男と親しかったこともあり、所長の職を頼まれたとき、断るわけにいかなかった、というのである。

 網野善彦と高取正男の目ぼしい著作を、私はなるべく読むようにしていた。しかし、歴史学と民俗学の気鋭と評されたこの二人の学者に厚い親交があったことは知りもしなかった。この話を聞いてから、宮本常一という民俗学者に特別な関心を抱くようになった。

 2001年に宮本常一の『空からの民俗学』(岩波現代文庫)を伊藤幸司から贈られることがあった。3部構成の最後が「一枚の写真から」で、彼の写真が取り上げられていたのも興味深かったが、読み進んでいくにつれて、30年前に彼から聞いた話がよみがえると同時に、宮本常一自身の撮影した写真をやたら見てみたくなった。

 伊藤に問い合わせると、宮本常一の長男で、『あるくみるきく』(観文研)の編集長だった宮本千晴さんに連絡をとってくれた。伊藤の報告によれば、宮本常一の写真をまとめた写真集はこれまで刊行されたことがないし、出版企画の申し込みもいまのところない。撮影フィルムは宮本の郷里である山口県東和町(現周防大島町)に寄贈され、データベース化が進められているとのことだった。そこで千晴さんに直接お会いすることにし、出版企画の意向を伝えると「親父の雑駁な写真がはたして写真集にまとまるでしょうか」という意味深長な答えが返ってきた。

 営業的な常識からすれば、顔を背けたくなる企画である。通るわけがないと、なかば諦め気分で、出版局長の仁科邦男に持ちかけると、「おもしろいかも知れない。どうせやるのなら、資料として後まで残るものにしたい」という思いもよらない反応だった。

 正式に刊行計画を立てるためには、先ず周防大島まで出かけ、ものになるかならないかを確かめる必要があった。そこで、東京農業大学の米安晃名誉教授に協力をお願いする手紙を書いた。米安晃さんは、撮影フィルムをはじめ、宮本の遺品を郷里へ寄贈することを勧めた人物で、米安家は宮本常一の祖母の実家にあたる。

 以下は、そのとき私が書いた手紙の一節。『宮本常一 写真日記集成』の附録に掲載された伊藤幸司の「はじまりの話」からの引用である。正確な日付は分からないが、前段に「今月中、盆休みの後」の記述があるから、2001年の8月のことである。

 「私個人には、宮本常一先生が撮った写真をぜひ見てみたいという、一読者としての根強い欲望があります。また、絵巻物などの解読に腐心され、学問的な先鞭をつけた宮本常一の写真がつまらないわけがない、という確信もあります。千晴さんの話からも、先生がフィールドワークの単なるメモ以上に写真を考えていたのは、どうやら間違いないようです。先生には職業写真家が作品として写真を撮るのとは違った、たとえば絵巻物に描かれた風景や人物を読み解いていったような、一種独特の方法論があったと想像するのです。それは先生が言語の形で書き残した膨大な記録に繋がっていると同時に、写真でしか残せなかったことなのかも知れません」

 それより2ヶ月後の10月、伊藤幸司(編集者)、福江泰太(編集者)、鈴木一誌(デザイナー)と私の4人で、周防大島に赴き、一泊二日の現地調査を行った。同じ附録に、その時の印象を私はこう書いている。

 「宮本常一の撮影フィルムに初めて目を通したとき、民俗学の調査記録というよりも、むしろ民俗学の視点をもったジャーナリストによる庶民の戦後昭和史ではないか、毎日新聞社がこれまで手がけた現代史を写真中心に綴った『昭和史全記録』『戦後50年史』『20世紀の記録』(全20巻)に匹敵するか、あるいはそれ以上の記録資料になりうるのではないか、という思いに直撃された。どの撮影フィルムにも見たものを記憶に残そうとする宮本の内発的な意思があふれていた。露出やピントを外した写真がやたらに目立ち、下手な素人写真といってしまえばそれまでなのだが、写真がつまらないかというとまったくそうではない。理由もなく引き伸ばし機にかけてプリントしてみたいという衝動にかられた」

 文中の『昭和史全記録』『戦後50年史』『20世紀の記録』(全20巻)はいずれも、前回の連載その1で書いた西井一夫が企画し編集長を務めた。2000年12月、西井は『20世紀の記録』が完結すると、毎日新聞社を早期退職するが、その直後に食道癌を発症し、2001年11月に亡くなった。この現地調査の1ヶ月後である。社報の死亡記事は私が書いた。

(註1)野村克也。

 1978年、西武ライオンズのフロリダキャンプで、野村克也から「しばらく朝食をつきあってくれないか」と頼まれた。現役引退の2年前になる。『毎日グラフ』の「魅力の周辺」という連載ページで、一度取材したことがあるが、それだけの関係にすぎない。聞くと、食事には話し相手が要るという。乗換のサンフランシスコ空港では、息子(ダン野村)と一緒にいるところを写してくれと、内緒で頼まれたこともあった。キャンプ初日、野球音痴の私を相手に、野村が問わず語りに漏らした感想はこうである。「キャッチボールは肩慣らしだけじゃない。コミュニケーションの大事な手段であるのに、それが徹底していない」。夜になると、誰が声をかけるわけでもなかったが、スポーツ記者たちがロビーに集まるようになり、野村克也の野球教室が始まった。

(註2)高取正男。

 民俗学者、歴史学者。1926-1981。宮本常一の1981年1月3日の日記に「高取正男死」とある。宮本は都立府中病院に入院中で、同じ月の1月30日に亡くなった。高取正男が宮本常一に敬意を抱いていたことは、『差別の根源を問う』(野間宏・安岡章太郎編)を読むと如実に伝わってくる。高取正男の主な著書に、『日本的思考の原型 民俗学の視角』、『神道の成立』『高取正男著作集』全5巻、『民間信仰史の研究』などがある。

山口県大島郡周防大島町大字浮島楽江。学校から船で帰る小学生。1960年10月26日
長崎県壱岐市郷ノ浦町。煉り櫂を操る子どもたち。1962年8月3日
佐賀県唐津市鎮西町加唐島。台風一過、出漁を待つ漁師たち。1962年8月9日
北海道利尻郡利尻町。海岸に干したコンブをとり込む親子。1964年8月3日

 写真は『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(毎日新聞社、2009)からの転載。下巻、関野吉晴、2006)

『宮本常一が撮った昭和の情景』上下

 『宮本常一が撮った昭和の情景』上下2巻を図書館から借りた。改めて民俗学者宮本常一のスゴサが分かった。

 「写真プリント平嶋彰彦」。「10万カットから選び抜いた850点」と取り組んだのが、平嶋クンだ。

 ネットで読者の感想を拾った。

 ある新聞のコラム。《▼市井の人々の姿が映し出されているだけの即物的な写真集で、決して何かを狙ったものではないが、強く感じるものがある。写真の中の人々の目の輝きが、今を生きるわれわれとは違って明らかに強い光を放っている▼今よりもずっと貧しかった時代でも、人々は生き生きとした表情をしている。幸福とは何だろうと、あらためて考えてしまう》

 別のブログ。《山口県柳井市の川と家並みを撮った写真では、「町家は川の上に張り出してたてられたものもあり…家が川に向きあっているところでは川はきれいである。そういうところでは川へゴミをすてない。ところが家々が川を背にすると、容赦なくゴミを川へ捨てはじめる。町は表通りが厚化粧をはじめると、裏側はたいていよごれて来るものである…」などというキャプションがついています。なるほど、たしかにうなづけます》

 もうひとつ。《変貌のさ中にある村、街の人々の笑顔が素晴らしい》

 毎日新聞社刊、2,800円+税

2020年7月20日

110年前、関西には野球場がなかった!

 春のセンバツ出場が決まっていた32校が8月10日から真夏の阪神甲子園球場で交流試合を行う。各校1試合、応援団の熱い声援はないが、思い出のコロナ大会となろう。

 高校球児憧れの「甲子園」。甲子園大運動場の完成は、甲子(きのえね)の1924(大正13)年で、夏の第10回大会から使われている。

 それ以前はというと、第1、2回大会は阪急豊中駅から西へ500mほどにあった豊中運動場。現在「高校野球発祥の地記念公園」になっている。記念碑が建てられ、歴代優勝・準優勝校のプレートが飾られている。

豊中市にある高校野球発祥の碑(豊中市のHPから)
鳴尾球場跡地(筆者撮影)

 第3回からは、鳴尾運動場。阪神沿線西宮市内の競馬場のラチ内に、野球場を2つ造った。大会の日程短縮にも寄与した。甲子園球場から南へ1キロ余り、浜甲子園運動公園に記念碑が建っている。

 余談ながら、この鳴尾球場建設には、毎日新聞OB・橋戸頑鉄(本名:信、1936年没、57歳)が貢献している。当時大阪朝日新聞の記者だった。

 2019年に朝日新聞が出版した『全国高等学校野球選手権大会100回史』の〈大会が生んだ野球人〉に名前がある。第2回大会のページだ。「前年から手がけられていた野球規則を完成させる。野球殿堂入り」。

 1915(大正4)年。「第1回大会を開催する段になって、まだ日本には満足な邦文の野球規則がないのに気づいた」(上野精一元朝日新聞社長)。アメリカの野球規則を翻訳したが、完全ではなかった。第1回大会のあと、当時「萬朝報」記者・頑鉄が招ねかれたのだ。

 頑鉄は、1903(明治36)年の第1回早慶戦、05(明治38)年早大アメリカ遠征のキャプテン。帰国後に『最近野球術』(05年11月博文館刊)を著すなど、一番の野球通だった。のちに「東京日日新聞」(現毎日新聞)から声がかかり、都市対抗野球大会を創設する。最高殊勲選手賞「橋戸賞」に名前が残る。

 ◇

 中等学校野球の全国大会が始まる5年前の1910(明治43)年、「大阪毎日新聞」(大毎、毎日新聞の前身)が米シカゴ大学と早稲田大学を関西に招いて3試合を行った。

 シカゴ大は早大に招かれ来日したが、東京で早大、慶大と各3戦、早大OBの稲門倶楽部とも試合をしたが、7戦全勝だった。

 関西で初の国際野球試合——。その特集紙面が以下だが、阪神間には観客を入れて野球の試合をするグラウンドがなかった。阪神電鉄は、大毎の要請を受け、香櫨園遊園地内に野球場を造った。

「大阪毎日新聞」シカゴ大vs早大戦見開き特集1910(明治43)年10月23日付

 香櫨園遊園地は現存しない。現在の阪神香櫨園駅ではなく、阪急夙川駅の西側とJR線の間に広がる8万坪。池にウオーターシュート、庭園にメリーゴーラウンド、奏楽堂や動物園、博物館などが設けられ、当時としては一大テーマパークだった。命名の由来は、山林原野を購入した大阪商人の香野蔵治と櫨山喜一の苗字からだ(野球文化學會論叢「ベースボーロジー」第11号、市居嘉雄氏「香櫨園運動場で関西初の国際野球試合」)。

 野球場は、広さ4700坪。「何分急造のこととてスタンドを設備する余裕なかりしは遺憾なり」と紙面にある。

 「柵もスタンドもない…左翼の方は本塁から30間ほどのところからダラダラのスロープとなり、ここへ長打をカッ飛ばされると、追っかけてつかんでもどこへ送球したらよいのかサッパリ分からぬといった大変なグラウンドであった」

 当時早大のマネジャーで、シカゴ戦3試合の球審をつとめた西尾守一が述懐している。西尾は翌年卒業と同時に大毎に入社、スポーツ記者の第1号となった。

 早大のキャプテンは飛田穂洲だった。のち早大の初代監督。「一球入魂」の精神野球は、現在の高校野球に受け継がれている。野球殿堂入りした「学生野球の父」。1965年没、78歳。紙面右下の写真が飛田である。

 記事は、初めて野球の試合を見る人にも分かるように、「ベースボールとは如何なる遊戯であるか」を解説している。

 まず「塁」。ベースとルビをふって「四個あって、其中三個は方一尺許りの帆木綿の嚢中に柔らかき物質を満たした、いはゞ座布団のようなもの。他の一個は同じ位の大きさの五角形の板である」

球(ボール)、打棒(バット)、面(マスク)と続く。

 「配陣」。グラウンドの各塁、守備位置などを図示した。

 「演技」。18人で9人ずつ二組、攻撃陣と守備陣となる。守備陣の9人はいずれも手袋を嵌めて…。

 「方法」。投手は捕手に向かって投球する。打者はそれを打棒で打とうとする。もし、投球が本塁の上を通過せず、または自分の肩より高く、膝より低い時は打たなくてもいい。この悪球をボールという。投手がボールを四度出すと、打者は一塁に進むことができる…など、ハウ・ツウ・プレーの説明が延々と続く。三振は「三度振り」と呼ばれた。

 用語として「安全球」(ヒット)、「魔球」(カーブ)や、ダブルプレー、トリプルプレー、二塁打、三塁打、ホームランなどを取り上げている。

 試合前日、「大毎」は1面トップで全2段を使って「野球選手を迎ふ」。「中学生以上の学生にしてバットを取り、ボールを投ぐる術を知らざる殆ど之なく」と、野球の普及ぶりを紹介、ベースボールは「国技の観あり」と綴っている。

 日米野球の意義を「我が運動界に痛切なる刺激を与え、ひいては一般国民に運動に対する感興を鼓吹し、剛健活発なる気風の養成に資せんとするにある」と説いた。

 両校の選手は試合の前日、大阪・梅田駅(現JR大阪駅)に着いた。ホームには学生500人が出迎え、「ホテルまでの数町を提灯行列」「歓迎の歌を高歌放吟した」と記事にある。

 早大の名物応援団長・ヒゲの将軍吉岡信敬も大阪入りした。「新グラウンド上将軍一流の咆哮を聞くは無比の痛快事たり」とある。

 両軍の選手は、花電車で送迎された。阪神電鉄香櫨園駅は連日大混雑だった。若い女性の姿も目立った。ひさし(庇)髪に真っ赤なリボンをつけた女学生や、高島田に花かんざしで着飾った娘さん。外人の家族連れ、金髪の子どもたちが国際試合の雰囲気を高めた。

 入場は無料だった。初日は中学校の野球部など2650団体が詰めかけ、「来賓席は朝野の名士でギッシリ」とあった。観客は連日3万人を超えた。しかし、試合は3戦とも一方的だった。

①10月25日 ●早大4—8シカゴ大〇
②   26日 ●早大0―20シカゴ大〇
③   27日 ●早大2—12シカゴ大〇

 シカゴ大のキャプテン・ベギュース選手は帰国後、米誌「インデペンデント」1911年1月号にその時の感想を寄せている。大毎は、翻訳文を2回に分けて掲載した(同年3月1,2日)。

 ペギュースは、「国民的賓客」のもてなしを受けたことを感謝したうえで、「日本の選手は体力に甚だ相違」があるのに、「戦場に出て、正常に、立派に、紳士的に」闘ったとフェアプレーを評価した。

 関西での歓迎ぶりを「夢でも見ているよう」と大阪梅田駅(現大阪駅)に着いたときの歓迎ぶりに驚き、試合の合間に大阪、京都、奈良、神戸を見物できたことを喜んだ。

 一方、早大飛田穂州は、シカゴ大戦6連敗の責任をとってキャプテンを辞任、他の主力選手3人とともに退部する。

 その恨み?を晴らしたのは15年後の1925(大正14)年秋だった。早大の初代監督となっていた飛田は、まず19年ぶりに復活した早慶戦に連勝して、六大学リーグ戦で優勝。さらに3度目の来日をしたワシントン大戦に2勝1敗2引き分けで勝利した。

 これ以上の花道はなかった。監督を辞任して、朝日新聞の嘱託記者になったのだ。甲子園、神宮球場で健筆をふるった。もっぱらアマチュア野球だった。そして愛弟子の石井連蔵(2015年没、83歳)に朝日新聞の席を譲るまで、ネット裏から野球を見続けた。

 石井は1960(昭和35)年秋の早慶6連戦に勝って、胴上げ監督になったが、朝日新聞では浦和支局に配属されサツ回りから始めた。野球人脈を活かして1972(昭和47)年から始まった日米大学野球選手権大会創設の功労者だ。2020年、早慶6連戦の慶大監督前田祐吉とともに野球殿堂入りを果たした。

 大毎は、この野球試合が大成功だったと総括。私鉄は「野球場をつくれば、乗客増につながる」となって、1924(大正13)年の阪神甲子園球場の建設になるのである。

 センバツ高校野球大会は第1回大会を1924(大正13)年4月に名古屋の八事球場で開催。第2回大会から阪神甲子園球場で行っている。

(堤  哲)

2020年7月2日

NHK朝ドラ「エール」から思い出す丘灯至夫さん

 コロナが明けた!

 まるで冬眠から覚めたみたいに。

 思えば、長いコロナ新型ウイルスとの長期戦だった。

 やれ、ステイ・ホームだの、感染だの、と、なんとまあ、陰鬱にして、かったるい時の連なりであったことよ!

 梅雨の晴れ間の一日――。見上げれば、空は真っ青に輝いている。これぞ、初夏の気候である。

 で、気分も 浮き浮きと、久しぶりの外出は映画をエンジョイときた。

 いそいそと気ままな脚まかせ。さわやか風に頬洗われて、電車で向かった先は、横浜市内の一角に拓かれたファミリアスな小公園に位置する瀟洒な民営喫茶店スターバックスの、そのまた2階にある、こじんまりとした単館シネマ。コロナ騒ぎがなお尾を引く中でも、内部に入ればはがらがらに空いていて、それらしい観客は、やっと片手の指を折る人数にも、満たず、なんとかディスタンスとやらで、両隣りの席も無人。ゆったりと、まるで余裕の試写室にでもいるみたいなゆとりに富む映画鑑賞とは相なったのである。

 さて、その映画だが、これも小品ながら、全編、ゆとりに満ちた逸品だった。

 作品名が「アンティークの祝祭」という。

 主演はカトリーヌ・ドヌーヴ。

 ドヌーヴとくりゃあ、言わずと知れた、パリジェンヌ女優のアイコンである。恥ずかしながら、コチトラ、仮にも日本映画ペンクラブの末席メンバーであるからして、相応に心からの敬愛も込めて書くなら、その存在はフランス映画のまさしく至宝といっていい。

 「シェルブールの雨傘」(64年)をはじめ、「インドシナ」(92年)、「8人の女たち」(02年)などの新旧話題作に主演し、カンヌ、ヴェネチアの国際映画祭の女優賞に輝いた映画人は、当年77歳。さすがに、往年の美貌にも影が差しているとはいえ、老いを老いとして迎え入れる自由人の潔さに、白い乱れ髪さえ美しい。

 永年の銀幕キャリアで磨かれた演技力は、辺りをはらって、光彩を失することなく、セリフといい、一瞬の挙措、動作といい、すべてが自然体である。

 場面ごとに、てらうでなく、臆するでもなく、さりげないこれぞ存在感そのものの人間味がしみじみ観客の胸中に染み入る。

 年季の入った喜寿の女優の魅力は、それこそ年代物アンティークのそれに似て、たまりにたまったコロナ自粛のうっ憤を晴らすにもタイムリーな一刻の安らぎに通じたのであった。

 ところで、アートの世界は、奥が深い。

 カトリーヌ・ドヌーヴは、西欧文化の香気発する映像アートの職人芸を持ち前にした、いわばアルチザンの女匠といっていいだろうが、芸域の小宇宙こそ違うにしろ、盛んな名声に包まれた人気のアルチザンは、日本にも実在している。

 速い話、毎朝のテレビを開ければ、自ずからNHKの連続ドラマ「エール」の場面が視界に飛びこんでくる。今やヒット中のこのドラマの主人公は、かの有名な音楽家の古関裕而さんであり、昭和という激動の時代に添い寝するごとく、まさにドラマティックな音のアルチザンの日々に生きた半生が、日めくりエピソードに沿うようなシナリオと動画タッチで番組進行する……。

丘灯至夫こと西山安吉さん

 私見ながら、都の西北に学び、神宮球場のスタンドで母校の応援歌「紺碧の空」を熱唱した思い出を懐かしむぼくとしては、毎朝のNHKを介してではあれ、応援歌作曲者の青春期に、遠い時代のブランクを跨ぎながら、バーチャルな面談をするみたいな楽しさがある。

 さて、「紺碧の空」の感懐はさておき、「エール」に関係してはまた別筋の、思い出が膨らむ。若き日の古関さんは、多くの知人、友人に恵まれたが,その中に、同郷のジャーナリストがいたのである。

 福島県に生まれ、戦前の東京日日新聞で地方記者のペンをとり、戦後は毎日新聞福島支局を経て出版局毎日グラフ編集部に所属し、さらに、コロンビアレコードで人気の作詞家として生きた西山安吉さん(2009年没、92歳)がその人で、ぼくが毎日新聞で長野支局から社会部、八王子支局を経て出版局毎日グラフ編集部に移った時は、すでに異色の有名人であった。

 社内では、本名よりも作詞家のペンネーム丘灯至夫さんの名で呼ばれていた。地方記者時代からのその命名のいわれは「ブン屋のモットーは『押しと顔』」という、その逆読みである。

 丘灯至夫作詞、古関裕而作曲で最大のヒットは、「高原列車は行く」(54年)。他に「長崎の雨」「白いランプの灯る道」(51年)、「あこがれの郵便馬車」(52年)、「みどりの馬車」(53年)、「百万石音頭」(54年)などがある。

 語感からして、ここは気風のいい素顔を連想するとろだが、実像はすこぶる謙虚にして、気配りにも富んでいた。毎日グラフに初見参した夏だったか。当時の朝日グラフ編集部との野球対抗試合が下町南千住のオリオンズ球場で開催されたことがあり、地元っ子のぼくが毎日勢のエースとしてマウンドを踏んだのだが、この時も、西山さんの心尽くしの手配により、そのころ売り出し中だった日活ロマンポルノの人気女優・田中真理さんが駆け付けてくれて、なんと、なんと、まさにエールの感動花束をいただいた。

 童謡の遊び歌「猫ふんじゃった」からワークソング「東京のバスガール」、トラベルソング「高原列車は行く」と、丘灯至夫さん作詞のヒット作は、レパートリーが広く、リズム感豊かな曲が多いが、伝説的な代表作といえば、やはり、舟木一夫が歌った「高校三年生」(63年)が真っ先に思い浮かぶ。発売1年にして、レコードは、1千万枚を売りつくしたそうである。

 目を閉じれば、偉大な実績とは対照的なまでに遠慮っぽい小駆を揺するがごとく、出版局内 をぴょこぴょこ歩いていた西山さんの姿が思い浮かぶ。口さがない遠巻きの仲間たちによる愛称は「スズメさん」だった。

 古き良き時代の毎日新聞出版局には、語るに誇らしく,思い起こせばかくもうれしいスズメアルチザンが羽ばたいていたのである。

(大島 幸夫)

2020年6月25日

田中角栄元首相を撮った!新聞協会賞に輝いた写真部

《「出た、出た」「田中元首相が母屋から庭内の集会場へ入った」田中邸張り番から写真部デスクへ一報が入ったのは午後2時7分だった》

《写真部デスクが直ちに航空部羽田格納庫へ連絡した。2時11分、ヘリは離陸態勢に入った。その間わずか4分。ヘリは池袋上空で待機。次の指示を待った》

《「今度は木立の間を横切った元首相がチラッと見えた」「元首相が車椅子で庭にいる。急げ!」》

《2時36分、ヘリは元首相邸へ降下。…ヘリに気づいて車椅子を押す女性(元衆院議員の田中真紀子さん)。あわてて車椅子用のスロープを登ろうとする。母屋からは手伝いの人も飛び出して大騒ぎだ》

《5秒間のシャッターチャンスだった。「600ミリレンズを使って、モータードライブのシャッターを押し続けた」と振り返る永田勝茂写真部員(当時43歳)》

 1986(昭和61)年1月30日。毎日新聞東京本社写真部の取材班が田中角栄元首相の撮影に成功したドキュメントである。

 取材班を統括した写真部デスク小林理幸さん(当時42歳)が『疾風50年~駅前で刻んだ毎日新聞中部本社史』(2003年2月発行)に書き残している。

 高尾義彦さんが発刊した『無償の愛をつぶやくⅢ』=このHP新刊紹介参照=の15㌻に新聞協会賞を受賞したリハビリ中の田中角栄元首相の写真が載っていた。

 高尾さんは、ハワイで発行されている日本語紙「日刊サン」にコラムを持っているが、昨夏「蝉の鳴く頃」と題して、ロッキード事件取材の思い出を書いている。そのカット写真に、1986年1月31日付毎日新聞1面を使った。

 高尾さんは社会部司法クラブ担当で、1976(昭和51)年7月27日、田中角栄元首相が5億円の受託収賄罪で逮捕された時、霞が関の検察合同庁舎正面玄関で特捜検事に伴われて黒塗りの車から降りた元首相を撮影した。その写真は、夕刊1面を飾った。

 それから10年——。社会部のデスク会の後、司法クラブのキャップをしていた高尾さんと、警視庁クラブキャップの中島健一郎さん、それにデスクだった私の3人でパレスサイドビルB1のとんかつ屋で夕食をとった。

 確か正月休み明け最初のデスク会で、まず新年の乾杯をした。中島さんと私は元ロッキード事件取材班のメンバーで、高尾さんは「田中逮捕」の日の朝刊1面トップで「検察重大決意」の原稿を書いた。

 3人の話題は、自然と「ロッキード事件から10年」になった。

 そこで中島警視庁キャップが「角栄が目白の私邸から車で外出しているという情報がある」といった。

 田中元首相は、83(昭和58)年に有罪判決を受け、控訴中の85年2月に脳梗塞で倒れ、私邸でリハビリ中だった。しかし「闇将軍」の力は永田町を支配していた。

 「角栄の写真、撮れないかな」

 そこでお開きになったのだが、3人が店から出ると、写真部の小林デスクとばったり顔を合わせた。

 「コバちゃん、いいところで会った。角栄を撮ってくれないか」

 「それはマンシュか」と小林デスク。マージャンの満貫かと聞いてきた。

 「役満だよ。新聞協会賞モノだ」

 小林デスクは、翌日取材班をつくった。

《中堅の立川汎、岡崎一仁君を指名。そして佐藤泰則、平野幸久の両君を加えた》

 立川と岡崎両君は当時38歳、若手の2人、佐藤君は入社2年目の25歳、平野君は入社1年目の23歳だった。

《1月20日から高層住宅の屋上と田中邸での張り込みが始まった》

《屋上の班は北風にさらされ、小雪まじりの悪天候に悩まされた。交代で望遠レンズをのぞく。5分もすると、右目から涙が出る。今度は左目と、交互に変えても涙は止まらない》

《その日、1月30日はマイナス40度の寒気団が日本海から張り出し、東京も今季最低の冷え込みが予想された》

《屋上の張り込みは立川・岡崎組と、若手の佐藤・平野組が交代で当たった。朝から日没まで2000ミリの望遠レンズと600ミリレンズに2倍のテレスコープをつけて、田中邸を観察していた》

 田中角栄元首相の写真撮影成功に編集局は沸いた。

 偶然ながらこの日の朝刊社会面担当のデスクは私だった。興奮していた。こんなに早く注文どおりの特ダネ写真の撮影に成功するとは、思ってもみなかった。

 マンシュを自模ったコバちゃん、写真部の小林理幸デスクはニコニコ顔だった。「ありがとう!コバちゃん」と何度も握手を交わした。

 記事は、高尾キャップの司法クラブに依頼した。高尾さんは、ロッキード事件のあとも、毎年元旦に目白の田中角栄邸に張り込み、政治家の出入りをウォッチングしていた。
この写真報道の影響は大きかった。写真を見た医師たちは、元首相が再起不能であることを証言した。「闇将軍」は足元から崩れ落ちた。竹下派「経世会」の発足、田中派の消滅につながった。

 この特ダネ写真取材の経緯は、山本祐司元社会部長著『毎日新聞社会部』(2006年河出書房新社刊)に詳しいが、「酒はアイデアの宝庫」と綴っている。社会部デスク会後のとんかつ屋での懇談をいっている。

 新聞協会賞を受賞した写真部小林デスク。「航空部の協力なしにこの偉業はなかった。編集局のチームワークの勝利であった」と述懐している。

(堤  哲)

2020年6月19日

「400字7、8枚は2時間で書きます」と藤原章生記者

 6月のZoom二金会の講師は、編集委員の藤原章生さん(59歳)だった。

 事前に幹事さんから知らされた「藤原さんの過去記事」をクリックすると、とんでもない量の署名記事が溢れ出た。

 まず略歴。《1989年、鉱山技師から毎日新聞記者に転職。長野、南アフリカ、メキシコ、ローマ、郡山市に駐在し現在は東京で夕刊特集ワイド面に執筆。2005年、アフリカを舞台にした本「絵はがきにされた少年」で開高健ノンフィクション賞受賞。主著に「ガルシア=マルケスに葬られた女」「資本主義の『終わりのはじまり』」「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか」など》と自己紹介している。

 高校時代から山岳部にいた「山屋」である。北海道大工学部資源開発工学科を1986年に卒業して住友金属鉱山入社。3年後、新聞記者に転身した。

 二金会当日(6月12日)の夕刊は、2、3面見開きで藤原原稿が占拠していた。

 右面は、故大島渚監督の二男、大島新監督(50歳)の映画《「なぜ君は総理大臣になれないのか」を見て考える》。衆議院議員・小川淳也さん(49歳)を追ったドキュメンタリーだ。

 左面は、ルワンダの義肢装具士 ルダシングワ真美さん《人助けではなく一つの愛》。

 いずれも全10段の長尺原稿である。

 夕刊特集ワイド「この国はどこへ コロナの時代に」では、慶大教授・ヤフーCSO(チーフストラテジーオフィサー)安宅和人さん(52歳)▽心理学者・小倉千加子さん(68歳)▽作家・山崎ナオコーラさん(41歳)▽社会学者・大澤真幸さん(61歳)を取り上げた。

 さらに遡ると、元東大教授・橋都浩平さん(74歳)▽評伝江藤淳の著者・平山周吉さん(68歳)▽イタリア人作家ジョルダーノさん(37歳)▽詩人谷川俊太郎さん(88歳)と、谷川さんの詩をイタリア語に翻訳・出版しているマルティーナさん(33歳)との対談。

 取材対象が幅広い。女優で「ねむの木学園」の宮城まり子さんが93歳で亡くなると、その評伝まで書いている。

 そのうえ毎週土曜日には「ぶらっとヒマラヤ」をデジタル毎日に連載している。毎回かなりの長文で、すでに20回を超えた。

 とにかくよく書く。「ぶらっとヒマラヤ」でこう明かしている。

 《紙の時代には週平均2500字、月に1万字程度だったのが、デジタルだとこの5倍はいけて5万字》

 Zoom講演の中で、記事を書くスピードに、ついてこう話した。

 「400字7,8枚は2時間で書きます」

 びっくりした。こちらは鉛筆なめなめ(表現が古すぎるか)、その倍は優にかかる。

 そして、こうもいっている。《テーマや取材対象について読み込む時間が全体の80%で、10%をテーマのさらなる絞り込みや問題提起に充て、実際のインタビューと原稿書きはそれぞれ5%といったあんばいだ》

 事前取材に時間をかける。書くのは、ほんのわずかの労力を注ぎ込むだけなのである。

 まさに縦横無尽の活躍ぶりである。

 昨年6月の夕刊ワイドにこんな記事があった。

 《「元気をもらった」「勇気をもらった」という表現を改元前後の街頭インタビューでやたらと耳にした。……「元気や勇気は『もらう』ものではなく、自ら『出す』ものではないか」と突っ込みたくなる。いつごろから、なぜ広まったのかを探った》

 この記事に元東京本社編集局長、スポニチ社長・牧内節男さん(94歳)が反応した。

 実は、その前年、2018年の毎日新聞OB同人誌『ゆうLUCKペン』(第40集)の刊行パーティーで、元サンデー毎日編集長の今吉賢一郎さん(1961年入社、今月83歳の誕生日を迎える)が「よく元気をもらいましたというが、元気は出すものである。もらうものではない」と問題提起をしていた。

 《それから1年ほど経って毎日新聞夕刊が「元気をもらう」「勇気をもらう」という言葉を取り上げた。「元気をもらう」という言葉が使われたのは昭和61年4月11日号の写真週刊誌「フライデー」が初めてだという。元気は出すもの。勇気も出すもの。もらうものではない。明らかに誤用である》=「銀座一丁目新聞」2019年(令和元年)11月10日号「茶説」。

毎日新聞1997年11月4日夕刊1面

開高健ノンフィクション賞受賞『絵はがきにされた少年』

 私が藤原章生ヨハネスブルグ特派員を知ったのは、1997(平成9)年11月4日夕刊1面のトップ記事だった

 連載「ある写真家の死」の第1回。1994年、「ハゲワシと少女」という写真でピューリッツァー賞を受賞した写真家ケビン・カーターが授賞式からわずか2か月後に自殺した。33歳だった。何故か。その背景を取材現場に同行したフォトジャーナリストのジョアオ・シルバさんの証言から構成している。

 その年の4月から、私は某短大のジャーナリズム学科で非常勤講師をしていた。講座名は「写真取材法」。社会部の先輩天野勝文さんからの紹介で、「写真撮影法」だったら引き受けることはなかった。

 「ハゲワシと少女」は恰好なテーマだった。

 「ある写真家の死」は5回連載で、第3回開高健ノンフィクション賞に輝いた『絵はがきにされた少年』(2005年集英社刊)の巻頭を飾っている。

 今回、改めて手にしたら、題名となった『絵はがきにされた少年』に社会部で一緒だった石川貴章クン(2001年没、45歳)が出てきた。

 98年3月23日(月)付毎日新聞国際面の特集「20世紀を変えた—情報100年」を編集する際のやりとりである。デスクと兵隊の関係だった。

 石川クンは80年入社だから、藤原さんの9年先輩だ。そのうえ都立上野高校の先輩後輩だった。

 石川デスクの無理難題に藤原特派員は応えるが、この特集は唐突な印象である。国際面は毎週月曜日に「百年を生きて 家族の20世紀」を連載していた。それを休載して、おことわりを載せている。

 《20世紀を情報などをキーワードに振り返る特集を適宜、掲載します》

 縮刷版を探したが、2回目が載ることはなかった。石川クンがその年の7月にローマ特派員になったためかも知れない。

(堤  哲)

2020年6月17日

新連載・平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その1

『昭和二十年東京地図』と西井一夫のこと

 元出版写真部、平嶋彰彦さんのコラムが「ときの忘れもの」ブログで始まりました。第1回は6月14日で、毎月14日に更新します。

(元販売局、ギャラリー「ときの忘れもの」主宰、綿貫不二夫)

http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53429081.html#more
ときの忘れもの/(有)ワタヌキ  〒113-0021 東京都文京区本駒込5-4-1 LAS CASAS

文・写真 平嶋彰彦

 ポートフォリオ『東京ラビリンス』の初出は、『毎日グラフ』の「昭和二十年東京地図」。1985年10月27日号から1986年1月26日号までの12回連載で、その年の8月、同名のタイトルで書籍として筑摩書房から刊行された。書籍化にあたっては、相当数の撮り直しと追加取材をおこなっている。

 「昭和二十年東京地図」のタイトルは文を担当した西井一夫(註1)がつけた。昭和二十(1945)年は、日本が第二次世界大戦の終戦を迎えた年で、西井と私は、学年はちがうが、二人ともその翌年の1946年に生まれた。

 企画のきっかけとなったのは『コンサイス東京都35区区分地図帳』(日地出版)。戦災焼失区域を赤く色分けして表示した区分地図で、1946年9月15日に発行された。その地図帳が復刻されたことは『朝日ジャーナル』の読書欄で知った。発行日は1985年3月10日。東京大空襲からちょうど40年後にあたる。

 3月10日の大空襲で、下町を中心におよそ10万人もの一般人が命を奪われたことは、学校でも習った。しかし、この地図帳を見れば、下町ばかりではなく、都心のどこもかしこも焼け野原になっている。戦災を免れた地域はごくわずかでしかない。そんなひどい状態になるまで、どうして戦争を続けたのか。私たちはそのことの理不尽さにもっと驚いていいと思われた。

 この地図帳を手に入れてしばらくして、西井から飲みに誘われることがあった。何かの話題のついでに、バッグから取り出して見せると、思いのほか興味を示し、「連載企画を考えてみるから、しばらく時間をくれないか」という。それから2ヶ月ほどして、私の在籍する出版写真部にやってきて、「編集長の了解はもらった。デスクには君が担当してくれるように、これから話をつける」とのことだった。

 そんなことで、その年の9月ごろからだったか、地図を手に二人で東京を歩くことになった。取材期間は3ヶ月前後だったと思うが、ちょうど『サンデー毎日』で海野弘の「都市周遊」(註2)という連載を担当していた時期で、また事件があればそちらにも駆り出されたから、かなりあわただしい仕事だったという印象がある。その日に歩く道筋は、西井が決めていたが、おもしろそうな裏町や路地を見つけると、迷わず予定を変えることが少なくなかった。どこで何を撮るかも、ほとんどが出たとこ勝負の感じで、しかも放し飼い状態にさせていた。「あれこれ言うと嫌な顔をするし、言った通りに撮っても、それはそれで写真がつまらない」というのがその理由だった。彼と組んだ仕事は相当な数になるが、脚本はあってもなしがごとし、取材するにつれてテーマまで変わりかねないというのが、いつものパターンだった。

 この連載企画を取材するにあたって、西井からどんな説明があったか、ほとんど忘れてしまったが、ただ一つ、「逓信住宅」のような方向性で、と言っていたことはよく覚えている。

 国分寺のお鷹の道に湧き水があるが、逓信住宅というのは、その近くにあった郵政省の官舎である。そこを西井の企画で、「昭和二十年東京地図」の1年か2年前に取材したことがあった。周りにはケヤキ林もあって、平屋の二軒長屋が軒を連ねていた。一軒の間取りはたしか4畳半と6畳で、それに台所がついていた。1980年代にもかかわらず、住宅街の道路は舗装されていなかった。雨が降ると水たまりのできる泥道に沿って、生活用品の商店のほかに理髪店や共同浴場などもあった。見わたすと、再開発の計画が進んでいるらしく、歯が抜けたように更地があちこちに出来ていたが、それをこれ幸いとばかりに、残った住人たちが思い思いに野菜や草花を栽培していた。

 西井は『昭和二十年東京地図』の「あとがき」で、逓信住宅には彼の「小さい頃の記憶の光景」がそっくり残っていて、その佇まいの美しさに感動したと書いている。子どものころ、父親が余ほど好きだったのだろう。映画の録音技師をしていたという父親のことを屈託なく話すことがよくあった。反発の感情がほとんどないのが不思議なくらいだった。父親にとっても、自慢の息子だったにちがいない。逓信住宅の4畳半と6畳に台所という間取りは、田舎育ちの私には、いかにも狭いと感じられたが、彼はそれだけの広さがあれば充分だといっていた。おそらく、子どものころは借家住まいで、間取りも似たようなものだった。勝手な憶測をさせてもらえば、裕福な家ではなかったが、一人っ子であったこともあり、両親の愛情を独り占めに出来た幸せな少年時代を過ごしたのである。

 彼には涙もろい一面があった。いつだったか、取材帰りの電車で、ふと気がつくと、ぼろぼろ涙を流しながら文庫本を読んでいる。何を読んでいるのかと思ったら、山本周五郎のなんとかいう小説だった。こんなの電車で読んだら駄目だよ、と言っても、彼はハンカチで涙を拭いつつ、読むのを止めようとしなかった。二人で映画をみていてもそうだが、「小さい頃の記憶の光景」が目に浮かぶと、とたんに涙線が決壊してしまうようなところがあった。

 私が大学に入るため東京に出てきたのは1965年。前回の東京オリンピックの翌年になる。生まれたのは館山市のはずれで、農家といっても田畑はわずかしかなく、明治か大正のころから、代々出稼ぎで暮らしを立てるしかなかった。父親は東京港を仕事場にするダグボートの船長で、ふだんは乗組員と船上生活をしていた。休暇は2ヶ月か3ヶ月に一度まとめて取り、館山の実家で過ごしていた。ところが大学2年のとき、それ以外のたまの休みにも、陸(おか)で寝たいと父親が言い出した。

 文句の言える立場ではないから、それまで住んだ板橋の下宿を引き払い、金杉橋のすぐ近くにあった洋服の仕立店に間借りすることにした。金杉橋を流れる古川(渋谷川)の対岸の旧地名が芝新網町で、明治の三大貧民窟の一つであることは、ずいぶん後になってから知った。

 仕立店の主人は島根県益田市の出身で、一男四女の子沢山だったが、そのうちの二人は嫁いで家を出ていた。仕事場兼住宅の二階建ての建物は20坪ほどしかなかったが、戦後の一時期には、五人の子どものほかに、地方から上京した複数の若者を住まわせて世話をしていたという。私よりも一回りほど年上と思われるその若者たちが、ときどき訪ねてくることがあった。そんなとき、奥さんは決まったように彼らを引きとめて、ありあわせの総菜を分けて夕御飯をふるまった。

 これは郷里を離れて間もないころに垣間見た東京下町の人間模様であるが、この一家の暮らしぶりを見ていて、なにが人の幸せかを教えられたような気がした。世話になったのはわずか1年足らずに過ぎないが、社会人になって2年目の1970年、私はその家の一番下の娘と結婚することになり、店の主人と奥さんは義理の父親と母親ということになった。

 西井一夫は「小さい頃の記憶の光景」にこだわっていた。取り憑かれていた、と言ってもいいかも知れない。『昭和二十年東京地図』の取材で街を歩いていると、私たちはいつのまにか表通りを外れ、横丁から横丁へ、路地から路地をたどる迷走を繰り返した。ふりかえってみれば、西井の眼差しの先にあったのも、貧しいながらも互いに励ましあって生きる、こうした庶民社会の人間関係ではなかったかと想像される。

【註】
註1 西井一夫
編集者。1946年、東京都江戸川区小岩に生まれる。1968年、慶應大学経済学部卒業。弘文堂新社を経て、1969年、毎日新聞社に入社。『サンデー毎日』『カメラ毎日』『毎日グラフ』編集部を経て、『カメラ毎日』編集長、クロニクル編集部長を務める。2000年、『20世紀の記憶』全20巻の完結後、早期退職。2001年、食道癌で死去。
社外活動として、1989年に「写真の会」を設立する。また著書は正続『昭和二十年東京地図』(筑摩書房)のほか、『日付のある写真論』(青弓社)、『写真というメディア』(冬樹社)、『暗闇のレッスン』(みすず書房)、『なぜ未だ「プロヴォーク」か』(青弓社)など。
註2 「都市周遊」
『光の街影の街 モダン建築の旅』のタイトルで、1987年に平凡社から刊行された。

ポートフォリオ「東京ラビリンス」01と同じ建物。賄いつきアパート「日本館」。新宿区高田馬場1丁目。2017年2月17日。
右は賃貸アパート「モリヤ荘」。左は「岩渕荘」。旧吉原遊郭。建物は双方とも1957年まで遊郭として使われた。台東区千束4丁目。2012年6月21日。
おかず横丁の北側にある一画。正面を銅板で葺いた商店。一階が店舗で二階が住居。屋上にペントハウスを増築している。台東区鳥越1丁目。2012年1月25日。
同潤会「上野下アパートメント」。最後の同潤会アパート。1年後の2013年に取り壊された。すぐ目の前に落語長屋があった。台東区東上野5丁目。2012年6月29日。

■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月現在で100回を数える。

2020年6月4日

すき焼きの人形町今半と牧内節男さん

 写真は、人形町今半の2階にかかっている女将(故人)の書である。つい最近、ここでしゃぶしゃぶをご馳走になった。号に「雨星」。牧内節男さん(94歳)のHP「銀座一丁目新聞」の題字と同じ書家ではないか。

 2004年(平成16年)7月1日号の追悼録に、牧内さんが記している。

 《知人の高岡節子さんの七回忌の法要に出かけた(6月19日・杉並・等正寺)。…「銀座一丁目新聞」の題字は平成9(1997)年4月ホームページを始める際に書いていただいた。この時、縦書きと横書きを4、5枚書いていただいたものから選んだ。雨星としてすでに名を成している人が忙しい最中、嫌な顔一つせずしてくれた。今になってそう思う。当時は感謝の念が足りなかった》

1995年9月18日スポーツニッポン

 雨星さんは、日本女子大卒で、『桜楓の百人—日本女子大物語』(1996年舵社刊)で紹介されている。というより、この本はスポーツニッポン紙戦後50年の連載企画をまとめたもので、その題号を雨星さんが書いているのである。1ページのほぼ半分を割いた大型連載だった。

 OG大竹洋子さんの書評がネット上にあった。《女性たちの半生を語って戦後の女性史を辿ろうというこのユニークな企画は、はじめスボーツニッポン新聞紙上に登場し、世間をアッといわせたのだった。

 「スポーツ紙が?」という驚きやとまどいは、大学側やインタビューを受ける人にもあったらしい。

 一般紙のなかにあってさえきわめて大胆、かつ正攻法で堂々と行くこんな企画が、スポーツ記事や芸能ゴシップでその大半が埋められる新聞に登場することは、確かに人々を驚かせるにたる「事件」だったのである。

 だが、その心配はすぐに杞憂とわかった。岩波ホール総支配人・高野悦子さんから始まり、彫刻家・宮脇愛子さん、劇作家・真山美保さん、国文学者・青木生子さんと続く連載は、美しい写真とあいまって他の紙面を圧倒した。

 私は息をのむ思いで読みふけった。毎朝、新聞がくるのが待ち遠しかった》

 他に沢村貞子、平岩弓枝、一番ケ瀬康子、妹島和世、高橋留美子、大石靜……。

 毎日新聞「女のしんぶん」編集長、女性初の論説委員、日本記者クラブ賞を受けた増田れい子さん(2012年没、83歳)も載っている。増田さんは日本女子大を卒業して東大文学部国文科に進学した。

 執筆者(星瑠璃子、志賀かう子、吉廣紀代子)4人のひとりに毎日新聞「旅に出ようよ」編集長だった山崎れいみさん。れいみさんと雨星さんはポン女の同級生だった。

 私は、雨星さんの夫で人形町今半の創業者高岡陞(のぼる)さん(2018年没、91歳)の慶大同級生の三代目田村駒治郎さんに招かれたのだが、店は2人の息子に引き継がれている。座敷に挨拶に顔を見せた慎一郎社長、哲郎副社長は「女将が節子で、牧内さんは節男さん。SS会をつくって、よく毎日新聞の方がお見えになりました」と語った。

 毎日新聞東京本社の跡地に出来た新有楽町ビル地下1階に有楽町店、毎日新聞中部本社のある名古屋ミッドランドスクエア41階にも出店していて、毎日新聞とは縁が深い。

 牧内さんにメールをすると、こんな返信があった。

 《私が九州から帰ってきてスポニチの社長になった時、有楽町の「今半」で、サンデー毎日にいた岩見隆夫君(2014年没、78歳)、山崎れいみさんら5,6人が集まって「歓迎会」を開いてくれた。今半の女将、高岡節子さんが山崎さんと日本女子大の同級生であったので女将さんもその会に加わった。僕の名前が節男なので今後、月に一度「SS会」を開こうということになった。ここで様々な企画が生まれた。私がスポニチをやめるまで続いた。ときには自宅まで押し掛けた。…彼女が亡くなった時、れいみさんと私が出入りの商売人・著名人を差し置いてそれぞれ弔辞を述べたのも今や懐かしい思い出である》

 雨星さんは、有楽町店の女将もつとめた。このビルには販売OB古池國雄さん(2013年没、92歳)が理事長の販売組合があった。丸の内一帯の新聞全紙を一手に配達している超優良販売店だった。私と同期の販売朱牟田恒雄、河西瑛一郎(2018年没、77歳)、池田達雄(2019年没、78歳)さんらとよくすき焼きをご馳走になった。

 社会部OB堀井淳夫さん(2017年没、90歳)は高岡陞さん、三代目田村駒治郎さんと慶大同期。今半はお馴染みの店だった。

(堤  哲)

2020年5月19日

88年前の今頃、喜劇王チャップリンが東京にいた!

 この新聞は、チャーリー・チャップリン(1889~1977)が初来日、東京駅で歓迎のファンにもみくちゃにされたことを伝える毎日新聞の前身「東京日日新聞」の朝刊社会面=1932(昭和7)年5月15日付=である。

 何故かチャップリンは「東京日日新聞」の社旗を持っている。左は、兄のシドニーである。

 写真部のカメラマンが「この旗を記念に持って」と頼んでパチリとやったのだろう。

 コロナstay home で断捨離作業中に見つけたコピーである。写真部が出版した『【激写】昭和』(毎日新聞東京本社写真部OB会編、1989年平河出版社刊)にはさんであった。

 同書には「世界の喜劇王チャーリー・チャップリンが照国丸にて来日」と、出迎えた女優の夏川静江さんが入ったカットを載せている。残念ながら誰がどうして社旗を渡したのか記述がない。

 チャップリンは5月14日午前8時、神戸港に着いた。午後0時29分三宮駅発超特急「燕」の増結した1等車に乗車、午後9時20分終着東京駅へ。

 《チャーリー来る!異常な昂奮に酔った人間、人間、人間の群れは、到着前3時間の前の6時といふのに降車口(現在の丸の内北口)をいっぱいにしてかれの顔の、かれの銀髪のひとすじだに見逃さないといふ意気込みをみせている。凄惨!ちょっとそんな感じだ》

 《列車到着の5番ホームは、これまた金10銭の入場券でかれを見る優先権を得ようとするファンで一杯だ。何のことはない。震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いてゐる》

 社会部の遊軍記者が思い入れたっぷりに書き込んでいる。

 一夜明けた日曜日、チャップリンは官邸に招かれていた。5・15事件が起きた。犬養毅首相が海軍の青年将校に「問答無用」と射殺された事件である。チャップリンは予定を変更して相撲を観戦、危うく難を逃れたという。

 チャップリンは20日間日本に滞在、6月2日横浜港から「氷川丸」で帰国した。

 その間、チャップリンは歌舞伎座や明治座で役者たちと交流。「一国の文化水準は監獄を見れば分かる」と小菅刑務所(現・東京拘置所)を視察している。

 チャップリンで思い起こすのは、コロナ禍で亡くなったコメディアンの志村けん(3月29日没、70歳)である。「ひげダンス」や「バカ殿」に代表される「動きの笑い」。その原点は、無声映画時代のチャップリンだ。

 「チャップリンに会いたい」と自宅に押し掛けて、84歳のチャップリンとツーショット写真をモノにしたのは、欽ちゃんこと萩本欽一(79歳)だった。もう半世紀前の1971(昭和46)年のことである。

 「動きの笑い」の先輩欽ちゃんも、志村けんのコメディアンぶりを大層評価していた。「普通に動いているだけでも、何だかおかしい」と。ご冥福を祈りたい。

(堤  哲)

2020年5月14日

尾崎美千生さんの市長選敗戦の記

 コロナstay homeで断捨離中に、尾崎美千生さん(2019年12月25日逝去、82歳)の自戦記「われ敗れたり」が出てきた。このHPで入社同期の原剛さんの追悼録に2003年1月の千葉県八千代市長選に立候補したことが綴られているが、次点で落選した記録である。

 A4判8ページに及ぶ。併せて東京新聞の記事が添付されてあった。

  「知名度なし」1万2363票の次点
  「街変える」意義ある敗北

 告示8日前の1月11日八千代市民会館で開かれた「尾崎決起集会」。元国連事務次長・明石康、TBSの宇宙飛行士・秋山豊寛、毎日新聞OBの岸井成格、重村智計らの《豪華キャストに定員500の市民会館に650人が詰めかけた、歴史的イベント》だった。

 社会部OBの原剛さんは司会役。《諸岡達一をリーダーとする毎日新聞「大東京竹橋野球団」の応援歌が、いつの間にか「尾崎応援歌」となり、会場に彩を添えた》

 毎日新聞の草野球チーム「大東京竹橋野球団」S・ライターズの応援歌は、尾崎さんが作詞、同じ政治部の井上義久が作曲した。

 会の最後に地元八千代市在住の「不動の一塁手」原田三朗をはじめ団員が舞台に上がり、諸岡達一の「さあ!ガンバッテコーッ!」の音頭で応援歌を、がなったのである。

 手書きの楽譜とともに、「ドンマイ節」誕生余話が『野球博覧Baseball Tencyclopedia』(2014年刊)に残っている。

  イクゼ!オー! イクゼ!オー! イクゼ!オー!
  三角ベースで育った我ら 川上青田に藤村大下
  長嶋ワンちゃん落合清原 そんなバッターはいやしない
  打てば三振ピーゴロざらよ バットバットバット
  我ら実年野球団 どんと行こうぜどんとね(ソレ!)
  ドンマイ ドンマイ ドンマイ ドンマイ(ガンバッテコーッ!)

大東京竹橋野球団の集まり(2011年12月) 後列右から3番目が尾崎さん

 《三角ベースで味方が大物を打たれたり、エラーをしても「ドンマイ!ドンマイ!」と進駐軍お下がりの英語でカラ元気を出す鷹揚さが少年たちの得意技だった。かくして往時の少年たちの夢を思い出すことで、応援歌の歌詞は大方出来た》

 《毎日新聞政治部旧友会の声援は語り草になろう》として応援団の名前を列挙している。

 小林幸三郎(RKB毎日元社長)小池唯夫(毎日新聞元社長)斎藤明(同)細島泉(編集局長、元取締役)三宅久之(評論家)広瀬次雄(アジア人口・開発協会事務局長)、安藤哲、金巖(秋田県象潟町長)馬弓良彦(元取締役)、岩見隆夫(評論家)池浦泰宏(日本外交協会理事長)、中田章(元取締役)、鈴木恒夫(元文科相、衆議院議員)西山猛ら。

 《三宅、岩見、鈴木の鍛えられただみ声がビルの谷間や団地の壁にこだました》

 その敗因を冷静に分析している。

 市長選は、前市長の贈収賄事件・逮捕に伴う「世直し選挙」だったが、勝手連に推され「党派を超えた市民派の結集」を訴えた尾崎候補は、残念ながら《知名度がゼロに近かった》。そのうえ前年暮れにバンコクで開かれた第5回アジア太平洋人口会議に政府代表顧問として出席したうえ、勤務していたJICA(国際協力事業団)の辞表受理が告示直前の1月9日だったことから、《800メートル競走に半周遅れ》のハンディキャップとなった。

 元政治部長で象潟町長を3期務めた金巖さん(2019年没、85歳)が落選後に励ましの手紙を出している。

 《尾崎さんの挑戦は決して蟷螂の斧ではありません。地方政治実現のために捨て身の人間が現れたという道標です。

 いま、日本の政界は試練の時に直面しています。国政に携わる政治家の多くは国の針路など念頭になく、カネと利権漁りに汲々としているのが現状です。

 残念なことに、地方治自体の首長にもカネに毒された政治家気取りのものたちが多数います。嘆かわしいことです。この風土を一掃しない限り、本当の地方分権は実現できません》

 尾崎さんは最後をこう結んでいる。

 《世界のあり方が、人類の生き方が根本から問われている千年単位の変化の時代に、いまこそ日本人の生き方と、足元から日本の政治を考えてみたい。そのことに残された今後の自分をかけてみようと思う》

(堤  哲)

2020年4月9日

「意地悪ばあさん」はサンデー毎日に連載された

「意地悪ばあさん」連載開始の予告
(1965年12月26日号)

 長谷川町子生誕100年を記念して月刊「東京人」5月号と、「週刊朝日」別冊が長谷川町子特集をしている。合わせて長谷川町子美術館・記念館を4月に開館する予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期となっている。

 長谷川町子といえば朝日新聞連載の「サザエさん」だが、サンデー毎日連載の「エプロンおばさん」「意地悪ばあさん」(単行本は「いじわるばあさん」)も人気があった。「意地悪ばあさんは、彼女の最高傑作」と、「東京人」誌で漫画研究家・清水勲氏が絶賛している。

 「意地悪ばあさん」がどうして始まったか。初出は「サンデー毎日」1963(昭和38)年1月6日新年増大号。4コマを8ページにわたって展開した。それが好評で、翌64(昭和39)年正月の特大号にも8ページ15本の作品を描いている。

 アイデアのきっかけはアメリカの漫画、ボブ・バトル作『エゴイスト』(Egoist)。これが日本では「意地悪爺さん」などと紹介され、町子さんは「主人公をおばあさんにした方がもっと面白い」と、設定を替えた。

 サンデー毎日では「エプロンおばさん」を1957(昭和32)年1月から65(昭和40)年7月まで8年半続けた。その連載中に、「意地悪おばさん」を書き下ろしたのである。

 65(昭和40)年2月に「サンデー毎日」編集長となった三木正(元社会部デスク)は、就任の挨拶に長谷川町子宅を訪ねた。町子さんはいきなり「『エプロンおばさん』を描くのをやめようと思っている」と言った。

 人気の「エプロンおばさん」を辞められては大変だ。とっさに「では、『意地悪ばあさん』で連載をお願いしたい」。

 町子さんは逡巡したが、翌66(昭和41)年1月2日号から連載が始まった。

「意地悪ばあさん」第1回
「自選 意地悪ばあさん」

 即「サンデー毎日」の売り物になった。連載は71(昭和46)年6月27日号の第225回まで続いた。その後はずっと休載、73(昭和48)年1月7日号に「帰ってきた意地悪ばあさん」2ページを掲載したが、それが最後となった。

 その間、72(昭和47)年1月16日号には「自選 意地悪ばあさんベスト32」を16ページにわたって特集。同年4月「サンデー毎日」創刊50周年特別号には、加藤芳郎さんと対談をしている。

左端は三木元編集長か

 三木さんは月刊「文藝春秋」1990年2月号の「昭和を熱くした女性50人」で長谷川町子さんを紹介している。

 《私が定年退職したとき、女房と二人、食事に招待して下さって、「これからはあなたも自分だけのために人生を楽しまなくっちゃ」といっていたのが印象的でした》

 《(長谷川町子さんは)いまでも好奇心旺盛で、面白がり屋で若々しい、サザエさんそのもの。いじわるばあさんとはほど遠い方です》

 長谷川町子さんは、1920(大正9)年1月30日生まれ。92年5月27日没、72歳。

 三木正さんは、同じ1920年生まれ。90年8月27日没、70歳だった。

 「サンデー毎日」は、2022年4月、創刊100年を迎える。

 いや、その前に2022年2月21日「毎日新聞」が創刊150年を迎える。

(堤  哲)

2020年4月5日

松江・岡山・大津・広島と支局長を4つも歴任した藤田紀一さん
――同人誌『人生八聲』を読んで思い出したこと

 木戸湊元主筆提案の季刊同人誌『人生八聲』第22号(2020年4月発行)に、私と同期入社の勝又啓二郎さんがこんなことを書いている。

 勝又さんは、秋田支局4年目の1967(昭和42)年春、宇都宮支局へ異動することを支局長から内示された。それを嗅ぎつけた1年先輩がその晩、「その異動、オレに代わってくれないか」と勝又さんに直訴したのだ。

 「秋田に来て4年。いまオレはおおきな壁にぶつかって仕事も生活もどうしようもない状態だ。このままでは完全にダメ人間になってしまう。どこかに転勤して仕事や生活環境を変えてもう一度やりなおしたい。オレを助けると思って異動を代わってくれないか」

 翌日、支局長に事情を話すと、「人事を何と心得ているのか」と大目玉を食らったが、その先輩は5月10日の定期異動で大阪本社社会部へ、勝又さんは秋田支局に残ったというのだ。

 身代わり先輩記者のことはあとで触れるとして、勝又さんの同期64(昭和39)年入社組は、67年5月10日異動でセット版と統合版支局の入れ替え人事が行われたのだ。

 東京オリンピック後の不況などの影響で、新入社員の採用が減った。2年下の66年入社は、全国で記者職11人。64入社組が地方支局へ赴任したときは、62(昭和37)年入社が本社に上がった。地方支局2年である。64組は支局生活が4、5年になるのは必至となり、過去に例のない支局交流異動が行われたのだ。

 山形支局・石黒克己→川崎支局 川崎支局・佐藤良一→山形支局
 盛岡支局・新井敏司→千葉支局 千葉支局・中安宏規→盛岡支局
 いわき支局・遠井信久→横浜支局 横浜支局・柿崎紀男→福島支局
 青森支局・武藤 完→前橋支局 前橋支局・花形静哉→青森支局
 新潟支局・鬼沢正義→宇都宮支局 宇都宮支局・大洞 敬→長岡支局
 長野支局・堤  哲→水戸支局 水戸支局・畠山和久→長野支局

といった具合に、6組のトレードが成立した。

 ほかに仙台支局・上西朗夫は甲府支局に転勤することに決まっていたが、甲府支局・細野徳治が2階から落ちて足を骨折。この異動は取りやめになったという。

 勝又さんは宇都宮支局に内示されたわけだから、宇都宮支局・大洞さんは長岡支局でなく、秋田支局行きだったはずだ。大洞さんの人生はどう変わった?

 秋田に残った勝又さんも、思わぬ事故に遭遇する。5月13日、秋田県阿仁町の大火を写真部員(40歳)が毎日新聞の新鋭ジェット機で取材、秋田空港に着陸して、撮影したフィルムを秋田支局員に手渡そうとして、プロペラに触れてしまったのだ。

 写真部員の殉職。その現場に勝又さんはいたのだ。そのショックはいかばかりだったか(※)。

藤田紀一さん

 身代わり異動で大阪に転勤したその先輩記者と、私は大阪社会部で一緒になった。勝又さんはF記者と匿名で書いているが、藤田紀一さん。「フジキ」さんとか、「キイチ」さんと呼んでいた。当時、大阪社会部には、藤田姓が4人もいたのだ。

 私が街頭班と呼ばれるサツ回りをしているとき、藤紀さんは大阪府警回りの事件記者だった。残念ながら大阪在勤2年9か月の間、一緒に仕事をしたことはなかったが、気のいい先輩だった。

 ネットを検索すると、秋田県政を担当している時の「県政寸評」が見つかった。秋田湾地区が新産都市に指定されたことに関連しての考察だが、こんなことを書いている。

 《フランスの近代写実主義の代表的な作家、バルザックは借金の返済に追われてあれだけぼう大な作品を書いたという。もし、バルザックが金に困らなかったら「ゴリオ爺さん」「従妹ベット」を含む一大叢書「人間喜劇」は生まれなかったかも知れない。……バルザックにとって借金は少なくとも小説を書く動機の一つであったことは間違いない》
=1966年(昭和41年)2月1日発行「あきた」(通巻45号)。

 さすが早大文学部の出身!?

 大阪では社会部から整理部・副部長→松江支局長→岡山支局長→大津支局長→広島支局長→夕刊特集版編集長→論説委員。

 支局長を4つも経験した人は、そういないと思う。

 退職後は、熊本県鹿北町(現山鹿市)に移住、農夫をしていた。

 2019年5月23日没、78歳。

 63(昭和38)年同期入社のフジケン藤田健次郎さんが社報に追悼録を書いている。

 《暮らしぶりを冷やかしてやろうと訪ねたことがある。部屋の壁を埋める蔵書。外では段々畑六枚など550坪を耕し、果実のなる山林を守っていた。 「キユウリ4本100円だから、儲からないけど自足には十分」。イノシシ除けの柵を直したりする足元にマムシが2匹。厳しい過疎地だった》

 《のちに紀一さんは農家をリフォームし、念願の大きな暖炉がある書斎を設け、それを機にテレビを捨てた。その夢を思い描いたように見事に貫いたと思う》

 記者人生さまざまである。

(堤  哲)

 ※勝又さんは秋田空港で起きた「新ニッポン号」の事故について、『人生八聲』第4巻(2015年10月)で目撃体験を報告しています。

 『人生八聲』22巻は、まだ余部がありますので、ご希望の方には送料込み1,000円でお送りします。申し込みは、下記アドレスの高尾義彦までよろしく。

 

2020年4月3日

中曽根番記者・松田喬和さんの述懐

旧官邸の首相執務室を再現したスペースで、収録の松田喬和さん=高崎市末広町の青雲塾で

 昨年11月に101歳で死去した中曽根康弘元首相。その追悼番組が地元群馬テレビで4月14日午後7時から放送される。出演した毎日新聞特別顧問・松田喬和さん(74歳)は「戦後日本の転換点で、新時代の指標になる政治家だった」と振り返った。

 松田さんは旧榛名町(現高崎市)出身。政治部では自民党旧中曽根派などを担当。1995年刊行の『中曽根内閣史―理念と政策』(世界平和研究所)の執筆に参加し、中曽根氏の政界引退後も取材を続けてきた。

 収録では、中曽根氏が派閥抗争の激しい党内で「総理総裁」へと上り詰めていった過程や、政治的立場の異なる他者の意見をくみ取る度量の深さと文化的教養の高さを示す数々のエピソードを披露。首相在任時の厳しい国際情勢の中で米国を主軸に中国やアジア各国との友好も重視した外交や、改憲論者でありながら「独断で走ってはならない」などと丁寧な議論の必要性を指摘していたことも紹介した。

 以上は、毎日新聞群馬版の記事だが、かつて国鉄を担当した記者からすると、1987(昭和62)年4月の国鉄分割民営化が印象深い。

 中曽根大勲位が亡くなった時の毎日新聞社説を引用したい。見出しは「戦後保守政治の最後の生き証人」。

《1982年に首相に就いた。日本は当時世界第2位の経済大国となり、戦後のピークに立っていた。だが、政権発足に際して「戦後政治の総決算」のスローガンを掲げた。 内政では、行政、税制、教育の3改革を目指した。このうち、行革で大きな成果を残した。
なかでも、特筆すべきは国鉄改革だ。累積債務が37兆円を超え、国の財政を圧迫する大きな元凶だった。
官主導のシステムは戦後三十数年を過ぎ、行政の肥大化という問題を招来した。改革は時代の要請でもあった。
政治の生の変化に対応する姿勢は時に「風見鶏」と皮肉られたが、戦後政治に対し、新たな針路をもたらしたのは確かだ》

 国鉄分割・民営化の実現で、《戦後政治の一翼を担った国労、総評、社会党の崩壊へとつながり、戦後日本の政治体制であった「五五年体制」そのものが崩れ去ったのである》=牧久著『昭和解体』—国鉄分割・民営化30年目の真実―。

 松田さんは、行革が何故成功したか、中曽根さんから直接聞いた話を「汎交通」(2020年3月発行日本交通協会の機関誌)で紹介している。

 《NHKテレビで、自宅でメザシを摂る土光氏(土光敏夫第二臨調会長・当時経団連会長)が放映されたとき、「土光さんの清貧さがクローズアップされ、多くの国民の共感を呼び、行革は成功すると確信した」》

 松田さんは、1969年毎日新聞社入社。福島支局、東京本社社会部を経て74年政治部。横浜支局長、広告局企画開発本部長、論説委員を歴任。2004年4月から論説室専門編集委員。09年9月民主党政権下で首相番を務め、「松田喬和の首相番日誌」を自民党の政権復帰まで連載した。14年4月から現職。TBSテレビ「ひるおび」の政治コメンテーターやBS11「インサイドアウト」コメンテーターも務める。

(堤  哲)

2020年3月11日

川向こう7方面記者クラブは倍賞千恵子さんを招いた!

 警視庁5方面クラブのお宝・手塚治虫が描いたトキワ荘の天井板に関連して方面クラブをネット検索すると、7方面本所署記者クラブは、下町の太陽・女優の倍賞千恵子さんを警察署に招いたという記事が出てきた。それも毎日新聞の瀬下恵介記者の仕掛けによるとあった。

 元朝日新聞記者岩垂弘さんのブログで、『ジャーナリストの現場―もの書きをめざす人へ』(2011年同時代社刊)として発刊されている。

 ブログに写真が載っている。倍賞千恵子が東京五輪開幕直前の1964(昭和39)年10月1日「都民の日」に本所警察署を訪れ、方面クラブの記者たちから感謝状と記念品を受けたのである。今から56年前だ。

 警視庁第七方面記者クラブは、墨田、江東、江戸川、葛飾、足立5区の警察署を担当する。各社2人の記者が常駐していた。

 以下岩垂さんのブログから。《その日も事件がなく、クラブ員は暇をもてあましていた。とりとめもない雑談にあきたころ、毎日新聞の瀬下恵介記者が叫んだ。

 「倍賞千恵子さんに来てもらおうじゃないか」

 倍賞千恵子さんといえば、当時、新進の若手女優であり、歌手だった。『下町の太陽』という歌が大ヒット。彼女主演で映画化もされた。今ふうにいえば、人気上昇中のアイドルといってよかった。

 「下町記者クラブとして感謝状を贈ろうじゃないか。彼女、下町の出身でもあるし」と瀬下記者。クラブ員はみな仰天した。彼の、そのとっぴょうしもない発想というか、思いつきに、である。が、「こんなむさくるしい所にくるわけがない」と、だれも相手にしなかった。

 そんな中で、瀬下記者は記者クラブの隅にあった公衆電話に硬貨を入れ続けながら、どこ かに電話をかけた。いったん切ると、またかける。いずれも随分長い電話だった。そして、彼はついに叫んだのである。

 「おーい、みんな、倍賞千恵子がくるぞ」

 おちょぼ口をして満面笑みをたたえた瀬下記者のその時の表情はいまでも忘れられない》

 《瀬下記者によれば、松竹本社に電話し、倍賞さんを表彰したいから派遣してくれるよう頼んだ。相手は最初、難色を示していたが、どうしてもとねばったら、ついに「行かせましょう」と言ってくれたという》

 《「都民の日」の十月一日、彼女は本所署に一人でやってきた。私たちは署長室を借り、彼女を招き入れた。
 私たちはコーヒーとケーキで彼女と懇談した。感謝状を渡したが、そこには「あなたは、『下町の太陽』で、下町の良さを全国に知らしめた」といった意味のことが書かれていたと記憶している。それに、太陽をかたどったガラスの盆を贈った。それは、何を贈ろうかと思案したあげく、他のクラブ員と私が、両国駅近くのインテリア専門店の倉庫内を物色中に見つけたものだった。もちろん、みんなで金を出し合って買った。
 当時、彼女は二十三歳。それはそれは美しかった。「きれいだな。こりゃ、掃きだめに鶴 だ」。クラブ員から、そんな声がもれた。
 彼女自身も驚いたようだ。後にもれ聞いたところでは、本所署を訪ねる前、「わたし、何も 悪いことをしていないのに、どうして警察に行かなくてはならないのかしら」と周囲にもらしていたという。
 本所署記者クラブのこの“壮挙”は、他の警察記者クラブに波紋を広げた。「おれたちは吉 永小百合を招くんだ」などという威勢のいい声が聞こえてきた。しかし、結局、女優さんを招く ことができた警察記者クラブは他には一つもなかった》

 話の続きがある。《これには後日談がある。九年後、私たちは倍賞千恵子さんと再会することになる。
 すでに本所署記者クラブを去っていた、私たちかつてのクラブメンバーから、「また、倍賞さんに会いたい」という声が起こり、私たちが、映画『男はつらいよ』シリーズのヒットを祝って、寅さんの妹さくらを演じていた倍賞さんを招いたのだ。こんどは、すぐ承諾してくれた。私たちは、山田洋次監督、寅さん役の渥美清も一緒に招いた。
 一九七三年十二月十六日、銀座のレストラン「三笠会館」。あの「下町の太陽」娘はいまや大スターに変身していたが、本所署署長室での初対面で感じさせた庶民的な雰囲気を失ってはいなかった。この時の楽しいひとときは忘れ難い》

 殊勲者瀬下記者については、こう書いている。《瀬下氏は、その後、ニューズウイーク日本版発行人を務め、今は東京・神田にあるマスコミ人養成塾「ペンの森」の主宰者である》

 瀬下さんはことし82歳になる。80歳を契機に「ペンの森」を引退したというが、2012年11月5日瀬下塾・ペンの森OB会が発足、という記事をネットで見つけた。

 《300名以上いる卒業生の交流を活発化し、ペンの森をますます応援するため、従来のペン森関係者の交流組織「瀬下塾」をバージョンアップ。「瀬下塾・ペンの森OB会」を発足させていただくことになりました》

 当時74歳の写真も載っていた。瀬下さん、お元気ですか。

(堤  哲)

 *方面記者クラブの話では、読売新聞の本田靖春著『警察(サツ)回り』(新潮社1986年刊)秀逸だ。6方面上野警察署で朝日新聞深代惇郎との交流などいずれの機会に紹介したい。

2020年3月11日

運動面を作りたくて整理部入り
傑物偉大な西和夫さんの不思議な顔

1957年頃、整理部へ入った当時の西和夫さん

 元編集局長・西和夫さんの整理部時代の「知らざる一面」を紹介します。西さんは1955(昭和30)年頃から経済部へ異動するまで、ずーっと整理部記者でした。「俺はねエ、運動面の整理がやりたいから整理部へ来たんだよ」が口癖、とにかくプロ野球が大好きでした。

 2020年2月、西さんの訃報に接し、茲に改めて西さんのこだわり深い人物像が懐かしく思い出されてきたのです。

 昭和30年初頭の整理部では高原誠一さん(故人)が兵隊ながら運動面(スポーツ面という呼称はなかった)を長年にわたって独占編集していました。西さんは「俺にやらせろ!」と言ってはダダっ子のようにきかず、高原さんが休みの日は“オレオレ西さん運動面”が続くようになったのでした(かなり強引)。

 1958年秋には西鉄が3連敗から4連勝して巨人を倒した歴史的大逆転日本シリーズを担当、“鉄腕稲尾”の言葉は西さんが編み出してよく見出しに使いました。「あの日本シリーズはねえ、第5戦がキーだね。西鉄の奇跡を達成したのが第5戦だよ、モロちゃん」……のちのちまで語り草でした。

 その第5戦……3-2で巨人リードの9回裏、もう絶体絶命西鉄は先頭打者・小渕泰輔(2塁手)が三塁線ぎりぎりを抜くファウル気味の2塁打(代走・滝内弥瑞生)、長嶋茂雄三塁手は「ファウル、ファウル!」と抗議したが審判認めず2塁打。豊田泰光(遊撃手)送りバント、滝内三進。中西太(三塁手)は3ゴロで二死三塁。ここで不振続きの関口清治(左翼手)は1-3から痛烈センター前ヒットでなんと同点にしてしまった。巨人は先発投手・堀内庄が快投を演じていたが9回裏走者を出したところで藤田元司(疲れていた)に替えたのがたたった感じ。延長10回には大友工投手が登板して8番打者・稲尾和久投手にレフト・サヨナラ・ホームランを浴びたのでした。稲尾は第4戦も完投勝ち(得点6-4)しているにも関わらず、この試合も4回からリリーフ登板して巨人打線を1安打に抑え込んだのでした。稲尾は1958年シーズン長打率.365 本塁打4本という一流打者で、「西鉄の底力をまざまざと見せつけられた」と巨人・水原茂監督。

 逆に西鉄の三原脩監督は「今日の作戦は失敗の連続だよ。9回裏、豊田にバントさせたのはその後の中西が犠牲フライを打つと思っていたからナ。俺は野球に自信なくしたネ」。6回裏の2点は豊田四球のノーアウト1塁から中西が2ランを放ったもので起死回生の2点だったから、三原はその続きを求めたのかも。三原は、さらに西鉄先発投手・西村貞朗が与那嶺要(左翼手)に3ランを食らい一死も奪えず1回で交代させにゃあならん事態も失敗したを繰り返した。

  1958(昭和33)年「日本シリーズ」第5戦 平和台球場
  巨人 300 000 000 0 |3
  西鉄 000 000 201 1×|4

 この試合こそ……西和夫が愛する野球試合の1つであったわけです。後楽園球場に戻っての第6戦は「6-1」で西鉄勝利。第7戦も「2-0」で西鉄の勝ち(4勝3敗で三連覇成る)。この2試合ともに中西が1回表に2ラン3ラン。稲尾が二試合とも完投・完封だったのだから……あきれる。

 “駒沢の暴れん坊”という言葉は西さんの発言から出たんです。東映フライヤーズがめちゃくちゃな試合を展開して人気を博していて、駒沢野球場(世田谷区深沢・現在「駒沢オリンピック公園」)は当初は観衆200人とか300人だったのが、2万人を超える観客を呼ぶほどになっていました。西さんもよく駒沢球場で野球を見てから朝刊勤務(普段は軟派)の席についていたのです。やんちゃ極まりない選手が東映には多数いました……山本八郎(喧嘩っぱやい)、毒島章一(三塁打王4回)、土橋正幸(1試合16奪三振)、安藤順三(野村克也と誕生日が1日違い)……荒くれ揃い。西園寺昭夫、スタンレー橋本らも個性あふれるプレーで魅せましたね。なんの規制のないチームで、自由気まま、二日酔いオッケー。そういう雰囲気が西さん好み?だったようで、山本八郎がアウト・セーフの判定から審判を殴って蹴飛ばし、さらに投げ飛ばした事件があったときも、西さんは「審判もちゃんと見なきゃあナ。ま、ハチの暴力はもっとイカンけどね」と言っていました。

 1959(昭和34)年に新人で入った「張本勲はいいぞ、あれは。ぎっちょでレフトへあんないいヒットを放つやつはいないヨ」と評価していました。通算最多3085本安打の男に1年目から目をつけるなんぞ、西さんの野球を見る目は只者ではありません。

 もっと言えば、西さんは大リーグ通でした。スタン・ミュージアル(カージナルス)が来日した時、あれは毎日新聞が招聘していたため切符があったんですね。カージナルス對全日本の1戦2戦を後楽園で見たと言ってました。スタン・ミュージアルが3安打して稲尾もやられたのは「当然だよ」……大リーグのレベルは段違いであることはとうにご存知で、日本の野球は「まだまだ、だね」と。

 西さんは「愉快で楽しい知られざる事柄」を知っていました。スタン・ミュージアルは三年連続首位打者中で、ダブルヘッダー5本塁打、21歳でメジャーに入って以来37歳(1958年時)まで17シーズン3割以上の打率を残しています。左バッターボックスに背を丸めた独特のスタンスで立ち、獲物に飛びつく動物のような感じでバットを振る。ブルックリン・ドジャースとの試合で打ちまくり、ニューヨークのファンが「あの野郎!」と逆に尊敬してしまうほど……『oh here comes the man again……』と悲しい叫び声をスタンドで上げたとのこと。以来、ミュージアルの渾名「ザ・マン」が全米に定着しました。ブルックリンのファンはカージナルスは敵視しましたが、ザ・マンには大歓声と拍手を送ったのです。そんなエピソードを語る西さんの顔は得意満面でした。

 「俺はねえ、ミュージアルも好きだけど、アーニー・バンクス(シカゴ・カブス)が好きでねエ。あいつはジャッキー・ロビンソン二世になるぞ」と、褒めたたえていました。バンクスは黒人「ニグロ・リーグ」からシカゴに入団して、シーズン本塁打を44本、47本、45本、41本と量産、打点王2回(129、143)、愉快な明るい性格でミスターカブと呼ばれていました。「バンクスはねえ、へっへっへ、あいつ併殺打がめちゃ多いんだよね」と西さん。そういう選手を好むんです。バンクスの本塁打は通算512本。野球殿堂入り。背番号14はカブス初の永久欠番になっています。西さんの野球博識には驚くこと多々。

 あの頃の大リーグ情報は外電以外なかったのですから、運動部でAP通信やらUP通信やらをあさっていました。それと運動部の鈴木美鈴さんとは昵懇の仲(東大の先輩後輩)で、西さんは「ミレイさんの原稿は信頼できるからね」といつも言っていました。ミレイさんは来日したカージナルス・チームの通訳もやるくらいの記者で「記録の神様」といわれた人。アメリカの本物ルール・ブックを翻訳して日本の野球規則を作った人です(野球殿堂入り)。

 僕は西さんが運動面に熱中している頃、スポニチから毎日新聞に移ってきて、最初の2年間は運動面専属でしたから西さんと2人でプロ野球紙面を何度もつくりました。その都度「野球噺」で盛り上がったのでした。最終版が終わってから午前4時ころ「すし屋横丁」へ行き延長戦12回裏くらいまで飲ったナア。なんか、こう……有楽町時代の自由謳歌した編輯局の空気が懐かしい、ですね。

1982年10月、西和夫さん退職時の会で

 その後、西さんは経済部、経済部長、編集局長へと進みます。1978(昭和53)年頃だったか「1ドル=190円代」に突入、メディアは打ち揃って「200円割れ」「200円割れ」と大騒ぎしていたのですが、西さんは編集局で叫んだね。「何を騒いでいるんだよ」「日本経済から考えて1ドル=180円から170円でいいんだ!」「新聞も価値判断まちげえるナっ」「円安温室はもういい」などなど、整理本部界隈でガンガンガン。あれから徐々に「国際金融の常識論」が編集局中で定まってきて、日本も市場開放へと進むのでした。

 編集局長就任の翌日でした、西さんは僕を呼んで「おいモロちゃん、インベーダー・ゲームに連れて行ってくれヨ」と言うのです。「即いきましょう!」。新宿のゲーム・センター(後の命名)で何ゲーム遊んだか……。いくらやっても、あっと言う間に2人とも敗退しました。しかし西さんは負けず嫌いで、その後なんどか同じゲーム・センターに行ったそうです。腕前が上達したかどうかは不明のまま、ですが。あれは正式名称「スペースインベーダー(Space Invaders)」というヤツで一世を風靡したもんね。西さんのいろんな場面での先見の明はたいしたもんです。

 日本記者クラブのラウンジで「西会」が開かれていた頃(2000年代はじめ?)、その前座で「野球談議オンリー会」……といってもアルコール主体ですが、野球のハナシで合うヤツはモロ以外にいなかったのでしょう? そこでも西さんはたびたび「西鉄大逆転シリーズ」をぶり返し、有楽町編集局の看板が「編輯局」だったことと合わせ、思い切り気に入った運動面を溌溂と作っていた時代を懐かしがっていました。

(OB・諸岡達一記)

2020年2月28日

警視庁5方面記者クラブのお宝がマンガミュージアム入り

 お宝は、漫画家手塚治虫さん(1989年没、60歳)がトキワ荘の天井板に描いた直筆画である。タテ90センチ、横30センチ。

 「リボンの騎士」の主人公サファイアと、汗をかきながら漫画を描く手塚さんの自画像。

 五方面記者クラブのみなさんへ
 1982年12月1日

とサインペンで書かれている。

 天井板は、かつて豊島区南長崎3丁目にあった木造アパート「トキワ荘」のものだ。手塚さんをはじめ、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、藤子不二雄さんら売り出し前の若手漫画家が10室あった2階4畳半に住んでいた。

 手塚さんの自画像を見てください。ツギの当たったセーターを着て、裸電球のもとペンを走らせている。

 築30年。「トキワ荘」は、老朽化で取り壊された。その解体作業に、火事の取材現場から帰る途中の5方面記者クラブ(池袋警察署)の社会部記者が出くわした。

 「これは大ニュースだ」

 記者たちは、トキワ荘に住んでいた漫画家に電話取材をした。すると、当時54歳の手塚さんが「記念に天井板が欲しい」といって、翌日解体現場にやってきた。

 《自室だった2階の部屋の天井板を何枚か外すと、1人の記者が「記念に何か……」とペンを渡した。すると、手塚さんはすらすらとサファイアを描き、「僕も描こう」と自画像も添えた》

 《宛名を書く際、手塚さんは「方面クラブって何ですか」と尋ね、記者たちは「若手記者が切磋琢磨する場所です」と説明。すると手塚さんは「トキワ荘みたいなものだね」と話し、ニコッとしたという》=読売新聞2月27日夕刊。

 方面クラブは、サツ回り記者たちのたまり場である。23区内は7方面に分かれ、1方面丸の内、2方面大崎、3方面渋谷、4方面新宿、5方面池袋、6方面上野、7方面本所各警察署にあった。

 ゴミの5方面と呼ばれた。管内で事件・事故が起きても、都心や渋谷・新宿と比べ紙面扱いが小さいのだ。

 天井板は池袋署記者クラブのお宝だったが、タバコの煙で汚れがひどくなり、30年ほど前に5方面の歴代担当者がカンパして、お宝を洗浄、額に収めた。その幹事役が毎日新聞の現オリンピック・パラリンピック室長・山本修司さん(57歳)=前西部本社編集局長=だったという。

 そして10年前に、5方面クラブ詰めの記者が減ったことから、このお宝は、お隣4方面の新宿警察署の記者クラブに預けられていた。

 豊島区が「トキワ荘」近くに復元した「マンガの聖地豊島ミュージアム」(豊島区南長崎3-9−22区立南長崎花咲公園内、最寄駅は西武池袋線椎名町駅)が3月22日(日)にオープンすることとなり、このお宝の寄贈式が警視庁本庁で行われたのだ。当時5方面クラブを担当していた各新聞社の記者たちも出席して。高野之夫区長は「手塚先生の思いがこもった貴重な作品。施設に魂を吹き込んでいただいた」と謝辞を述べた。

 なお、開館はコロナウイルス感染の拡大の影響で、4月1日以降に延期された。

(堤  哲)

2020年2月5日

美術館が進化しています! たまには覗いてみませんか

 皆さま、都内の美術館で今、どんなコトが起きているか、知っていますか。
 ハワイ・ホノルルの日本語新聞「日刊サン」に連載している高尾義彦氏の第16回「日本の美術館が進化する」をご一読ください!

クリックするとPDFがダウンロードされます
ハワイ・ホノルルの日本語新聞「日刊サン」コラム⑯ 2020年02月04日

(堤 哲)

 

2020年1月14日

新聞は広島原爆投下をどう報じたか——牧内さんが「銀座一丁目新聞」で「新聞報道」検証の連載を開始

 ことし95歳を迎える牧内節男さん(元東京本社社会部長→編集局長、スポーツニッポン新聞社長・会長)が、インターネット上の「銀座一丁目新聞」で「新聞報道」検証の連載を始めた。ペンネーム「信濃太郎」。2010年(令和2年)1月10日号のNo.811が第1回だ。

http://ginnews.whoselab.com/200110/safe.htm

 ——この1年間、戦中戦後の「新聞報道」について検証をしてみたい。ネットに押されて新聞は部数を減らし続けている。新聞の使命が、1報道、2解説、3評論であるとすれば、この使命を忠実に続ける限り新聞の存在意義がある。第1回は「広島原爆報道」を取り上げる。

 昭和20年8月8日の毎日新聞は一面トップ、4段見出しで「B29、広島に新型爆弾」と大本営発表(8月7日15時30分)を掲載する。

 「昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中。8月6日午前8時すぎB29少数機は広島に侵入少数の新型爆弾を投下した。そのため同市の家屋が倒壊、各所荷火災が発生した」(以下略)

 原爆投下の文字もなければ広島の惨状について全く掲載していない。国民の戦意低下を考慮したのであろう。

 私はこの時、陸士59期の歩兵科の士官候補生として西富士演習場で野営中であった。7日の夜、風呂場で『新型爆弾広島に落ちて多くの被害を出した』と聞いた。

 もちろんアメリカの新聞は「原爆投下」を報じた。8月7日火曜日、ニューヨークタイムスは「原爆第一弾日本に投下 破壊威力はTNT2トンと同じ」と書いた。

 日本で一番早く「新型爆弾」が原爆と知ったのは私の知るところ当時検事をしていた向江璋悦さん(後、弁護士)である。

 8月6日正午過ぎ新聞号外が『広島へ新型爆弾が投下され被害大なる見込み』という号外がでた。その時、巣鴨刑務所の東京地検・向江検事の部屋に思想犯として取り調べを受けていた理論物理学者の武谷三男さんが飛び込んできて『広島へ落とされた新大型爆弾は原子爆弾に間違い有りません』という。

 「どうしてですか」と問うと「号外では1機できて爆弾を投下したとありますが、あれは原子爆弾を落下傘に吊り下げ、空中で爆発させるのです。空中爆発の影響を受けないような場所まで飛行機が立ち去ったときに空中爆発させ、被爆地域を広くするためですといった」という(向江さんの著者『法曹漫歩』より)。

 日本の物理学者が一番早く『原爆投下』を知った、というよりニュースを聞いた途端『原爆』とわかったのであろう。

 当時大本営の情報参謀・堀栄三少佐(陸士46期・陸大56期)は8月7日午前1時過ぎワシントンでトルーマン大統領が発表した放送内容を特別情報部がキャッチして『新型爆弾』の正体を知る(同氏の著書『大本営参謀の情報戦記』・文春文庫)。

 ラジオ受信の傍受で東郷茂徳外相ら外務省幹部も「原爆投下」の事実を知った。東郷外相は「原子爆弾か。これで戦争は終わりだ」とつぶやいたという(阿部牧郎著『危機の外相東郷茂徳』新潮社刊)。

 徳川夢声は「夢声戦争日記」(七・中央文庫)の8月6日の項(月曜日 晴 暑)で、すでに「原子爆弾の如きもの」と書いている。

 当時毎日新聞社会部長森正蔵は「あるジャーナリストの敗戦日記」(ゆまに書房)8月11日(晴れ)の項に「新型爆弾は、ウラニウムを使ったものであった。それは30キログラムの水と10キログラムのウランと10キログラムの起爆薬品からなっているという」と記している。

 国民は新聞より先に噂の広まりで広島・長崎の「原爆投下」を知った。更には8月10日には東京にも原爆が落とされる噂まで流れた(「夢声戦争日記」より)。

 毎日新聞に「原子爆弾」の文字が現れたのは8月14日の紙面であった。チューリヒ発の同盟の記事を掲載したものである。それによれば「大国の利己的政策は大国が原子爆弾その他の最も近代的な兵器を利用して戦争を起こす危険が増大したためいよいよ露骨になろう。また原子爆弾を独占しうるのは一時的なことに過ぎず連合国だけがいつまでもこの特権を享受しうると考えるのは誤りだ」と、新聞記者の投稿文を紹介した。

 それを決定づけたのは8月15日の終戦の詔勅であった。「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し被害の及ぶ処誠に真に図らざるに至る」とある。原文を見るとこの箇所は後から書き添えられたものであった。

 真実は伝えるべきものであり其の判断を権力がするのでなく国民に任せるべきものだと「原爆報道」が教えている。憲法21条2項で「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」で規定する理由である。

(堤  哲)

2020年1月8日

2020年の初日の出

 1月1日午前6時45分頃だったか。テレビ朝日を見ていたら、「これから画面に出ている時刻表示など文字を消します。初日の出をスマホで撮影してください」といわれ、携帯で撮影したのがこの写真である。

 皆さん、明けましておめでとうございます。

   ことしも「毎友会HP」をよろしくお願い致します。

(堤 哲)

                                 

2019年12月26日

2020年東京五輪・パラリンピックへ

 暮れに有楽町の東京国際フォーラムで、1964年東京オリンピックの写真展があった。「熱気・五輪・1964」。主催は新聞通信調査会。

 1964(昭和39年)年は私が毎日新聞社に入社した年。オリンピック景気で「水膨れ入社」と揶揄された。99年10月作成の「39会」名簿は103人を数える。

 年表があった。

 1964年と今の比較——。

 6月に新潟地震があった。

 10月1日に東海道新幹線東京―新大阪間が開通、10日に東京五輪が開幕した。

 万代橋が落ち、コンビナートから上がる黒煙。

 東京五輪から次の2枚。マラソンの円谷選手が国立競技場内で英国選手に抜かれた場面と、閉会式で日本選手団の旗手が外国人選手に肩車されるなど、感動的だった閉会式。

 予定稿が使えなくなって、各社のナンパ記者は勧進帳で記事を送った。

大鵬が九州場所で15回目の優勝
長嶋茂雄選手が婚約発表(11月26日)

 マッシ―村上が日本選手初の大リーグデビューをしたのが9月9日。

 国鉄スワローズ金田正一投手は、この年のオールスター戦で殊勲選手に選ばれ、数々の賞品が贈られた。金田はこの年を最後に巨人に移籍。背番号34は巨人の永久欠番になっている。2019年10月6日逝去、86歳だった。偲ぶ会が1月21日帝国ホテルで開かれる。

(堤  哲)

2019年11月15日

メディアウオッチを続ける85歳・天野勝文さん

 「メディアウオッチ100」2019年11月13日第1243号に、「自治体で対応分かれた台風犠牲者の氏名公表」天野勝文とある。

 この「メディアウオッチ100」は、「最近の新聞、テレビは中身がないし、ちっとも面白くない」という世論を受けて、新聞記者OBを中心とした報道・執筆のプロたち100人以上が、あらゆるメディアをチェック・分析・評価するニュージャーナリズムを立ち上げたのだ。創刊は2011(平成23)年2月。

 毎日新聞OBで元筑波大・日大教授の天野勝文さん(85歳)は創刊からの常連執筆者。すでに優に「1千本安打」を達成している。

 手元にあるニュースチェックを紹介する。ちょっと古いが、2018年12月26日第1121号——。

 「惜別」「追悼抄」「悼む」を読み比べると

 年の瀬になると、ひときわ気になるのが追悼記事である。土曜日から月曜日にかけて、朝日、読売、毎日の各紙に「惜別」「追悼録」「悼む」などのタイトルで、「月月遅れ」の追悼記事が載る。(中略)

 ① 朝日と読売は自社の記者が執筆している
 ② 毎日は社外執筆者が多い
 ③ 読売は大きなスペースを割いている

 個々の記事・寄稿の「評価」は脇に置くとして、やはり死者とゆかりのある記者が書いたものが「新聞らしい」のではないか。その点では毎日は人材に乏しい感を免れない。読売は冗長すぎる。総じて言えば、朝日に軍配が上がる(「大甘だぞ」と河谷史夫さんに叱られそうだが)。

リクルート広告の魁「東大新聞」1958年6月18日号

 天野さんと新聞の付き合いは古い。学生時代「東大新聞」の記者だった。履歴をみると、1957(昭和32)年東大文学部社会学科卒、59(昭和34)年4月毎日新聞東京本社入社。

 この2年間、経営破綻した学生サークル「東京大学学生新聞会」が「財団法人・東京大学新聞社」として新発足し、専従職員を任されている。

 リクルート創業者である江副浩正氏は、在学中に「東大新聞」で広告営業を始めたが、企業の就職情報の始めは、58(昭和33)年6月18日号に載った丸紅飯田株式会社の就職説明会広告だった。

 江副氏は東大4年生。江副氏の自伝『かもめが翔んだ日』には、天野さんから「新聞は販売収入より広告収入が上回る時代になった。広告もニュースだ。明日から新聞を広告から読んで、東大新聞の広告を開拓してくれないか」といわれたと、書かれている。

 「新聞は下から読め」「広告もニュースだ」。天野さんがいなければ、「江副リクルート」は存在しなかった?

 天野さんは、1986(昭和61)年筑波大学助教授(ジャーナリズム担当)に就任する。52歳の誕生日前である。

 青木彰氏(2003年没、77歳)のあとを継いだ。教え子に朝日・毎日・読売をはじめ新聞各社の記者がたくさんいる。

 人格円満、後輩の面倒見もバツグンで、この人の悪口を聞いたことがない。

 日本の新聞・テレビ・メディアチェックをいつまでも続けてもらいたい、と思う。

 『ジャーナリズムの情理 : 新聞人・青木彰の遺産』(2005年刊)
 『新現場からみた新聞学』(2008年刊)
 『新現代マスコミ論のポイント』(2004年刊)など著書・論文多数。

(堤  哲)

2019年10月3日

OBの季刊同人誌『人生八聲』が20巻の記念号に

 元主筆、木戸湊さんが提案して5年前から有志で発行している季刊の同人誌『人生八聲』が2019年10月発行の秋季号で20巻に達しました。毎日新聞OBを中心に、現役時代に書き残した話やリタイア後の生活記録など毎号20数人が執筆し、多彩な内容となっています。

 20巻の執筆者を、目次を転載して紹介すると――

アフガニスタンに愛をこめて その六堀川 ひろ子
バック・ギア           香水 敏夫
「女王」はなぜクリクリ坊主に     長岡 民男
玉山とカムチャッカ斎藤 清明
北海道 地名探り―⑳ 佐渡 征昭
中国旅行なか むろ太
ニュースコラム・イン・ハワイ高尾 義彦
ある先輩記者の「図書館」 阿部汎克さんを偲ぶ永井 浩
当番弁護士制度を支援する会・大阪津村 裕子
杖ともに(その十五)木戸 洸
京の美味礼賛家村 隆子
随筆「文・ぶん・ブン」の(十五) 〝大権の行方〟さぎさか れん
原爆ドーム、丹下健三、ヤン・レツル、宗像政、市川崑(第二回)高谷 尚志
ツィッター俳句 「続無償の愛(一五)」河 彦
万博提案(4) タイム・カプセルの収納品について東方 洋雄
BC級戦犯を考える(Ⅱ) 2つの「聖地」──戦犯と特攻朝野 富三
2500年前の「悩み」神谷 周孝
AI(人工知能)とビッグデータ北畠 霞
「運命」の思い出川鍋 亮
ならしの日記(20) 勝又 啓二郎
遺伝子の意思保苅 文雄
鳳便り 15 鳳 蘭
「馬のもの言い事件」 調書を取られた江戸町民三十五万人仁科 邦男
北の国から 築二十年の悲劇福岡  洋子
やりましたホール・イン・ワン Ⅰ DID IT‼ Ⅱ宗岡 秀樹

 馴染みのない名前もあるかと思いますが、木戸さんの友人・知人なども参加し、元宝塚の鳳蘭さんは「毎日スポーツ人賞」の審査員を務めてもらった関係などから、参加していただいています。その木戸さんですが、今年1月に脳梗塞で左半身が不自由となり、リハビリの日々で、目次に名前のないのが残念です。
(なか むろ太は石井公明さん、さぎさか れんは山藤簾さんのペンネーム。河彦は高尾の俳名。常連の吉川泰雄さんは今回お休み。大島幸夫さんはボストンマラソン参加などの機会に随時)

 発刊当初から、東京五輪・パラリンピックまでは継続すると申し合わせ、少なくとも2020年中は発行すべく同人一同、「書くこと」に意欲を持続しています。「書くこと」を通じて、現役の記者たちにも頑張って欲しいとのエールも込めているつもりです。

 20巻の大きな区切りを機会に、全巻=写真=を揃えて国立国会図書館に近く寄贈する計画です。毎日新聞出版など出版社の場合、国会図書館への納本義務がありますが、同人誌や自費出版などは、自主的に寄贈する必要があります。印刷は株式会社毎栄=創刊時は毎日新聞東京センター=にお願いしており、公共的な施設で永久保存してもらいたいと願っています。

 秋季号など多少の余部があります。発行は寄稿者が必要経費を出し合って賄っており、ご希望の方には1部1,000円でお送りします。残部の範囲で対応しますので、次のメールアドレスにご連絡ください(高尾義彦)。

2019年9月19日

物故社員は8099人!

 秋のお彼岸に合わせ、先覚記者と物故社員の追悼会が9月18日(水)に毎日新聞東京本社で開かれた。ことし新たに279柱が合祀(ごうし)され、物故社員は計8099柱になった。丸山昌宏社長は「社員一丸となって諸先輩方が築いた毎日新聞の伝統を守り、発展させていく」と、追悼の辞で述べた(9月19日付け毎日新聞朝刊)。

 追悼会で配られた合祀者の名簿には「第155回先覚記者・第159回物故社員中央追悼会」とあった。この行事は、一体いつから始まったのか。

 『毎日新聞は百年史』に大正6(1917)年9月24日第1回物故社員追悼会を浜寺本社倶楽部で催す、以後大毎と東日で毎年春秋2回交互に催す、とある。

 102年も続いていることになる。

 その3年後、大正9(1920)年3月21日先覚記者追悼会を物故社員追悼会と同時に開く(以後毎年春秋2回)。

 追悼会の名簿は、A4判、本文34ページに霊名がぎっしり並んでいる。

 先頭は先覚記者。当初は以下の10人だった。
 柳川 春三
 岸田 吟香
 栗本 鋤雲
 福地源一郎(東日初代社長)
 成島 柳北
 末広 鉄腸
 沼間 守一
 藤田 茂吉
 福沢 諭吉
 ジョン・R・ブラック

 大正14(1925)年に以下の10人を追加した。
 島田 三郎
 西村 天因
 中江 兆民
 黒岩 涙香
 原   敬(大毎3代社長)
 渡辺巳之次郎
 池辺 三山
 田口 卯吉
 小松原英太郎(大毎4代社長)

 その後、浜田彦造(ジョセフ・ヒコ)が加わり、さらに大毎の初代社長・渡辺治(台水)、朝日新聞の社主・村山龍平らを加え、現在は40人が先覚記者として掲載されている。

 時事新報で福沢諭吉の教えを受けたやり手経営者・大毎5代社長の本山彦一社長が始めた。第1回先覚記者追悼会は、大毎(大阪毎日)東日(東京日日新聞)とも記事を載せている。

  先覚新聞記者
   十名士の霊を祀る
    本社並びに東京日日主催
   献饌(神前に物を供えること)質素、儀式簡単
    故人の遺風を追慕す

 この時、追悼の言葉を述べた本山も没後、先覚記者に祀られている。

 残り19人は——。
   矢野 文雄(龍渓)
   陸  羯南
   本山 彦一(大毎5代社長)
   高木 利太
   村山 龍平
   高橋 健三
   鳥居 素川
   犬養  毅(木堂)
   内藤 湖南
   関  直彦
   三宅 雪嶺
   竹腰与三郎(三叉)
   奥村信太郎(大毎改め毎日新聞6代社長)
   徳富 蘇峰
   高石真五郎(毎日新聞7代社長)
   丸山 幹治(侃堂)
   阿部真之助
   城戸 元亮

 2ページ目からは「物故社員」で、先頭は甫喜山景雄56歳、次に初代「大毎」社長・渡辺治30歳。

 明治5(1872)年創刊の東京日日の創始者の名前もある。篠野伝平72歳、西田伝助73歳、落合幾次郎72歳、広岡幸助90歳、岸田吟香73歳、福地源一郎66歳……といった具合だ。

 2022年、毎日新聞は創刊150年を迎える。

毎日新聞の電飾広告(東京メトロ有楽町駅で)

(堤  哲)

2019年8月25日

コラムニストから法曹へ
司法試験に合格して修習中の大高和雄さん

 福島支局の10年後輩で、経済部時代の同僚だった前「近事片々」子、大高和雄くんが、3月末に選択定年で退職し、法曹の道を歩むことになった。批判することに長けていたコラムニストが、どう実人生に関わっていくのか、今後が大いに見ものだ。

 千葉支局長から資材本部委員を歴任して論説室に移り、この2年間夕刊1面コラム「近事片々」を担当していた大高くん。「トランプもシンゾーくんもめちゃくちゃなので、コラムは書きやすい」と軽快なタッチでコラムを書いていたのに、4月に届いた社報には彼の選択定年が載っていてビックリした。まだ58歳だったはず、どうして?と電話して、またビックリした。

 日本で一番難しいとされる司法試験に受かり、12月から司法修習生になるので、少し早めに辞めさせてもらった、と言うのだ。「お前、そんなに優秀だったの?」と言ったら「えぇ、まぁ」だと。17年に予備試験に通り、昨年本試験に合格したのだとか。彼は「近事片々」を担当する前は、激務の論説副委員長も務め、そんな勉強をするヒマはなかったはず。どこで、どうして、なにゆえにそんな勉強をしたのかを尋ねたところ、うなってしまう答えが返ってきた。

 彼は東北大の経済学部出身で法律とは無縁だった。ところが、09年に千葉支局長から資材本部委員になった時、「これで記者職に戻る道はなくなった」と思ったのだとか。経済部の先輩から「時間に余裕があるなら、何か資格でも取ったら」と言われ、社業に役立つのは行政書士かなと思い、これは1年で資格が取れた。次に目標にしたのが、どうせやるならと、あの最難関の「司法試験」だった。

 法科大学院に入る余裕はない。それで、1万人が受験して400人が受かる予備試験を目指して、出勤前の1時間を大手町の喫茶店で勉強したのだとか。今は予備試験向けの参考書がたくさんある。受かるとも思わず、勉強を重ねたら、7年目に予備試験に通り、その7~8割が合格する司法試験にも18年に受かった。

 これから1年間、司法修習生として裁判所、検察庁、弁護士事務所で実務を学び、20年12月には弁護士資格を取って、自宅に弁護士事務所の看板を掲げるつもり。「弁護士の肩書きが役に立つこともある。少年絡みの事案で、世のため人のための支えとなる存在になれればいいな、と思っている」とか。

 大高くんには才媛の小学校教諭のカミサンはいるが、子どもはいないから、こんな思い切ったことができたのかも。あんまり金儲けがうまい方とも思えないから、こりゃ、髪結いの亭主弁護士だな。ともあれ、60歳にしてのコラムニストからの法曹の世界への転身を、注目して見守りたい。

文責・岩橋 豊(1973年入社、68歳)

2019年8月14日

奈良泰夫さんが始めた東日印刷サマーフェスが30回に

 ありがとう
 感謝していると
 つぶやけど
 奈良に届くか
 花火の咲く空  悠々

フイナーレ恒例の役員揃っての三本締めの前に挨拶する武田芳明社長

 8月10日、第30回トーニチ・サマー・フェスティバルが東日印刷の顧客をはじめ、地域の人たち、社員家族、OBら800人が参加して、4階屋上で開かれた。  冒頭の短歌は、元東日印刷役員・牧内節男さん(元スポニチ社長・会長)の欠席通知のはがきに書き込んであった。

 「この歌の意味を分かる社員がいるだろうか」と、元総務部長・赤松徳禎さん(79歳)がつぶやいた。

  第1回の開催が1989(平成元)年8月12日。前年7月に現在の新社屋が完成。4階屋上から晴海の花火大会がよく見えたことから、旧友会の花火鑑賞会となったのだ。「OB29人出席」と、『東日印刷50年史』にある。

 新社屋の完成披露のあと、東日印刷とスポニチの社長を兼務していた和田凖一さんが急逝(享年80)、東日印刷の社長に奈良泰夫(2012年没、86歳)、スポニチの社長に牧内節男が就いた。2人とも毎日新聞社の元常務取締役で、陸軍士官学校の同期(59期)。花火鑑賞会は両社長就任の翌年に始まったのだ。ついでながら陸士59期に、毎日新聞社会部で消防記者としてならした開真さん(2008年没、82歳)がいた。

 その後、晴海の花火は中止となったが、真夏のOB総会は続いている。この日のOB参加者は80人にのぼった。第1回から参加しているのは当時監査役の萩原康則さん(90歳)と現役の部長だった中川秀仁(86歳)。平田睦夫(82歳)、前田和彦(81歳)、副部長クラスで神田富佐玖(82歳)、伊藤義一(80歳)、塚本登(74歳)各氏ら。

 これで牧内さんの歌の意味が理解できたと思います。牧内さんは春秋の毎日新聞社会部旧友会のゴルフ会に参加していて、ことし8月31日に94歳の誕生日を迎える。

(東日印刷元監査役・堤 哲77歳)

2019年8月11日

日本女性初の五輪メダリスト人見絹枝さん

1928年アムステルダム五輪で入場行進する人見絹枝さん

 人見絹枝さんは1928(昭和3)年のアムステルダム五輪陸上800メートルで2位に入り、日本人女性初の五輪メダリストになった。人見さんはその時、毎日新聞の前身大阪毎日新聞(大毎)のスポーツ記者だった。

 東京五輪まであと1年を切って、再び人見絹枝さんにスポットライトが充てられている。最近毎日新聞が主催したトークイベント「人見絹枝~駆け抜けたパイオニア」で、大阪本社副代表・小笠原敦子さんが以下の報告をしている。

 ——人見さんが(大阪)毎日新聞社に入社したのは1926年。19歳でした。この年、開催される第2回万国女子オリンピックに参加し、記事を書いてもらおうと考えて採用したようです。二足のわらじ、今で言う見事な二刀流でした。

 連載のタイトルは「女子運動家の旅日記」。現地のスウェーデンから署名入りで記事を書いています。記事の一つの見出しに「廿(にじゅう)代の女が多い」というのがありました。当時、日本の女性スポーツは学校体育止まり。女学校を卒業するかしないかの年齢で結婚して家庭に入るような時代で、20代でスポーツをするなんてあり得ませんでした。世界と日本の環境の大きな差を感じたことでしょう。

 アムステルダム五輪に出場したのは2年後の21歳。日本選手団唯一の女性でしたから、いろいろ苦労もあったでしょう。大会の前に1カ月余りロンドンに滞在、女性陸上クラブで調整しました。クラブでは、学生ではなく仕事を終えた女性たちが集まってスポーツを楽しんでいました。その姿を伝える記事では「英国の女子選手は幸福」と何度も記しています。
 人見さんは早世しなければ、日本で同じような組織を作ったのではないかと思います。

 人見さんの残された言葉で一番好きなのは「努める者は何時(いつ)か恵まれる」。努力は裏切らないという意味です。来年の東京大会に向けて、この言葉は大事に考えたいと思います。

 人見絹枝さんは1907年、岡山県で生まれた。二階堂体操塾(現日本女子体育大)を卒業後、大阪毎日新聞社(毎日新聞社の前身)に入社。26年の第2回万国女子オリンピックの走り幅跳びで当時の世界新記録となる5メートル50をマークするなど好成績を収め、総合成績で個人優勝を果たした。

 日本の女子選手として初めて五輪に出場した28年アムステルダム五輪では、8月2日に行われた女子800メートルで銀メダルを獲得した。大阪毎日新聞の運動記者として記事の執筆や講演なども行い、女子スポーツの普及にも貢献した。

 アムステルダム五輪の3年後の31年8月2日、肺炎のため、24歳で亡くなった。

(堤  哲)

2019年8月4日

阿部菜穂子著『チェリー・イングラム』英語版
'Cherry' Ingram: The Englishman Who Saved Japan's Blossoms

ハードカバー: 400ページ、11ポンド(約1400円)
出版社: 英Chatto & Windus社
2019年3月21日刊行

 阿部汎克さんを偲ぶ会(8月1日日本記者クラブ)で毎日新聞OBの永井浩さんが『チェリー・イングラム』英語版が出版されたことを紹介した。

 日本語版が日本エッセイストクラブ賞を受賞した際、菜穂子さんの初任地京都支局の同人が日本記者クラブに集まり、お祝いをした。その時の模様は、この毎友会HP「集まりました」に載っているが、当時の京都支局長磯貝喜兵衛さんは「次は英語訳を出して、日英桜の秘話を世界に広めよう!」と祝杯を上げました、と書いている。

 それが実現したのだ。

アメリカ版
日本語版(岩波書店刊)

 英国に続いてアメリでも出版された。詳しくは菜穂子さんのHP: www.naokoabe.comで。

(堤  哲)

2019年7月28日

毎日新聞社にラグビー部があった!大毎にも東日にも

 これは1929(昭和4)年3月21日に浜松の全舷で行った「大毎」対「東日」のラグビー試合の際の記念写真である。

 写真説明をなぞってみる。

 「社会人になってからも久富さんはラグビーをやめなかった。大毎に入社してまもなく、久富さんは大毎、東日両社にラグビーチームを作った。そして両チームは毎年、東京大阪間のどこかの都市で試合をおこなった」

 久富達夫、東大ラグビー部の第2代キャプテン。東京府立一中→一高→東大工学部→卒業後、東大法学部政治学科に再入学→1925(大正14)年3月卒業、4月大阪毎日新聞社入社。26歳だった→社会部→26(大正15)年4月アフリカに特派。「東アフリカの旅」を大毎に連載→27(昭和2)年満州・北支に出張。上海から帰国する船に、蒋介石が密かに乗船しているのを知ってインタビュー。宋美齢と婚約をしていて、特ダネの「時の人」になった→政治部兼本山彦一社長の秘書。柔道5段のボディーガード?→27(昭和2)年東京日日政治部→34(昭和9)年6月政治部長。35歳である。

 政治部長時代の活躍ぶりは、牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」2013年(平成25年)11月1日号追悼録(506) http://ginnews.whoselab.com/131101/tsuido.htm「特ダネ号外を出した久富達夫さん」を読んでいただくとして、40(昭和15)年8月に退職、内閣情報局次長となる。

 総理大臣近衛文麿から「貰い」がかかり、愛国者の久富は「この時機、ピッチャーからキャッチャーにポジションが代わったようなもの。チームは同じです」と話していた。

 読売新聞の「昭和史の天皇」に久富の功績が2つ紹介されている。「内閣情報局次長として、広島に落とされた新型爆弾は原爆であると閣議に報告した」(陸軍は特殊爆弾として戦争継続を主張した)ことと、敗戦の混乱を避けるため「終戦の玉音放送を進言した」こと。

 戦後、公職追放されるが、1964年東京五輪の際は国立競技場の場長だった。1968(昭和43)年没、70歳。

 写真を見てもらいたい。後列中央の背の高い男の左、恰幅のよいのが久富だ。背の高い男は、1922(大正11)年にラグビーの第1回早慶戦を行った時の早大マネジャー中村元一。中央気象台で過去のデータを調べて、「晴れの特異日」11月23日開催を決めた男だ。

 中村の右が野球殿堂入りの元慶大の名投手・小野三千麿。もうひとり野球殿堂入りの桐原真二もいる。

 「東日」には岩下秀三郎(慶大)、柳茂行(明大)らのラガーメンの他、明大の初代応援団長相馬基らが写っている。毎日新聞は人材を揃えていた。 大毎ラグビー部は1926(大正15)年1月、関西の実業団チーム第1号として創部。記念写真の2か月前、29(昭和4)年1月には、近鉄の前身大阪電気軌道(大軌)ラグビー部のファーストマッチの相手となり、6-3で勝利している。強かったのである。

 「大毎」は、現在花園で開かれている全国高校ラグビー大会を1918(大正7)年に始めている。久富が入社してラグビー部創設は当然のことに思われる。

 実は、この写真、8月早々に発売される『国鉄・JRラグビー物語』(交通新聞社刊、@1,800円+税)に掲載されているのだ。その第5章は「大鉄・近鉄・大毎」である。

 著者は小生。書店にあったら、見てください。

(堤  哲)

2019年7月15日

ハワイの日本語新聞「日刊サン」1面に高尾義彦さん

 夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 とおい空……。

 これは、童謡「夏の思い出」(江間章子作詞、中田喜直作曲)の歌詞の一節だが、7月になると、「蝉が鳴く頃」と、政府高官逮捕を予告したロッキード事件捜査当時の検察幹部の言葉を、懐かしく思い出す。 もう事件から43年が経過し、逮捕された田中角栄元首相が鬼籍に入って久しい(1993年死去)。

 後輩の新聞記者に昔話をしても、「私が生まれる前の話」とシラケる反応が返ってくる。それでも日本の政治史にとって、「戦後最大の疑獄」であることに変わりはなく、さらに現在の日米関係に共通する問題も内在し、語り継ぎたい。

 事件は、1976年2月に米上院外交委多国籍企業小委員会の調査・証言から、日本にもたらされた。捜査に乗り出した東京地検特捜部を、30歳の社会部司法記者としてフォローし、その頂点が7月27日だった。

 早朝、霞が関の検察合同庁舎正面玄関で、特捜検事に伴われて黒塗りの車から降りた元首相は、報道陣のカメラの砲列に、「いよっ」という感じで右手を上げ、足早に庁舎の中に姿を消した。

 たちまち、列島に大きな衝撃が走った。

 6月頃から、ロッキード社とともに日本の航空会社にトライスター売り込みを図った商社の丸紅や、この大型機を購入した全日空の社長らが次々と逮捕されていた。司法記者たちは、政治家をターゲットに、特捜部がいつ強制捜査に踏み切るのか、日々の夜回りで検察幹部と「禅問答」のような会話を繰り返していた。

 そのプロセスで検察幹部の口から洩れた言葉が「蝉の鳴く頃」だった。元首相逮捕の朝、検察庁舎向かいの日比谷公園では、蝉が盛んに鳴いていた。 検察が描いた事件の骨格は、ロッキード社が全日空へのトライスター売り込みのため丸紅を通じて元首相に働きかけを要請し、採用決定後の73年から74年にかけて4回に分けて5億円の賄賂を提供した、という構図だった(受託収賄罪)。

 首相就任直後のニクソン大統領とのハワイ会談(72年8月31日、9月1日)で、日米貿易不均衡の問題が議題になり、航空機購入の話が両首脳間で交わされたとの疑惑が伏線として存在し、いまも解明されない歴史の謎となっている。

 捜査が開始された2月に、最初にクローズアップされたのは、ロッキード社の秘密代理人として巨額の報酬を受け取っていた児玉誉士夫氏の存在であり、日本政府がそれまでに米国から購入してきた戦闘機などの売り込みに、この右翼の大物が関与した疑惑だった。

 日本の航空産業は、第二次大戦後の占領期に、敗戦国として開発や製造を禁止され、その後も低迷期が続いた。1970年代まで戦闘機の購入は、米国メーカーの機種を選択するしか方法がなかった。それが、次期対潜哨戒機(PXL)の選定をめぐって、1972年2月の閣議は、国産化の方針を決定し、転換期を迎えた。

 ところが田中首相就任後である同じ年の10月に開かれた国防会議議員懇談会では「国産化白紙撤回」の方針を確認。政府は2年後にはロッキード社のP3C オライオン導入に舵を切った。 米国議会の暴露で、秘密代理人・コダマには21億円にのぼる報酬が支払われたとされた。

 メディアの関心も当初はP3Cに集中し、所在不明だった児玉捜しに手を尽くした。結局、児玉は世田谷区の自宅にいることが分かり、特捜部が取り調べに乗り出したが、主治医は脳梗塞と診断、真相の解明は進まなかった。

 児玉周辺では関係書類の焼却など証拠隠滅の疑いも指摘され、脱税による起訴には漕ぎつけたものの、それ以上の捜査の進展はなかった。焦点の人物は謎を抱えたまま裁判中に亡くなった。

 作家、真山仁さんが『ロッキード 角栄はなぜ葬られたのか』を週刊文春に連載中で、一部取材に協力したが、米国からの軍用機購入の歴史を洗い直し、捜査がトライスター売り込みをターゲットにした経過に疑問を投げている。

 軍用機ではなく民間機の売り込みに絞った捜査は、米国側から提供された極秘資料に「TANAKA」の名前があったことなどが契機となり、一方のPXLの問題が捜査の対象から消えた真の事情は、いまだに明らかになっていない。特捜部の捜査結果が、米国にとって望ましい結果になったことだけは否定できない。

 話は一気に現在に飛ぶが、米国のトランプ大統領は国賓として来日した5月、安倍首相との会談後の記者会見で、日本がF35ステルス戦闘機105機を米国から購入する、と明らかにした。ロッキード・マーティン社を中心に開発された機種。

 日本にとって1機100億円を超える買い物に税金をつぎ込むわけで、大統領はG20サミットで来日した際にも、「防衛装備品の(日本の)購入について協議したい」と述べている。 軍用機や武器を、米国が日本に売り込む構図は、ロッキード事件以後も変わっていない。

 43年前、PXLをめぐる日米の謎が解明されていれば、という思いを抱きながら、安全保障の問題を含めて、国際情勢の動向を見つめている。

(日刊サン 2019.07.13)

 ――日本にいながらハワイの新聞がよめるのですからいい時代です。

(堤  哲)

2019年6月27日

東日印刷の「アスナビ」佐藤凌選手に応援を!

2019年6月27日、日本陸上選手権LIVE画面から

 9秒97の日本記録を持つサニブラウン・ハキーム(20=米フロリダ大)の快走ぶりを見ようと日本陸上選手権のLIVEを見ていたら、走高跳決勝に東日印刷のアスナビ選手・佐藤凌クン(24歳)が出てきた。

 ユニフォームに「東日印刷」。残念ながら第3位に終わったが、「JAL」「味の素AGF」と有名ブランドにつぐ「東日印刷」である。

 佐藤選手のことは、すでにこの毎友会HPで紹介しているが、改めてプロフィールを。

 1994年7月21日生まれ、新潟県長岡市出身。

 東海大学を卒業して、2017年4月1日に東日印刷に入社した。

佐藤凌選手の見事なジャンプ!

 目標は、「2020東京オリンピックの陸上走高跳でメダル獲得」というから頼もしい。

 「アスナビ」とは、日本オリンピック委員会(JOC)が実施しているトップアスリート就職支援ナビゲーションの略称。企業の支援を望むトップアスリートと、会社の活性化やブランド力の強化を図りたい企業との採用をマッチングするのだ。

 東日印刷も本社は江東区越中島だが、2020年東京五輪で江東区内に9競技の会場ができる。アスナビ採用が、従業員の一体感醸成に必ずや繋がるだろうとの思いから、2015年5月にJOCと江東区が共催したアスナビ説明会に初参加、佐藤凌選手と出会った。

 毎日新聞グループ全体で応援したいものだ。

 跳べ佐藤選手! あと15センチだ、メダル獲得を確実にするには。

(堤  哲)

2019年6月17日

「毎小」に連載小説を書く予定だった田辺聖子さん

毎日新聞6月17日付夕刊から

 おセイさんが亡くなった。6月6日、91歳だった。

 田辺聖子さんは、毎日小学生新聞の愛読者だった。「毎小」が創刊60周年を記念して発刊した『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』(NTTメディアスコープ、1997年)に、寄稿文が載っている。全文を紹介する。

 なつかしい「チンペラ新聞」

 小学生のころ、私はずっと「毎小」を取ってもらっていた。弟も妹もそれを読んだ。連載小説もたのしんだが、歴史・地理・理科の記事は、かみくだいておもしろく説かれているので、学校の勉強より身についた。私は活字中毒の子どもだったから、新聞の隅から隅まで読むのであった。

 子どもたちの夕食は早いので、大人が晩ご飯のとき、ちょくちょく店番をいいつけられる。(私のうちは写真館であった。夜、写真を撮りにくる人はいないが、出来あがった写真を取りにくる人はある)。私は店番がいやではなかった。ストーブは暖かだし、電燈は明るいし、いつも祖父や父が座る事務机の回転椅子はくるくるまわって面白いし、何より部屋は広いから両手を大きく拡げて「毎小」を捧げ持ち(大人がやっているように)顔をあちこち動かして、好きな記事を拾い読みできるってもんだった。

 あるとき、晩ご飯を終えた祖父が事務所へきて、私のそんな姿を見、
 「チンペラが一人前の格好をして、チンペラ新聞みよるわ」
 と抱腹した(古い大阪人はチンピラといわす、なぜかチンペラという)。私は小学四年か五年くらいだったろうか。チンペラ新聞は弟や妹にひきつがれ、ながく家にあった。

 三十代の私は毎小編集部にいた瀬川健一郎氏の知遇を得、もしかしたら毎小の連載小説を書かせてもらえるかもしれぬ、ということになり、私はわくわくして順番を待った。

 ――まさにそういうとき、芥川賞をもらってしまった。とたんに書かねばならぬ原稿が押し寄せ、児童小説連載の夢は遠のいてしまった。——しかし「毎小」はなつかしい、私がいまも新聞好きで、テレビより新聞にしたしむのは「毎小」のせいかもしれぬ。

 おセイさんが第50回芥川賞を受賞したのは、1964年、36歳だった。もし芥川賞をとっていなかったら、「毎小」に連載小説が載った?

 担当の瀬川健一郎氏をネットで検索すると、大毎社会部出身で元和歌山放送社長・会長の北野栄三さん(89歳)が大阪北野高校の同窓会「六稜会」HPで大先輩の瀬川さん(1989年没、76歳)の思い出を語っていた。

 瀬川さんは北野中学から東大の美学を卒業、小学生新聞=1936(昭和11)年12月22日創刊=の生え抜きで、学生新聞の副部長(デスク)をしていた。その後編集長?

 「手塚治虫が世に出るきっかけを作ったのも瀬川さんやったと僕は考えているんです」

 漫画家・手塚治虫が「毎小」デビューをしたのは、1946(昭和21)年1月4日から3月31日まで連載した「マァチャンの日記帳」である。

 瀬川さんは作家の織田作之助と親しく、小説のモデルとして登場する。

 「織田作は二度結婚してます。最初のは長い恋愛のあと戦争中に結婚してるんですが、そのとき瀬川さんが仲人をするんです。一番親しかったと思いますよ」

瀬川健一郎氏(六陵会HPから)
左から織田作之助、白崎禮三、瀬川健一郎各氏

(堤  哲)

2019年6月16日

週刊文春6月20号に板垣雅夫記者のロッキード事件取材秘話

福田太郎氏の病床での証言を報じる紙面(左)=『毎日新聞 ロッキード取材 全行動』から

 NHK社会部の司法記者だった中尾庸蔵氏から電話があり、作家の真山仁氏が週刊文春 に連載しているノンフィクション「ロッキード」の取材に協力してくれないか、と頼まれた。新潟勤務時代に一緒だった中尾氏はロッキード事件当時、東京地検担当だったので、「自分は取材範囲が狭く、遊軍取材班にいた板さんにお願いしたい」というのである。

 その後、文春の編集者から電話があった。私は当初、会ってお話しするような材料はない、電話でしゃべるから、それでいいじゃないの、と断った。編集者は、作家の真山が会いたがっている、というので引き受けることにした。

 プレスセンターで真山氏と文春の編集者と3人で会った。真山氏は、40年以上前に刊行された『毎日新聞 ロッキード取材 全行動』の本を持参し、そこに何十枚もの付箋が付けられていることに驚いた。会話の中でも、実に多くの資料にあたり、事件のディテールを含めて深い知識を持っていた。かつて中部読売の記者をしていたという。

 その後、真山氏と編集者から「板垣さんが、事件のカギを握っていた福田太郎氏を追いかける取材話を聞いて、その臨場感に感激しました」と同じようなことを言ってきた。そんなつもりはまったくなかったので、はてどんなことかな、と自分では不思議だった。

 その時の取材結果は6月20日号の週刊文春に掲載された。私は実名で登場し、「76歳の板垣は、溌剌として、今でも事件が起きれば駆けだしていきそうだった」と紹介された。この記述は元社会部記者として率直に嬉しかった。

「すき間産業」の取材体験が効果的だったと大学校友会のサロンで講演

 もう40年以上前の事件について週刊文春から取材されたきっかけは、たぶん2年前、10人ほどを相手にロッキード事件について話した地元でのミニ講演会だったと思っている。早稲田大学校友会の逗子葉山稲門会で毎月、「早稲田サロン」を開き、会員たちが交互に現役時代の経験談を話している。新人会員の私は、講師が病気などで来られなくなった時のピンチヒッター役として登録していた。講演の機会は意外と早くやってきて、ビールで歓談しながらロッキード事件取材のよもやま話をした。

 その主な内容は、ロッキード事件前の警視庁取材担当時に、政治家らの圧力による事件つぶし・もみ消しが横行していたこと。警視庁の捜査員からネタが取れないので、銀行総務部や中小証券、興信所、企業情報発行人など新聞社にとって「すき間産業」を取材し、それがロ事件の取材に役立ったこと。アメリカから情報がもたらされたロ事件は既にその概要が国民に知られているので政治家の圧力による事件つぶしはできないと確信したこと。ロ事件を取材していてアメリカのカゲを何となく感じていたこと、などだった。

 しかし、この時の私のミニ講演は不評だった。講演の最後で私は「ロッキー事件の摘発によって、日本の政財界を取り巻く暗部が取り除かれ、日本は比較的きれいになった。これは結果的にはアメリカのおかげかもしれない」と私見を述べた。ところが海外勤務経験者も多かったサロンの出席者は「アメリカのおかげ」に猛反発した。「そんなことはない」「アメリカは日本のためを思って行動するはずがない」「日本の世の中はきれいになんかなっていない」と、酒の勢いもあって激しい反論だった。たまたま初めて参加していた元大学教授もあきれるほど騒がしい発言が続いた。

逗子のミニ講演が鎌倉、藤沢、横浜、東京の講演会と広がっていった

 こっちは無料で取材体験をしゃべっているのだから少しは遠慮しろ、と不機嫌になったが、捨てる神あれば拾う神ありである。ありがたい反響は意外なところからやってきた。このミニ講演を聴いた人のクチコミで知ったという鎌倉市の50人ほどの勉強会から声がかかり、同じテーマでしゃべってくれ、と言われた。鎌倉市後援の公的勉強会だった。見る人はちゃんと見ていたのである。

 鎌倉の会場で話をすると、今度は藤沢市と横浜市の方から声がかかり、70人、100人を相手の講演会を頼まれた。藤沢市の会場では、席の前方にロッキード事件当時の社会部長、牧内節男大先輩が「陸士の同期生から誘われた」と言ってドンと座っていた。これでは釈迦に説法ではないか。緊張からノドがカラカラになり、逃げ出したくなった。

 講演依頼はその後も続き、三井企業グループ各社のOB会では都内の某三井企業本社で80人近くを相手にしゃべった。三井物産はアメリカからの航空機輸入も扱っており、ロッキード事件の内情については私よりはるかに詳しい人もいたが、元第一線現場記者の奮闘ぶりを興味深く聴いてくれた。さらに、その後は神奈川県内のロータリークラブからも頼まれて、当時の自民党政治とロッキード事件について話をした。

 とにかく、この事件の世間の関心は40年以上たっても、ものすごく高いと思った。田中前首相逮捕という昭和の衝撃的大事件だったこと、何年か前から再び田中角栄元首相礼賛の本が出回っていたこと、などから、いまだに人々は事件に興味を示し、熱心に耳を傾けてくれた。

 10人余のミニ講演会から次々と大きな講演会に広がつた反響には自分でもびっくりするほどだった。そのことを今年の年賀状で元NHKの中尾氏に「昨年はロッキード事件の講演を5回もしました」と書いた。彼は新潟勤務時代から田中角栄について取材し、厳しい目を向けていた。世間の田中礼賛ムードを鋭く批判する本を2年ほど前に出版していた。

 中尾氏は、週刊文春からロッキード事件連載の取材に協力してほしいと言われ、私の名前を思い出して、冒頭の電話につながったのだろう。私はそう思っている。ご縁とは誠に不思議なものである。まったく予期しない方向へ発展するものだ。

(板垣 雅夫)

2019年6月3日

活躍する「ヤメ毎」ライター

 月曜日朝、一番に読む山田孝男特別編集委員の「風知草」。今朝は《「日本国紀」をめぐって》 。

 国民のある層が熱心に読む本を、他の層は読まないし、関心がない。
 作家、百田(ひゃくた)尚樹(63)の近著「日本国紀」(2018年11月、幻冬舎刊、累計65万部)も、そういうベストセラーである。

 まず紹介しているのが、ニューズウィーク日本版6月4日号「百田尚樹現象」。
 ノンフィクションライター、石戸諭(さとる)氏(35)のリポートである。
《百田と幻冬舎社長のインタビューを含む豊富な取材と公平な書きぶりで、ほぼ完売したそうだ》

 先週、図書館でこの特集を読んだ。百田現象がよく分かった。
 記事を読んでいて元毎日新聞の記者であることを知った。
 ネットで検索すると、1984年生。立命館大卒業後、毎日新聞→BuzzFeed Japan→個人事業主。記者/ノンフィクションライター。『リスクと生きる、死者と生きる』は読売新聞「2017年の3冊」に選出されたとあった。

 毎日新聞を途中退社して、他紙や他メディアの記者、ノンフィクションライターとして活躍している人たちを「ヤメ毎」と呼ぶそうだ。
 明治・大正・昭和の戦前は、新聞記者の転社は当たり前のようにあった。
 例えば読売新聞「編集手帳」の名コラムニスト高木健夫。記者になったのは徳富蘇峰の「国民新聞」。1927(昭和2)年だった。駆け出しの山形県米沢通信部から社会部。デスクに鈴木竜二(のちプロ野球セ・リーグ会長)がいた。警視庁を担当して、「読売新聞」にスカウトされる。そのあと毎日新聞の前身「大阪毎日新聞」(大毎)の社会部記者に。再び東京に戻って「二六新報」→古巣「国民新聞」→1930(昭和5)年満州「大新京日報」→「読売新聞」新京支局長。「2・26の時は東京社会部にいた」。社会部デスクから東亜部デスク→1938(昭和13)年北京で大毎元社会部長が創刊した「東亜日報」へ。戦後、引き揚げてきて「読売新聞」に戻ったのが1946(昭和21)年6月。「編集手帳」を担当したのは、49(昭和24)年3月1日からだ。
 「新聞記者ほど面白い仕事はない」
 これだけ自由に飛び回れば、そう思うのが自然だ。

 鉛筆1本の人生である。「社畜」を嫌った「ヤメ毎」記者の活躍を祈る!

 石戸氏は、自身のツイッターで「風知草」に取り上げらたことに触れている。
 《古巣・毎日新聞の名物コラム「風知草」にニューズウィーク「百田尚樹現象」を取り上げていただきました。山コラムの後半で山田孝男さんが指摘しているように、近現代史は現代政治と結びついていて、歴史認識は論争の火種になります。だからこそ、現象を分析する意味があるというわけです》

(堤  哲)

2019年5月15日

森正蔵著『あるジャーナリストの敗戦日記』

 5月14日朝刊2面の「火論」で玉木研二客員編集委員が「大本営発表という麻酔」で森正蔵著『あるジャーナリストの敗戦日記』から引用している。

 <満州事変以来、新聞記者の活動が窮屈になつて、つひには発表ものだけで新聞を造ると云(い)ふ程度にまで押込まれて来た。記者はそこで特に勉強しなくてもやつてゆけることになり、殊に取材の苦心、記事の書きこなしなどといふことを知らなくなつてゐる。若い記者の再教育、新しい記者の養成が当面の大きな問題にとなつて現はれて来たのである>
=1945(昭和20)年8月25日の日記。

 玉木は、横浜の日本新聞博物館に展示された戦時新聞を素材に、大本営発表を基に、記事、写真、地図を展開した「殲滅(せんめつ)」紙面を批判している。

 1942年6月、「ミッドウェー海戦で致命的大敗をしたことをあたかも勝ったように取り繕ったものだが、記者たちが発表を深く疑った形跡はない。むしろ、景気よく戦勝ムード一色の紙面作りに、高揚していたかのようにも映る」と綴る。

 詳しくは「火論」を読んでもらいたい。

 森正蔵は敗戦まで論説委員をつとめ、辞表を提出している。

 「私儀今次戦争期間を通じ戦争に直接関係する社説を執筆し来り候処、戦局は我が敗北を以て終結致候段顧みて責の軽からざるを思ひ茲に辞表願出候也」

 しかし、辞表は受理されず、社会部長を命ぜられる。

 森正蔵が社会部の記者とともに執筆、敗戦4か月後に出版した『旋風二十年―解禁昭和裏面史』は一大ベストセラーとなった。「抑圧された言論、歪められた報道」で国民に知らされなかった「真実」を明らかにしたものだ。

 玉木客員編集委員が引用した『あるジャーナリストの敗戦日記』の続編として、森の息子で元毎日新聞編集委員の森桂(77歳)は父親の残した42冊の日記を3年がかりで『挙国の体当たり―戦時社説150本を書き通した新聞人の独白』(2014年、毎日ワンズ刊)を発刊している。

(堤  哲)

2019年5月7日

「EEE-CHEE-ROH」③

 佐藤健著『イチロー物語』の元になった毎日新聞連載「わたしの生き方 イチロー」(1995年3月14日~7月1日)で写真を担当した荒牧万佐行元写真部編集委員から連載で紙面化された写真が届いた。

 写真説明は、左上から時計まわりに、
「体をほぐすイチロー」。イチローストレッチである。
「イチローは帽子を後ろ向きにかぶるのが好きだ」
「ユニフォームを脱ぐと鋼鉄のような体」
「守備につくと風向きをチェック」

 それにしてもイチローは若い。あどけない。21歳の素顔である。

(堤  哲)

2019年4月26日

『ロッキード事件取材全行動』と『児玉番日記』

 「週刊文春」のGW特集号に『毎日新聞ロッキード取材全行動』(毎日新聞社会部著、講談社1977年2月刊)が出てきた。

 ロッキード事件の第一報が1976(昭和51)年2月5日朝日新聞朝刊2面に掲載された日のことを「ロッキード角栄はなぜ葬られたか」連載第45回で綴っている。

 ――5日未明の毎日新聞の様子は、同社社会部がまとめた『毎日新聞ロッキード取材全行動』に克明に記されている。

 ロッキード事件報道は、ここから始まった。

 毎日新聞編集局では、朝刊が降版したあとに外信部のデスクが、UPIから配信されていたといってテレックスを社会部デスク(故原田三朗)に持ってきた。

 米上院チャーチ委員会で「児玉誉士夫がロッキード社から708万5千ドル(約21億円)を受け取った」事実が明らかになったのだ。

 翌日の朝刊に入れたのは朝日新聞だけで、それも2面だった。

 原田は夕刊での紙面展開のため、警視庁クラブをはじめ警察庁、司法クラブ、航空・運輸担当者に電話連絡した。

 ――当時、毎日新聞の司法クラブ担当だった高尾義彦は、早朝に電話で叩き起こされた。

 「毎日新聞の司法クラブ員で一番の若手の30歳で、検察担当でした。朝日の記事を読んですぐに、検察庁に向かいました」

 ――「最初のミッションは、児玉の居場所を探すことでした」と高尾。

 ここで『児玉番日記』が紹介される。最初はサツ回りが交代で児玉邸を張っていたが、そのうちに首都圏をはじめ地方支局から応援を得た。

 張り番の記録を大学ノートに残した。

 《体と神経がすり減るのに、新聞に児玉番の記事が1行も出ない日がほとんどだ。
  忍び、耐える。》

 これをサブデスクの故根上磐がまとめ、毎日新聞出版局から出版したのだ。

 毎日新聞の最初の特ダネが「児玉、臨床尋問へ」。3月5日夕刊1面トップだった。

 故才木三郎が掴んだ。

 午後2時55分、黒塗りの乗用車が児玉邸通用門前に止まり、検事らしい2人が階段を駆け上って通用門をくぐった。

 しかし、東京地検は、この事実さえ認めない。むろん発表もしない。

 『全行動』にこうある。《ふつう、夕刊で抜かれた記事は、夕方、印刷する朝刊の早版までには追いつくのが通例である。結局、他社が確認できたのは、検察幹部の家へ夜回りに行ってからのことだった。これだけ、鮮やかな抜きっぷりというのは、まったく珍しいことだった》

(堤  哲)

2019年4月9日

「EEE-CHEE-ROH」②

 佐藤健著『イチロー物語』を読み返してみた。

 ――実物のイチローを初めて見たのは94年秋である。当時、私は新聞で「若者観察学入門」という記事を連載していた。若者としてのイチローを観察しに所沢の西武球場へ出かけて行ったのだ。

 これが書き出しである。

 毎日新聞の連載「わたしの生き方 イチロー」は1995年3月14日~7月1日とある。

 95年10月5日発行で、手元の本は、2週間後の10月25日5刷となっているから、売れ行きがよかった。

 イチローは1973(昭和48)年10月22日生まれ。体重が4280gもあった。

 二男なのに、「一朗」だ。

 3歳の時に野球に出会い、チチローは右利きのイチローを左バッターに変えた。

 「何といっても左バッターは有利ですから」

 小6の時に書いた「夢」という作文。

 ――ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校で全国大会へ出て、活躍しなければなりません。活躍できるようになるには、練習が必要です。ぼくは、その練習にはじしんがあります。ぼくは3歳の時から練習を始めています。3歳~7歳までは半年位、3年生の時から今までは365日中360日は、はげしい練習をやっています。…けいやく金は1億円以上が目標です。

 愛工大名電で春、夏甲子園に出場。1991年ドラフト4位でオリックスから指名された。契約金4千万円、年俸430万円。

 プロ入り3年目。新監督仰木彬が、登録名をイチローに変えた、といわれる。

 「3試合で5本のヒットが打てる」とコーチから太鼓判を捺されていた。

 ミスタータイガース藤村富美雄がシーズン140試合制の時につくった最多安打191本を115試合目に追いつき、130試合のシーズンを終えて210安打、本塁打13本、打点54、盗塁29、打率3割8分5厘。史上最年少でMVPを獲得した。

 これから先の活躍は、ご存知の通り。今回も国民栄誉賞を辞退したというから立派だ。

(堤  哲)

2019年4月5日

センバツ優勝「東邦」学園の理事長は毎日新聞OB

 「平成のセンバツ 最後の栄冠も東邦に輝く」

優勝を喜ぶ榊直樹理事長

 これは学校法人東邦学園(名古屋市)のHPにアップされた記事だが、東邦のセンバツ優勝は30年ぶり。平成の始まりと、終わりにセンバツを制したのである。

 センバツ優勝回数も最多の5度目である。アルプススタンドの応援席でこの快挙を見届けた同学園の理事長・榊直樹さん(68歳)は、元毎日新聞の政治部記者。元号取材班の1人として、現在の小松浩主筆らとともに「平成」を追った。

 「因縁を感じますね、平成の最初と最後の優勝。これほどの感激はありません」

 毎日新聞の朝比奈豊会長が浦和支局長時代の次長(デスク)。「彼はがんばり屋で優秀な次長でした。毎晩、支局に泊まり込み状態で県版の内容を販売店にファックスして愛読者拡張に貢献してくれました。頼りになるデスクでした」と朝比奈会長。

 毎日新聞での記者生活は32年。政治部デスク、政治担当論説委員、編集総センター室長などを歴任した。

 2006年に曽祖父の創設した東邦学園に転じ、2008年から理事長。2009年から東邦高校校長を2年間兼務し、2015年4月には愛知東邦大学学長に就任している。

 おめでとう!榊理事長!

(堤  哲)

2019年4月3日

脊椎6個も骨折手術 闘病記 2019/3/24

 2011年1月末にリタイアした。それから1か月半後に東北大震災が起きて、忘れられない年になった。

 さらに4か月後、私は自宅で脳梗塞になって救急車で病院に運ばれて、2週間入院した。回復はしたが、長年の疲労も重なって、心身脳力は落ちて日常生活のペースはなかなか戻らなかった。

 さらにさらに、2016年8月には乳がんの手術をしたが、術後すぐに動いて炎症を起こして再入院、結局2か月をまた病床ですごすハメになった。

 がんは克服したが、足の筋肉が衰えて歩くことが難しい。少しずつ自己流トレーニングで長い距離も歩けるようになったら、こんどは脊椎をやられてしまった!

 というわけで、竹橋を離れてからの8年のほとんどを、病気を道連れに過ごすことになっている。その間、『サンデー毎日』連載、文春新書上梓と「終活」ができたことは、周囲の方々のご支援の賜物、感謝、感謝です。

 さて、最新情報の「脊椎圧迫骨折」の闘病記をお届けしたい。高齢社会のほとりで出会った「災難」は、寝たきり・介護・入院・リハビリなどなど、カケラではあるけれど、やがて来る日々の予行演習みたいなものだと、反省も込めて向き合っている。

 お役に立つ情報もあるかと思い、悪魔のような痛みの記憶のなかから、3か月を再現してみた。

☆  ☆  ☆

 気の向くままにバス停に立って、やってきたバスに乗る。都バスを利用すると、「遠出」の選択は広がる。高齢者用のシルバーパスのおかげで、懐具合を気にせずに出歩ける。

 2018年12月22日、冬至の午後。友人宅を訪ね、バス停近くまで来たら、目の前をバスが! 乗り遅れては大変と猛ダッシュして、間に合った。長いこと、ゆっくり歩いて、青信号でも時間の余裕を見てわたるほど用心していたのに、これはもう長年身体に刻み込まれた「条件反射」としかいえない危険行為だった。しかし、なんという反応もなく帰宅して、小さな「勇気」は忘れてしまった。

 夜更けに、ベッドで寝がえりを打とうとした瞬間、ギャーっと声をあげるほどの痛みが襲った。胸の骨組みがバラバラになってしまうように激しく揺らいで、そのままうずくまり、どれほど経ったか、ようやく少し身動きできた。それでも痛みが治まったので、翌日はクリスマスイヴの日曜日だから、病院は何処も休みだろうと、じっと、そっと、ベッドに横たわって過ごしたが痛みは治まらず、救急外来を訪れた。ヘルパーさんに頼んで同行してもらった。しかし、担当が内科医だけとのことで、心電図と血液検査だけで内臓には問題はないと帰された。

 翌日に整形外科へという選択もあったが、救急外来で紹介なしなので1万円も取られていたため、また同じ請求を受けるのかと二の足を踏んで、鍼灸治療に行った。痛みは変わらなかったが、身体はほぐれて楽になった気分だった。しかし、ちょっと動くと激痛が襲う状態は変わらない。思い切って、友人が通ったという整形外科に、タクシーで出かけた。

 レントゲンを撮るだけで痛い! しかし、丁寧に診察してくれて、「リハビリを3か月ほどすれば痛みは消えるだろう」とのこと、痛み止めと湿布をもらって帰宅するが、近くのタクシー乗り場までも行けずに、クリニックの事務員が介助してくれた。この整形外科はAKAー博方式という独自のリハビリで、結果も良いといわれている評判に背中を押されて、二週間に一度の通院を始めた。

 並行して鍼灸治療も続けて年を越し、1月半ばになると、激痛が取れてきた。痛みはあるが、寝返りもできない状態から解放されて、また出歩き始めた2月末の朝、軽いはずの小さな椅子を持ち上げたとたん、ギックリ腰になって、動けなくなった。

 都内の高齢者向けのサービスに、警備会社にコールすれば、すぐに駆け付けてくれるシステムがあって、連絡して、警備会社からガードマンが駆けつけて、119番通報、救急車がやってきた。友人も駆けつけて救急車に同乗し、病院へ。ガードマンは同乗できないので、付き添いが必要になる。

 救急対応で入院、数日して歩けるからと退院させられ、自宅に帰ったが、その晩再び寝返りが打てない。痛み止めを手の届く枕のわきに置いておいたが、反対側を向いていた時に痛みが襲ったので、これを取ることができない。深夜ながら、近所の友人が助けてくれた。

 独り暮らしの知恵で、緊急事態が予想されるときは、携帯電話をパジャマのポケットに入れて取り出せるようにしておいたので、これを使って再び警備会社に連絡した。システムとしては、緊急用のボタンがついてペンダントともう一つの器械を手元近くにおいて、誰かの手が必要と思ったら、ボタンを押せばガードマンが駆けつける。しかし、手元にないとダメ、今回も警備会社には携帯で連絡し、ふたたび呼びだして救急車を呼んで医療センターに行った。

 今度も、痛みが取れたら帰宅、というふうなことをドクターが言うので、「入院!」と強く要求し、その晩から入った。有料個室だが、広くて新しい部屋が1日15000円、痛みがなければ快適ではある。生命保険で全額ではないがカバーできる。

 MRIの結果、脊椎6個に損傷があり、4個は完全に圧迫骨折、2個はスカスカ状態と血管がダメとかで、一度に手術、通常は2時間だが、倍はかかったようだ。局部麻酔ではあるが、意識はなく、終了後は痛み止めを必要としている。しかし、すさまじい痛みから解放されて、救われた。

 救急病院のリハビリ体制は完ぺきではないとのことで、リハビリに重点を置く病院に移り、現在は午前と午後にみっちりリハビリをしている。

 独り身で、身近に動いてくれる親族もなく、転院手続きはすべて救急病院のソーシャルワーカーと先方病院の事務方が進めてくれた。さらに、これまで介護予防システムの世話をしてくれたケアマネージャーが、介護申請もしてくれ、また、脳梗塞以来ケアしてくれるヘルパー事務所からヘルパーに来てもらって、退院や外出をサポートしてもらった。

 行政窓口に相談すると、困っているところは、かなりサポートしてもらえることを、高齢者はもっと知ったほうが、安心して暮らせると思う。それぞれの地方自治体でシステムは異なるが、選択できるものを利用したほうが、そしてできれば困ってからではなく、早めに調べておいたらいいかと、思っている。私は、脳梗塞のあと、「区報」の情報を頼りに支援を依頼したのが、今回の援護につながっていた。

(岩尾光代)

2019年3月26日

「EEE-CHEE-ROH」

 イチローがメジャーデビューをしたのは、2001年。マリナーズ球団は、日本からの新人ICHIROについて、「EEE-CHEE-ROH」と発音してください、とファンに広報をした。「ITCH―eee―roh」や「eee-CHEER-oh」では、ダメですよ、と注意をよびかけたのである。

 マリナーズはその年、116勝46敗。勝率7割1分6厘という驚異的な勝率を残した。1番・ライトのイチローは692打数、242安打、打率3割5分で、ア・リーグの首位打者、盗塁も56を記録して盗塁王にも輝いた。そしてMVP(最高殊勲選手)に選ばれた。

 誰がこれだけの活躍を予想しただろうか。

 イチローは引退の記者会見で、メジャー挑戦の恩人として、当時のオリックス監督の仰木彬の名前をあげた。1991年ドラフト4位で愛工大名電高からオリックスに入団した。

 契約金4千万円、年棒430万円。

 打者としての才能を見抜いたのは、オリックスのスカウト三輪田勝利だった。毎日新聞運動部の六車護元部長は、早大野球部の同期で親友だった。

           ◇

 宗教記者として有名になった佐藤健は、2002年暮れにがんで亡くなった。その病室にはイチローのカレンダーがかかり、サイン入りのスパイクを見せて「イチローが送ってきたんだ」と得意気だった。

2002年12月東大病院病室で

 佐藤健の著書に『イチロー物語』(1995年10月毎日新聞社刊)がある。六車運動部長のあっせんでイチローを取材、毎日新聞に長期連載したものをまとめたものだ。 沖縄のキャンプで「健さん、また二日酔いでしょう」とイチローからいわれるほど、イチローと親しくなっていた。

 編集委員室でよくイチローの真似をした。打席に入ってからの独特の仕草を、寸分違えずに演じるのだが、右でバットを構え、「イチローは左だぞ」と六車部長から茶々が入ったこともあった。

 佐藤健は、がんとの闘いを亡くなるまで毎日新聞で連載していて、もはや自身で執筆はできなくなって、社会部後輩の萩尾信也記者(のち日本記者クラブ賞を受賞)が病室で聞き書きをしていた。

             ◇

 写真をもう1枚。昨年6月20日、ヤンキースタジアムで私が撮った。ヤンキースとマリナーズの試合前。同行の日ハム球団の小嶋武士元社長がヤンキースに出向していた時に、キャッシュマン現GMと一緒に仕事をしていた関係で、GM室に表敬訪問したあと、グラウンドに降ろしてくれた。

2018年6月20日NYヤンキースタジアムで

 イチローはマリナーズの選手と一緒にストレッチをし、試合前の練習をしていた。試合が始まればベンチにも入れないのだから、ツライと思うのだが、引退会見では、試合に出ないのにチームに帯同して練習を繰り返していたことを評価していた。

 イチローの引退会見は、午後11時56分から始まり、85分に及んで、終了は午前1時20分過ぎだった。BS日テレで最後まで見てしまった。

 菅官房長官は翌27日の記者会見で国民栄誉賞を検討しているといったと伝えられる。2001年にも国民栄誉賞は検討された。その時は、イチローが「まだ28歳。発展途上」を理由に辞退している。

(堤  哲)

2019年3月1日

『ゆうLUCKペン』第41集に、反響第1号。

社会部の事件記者(知能犯の警視庁捜査2課担当)、サンデー毎日編集長を務めた牧太郎さんのブログ2月15日からーー。

「自由」とはなんだろう?毎日新聞の堀込藤一先輩に学んだ

 最近「俺は自由なのか?」と考えている。

 相変わらず自由にモノを書いているつもりだが……実は雁字搦め!という気分になることも、ないではない。すると、ちょっと落ち込む。

 このところ、同期生が次々に、この世を去り、俺にも「その日」が確実にやって来ると思うと……これから、どう生きるのか?

 何となく「不自由な余生」を予感したりする。

 この歳になると「自由に生きること」の難しさを、ことさら感じる。

 大体、俺にとって「自由」って、何だろう?

 昨日(2月14日)、三田病院で例の糖尿の検査をしている時も、そんな愚にもないことを考えていた。

 糖尿病で好きなものが食べられないのは、やっぱり「反自由」だ(笑)。

 仕事場に戻ったら、毎日新聞OBが作る同人誌「ゆうLUCKペン」が届いていた。

 なにげなく、パラパラと巡ってみたら

 【私にとっての「自由」堀込藤一】という作品が目にとまった。

 堀込先輩は東京、大阪、中部本社で広く活躍された方だが、年齢も離れ、名前ぐらいしか知らない。90歳の大先輩である。

 その大先輩が「生まれて初めて“自由”を意識したこと」を書いている。

 長野県神川小学校4年生の思い出。掘込少年が地面を赤く塗った友人の風景画に「赤い土なんかない。土は茶色だよ」とケチをつけた。すると先生は「夕焼けに照らされた土は赤く見える。澄んだ川も雨で泥が流れ込めば、黄色ににごる。見たまま、感じたままを自由に描くのが大切だ」と話した。

 この堀込先輩の「思い出」で、やっと「自由」の正体が分かったような気がした。

 「見たまま」「感じたまま」に、生きれば良いんだ。他人と違って良いんだ!

 当たり前のことかも知れないが……そう思ったら、ちょっと元気になった。堀込先輩、ありがとう。

 そうそう、血糖値の検査結果はまずまず。医師に「頑張りましたネ」と言われたが……以後、我が減量生活はどうなるのか?(笑)

(牧 太郎氏)

2019年1月10日

60年安保6.15の社会面をつくった三木正デスク

毎日新聞時代の三木正さん

 『新聞記者 山本祐司』(水書房2018年刊)に、牧内節男さんが追悼文を寄せているが、山本祐司さんが入社した昭和36年は「逸材が少なくない」として、その理由に、毎日新聞の60年安保6.15報道を挙げている。

 《6月16日朝の毎日新聞の紙面は朝日・読売と違って異彩を放っていた。それはなぜか。わが社は感情的な部分を削って、起こった事実だけを報道したのに、他社は編集局の幹部が原稿をチェックしたからである》

 《この紙面を見て有為な人材が毎日新聞に入って来た。山本君はその一人であった》と。

 では、この日の社会面は、誰がつくったのか。社会部長杉浦克己、当番デスクは三木正。

 《毎日新聞の紙面に対し、読者室にも販売店にも、感謝と激励の電話が寄せられた。しかし当時の社会部長は社長や編集局長から叱責を食った》とも書いている。

 毎月一回、毎日新聞5階の毎友会の事務局で、毎日カフェが開かれている。主は元情報調査部の松下礼子さんだが、ここの書棚で三木正さんの著作を見つけた。6.15社会面づくりのことも書いているが、三木さんは「直前まで各紙の先頭に立って安保闘争の世論をあおっていた対抗紙が、6月16日付朝刊で豹変した紙面づくりをした」と ショックを受けたことを吐露している。

 三木さんは、その後「サンデー毎日」デスクから編集長になるが、最大のヒットは「大学合格者高校別一覧」の掲載である。

 1964(昭和39)年3月末。編集長岡本博。デスクの三木は、帰宅の電車内で大学新聞の東大合格者の名簿を見ているうち「合格者を高校別に調べたら面白い記事になるかもしれない」。帰宅してすぐ編集部の増田れい子さんにペラ30枚(200字の原稿用紙で30枚)の記事を手配。自らは高校別の一覧表を徹夜して作成した。

 「これが東大合格ベスト20高校」

 5ページの特集記事だった。それが売れた。

 翌年は編集長になって、大学を広げて「有名大学へどの高校から入るか――出身校別合格者一覧」となった。

 三木さんは、サンデー毎日の発売日、都心のターミナル駅の売店を見て回っていたが、この号は、2日目にはどこの売店も売り切れだった、と書いている。

 社内から「教育の毎日が受験戦争をあおるような企画をやるのはケシカラン」という批判があり、筋の通ったタテマエ論に、説得力のある反論は難しかった、とも。

 この企画は、現在も続いている。「サンデー毎日」の売り物のひとつには違いない。

 もうひとつ、三木さんの当意即妙ぶりに感心したことがある。かつて「サンデー毎日」の売り物だった長谷川町子の「いじわるばあさん」連載開始のいきさつである。

 三木さんは編集長になって、連載「エプロンおばさん」の作者、長谷川町子さんに挨拶に行った際、《「エプロンおばさん」は「サザエさん」と同じホームマンガで、疲れたから、もうやめたい》といわれた。

 その時、とっさに《それなら「いじわるばあさん」をお願いしたい》と対案を出した。

 長谷川町子さんによると、「サザエさん」はヒューマニズム、「いじわるばあさん」は煩悩だという。自由奔放、果敢に世の偽悪をあばいて痛快無比。「サンデー毎日」で圧倒的な人気を誇った。

 三木正さんは、1990年8月27日没、70歳だった。

(堤  哲)

2018年12月21日

麹町寮の思い出

 弟と私の小学校の1学期が終わると同時に、我が家は甲子園から千代田区平河町、毎日新聞麹町寮の裏隣の借家へ引っ越した。

 その春、大阪本社から東京本社へ転勤した父は、麹町寮に滞在しながら新居を探していたが、寮母の小泉さんのお世話で、麹町寮の隣の借家へ住めることになったのだ。

 麹町寮を取りしきる寮母の小泉さんは、伝説の編集長の未亡人。一人娘であるお嬢さんの夫は、当時、毎日新聞に「教育の森」を絶賛連載中の学芸委員、村松喬さん(お父上は作家村松?風、甥御さんは直木賞作家村松友視氏)だった。そして村松夫妻は、我らが新居と同じ家主、同じ敷地の借家に、先にお住まいだったのだ。

 寮母小泉夫人の亡夫の伝説とは:

 第2次世界大戦敗戦後の混乱期、社受付に、抜身の日本刀を引っさげた右翼が、編集長との面会を求め、氏は素手で一人、敢然と対面し、右翼を追い帰し、毎日は事無きを得た。しかし、他社は対応を誤って大混乱に陥った。

 ― というものだった。

 とにかく寮母小泉さんはしっかりした方だった。父幸川彰が西部本社へ転勤になった折も、当初、私達家族は、父と一緒に北九州へ越そうとしていたのだが、家族は平河町に留まり、父が単身赴任になったのも、小泉夫人が、私達子供達、特に弟のために、今の教育環境を手離すべきでは無い。母と子供は留まるべき、と母を説得したからだった。

 麹町寮は、東京へ出張して来た社員の宿として、あるいは父の様に、東京へ転勤が決まり、新居を探す者の仮りの家としての役割以外に、盛んに宴会場として使われていた。

 宴会の夜はとてもにぎやかだったが、当時、静かな住宅街の平河町でも、そんなことを問題にする人はいなかったようだ。

 宴が終わりに近づくと、すぐにわかった。カラオケのない時代である。宴たけなわの頃に歌われるのは流行歌。やがてそれが軍歌になり、

 ―あの子はだ?れ、だれでしょね?
 ―夕焼?け、こやけぇの、赤トンボ?

 童歌になると、間もなく終わる。

 寮と我が家の間の、石塀の両側には、足場に木箱が置いてある。村松夫人がご母堂の小泉夫人との往き来に使っていたのだ。

 童歌が終わって静かになると、父が石塀を乗り越えて帰って来る。

(幸川 はるひ)

2018年12月3日

「竹橋通信」が丸谷才一さんにほめられた

客員編集委員 冠木雅夫さん

 毎日新聞の書評欄「今週の本棚」の評判がよいのは、こんなことにも起因している。12月3日付朝刊に掲載された客員編集委員・冠木雅夫さんのエッセーの再録。

 今は亡き作家の丸谷才一さんがプロデュースし、今も元気に続いている毎日新聞の「今週の本棚」が登場したのは1992年4月、ぜいたくな執筆陣の長文の書評と和田誠さんのしゃれた紙面設計で読書界をアッと言わせたものでした。英国流の書評文化を日本でも、という丸谷さんの提案を当時の編集局長が「ほいきた」と受け入れて始まった紙面です。私がデスクを担当したのは開始から3年半後、先生方とのお付き合いも含め楽しい時間を過ごせたと思います。

 週3ページをデスク1人記者1人という最小の編集部で切り盛りできた秘密は、「竹橋通信」というニュースレターにありました。竹橋は毎日新聞本社の所在地。A4判 10ページ前後で30人余の執筆者だけに週1回郵送するミニコミ紙です。掲載スケジュールや編集部に届いた新刊本のリストなどの連絡が主ですが、この「書評サロン」を維持するために大切なものがありました。あいさつ代わりの400字から800字ほどの前説、落語でいえば枕です。なにしろ読者はそうそうたる皆さん。「ゆめゆめ手を抜かないように」というのが前任者からの引き継ぎでした。少しは気の利いたものをと力んでみたものの、浅学非才の身、埋めるのがやっとだったと思います。

 苦し紛れに書いたのが編集部の楽屋話。たとえば、ある先生に誘われ、ぎっくり腰をおして京都の都おどり見物にいった話。痔(じ) の手術で休んだら同病の先生が次々と名乗り出た話。さる会社の引っ越しに遭遇し、不要品の椅子やクツベラをもらってきた話。故郷の喜多方で朝ラー(朝のラーメン)を食べてきた話。まあ、どうということのないものばかりでした。

あの言葉は一生の宝になりました

 そうこうするうち迎えた97年4月、書評欄関係者が一堂に会するパーティーで、あいさつに立った丸谷さんがこう切り出したのです。

 「この間、村上陽一郎さん(執筆者の一人、科学史家)にお目にかかりましたら、『竹橋通信の前説の文章、面白いですね』とのことでした。たしかにその通りで私も毎日曜、あれを楽しんでいます。うちのものも愛読者でして、わたしが読み終わるとすぐ、読んでクスクス笑って、それから『短評一つ書いてあげなさいよ』などといいます。実にあっさりと冠木さんの術中にはまっているわけです」(短評とは短い書評、不足して前説で訴えることもありました)

 身に余る賛辞に私は身を縮めていましたが、話は3人の前任者も含めて「知的で明るい文体で書評執筆者の趣味に合っている」と進んでいき、さらに、他の新聞が同じことをしたらということで、

 「もしも築地通信社の前説ならば、戦後民主主義の精神と読書人の使命(笑い)なんてことを書く、大手町通信の前説ならば、今週のジャイアンツに一喜一憂してばかりいる(笑い)。あまり面白くないでしょうね」と続いたのです。丸谷流のジョーク全開でした。

 いや、なぜ私がスピーチを克明に再現できるかと言うと、当時の「竹橋通信」のコピーを今も大事に持っているからです。会合でのスピーチも定番記事でした。

 丸谷さんは月曜午後に電話をかけてきて、書評欄を品評するのが常でした。執筆者には手紙で注文を付けたり称賛したりしていました。怖い半面、やる気の増す人もいたでしょうが、そうやって書評チームを運営していたのです。私も術中にはまったのですが、それはともあれ、あの言葉は一生の宝になりました。私の当時300号を超えた「竹橋通信」、今では1320号を迎えています。

2018年11月8日

父の思い出

 私の父は幸川彰(1996年没、70歳)、1996年に70歳で亡くなりましたが、「幸川」と名乗ると、「あぁ、あの幸川さんの娘さんですか」といまだに言われます。先日、竹橋女子会に出席したおりに、「父の思い出」を書くようにと勧められて、二つほど書きました。これも、毎日新聞のささやかな「記録」になればいいなぁと思いつつ。

父の思い出 その1「スクープ記事を作る」

 「ほら見てみい、すごいやろ!」父が広げた紙面の上半分を大きく占める写真には、外国の空港の滑走路で、機体がポッキリと二つに折れた旅客機が写っていました。

 整理部にいたころです。

 父が語ったところによると、その日は特に大きな出来事が無かったので、紙面のトップを何にするか悩んでいたところへ、アメリカの空港で起きた、センセーショナルな光景の航空機事故の写真が、外電で配信されて来たのだそうです。

 これでいこうと閃めき、早速、米国の駐在経験もあり、名文家で知られた外信部の山内大介さん(のちの社長)に、「これトップにするから記事書いてくれへんか」と依頼。その空港にも詳しい山内さんは、まるで事故現場を見て来たように臨場感たっぷりな記事を付けました。大きく衝撃的な写真と、大介さんの活き活きとした文章で、大事件の紙面はできました。

 半日遅れで他紙は続々と後追いし、機体の損傷の大きさにもかかわらず、奇跡的に人的被害の少なかった外国の航空機事故も、スクープになってしまいました。

 大介さんの、ペンの力業です。

 山内さんと父は、部長賞をいただきました。

父の思い出 その2「単身赴任した「絶海の孤島」の孤独な日々」

 昔、各本社は、全く別々に紙面を作っていました。ファクシミリなど通信回線の発達があり、各本社間で連携していく過程で、西部、大阪、東京と、三本社の整理部の経験のある父は、60年代後半から、その基盤作りに単身、西部本社整理部に赴任しました。

 西部本社の方達は、父を、西部本社整理部をなくすため、合理化のためにやって来たと思いました。実際、その時点では、各本社の役割分担は、まだ確と決まってはいなかったようです。

 父の机の周りにも、天井からも、「東京本社の犬の幸川は、東京へ帰れ!!」というビラが貼りめぐらされ、毎日、一日中、にらむか、見えないかのように無視され、誰一人、口をきいてくれず、父の机は絶海の孤島。多弁な父が、誰とも話せない孤独の日々が続いたそうです。

 その後、父にとっても、整理部のキャリアをスタートさせた西部本社整理部の、全毎日の中での在り方が決まり、足かけ7年の単身赴任は終わり、父は無事、私達家族の待つ東京へ帰って来ることができました。

 20余年の後、父が亡くなった折には、西部本社の整理部員だった方々からも、今日の自分が在るのも父のおかげなどと、丁重な、お悔みのお手紙をいただきました。

(幸川 はるひ)

2018年10月14日

僕の後半生を育ててくれたのは、毎日新聞てした――井上靖

井上靖氏

 毎日新聞10月14日付「今週の本棚」に、長男が選ぶ井上靖「この3冊」が掲載されたが、井上靖(1991年没、83歳)は元毎日新聞記者である。

 1936(昭和11)年入社。「サンデー毎日」に小説を応募・受賞したのがきっかけだった。「サンデー毎日」編集部、軍隊から戻って学芸部で美術と宗教を担当した。敗戦の45(昭和20)年8月15日、大阪本社社会部の当番デスクだった。「玉音放送を拝して」を自ら書いて、社会面を埋めた。

 《十五日正午――それは、われわれが否三千年の歴史がはじめて聞く思ひの「君が代の奏だった……詔書を拝し終わるとわれわれの職場毎日新聞社でも社員会議が二階会議室で開かれた……一億団結して己が職場を守り、皇国再建へ発足すること、これが日本臣民の道である。われわれは今日も明日も筆をとる!》

 1950(昭和25)年、小説「闘牛」で芥川賞を受賞した。モデルは同じ毎日新聞記者で5歳下の小谷正一(1992年没、80歳。早瀬圭一著『無理難題「プロデュース」します』=岩波書店、2011年刊)だった。

 その年に、下山事件を題材にした『黯い潮』(文藝春秋)を発表している。「自殺」説を貫いた毎日新聞社会部の平正一キャップら毎日新聞記者がモデルである。

 翌51年に退社して、作家生活へ。井上が新聞記者だったのは、29歳から44歳までの15年間だった。

 1976(昭和51)年文化勲章受章。新聞記者出身の作家としては初、と社史にある。

 『「毎日」の3世紀』には、こんな言葉を紹介している。

 《「僕の第2の故郷は関西です。気候が温暖な伊豆の田舎に育ったので、心情的に合わない面もありましたが、一生のうちでもっとも大切な時期を関西で送りました。僕の後半生を育ててくれたのは、毎日新聞てした》

 さて、長男の筑波大名誉教授・井上修一さんが選んだ「この3冊」は、①しろばんば②夏草冬濤(ふゆなみ)③北の海、である。

(堤  哲)

2018年10月12日

広島カープの初代監督石本秀一(野球殿堂入り)は毎日新聞OB

 広島カープがセ・リーグV3。
 本拠地マツダスタジアムは、真っ赤に染まる。それを支える「カープ女子」。こんな現象を誰が予測しただろうか。

 広島カープ初代監督は、「真剣刃渡り」で有名な石本秀一(1897?1982)である。元毎日新聞広島支局員。

 石本は、広島商業の投手として、現在の夏の甲子園大会の第2回、第3回に連続出場した。1916、17(大正5?6)年である。石本キャプテンのとき、1年生だった浜崎真二(野球殿堂入り)は「当時の広商に監督はおらず、石本さんがすべての指揮をとった」と、著書に書いている。

 関西の大学を1年で中退、満州に渡って、三井物産に勤務し、大連実業団で活躍する(「わが信念の野球」ベースボール・マガジン1950(昭和25)年6月号)。

 満州の早慶戦、大連実業対満鉄戦(実満戦)で活躍。地元大連商のコーチをして、夏の全国大会に2回出場させている。1921(大正10)年は初出場でベスト4に食い込だ。

 1923(大正12)年9月、故郷に帰った石本は大阪毎日新聞広島支局の記者になる。26歳である。

 仕事の合間に母校広島商野球部のコーチをした。そして翌24(大正13)年、甲子園球場が落成した年に全国制覇している。文字どおり「夏の甲子園」優勝第1号である。商業学校が初めて優勝したこと、深紅の優勝旗が神戸以西に初めて行ったことを大会史は特筆している。

 広商は、1929、30(昭和4?5)年に夏の甲子園大会2連覇。さらに31(昭和6)年春のセンバツで優勝、そのご褒美でアメリカ遠征をした。

 石本は、アメリカ報告を毎日新聞広島版に連載、それを元に『広商黄金時代』(1931(昭和6)年大毎広島支局刊)を出版している。

 伝説の「真剣刃渡り」は、その際の選手の精神統一法で取り入れたが、当時の選手鶴岡(旧姓・山本)一人(野球殿堂入り)が書いている。

 《全国大会の前には、甲子園の近くの民家を借りて合宿した。その時にやらされたのが「真剣刃渡り」である。…日本刀の刃を上にして置き、かけ声もろとも、それを素足で踏んづけて渡る。気合を入れ、気持ちが集中してさえいたら傷つかない。それで度胸もすわるというのが「真剣刃渡り」だ。実は刃はついていないのだが、見ただけでも恐ろしかった》=「私の履歴書」(1984(昭和59)年日本経済新聞連載)

 石本は、1936(昭和11)年、プロ野球大阪タイガース(現阪神)の監督に招かれ、毎日新聞記者を退職する。打倒巨人! 翌37(昭和12)年秋のシーズンと、翌38(昭和13)年春に連続優勝した。

 その後、名古屋金鯱軍2年―大洋―西鉄。戦後、結城―金星2軍―大陽ロビンスと、監督を転々とした。

 そしてセ・パ2リーグとなった1950(昭和25)年、創設された市民球団広島カープの初代監督に就任する。

 ここではお金集めに苦労する。シーズン途中で選手の給料が払えない事態に陥った。伝説の「樽募金」が始まったのは、この時である。

 石本は、監督業そっちのけで後援会づくりに走り回った。

  身売りか解散か
   カープに危機

 《カープ全選手の給料支払いがすでに20日も遅配となり、そのため選手の留守家族から連日矢の催促が遠征先に舞い込み、ために選手の士気もとみに低下の一途をたどっている》=「日刊スポーツ」同年11月18日付。

 カープは、セ・リーグ8チームの最下位に終わった。

  41勝 96敗 1分、勝率.299

 優勝した松竹ロビンスとは、59ゲームも差がついた。

 最下位の1つ上、第7位は国鉄スワローズだった。

  42勝 94敗 2分、勝率.309

 今シーズン、優勝はカープ、2位はスワローズだから、時代は変わるものである。

 石本が生きていたら、どういうコメントを出しただろうか。

 石本は、選手を育てる名人といわれ、ミスタータイガース藤村富美男、タイガースの西村幸生、西鉄ライオンズでは稲尾和久(いずれも野球殿堂入り)、中日ドラゴンズでは権藤博投手らを大選手に仕立てた。

(堤  哲)

2018年10月12日

記者という仕事

 ――記者という仕事は、法的に許された大人の最高の楽しみだと思いませんか。一日の半分は世界について学び、人に話を聞き、物事を理解するために使う。残りの半分でそれを伝える努力をする。地方紙で仕事を始めて半年ではまりました。

 これは、今朝の朝日新聞(10月12日朝刊)に載った「新聞と民主主義の未来」特集で、「ニューヨーク・タイムズ」(NYT)紙の発行人、アーサー・グレッグ・サルツバーガーさん(38歳)が語った言葉てす。発行人に就いたのはことし1月。

 「ニューヨーク・タイムズ」紙は1851年創刊だが、1896年、米国南部テネシー州の地方紙を経営していた元植字工のアドルフ・オークスによって買収された。

 現発行人の高祖父で、この一族がそれ以来、発行人を出している、と記事にある。

 見出しを拾うと――。

 トランプ氏に直言 耳を傾けたようにも見えたが
 有料読者300万人視野 いずれデジタルだけに
 地方紙の衰退 この時代の最大の危機の一つ

 そして本人の紹介に――
 代々発行人 デジタル優先の先駆け

 どこかで全文を読んでください。示唆に富んだ内容です。

 ――就任のあいさつで「危険な力が合わさり、報道の中心的役割を脅かしている」との危機感を示しました。「危険な力」とはどういう意味ですか。

 「報道の自由の存亡に関わる三つの大きな力が存在していると思います。一つはビジネスモデルの変化です。紙媒体からデジタルへということですが、裏にあるのは広告収入に支えられるビジネスモデルが揺らいでいることです。二つ目は信頼の低下。科学から大学、司法機関までさまざまな制度への信頼が揺らいでいますが、ジャーナリズムには特に顕著です。三つ目はフェイスブックやグーグルなど巨大なプラットフォームが登場し、報道機関と読者の間に介在するようになったことです」

 ――そうした大きな変化のなかで、NYTは有料のデジタル購読が好調です。

 「我々のような伝統的メディアは大きな変革のときを迎えています。重要なことは、いずれデジタルだけの報道機関になるときが来る、という事実を受け止めなければならないということです。すぐにそのときが来るのか、まだ先かと聞かれれば、まだ先だと思います。紙で新聞を読むために多くのお金を払っている熱心な読者が100万人いるのですから。ただ、ずっとそうだというわけではないのです。私たちはデジタル優先のメディアにならなければならないということを受け入れました」

 「デジタルは急速に伸びており、300万人近いデジタルだけの有料読者がいます。デジタルの広告収入は規模が小さく、野心的なジャーナリズムを支えることは出来ません。購読者からの収益を支えとするビジネスモデルに変えることで、この会社で働く全員がジャーナリズムの使命のもと一丸となりました。読者は中身の濃い報道にお金を払い、そのお金で私たちは使命を果たすことができるという良い循環を生みだすことができます」

 ――NYTはデジタル展開をする新聞社なのか、新聞も出すデジタルメディアなのか。どちらだと思いますか。

 「すでに後者になったのだと思います。我々の取り組んだ重要な成果はまずデジタルで発表され、追って新聞でも掲載されます。オンラインの音声番組であるポッドキャストやVR(仮想現実)、動きのあるグラフィックなどに力を入れていますが、これらは紙媒体では展開できません」

 そして最後に

 ――今年、発行人に就任した直後に育休を取りましたね。

 「その質問をしたのは、あなたが初めてです。育児がいかに大変なことかを学び、すばらしい体験でした。また、就任1年目で私が実際に取得したことで、実際の人生で本当に活用してよい制度だというメッセージを与えたと言われたのはうれしい驚きでした」

(堤  哲)

2018年7月11日

ドゥーラで活躍する木村章鼓さん

 インターネットで検索すると、ドゥーラ(doula)をこう解説している。

 ギリシャ語で「女性の奴隷」。他の女性を援助する、経験豊かな女性をいう。1970年代にアメリカの人類学者Dr. Dana Raphaelがこの言葉を母乳育児の分野で紹介、妊娠期から産褥期、主に分娩時に、身体的、心理・社会的サポートを提供する人をいう。

 木村章鼓さん。2児の母。元アリタリア航空のCA(何故そうなったかは、Akiko Kimuraオフィシャルホームページで)。自分の出産体験からドゥーラに興味を持ち、出産の文化人類学を学んでドゥーラとなった。

 立教大学文学部卒、エジンバラ大学大学院医療人類学(Medical Anthropology)修士。

 夫の転勤から「世界を旅するドゥーラ」と呼ばれる。スコットランド、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス……。

 本日、(7月11日)パリから帰国した。しばらく日本に滞在して講演などでドゥーラの普及活動を行う。

 8月7日 (火)午後6時?9時、慶應義塾大学信濃町キャンパス「考養舎」で開かれる同大学の公開講座<患者学>でゲスト講演をする。

 参加費・無料、申し込み不要と案内にあります。興味を持たれた方は是非!

 このHPと、どんな関係があるのか?

 木村章鼓さんは、元社会部記者・新山恒彦さん(2003年 7月11日没、55歳)の娘さんである。

 新山クンは青森県出身で、ズーズー弁が印象に残る。仕事は出来た。

 2002年に「胆管がん」と診断され、その闘病記「胆管がん放浪記」を毎日新聞のサイトに連載した。しかし、2か月ほどで亡くなった。

 「胆管がん放浪記」は、2004年7月、毎日新聞社から出版された。

 この記事がアップされた(7月11日)は、奇しくも新山クンの命日だった。あれから15年経つ。

(堤  哲)

2018年6月25日

黄昏の事件記者の『最後のメッセージ』―
「老いぼれ記者魂:青山学院春木教授事件四十五年目の結末」
(早瀬圭一著、幻戯書房, 2018年3月刊)を読んで

 あとがきに「これがわが人生最後の1冊となるであろう」と書いている。

 あれ、早瀬氏の絶筆なのか?と驚いた私は、「巻を措(お)くあたわず」で2時間で一気に読了した。登場人物はいずれも毎日新聞での旧知の先輩、同僚であり、その半世紀にわたる来し方と終活に深い感慨を覚えた。

 1973年3月の春木事件発生当時、著者は毎日新聞社会部遊軍記者として取材陣に加わり、青山学院関係者の間を駆け回った。のちのサンデー毎日時代にはこの事件を題材にした石川達三の「七人の敵が居た」(同誌1979-80年連載)では、助手役をつとめた。

 1982年、早瀬氏は「長い命のために」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。新聞記者兼作家として、今もノンフィクションライターのトップランナーで独走してきた。一方、早瀬氏が尊敬する鳥井守幸氏は1979年8月、「サンデー毎日」編集長となり、独自のスクープを連発する。

 中でも春木事件に注目し特別取材班を編成して「冤罪キャンペーン(7回)」をはり、1981年7月には出所後の春木氏との独占インタビューを行い、この事件の冤罪の核心部分の全証言を引き出し、その後、独力で再審請求弁護団を結成して奔走してきた。

 しかし、無実を訴えてきた春木老教授は、94年1月にアパートの1DKで壁に「死して戦う」との墨書を残して84歳で孤独死する。鳥井氏は毎日を退職後、大学教授、テレビキャスターとして華々しく活躍したが、鳥井氏は毎日を退職後、大学教授、テレビキャスターとして華々しく活躍したが、その後隠遁生活に入り、一時、消息不明の時期もあった。

 事件以来、すでに半世紀が経過した。

 歳月人を待たず。老いされば人生行路の終着駅が見えてくる。75歳を超えた早瀬氏は最後の仕事に鳥井氏の志を継いでこの事件に決着をつける旅にでた。本書は春木事件追跡の記者物語でもあり、その正義派新聞記者の友情物語でもあり、著者のたそがれの挽歌でもある。

 ロッキード疑獄(1976年)が起きた際、「政官財マスコミ癒着」の構造汚職という言葉が生まれた。

 1980年代に免田,財田川、松山事件の死刑再審無罪事件が連発した際も日本型の司法の冤罪構造が問題となった。

①警察の見込み捜査と自白強要、非科学的捜査
②マスコミの犯罪報道の犯罪
③検察の証拠隠し、証人潰し
④「疑わしきは罰す」の裁判官の体質
⑤警察、検察、裁判所一体の強固な司法癒着構造である。

春木事件は今騒がれているセクハラ事件の嚆矢といえる。

 しかし、その内実はよくある美人局事件の複雑系である。青山大という有名私学のアメリカ帰りの国際法の老教授(63)が女子大生を研究室で暴行、レイプしたというハレンチな事件として、マスコミは大騒ぎしたが、冤罪の構造が丸見えの事件である。

①「大学の先生が女学生を自分の研究室に連れ込んだならば強姦も、和姦もない。起訴される。」「男女の間でトラブルになったら男の負けだ』(後藤田正晴元警察庁長官)の警察の見込み捜査。

②事件のカギをにぎる春木の下にいた大学助手Oは逮捕1週間後に春木の無実を訴えて担当弁護士や学長に「自分も含む反春木派の仕組んだ陰謀であるとの報告書』を提出したが、東京地検が逮捕して、潰した。
Oは一転して「催眠術にかけられたようなでたらめの作り話を書いた」と報告書の内容を否定、検察は不起訴処分とした。これなどは典型的な検察の冤罪手口である。

③事件のポイントは強姦されたという(T子)、T子に迫られての和姦(春木)との食い違いだが、バブル期の「地上げの帝王」最上恒産の早坂太吉がレイプ後に即座に現れて恐喝する手口は、典型的な美人局事件であることがうかがえる。T子は最上恒産会長の娘とあってみれば、この事件の背景がくっきりと見えてくる。

④春木に2回にわたって暴行、強姦されたT子が手紙を添えたバレンタインのチョコレートを贈っている矛盾は、和姦の証拠でもあろう。物的証拠の少ない事件で唯一の証拠物(下着その他)の鑑定も不十分で、裁判官は無視した。

⑤春木はT子を美人局ともしらず、見事にだまされた点を率直に証言していて真実性が感じられるが、T子の証言は矛盾撞着しており、その背景の捜査も不十分で、冤罪事件特有の矛盾だらけの内容である。

 本書の前半部分ではこうした事件と裁判の経過、冤罪のプロセスがわかりやすく、簡潔に書いている。

 また、事件を生んだ背景である『白い巨塔』と並ぶ「学閥の虚塔」の大学内部にも早瀬氏一流の緻密な取材で鋭いメスを当てている。

 青山学院大とは「年間100人以上の情実入学が院長の裁量で組織的に行われていた」(毎日新聞スクープ1982年1月18日付)という「魑魅魍魎の世界」であり、この学内派閥の熾烈な戦いと青学のすぐ隣にある『最上恒産』の早坂の地上げ工作の陰謀とがミックスされた事件の可能性が高い。

著者の「45年の目の答』

 最後に近い第5章「時間」で膨大な事件、裁判、関係資料を読みこなし、関係者にも総当たりして、事件の真相をつかんだ著者の「45年の目の答』が示されている。

 T子の動機は春木が進めていた国際部に勤めたい一心での接近ではなかったかとみて、67歳となっているT子の追跡に全力を挙げ「名簿屋」から手に入れた高校の同窓会などの名簿で片っ端から電話して居所を探し出し、ついに発見する。恐る恐る電話するといきなり本人が出た。

早瀬氏とA子の息づまる電話対決シーンは圧巻の迫力

 この電話を切られれば、最後の糸は切れてしまう。少しでも長引かせて事件をの核心に迫りたいベテラン事件記者とA子の息づまるこの電話対決シーンは圧巻の迫力である。

 押し問答が続き、なんの質問にも「答える必要はありません」「記憶にありません」と肚の座った返事が返ってくる。17,8分の会話の中盤で、いきなりT子が「あなたはおいくつですか」と問いただしてきた。一瞬たじろいだ早瀬氏は「もう70代後半です。あなたよりも1回り上です。そろそろ死んでもおかしくない歳です。その晩節に私なりに、春木事件に決着をつけたいのです」と答えた。

 「それがあなたの記者魂ですか・・」とT子は切り返した。

 すでに70近くになったT子の冷静沈着な受け答えに、著者はタジタジしながら、裁判で、春木教授がT子にやり込められた姿がダブって見えてきた。

 筆者も事件、裁判ドキュメントは数多く読んできたが、この電話での1問1答ほど人間性の本質と老いの哀歓がにじみ出たやり取りを読んだ記憶はない。ハラハラドキドキの見事なハイライトシーンである。

そして、エピローグ。

 早瀬氏は鳥井氏に早速、ケイタイから電話し、留守電に報告した。たどたどしい声で、5分間のメ―セージを入れてくださいとある。「鳥井さん、T子の居場所を突き止めたよ。危険水位ギリギリのまで調査したよ・・」とT子の近況、生活ぶりを手短に伝えた。

 最後に「聞いたら電話してほしい、本来なら会って話したい、どこか施設にいるならば会って話したいよ」と86歳になった鳥井先輩に訴えるラストシーンには涙が止まらなかった。早瀬先輩の事実にギリギリとどこまでも肉薄する刑事を上回る圧倒的な取材力とそぎ落とした簡潔、鋭利な文章力があいまって第一級のノンフィクションに仕上がっている。

 後輩の新聞記者、事件記者のための必読書として「早瀬さん、まだまだ書き続けてくださいよ。お願いします」。

前坂俊之(1969年毎日入社、元東京情報調査部副部長)

2018年6月17日

337拍子の生みの親・相馬基さんのこと

明治大学応援団OB会HPから

 NHK総合テレビの人気番組「チコちゃんに叱られる」( 毎週金曜日)で、元毎日新聞の相撲記者・相馬基さん(1981年没、85歳)が紹介された。
 「どうして応援は337拍子なのか?」

 1921(大正10)年、相馬さんは明治大学の相撲部員で、応援団の初代団長だった。当時、野球の早慶戦は1906(明治39)年に中止になったまま。早慶戦の復活は、明大が中心になって1925(大正14)年春に東京六大学野球連盟が結成されてからになるが、10月19日早大戸塚球場での復活第1戦は、明大野球部の湯浅禎夫(のち大阪毎日新聞運動部長→プロ野球毎日オリオンズ総監督)が球審をつとめている。

 当時の明大野球部は、打倒早稲田、打倒慶應の意気に燃えていた。応援団長相馬は、「勝った方がいい! 勝った方がいい! 勝った方がいいったら、勝った方がいい!」という声と手拍子の応援を生み出した。それが337拍子だった。

 「チコちゃんに叱られる」では、現在の夏の甲子園で応援の定番となっているX JAPANの「紅」や、ピンクレディーの「サウスポー」も337拍子であると解説した。

 相馬さんは、1924(大正13)毎日新聞の前身「東京日日新聞」に入社するが、相撲記者の他に、「編集兼印刷発行人」という肩書を持っていた。新聞紙法(明治42年施行)により、1949(昭和24)年に廃止されるまで、新聞の題字下に発行責任者の名前表示が義務付けられ、相馬さんは1929(昭和4)年から「編集兼印刷発行人」だった。

 新聞記事が「国家総動員法違反」に問われる。名誉棄損で訴えられることは日常茶飯だった。

 そのたびに編集責任者である主幹や主筆が呼び出せられていたのでは、仕事にならない。で、苦情処理係、叱られ役、社内では「前科引受人」とも呼ばれていたという。

 何故、若い相馬が全責任を負わされたのか。相馬は、応援団長として有名だったうえ、相撲記者としても顔が売れていた。

 こんな相馬の証言が残っている。

 ――当時の検事局とか警察の偉い人とか、弁護士といった連中には、相撲のファンが多くて、それも極端なファンがいましたからね。(私の)顔をみればもうはじめからわかっている。(『私の昭和史Ⅳ 世相を追って』1974年、学芸書林刊)

横綱大鵬の断髪式での相馬さん(1971(昭和46)年10月)

 毎日新聞の訃報(1981年9月25日朝刊)には、大正13年入社、相撲記者として昭和50年夏まで、最古参記者として健筆を振るった。その後も日本相撲協会教習所教師として相撲道、詩吟などを教えるなど、相撲ひと筋だった。大相撲の近代化をはかるため、相撲協会に仕切りの制限時間を進言した、とあった。しかし、「編集兼印刷発行人」であったことは、触れられていない。

(堤  哲)

事件記者とは別の越後喜一郎さん

 直木賞作家・古川薫さんの訃報(5月5日逝去、92歳)を見て、越後喜一郎さん(2010年没、72歳)を思い出した。

 岩倉使節団の旅を追う「歴史紀行 新・米欧回覧」の1ページ特集が始まったのは、1992(平成4)年4月4日付朝刊だった。毎日新聞創刊120周年企画のひとつだった。

 《岩倉使節団が先進文明吸収の大命題を背負って、世界一周の壮途についた日から、こんにち経済大国を誇る日本人が「もはや欧米に学ぶものはない」と豪語するまで、120年という歳月が流れた。

 『米欧回覧実記』(随行の久米邦武=のち帝国大学教授、歴史学者=ら編)を合わせ鏡として、変容する欧米の現況を写してみたい。それが日本及び日本人における「文明開化の世紀」とは何だったのかを探る私の『新・米欧回覧』である》

 第1回で古川さんはこう書いた。

 使節団の団長は岩倉具視。副使に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら。当時9歳の津田梅子ら女子留学生も5人いた。明治4年(1871年)11月に横浜港から出発し、1年10か月後に帰国した。

 古川さんに同行したのが、当時編集委員だった越後さんで、特集ページに「取材カバン」のカットでミニコラムを執筆した。もうひとり、元写真部員でフリーのカメラマン・平沢一郎さんが写真撮影に当たった。

 最終30回は、翌93(平成5)年4月4日付で、見開き2ページの展開で、左面を越後さんが「取材カバンを担当して」と延々と記している。

 《約半年、アフリカまで足を延ばした取材の旅。当時の使節団の幹部、伊藤博文(31)、大久保利通(42)、木戸孝允(39)は、今の政治家と比べ若い。だが、欧米の文化、政治をいかに日本に導くか、といった純粋の真心と燃える情熱があった。使節団の生きざまを今の政治家たちこそ見習ってもらいたい》

 越後さんは強運の持ち主だった。横浜支局で事件記者として特ダネを連発、社会部に引き上げられたが、三億円事件を担当したあと、町田通信部。本人は「左遷」とふくれ顔だったが、その夏、初出場の桜美林高校が夏の甲子園大会で優勝した。その動静取材に同行したのは越後さんだった。

 【甲子園で越後記者】の記事が連日、東京版に掲載された。

 優勝戦は、延長11回の死闘だった。4-3でPL学園を降した。

   青春〝満開〟
   〝無欲と粘り〟誇らか桜美林
   わき返る町田市、熱闘2時間43分

 夏の甲子園大会は、ことし第100回。それを記念して朝日新聞はベストゲームを1ページ特集しているが、4月21日付でこの試合を取り上げている。

   60年ぶりに東京に優勝旗
     初出場で校歌を5回も

 仙台支局長時代、アップジョン医学記事賞(1988年、第7回)を受けている。

 宮城版に「生きていくために――腎臓病を考える」を1年間にわたって連載したのである。企画は、越後さんの発想だった。

 親しくしていた国分町の飲み屋のママとその家族が腎臓病の治療で難儀していることを知って、入社3年目の石川健次記者(現東京工芸大学教授)に取材を命じた。

 「連載は約1年で、全部で50数回のうち1回を除いてすべて私が書きました。連載が始まってからは、越後支局長は時折、内容にアドバイスをする程度でしたが、むしろ夜な夜な国分町に連れて行っていただいて、連夜、激励と酒の日々でした」と、石川教授は懐かしむ。

 越後さんというと、強面の事件記者と思われがちだが、鋭い感性を持つ、社会派記者であった。歌はうまいし、踊りはジルバはお手のもので、タンゴもフロアいっぱいを使って踊った。酒も強かった。

 住んでいた浦安で暮れに「第九」の演奏会を開き、夫婦して合唱団に加わった。「記者の目」を書いている(1990年12月11日付)。

  第九は、まちづくりの大合唱
   浦安に響いて9年
    新旧住民がハーモニー

 駆け出しの長野支局で一緒だった大島幸夫さん(80歳)は、「3ナンバーの男」と評した。「排気量が大きい。発進力も馬力もデカい」と。

(堤  哲)

元サンデー毎日編集長の高松棟一郎さん

「私の卒業論文」(東京大学学生新聞会編、1956年同文館刊)から

 「高松棟一郎を知っていますか。私のいとこです。戦前、特派員としてアメリカに渡るとき、横浜港で『氷川丸』を見送りました」

 つい最近、90歳になる夫人から尋ねられた。インターネットで検索すると、1935(昭和10)年東大独文卒、東京日日新聞入社。ロンドン、ニューヨーク特派員。戦後、社会部副部長、48(昭和23)年「サンデー毎日」編集長。50(昭和25)年9月退社後、東大新聞研究所教授。59(昭和34)年没48歳。作家林芙美子の恋人だったといわれる、とあった。

 《ロンドンからニューヨークに渡って、ブロードウェイに立ったときは、光の洪水に、よくもこういう明るい世界があったものと、呆然とした。
 8月15日の夜日本に勝ったVデーのその夜、その広場を群集が埋めつくした。正面タイムス・スクエーアーニューヨークタイムスの電光ニュースのたもとには、新しく平和の女神像が建立されてあったが、その他は、開戦当時と変わらぬまぶしさであった》=「アメリカ映画」1947年7月号。
 日本が敗戦した日、高松記者はNYブロードウェイにいたのだ。

 林芙美子の小説「浮雲」の富岡兼悟、桐野夏生の小説「ナニカアル」(2010年新潮社刊)で林芙美子が恋をした妻子ある新聞記者は、高松がモデルといわれる。

 清水英子著「林芙美子・恋の作家道」(2007年文芸社刊)に、林芙美子が学芸記者・辻平一に宛てた昭和12年6月18日付の手紙が載っている。
 《昨日、東日から草津へ参りました。一行は久米(正雄)さん、邦枝(完二)さん、村松(梢風)、吉屋(信子)、獅子(文六)、永戸(俊雄)、高松(棟一郎)、大宅(壮一)、木村(毅)の皆さん、とても面白い旅行でした》

 東京日日新聞は、1933(昭和8)年5月、学芸課を学芸部に昇格させ、阿部真之介(元NHK会長)を部長に据えた。「花やかな阿部学芸部長時代」(毎日新聞百年史)で、阿部は、作家や文化人を顧問・社友・嘱託として次々に採用した。菊池寛、久米正雄、吉川英治、高田保、大宅壮一、木村毅、今日出海。それに森田たま、林芙美子、吉屋信子らの女性作家。阿部が主宰した「東紅会」は、女流芸術家らの集まりで、毎月一度夕食会を開き、時には一泊旅行をしたという。
 久米正雄は、阿部のあと38(昭和13)年から2年余、学芸部長を務めている。入社3年目の高松も、草津温泉旅行に同行している。作家たちの面倒見係だったか。

 辻平一も、「文芸記者三十年」(1957年毎日新聞社刊)に林芙美子との思い出を綴っている。芙美子が亡くなる(1951年6月28日没、47歳)1か月前、「東紅会」旅行で木更津のホテルでの楽焼。
  《私は林さんに、小さな徳利を出した。
  「この恋ハもへがら辛らきかな  芙美子
  と書いてくれた。これが、最後の思い出になった》
 意味深である。辻は、芙美子の2歳年上だった。

 息子の辻一郎著「父の酒」(2001年刊)によると、平一は、大阪外語ロシア語科を卒業して、1927年見習生3期生として「大毎」へ入社した。31年から学芸記者となり、作家との付き合いが始まった。1950年「サンデー毎日」編集長。後輩高松棟一郎のあとを継いだ形だが、終戦直後に大阪で、戦時中に改題した「週刊毎日」編集長をつとめており、2度目の編集長だった。源氏鶏太の「三等重役」が爆発的人気を呼んで、在任2年間で部数を30万部から80万部に増やす功績を残している。1981年没、80歳。

 さて、高松棟一郎である。1949(昭和24)年に設立された東大新聞研究所(現・大学院情報学環)初代所長の小野秀雄著「新聞研究五十年」(1971年毎日新聞社刊)によると、翌50年に朝日新聞の千葉雄次郎(2代目所長)とともに、東大新研の教授として迎えられた。翌51(昭和26)年には日本新聞学会が創設されるが、その発起人に小野、千葉とともに名前を連ねている。

  訃報は、1964年東京五輪の招致決定を報じる1959(昭和34)年5 月27日付で各紙に掲載されたが、心臓マヒによる急逝だった。享年48。
 「そういえば棟一郎の妹が、林芙美子さんからの万年筆を兄からもらったと、大事そうにしていたのを覚えています」と、90歳のその夫人はいった。

 毎日新聞の人脈は、広くて深い。そのうえ高い。

(堤  哲)

「諏訪メモ」スクープから60年

 昨年暮れに出版された元朝日新聞記者・上原光晴著『現代史の目撃者』(光人社NF文庫)に、「松川事件被告無罪の陰に(倉嶋康)」の見出しで、「諏訪メモ」スクープが紹介されている。

 門田勲、笠信太郎、深代淳郎、斎藤信也、疋田桂一郎などなど朝日新聞の名物記者が並ぶ。冒頭に下山事件で他殺説を展開した矢田喜美雄(1936年ベルリン五輪で走高跳5位入賞、朝日新聞社会部記者)を取り上げているのに違和感を覚えるが、毎日新聞社会部高橋久勝記者らの自殺説の証言、占領軍の命令で警視庁捜査本部が「自殺」発表を中止した事実も記している。

 さて、「諏訪メモ」である。山本祐司著『毎日新聞社会部』(2006年河出書房新社刊)の出版記念パーティーには、「諏訪メモ」により死刑判決から無罪となった佐藤一さん(2009年没、87歳)の姿もあった。

1957年6月29日付毎日新聞福島版

 倉嶋康さん(85歳)は、当時入社2年目の福島支局員だった。サツ回りは、県警本部・所轄署とともに、地検・地裁を担当した。
 クラさんは、地検の検事に食い込んでいた。福島地検の宮本彦仙検事正に「諏訪メモ」の存在を確認した。大学ノートに鉛筆で書いた団交のメモ、佐藤死刑囚らのアリバイを証明するメモだった。
 クラさんは、「諏訪メモ」の存在を記事化したのである。

 松川事件は1949(昭和24)年8月17日未明、東北本線松川―金谷川間で貨物列車が脱線転覆し、機関士ら3人の乗務員が死亡した。警察は人員整理(首切り)に反対していた地元の東芝労組と国鉄労組などの組合員たちが引き起こしたものと見て20人を逮捕、起訴した。
 一審判決は東芝労組の佐藤一さんら5人に死刑、残り15人も有罪。二審仙台高裁でも死刑4人を含む17人が有罪。
 「諏訪メモ」スクープは、最高裁に上告中の報道だった。最高裁は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した(1959年)。そして1961(昭和36)年8月8日、仙台高裁は被告全員に無罪を言い渡した。

 『現代史の目撃者』にこうある。
 佐藤一は無罪となったあと、占領・戦後史研究家の道をあゆみ、平成18(2006)年3月、都内でひらかれた「占領当時を振り返る」講演会で、倉嶋を「私の命の恩人」と紹介、二人はかたい握手をかわした。

 倉嶋さんは元社会部。ことし発行の「ゆうLUCKペン」40集への寄稿によると、松本・長野両支局長を10年。定年後、スポニチ長野支局を立ち上げ、1998年長野冬季五輪の組織委員会委員。五輪終了後、次回開催の米ソルトレーク市まで化石燃料を使わずに帆船と自転車でメッセージを運んだ、NASL国際環境使節団の団長。
 私は、駆け出しが長野支局。クラさんとは社会部遊軍のとき、夕刊三面担当のサブキャップと兵隊という関係でお世話になりました。

(堤  哲)

 

「アンデスの聖餐」柴田寛二さん

 1月に届いた社報2018年冬号で、元論説委員の柴田寛二さん(2017年10月12日逝去、82歳)が「アンデスの聖餐」をリポートした特ダネ記者であったことを初めて知った。論説OB主催の「毎日新聞メディア調査団」で何回か海外のメディア取材にご一緒したが、そのことを自慢するような人ではなかった。

 社報の「故人をしのんで」は当時のサンデー毎日デスク徳岡孝夫さんが「バンチョウ・ロッジ(社の麹町寮のことか)で一晩がかりで書き上げた」と偲んでいるが、「サンデー毎日」1973(昭和43)年2月4日号の表紙は――。

 本誌記者が南米に飛び
 現地取材した戦慄の人間記録
 アンデスの聖餐

 「氷雪の世界で72日間を死とたたかった若者たち」、「感動と戦慄の記録!」とうたう。

 「本誌 柴田寛二」の署名入り前書き――。

 「氷雪のアンデス山脈標高三千メートルに墜落した飛行機。その残骸の中で、死の谷をのぞきながら不屈の意志で七十二日間をたたかいぬき、苦しい熟慮と討論のすえ、死んだ友の肉を食い、そして文明への帰還をはたした十六人のことを、私は、南米ウルグアイとチリで取材して、いま帰ってきたばかりだ」

 特集記事は15ページに及ぶ。それにグラビアが9ページ。

 事故は、1972年10月13日に起きた。ウルグアイからチリに向かった旅客機が遭難した。乗客・乗員45のうち、28人が生き残っていた。捜索は難航し、8日後には中止された。最終的に乗員5人全員と乗客24人が死亡、2人が山を下りて救助を求め、計16人が12月23日までに生還した。乗客はラグビーの試合に向かう頑健な若者たちだった。

 柴田リポートは、克明を極めた。スペイン語での取材が完璧だった。特集記事の最後にカトリック国ウルグアイのナンバー2の精神的指導者である副司教のインタビュー記事を載せている。「彼らが食べたのはキリストの血と肉」

 最後に編集長のお断りを掲載している。

 「人間が人間の肉を食べる――あまりにも恐ろしい、あまりにも異常なことです。

 本誌編集部は掲載に当たって正直なところ、二の足を踏みました。しかし、柴田記者の取材してきたものは、〈生きることとは何か〉〈死ぬこととは何か〉〈人間とは何か〉の根源を考えるうえで、きわめて感動を呼ぶ内容であり、陰惨な事実をも超越する瞑想性を持っていたことから、あえて、これほどまでのスペースをさき、記事とグラビアでとりあげました」

 翌週号に読者の声を特集している。

 ・凄絶なまでの人間ドラマ
 ・「アンデスの聖餐」涙が出ました!
 ・記者の勇気を称える
 ・柴田記者と編集部に敬意を表します
 ・私がもし、あの(友の肉を食べたと明かした)記者会見の席にいたら、おそらく私も大きな拍手を送るコトが出来たと思います

 当時の新聞報道も調べてみたが、各紙とも控えめに扱っているだけだった。それだけに柴田リポートのインパクトは強烈だった。

(堤  哲)

 

西郷隆盛はパーマをかけていた――。
 話題沸騰!仁科邦男さんの西郷本

 NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」が始まった。冒頭は、上野公園の西郷隆盛像除幕式(明治31年12月18日)で、西郷の妻イトが「こげな人じゃなかった」と訴えるシーン。

 仁科邦男(69歳)著『西郷隆盛はなぜ犬を連れているのか: 西郷どん愛犬史』(草思社)には、イトの言葉が〈「顔が似ていない」という意味なのか、「こんな格好で人前に出るような人ではない」という意味なのか、解釈が分かれる〉とある。

 西郷はおしゃれだった。細い青竹を火鉢の灰の中に差し込み、髪にあててパーマをかけていた。「戎服(じゅうふく)(軍服)を着ればそれ相応に頭髪も手入れせんければならん。頭髪の鏝(こて)じゃよ」と、この青竹の使い途を説明した。

 パーマの話は、鹿児島出身で社会部の先輩・小畑和彦さん(2012年没、67歳)からB1で飲んでいるときに出た話だという。

 のちに「西南戦争」と呼ばれる、その出陣の際は、陸軍大将の正装をして、舶来の葉巻をくゆらせていた。

 上野公園の銅像についても解説している。〈西郷が犬を連れて兎狩りに行く姿である。左の腰に下げているのは兎の通り道に仕掛ける兎わなである。実際にはこのような着流し姿では狩りに行かなかった。西郷像はわらじ履きに素足である。狩りに行く時、西郷は狩猟用の足袋を履く。素足、むきだしの足の脛(すね)では、すり傷だらけになってしまう。

 西郷像は散歩しているように見える。犬に首綱をつけ、散歩する習慣は文明開化とともに日本に入って来た。ここには新しい時代の日常がある。狩り姿と普段着の西郷が混然となっている。……

 犬は小さい。西郷像の高さは1丈2尺(約360センチ)で、実物(身長180センチ)の倍あるが、それをもとに計算すると犬の体高は31-32㌢前後。柴犬よりも小さく、ダックスフンドよりは大きい。これでもモデルになった薩摩犬より大きく作った。モデルの犬は西郷が飼っていた犬ではない。薩摩出身の海軍中将・仁礼景範(にれ・かげのり)が飼っていた桜島産の犬で、サワという名のオス犬である〉

 とにかく詳しい。よく調べている。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』にはしばしば犬の話が出てくるが、「愛犬と祇園の茶席に上がる」という一文には誤りがある、とズバリ指摘する。元社会部記者の面目躍如である。

 1月7日付け朝日新聞書評欄で、早速話題の書として取り上げられた。とりわけ〈巻末の『西郷隆盛と犬』の略年表」は圧巻だ〉とベタ褒めである。「犬2匹を連れ兎狩り」「犬13匹を引き連れ鰻温泉に止宿」など、犬好き西郷を史料から丹念に拾った。

 年表に、坂本龍馬とお龍夫妻が慶応2(1866)年3月10日に鹿児島に着き、10日から4月11日まで日当山などの温泉をめぐった、新婚旅行の始まり?もあった。

 著者略歴に「名もない犬たちが日本人の生活にどのように関わり、その生態がどのように変化してきたか、文献史料をもとに研究を続ける」とある。動物文学会会員。

 絶滅したといわれる薩摩犬を追って、毎日新聞西部本社報道部にいた筆者が鹿児島の離島・甑島に渡ったのは、1978(昭和53)年2月。ちょうど40年前である。そのころから「いつか西郷隆盛を書きたい」と資料収集、取材を続けてきた。

 この本は、「犬の伊勢参り」(平凡社新書)、「犬たちの明治維新 ポチの誕生」(草思社)、「伊勢屋稲荷に犬の糞 江戸の町は犬だらけ」(草思社)に続く、仁科邦男犬シリーズの第4弾である。

 1月5日には、NHK歴史秘話ヒストリア「西郷どんのイロハ 維新の英雄・3つの愛」に出演して、西郷隆盛の「忠犬への愛」についてコメントを述べた。再放送は1月14日午前0時05分から(13日深夜)。見逃した方は是非見てください。

(堤  哲)

 

秋空に 旗二〇六 お堀端 河彦

 東京五輪まで1000日。毎日新聞社は竹橋のパレスサイドビルに二〇六の国と国際機関の旗を飾った。ギリシャから日本まで、皇居周辺を走るランナーたちが見上げる。今日の新聞は、これに合わせて五輪企画を全面展開。

 これは河彦の名前で続けている私の俳句ツィッターのうち、10月28日の作品です。朝刊に掲載された写真を見て、これは自分のカメラで写真を撮りに行かねば、とこのビルで働く後輩達への一体感を強く感じさせてもらいました。

 この「国旗デコレーション」は、2階から7階までの壁面を使い、国際オリンピック委員会(IOC)加盟206カ国・地域の旗を掲げ、平和の祭典を盛り上げる企画の一つです旗は横210センチ、縦140センチの布製で、掲示は11月5日まで。

 その左側に掲示された「世界は一つ 東京オリンピック」の標語は、1964年東京五輪の際に毎日新聞社による公募で選ばれました。

 個人的な思い出話ですが、1964年に大学進学のため東京に出てきて、五輪の準備が進む代々木の国立競技場で、リヤカーを引いて会場のあちこちに花を飾るアルバイトに汗を流しました。体操で金メダルを獲得した遠藤幸雄選手とパレードの列の中で握手した日から53年。そして3年後に向けて、夢をふくらませ、毎日新聞がさらに存在感を大きくする日を楽しみにしています。

(高尾義彦)

 

50年前、1面を飾った特ダネ写真!

 1967(昭和42)年8月2日付朝刊1面と社会面。北ア西穂高岳で長野県立松本深志高校の集団登山の列に落雷が直撃、11人が死亡、13人が負傷する惨事があった。その現場の生々しい写真が載っている。尾根道に雷撃で飛ばされて横たわる高校生が何人も写っている。特ダネ写真だった。

 その時の現場取材の模様を、長崎和夫さん(74歳)が、「日本記者クラブ会報」第572号(10月10日)に「報道写真 今と昔」というテーマで書いている。

 〈当時、各社は夏と冬に上高地に記者を駐在させており……、入社2年目の筆者も上高地駐在だったが、当日は単独で奥穂高岳に登山中。頂上直下で雷雨に見舞われ、下山しかけると西穂方面が騒々しい。あわてて西穂高岳に登り直したが、他社のように現場に行きつけない。シャッターチャンスどころではなく、下山者から写真をもらうことにした〉

 結果的にこの判断が正しかった。下山者から現場写真を借りることができたのだ。

 〈ところがその中に生徒と何体の遺体が一緒に写っている1枚があった。特ダネ写真だとして1面7段の破格な扱いとなった。今ならば絶対に紙面化できない類いの生々し過ぎる写真だ。半世紀で写真に対する考え方がずいぶんかわった〉

 長崎さんは、入社1年目にも社会面トップの記事を書いている。駆け出しの長野支局員として松代地震を取材中に、地滑りが起き、それに乗った、という体験ルポだった。

 事件・事故にツイている。長崎さんはその後、社会部にあがって警視庁捜査1課を担当、政治部に移って政治部長、論説委員長、専務取締役まで栄進した。

 私は長崎さんの入社2年先輩。誰からも好かれる人柄のよい後輩で、「チョーさん」とか「親分」と呼んで、よく権堂に繰り出した。

 この日の対社面に、都市対抗野球大会で日立製作所が前年優勝の熊谷組を破ったという記事が載っていた。それで思い出したが、私はその年、長野支局から水戸支局に転勤となり、水平雷撃のあったときは、水戸支局から日立製作所について後楽園球場で取材していた。

(堤  哲)

 

社会部旧友会の3句聖

 月刊「俳句」(角川文化振興財団発行、(株)KADOKAWA発売)9月号の読者投句欄「平成俳壇」の「秀逸」に選ばれた2句――。

  菩提寺の未完の塔や藤の花  一閑
  胸張って泰山木の花咲けり  一閑

 故郷(ふるさと)を詠むシリーズで、「故郷の建物」がお題。バックナンバーを調べたら、8月号、7月号にも「秀逸」作品があった。

  雨乞や溜池に飛ぶ祈りの火  一閑
  遠山に雨のくるらし菊根分  一閑

 俳壇の新星・一閑とは誰? 某先輩に尋ねると、森浩一さんであることが分かった。元社会部長、元スポニチ社長である。

 「俳句」10月号の予告に特集「戦後俳壇」。筆者に学芸部OBの酒井佐忠さんの名前があった。

 社会部旧友会メンバーで「俳人」で知られるのは、かつて「銀座一丁目新聞」で俳句道場を主宰していた牧内節男さん(一閑さんの先輩の社会部長、スポニチ社長・会長)。

 HPから最近作を拾うと――。

  鶏頭に天下の秋見つけたり    悠々
  ボケ防止心に響く牌の音     悠々
  数の子の歯ごたえ確か我老いる  悠々

 もうひとり、『無償の愛とビールの泡につぶやいて』(牧内俳句道場で「天」)の句から、『無償の愛をつぶやく Ⅱ』のタイトルで雑文交じりの句集を出版した高尾義彦さん(前日本新聞インキ社長)。

  台風に 情け求めて 同窓会   河彦
  佐原さん 偲んで秋の 百花園  河彦
  蕎麦の花 三鉄沿線 津波跡  河彦 

 社会部旧友会同人には、他にも俳句を楽しんでいる人がおられたと思いますが、最近作を寡聞にして存じ上げないので、割愛。失礼!

(堤  哲)

 

東日印刷の「アスナビ」佐藤凌選手に応援を!

佐藤凌選手の見事なジャンプ!

 東日印刷は、従業員が約360人の小ぢんまりとした企業です。しかし、毎日新聞グループホールディングスの東日本の中核印刷会社と位置づけられ、新しいことに挑戦する意気込みにあふれています。ウェブ事業の開始、OA機器販売会社のM&A、理系大世界最高水準のインド工科大生の採用。何とか毎日グループの発展に貢献できないかと、模索を続けています。その中で、幾分ユニークで爽やかな試みが「アスナビ採用」です。

 「アスナビ」とは、日本オリンピック委員会(JOC)が実施しているトップアスリート就職支援ナビゲーションの略称です。企業の支援を望むトップアスリートと、会社の活性化やブランド力の強化を図りたい企業との採用をマッチングします。 東日印刷はアスナビの趣旨に賛同し、今年4月、陸上競技・走り高跳びの佐藤凌選手を採用しました。東日は2020年東京五輪で9競技の会場となる江東区内に所在しています。アスナビ採用が、従業員の一体感醸成に必ずや繋がるだろうとの思いがありました。2015年5月にJOCと江東区が共催したアスナビ説明会に初参加して以来、素敵なアスリートを採用するため、さまざまな選手やJOC担当者へ積極的にアクセスし、これが実を結びました。

 佐藤選手は、昨年の日本陸上競技選手権大会で準優勝した期待の若手です。写真でも分かる通り、今風に言えば「イケメン」の風貌で、スピーチ、気配り、身のこなしもスマートな好青年です。入社前の海外遠征で足首を痛めてしまい、今年度の目標としていた世界陸上への出場は叶いませんでした。今は気持ちを切り替え、9月の全日本実業団対抗陸上競技選手権出場に向けて、治療とリハビリトレーニングに励んでいます。

 佐藤選手は週に1日出勤し(オフシーズンは週2日予定)、それ以外は会社の支援のもと選手活動に専念しています。社内では、応援プロジェクトを立ち上げ、応援グッズや等身大パネルなどを作成し、プロモーションを推し進めています。

 8月5日、東日の夏の恒例行事「納涼と懇親の夕べ」では、顧客や近隣住民の皆さんの前で、佐藤選手のお披露目が盛大に行われ、応援の熱い熱気に包まれました。

 東京五輪出場が佐藤選手と会社の最大の目標。それに向けた長い戦いは既に始まっています。

佐藤 凌(さとう・りょう)選手のプロフィール

生年月日:1994年7月21日(満23歳)
競技種目:陸上・走り高跳び
出身地:新潟県長岡市
学 歴:東海大学
入社日:2017年4月1日

主な戦績

2016年6月 2016 日本学生陸上競技個人選手権大会  優勝  2m20cm
2016年6月 第100回 日本陸上競技選手権大会  2位  2m25cm

(東日印刷・西川光昭=社会部OB)

 

沢田教一写真展に、毎日新聞の特ダネ紙面

 ベトナム戦争でピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」。報道写真家・沢田教一さん(1970年カンボジアで狙撃され死去、34歳)の写真展が日本橋高島屋で開かれている(8月28日まで)。

 朝日新聞社主催だが、会場に毎日新聞の紙面が拡大コピーして展示されていた。

 「おお、母子は無事だった」の大見出しがついた1966(昭和41)年7月3日付。「安全への逃避」の被写体になった2家族5人を沢田さんに同行して探し出して記事にしたのだ。特ダネだった。

 クレジットに【サイゴン二日発柳原特派員】。柳原義次氏(1995年没68歳)。大阪本社社会部から外信部、ソウル特派員からサイゴン特派員になった。そしてボン支局長から大阪本社社会部長(第25代)。ちなみに24代は北爪忠士氏、(2009年没84歳)、26代は松永俊一氏。

 〈「柳(やな)ちゃん」の愛称で親しまれた。堺の古い家柄に生まれ、東大経済学部時代は作家の辻井喬(堤清二)氏らと、学生運動の旗を振ったこともあり、闘志と正義感は人一倍強かった〉

 〈振り出しの大阪社会部時代は若手造反グループ「デンケン会」の中心人物の1人で……外信部に移ってからも、毎日労組の委員長にかつがれ、「柳原執行部」という名の一時代をつくった〉

 〈(ボン支局長時代の)東欧では自由化の波がソ連の戦車に押しつぶされた「プラハの春」に同情のペンをとった〉

 大毎社会部100年史『記者たちの森』に、後輩の社会部記者・磯貝喜兵衛さん(元毎日映画社社長)が「ダンディズムと人情」の見出しで紹介している。

 沢田教一氏は、三沢基地の写真店で働き、1960年に上京してUPI通信社東京支局に入社した。同支局は有楽町の毎日新聞東京本社内にあった。1965(昭和40)年7月にUPIサイゴン支局のカメラマンとなり、「安全への逃避」は1966年にピュリツァー賞を受賞している。

(堤 哲)

 

フクちゃん横山隆一さんの珍コレクション

上の写真は「週刊新潮」7月27日号に掲載
上は、東大安田講堂事件の時壊された「大理石」
下は、洞爺丸遭難 「一等船室の窓枠」「救命具のひも」「救命ボートの破片」など

 高知市の横山隆一記念まんが館(高知市文化プラザかるぽーと内、電話088-883-5029)で開催中の「隆一 珍コレクション展」(8月27日まで)。どんな珍品があるか、『週刊新潮』7月27日号で紹介された。

         

 冒険家植村直己さんの足の豆だこ、ハイセ―コーの毛などと並んで、〈東大安田講堂事件の時こわされた大理石、鍛治(壮一)氏贈〉、〈洞爺丸遭難、一等船室の窓枠など、毎日新聞函館支局坪松竹雄氏〉と、毎日新聞記者からが2点あった。

 横山隆一さんは毎日新聞朝刊に「フクちゃん」を長期連載(1956(昭和30)年1月1日?71(昭和46)年5月31日まで5534回)、毎日新聞社内でよく姿を見かけた。

 写真部から社会部記者となった鍛冶さんは、「母校」東大安田講堂事件の取材をして、現場から投石された同講堂の壁石を持ち帰ったのだろう。安田講堂落城(封鎖解除)は1969(昭和44)年1月19日だった。

 洞爺丸事故(1954(昭和29)年9月26日青函連絡船「洞爺丸」が台風第15号の暴風雨によって転覆、死者・行方不明1155人を出した。海難史上最大の惨事)の坪松さん(1994年没、81歳)は、当時函館支局長。支局員に命じて洞爺丸の乗船名簿を入手、それを特報した記者として名を残している。その詳細は『毎日新聞の24時間』(1955年刊、鱒書房)に本人が書いている。

 当時の新聞を見ると、毎日新聞は発生を報じる9月27日付朝刊1面に乗客名簿を載せている。専用線で電話送稿したのだから1千人を超す名簿を送り終えるまで何時間かかったのだろうか。翌日の夕刊にもさらにスペースを割いて掲載している。他紙は27日夕刊からで、名簿が特ダネになったわけだ。参考までに、この日の朝刊1面を。

昭和29年(1954年)9月27日(月曜日)本紙朝刊紙面

(堤 哲)

 

25日の都市対抗野球決勝は小池百合子都知事が始球式

前年優勝のトヨタ自動車から黒獅子旗の変換を受ける丸山昌宏毎日新聞社社長

 ちょうど90年前に始まった都市対抗野球大会。ことしは第88回を迎え、7月14日に東京ドームで開幕した。参加32チーム。優勝戦は25日午後6時からだ。始球式は東京都知事小池百合子さんだ。

開会式でスタンドに向かって並ぶ大会役員
(女性=金子めぐむ総務大臣政務官)
左隣が丸山昌宏毎日新聞社社長

 この大会は、明治神宮外苑に4万人収容の野球場新設(1926(大正15)年10月完成)から始まった。東京日日新聞と朝日新聞に各5千円の寄付が持ちかけられ、それを知った当時の東京日日新聞の野球好きの記者たちが、東京に相応しい一大野球大会を創設しようと企画した。ヘッドハンティングしたのが橋戸頑鉄(1879~1936)だった。

 頑鉄はイの一番で野球殿堂入りしているが、当時は大阪朝日新聞から大正日日新聞の記者をしていた。頑鉄は第1回早慶戦、日露戦争のときにアメリカ遠征したときの早大主将。その著『最新野球術』は、全国のプレヤ―の教科書となった。

 米大リーグを参考に都市対抗野球としたのは、頑鉄のアイデアだった。頑鉄は全国を回って社会人チームに参加を呼びかけた。優勝旗は画家の小杉未醒(のち放庵)に依頼、バビロンのレリーフから黒獅子が生まれた。

 参加12チーム。「暑中でもあり簡素を尊ぶ意味から入場式を省略し」と記事にある。華やかな開会式は夢のまた夢だったのだ。

大会始まりを伝える東京日日新聞夕刊

昭和2年8月4日付東京日日新聞夕刊から抜粋。
左側の写真(上)西久保市長の始球式、下が観客

(堤 哲)

 

終戦秘話 幻の和平工作 藤村先輩、スイスで活動

社友 河合喜久男

藤村義朗氏

 今年は戦後72年。毎年8月15日が来ると、日米直接和平工作に尽した先輩・藤村義朗海軍中佐(当時)のことが思い出される。

 当時、終戦工作として、モスクワでのソ連仲介工作、中国・重慶での繆斌(ミョーヒン)工作とともに、スイス・ベルンでの藤村先輩の和平工作があげられる。中でもスイス大使館付武官の藤村武官と米戦略機関欧州長官のアレン・ダレス氏との交渉が、最も実現性が高かった。しかしいずれも成功せず、歴史の歯車は正常に戻らず、日本のポツダム宣言受諾、降伏に至ったことは痛恨の極みである。

 藤村武官は、大阪の旧制堺中学の15年先輩で江田島の海兵卒、昭和15年海大卒、ドイツ大使館付武官補に赴任。私は京大卒、毎日新聞社に入社、休職、海軍予備学生として特訓後、昭和18年末士官任官、海兵教官に就任。先輩とは海軍でもご縁がある。

 昭和20年3月、先輩は敗戦で断末魔のベルリンからスイスに転任。親日家のドイツ人、ハック博士の紹介で米ダレス長官と終戦和平交渉に入る。先輩は若い頃から国士的で、日本をドイツの様にしてはならず何とか救いたいとの一念からだった。藤村武官から東京に緊急第一電が発せられたのが同年5月で、以後35通も暗号電を打たれたが、満足な返電は得られなかった。

 この交渉に協力した人に、海軍嘱託・大阪商船の津山重美駐在員(暗号電作成)や朝日新聞社特派員、笠信太郎氏、横浜出生・ダレス機関員ブルーム氏らがいる。機密保持しながら東京の首脳部に打電された。しかし東京では、ソ連仲介を重視、スイスでの交渉には積極的でなかったようだ。

 日本側は和平条件に、①日本の主権・国体維持②商船隊の維持?台湾・朝鮮の維持を主張。米国側は①②は良いが?はヤルタ会談で決定済みで難しいとのことだった。

 戦況はいよいよ悪化、広島、長崎に原爆投下、沖縄焦土戦、東京空襲、米軍の日本本土上陸計画など、昭和天皇は陸軍の本土決戦計画、竹槍戦法などお叱りになり、終戦を決意される。スイスでの終戦和平工作は幻の挽歌に終わることになる。

 敗戦後、藤村先輩は帰国、日本再建に貢献すべく、神田で露天商を始め、東京・青山で貿易商・ジュピターコーポレーション開業、社是の第一条には「会社、社員の人格即ち品性を磨くこと」とある。また海兵の5省訓の第一条には「至誠に悖るなかりしか」とあり、「モラロジー」(最高道徳)を研鑚、品性を高め、まごころを貫くことにつとめられた。千葉県富津市にハイテク工場建設、特異な貿易商社として発展せしめ、平成4年3月富津で永眠、信望を集めた内外から悔やまれた。

 帰国後の藤村先輩に、米内海相は「スイスでの和平交渉に賛成、実現につとめたが力及ばず申しわけなかった」と詫びられたと、本人から聞かされた。

 スイスでの終戦和平交渉は、藤村先輩自身の「思い出の記」やテレビドラマ「欧州から愛をこめて」、映画「アナザウエイ」、テレビドキュメンタリー「祖国へ緊急暗号電」等で記されている。

 先輩は「真の情報をつかみ、判断を的確にするのは、その人の品性による。非常時における最高リーダーの資質と判断がいかに大事であるか」を経験したと、私に語ってくれた。「知識より叡智を、真の情報をつかみ判断を誤らぬように」と先輩からの教訓でもある。(平成29年7月6日記) (注)河合喜久男さんは本年5月で満96歳になられました。

(河合喜久男)

 

続・写真部、有楽町最後の日

 写真部OBの中尾豊さんから「オレは有楽町最後の泊まり番だった。その日の写真をファイルしていたので送ります」とメールで。

1966(昭和41)年9月22日最後の日の勤務表
デスク 夕刊大沢勇之助、朝刊染谷光雄
泊    橋本保治、*中西浩、*中尾豊
早    *川島良夫
残?10  三十尾清、影山日出男、*永井誠
内勤   藤田君幸、鈴木久俊
明    荒井英雄、松野尾章、*酒井孝一
羽田   山添昭二
時短   明け
欠    上村勉
                 (*印は存命者)

 左から中尾豊、橋本保治、山内巖、伊神碩人、石井清(部長)、吉村正治(デスク)、その上藤田君幸、右に寺尾勇、大沢勇之助(デスク)、影山日出男、上に中西浩、三十尾清、手前木村謙二、右に佐藤龍彦、新倉義政、南川昭雄

 存命は、中尾豊、中西浩の2人だけです。

(中尾 豊)

 

有楽町最後の写真部スナップ

 51年前、毎日新聞東京本社が有楽町から竹橋パレスサイドビルに引っ越すときの写真が、東京写真部OB会(6月10日開催、「集まりました」参照)で披露された。当時事務補助員の八木英雄さん(69歳)が保管していた。

 真ん中で椅子に座っているのが寺尾勇、その後が木村謙二。顔半分の人は不詳で、右に佐藤龍彦、山内巌、橋本保治、手前新聞を開いているのが新倉義政。その右奥は地方部員。中央から左に三十尾清、影山日出男(敬称略)。全員鬼籍に入っている。左端が当時18歳の八木さんだ。

 写真の左端にカメラ機材搬送用のジュラルミンケースが数個と段ボール箱が山積みになっている。引っ越し作業が一段落して、写真部員が撮影したスナップである。

 八木さんによると、当時、航空写真は、有楽町の東京本社上空で生フィルムをパラシュートに付けて投下、地上でキャッチして現像していた。「この仕事がスリリングで面白かった」といっている。現在はデジカメで撮影したデータをパソコンに取り込み、スマホでヘリから機上電送する。フィルムの投下も現像もない。空撮の映像が写真部、いや写真映像報道部デスクのパソコンに現れる。暗室が消えて何年になるのだろうか。

 八木さんは、1963(昭和38)年中卒で補助員となり、定時制高校から24歳で大学を卒業するまで9年間働いた。その後、鷺宮製作所―高千穂交易―インテック。36歳で㈱八木ビジネスコンサルタントを設立。大型コンピューター向けのプログラム作成などで、年商5億円にのぼる。5年前に社長を引退、社員から登用した社長がすでに3代目になっている。2004年、創立20周年記念で200万円を毎日新聞東京社会事業団に寄託した。一番裕福な写真部OBである。

(堤 哲)

 

野球殿堂入りの毎日新聞関係は美嶺さんが19人目

 ことし野球殿堂入りした元毎日新聞運動部記者鈴木美嶺さん(1991年没、70歳)の殿堂入りセレモニーが5月27日(土)東京六大学春のリーグ戦最終週早慶1回戦の試合開始前に行われる。

 毎日新聞関係者で野球殿堂入りは、美嶺さんが19人目。野球の発展に、毎日新聞がどれほど貢献してきたか。

 野球試合の報道はもとより、プロ野球がない時代に、学生野球のスターらを社員に採用して「大毎野球団」をつくった。日本で最強の野球チームとなって、全国に遠征して地元中学(旧制)の野球部を指導した。アメリカにも遠征して、米大統領を表敬している。春のセンバツ大会、夏の都市対抗野球大会を主催。戦後、プロ野球がセ・パ2リーグになったとき「毎日オリオンズ」を結成、パ・リーグで優勝し、さらにセ・リーグの覇者松竹ロビンスを降し、日本一に輝いている。初代である。

 ここで19人を紹介したい。まずは橋戸頑鉄から、生年月日の古い順に。この情報を掘り下げて「野球文化學會」の論叢集「ベースボーロジー」第12号(今秋出版予定)に執筆しようと思っている。もっとも学会誌なので、論文審査にパスしたらの話ですが。

 では――。

 ①橋戸 信頑鉄、1879?1936)青山学院―早大。第1回早慶戦(1903年)、早大アメリカ遠征(05年)の主将。『最近野球術』出版。日本初のプロ球団日本運動協会結成に参画。大阪朝日記者として夏の中等学校優勝大会に関与、大阪毎日(大毎)・東京日日(東日)記者として都市対抗野球大会創設に尽力。「橋戸賞」に名を残す。

 ②三宅大輔(1893?1978)慶大―大毎。1925年早慶戦が復活した時の慶大監督。1927年都市対抗野球第1回大会に東京倶楽部から出場。大会第1号ホーマー(ランニング)を記録。プロ野球誕生に参画し、巨人軍初代監督。阪急監督も。「野球入門」など著書多数。

 ③腰本 寿(1894?1935)ハワイ出身。慶大―大毎。「大毎野球団」アメリカ遠征のキャプテン。慶大監督。15シーズンで7回優勝し、「エンジョイ・ベ-スボール」で慶大の黄金時代を築いた。選手からは「お父っあん」と慕われた。40歳で病没。

 ④岡田源三郎(1896?1977)早実で第1回全国中学校優勝野球大会出場。1番捕手。明大―大毎。1923?35年明大監督で黄金時代を築く。1925年ハワイ遠征の帰国船で大毎野球団と乗り合わせ、湯浅投手、天知捕手ら主力6選手を大毎へ。名古屋金鯱軍初代監督。

 ⑤小野三千麿(1897?1956)慶大―大毎。野球殿堂HPに「米大リーグ相手に初の白星を挙げた剛球投手」とある。大毎野球団の大黒柱。大毎体育部長(戦時中運動部を改称)。都市対抗野球大会の補強制度を考案。「小野賞」に名を残す。

 ⑥石本秀一(1897?1982)大阪毎日新聞広島支局。母校広島商業監督として、1924年、29?31年の4回夏の甲子園で優勝。31年センバツも優勝して、夏春夏と甲子園制覇。「真剣刃渡り」の伝説を残す。1936年大阪タイガース二代目監督。名古屋金鯱軍、大陽ロビンス各監督。1950年創設の広島カープ初代監督。

 ⑦桐原眞二(1901?1945)北野中―慶大―大毎。1924(大正13)年慶大キャプテン。遊撃手。早慶戦の復活に全力をあげ、翌25年秋、19年ぶりに早慶戦が復活し、学生野球人気が過熱した。大毎経済部長から出征し、戦死した。

 ⑧浜崎真二(1901?1981)広島商―神戸商―慶大―満鉄。身長150㌢の左腕投手。夏の全国大会、早慶戦で活躍。大毎野球団の満州遠征に参加。都市対抗野球第3回大会で大連満州倶楽部の優勝に貢献。阪急、高橋、国鉄の各監督。「球界のご意見番」。

 ⑨天知俊一(1903?1976)捕手。明大―大毎。湯浅禎夫投手と黄金のバッテリーといわれた。東京六大学・甲子園大会の審判員。帝京商(現帝京大高校)監督。選手に杉下茂投手。中日ドラゴンズ監督。1954年杉下茂投手を擁して日本シリーズ優勝。

 ⑩井口新次郎(1904?1985)和歌山中学で1921、22年全国中学校優勝野球大会2年連続優勝。早大で三塁手4番。1929年大阪毎日新聞に入社した年に大毎野球団が解散、記者として活躍、西部本社運動部長。センバツ、高野連、日本野球連盟の役員を歴任。

 ⑪横沢三郎(1904?1995)明大―大毎。名二塁手。1923年秋のリーグ戦で明大初優勝に貢献。大毎野球団解散後、東京六大学専属審判員。都市対抗野球の1930年第4回から第9回まで東京倶楽部で4回優勝。プロ野球東京セネタース監督。パ・リーグ審判部長。

 ⑫小川正太郎(1910?1980)左腕投手。和歌山中学でセンバツ、夏の甲子園に計8回出場。センバツ優勝でアメリカ遠征、夏では8連続三振を記録。早慶戦で宮武三郎、水原茂と投げ合った。34年大毎記者。日本社会人野球協会(現日本野球連盟)の発展に寄与。

「毎日オリオンズ」関係では――。

 ⑬若林忠志(1908?1965)ハワイ生まれの日系2世。法大―川崎コロムビア―阪神。“七色の魔球”で1930年30勝。元祖・頭脳派投手。42年阪神で監督を兼任、戦後1946年38歳で阪神に復帰、50年毎日オリオンズに移籍、53年監督。

 ⑭西本幸雄(1920?2011)和歌山中学―立教大学。1949年別府星野組の監督兼一塁手で都市対抗野球大会優勝。翌50年毎日オリオンズ入団。大毎、阪急、近鉄20年間の監督生活で8度リーグ優勝。しかし、1度も日本一に就けず、「悲運の名将」といわれた。

 ⑮別当 薫(1920?1999)甲陽中学―慶大―阪神―毎日オリオンズ。50年43本塁打、105打点で本塁打王、打点王の2冠。打率.335、盗塁34で初のトリプルスリー。1954年オリオンズ監督。その後近鉄(62?64)、大洋(1967?72、77?79)、広島(73)監督。

 ⑯荒巻 淳(1926?1971)別府星野組―毎日オリオンズ。「火の玉投手」。1949年都市対抗野球大会優勝、最高殊勲選手賞「橋戸賞」を受けた。翌50年プロ入りして26勝8敗、防御率2・06で最多勝と防御率第1位となり、パ・リーグ初代新人王。

 ⑰山内一弘(1932?2009)川島紡績(現・カワボウ)―1952毎日オリオンズ。「打撃の職人」。60年本塁打王と打点王の2冠、MVP。その後阪神に移籍、プロ野球史上初の300本塁打。オールスター16回出場「オールスター男」。ロッテ、中日で監督を務めた。

 ⑱榎本喜八(1936?2012)早実ー1955毎日オリオンズ。「安打製造機」。新人で開幕戦5番デビューし、新人王。首位打者2回(60年 .344、66年 .351)。プロ野球史上最年少の31歳7か月で2000本安打を達成した。2016年殿堂入り。

 ⑲鈴木美嶺(1921?1991)「みれい」はフランスの画家ミレーから。東大野球部から日刊スポーツを経て1950年毎日新聞入社。都市対抗野球大会で運動面連載の「黒獅子の目」は逸品だった。殿堂入りはプロとアマの野球規則書を統一した功績。

(毎友会HP随筆欄・諸岡達一さんの記事参照)

(堤 哲)

  

45年前のセンバツ優勝戦も雨で一日順延された!

1972年4月8日付 運動面と東京版

 ことしのセンバツは話題豊富で面白かった。早実・清宮幸太郎クン人気に、延長15回引き分け再試合が2試合連続であったうえ、決勝は大阪勢同士。89回を数える大会で、史上初が重なった。

 同じ地区代表が優勝を争うのは、1972(昭和47)年以来45年ぶりと話題になったが、大阪本社社会部員だった私は、この年(毎日新聞創刊100年)のセンバツ担当だった。キャップが3年先輩の津田康さん。京都大学野球部時代、関大の村山実投手(のち阪神)と投げ合ったというのが自慢だった。

 決勝は、2連覇を目前にした日大三高と、ジャンボ仲根正広投手(のち近鉄、故人)の日大桜丘。今回同様、雨で一日順延となり「決勝は神宮球場に帰ってやったら」と嫌みをいわれた。観客席に空席が目立った。

 社会面をどんな記事で埋めるか。ドキュメント東京勢兄弟決戦を企画、両校キャプテンが大会本部でジャンケンで先攻・後攻を決める現場から取材を始め、15時14分のゲームセットまで球場内を駆けずり回った。そこそこ面白い読み物になったと思った。しかし、いかんせん長すぎた。ナンパは応援の先輩記者がサラサラと書いてくれた。

 ドキュメントは東京版に掲載されたことをあとで知った。

 大阪桐蔭の優勝を詳報することしの運動面には、高校日本代表監督小枝守さん(65歳)の大会観戦記が載っていた。その小枝さんは、45年前の甲子園ではV2を逃した日大三高のコーチだった。その後、日大三高、拓大紅陵高校の監督として、甲子園でおなじみの顔となった。

 ついでながら1年置いて1974(昭和49)年に再度センバツを担当した。さわやかイレブン池田高校が準優勝した年で、相方は酒井啓輔さん(元毎日グラフ編集長)だった。

(堤 哲)

  

「金メダル16個! 五輪成功の“立役者”」大島鎌吉

 1964年東京五輪の日本選手団団長、故大島鎌吉さん(毎日新聞運動部OB、1985年没76歳)が、「東京五輪を作った男」として2月22日午後9時からのNHKニュースウォッチ9で紹介された。

 NHKのHP:http://www9.nhk.or.jp/nw9/digest/2017/02/0222.htmlからまず写真を2枚。

東京オリンピックの開会式。日本選手団団長として行進する大島鎌吉さん。
1932年関西大学生としてロス五輪三段跳びで銅メダル(15メートル21)

1934(昭和9)年 毎日新聞社入社。
1936(同 11)年 ベルリン五輪出場。旗手兼主将。
1939(同 14)年 毎日新聞ベルリン特派員。
1945(同 20)年 ベルリン陥落を送稿。帰国後政治部→運動部。
1952(同 27)年 ヘルシンキ五輪特派員。ローマ法王謁見。アテネ採火式。
1959(同 34)年 ミュンヘンIOC総会で64東京五輪開催決定。JOC委員。
1964(同 39)年 東京五輪で日本が金メダル16個を獲得。選手団長。

 大島さんは、選手強化対策本部長として、競技ごとに専属のコーチやドクターをおき、最新のスポーツ科学や栄養学を導入した。伴義孝関大名誉教授は「竹槍精神ではどうにもならないんだぞ、根性主義と科学をミックスさせないと、金メダルを取ることはできない」と大島さんはいっていたという。

 番組では、大島さんが生涯にわたって訴え続けたメッセージを紹介する。「オリンピックは平和のためにある」。日本はアメリカに同調して1980年モスクワ五輪をボイコットしたが、当時71歳の大島さんは「日本はボイコットすべきではない」という声明文を英語とドイツ語で100か国以上のオリンピック委員会に送っている。

 そして録音テープに残されたメッセージを紹介する。

 「世界の平和を考えるのはオリンピックだけじゃないかと確信している。この空気が日本によく伝わっていない。スポーツが毒されちゃ困る、何とかしなけりゃならんというのは、“スポーツ馬鹿”がこれからやる仕事のひとつだ。まぁ、しっかりやってくれよな」

 これが2020年東京五輪・パラリンピックへの遺言だ、と番組はいう。

 大島さんから直接指導を受けた毎日新聞の後輩、元大阪本社運動部長の中島直矢さん(2009年没96歳)は『スポーツの人 大島鎌吉』(1993年関大出版部刊、伴教授との共著)を出版、東京本社運動部の伊東春雄(1993年没69歳、東京体育専門学校(現筑波大学)が箱根駅伝に初参加した1947年から2大会連続出場、48年の第24回大会は1区2位の記録が残っている)は大島鎌吉の後継者として国民皆スポーツ運動に取り組んだ。ヘルシンキ五輪の400H、1600メートルリレーに出場した岡野栄太郞さん(86歳、元東京本社運動部長、同事業本部長、元毎日新聞取締役)は大島イズムを中央大学の学生時代から聞かされ、東京五輪の取材で活躍した。

 そして現役の滝口隆司記者(現水戸支局長)は、「五輪の哲人 大島鎌吉物語」を2014年11月から35回連載、2014年度ミズノスポーツライター賞優秀賞に輝いた。

ベルリン陥落直前の模様を伝える大島特派員の電話連絡

(1945年4月24日付毎日新聞)

(堤 哲)

  

パロディ展に、懐かしの「毎日グラフ」

 ヒゲを生やしたモナリザ。マルセル・デュシャンの作品を表紙にした「毎日グラフ」が、東京ステーションギャラリーで開かれている「パロディ、二重の声――日本の1970年代前後左右」展で展示されていた。

 パロディを特集した1979(昭和54)年6月3日号。編集長は鈴木茂雄(元写真部長)、取材スタッフに山田国雄、西井一夫(3人とも故人)とあった。

 同展で展観中の目玉作品、木村恒久「都市はさわやかな朝を迎える」も紹介している。NYマンハッタンのビル群にナイヤガラの滝をコラージュした傑作だ。

 「毎日グラフ」は戦後間もない1948(昭和23)年7月に創刊。最大のヒットは74(昭和49)年から刊行した別冊「一億人の昭和史」だった。単行本も含め95冊、延べ1900万部を販売したと社史にある。

 「毎日グラフ」が廃刊となって久しいが、ネットオークションではバックナンバーに結構高い値段がついている。

 同展は4月16日(日)まで同ギャラリー(JR東京駅丸の内北口)で。

 注:会場内での写真撮影は禁止されています。掲載の「毎日グラフ」はプレビューの際、許可を得て撮影しました。

(堤 哲)

  

エスプリ記者・・・鈴木美嶺さん「野球規則の風神」

 元毎日新聞運動部記者・鈴木美嶺(すずき・みれい=1991年10月死去・享年70)さんが2017年1月、野球殿堂入り(特別表彰)した。美嶺さんは1955年、プロ・アマ別々だった公認野球規則の一本化と編纂に尽力するとともに、野球ルールを明瞭に説明した多くの著書で、野球の普及に貢献した。有楽町時代に運動面作りをしていた僕は、たびたび美嶺さんと「野球談議」をしたので、殿堂入りの第一報に涙が出た。

 鈴木美嶺さんが「自ら」野球規則を新規に規定させた出来事がある。美嶺さんの目の前で大変なことが起こったのだ。昭和26(1951)年3月18日、後楽園球場、春の社会人野球大会「大昭和製紙」対「全藤倉」。4回裏、大昭和は走者1,2塁でバッター朝比奈三郎が右翼スタンドに大ホームランを放った。二塁走者・石井藤吉郎は三塁を回ったところで一塁走者の浅井礼三を待って握手。嬉しさの余りか、浅井が石井を追い越して一瞬「入れ替わった」が、三人相次いでホームイン。3点。と、そのとき全藤倉監督・土井寿造「浅井が追い越したっ。アウトだアウトだ」と猛抗議。美嶺さんの顔に向かって飛び掛からんばかり。三塁審判は美嶺さんだった。運動部記者が審判もやっていたのである。社会背景といい人間の自由さといい《嬉しい時代》だったねえ。三塁審判美嶺さんは当然「インプレイで、マエの走者をアトの走者が追い越せばアトの走者がアウト」という規則は知っていた。自分の目の前で「見た」出来事……だったが、ン?? 今のはホームラン。「試合停止球」でのこと。とっさのことで頭の中が混乱した美嶺さんは審判団を集めて協議(何分くらいか忘れるほど長かった)……美嶺さん結論「インプレイでも試合停止球中でも走者の順序は同じである。今のは浅井がアウト!」。当時曖昧だった「走者追い越し規則」がこのときの美嶺発言どおり決定し、1951年5月からセ・パ両リーグもルールブックに明記された。

 「規則の鬼」どころか「野球ルールそのもの」の美嶺さんは「無通告代打モンダイ」「2ストライク後のホームスチール」「捕手の故意落球モンダイ」「塁審が守備を助けた噺」「第三アウト後の得点」「投げたグラブに打球が当たった」「蹴ったタマがスタンドに入った」などなど……野球規則難問が大好きだった。「こんがらがった糸」にたとえて英語ではknotty problem。 野球界では「baseball’s knotty problem」。もめごとを面白がるアメリカでは本が様々出ていて美嶺さんは片っ端から読んだ(左の写真はThe sporting news社が1990年に刊行したPaperbackの表紙)。なんせ美嶺さんは昭和30(1955)年に毎日新聞が招いたニューヨーク・ヤンキースの通訳兼世話役を任されてミッキー・マントルやビリー・マーチンら大スター選手と仲良しになるくらい英語が堪能だった。帝国大学(東大)での専攻が「西洋史学」……さぞかし原書を読んだのだろう。

 美嶺さんは昭和25(1950)年春に始まった「日本の野球界全体に適用される規則」を作製するプロ・アマ5団体会議の書記を担当して以来、歴史的ルールブック編纂にかかわった。ために、美嶺さんは昭和26(1956)年春、日本初の「公認野球規則」(当時は非売品・恒文社刊)の「はしがき」を書いた。肝心な一文は『……疑念のある個所は米国規則委員会に問い合わせ、つとめてアメリカ・日本の解釈に統一性を持たせるように心がけた。<ただ一つの規則>が日本の野球界に出来上がったということは野球史上画期的なことであるという喜びをもって、本書を諸兄に贈る次第である』と、誇っている。これをだいぶ後になって美嶺さんは「なんとまあコチコチで舌足らずの文章を書いたもんだなあ」と述懐しているから面白い。「美嶺さん、はしがき頼みますよ」と規則の神様・山内以九士に言われてからずっと、お亡くなりになる(1990年)直前まで書き続けた。

 美嶺さんは旧制八高(現・名古屋大学)を昭和17年卒→帝大では野球部。二塁手だったが昭和18年?昭和19年(1943?1944)は六大学野球が中止となり「野球のない野球部に籍を置いていた18人」中の1人だった(美嶺さん筆の東大野球部史)。公式戦はなかったが元住吉へ遠征して法大と練習試合、東長崎で立大と練習試合して、それぞれジャガイモをご馳走になった。早稲田戸塚球場を借りて京大との定期戦もやっている。昭和18年10月かの有名な雨降りしきる明治神宮競技場で行われた出陣学徒壮行会には、動員を掛けられながらも参加しなかった野球部員もいた(美嶺さんの行動は不明)。

 それからというもの、一誠寮(本郷・野球部合宿所)では出征の決まった選手らが「……堂々と陣を組んで白山の花街に行った。これがこの世の別れだと全員が心の中で思った。宴は終わった。芸者が寮まで送ってくれた。じゃ、お達者でね……彼女たちは軍歌を唄いながら夜の道を帰っていった。翌日から一誠寮の窓は、ひとつ消え、ふたつ消え……」と、同じ部史にある。

 美嶺さんはお茶目だ。ルールブックにまつわる著書に「歳末狂騒曲の中を“なんの因果で”野球規則編纂委員会なんかに出席しなければならないのか……上司である小川正太郎さんに頼まれては仕方がない……」などと大っぴらにグチをこぼしているのだから相当のエスプリ男である。美嶺さんの毎日新聞社内野球での活躍ぶりも運動部球史上で輝いているが、整理部との定期戦での諧謔プレーは傑作だった。一塁走者になった美嶺さん、ピッチャーが捕手(諸岡)の返球をマウンド上でポロリと落とした。美嶺さん「ボーク、ボーク」と言って二塁へ歩いて「野球規則8・05(g)だよ!」と笑った。それを聞いたT君怒ってグラブとボールをグラウンドに叩きつけた。美嶺さん「あ、またボーク、ボーク」。平然として三塁へ歩いた。

 *注 野球規則8・05(g)は、現規則では6・02(7)。

(諸岡達一・記)

一般財団法人全日本野球協会 Baseball Federation of Japan (略称B.F.J.)の英文サイトに、鈴木美嶺さんの野球殿堂入りと、「野球文化學會」再興総会の記事が掲載されました。

Press announcement was attended by new inductees and guests as well as a large number of media and observers. (Photo: Courtesy of Baseball Hall of Fame and Museum of Japan)

“Mr. Rule Book of Japan” and a Former Amateur Umpire were posthumously inducted into Japan's Baseball Hall of Fame

Japan’s Baseball Hall of Fame and Museum announced on January 16, 2017 that Mirei Suzuki (1921?1991), a former member of the nation’s Baseball Rules Committee, and Hiroshi Goshi (1932-2006), a longtime umpire in high school, college and industrial league baseball, were chosen by the Special Selection Committee. They received votes on 12 of 14 valid ballots.

Two members of professional experts category; former Chunichi Dragons Senichi Hoshino and The Taiyo Whales’ (now Yokohama DeNA BayStars) Masaji Hiramatsu, and one professional players category; former Seibu catcher Tsutomu Ito were also voted into the Hall of Fame bringing the total number enshrined to 197.

Seventy-five percent ? or 250 votes from veteran baseball-covering media and Hall inductees who have been enshrined at least from the previous year ? was needed in the players category this time. The same percentage of votes (84 in this case) was also required for entry via the experts category, which features former players and coaches.

Mirei Suzuki went to WWII under the student mobilization order in the middle of his studies (and baseball club) at the Tokyo Imperial University (now the University of Tokyo). After being demobilized, he worked with The Mainichi newspaper as a sports writer and was instrumental in running the Rules Committee from 1955 to 1991. Up until 1955, Japan’s professionals and amateurs relied on the rule books of their own which were consolidated in 1956 and subsequent issues have been renewed annually by reflecting the changes in the Official Baseball Rules of the Major League. Suzuki paid careful attention to the Japanese translation so that it may accurately convey the meaning and implication of the U.S. Rules and often referred to the Major League for clarification. Suzuki read the Stars and Stripes of the U.S. occupation forces to learn what was going on at the Major League during the time when there had been limited supplies of news from overseas.

◇Baseball Federation of Japan 公式サイト:http://baseballjapan.org/eng/

  

円谷幸吉選手に銅メダルをかけた高石真五郎IOC委員

 東京五輪まであと3年。毎日新聞社会面の連載「東京2020への伝言」は、第1回にマラソンの円谷幸吉選手を取り上げた。1964東京五輪の陸上競技で日本が獲得した唯一のメダル。国立競技場に初めて日の丸を揚げたのだ。

 「よくぞ円谷! 闘志の“日の丸”」毎日新聞は社会面トップで円谷の健闘を伝えた(10月22日朝刊)。金メダルは五輪2連覇のアベベ(エチオピア)、銀メダルが国立競技場内で円谷を抜いたヒートレー(英国)。メダルを授与したのが、手前の禿頭・高石真五郎元毎日新聞社長(86歳)である。

 高石は、20世紀最初の1901年(明治34年)慶應義塾大学法学部を卒業して大阪毎日新聞社に入社。日露戦争後のロシアへ一番乗り。文豪トルストイと会見など「外電の毎日」を背負って立った花形記者、と社史にある。

 東京五輪の標語「世界は一つ 東京オリンピック」は、毎日新聞が募集して35万通の中から選ばれたが、その最終選考委員会で「世界は一つ」でどうだろうか、と発言したのが高石だった。

 IOC(国際オリンピック委員会)委員となったのが、戦前の1939(昭和14)年。敗戦直後に毎日新聞の社長を3か月務め、その後日本自転車振興会(現JKA)の会長。64年東京五輪、72年札幌冬季五輪招致に寄与したが、1967(昭和42)年に亡くなった。88歳だった。

 慶應義塾野球部の初期のメンバー。ゴルフ好きで、相模原ゴルフ倶楽部や武蔵カントリークラブの初代理事長。「一眼 二足 三胆 四力」。柳生新陰流の極意がゴルフに通じると、真五郎書の額が相模原ゴルフ倶楽部などに掲げられている。

世界は一つ標語の垂れ幕が掛かった
毎日新聞旧社屋

 毎日新聞社内のゴルフコンペで一番の伝統と格式を誇る「高石杯」は、今も続いている。

 「東京五輪の報道戦は大勝利」と、仁藤正俊東京本社運動部長に社長賞が贈られたが、高石をはじめ取材班をバックアップしたOB人脈もスゴかった。日本選手団長・大島鎌吉(1932年ロス五輪三段跳び銅メダル)▽陸上競技監督・南部忠平(同金メダル、元大阪本社運動部長)▽マラソンコーチ・村社講平(1936年ベルリン五輪陸上5千、1万メートル入賞。びわ湖毎日マラソン、全国高校駅伝を創設)▽水泳監督・葉室鉄夫(1936ベルリン五輪水泳200メートル平泳ぎ金メダル、甲子園ボウルを創設)▽組織委競技部長・藤岡端(前東京本社運動部長)▽組織委接伴部委員・藤田信勝(論説委員、「余録」筆者)▽日本陸連国際部長・北沢清(戦前ツールドフランスに倣って大毎・東日主催で自転車競技大会をいくつも企画・実行した。戦時中の文部省体育課長。元運動部記者)▽日本陸連管理部長・小沢豊(広告OB)▽国立競技場長・久富達夫(元政治部長)。

 2020年東京五輪の紙面はどうなるのか、楽しみでもある。 [敬称略]

(堤 哲)

  

戦艦武蔵の生き残り、塚田義明さんの思い

 12月4日放映のNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期」に、社会部の先輩、皇室ジャーナリスト塚田義明さん(89歳)が出演した。

 「戦艦武蔵」の生き残りの塚田さんは、1942年(昭和17年)中学2年のとき、第1期海軍練習兵(特別年少兵)を志願。砲術学校を卒業して、「武蔵」の乗組員となった。16歳だった。

 全長263メートル、最大幅38・9メートル。排水量6万4千トン。

 主砲の46センチ砲は、砲身の長さ20メートル、射程距離四方2キロ。主砲弾は長さ2メートル、重さ2トン。

 とてつもない装備をした不沈艦だった。

 しかし、1944(昭和19)年10月24日のレイテ沖海戦で米軍機の爆撃・魚雷を受け、沈没する。「乗組員2399人のうち生還者は430人。沈没時に救助された乗組員(1千人以上)の多くが陸上戦に動員され玉砕した」

 番組で塚田さんはこうコメントしている。「乗組員がいかに戦い死んでいったのか、知ってもらいたい」「悲惨な結末、戦争のむなしさを知って欲しい」

 塚田さんが書いた『戦艦武蔵の最後:海軍特別年少兵の見た太平洋海戦』(1994年光人社刊)は文庫本にもなっているが、この中で唯一の救いは、塚田さんが「艦内の有名人になった」という項目。昼食後、当番以外の乗組員全員が甲板に出て「海軍体操」を行う。約30分。その号令をかける人は決まっていない。乗艦して20日ほど経ったとき、号令台に人がいなかった。「私は号令台になる機銃指揮所の塔頂に、一気に駆け上がった」。

 その後、兵学校出身の少尉と2人で交代でやるようになったが、「あの少年兵やるじゃないか」とすっかり有名人になったという。

 私の知っている塚田さんは、シャイで、大勢の前で号令をかけるのは得意と思わなかったが、水兵さんは元気いっぱいだったのである。

(堤 哲)

                          

[ワシントン発ロバートソン黎子]頑張れ新聞!

 米ワシントン在住の元毎日新聞記者ロバートソン黎子さんは、ナショナルプレスクラブに属し、日本のメデイアに情報発信している。84歳の現役ジャーナリストである。

 11月25日付熊本日日新聞のコラムは、新大統領に決まったトランプ氏を取り上げているが、見出しは「アメリカ民主主義最後の砦」。頑張れ、新聞である。

 大統領選でニューヨークタイムズなど主要紙は、クリントン支持を表明した。「真実を報道しない」とマスコミ批判を繰り返したトランプ氏だが、ニューヨークタイムズには自ら出掛けて記者たちと会見した。

 同紙は、その模様を記事、社説できっちと取り上げた。

熊本日日新聞のコラム
「ウーマンズ・アイ」第151回

 〈アメリカの民主主義を守る大きな柱は新聞である、という認識が、昔からアメリカ社会にはある〉 

                  

 〈「新聞は社会の木鐸」という自負が、日本の新聞にも昔からある〉

 〈読者のよりどころとなる新聞に、エールを送りたい〉

 ロバートソン黎子さんは、1957(昭和32)年早大政経卒。駆け出しの仙台支局でフルブライト留学生募集を知って応募、ヴァージニア大学に1年間留学。59年10月帰国後は外信部。日曜夕刊一面のインタビュー記事をまとめて『もしもしハロー-私は第一線婦人記者』を出版している61年退職、結婚してアメリカに渡った。 

           

 メールには「日米は、これからどうなってゆくのかな、混沌としていますね。

 トランプ本人にもわっかちゃいない、というのが本音かもしれませんが」とあった。

(堤 哲)

                          

「君は毎日オリオンズを覚えているかい?」

野球雑誌「野球雲7号」表紙
絵は火の玉投手 荒巻 淳

 耄碌すると少年時代の出来事だけは「やたらと思い出す」。不思議だねえ。おとついも朝食時に電子レンジを開けたら昨夜チンしたカレーが入ったまんまになっていて「なんじゃこりゃ!」なのだが、小学4年生で観戦した「巨人・パシフィック戦」(昭和21年6月30日・後楽園)は詳細に覚えているんである。昭和25年の「毎日オリオンズ」なんぞは、親父が「株主優待券」を毎試合くれたんで、学校サボって観に行った。

 で、噺はぶっ飛ぶが「野球雲」という名の野球雑誌7号が「戦後の流星 毎日オリオンズ」特集号を刊行(2016年9月)した。1950(昭和25)年?1957(昭和32)年のパ・リーグを背負った球団の8年間の全貌を描いている。毎日新聞関係者なら「なんという、ああもう、なんちゅう本じゃっ」と絶叫するね。中身が濃いーの濃いの。「オリオンズ盛衰史」「パ・リーグ黎明の星 奇跡と軌跡」「オリオンズ・スター列伝 別当薫から榎本喜八まで」「断然強いと前評判の松竹ロビンスを負かした日本シリーズ全6試合のボックス・スコア」「オリオンズのファーム史」「8年間の全記録」「野球と共に歩んだ毎日新聞」……たまりません! 

 何故に、こよなくも、この特集号が愛おしいかというと、我が毎友会会員2人も耄碌アタマを絞りに絞ったら記者病がブリ返し、この特集に僅かながら協力したのである。自慢すりゃあキリないが僕は1950(昭和25)年3月18日、19日、後楽園球場での毎日2-1近鉄、毎日6-5大映、東都初見参(オリオンズ創設5、6戦目)を内野席最前列ネットに指を突っ込んで観たもんね。

 しっかしさ、新聞社運動部長からいきなりプロ野球の監督になったのは湯浅禎夫だけである。第1回日本シリーズ第1戦(神宮球場。モチ観たよ)で若林を先発投手とした思考は理論派湯浅の策謀。ランエンド・ヒットや中継ぎ抑えの継投策などを考案したのも湯浅野球哲学である。野球殿堂入りしてもいい「このうえなき大物」なのだが、惜しむらくは平和台事件……。

 オリオンズOB会で土井垣さんと喋った時「俺達ゃあ、引き抜かれたんとちゃうで! 若林も別当もな、それぞれが自分の意志でオリオンズに来たんや。本堂なんかはサイン盗みの名人だから、俺が連れてきたんよ」と、しつこく叱責された。むべなるかな。

(諸岡 達一)

ソ連崩壊直後、ロシア・シベリア旅行の思い出

広場に箱を並べただけの店。そんな“何でも屋”で買い物をする主婦。

 1993年、12月19日付けの中学生新聞に掲載した写真で、中央シベリアの奥地、人口6万人ばかりの町レソシビルスクの青空マーケットで撮影したものである。

 外国人を、ましてやアメリカ人など見たことも無い辺境の町の主婦が、米ドルで買い物をしているのに出会った。恥ずかし気に見せてくれた財布には、他に1ドル紙幣が3枚入っていた。

 こんな辺境の町の主婦が、どうして米ドルを持ち、買い物までしているのだろう。

 1991年、ソ連邦が崩壊し、年間7000パーセントものハイパー・インフレに見舞われたロシアだったが、エリツィン大統領が、旧1000ルーブルを新1ル―ブルへと、千分の一もの大デノミを敢行して乗り切った。日々暴落するルーブルに対して、かつての仮想敵国の通貨米ドルのみが輝きを増していた時でもあった。

米ドルのお客様歓迎の張り紙を出したブティック。

 埃を巻き上げて広場に入ってきたトラックが荷台を開くと、待ち構えていた人たちが取り囲む。ブドウが2キロで400ルーブル、卵が1ダース270ルーブルだった。

 世界同一価格を標榜するマクドナルドのハンバーグ・セットが、当時の東京で100円、モスクワで1300ルーブルだったから、ここレソシビルスクでも、米1ドルは1300ルーブルで換算されていると考えてよいだろう。

ブティックの張り紙を拡大すると、「ドル札($)買います」の表示。米ドルがそれほど欲しがっていたのだった!

 当時シベリアの人々の平均月収は2万ルーブルと言われていた。ドルに換算したら20ドルにも満たない。厳しい暮らしを強いられている人々の懸命に生き抜く姿を垣間見た思いでもあった。

 今にして思うのだが、どん底にあえぐロシア経済を象徴する風景を、なぜ本紙の夕刊の持って行かなかったのだろう。浪人者のOBには、本誌持ち込みは、いささか敷居が高かったのだ。

(東 康生)

思い出のモントリオール五輪取材 東康生

 女子重量挙げ48キロ級で銅メタルに輝いた三宅宏美選手だが、競技終了後、一旦戻りかけた足を競技台に戻し、いとおし気にバーベルを抱きしめ、頬摺りした姿をTVで見て心打たれた。16年間、一緒に練習を続けてきたバーベルに「ありがとう」と感謝の言葉を語りかけたのだという。ガッツな父に育てられ、自身もハードな競技を戦ってきた彼女の予想もしなかった心根の優しさに思わず“大和撫子”と呟いていた。

 翌日の新聞は、単純に喜びの写真だけで、私が期待していた頬摺りの写真は載っていない。軽い失望と同時に、1976年のモントリオール・オリンピック取材での痛恨事が生々しく蘇ってきた。重量挙げスーパーヘビー級のソ連のワシリ・アレクセーエフ選手が世界新記録で優勝した喜びの写真を撮り落とした悔しい思い出だ。

 重量挙げの撮影は、単純、退屈な作業である。そして、この時も、称賛の大歓声を聴きながら、いつもの通りに写真説明をつけようとカメラから指を離したその瞬間だった。

 アレクセーエフ選手が、挙げていたバーベルを競技台に落とすと、その反動に乗って高々と歓喜のジャンプする姿が、視野の片隅に見えた。すかさずシャッターは切った。とは言うものの、その瞬間にカメラから指を離していた失態は覆うべくもない。世界から集まったカメラマンが、三脚にカメラを据え、露出から構図まで決めているその前で起きた感動の一瞬を逃した大きさに私は絶句した。

 当時、撮影したカラーフィルムは、翌朝の航空便で東京に送って現像する。13時間の時差に対応するためだ。そのため、撮影した一コマ、一コマには、東京の編集者に判るようにきちんとした説明をつけておかねばならなかった。とは言え、世界から集まった5?60人ものカメラマンの前で起きた感動的シーンを撮りそこなったのは事実である。

 翌朝、各社の朝刊を開くのが怖ろしかった。ところが、何とした事か、この写真がどこにも載っていない。誰も写せなかった・・・?痛恨の思いが一瞬和らいだが、最後に地元紙モントリオール・スターを開いて愕然とした。あの瞬間が、しかも感動的ショットで載っているではないか。すぐスターの写真部に電話を入れた。写真部デスクは、前年に開かれた万国博覧会の取材で知り合ったマックニールだ。オリンピック取材の各国カメラマン懇親パーティーで、日本・カナダ親善の証しと、二人並んで壇上に立ち挨拶を交わした仲である。

 私のぶしつけな質問に「あの写真な?。実は、系列の地方紙の記者から頼まれ、義理もあってな、遊びに行かせてたんだ。仕事に真っ当なカメラマンには撮れる瞬間じゃないヨ。並みいる本職は誰も撮れなかったんだから、気にしなさんな。でも、スゲ?、胸震える感激の一枚だね」。

 写真(上)が翌年の世界報道写真コンテストのスポーツ部門で金賞に輝いた。(下)は私が撮った月並みな写真(毎日グラフ)

「昭和群像」の花森安治氏

(41年前の夕刊連載コラム)写真は花森安治氏

 ちょっと長いが、連載記事の書き出しを紹介する。

 ―暮らしの手帖社社長の大橋鎮子さんを十数年ぶりにたずねたら、開口一番「あれからちっとも変わってないんですよ。私がただ年をとっただけ」というあいさつ。十余年前、大橋さんをたずねたのは、雑誌「暮らしの手帖」の創刊を中心に、彼女の奮闘ぶりを取材するためだった。だから大橋さんの「あれからちっとも」の中には、同誌創刊の(昭和)二十三年九月以来、の意味もこめられていた。

 二十三年以来、現在まで、日本人の暮らしはずいぶん変わった。それなのに、暮らしを主題とする「暮らしの手帖」はなぜ変わらないのか。いや、何が変わらないのか。

 答えを先に書いておこう。同誌創刊以来の編集長・花森安治氏の信条が、である―

 今から41年前、戦後30年企画として、1975(昭和50)年の正月から毎日新聞夕刊3面で連載された「昭和群像」。反戦平和を訴え、日中文化交流を進めた中島健蔵氏に続く2人目が、花森安治氏(1911~78)だった。NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」で唐沢寿明演ずる花山伊佐治である。1936(昭和11)年東大文学部美学科卒。大学時代、軍事教練を拒否して陸軍二等兵から上等兵まで辛酸の限りを経験する、とある。その信条は、縮刷版にあたって連載を読んでもらうとして、最終5回にこうある。

「いまの時代がね、心配で心配で、なにかまた(いやな時代が)きたなみたいな感じがね」

「君が願うところの……ささやかなマイホーム的幸せを手に入れるためには、たぶんその何倍かの〈いささかの勇気〉がなければだめなのだ」

 筆者は社会部編集委員の浅野弘次氏(86年没、61歳)。若い部員から人気のあった知性派記者だった。(堤 哲)

セイシェルの野鳥 背黒アジサシ 元出版写真部 東康生

 新聞社の常識とは言え、突然に、しかも、思いもかけない仕事が飛び込んで、てんてこ舞いさせられたものだ。

 1967年のこと。「毎日グラフ」永戸編集長から「ムツゴロウさんのお供でアフリカに行く、帰りにセイシェルで途中下車?して、野鳥を撮ってきてください。あそこは世界的に貴重な野鳥天国で、まだ日本人カメラマンが入っていない島々なのです」

 当時、BOACがセイシェル経由のナイロビ便を週に一便で飛ばし始めたばかりだった。だから、ここで飛行機を降りると、次の便は一週間後になる。これが取材時間と言うわけだ。

 とは言え、会社を卒業後WHOの事務局長を勤めた野生動物通の永戸さんと違い、私の方はニュース一筋、鳥の写真なんて考えたことも無い。「小さな島ですからね?。鳥は沢山飛んでいるはずですよ」。まるで公園の雀を写しにでも行くように簡単に言う。

 何はともあれ、銀座のイエナで“Bird of Seychelles”なる鳥の図鑑を買い、訳も分からぬままに飛び立った。

 アフリカ取材の撮影フィルムをムツゴロウさんに託して、右も左もわからない島に残されると、撮影への不安が肩に重くのしかかる。一人、インド洋の青空を仰いでいた。宿の親父に図鑑を見せて鳥を写しに来たのだがと尋ねると「そこらに幾らでも飛んでるじゃない?」と言う。島に唯一の観光案内所でも「ここは世界的に著名な鳥の楽園です。沢山飛びまわっているじゃないですか」。何を心配しているのかと言わんばかりで、一向に要領を得ない。

 ともかく私に与えられた時間は一週間だ。レンタカーで島内をかけ廻るがスズメやカモメ、茂みにいるのはキジバトばかりで、図鑑にある珍鳥たちの姿を全く見当たらない。

 一枚もシャッターを切れないままに日が流れてゆく。眠れないままに迎えた一週間目の朝、覚悟を決めた。東京には「けん責」を覚悟でフライトを更に一週間延ばすと電報を打った。夜は、やけっぱち、飲みつぶれても良いと、それまで足を向けなかった島にただ一軒のナイトクラブ“プシー・キャッツ”に繰り込んだ。

 1600ミリと600ミリのドデカイ超望遠レンズをつけたニコンとスナップ用のニコン。それにハッセルブラットと全撮影機材を胸からぶら下げて店に入ると、先ずは女の子たちが驚きの声を上げた。それを聞きつけて男たちがワヤワヤと集まってきた。

 そして一斉に「あの鳥は写したか?」「あそこの岡の茂みを覗いたかね?」。「あの鳥を撮るのなら、あの男のテントを訪ねるべきだ・・・・」。

 もう酒を飲んでる余裕はない。懸命にメモするのが精一杯だった。

 翌朝からノートを頼りに車を走らせた。言われたところに行くと、探し求めていた鳥類図鑑の鳥たちが、目の前を飛んでいる。鳥の観察者たちも私を温かく迎えてくれる。情報はさらに深まった。

 こうなるとポイントを巡って、手当たり次第にシャッターを切りまくるだけだ。世界に16つがいしか確認されていない長い尾が美しい“セイシェル・サンコーチョウ“を、しかも抱卵しているメスに他所のオスがチョッカイをかけているところに、舞戻った亭主?が、メスを守る滅多に見られない情景が撮れた。100羽しか生息していないのではないかと言われる“セイシェル・チョウゲンボー”、特産種“セーシェル・タイヨーチョウ”など貴重な鳥たちが毎日撮れる。

 50羽しかいないとされる“ブラック・パロット”は、餌場への鳥の到来が遅く、ぎりぎり待たされ、帰国便出発10分前に滑り込むというハラハラの撮影にもなった。

 お陰様で「毎日グラフ」は、表紙から57ページを組むこれまでにない大特集になり、お陰でけん責を免れた。

 なお、何度かお茶を一緒したセイシェル共和国大統領(人口4万人の国)からは、返事が無かったが、南アフリカ共和国観光大臣からは、感謝状が届けられた。

 ギタリストで日本のフュージョン界を代表する高中正義さんは、“セイシェル”と言うLPレコードを作ってくれた。

写真は、年に一度、65万つがいの“背黒アジサシ”が集まり産卵し、雛を育てるバード・アイランドで撮影したもの。写真Aは、コロニーへの乱入者を威嚇して、私の後頭部を狙ってくる“背黒アジサシ”を振り向きざまに写した一枚。この写真は、コンテストで優勝し、レコードジャケットにも使ったのだ。毎日グラフの目玉写真は、これにするべきだったかな?。いまも気になっている一枚である。写真Bが毎日グラフ特集の目玉として見開きに大きく使った写真で爽やかさを狙ったものだ。

旧毎日新聞社京都支局 (京都市登録文化財保存1928ビル)を訪ねて

 2泊3日で京都に遊び、1928ビルを訪ねた。ビル上部「大毎」のマークが誇らしげだった。

 東海道の起点三条大橋につながる、かつてのメーンストリート三条通りにある。1928(昭和3)年建設だから、米寿を迎えたことになる。設計は武田五一氏。「社章を象った星型の窓やバルコニーに見られる独創的なデザインだけでなく、ランプカバーや床のタイル、壁に施されたアール・デコの意匠は、今なお斬新」とパンフレットにあった。

 1階に現代美術のギャラリー(入場無料)。B1と2階はカフェ。「壁があの頃のまま残っています。まさに『兵どもが 夢の跡』です」と磯貝喜兵衛元京都支局長。

 講堂のあった3階は劇場になっていて、写真にあるように「ギア」が2012年4月からロングラン公演中。残念ながらこの日は休演だった。

 ビルの前の歩道に道路案内が埋め込まれていた。京都の人はこれで1928ビルに行ける。

 祇園祭直前で、京都駅にも祇園囃子が流れていた。(堤 哲)

安倍晋太郎さんと、先輩の激励

 先日(2016,6,30)の合同懇親会で朝比奈さんが社長8年間の足跡を振り返ったお話は立派でした。感銘深く拝聴した。

 そのあと安倍晋三現首相のお父上、安倍晋太郎先輩のことを思い出した。ご承知のように晋太郎さんは毎日政治部出身、首相候補と目されながら志半ばで病に倒れられた。毎日が新社に移行した当日(1977,12,1)だったと記憶する。9F大会議室で社員大会が開かれ、平岡敏男社長が今後の方針を説明した。会場は満員、遅れて来た人達は社長の話の間、開け放した入口の外から聴いていた。

 私は司会役で入口付近に立っていたが、外から覗き込む人々の間から安倍晋太郎さんのお顔を発見、驚いた。安倍さんは前月、福田改造内閣で官房長官になったばかり。そんな忙しい中を駆け付けてくれたのだ。社長の話が終わり、私はマイクで次の議事を会場に告げたあと、急いで入口に引き返したが、もう安倍さんの姿はなかった。先輩たちは古巣のことを本当に心配しているのだなあ、と今でも忘れられない想い出である。もう1人、坊秀男先輩は当時、大蔵大臣だったと思う。立場上、あからさまに動けなかっただろうが、ピンチの古巣を心配して陰に陽に手を差し伸べてくれたと当時、人づてに聞いていた。有り難いことである。こうした諸先輩の古巣を思う心と有形無形の励ましによって、以後わが社は再建の歩みを始められたのだと思っている。

 毎日出身の有名人は今も各界で活躍中であり、ご同慶に堪えない。それぞれお忙しいことと思うが、できれば合同懇親会か秋の毎友会総会か、その1回だけにでも顔を出して現役経営陣を激励してくれたら、現役諸君もどんなにか心強く力づけられることだろう。合同懇親会の帰りの電車で、ふとこんなとり止めない思いに取りつかれたのでした。(名誉職員・本田克夫)

阿部菜穂子さん(元毎日記者)が日本エッセイストクラブ賞受賞

 元毎日新聞記者の阿部菜穂子さん著「チェリー・イングラム」(岩波書店)が第64回日本エッセイストクラブ賞に選ばれた。(授賞式は6月29日日本記者クラブ)

 菜穂子さんは、阿部汎克元論説副委員長(84歳)の娘さんで、2001年夏からイギリス人の夫、2人の息子とともにロンドンに住み、フリーのジャーナリストとして活躍している。

 日本で桜というとソメイヨシノ。パッと咲いてパッと散るという印象が強い。イギリスでは多品種の桜が植樹され、次から次へ満開を迎える。桜花を楽しめる期間がずっと長いのだ。

 取材をしていくうちに、イングラムさん(1880?1981)が明治・大正時代に3度来日して、多種多様な桜を持ち帰って、大事に育てていたことを知る。「桜辞典」も発表している。

 桜の本家・日本では江戸時代には250種もの栽培品種が生まれたが、明治維新で荒廃。もっぱらソメイヨシノが植樹された。戦時中は「みごと散りましょう 国のため」と、桜のように散るのが最高の美徳になってしまったという。本の副題は「日本の桜を救ったイギリス人」。伝統の桜はイギリスで多くが生き残り、「里帰り」も実現している。

 菜穂子さんのブログをみると、満開の桜の写真がいくつも載っている。「太白」や遅咲きの八重「寒山」などが青空に映える。(堤 哲)

 菜穂子さんのHPは www.naokoabe.com

 *桜の写真は阿部菜穂子ブログより。

ファッションモデルにもなった伝説的記者 市倉浩二郎
堤 哲

ファッションモデルにもなった伝説的記者
鳥居ユキさんのファッションショーにモデルとして出演したときの市倉浩二郎

 中野翠さんが「サンデー毎日」に連載している長寿コラムに、元社会部のナンパ記者・市倉浩二郎(1965年入社)が登場した。連載は1985(昭和60)年7月に始まり、31年目に入っているが、中野さんに執筆を依頼したのが市倉だったのだ。

 〈Iさんは軽快でオシャレな横浜っ子だったが、お互いの父親同士が同じ新聞社の横浜支局で働いていたことが判明した。

 父にIさんの話をしたら「エーッ、I君の息子さんが!」とうれしそうにしていた。ちょっと親孝行をした気分。

 それから間もなくIさんは急逝。まだ四十代だったはずだ〉=ヨ「サンデー毎日」4月17日号「満月雑記帳」1095回。

 誰からも「いっちゃん」と親しまれた。読売新聞の記者だった父親も、やはり「いっちゃん」と呼ばれていた。

 84年ロス五輪の特派員として開閉会式の1面を書いた。その後ファッション記者に転身。ワインにも詳しいグルメ記者でもあった。

 94年春のパリコレから帰った直後、鳥居ユキのショーの取材を終え、「悪寒がする」と帰宅して意識不明に陥った。4月25日没、享年53。ことしが23回忌である。

球史に残る「社内野球」優勝戦 堤 哲

環境シリーズ最終第11巻表紙
大東京竹橋球団S・ライターズ発行『野球博覧』の表紙

 追悼録にある松尾俊治さんが出場した社内野球の決勝戦。60年安保の翌春である。投手は末吉俊信(34歳)とスポニチ有本義明(29歳)の早慶対決。初回4番末吉が先制打、5回に8番相沢の適時打で加点した。末吉は被安打5、奪三振6で完封。2-0で運動部が優勝した。

 運動部のラインナップをご覧いただきたい。

    ⑤鈴木美嶺(東大野球部。「黒獅子の目」)
    ⑧北野孟郎(慶大ラグビーの快速ウイング)
    ④岩崎 恒(明石中ー国学院大で投手)
    ①末吉俊信(早大―毎日オリオンズ投手)
    ⑥松尾俊治(慶大の捕手)
    ③石川泰司(早大英文科卒の名文記者)
    ⑦柿沼則夫(都市対抗野球予選に出場)
    ②相沢裕文(立大山岳部、高校は野球部)
    ⑨岡野栄太郎(陸上400H五輪選手。中大)

 東京本社の社内野球は、終戦翌年の1946(昭和21)年、後楽園球場を借りて始まった。2007年秋の第114回を最後に開かれていない。

 その間、運動部では野球殿堂入りの小野三千麿、小川正太郎、早大野球部の初代マネージャー弓館小鰐、テニスの福田雅之助、戦前サンモリッツ冬季五輪に出場した竹節作太らが出場した。

 『野球博覧』に社内野球史が載っている。塁間90フィートはどう決まったのか、「野球創生」の詳細がある。川上哲治、大下弘、藤村富美男、長嶋茂雄ら人物野球伝がある。「大毎野球団」の誕生から消滅。「三角ベースで育ったわれら」の素朴実在論もある。

 2014年大東京竹橋野球団S・ライターズが創設30周年記念で発行した『野球博覧』。多少残部があります。送料とも@1,180円でお分けします。

 申し込み先:tsukiisland@gmail.com
 振込用紙を同封して郵送します。

二つの環境シリーズを書き終えて 川名 英之

環境シリーズ最終第11巻表紙
環境シリーズ最終第11巻表紙

 『世界の環境問題』シリーズ全11巻を昨年11月、11年がかりで完結した。その前に出した『ドキュメント 日本の公害』は全13巻。このほかのテーマを合わせると、32年間に書いた環境の本は35冊で、全部積み重ねて見たら110センチを超えた。世界の環境問題は外国に取材に行かなければならないので、費用がかさむ。執筆は難行苦行の連続だった。こんな仕事に取り組もうと心に決めたのは、毎日新聞社会部の環境庁担当記者時代に地球環境問題が人類の未来を閉ざしかねない重要な問題だという危機意識に目覚めたためであった。

 仕事は難行苦行だったが、喜びもあった。例えば大学で環境問題の環境関係の卒論指導に携わった時、多くの学生が私の著書を参考図書として使ってくれていることを知り、充足感を味わった。また『ドキュメント 日本の公害』は公害・環境問題の最初かつ唯一の通史としての評価が定着したように思われる。残念に思うのは、日本では地球温暖化が環境と人々の日常生活にもたらす影響についての認識が欧州主要国はもちろん、世界平均と比べても著しく低いことである。このため政府の意識も低く、2030年の温室効果ガス削減目標はドイツや英国の半分以下である。

 著名な専門家の多くが地球温暖化の進行で現代文明が崩壊の危機に瀕していると警告している。わが国の温暖化対策の貧困は改められなければならないとの思いを強くしている。

植木信吉さんのこと 小林弘忠

植木信吉さん氏
若いころの植木信吉さん=「天に問う手紙」の表紙より

 2016年1月、天皇、皇后両陛下のフィリピン訪問で、天皇がキリノ大統領(当時)の孫娘と会い「63年前のことは忘れません」と語ったとの報道に接し、思い浮かんだのは植木信吉さんのことだった。1953年、BC級戦犯が恩赦によって死刑囚含め108人全員がマニラのモンテンルパ刑務所から釈放され帰国できた陰に、1947年以降復員局(現厚労省)の法務調査官、植木さんの献身的救済活動があったのを知っていたからだ。

 マニラ裁判では、すでに17人が処刑されていた。戦時中の日本軍の「暴虐」に対する復讐裁判との声 も聞かれる中、植木さんは公務員の分限をはみ出し、服役囚支援にひたすら没頭した。1950年、ワラ半紙にガリ切りした冊子「問天」を創刊して刑務所に送り、以後一人で定期発行しで受刑者の詩歌、手紙も掲載した。死刑囚の作詞作曲による歌謡曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」はこの過程で生まれた。政治家、著名人に恩赦を働きかけ、日本から慰問団を派遣するまでにこぎつけ、これら一連の行動が大統領の心を動かしたのである。

 私は植木さんの許可を得て、創刊号以来年月別にバインダーに分散格納されている膨大な冊子をバッグに詰めるだけ詰めて借り、返却するとまたつぎの冊子を借りる方法で、神奈川県座間市のお宅と東京の自宅を毎月5、6回往復、「問天」の全部に目を通し、2008年7月『天に問う手紙』(毎日新聞社刊)としてまとめた。冊子は戦犯たちが帰国した後も発行され、親睦・支援団体「モンテンルパの会」もつくられた。植木さんは2015年3月、93歳で他界したが会は存続、子、孫へと感謝の心が受け継がれている。

幕末の政治家板倉勝静 小林弘忠

岡山県・松山藩主 板倉勝静
岡山県・松山藩主 板倉勝静

 江戸幕府最後の筆頭老中、岡山県・松山藩主、板倉勝静(かつきよ)の名は、あまり知られていないのではないか。鳥羽・伏見以降の宇都宮、奥羽、函館戦まで、官軍対幕軍のいわゆる戊辰戦争全般にかかわってきた幕府軍の旧譜代大名である。(写真は老中、後に奧州越列藩同盟参謀・板倉勝静)

 第十五代将軍徳川慶喜はすでに政権を放擲、幕府の権威は壊滅しているのに、なぜ白旗を上げずに頑なに新政府と戦っていたのか。それは、きわめて不透明な時代の政治家として、二つの節(せつ)を統合しようとしたからだと思う。天皇への忠、徳川家への義。「忠義」の狭間に悩み、義に殉じようとしたのである。

 彼の側用人だった辻七郎左衛門が明治二年に記した『艱難実録』(岡山県高梁市郷土資料刊行会、復刻書)には、自訴を勧める家臣団とあくまで戦闘続行を主張する勝静との動きが克明に描かれ、戊辰戦争の裏面がうかがい知れる。復刻書の中で辻は、「わが君のことを世間にては高名に伝すれども、実はさほどのことは之なし。正直固情に深きご性質にて(略)質朴簡便を好みて詐欺修飾をにくむこと甚し」と、その頑迷さにいささかあきれたように、主君を評している。

 勝静は、流浪の果てに新政府軍にとらえられ、赦免後の明治十年、上野東照宮の神職に任じられたまま、二十二年六十六歳で波瀾の人生を閉じた。勝静についての文献は多くないが、果然とした一幕末政治家の姿を、国民への義を忘れ、党利党略、個利個略に走りがちな現代政治家と比較して見直すのも意義あるかもしれない。

旧日本陸軍の秘密戦基地「登戸研究所」 小林弘忠

今も残る陸軍のマークのある消火栓=明大生田キャンパス内で
今も残る陸軍のマークのある消火栓=明大生田キャンパス内で

 旧日本陸軍の秘密戦基地「登戸研究所」の施設は、現在は明治大学生田校舎(川崎市多摩区)となっているが、キャンパス内に面影を色濃くとどめている。 実験に供された動物慰霊碑、火災時に用いた錆びついた消火栓(写真①)、研究中の犠牲者を祀った神社、朽ち果てそうな薬品庫、そして秘密戦の全容を示す各種資料を集めて二〇一〇年に開館された資料館。このキャンパスには、これまで三度足を運んだものだ。

 秘密戦とは、防諜(スパイ防止)、諜報(スパイ活動)、謀略(破壊、暗殺)、宣伝(敵国の攪乱)の四活動をいい、戦争の裏面を形成するものである。この研究所は実際に秘密戦に用いる突飛な兵器を研究、製造していた。戦時中、川崎市登戸地区にあったので通称登戸研究所といわれ、その存在そのものが極秘とされていた。

 爆弾、焼夷弾を搭載してアメリカに着弾させた風船爆弾(写真②)は、謎の物体としてアメリカ軍の心胆を寒からしめた。遅速性で、のちに死に至る新毒物・青酸ニトリルは、戦後の帝銀事件で用いられたとして話題となった。

10分の1に縮小した風船爆弾の模型=登戸研究所資料館で
10分の1に縮小した風船爆弾の模型=登戸研究所資料館で

 このほか敵国の小麦を死滅させる小麦細菌の創製、蛇の毒を合成する生物兵器の開発、ライター、マッチ、ステッキ型秘密カメラ、缶詰、レンガ、トランク型爆弾の製作、さらに中国国内を混乱させる目的の法幣(中国の統一通貨)の偽造――が、外界から隔絶された研究施設内で密かにおこなわれていたのである。

                                            

 科学研究は人類発展のためにあるが、ひとたび戦争となれば、科学は最大限悪用され、人間の理性、人道面を喪失させることを登戸研究所の戦跡、資料館を訪れるたびに想った。狂気というより道化、無謀というより愚鈍さを。戦争で悪魔の化身とされる生物兵器が現実に使用されなかったのは、せめてもの救いであったろう。

 校内には「すぎし日はこの丘に立ちめぐり逢う」の句碑(一九八八年建立)もある。かつて厳重な緘口令により、機密は墓場まで持って行こうと決意し、戦後数十年を経て、やっと口を開くことができた喜び、研究所の日々のせつなかった気持ちを表している。

 遺跡、資料館の資料を見るたびに戦争の暗部を見せつけられる気がして、帰りの小田急線電車内の学生の明るいにぎわいが、あらためて尊いものに感じたものだった。明大生田キャンパスへは、同線生田駅南口から徒歩約十五分。