トピックス

2021年4月19日

「あやしい絵」展に、明治時代の「東京日々新聞」展示

 東京国立近代美術館で開催中の「あやしい絵」展(毎日新聞社など主催)に「東京日々新聞」892号(明治7年12月)が展示されています。後期(4月20日~5月16日)には、1045号(明治8年8月)が展示されます。「毎日新聞社所蔵新屋文庫 : 新屋、山下両家寄贈 : 幕末・明治錦絵新聞等コレクション」からの出品とのことです。

 毎友会ホームページで今月から閲覧できるようになった社報・春号で、来年(2022年)2月21日に「創刊150年」を迎えるにあたり、「社会をつなぐ、言葉でつむぐ」のキャッチフレーズとロゴマークを決定、発表したと記載されています。

 社報閲覧にはIDとパスワードの入力が必要です。すでに1月の社報配布の際にご案内していますが、不明の方は「毎友会ホームページ改革のお知らせ」をご覧になってメールでお問い合わせください。

(毎友会事務局)

2021年4月15日

元外信部、永井浩さんの「ミャンマー民主化伴走記」を福島清さんが拡散

「日本のお金で人殺しをさせないで!」と訴える在日ミャンマー人(撮影・明珍美紀「憲法とメディア」サイトより

 アウンサンスーチーさんの「ビルマからの手紙」を紙面化した永井浩さん(79)が、WEB上の「日刊べリタ」で、軍部のクーデターが起きたミャンマーについて論評を続けていることは、2月にお知らせしましたが、友人の福島さんが「クーデターと私たち~ミャンマー民主化伴走記」としてレポートを再録、多くの人に読んでほしいと呼びかけています。

 福島さんは北大生・宮澤弘幸「スパイ冤罪事件」の真相を広める会の事務局を務めていますが、「広める会」の会報号外として、永井さんの19本の論評を紹介。「東南アジア問題を徹底取材した経験を基礎にしたミャンマーに関する論評は、歴史・風土・人々から仏教の関わりまで多彩です。とりわけ、ODAを通じて、ミャンマーの経済に深く関わっている日本政府と財界の姿勢を鋭く糾弾しています。この永井レポートは、ニューズウイークが注目して連載をはじめ、4月9日版は、81,000ものアクセスがあったとのことです。今、ミャンマー民主化と闘う人々と連帯して、日本国内でも在日ミャンマー人をはじめ多くの方々が、ミャンマー国軍の暴挙糾弾の行動を起こしています」と拡散の趣旨を記しています。

 「伴走記」ですので、継続します。続きはぜひ「日刊ベリタ」 www.nikkanberita.com をご覧ください――と福島さん。2月1日紙面は

 http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=202102012123521
「広める会」はhttp://miyazawa-lane.com/

 これまでのレポート19回の見出しは以下の通りです。

1 ミャンマーでクーデター、日本政府は今度こそ民主化支援を惜しむな バイデン米政権はスーチー氏らの解放求める(2021/02/01)
2 スーチーさん、4度目の自宅軟禁 よみがえるミャンマー国民の軍政への恐怖(2021/02/03)
3 「アウンサンスーチー」か「アウン・サン・スー・チー」か メディアの表記不統一が意味すること(2021/02/04)
4 アジアの女性政治指導者たちの栄光と失脚 新しい指導者像を予感させたスーチー氏の復権は可能か?(2021/02/05)
5 ミャンマーの軍政反対デモ、連日つづく 仏教の真実を求め、「諸行無常」を現体制否定の武器に(2021/02/07)
6 キリンの英断、ミャンマー国軍系企業との提携解消 企業の倫理責任重視は世界の潮流(2021/02/08)
7 軍は再び民主化デモへの武力弾圧に乗り出すか ミャンマー国軍に「ファシスト」日本軍の負の遺産(2021/02/12)
8 ミャンマーの民には義理がある! 日本軍兵士たちが戦場で見た「もうひとつのビルマ」(2021/02/18)
9 民主化に託すミャンマー国民の「豊かな」暮らしとは? ビルマで日本の経済繁栄を自問した元日本兵(2021/02/21)
10 「おなじ人間として」の灯を受け継ぐために 「3・11」とミャンマー民主化をつなぐもの(2021/02/23)
11 ミャンマー国軍の武力弾圧激化、日本政府の新規ODA停止は民主化逆行の歯止めになり得るか 問われる人権への本気度(2021/03/01)
12 ミャンマーの名もなき英雄たち「恐怖からの自由」を武器に非暴力で軍の銃口に立ち向かう(2021/03/06)
13 ミャンマー・クーデター、新聞社説は政府の絵空事を合唱 問われる日本の民主主義 (2021/03/12)
14 クーデターで混乱長期化のミャンマー 都市部の物価高騰が貧困層直撃、不服従運動で輸出入が低迷、戸惑う進出企業(2021/03/21)
15 「ビジネスにも日本の美学を」スーチー氏がミャンマー進出日本企業にもとめる「和敬清寂」の精神(2021/03/27)
16 孔雀の勝利の踊りはいつ? クーデターへの非暴力抵抗を呼びかけ拘束されたスーチー氏側近のNLD幹部、不屈の歩み(2021/03/17)
17 繰り返されるミャンマーの悲劇 繰り返される「民主国家」日本政府の喜劇(2021/03/30)
18 日本の対ミャンマー政策はどこで間違ったのか 世界の流れ読めず人権よりODAビジネス優先(2021/04/04)
19 「日本のお金で人殺しをさせないで!」 ミャンマー国軍支援があぶり出した「平和国家」の血の匂い(2021/04/09)

※「クーデターと私たち~ミャンマー民主化運動伴走記」全文は、以下をクリックしてください。
★★ミャンマー情勢伴走記・永井浩.pdf

2021年4月14日

元主筆の伊藤芳明さんが日本記者クラブ名誉会員に

 日本記者クラブ会報4月号を転載します。

2021年4月5日

小倉孝保論説委員が日刊ゲンダイに連載「一条さゆり」

 毎日新聞金曜日朝刊2面の連載コラム「金言」(kin-gon)の筆者・論説委員の小倉孝保さん(88年入社、カイロ支局長→ニューヨーク支局長→欧州総局長→外信部長→編集編成局次長)が日刊ゲンダイに「伝説のストリッパー一条さゆりとその時代」を連載している。

 何故?と思って調べると、小倉さんは大阪本社社会部時代に、釜ヶ崎に住んでいた晩年の一条さゆりにインタビュー取材を重ねていた。

連載第1回(3月30日付日刊ゲンダイ)

 一条さゆりが1997年8月3日に60歳で亡くなり、その訃報を社会面に書いた。さらに全文1742字にのぼる評伝?も執筆した。

 その後、『初代一条さゆり伝説—釜ヶ崎に散ったバラ』(葉文館出版1999年刊)を出版した。

 《私が一条を訪ねるようになったのは前年(96年)5月だった。東京オリンピックの年に生まれた私にとって、「一条さゆり」という名前に深い感慨はなかった》

 《「ストリップの世界で一時代を作った人」「わいせつ裁判で権力と闘った女性」という知識だけはあった。その女性が、日雇い労働者の町、大阪・釜ヶ崎で生活保護を受けて一人で暮らしていると聞き、連絡を取ったのが最初だった》

 《私の頭にあった、「一世を風靡」「幻のストリッパー」「特出しの女王」というイメージと、「労働者の町」「生活保護」という現実がおよそかけ離れた感じがして興味を覚えたのだ》

 《電話を持たない一条に、手紙で会いたい趣旨を伝えると、彼女はすぐに電話をかけてよこした》

 おもろいネタは取材して紙面化する。大阪社会部「街頭班」育ちの記者は、どん欲だ。

 小倉記者もその典型で、海外特派員になっても現場第一、突撃取材を続けている。

 ニューヨーク特派員だった2008年1月に、ロサンゼルス郊外の高級住宅街に住んでいた元外信部長大森実さんにインタビューしている。大森さんは、その2年後に88歳で亡くなり、小倉記者は「記者の目」を書いている。

 大森さんは、大阪社会部の伝説の特ダネ記者だった。

 「記者の目」にこうある。《大森さんは終戦と同時に毎日新聞記者になった。大阪本社社会部を経てニューヨーク、ワシントンの特派員を経験、66年に退職している。その2年前に生まれた私は、外信部長として指揮した連載「泥と炎のインドシナ」に代表される大森さんの記者としての実績を同時体験しているわけではない。しかし、学生時代から国際報道に関心を持ち、どこかで大森さんの存在を漠然と意識し、入社の動機の一部には、「泥と炎のインドシナ」があったように思う》

 《実際に記者になって特派員の道に進むと、大森さんの成し遂げたことの大きさに圧倒された。60年のアイゼンハワー米大統領の訪日(安保闘争の混乱で途中で中止)に同行して特ダネを連発、ボーン国際記者賞(現在のボーン・上田記念国際記者賞)を受賞。65年1月からの連載「泥と炎のインドシナ」で新聞協会賞に輝いた。インドネシアのスカルノ大統領(当時)と会見してハノイ訪問のあっせんを依頼、同年9月、西側記者として初めて北爆下のハノイからリポートした。このうちのどれか一つでも、記者としては評価されるはずだ。まさしく近寄りがたいほど大きな先輩だった》

『大森実伝—アメリカと闘った男』は、毎日新聞社から2011年に出版された。

 新聞に書いた原稿をフォローして、出版に結びつける。精力的だ。

『戦争と民衆—イラクで何が起きたのか』(毎日新聞社2008年刊)
『ゆれる死刑—アメリカと日本』(岩波書店2011年刊)
『柔の恩人—「女子柔道の母」ラスティ・カノコギが夢見た世界』(小学館2012年刊)
『三重スパイ—イスラム過激派を監視した男』(講談社2015年刊)
『空から降ってきた男—アフリカ「奴隷社会」の悲劇』(新潮社2016年刊)
『がんになる前に乳房を切除する—遺伝性乳がん治療の最前線』(文藝春秋2017年刊)
『100年かけてやる仕事—中世ラテン語の辞書を編む』(プレジデント社2019年刊)
『ロレンスになれなかった男—空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA 2020年刊)

 「一条さゆり」連載のきっかけは、日刊ゲンダイが『ロレンスになれなかった男』を書評で取り上げたこと。その際、「日刊ゲンダイで連載できるネタがないか」と尋ねられ、『初代一条さゆり伝説』の著作を話したという。

 連載が始まって、反響は「会社は許可したのか」。

 小倉さんは言う。「日刊ゲンダイから依頼があったとき、会社の知財担当部署に相談し、本人の著作権利用ということでOKをもらい、所属長の許可をもらい、人事部に書類を提出しています。つまり社内手続きはすべて済んでおります。ご了解ください」

 連載は6月まで続く予定という。

(堤  哲)

2021年4月4日

濁水かわら版108号 日本の医療改革を本気で目指したサムズ氏…

 濁水かわら版第107 号に載ったサムスさんの略歴を再掲します。

 クロフォード・F・サムス軍医大佐(後准将1902~1994)

 1902 年:イリノイ州生まれ
 1922 年:カリフォルニア州歩兵連隊に入隊
 1925 年:カリフォルニア大学理学部卒業
 1929 年:医学博士号(脳神経外科)取得
 1940 年:第8 師団軍医1942-3 年:中東チフス調査団責任者・軍医大佐
 1944-5 年:ヨーロッパ戦線に参加
 1945 年:日本本土進攻作戦計画に関与、マニラから日本へ。公衆衛生福祉局

2021年4月3日

元学芸部長、奥武則さん、BPO任期満了で「ホッと」

 放送倫理・番組向上機構(BPO)という組織について知っている人はそれほど多くないだろう。NHKと民放連、民放各社が作った第三者機関である。放送倫理検証委員会・放送人権委員会・青少年委員会という独立した3つの委員会で構成されている。まだ大学教師をしていたころ、なぜか、このうちの放送人権員会の委員にスカウト(?)された。委員長代行として3年+3年、委員長として3年、計9年間も関わってきた。ようやくこの3月いっぱいで委員長の任期も終わり、委員会からリタイアした。

 どういう活動をしているのか、といったことについてはここではふれない(興味のある方は、BPOのホームページをみれば、くわしく分かる)。

 「人権」の専門家だったわけではないし、新聞記者としてどちらかというと、人権を侵害する側にいた人間である。その後も、一介の研究者として日本の近現代のジャーナリズムについて勉強してきたに過ぎない。こうした身には、委員会の仕事は正直いささか荷の重いものだった。

 私にとって、最後の案件となったのは、フジテレビのリアリティ番組「テラスハウス」をめぐる申立てだった。退任直前の3月30日、決定内容を当事者に通知し、記者会見で公表した(上の写真はテレビニュースの画面から)。

 31日の新聞各紙には比較的大きく報道された。毎日新聞は1面トップ。2面に解説風記事があり、社説でも取りあげていた。ちょっとびっくりである。

 まあ、反響を含めていろいろ感想はあるが、私的ブログで述べることではないだろう。

 ともかく私としては「重い荷」を降ろして、ホッとしているところである。

(奥 武則)=「新・ときたま日記」から転載

 ※奥武則さんは、法政大学名誉教授。毎日新聞客員編集委員

2021年3月30日

『チェリー・イングラム』阿部菜穂子さんがZoom講演会

 イギリス在住の社会部旧友・阿部菜穂子さん(81年入社)が3月26日午後9時(現地同日正午)から「チェリー・イングラム―日本の桜を救ったイギリス人」を日本語で講演した。大和日英基金(Daiwa Anglo-Japanese Foundation 、1988年設立)主催のZoom講演会。

 「参加64人。50人の定員を大幅に上回り、これまでのウェビナーで参加者が一番多かったそうです。そのほとんどが日本とイギリス。日本では東京以外に秋田や岩手、大分、福岡、京都の方がいらっしゃいました。在ロンドン日本大使館の公使の方を含め2名の大使館員もおられました」と阿部さん。

司会のジェイスン・ジェイムズ大和英日財団事務局長
阿部さんが前回行った同財団の講演会で

 東京ではソメイヨシノが満開だが、イギリスでは3月半ばから桜が咲き始め、5月半ばまで2か月間もお花見を楽しめる。英国人園芸家コリングウッド・イングラム(1880-1981)=写真・右=が20世紀初めに日本の桜の虜になり、明治・大正・昭和期に3度訪日して、多種類の桜の穂木を持ち帰ったことによる。英国の桜は多種多様で、「太白」などは日本に里帰りしているのである。

「太白」の花

 阿部さんは、最後に「日英桜植樹プロジェクト」で、すでにイギリス国内の120か所に4241本の桜が植樹され、来年春までに目標の6000本を達成することを明らかにした。

 このプロジェクトは、日本人から6000本の桜をイギリス人に贈呈するもので、在英日本人による実行委員会が2017年から推進している。日英協会(東京・千代田)が資金を調達した。米ワシントンのポトマック河畔の桜並木のような名所を英国各地につくる構想だ。日英友好事業である。

 メールで阿部さんに感想を求めると——。

 《パワーポイントがうまくスタートしなかったのでひやひやしましたが、無事に終えることができてよかったです》

 《英語でのウェビナーも何度かやりましたが、その時は英国のほか米国やオーストラリア、アジア、中東などからも参加者がありました。日本語となるとやはり日本語のできる人は限られるようです》

 《私としては、今のところチェリー・イングラムの本は日本以外の国からの反響のほうがずっと大きいので、もうちょっと日本でも知られたらいいなと思います。日本の桜が親善大使として外国に広まっていくのはうれしいです。そして世界のなかでは、日本はやはり、こういった「ソフトパワー」で勝負すべきだと思います。争いではなく、平和、友情、愛情。人と人をつなぐ絆。日本を代表して、桜にそんなシンボルになってほしいと思います。(もうなっていると思います)》

『チェリー・イングラム』各国版

 『チェリー・イングラム――日本の桜を救った英国人』(岩波書店)は2016年、第64回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。

 日本語版を全面的に英語で書き直し、2019年春、英国、米国、オーストラリア等英語圏で’Cherry’ Ingram—The Englishman Who Saved Japan’s Blossoms をペンギン社から出版。さらにドイツ語、イタリア語、オランダ語、ポーランド語、スペイン語に翻訳され、2022年には中国語版が出版される予定だ。

 阿部さんのHPにある各国での反応・称賛——。

 *BBC Radio4: ‘Book of the Week’ March 2019 (BBC ラジオ4‘ブック・オブ・ザ・ウィーク’ 2019年3月)
*The Sunday Times: Best Gardening Books, 2019(英サンデー・タイムズ紙 2019年最優秀ガーデニング書籍)
*NPR's Science Friday: Best Science Books, 2019(米公共ラジオ放送、2019年最優秀科学書籍)
*The Irish Times: Best Gardening Books, 2019 (アイルランド・アイリッシュ・タイムズ紙 2019年最優秀ガーデニング書籍)
*PopMatters: Best Non-Fiction Books, 2019 (ポップ・マターズーー米国で人気のあるポップカルチャーに関するウェブサイトーー 2019年最優秀ノンフィクション)
*The Daily Mail: Best Books for Nature Lovers, Christmas, 2019 (英デイリー・メイル紙 2019年12月 自然愛好家に最適の書籍)
*Woodland Trust: Best books of the Year 2019  (ウッドランド・トラストーー英国最大の環境保護団体――2019年最優秀書籍)

(堤  哲)

2021年3月30日

5万号をめぐる朝毎読の号数比べ

 朝日新聞の大阪・名古屋本社発行版が2021年3月2日、5万号を迎えた。朝日新聞が大阪で創刊したのが1879(明治12)年1月25日だから、142年ちょっとかかっている。

 この日の東京発行の朝日新聞は4万8392号。毎日新聞は5万2204号、読売新聞は5万2148号だった。

 毎日新聞が5万号に達したのは、2015(平成27)年2月12日。「東京日日新聞」創刊の1872(明治5)年2月21日から号を重ねている。来年創刊150年を迎える。

 読売新聞の5万号は、同じ2015年の4月9日だった。創刊は1874(明治7)年11月2日だ。

朝日新聞の東京本社版は4年後に5万号を迎える、と記事にあった。東京での創刊は1888(明治21)年7月10日である。

 他にすでに5万号を突破したのは、スポーツ報知(報知新聞)が2020(令和2)年11月18日(「郵便報知新聞」として1872(明治5)年6月10日創刊)。

もうひとつ、山梨日日新聞が同じ2020年の12月3日に「5万号」特集を発行している。同紙は1872(明治5)年7月1日「峡中(こうちゅう)新聞」として創刊、「地方紙で最も古い歴史を持つ」とHPにある。

 ところで本日3月28日の毎日新聞は第5万2230号、読売新聞は第5万2174号。56号差だ。

 号数の起算の原点、創刊が2年以上も違うのに、「56号差」は何故か。

 読売新聞は5万号紙面に、「号数」の解説をした。《東京本社では、休刊日で朝刊がない日は夕刊をカウントし、夕刊がない地域は翌朝刊を「合併号」として2回分カウントする》

 一方の毎日新聞は、「号数」は朝刊の発行回数で、夕刊は朝刊と同じ号数を付けていた。

 つまり休刊日の度ごとに、1号ずつその差が縮まっていたのである。

 「このままでは読売新聞に号数が抜かれる」

 毎日新聞幹部が危機感を感じたのか。毎日新聞は4万号を達成した次の休刊日1987(昭和62)年9月24日付け夕刊から「読売方式」を導入、以来「56号差」は保たれているのだ。

 もっとも朝日新聞も日本経済新聞も産経新聞も、「毎読」の号数競争には一切関知せずで、休刊日明けの夕刊は休刊日の朝刊の号数をそのまま付けている。

 号数競争はともかく、今最大の問題は、各紙とも発行部数を減らしていることだ。新聞の危機がいわれる。反転攻勢はあり得るのか。現役諸君の踏ん張りを期待したい。

(堤  哲)

2021年3月24日

青田孝著『鉄道を支える匠の技』が「島秀雄記念優秀著作賞」受賞!

 3月24日付け「交通新聞」1面の記事を転載する。

 ——鉄道友の会の2020年「島秀雄記念優秀著作賞」受賞作品、「鉄道を支える匠の技」(青田孝著、交通新聞社新書)に対する表彰式が23日、東京・神田駿河台の交通新聞社本社で行われた。

 「鉄道を支える匠の技」は、鉄道関連企業の現場を訪ね、ものづくりの角度から鉄道業 全体を検証する著作。企業へのきめ細やかな取材と分かりやすい解説で、国際的にも認められつつある匠(たくみ)の技を紹介する書として評価を得た。

贈呈式後の記念撮影(左から3人目が青田氏)

 式には、青田氏のほか、選考委員会選考委員長の大賀寿郎氏(芝浦工業大学名誉教授)、鉄道友の会の小野田滋理事(鉄道総研情報管理部担当部長)、鹿山晃理事・事務局長、交通新聞社の横山裕司社長、中村直美常務、石田見常務、松河克彦取締役らが出席。大賀委員長から青田氏に賞状と記念盾が贈られた。

 青田氏は「神様のような存在である島秀雄さんの名を冠した賞をいただき、これほど名誉なことはない」と述べた。

 青田孝著『鉄道を支える匠の技—訪ね歩いた、ものづくりの現場』(交通新聞社2019年6月刊、865円)は、この毎友会HP「新刊紹介」2019年8月8日で紹介した。

 その全文——。

 2019年8月3日付日本経済新聞に続き、7日付東京本社朝刊「ブックウオッチング」欄で紹介された。

 ——鉄道を支える企業20社の技術に肉薄した。気づくのは、取り上げた企業のほとんどが中小、なかには社員8人という会社さえあることだ。日本の鉄路が、こうした人たちの汗で磨かれてきたことが手に取るように分かる。南満州鉄道(満鉄)出身者が創立した企業が登場するなど、日本の鉄道技術者の系譜がかいま見え、ぞくりとさせられる。鉄道はどんな角度からでも楽しめる、くめどもつきぬ愉楽の泉だ。

 青田さんは、1947(昭和22)東京生まれ。日大生産工学部機械工学科で鉄道車両工学を学び、卒業研究として国鉄鉄道技術研究所で1年間研修をしたという鉄道技術マニア。卒業後、毎日新聞社に入社。技術職から編集職場に移り、編集委員などをつとめた。

 70年入社の青田クンとの出会いは、「くりくり」編集部。少年野球の取材が記者生活のスタートとなった。成田支局、メディア情報部、編集委員などを歴任して2003年退職。フリーランスとして執筆活動を続けている

 交通新聞社新書として、これまでに『ゼロ戦から夢の超特急 : 小田急SE車世界新記録誕生秘話』(2009年10月刊)▽『箱根の山に挑んだ鉄路 : 「天下の険」を越えた技』(2011年8月刊)▽『蒸気機関車の動態保存 : 地方私鉄の救世主になりうるか』(2012年8月刊)▽『ここが凄い!日本の鉄道 : 安全・正確・先進性に見る「世界一」』(2017年6月刊)を刊行しているほか『トコトンやさしい電車の本』(日刊工業新聞社2019年7月刊)を発刊するなど、鉄道マニアぶりを発揮している。

(堤  哲)

2021年3月19日

センバツが2年ぶりに開幕!

 センバツが19日午前9時、阪神甲子園球場で開幕した。

 これまで開会式のクライマックスは、出場全チームがバックネット目指して行進を始めると同時に仕掛け花火が走る、派手な演出だった。

 ことしは出場32校のうち初日に出場する6チームだけが登場したが、グラウンドを行進することなく、残り26校はオーロラビジョンでの紹介となった。

 大会会長・丸山昌宏毎日新聞社社長は「2年ぶりの春がやってきた」と挨拶し、仙台育英高校の島貫丞キャプテンは「2年分の甲子園。多くの思いを込めてプレーすることを誓います」と選手宣誓をした。

丸山昌宏大会会長挨拶
島貫丞主将の選手宣誓

 観客は1万人と制限されていて、アルプススタンドも、無料で入場できる外野席もガランとした印象だったが、球児たちの熱いプレーが全国の高校野球ファンに勇気を与えることは間違いない。大会の大成功を祈りたい。

(堤  哲)

2021年3月14日

濁水かわら版 107号 背の低い日本人 が コロナに勝つには…

(中安 宏規)

2021年3月9日

ペリー提督役は、元毎日新聞記者の息子さん

交通ペンクラブ総会で挨拶する藜子さん、右は夫トーマス・ロバートソンさん(2009年)
東北新幹線試乗会で(2010年11月)

 3月8日付け夕刊社会面を見てビックリした。NHK大河ドラマ「青空を衝け」のペリー提督役が、毎日新聞の先輩記者ローバートソン黎子さんの息子さんだというのだ。

 黎子さんは、旧国鉄「ときわクラブ」のOB会的組織だった「交通ペンクラブ」の会員だった。台湾新幹線「台湾高鉄」に乗るツアー(2008年)に夫妻で参加、会報にトーマスさんが英語で紀行文を寄せ、黎子さんが翻訳して4ページの特集となった。

 夫妻でワシントンに戻ったあとも、黎子さんはナショナルプレスクラブに属し、日本のメデイアに情報発信していた。

 前回の米大統領選のとき、この毎友会HPでも、その活躍ぶりを紹介した。「84歳の現役ジャーナリストである」とある。

 このHPの随筆欄をず~っと下がってもらうと出てくる。

【ワシントン発ロバートソン黎子】頑張れ新聞!

日本交通協会で講演する黎子さん
熊本日日新聞のコラム「ウーマンズ・アイ」第151回

 ロバートソン黎子さんは、1957(昭和32)年早大政経卒。駆け出しの仙台支局でフルブライト留学生募集を知って応募、ヴァージニア大学に1年間留学。59年10月帰国後は外信部。日曜夕刊一面のインタビュー記事をまとめて、蒲田黎子著『もしもしハロー 私は第一線婦人記者』(七曜社1961刊)を出版した。61年退職、結婚してアメリカに渡った。

 黎子さんは、辛口のジャーナリストだった。日本でテレビにもよく出たが、本音をズバリと言った。熊本日日新聞のコラムは、新大統領に決まったトランプ氏を取り上げている。4年前である。ニューヨークタイムズなど主要紙は、クリントン支持を表明。トランプ氏は「真実を報道しない」とマスコミ批判を繰り返した。しかし、ニューヨークタイムズには自ら出掛けて記者たちと会見。ニューヨークタイムズは、その模様を記事、社説できっちと取り上げた。

 〈アメリカの民主主義を守る大きな柱は新聞である、という認識が、昔からアメリカ社会にはある〉                   

 〈「新聞は社会の木鐸」という自負が、日本の新聞にも昔からある〉

 〈読者のよりどころとなる新聞に、エールを送りたい〉

 と結んだ。

 黎子さんとは、メールでやりとりしていたが、ここ何年かご無沙汰していた。

 息子さんの記事をメールで送ったら、宛先不明で戻ってきてしまった。

 その後、2020年10月に88歳で永眠、とモーリーさんのブログに報告されていることが分かった。

 夫のトーマスさんは、2017年5月に亡くなった。83歳だった。

 モーリーさんの「装飾品扱いの日本女性」は、紙面より先に7日(日)「毎日新聞デジタル」にアップされた。有料記事で、文字数は3493文字。紙面でカットされた部分に、母親の黎子さんが「女性差別」と闘ったことを話している。

 《例えば、うちの母(ロバートソン黎子さん)なんか、毎日新聞の女性記者(外信部などで活躍)だった。試験会場に行ったときに女性は採用していないって言われたのを押し通したんですよ。形式的にだけでもと言って。だから、オヤジが大好きな女傑なんですよ。何かその凜とした才色兼備のみたいな。まるで、男みたいでほれるねみたいな、そういうふうにかわいがられるレイコちゃんだったんですよ、僕の母は。彼女はアファーマティブアクション(積極的格差是正措置)じゃなくてもぶち抜く人ですよね》

 モーリーさんにとって、黎子さんは、自慢の母親だったわけだ。

(堤  哲)

2021年3月8日

28日まで、人気の木版画「吉田博展」(東京都美術館)

東京都美術館の看板

 ————世界各国を旅し、雄大な自然をとらえた吉田博(1876~1950)のみずみずしい木版画は、アメリカをはじめ国外で早くから紹介され、現在も高い評価を誇ります。イギリスのダイアナ妃や精神科医フロイトに愛されたことでも知られています。日本に生きる画家として、世界に対抗しうるオリジナルな「絵」とは何かを模索し続けた末に生まれた、新しい木版画をご覧いただきます。

 これは「没後70年 吉田博展」(3月28日まで東京都美術館)のHPにある紹介文だが、会場に故ダイアナ妃の執務室での写真が飾られていた。そのバックに吉田博の木版画が2枚。右が瀬戸内海の「光る海」。左は同妃が1986(昭和61)年に来日した際、自ら購入した「猿澤池」だ。

 飾られているのは、ロンドン・ケンジントン宮殿の同妃の執務室。1987(昭和62)年5月に発行された皇室専門誌『Majesty』に掲載された、とHPにある。来日の翌年である。

 吉田博の木版画のスゴサは、複雑な色彩を表現するために、摺りを何回も重ねることにある。一番摺数が多いのは、日光東照宮の「陽明門」(1937年)。なんと96回摺りを重ねた。

 2番目は、亀戸の天神さんの太鼓橋を描いた「亀井戸」(1927年)の88回である。

 その平均は30数度に及ぶ。同じ版木を使って、摺色を替えることで刻々と変化する大気や光を表現。巨大な版木を使って特大版も制作している。

 そのあくなき探究心で独創的な木版画を生み出した、と解説にある。

 特大版では「渓流」(1928年)の水の流れのダイナミックさに圧倒される。

 会場に写生帖が何冊も展示されているが、どれも細密を極めている。とりわけ富士山や北アルプス穂高連峰などのスケッチは、息を呑むほどといったら大袈裟か。

 吉田は山好きで、二男に「穂高」と名付けたほどだ。

 23歳でアメリカに渡り、ボストン美術館、デトロイト美術館で展覧会を開き、さらにヨーロッパへ渡ってロンドン・パリ・イタリア、再びアメリカに戻るなど、31歳までの6年間を海外で過ごした。戦後、洋館の自宅が進駐軍に接収されそうになると、得意の英語で接収を免れ、その後、進駐軍が集う芸術のサロンとなったという。

 痛快な人生である。

 展示は200点ほど。閉幕まで3週間。上野へ行って下さい! ヘーとうなること間違いありません。

(堤  哲)

2021年3月5日

88歳で亡くなった関千枝子さんが『検証 レッドパージ70年』に感想を残す

 昨年12月31日付で発行した『検証 レッド・パージ70年 新聞の罪と居直り―毎日新聞を手始めに』について、感想・意見をいただきました。関千枝子さんは、亡くなる直前にご意見をいただき、関さんをはじめ嶌信彦さん、澤田猛さんら7人の感想・意見を「事務局だより」に特集しました。また引き続き感想・意見をお願いします。制作費カンパとして141人、5団体から、63万2500円のカンパを頂戴しました。

 ありがとうございます。心からお礼申し上げます。

(北大生・宮澤弘幸「スパイ冤罪事件」の真相を広める会・事務局 福島 清)

レッド・パージが新聞界を襲った意味

関 千枝子(毎日新聞OB)

 「検証レッド・パージ70年」ありがとうございました。大住さんが“70年”にこだわり」、どうしても2020年中に出すという覚悟らしいので、そんなの無理じゃない?と思っていたのですが、さすが剛腕・大住、改めて感心しました。池田一之さんの記事、覚えている人もなく、なかなか見つからないと聞いて心配していましたが、時間がかかったけれど、見つかって良かったです。でも当時、毎日新聞をやめている私が「(池田さんは)よくレッド・パージのことを書いたな」とびっくりしたのに、大勢の方々が全く記憶しておられなかったこと、ショックでした。とにかく、小林登美枝さんも、池田さんの取材をとても喜んでおられたので、小林さんの晩年に、よく声をかけていただいた後輩として、この冊子ができたことうれしいです。私、ほかの新聞社でパージにあい、本当に苦しんだ人知っています。レッド・パージがまず新聞界をおそったこと、その意味を今の方々がもっともっと知るといいですね。“70年”というのは大変な年月ですから。私が大学に入ったのもあの年。学内はレッド・パージ反対のデモがうずまいていました。大学の闘争、いろいろあったけれど、大学はレッド・パージをくいとめたのですから。

(関千枝子さんは去る2月21日、88歳で永眠されました。小林登美枝さんに関する貴重な証言と、池田一之記者の記事があることを教示くださいました。ご冥福をお祈りします)

★関千枝子さん追悼.pdf - OneDrive (live.com)

2021年2月26日

サンデー毎日に好評連載中!村山由佳「Row&Row」

 ——私たち毎日新聞出版は、時代を生き抜き、人生を多くの人とともに謳歌できるような本や雑誌を読者の皆さまにお届けしたい。その志を胸に、日々努力します。

 これは2020年6月に毎日新聞出版社の社長に就任した小島明日奈さんの就任挨拶である。初の女性社長だ。

 月刊「創」3月号に小島社長のインタビュー記事が掲載されているが、増刷の続く書籍をあげている。『汚れた桜—「桜を見る会」疑惑に迫った49日』『SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか』『公文書危機 闇に葬られた記録』など。いずれも毎日新聞取材班のキャンペーンものだ。秋山信一記者の『菅義偉とメディア』、大治朋子記者の「歪んだ正義『普通の人』がなぜ過激化するのか」も好評だ。

 日本の週刊誌で一番長い歴史を誇る「サンデー毎日」では、人気作家村山由佳さんの連載「Row&Row」が2021年正月から始まっている。

「Row & Row」第1回(2021年1月3・10日号)
同時に掲載された斎藤環×村山由佳対談

 ●村山由佳の連載小説「Row & Row」話題に
 人気作家、村山由佳さんの連載小説「Row & Row」(ロー・アンド・ロー)が話題です。村山さんといえば、女と男の赤裸々な性愛を描いた「ダブル・ファンタジー」(週刊文春連載)で新境地を切り開き、多くのファンを獲得しました。満を持しての今作も、男女の間に横たわる深い川をこぎ出し、歩み寄る作品に。「夫婦の会話とセックスレスを大きなテーマに据えています」(村山さん)とあって、初回から「自己決定権による一人の愉しみ」(同)を描くなど村山ワールド全開です。

 以上は、HPからの引用だが、現在発売中の3月7日号が連載第9回。ご愛読ください!

(堤  哲)

2021年2月17日

雲仙大火砕流30年―亡くなった石津勉さんとの同期の友情は今も(嶋谷 泰典)=大阪毎友会ホームページから

2017.06.03 長崎県島原市 雲仙・普賢岳定点にて

 東京毎友会のホームぺージに掲載された「雲仙普賢岳火災流取材拠点『定点』から取材車両など掘り起こし ― 発生から30年、災害遺稿整備に募金活動」を、大阪毎友会のホームページにも転載させてもらいました。その中に出てくる「カメラマンの石津勉さん」は、大阪本社写真部から西部本社写真部に移った記者でした。そこで、同期の嶋谷泰典さんに、石津さんの思い出や同期で取材拠点だった「定点」を訪ねた時の様子を、執筆してもらいました。(梶川 伸)

 西部本社写真部の石津勉さん(当時33歳)も犠牲になりました。4カ月後には、大阪本社に戻ることが予定されていました。

 ローテーションで早めに現地番を交代し「ちょっと上がってくるわ」の言葉を残して行き、そのまま帰らぬ人となりました。そのタイトルで、遺作集も出版されました。

 石津さんは1983年入社で私も同期。仲のいい期だったこともあり、大阪でのお葬式には、大阪本社はもとより、東京本社、西部本社からも多く参列してくれました。警視庁の泊まり勤務を代わってもらった者もいました。

 弟の石津勝さんも同世代であることから、今も「同期」としてのお付き合いが続いています。勝さんは内装美術のお仕事もされていることから、2002年にオープンした雲仙普賢岳災害記念館建設の外部スタッフも務められました。命日の前後には毎年、大阪府茨木市の石津さん宅に83年組が集まって、仏壇を拝んだあと、勝さんを囲んで、勉君が好きだったバーボンを飲みながら、思い出話を交わします。

 27回忌にあたる2017年、東京組も含めて6月3日に約10人が現地に集まり、この日だけ開放される「定点」に初めて足を踏み入れ、犠牲になった皆さんのご冥福を祈りました。そのおり、土中に埋まった社有車の一部を草村の中に見つけたのですが、それが今回掘り出されて、展示されるとのこと。関係者に感謝いたします。 以前私は、夕刊「憂楽帳」に、「風化させぬ」というタイトルで、コラムを書きました。でもその記事中、勝さんは「風化されるのはやむを得ない」と語っておられます。

 83年組はほぼ全員が還暦となり、私のように退職していたり、キャリアスタッフになったりしています。でも少なくとも、その友情が薄れることはありません。災害30年の今年、改めて同期で現地に集まろう、という声が上がっています。皆、さまざまな思い出を持ち寄ります。私は、亡くなる半年ほど前に、福岡の立呑屋で、安い「てっさ」に舌鼓を打っていた石津君の笑顔が、一番の思い出となっています。

(元広告局、嶋谷 泰典)

2021年2月12日

東日本大震災10年・龍崎孝さん(元政治部)がJNN三陸臨時支局開設の「書いた話 書かなかった話」を日本記者クラブ会報に

JNN三陸臨時支局/大震災取材で民放初の「通信部」/系列の総力が生んだ〝奇跡〟

 「このまま東京に居続けていいものだろうか」

 2011年3月、東日本大震災の発生から10日ほどたったある晩、ビールを飲みながら考え込んだ。TBSの多くの記者やカメラマンが被災の現場でいま取材を続けている。一方、自分は政治部のデスクとして、日々菅直人政権の動向を注視している。役割分担といえばそうだが、果たしてこのまま未曾有の災害を自分の足で取材しないで「記者」といえるのか。首都圏では計画停電が実施されていたが、都内は「別格」とばかり普段とあまり変わらない生活に戻りつつある。何より自分は今、一息ついているではないか。このまま「安全地帯」にいて、いずれ記者稼業から卒業した時に胸が張れるだろうか。

 と、思いついた、「あ、通信部という方法がある」。民放テレビ局はTBSも含め地方の系列放送局と友好関係で結ばれたネットワークで、全国のニュースをカバーし合っている。被災した岩手県や宮城県、福島県などではJNNの場合、その県にある岩手放送、東北放送、テレビユー福島の各局が放送の主体であり、TBSやJNN系列局から送り込まれるクルーは「応援」という形態をとる。JNNの中核であるTBSからデスクなども派遣するがあくまで当該局のサポートであり、言い換えれば「共同運航」ともいえる。ネット番組のスタッフもあまた取材に入るが、限られた時間内で現地取材し、東京に戻って放送に結びつける。

◆被災地駐在希望、支局開設へ

 今思うと当時よく使われた、被災地に「寄り添う」とはまさに絶妙な表現だった。そば近くに「寄り添」ってはいても、被災地、被災者と一体ではないのだ。あくまで傍観者にすぎない。だが、新聞社の通信部(局)の記者は、取材地に住み、24時間、警察も行政もスポーツも、ジャンルを問わず取材を続け、任期を終えると別の赴任地に去る。あくまで「よそ者」の視点を持ちながら、暮らしと取材を一体とする。

 テレビ局の取材で抜け落ちていたものは、「寄り添う」だけでなく「共に暮らす」「24時間そばにいる」取材ではないか。そう思い付くとその場で、星野誠報道局長(当時)にメールした。「被災地に行かせてください、一人でデジカメもって駐在します」。すぐに戻ってきた返事は「わかった、でもちょっと考えさせて」だった。

 1週間後に星野局長が明らかにしたのは、「被災地に支局を設ける」というスケールアップした発想だった。支局となれば放送の送出機能を持ち、取材体制も大がかりなものになる。新聞記者時代の経験から「3年間行きたい」と再び報道局長に伝えると「支局をまかせるからまず1年行ってみて。ただし君は記者というより『行政職』だから」と申し渡された。こうしてJNN三陸臨時支局の構想はスタートした。

◆未知数だった全国からの人員集め

 無理難題をお願いして気仙沼市内のホテルで支局開設にこぎつけた経緯は日本記者クラブ会報「リレーエッセー」(2016年7月号)に書かせていただいた通りだが、さて支局がスタートするにあたってはもう一つの難事があった。

 「行政職」ともなれば、自分がそこでなにを取材するかというより、全国からスタッフを集め、どのように取材をしてもらうかを考えるのが主務である。重大なポイントがあった。大阪の毎日放送=MBSの動向である。取材体制は4クルー、1中継チームと決まった。4クルーのうち2組はTBSと東北放送が派遣し、残り2組は北海道、名古屋、大阪、福岡にある準キー局が1カ月交代で1クルー、全国の地方局が2週間交代で1クルー出すことになった。震災直後の混沌とした中での、かつJNNにとって初めての試みに、各局がどのような経験を持ったクルーを派遣してくるか未知数だった。つまり支局の取材団の力がどの程度になるか、そこがスタート時の最大の課題だったといえる。支局長の私からは派遣する各局に対し「誰を送ってほしい」とは言えない。

 さて、新聞社でも同じような傾向があると推察するが、東京に「対抗」する大阪の放送局の意向は系列全体に影響を及ぼす。はっきり言えば、大阪の毎日放送がどのような協力姿勢を示すかで、三陸臨時支局の存在もパワーも大きく影響を受けるということだ。阪神・淡路大震災を経験した毎日放送の「震災報道」への思い入れは強く、この時すでに応援部隊とは別に、宮城県南三陸町を対象に独自の定点取材体制を整えつつあるほどだった。逆に言えば後発の三陸臨時支局にクルーを派遣する余力はあまりない、とも考えられた。

◆MBS、府警キャップ派遣の英断

 やきもきしながら気仙沼プラザホテルで5月1日に予定される支局開設の準備を進めていると、毎日放送から電話があった。「今日の午後、うちの社長がそちらに行きます。支局を見たいというので」。毎日放送は被災地で不足がちのラジオを提供する支援活動を始めており、被災自治体を訪問した河内一友社長(当時)が、岩手県内を回ったその帰路に立ち寄るとのことだった。

 その日午後、河内社長とは放送機材が積まれた支局の送出ルームでお会いした。1時間ほど、気仙沼の現状や見聞きした様子、支局開設に至った経緯などをお伝えしたと思う。緊張していたのだろう、今私の記憶に詳細なやり取りはない。2人だけで向かい合って座り、ただ淡々とお話をさせていただいたように思う。支局の窓からは3月11日の夜、猛火に包まれた気仙沼湾が広がっている。目を遠くにやれば、真っ黒に焦げ付いた大型漁船が、海岸線に横たわっているのが見える。「わかりました、この支局は必要です。毎日放送は協力します」。河内氏は会話の最後をそう結び、大阪に戻っていかれた。

 翌日だった。MBSの報道幹部から電話があった。「(大阪)府警キャップを行かせます、1カ月。使ってやってください」。被災地に応援クルーを何組も出している中で、留守を預かる大阪府警キャップの存在はとてつもなく大きいはずだ。いや、平時にあってももちろんそうだ。その府警取材のトップを支局に派遣してくれるのは「英断」というほかない。「涙が出るほどうれしい」とはまさに、この時こそ使う言葉だった。

◆気仙沼に集結した多彩な記者ら

 「MBSは府警キャップを支局に送り込んだ」。この決断は系列局にどのように響いたのだろうか。

 私には当時も今も確認するすべもない。ただ、三陸臨時支局にやってきたJNN各局の記者たちは、多彩だった。志願して2度も赴任した女性記者は、被害を受けたカキ漁師が再び立ち上がったことを自分の目で確かめた。準キー局のベテラン遊軍記者は夜の避難所に入り込み、消灯までカメラを回し続け、被災者の本物の言葉を引き出した。居ても立っても居られない、と三脚を担いできた報道制作局次長がいた。約束の赴任期日が終わっても本社に戻らず、車に泊まって取材を続けていた猛者もいた。「三陸の生き物はどうなってしまったのかを知りたい」と言ってやってきた大学院出の理系女性記者は、その後、ガラパゴス諸島に渡りチャールズ・ダーウィン研究所のスタッフになった。三陸で初めて全国中継デビューした北陸の記者たちは、その後地元市議会の不正を暴き、ドキュメンタリー作品を世に問うた。

 これらの記者たちすべての取材に立ち会えた幸せは、気仙沼に1年間暮らしたからこそだろう。政治部という職場を1年にわたって放棄した「罪」は、「JNNには被災地に24時間いつでも飛び込める取材拠点がある」という安心を守り続けたことで許してほしい。思いかえせば三陸臨時支局とは、JNN系列の責任感と誠意が生んだ〝奇跡〟だったかもしれない。

 龍崎 孝(りゅうざき・たかし)1984年毎日新聞社入社 浦和支局 東京本社政治部などを経て 95年に東京放送(現TBSテレビ)入社 報道局政治部 「報道特集」 JNN昼ニュース編集長 外信部デスク モスクワ支局長 政治部長 報道局担当局次長 解説委員 JNN三陸臨時支局長(2011年4月から12年3月) 16年4月から学校法人日通学園 流通経済大学スポーツ健康科学部教授

2021年2月12日

雲仙普賢岳火災流取材拠点「定点」から取材車両など掘り起こし ― 発生から30年、災害遺構整備に募金活動

 30年前の1991年6月、死者・行方不明者43人が犠牲となった雲仙・普賢岳大火砕流。毎日新聞カメラマンらが亡くなった取材拠点「定点」で、火山灰に埋もれていた毎日新聞の取材車両など3台が8日、掘り起こされた。周辺を災害遺構として整備、3月中の完成を目指し、報道各社も資金協力する。当時、現地で取材した神戸金史さん(54)=現RKB毎日放送=のフェイスブックック報告を転載し、加えて募金の趣旨などを紹介します。

 大火砕流で毎日新聞関係では、カメラマンの石津勉さん(33)▽制作技術部の笠井敏明さん(41)▽車両係の斉藤欣行さん(35)=年齢はいずれも当時=が亡くなった。写真部OBでフォーカスのカメラマンだった土谷忠臣さん(当時58歳)も犠牲になっています。

 神戸金史さんは91年入社。長崎支局を振り出しに島原支局、福岡総局。2005年に東京社会部からRKB毎日放送へ。09年6月から報道部長。現在、報道局デジタル報道担当局長

 長崎県雲仙・普賢岳の大火砕流で被災した毎日新聞の取材車両を、30年ぶりに掘り起こしました。

 入社したばかりでまだ24歳だった私はあの日、1991年6月3日は交代していたので助かりましたが、この車に乗っていた3人の先輩が死亡しました。

 午後4時、最初の大きな火砕流が起きました。いつも火山灰が降る中、水を飲ませてくれたりよくしてくれた住民のお宅が心配になった3人は、「ちょっと上がってくるわ」と別のカメラマンに言って、車で上流に登って行き、2度目のさらに大規模な火砕流に巻き込まれてしまいました。

 43人の犠牲者のうち、報道関係者は、チャータータクシーの運転手を含め20人。

 住民が巻き添えになったという批判もあり、複雑な感情が地元にはありましたが、30年経って、地元の町内会が「この車をこのままにしておいてはいけない」と、掘り出してくれました。現地を整備し、毎日新聞の車両と2台のタクシーを保存します。長崎に拠点を置くメディアは資金面で協力することになっています。

 掘り起こされ、釣り上げられた車が地面に降ろされた時、万感胸に迫る思いがしました。

 今日はとても良く晴れて、きれいに普賢岳の全貌が見えました。

 普賢岳災害は、噴火から終息まで5年にわたりました。この間、1000人を超える報道関係者が現地入りしたと思いますが、大火砕流前を知る記者で終息まで見続けたのは、私一人だと思います。

 当時のことは、28歳で書いた手記『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした150 0日』にまとめて、1995年に出版しておりますが、すでに絶版であるため、昨年秋からネット上で公開を始めています。
https://note.com/kanbe67/m/m7b35a97cf3ae

災害遺構整備に寄付を募ります

 雲仙被災30年にあたり、地元の方々が、私たちの仲間を追悼し、教訓を語り継ぐ場を整備することを企画しました。「消防団は、報道陣の巻き添えで死んだ」という厳しい目があった中、30年後にここまで来たことは、胸に迫るものがあります。

 毎日新聞を含め、長崎に拠点を置くメディアは資金協力で一致しましたが、当時取材に携わり、知人・友人を亡くした方も全国におられます。受け皿となる窓口を作って、広く募金を集めて地元に送り、かつ二度とこうした被災を起こさない誓いとしたい。

 当事者である私は、そう考え、寄付専用口座を開設した次第です。

ジャパンネット銀行 はやぶさ支店 (金融機関コード 0033、店番号 003)
※ 4月、PayPay銀行に改称予定
普通 4858626 カンベ カネブミ
◆1口 2,000円から
◆振込手数料 各自ご負担ください
◆受け付け期限 7月30日まで

 同じ趣旨の文章を、RKBニュースnote公式で公開しています。
https://note.com/rkb_digital_hodo/n/ne7ba435dddd7/

 定期的に関連記事を掲載する公式Facebookページは、こちらです。
https://www.facebook.com/Unzen.Teiten/

 クレジットカードを利用する寄付専門サイトも用意いたしました。
https://syncable.biz/associate/Unzen-Teiten/

 大火砕流から20年に当たる2011年6月に、「長崎・雲仙普賢岳噴火:同僚失った毎日新聞記者、20年の思い」として神戸さんを含め4人の記者の思いがヤフーニュースに綴られています。下記のURLでご覧ください。

https://ameblo.jp/tokugawa39/entry-10911839364.html

2021年2月9日

長崎原爆テーマに、元「カメラ毎日」編集部、松村明さんが東京で写真展

 長崎の被爆者たちのポートレート「閃光の記憶 被爆75年」をテーマに、福岡在住の松村明(74)さんの写真展が11日から新宿区四谷1-7-12、日本写真会館5階ポートレートギャラリーで開催されます。入場無料。17日まで。詳しくは写真展案内をご覧ください。

2021年2月9日

ミャンマーのクーデターを懸念して―「ビルマからの手紙」の永井浩さんがコラム連発

ビルマ応援の会代表・宮下夏生さんと(会のHPから)

 元バンコク特派員で、外信部でアウンサンスーチーさんの「ビルマからの手紙」を紙面化した永井浩さん(79)が、WEB上の「日刊べリタ」で、クーデターの論評を連載しています。「手紙」について、外務省は再三、連載中止を要請してきましたが、当時の木戸湊編集局長は「『毎日』は民主主義を大切にする新聞」と、要求を突っぱねたことにも触れています。このうち2月7日付けコラムを紹介しますが、全編(2月1日、3日、4日、5日、8日)は下記のURLでご覧ください。

http://www.nikkanberita.com/index.cgi?cat=writer&id=200503311807354

《ミャンマーの軍政反対デモ、連日つづく 仏教の真実を求め、「諸行無常」を現体制否定の武器に》

 ミャンマーの最大都市ヤンゴンで6日につづき7日にも、国軍のクーデターに対する大規模な抗議デモがあった。なぜ軍政に反対なのか。それは、強権により民主主義と人権を奪うことは、国民の9割が信じる仏教の教えに反するからだ。軍側は抗議行動の封じ込めに躍起になるだろうが、人びとは抵抗をつづけるだろう。「諸行無常」という仏教の世界観が、この国では現体制否定の支えとなってきたからである。(永井浩)

▽政治的正当性の根拠としての仏法

 6日の抗議デモには約1500人が参加、アウンサンスーチー国家顧問が率いる国民民主連盟(NLD)のシンボルカラーである赤いシャツやリボンを身につけて、「軍政を倒し、民主主義を勝利させよう」「スーチー氏を釈放しろ」などと叫びながら、市内を練り歩いた。僧侶らの姿も見られた。

 ビルマ応援の会代表・宮下夏生さんと(会のHPから)ロイター通信によると、インターネットが遮断され、電話線の利用が制限されているにもかかわらず、7日の参加者は数万人にふくれあがり、抗議行動は国内各地に広がっている。

 その市民らが解放を要求するスーチー氏は敬虔な仏教徒である。

 彼女が1995年に6年間におよぶ最初の自宅軟禁から解放されたあと、最初にヤンゴンを離れて向かった先は東部カレン州の寺院ターマニャだった。同年から毎日新聞に連載された彼女の連載エッセイ『ビルマからの手紙』は、その紀行からはじまっている。そこは、「何十年も暴力が支配してきた土地の片隅に築かれた、たぐいまれな慈悲と平和の領地」として知られ、ミャンマー全土から何千人もの巡礼者が師ウー・ウィイナヤの説法を聴きにおとずれる。彼女もその巡礼者の一人となったのである。

 同師に教えを乞うたあと、彼女はこう記す。「政治とは人間にかかわることであって、慈愛(ミッター)と誠実(ティッサー)がいかなる強制よりも人びとの心を動かすことができるということを証明した」

 これが、彼女の政治哲学の基本姿勢であり、慈愛と誠実という仏教の教えは民主主義・人権と変わりないものとされる。

 それを政治的文脈でとらえると、軍政は、ミャンマーのような途上国の経済発展には上からの強権が必要だとする開発独裁を正当化するが、軍政下で経済は悪化し、特権層と国民の貧富の格差の拡大しているではないか。すべての人間は平等であるとする、仏教の教えに背くものである。だがそれに異を唱えようとすると、軍政は暴力によって国民を弾圧してまで富と権力に執着する。ここでも彼らは、非暴力・不殺生(アヒンサー)という仏教倫理に反している。

 いっぽう、民主化勢力がめざすのは、すべての国民の開発過程への平等な参加であり、それなしには健全な経済発展は望めないとされる。またわれわれはその目標を、あくまで非暴力によって実現しようとしている。

 こうしてアウンサンスーチーらは、ミャンマーの伝統的価値観である仏教の教えを正しく実践しようとしているのは、軍事政権かそれとも民主化勢力のどちらであるかと国民に問う。つまり仏法(ダンマ)が政治的正当性の根拠とされる。

 彼女は米国人僧侶アラン・クレメンツとの対話で、「民主主義のなかには、仏教徒が反対しなければならないようなものは、なにひとつありません」と言い切っている。また自分たちの運動を、ミッターを実践する「エンゲージド・ブッディズム」(Engaged Buddhism、社会参画する仏教)と呼んでいる。

 この国における仏教と政治の不可分の関係を国際社会に強く印象づけたのが、2007年9月に起きた10万人規模の僧侶たちの反政府デモである。

 ヤンゴンの目抜き通りを徒歩行進する僧侶たちが口にしていたのは「軍政打倒」のシュプレヒコールではなく、「慈経」の詩句だった。人間の宗教的実践、基本的原理として慈悲の大切さを強調する、仏教初期の経典は東南アジアの上座部仏教圏では現在も重要視され、「慈しみ」は結婚式で僧侶が新郎新婦におくる祝福と説教のことばのひとつとなっている。

 僧侶たちは軍事政権に道徳的忠告をしたのである。

 この僧侶の運動は欧米のメディアでは、僧衣の色から「サフラン革命」と名づけられた。東欧のオレンジ革命やグリーン革命になぞらえたのである。

 僧侶たちの隊列が、3度目の自宅軟禁下にあるアウンサンスーチー邸にさしかかると、彼女は家の門をすこし開き、僧侶たちに両手を合わせた。その姿が市民の携帯電話におさめられ、軍政のきびいしい情報統制をかいくぐり国内外に発信された。軍政批判と民主化支援の国際的な世論がさらに高まった。

 僧侶はミャンマーで、世俗を離れて日々、仏法をきわめようと精進する聖なる存在とされている。だが軍事政権は、その僧侶たちの隊列にも容赦ない暴力をふるった。軍政の権威はいっきょに失墜し、国民の軍政批判を加速させた。

 2日連続でおこなわれた、今回のクーデターへの抗議行動はサフラン革命以来の規模とロイター通信は伝えている。

▽「今日と精いっぱい向き合おう」

 軍政はサフラン革命後も、粘り強い抵抗をつづける人びとへの弾圧の手をゆるめようとしなかったが、民主化勢力は屈しなかった。

 彼らの精神的拠りどころとなったのが、諸行無常の世界観である。

 諸行無常といえば、私たち日本人がまず思い浮かべるのは、方丈記の「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という冒頭であろう。「世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」とつづき、人の世のはかなさと無常観をあらわすものと考えがちである。

 だがミャンマーでの諸行無常は、もっと前向き、積極的なとらえ方をされている。

 この仏教の言葉は、「あらゆる現象は変化してやむことはなく、人間存在もふくめ、作られたものはすべて、瞬時たりとも同一でありえない」という理法を述べたものとされる。これを、この世はつねに生成と破壊を繰り返していると解釈し、現体制を「過ぎ行く相」として否定する考えが生まれ、英国の植民地体制を打倒するイデオロギーの基盤となった。大英帝国の支配は未来永劫つづくわけではなく、いずれ終わらざるをえないとして、多数の青年僧が民族主義運動に参加した。独立を勝ちとれば、仏教の説く支配や搾取、貧富の差が否定された、現世の苦痛を克服する新しい世界が実現するであろう。

 ただし、世の中は自然に変わっていくのではない、よりよき未来をつくりだすには一人ひとりが現在の一瞬一瞬を大切にしてできるだけの努力を怠ってはならない。それが正しい仏教の行為であるという考え方が生み出され、一般民衆にも受け入れられていった。

 じじつ、諸行無常の世界観による闘いによって英国の植民地支配と、それに取って代わろうとした日本帝国主義のビルマ侵略の企ても終わりを告げた。軍事政権の支配もおなじようにいつまでも続くことはありえないが、その終焉を一日でもはやめるには、われわれ一人ひとりが過去にとらわれず、現在の一瞬一瞬をおろそかにせず新しい未来の実現にむけて働きかけねばならないのである。

 アウンサンスーチーは3度目の自宅軟禁から解放されて自由の身になり、『ビルマからの手紙』を再開した2011年元旦に、「今日と向き合おう」というタイトルで、「亡き夫がこよなく愛し、色あせない英知として私も胸にしまっている」という詩を紹介している。

 昨日はただの夢であり
 明日は予感にすぎない
 今日をしっかり生きたらば
 昨日という日は理想となり
 明日という日に希望を開く
 だから、今日と精いっぱい向き合おう
 (インドの詩人カーリダーサ作『暁への讃歌』の一節より)

2021年2月2日

「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」(阿部菜穂子著)がポーランド語に

 拙著「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」のポーランド語版がこのほど、ポーランドで出版された。このことをフェイスブックに投稿したところ、毎日OBの高尾義彦さんから「ぜひ、近況報告として毎友会に書いてほしい」と依頼があった。

 私は毎日新聞社に記者として14年間在籍(1981年-1995年)したとはいえ、定年まで勤めあげたわけではなく、OB (OG)とは言い難い。でも、亡父、阿部汎克も元毎日新聞記者で、毎日新聞社には親子二代でお世話になったうえ、私は退社後も同僚や先輩方との長いお付合いが続いている。今もこのようにお声をかけてくださることをとても有難く思い、「毎日ファミリーの一員」として近況報告させていただくことにした。

 さて、「チェリー・イングラム」ポーランド語版は、2016年春に東京で岩波書店から出版した冒頭の日本語の本がもともとの原本である。20世紀の初めに日本の桜の虜になり、日本に3度行って桜を持ち帰りイギリスに紹介した園芸家、コリングウッド・イングラム(1880―1981 )の生涯と業績を追ったこの本は、幸運にも第64回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、そこから外国語版の出版へ、と話が進んだ。

 まず2019年春、日本語版に新しい材料を加えて英語で全面的に書き直した「’Cherry’ Ingram –The Englishman Who Saved Japan’s Blossoms’」がイギリスの出版社(ペンギン・Chatto & Windus)から出た。これが予想以上に好評で、BBC ラジオで朗読されるなどの反響を経て、翌年、ドイツ語、オランダ語、イタリア語に翻訳された。そして今回、ポーランド語になった、という経緯だ。今年3月にはスペイン語版、来年には中国語版も出版される予定(中国語版は日本語版の翻訳)。コロナウィルスの被害が世界で広がり、出版界も大きな打撃を受ける中でこのような展開をしていることは、うれしい限りだ。日本の桜には国境を超えて人々を魅了する不思議な力があるものだと感心している。

 各国語版はみな表紙が違い、イタリア語版は薄い緑の地に桜の花を優しくあしらったデザイン、ドイツ語版は花と枝、葉をやや重厚に組み合わせた構成、またオランダ語版はピンクの花模様を下地に、眼光鋭いイングラムの白黒写真を上に重ねたもの、となっている。それぞれのお国柄が出ているようでとても興味深い。

 今回のポーランド語版は、これまでのどの表紙とも違って、きわめて異色である。黒地に中折れ帽をかぶったイングラムの肖像画を上乗せしたデザインで、油絵風の絵はヴァン・ゴッホの作品を思わせ、イングラムはまるで探偵のような雰囲気。ちょっとセンセーショナルで、大胆な表紙だと思う。

 出版元は、かつてのポーランド王国の首都、クラコフにある「ヤゲオ大学出版」で、研究書や政治、歴史ものを多く出している硬派の老舗出版社である。日本の歴史と絡めた桜の歴史や、近代日本で桜がイデオロギーに利用された経緯を書き込んだ部分など、「チェリー・イングラム」の硬派の部分を気に入ってくれたのかな、と思う。表紙のイングラムは、伝統の桜を忘れて染井吉野一辺倒となっていく日本人に対して「多様性を大事にしろ」と警告を発しているかに見える。

父阿部汎克(左端・元論説委員、ジュネーブ支局長)と楽しんだ最後の花見(2016年春、東京・調布の多摩川べりで)

 意表を突く表紙の背景には、ポーランド人の国民性があるのだろうか、とふと考えた。ポーランドの歴史は、ロシアやドイツなど近隣の大国によるパワー・ポリティクスに翻弄された歩みだった。大国に蹂躙され、征服されて何度も祖国が地図から消滅した。しかし、暗い時代も決して民族の誇りを忘れず、大国の圧政に抵抗し、言語や文化を子孫に伝え続けて最後には独立を勝ち取った。希望を捨てずに耐え忍ぶという強靭な精神を国民は共有しているのではないかと想像する。

 桜にも実は、2000年以上の年月の中で、人間社会の勝手な思惑に翻弄されたという過去がある。花の美しさの裏には、人間の愛憎入り混じった、きれいごとだけではない歴史があったのだ。

 ポーランド語版の一見衝撃的な表紙は、桜と人間社会のそんな複雑な歴史を見通したもののようにも思えるが、考えすぎだろうか。

 ポーランド人は伝統的に親日的で、両国は長く友好関係を保ってきた。ポーランドの人たちは本を読んで、どんな感想をもってくれるだろうか。反響が楽しみである。

(在英国・阿部菜穂子)

2021年2月1日

滋賀の都よ、いざさらば 毎日マラソン、大阪に里帰り

 敗戦から1年2ヵ月後の1946年10月10日、第一回を開いた毎日マラソンは、現存する日本最古のマラソン大会である。初期の16年間は大阪で行われたが、「故あって」琵琶湖畔にコースを移した。それがまた今年限りで60年ぶりに大阪に戻る。

 「故あって」とは、大阪開催続行が不可能になるアクシデントがあったからだ。

 1961年6月25日、第16回大会は前年のローマ・オリンピックで優勝したアベベ・ビキラ(エチオピア)を招き、大阪の浜寺公演を発着する国道26号線で行われた。ローマで靴をはかずに完走し、「ハダシのアベベ」の異名とどろく主賓は仲間のワミ・ビラツとともに来日し、今度は日本のメーカーから贈られたシューズで走った。

 午後3時スタートというのに、沿道は午前中から集まった群衆であふれ返った。歩道からコースにはみ出し、これで選手が走れるのか、と危ぶまれる中、号砲が鳴った。

 気象条件は高温多湿。それだけでも選手は苦しいのに、思いもかけぬ観衆の妨害が起こった。コースに侵入するどころか、自転車やオートバイでアベベに近付き、取り囲む。握手を求め、背中に触れ、中には手帖を差し出してサインを求めたり……。アベベは見向きもしないが、立ち止まることしばしば。それでも何とかゴールにたどり着き、2位のワミを10分以上離す2時間29分47秒で完勝した。まともに走っていれば、2時間10分を軽く切っていただろう。

 
見物のバイクに囲まれて走るアベベ

 異様なレースには大きな罰点が付いた。警備に当たった大阪府警の怒りを買い、「今後、大阪でロードレースは一切認めない」と追放を申し渡された。主催している毎日新聞社は返す言葉もない。どこかに新しいコースを探さなければならない。手を尽くした末、何とか行き着いたところは琵琶湖畔。大津市の皇子山陸上競技場をスタートし、近江神宮前を経て志賀町を折り返す湖岸の新しい舞台に決まった。のちに琵琶湖大橋の完成によって、西岸の競技場から東岸にわたり折り返すコースとなった。大会の名称も「びわ湖毎日マラソン」となり、昭和―平成―令和をつないだ。

 2年後に東京オリンピックが迫っていた。琵琶湖畔に移ったばかりのレースはすぐ東京へ。競技運営、選手に本番コースをなじませること、報道……円満に世紀のレースを運ぶための配慮だった。本番イヤー(1964年)は代表選考レースとなり、円谷幸吉、君原健二、寺沢徹の3人が代表に決まった。

 役目を果たした毎日マラソンは翌年、滋賀に戻る。そしてアベベがまたやって来た。オリンピック二連覇の栄光に輝いての再来だ。大阪で混乱を招いただけに運営サイドはことのほか気を遣い、混乱もなくアベベはまた2位を4分近く離す完勝だった。

 マラソン界に新時代が訪れる。女子の登場である。1982年1月24日、長居競技場を起点とする大阪女子マラソンは、豊臣秀吉築城400年を記念して「太閤はんの街」を走るのだ。イタリアのリタ・マルシチオが2時間52分55秒で優勝したが、21年前、「大阪で二度とマラソンはやらせない」と毎日マラソンを追放した警察は、今度はどう対応したのか。当時とは人も変わっていたにしても、これは時効と考えたほうがよさそうだ。

 この時、日本選手は誰ひとり10位にも入れなかったが、2年後には増田明美がロサンゼルス・オリンピック代表選考会を兼ねたレースで2位(2時間32分05秒)となり、代表に選ばれた。日本の女子マラソンの開拓者・増田の忘れられないレースである。

 そのころ大阪では一般市民が走る市民マラソンも始まり、やがてびわ湖毎日と統合する構想が浮かんだ。実現すれば湖畔から大阪復帰がかなえられる。

 昨年暮、大阪マラソン組織委員会が動き出した。市民マラソンは大阪府庁前をスタートし、御堂筋、なにわ筋、千日前通、今里筋……と市街を貫くメインストリートを3万6千人が駆け抜け、大阪城公園のゴールに至る。大阪をアピールするのにこの上ない舞台だ。

 今後の日程は2月28日に開かれる第76回大会(初期の国道26号線時代通算)を湖畔の最後のレースとして、来年、大阪に里帰りする。すでに帰阪第1回の開催日も来年の2月27日と決まっており、準備は着々と進んでいる。

 気にかかるのは、大阪から追放されて行く宛てのなくなった毎日マラソンを受け入れてくれた滋賀県、大津市当局、住民のみなさんが、移動を快く受け入れてくれるか、どうか。

 「伝統があり、県民が親しんできたマラソンが無くなってしまうとは」「このまま続くと思っていたのに残念」。湖畔から聞こえてくる声には淋しさがこもる。もちろん、大阪側は滋賀サイドに礼を尽くして了解を得た。

 こうして琵琶湖の春を彩ってきた毎日マラソンは、今年を最後に生まれ故郷に帰って行く。

(元大阪本社運動部 長岡 民男)

※長岡さんは昭和33年、和歌山支局から大阪運動部へ。陸上競技を中心に20数年、スポーツ取材を続け、50歳で繰り上げ定年。びわ湖マラソンは、アベベが走ったレースなども取材。自分でも中距離ランナーとして「駆けっこ大好き」と。89歳。

2021年1月25日

追悼・安野光雅さん ― 田中元首相の初公判イラストを描いていた!

 画家で文化功労者の安野光雅さんの訃報が1月17日に伝えられ、思い出したことがある。ロッキード事件丸紅ルートの初公判は1977年1月27日に東京地裁で開かれ、被告席の田中角栄元首相のイラストを担当したのが、安野さんだった。

 確か、あのイラストは安野さんのはず、と古いスクラップブックを引っ張り出して確認したら、迫力のある1枚が「法廷の田中被告 イラスト・安野 光雅」と、毎日新聞28日朝刊に掲載されていた。27日夕刊には簡単な法廷全景のスケッチが掲載され、田中被告のイラストは仕上がりにこだわる丁寧な描き方で、夕刊の締め切りには間に合わなかった。

 ここで一つの謎が残る。このイラストはその後、誰が保管しているのか。安野さんは昨年12月24日、94歳で亡くなったが、当時50歳。1968年に42歳の時に刊行した『ふしぎなえ』で絵本作家としてデビュー。74年には芸術選奨文部大臣新人賞などを受け、注目され始めた時期だった。学芸部を通じてイラストを依頼したと推定され、紙面に掲載された後、当時の調査部に保存されたとも聞いたことはない。

 どこに行ったのか、ご存じの方がいたら情報をお願いしたい。

(高尾 義彦)

2021年1月15日

TBSプレバト!!で紹介、石寒太さんの俳句歳時記

1月14日放映のTBS画面から

 TBSの俳句人気番組「プレバト!!」を見ていたら、毎日新聞出版から発行されている季刊『俳句αあるふぁ』元編集長の俳人石寒太さん(本名・石倉昌治、77歳)編著『ハンディ版 オールカラー よくわかる俳句歳時記』(2020年12月ナツメ社刊)が紹介された。

 この番組で俳句の査定をしている夏井いつき先生が「歳時記に自作が掲載されるのは一生の栄誉」と「プレバト!!」で発表した3人の作品が掲載されたことを発表、「(編著者の)石寒太さんは、俳句の世界の実力者のひとり」と紹介した。

 その3句。

 季語「双六」に、お笑いコンビ「フルーツポンチ」村上健志の作品。

  双六の駒にポン酢の蓋のあり

 季語「着ぶくれ」に、タレント的場浩司の

  職質をするもされるも着膨れて

 季語「無花果」に、お笑いコンビ「オアシズ」光浦 靖子の

  無花果や苛(いじ)めたきほど手が懐(なつ)き

 この歳時記、ナツメ社のHPでは「句会・吟行への携帯に便利なハンディサイズの歳時記。基本季語から表現の幅が広がる関連季語まで、充分な6630語を収録しました。季語のイメージが膨らむカラー写真、古典から現代までの幅広い例句、わかりやすい解説で初心者から愛好者まで長く愛用していただける一冊です」。

 小B6判・640ページ。定価:2,100円+税
 ISBN:978-4-8163-6936-0

 編著者の石寒太(石倉昌治)さんは、国学院大文学部卒。加藤楸邨に師事。1988年「炎環」を創刊、主宰。毎日新聞社『俳句αあるふぁ』編集長、毎日文化センターやNHK俳句教室の講師をつとめた。『あるき神』『炎環』『翔』『夢の浮橋』『石寒太句集』などの句集多数。

(堤  哲)

2021年1月5日

元サンデー毎日編集長、潟永 秀一郎さん、愛犬を悼む

 元「サンデー毎日」編集長、潟永秀一郎さん(現東日印刷)が、ご自分のフェイスブックに「ペットロス」の哀しみを報告しています。

 公的ではない喪中欠礼のご挨拶です。

 元日の午前3時半、子犬から15年、人生を共にした愛犬チェリンが死去しました。

 亡くなる1週間ほど前から少し息苦しそうでしたが、3日前まで普通に散歩に行って、ご飯もおやつも食べていました。2日前から急に呼吸が荒く、足腰立たなくなり、2回注射に行きましたが、最後は妻の腕の中で、眠るように逝きました。

 もう立ち上がるのも厳しいのに、亡くなる1時間ほど前、私のベッドの横まで歩いてきて私を呼び、直前は小さく鳴いて妻に「抱っこして」と知らせてくれました。

 福岡・天神の街頭で保護犬のケージで震えていたのを長男が引き取ってきてから、子どもの高校・大学進学、就職、結婚。新聞記者だった私の転勤、サンデー毎日への異動、東京転居という激動の時期を、いつも癒し支えてくれた、本当に家族でした。

 飼い主バカですが、言葉を理解しているとしか思えない反応や、私に叱られている二男の前に立って庇うように「クーン」と鳴いたり、凹んでいる家族の顔を舐めに来たり、よく「家族で一番賢いよね」と言っていました。

 みんなで側にいてあげられる正月休みに逝ったのも、最後の親孝行でした。

 喪失感は想像以上ですが、間もなく産まれる二男の娘に、すべての愛情をバトンタッチしていった気がします。

 たくさんの思い出と愛に感謝します。ありがとう、チェリン。

 (正月早々、私的な訃報をすみませんでした)

2021年1月3日

「初春や生き方問わる年男」悠々…ことし96歳

 今年、年男である。8度目の「丑」である。生まれた時「この子は毛深いから情け深い男の子になります。大事に育てなさい」と産婆さんに言われたと母親がよく言っていた。思い当たるフシがないではない。若いときは「前しか見ていないから過去のことはおぼえていない」と豪語した。96歳になった今、前しか見ないといっても寿命はあとわずか4年しかない。

「初春や生き方問わる年男」悠々

 書くことしか能のない男である。本誌を忠実に書いていかねばならない。編集方針は「卓見、異見を吐き、面白く、耳よりの話を伝え、実用的なトークなどを発信、ホームページを通じて、平和と民主主義社会の発展に微力をつくすものとする」である。

 気になるのは「地球温暖化対策」である。異常気象により地球はますます災害が頻発して住みにくくなる。世界は化石燃料に依存する経済社会からできるだけ早く脱却しなければならない(日本の目標2050年にCO2排出実質0)。「新型コロナウイルス」は世界が情報を共有し、国情にあった対策を立て、開発したワクチンを早急に高齢者や弱者に提供する等難局に対処する道筋を示した。「地球温暖化対策」は全く同じである。米国の大統領がバイデン氏に代わったのはよい。早速パリ協定には復帰するであろう。バイデン大統領の試練は中国対応である。世界の覇権を狙う中国に対して対抗できるのはアメリカしかいない。中国とすぐに事を構えるということでなくアメリカ社会に生じた「分断」「分裂」をなくし、建国以来の「自由」「平等」の民主主義の実を示すことだ。さらに日本とともに豪州・インドを加えてインド太平洋での戦略的パートナーシップを強固にしたい。

 国内的に見れば東京五輪開催である。33競技339種目、約1万1000名。パラリンピック22競技、539種目、約4400名。それに観客、ボランティアが加わる。大会費用は1兆6440億円になる。それなりの経済的効果は期待できよう。危惧する向きもあるが「コロナ禍のオリンッピク」として成功と言わずとも無事に運営しなければなるまい。「規則正しい」「清潔」「おもてなし」「親切。丁寧」など日本人の美徳を十分発揮し「コロナ禍の五輪」を成功させたい。

 今年は10月までに総選挙がある。菅政権が続くかは判断が難しい。そろそろ小池百合子東京都知事が「中原の鹿を追う」機が熟したと見てもいいのではないか。政界にひと波乱起こりそうな気配がする。

 牧内節男さん(牧念人悠々)のHP「銀座一丁目新聞」2021年1月1日号の「茶説」である。8月31日に96歳の誕生日を迎える。

 100歳、センテナリアンまで「あと4年」。元気な初春のメッセージである。

 毎友会HPを見た牧内さんから一句が届いた。

 「初春や生恥さらし96年」悠々

(堤  哲)

2020年12月31日

  • スペイン風邪から100年⑫ コロナに負けるな 勝ちましょう
  • (中安 宏規)

    2020年12月25日

    ♪オ・エン・ザ・センツ… コロナ禍のクリスマスのお話

     嬉しい、びっくりの、、、お知らせです。

     100年前、スペイン風邪に勝ったジャズの発信をしました。

     ・・・・予想を超える反響です!

     12月25日、クリスマスの日、毎日新聞夕刊に出ます、、、、、

     日本のサッチモと呼ばれる外山喜雄さんから予告メールが届いたのは23日の午後だった。

     その紙面が25日夕刊、鈴木琢磨編集委員の特集ワイドだった。

     前文を紹介すると――。

     スペイン風邪のパンデミックを乗り越え、世界へ広がったデキシーランドジャズ。「サッチモ」の愛称で知られるジャズ・トランペット奏者、ルイ・アームストロングにあこがれ、若き日にジャズ発祥の地・米ルイジアナ州ニューオーリンズに渡った外山喜雄さん(76)が、コロナ禍の東京で希望のトランペットを吹き続けている。オンライン配信された「外山喜雄とデキシーセインツ」のライブは忘年会もままならぬ年の瀬のモヤモヤまで吹き飛ばしてくれた。来年はサッチモ没後50年――。

     メールには「1994年、日本ルイ・アームストロング協会が発足した年、12月24日毎日夕刊でも、まったくの偶然ですが、社会面トップ記事になりました」とあって、その記事が添付されていた。

     「これは26年目の記事です!偶然、、、26年前のクリスマス、、、、です!! サッチモの悪戯が、続いているようです! 外山喜雄」

     私は千葉支局長の時、企業人大学の忘年会で外山さんのバンド「外山喜雄とデキシーセインツ」を頼んだ。東京ディズニーランドに出演している時に知り、パーティーで受けるに違いないと思っていた。♪オ・エン・ザ・センツ…と、「聖者の行進」を演奏しながら会場に入ってくるだけで大盛り上がりだった。もう30年前のことだ。

     戸山喜雄・恵子夫妻は早大のジャズ研究会で知り合ったとかで、2人とも私の後輩にあたる。以来、付き合いが続いていた。 添付の26年前の記事は、前社会部長、現編成編集局次長の磯崎由美さんが書いた、とコピーが送られてきたことがあった。

     彼女に転送すると、「外山さんご夫妻、すばらしい方々ですね!取材でお会いしてからすっかりご無沙汰してしまいなかなか活動にご協力できずにいますが、あんなに昔に書いた記事がお役に立てているなんて、記者冥利に尽きます」と返信が届いた。

     コロナ禍のクリスマスのお話——。

    (堤  哲)

    2020年12月23日

    検察ウオッチャー村山治さんに学ぶ

     メディア関係者には必読のコラムといわれる「サンデー毎日」連載、下山進さんの「2050年のメディア」。現在発売中の2021年1月3・10日号は、つい最近『安倍・菅政権vs.検察庁』(文藝春秋)を出版した元毎日新聞・朝日新聞記者、村山治さん(70歳)を取り上げている。

     見出しに 

     「伝説の検察記者」は記者クラブに所属せず

     《「伝説の検察記者」、村山のことを人はそう呼ぶが、実は村山が(毎日新聞時代)司法記者クラブにいた期間は大阪で1年、東京で1年だけだ。1991年に村山は朝日新聞に移籍するが、村山が朝日移籍の際に、朝日側につけた条件は「出世はいいから、現場においてほしい」ということ。

     つまり、記者クラブのサブキャップやキャップをやって社会部長、編集局長、役員というコースを最初から拒否していた。その理由を村山は「自分は前うち報道ではなく、検察をふくんだ構造のほうに興味があったから」だという》

     『安倍・菅政権vs.検察庁』は、検察庁の内部にやたら詳しい。司法クラブたった2年でこれだけの情報を集めるのは無理だ。

     同書にある略歴を見て納得した。

     《(毎日新聞社会部時代)「薬害エイズキャンペーン」を手掛け、連載企画「政治家とカネ」(89年度新聞協会賞)に携わる。91年、朝日新聞社に入社。社会部遊軍記者として、東京佐川急便事件(92年)、金丸脱税事件(93年)、ゼネコン汚職事件(93,94年)、大蔵省接待汚職事件(98年)、KSD事件(2000,01年)、日本歯科医師連盟の政治献金事件(04年)などバブル崩壊以降の大型経済事件の報道にかかわった》

     村山さんは2008年に同じ文藝春秋社から『市場検察』を出版している。あとがきにこうある。《この本は、文藝春秋出版局の下山進さんに、グローバリゼーションと検察の関係を整理しては、と勧められたことがきっかけで執筆した》

     本の副題は英語でProsecutors on Globalization. 《80年代日米構造協議にかかわった検事たちは2000年代に次々と検事総長の座に坐り検察を変えた!》と。

     「だんご3兄弟」原田明夫・松尾邦弘・但木敬一、のちに3代続けて検事総長となった3人が司法制度改革に取り組み、実現した過程を描く。

     下山さんはこう続ける。《検察と言えば、「巨悪を剔抉(てっけつ)する」正義の味方という見方がもっぱらだった90年代にすでに村山は、「検察は日本の官僚機構を守るための装置なのではないか」という問題意識をもっていた。私はそうした問題意識にもとづく本をつくれば面白いと考えた》

    村山治さん(「サンデー毎日」から転載)

     それが『市場検察』だった。

     『安倍・菅政権vs.検察庁』のあとがきで、村山さんが《この本で記したのは、あくまで法務・検察を足場とする筆者が、取材で得た証言などをもとにした政治と検察の関係の記録である。官邸や政権与党などを足場とする記者には、違った風景が見えているのかもしれない。本書がきっかけとなり、それらが世に出ることを期待している》と書いていることに、下山さんは、こう発破をかける。

     《これはまさに今の新聞がやらなくてはならないことだ。政治部や警察担当の社会部記者、検察担当の司法記者が垣根を越えて一体となってチーム取材をしてその「大きな構図」を描け。それこそが新聞だけができる唯一無二の価値だ》

    (堤  哲)

    2020年12月22日

    60年前、ピュリッツアー賞に輝いたのはこの写真だ

    1960年10月12日毎日新聞夕刊

     《とっさに左によってピントを15フィート(5メートル)に合わせて、シャッター・ボタンを押した。ストロボ・フラッシュが青白くチカッと光り、委員長はよろめいて、くずれるように倒れた。
     その間5秒もあったろうか。”アッ、刺されたッ”という声がとび、ステージのそでから係員がかけつけた時、すべての人びとは事の重大性にきがついた》

     この写真を撮影した東京本社写真部員(当時)の長尾靖さんが「新聞研究」1961年10月号に、決定的瞬間をスピグラ(スピード・グラフィック・カメラ)で捕らえたときのことを記している。

     1960(昭和35)年10月12日、午後3時過ぎ。日比谷公会堂で開かれた3党首立ち合い演説会で、演説中の日本社会党の浅沼稲次郎委員長が17歳の右翼少年に刺殺されたのである。

     NHKテレビはプロ野球日本シリーズを中継していた。午後3時13分、画面に「特別ニュース」の字幕が出て「浅沼社会党委員長暴漢に刺される」とテロップが流れた。

     スピグラのフィルムは12枚撮り。長尾はすでに11枚を撮影、最後の1枚しか残っていなかった。《それまでに会場の全景と、西尾(民主党委員長)・浅沼委員長の演説のアップなどを納め、つぎの池田勇人首相(自民党総裁)のときにフィルム・パックを取りかえるつもりでいた》《“とにかく1枚、一番よいシャッター・チャンスをとらえなければ”緊張のなかにも、そんな考えがチラッと頭をかすめた》

     長尾が撮影した写真は、有楽町にあった本社に運ばれ、夕刊1面を飾った。同時にUPI通信社を通じて世界に配信され、翌年、ジャーナリスト最高の栄誉であるピュリッツアー賞に輝いたのである。

     長尾の隣には東京新聞のカメラマンがいて、ほぼ同じ場面を撮影している。しかし、評価されたのは長尾の作品で、新聞協会賞も受賞した。

    長尾靖さん

     30年前、朝日新聞が2人に取材して、その違いを質している。長尾は《僕のは、主役2人の陰に駆けつけた人たちが隠れているし、3党首演説会を示す3本の垂れ幕が、うまく入った。浅沼さんの眼鏡も、ずり落ちています。結果としてだけど、全く好運な場所とシャッターのタイミングでした》と語っている。=朝日新聞1990年6月5日付朝刊「30年前アンポがあった」。

     長尾さんは千葉大工学部を卒業後、1953(昭和28)年4月入社。62(昭和37)年1月に退社、フリーカメラマンとなった。2009年没、78歳

     この写真は私が撮影した。池袋で開かれていたカメラ機材の展覧会のあと、近くのホテルで歓談したときのもの。写真部OBの木村勝久さん(2005年没、74歳)が紹介してくれた。

    (堤  哲)

    2020年12月18日

    スペイン風邪から100年⑪ 第3波はスペイン風邪より悪質?

    (中安 宏規)

    2020年12月18日

    2020報道写真展は24日まで日本橋三越本店

     暮れ恒例、東京写真記者協会主催の第61回報道写真展が日本橋三越本店で開かれている。クリスマスイブの24日(木)まで。入場無料。

    人影の消えた銀座4丁目交差点の写真を使ったポスターのキャッチフレーズは

    激動の時代へ。
    一枚の写真が歴史を刻む。

    やはりコロナ禍の写真が目立った。
    以下は毎日新聞写真部員の作品である。

    集団感染のダイヤモンドクルーズ乗客を搬送する救急車(手塚耕一郎撮影) 
    防護服で8カ月ぶりに母と面会(貝塚太一撮影)
    長さ2メートルのバトンを使ってリレー競技(滝川大貴撮影)
    疾走するウーバーイーツの自転車(北山夏帆撮影)
    「犬の焼きいも屋さん人気」という写真もあった。  店番するのは柴犬のケン。雪が舞っているのに、ほのぼのと温かい気持ちになりますよね。(貝塚太一撮影)

    (堤  哲)

    2020年12月17日

    柿崎明二・首相補佐官が、毎日新聞水戸支局員だった頃

    柿崎明二首相補佐官

     共同通信社前論説副委員長の柿崎明二さん(59歳)が、10月1日付で菅義偉内閣の首相補佐官に就任した。

     「権力監視を担ってきたジャーナリストが一転して政権中枢に入るとは」という批判もあるが、柿崎さんは「これまで政権批判をしてきた立場なので、批判やいろんな受け止め方があることは自覚している。私がメディアの立場だったら『(今回の転身で)国民がメディア全体に疑念を抱き、メディアへの信頼を損ねるかもしれない』と批判していたと思う」と、秋田魁新報のインタビューで答えている。

     公益財団法人新聞通信調査会の月刊機関誌「メディア展望」(12月1日号)で、元共同通信論説委員長の井芹浩文さんが「記者の転身は是か非か」と取り上げている。

     それはさて置き、私の手元に柿崎さんが書いた追悼文がある。水戸支局の記者たちがたむろした居酒屋の女将さんが92歳で亡くなって、その偲ぶ会を開いた。2015年11月のことである。

     参加28人。朝毎読、日経、産経、東京、共同、NHK、茨城、常陽、いばらき放送のほか元警察官、警察官僚→参院議員らも。

     出席トップは毎日新聞だった。佐々木宏人(65年入社)、松崎仁紀(69年)、倉重篤郎(78年)、末次省三(86年)、大平祥也(88年)、上野央絵(91年)さんに、私(堤64年)。共同通信論説委員兼編集委員で参加した柿崎さん(84年)を含めると8人になる。

     故人の畠山和久さん(64年)は開拓者のひとりで、故小畑和彦さん(68年)はブログに「飲み代はつけで、あるとき払いの催促なしだった。それどころか、飲み代を支払うとその中から私名義で貯金し、困った時に通帳を渡してくれた」。さらに「ばあさんが高齢のため店を閉めることになり、私が幹事役になりお餞別を募ると、全国に散らばった元支局員、外国特派員までがその趣旨に賛同してくれた」と、「水戸のお母さん」がいかに記者たちに慕われていたかを証言している。

     さて、柿崎さんの追悼文——。

     《おばさん、毎日新聞水戸支局時代は、本当にありがとうございました。

     サツ回りの厳しさに耐えかねて今風に言えば軽い「鬱状態」に陥っていた私が何とか乗り切れたのはおばさんのお蔭でした。

     まず記事が書けない、情報がとれない、他社に抜かれる、恐ろしい先輩に怒られる、自信喪失と緊張感でさらに仕事がうまくいかない…という若い記者が陥る悪循環。

     同じような若い記者を何人も見てきたからでしょう、何にも言わなくても、先輩方の昔話を交えてさらりと励ましてくれました。

     分かっているのに余計なことは言わない。達観しつつも思いやりのある絶妙な対応に何度も救われました。

     にもかかわらず、私はその後、転職、転勤や仕事の忙しさにかまけて、何もご恩返しをしないまま20年以上、過してしまいました。

     また、今回、おばさんがどんな人生を歩まれたのか全く知らなかったことにも我ながら驚きました。

     私は様々なことに相談に乗ってもらっていたにもかかわらず。

     「親孝行したいときに親はなし」を実の父母に続いておばさんでも実感しています。

     おばさん、本当にごめんなさい》

     そのおばさん、居酒屋「葵」の女将・石井洸子さんが、柿崎さんの首相補佐官就任を一番喜んでいると思う。

    (堤  哲)

    2020年12月6日

    100回を迎えた高校ラグビー全国大会が27日開幕

     朝日新聞が1面をつぶして第100回全国高校ラグビーの特集を組んだ。毎日新聞の主催行事なのにと、ちょっとびっくりした。

    朝日新聞12月5日付

     大会の始まりがキチンと書かれている。《元慶大主将で関西ラグビー協会初代会長の杉本貞一が、大阪毎日新聞社に「大会を開きたい」と相談をもちかけ、1918(大正7)年、サッカーとあわせて旧制中学の生徒らによる第1回大会が開催された》

     杉本は、ラグビーのルーツ校・慶應義塾蹴球部の1913(大正2)年度のキャプテン。ラグビーも底辺を広げるために中学校の全国大会を開けないか、大阪毎日新聞社(現毎日新聞)の運動課長・西尾守一に相談した。西尾は社内一の実力者・当時の社会部長奥村信太郎(慶應義塾卒、のち社長)に持ちあげた。スポーツ好きの奥村は大賛成で「カネのことなら心配するな」と答えた。

     杉本はこう書き残している。《だからラグビーは毎日(新聞)なんだよ》《もっとも当時ラグビーをやっている学校は少なかったので、サッカーと一緒にやったらどうかとなった》

     正月の国立競技場で決勝が行わる全国高校サッカー選手権大会のルーツは、1918年に始まったこの大会なのである。

    読売新聞12月6日付

     運動課長西尾は、飛田穂州が早稲田大学野球部のキャプテンだったときのマネジャー。1910(明治43)年、早大はシカゴ大学を招いて日米野球を行ったが、東京での日程終了後、大阪毎日新聞社が両チームを関西に招いて3試合を行った。香櫨園遊園地の広場を野球場に仕立て、関西初の野球試合と銘打った。

     早大は東京の3試合を合わせ6連敗と全敗。飛田キャプテンは責任をとって退部する。マネジャー西尾は翌年大毎に入社、スポーツ記者第1号となった。

     花園ラグビー場は、ラグビーの聖地・英国のトゥイッケナム・スタジアムを参考に1929(昭和4)年につくられた天然芝のグラウンド。この大会の会場になったのは1963(昭和38)年の第42回大会からだ。

     さて、節目の記念大会には例年より12校多い史上最多の63校が出場。8校(目黒学院・桐蔭学園・京都成章・東海大大阪仰星・大阪朝鮮・関西学院・御所実・東福岡)がシードされ、3回戦、ベスト8進出までの組み合わせ以下である。決勝は2021年1月9日だ。

    (堤  哲)

    2020年11月30日

    池澤夏樹・評 『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』 (米本浩二・著)

    毎日新聞11月28日付朝刊「今週の本棚」から。

    苦海を生きる作家と編集者

    毎日新聞11月28日付朝刊

     今の時代に魂という言葉を本気で使う人がいるだろうか?

     魂は心ではない。心は人の中にあってその時々の思いを映すスクリーンである。しかし魂の現象はもっとゆっくりと推移する。そして、何よりも、魂は身体を離れることができる。

     心と心の出会いで魅せられれば性急に恋にもなるだろう。しかしそれが魂同士の邂逅(かいこう)ならば恋よりもずっと静かな、永続的なものになるはずだ。世俗的な理由から二人の心と心がぶつかる時でも、身体を離れた魂たちは穏やかに寄り添っている。

     始まりの時、石牟礼道子はものを書く主婦であり、渡辺京二は小さな雑誌を主宰する編集者だった。二人は互いを必要としていることに気づいた。

     道子が書こうとしていたのは水俣で発生した奇病のこと。患者たちの惨状のこと。それを活字にするのを京二は使命と思った。

     この本の著者である米本浩二は既に『評伝 石牟礼道子―渚に立つひと―』を書いているが、そこに書き切れないものがあった。京二との仲である。これが世間一般の女と男の間柄を大きく踏み越えるもので理解が難しい。そこで改めて本書が書かれた。補いではなく、延長でもなく、ことの経緯を魂の観点から見直すことを目指す。
    道子は生まれて間もない頃、おそろしく泣く赤ん坊だった。それを京二は「この世はいやーっ、人間はいやーって泣いている」と説明する。魂のつながりがなければわかることではない。

     二つの魂がそれぞれの身体を出て、つかず離れず「苦海」であるこの世をさまよう。

     この二人と言えば当然のように水俣病闘争の話になるが、それについては前著の方が詳しい。『魂の邂逅』で興味深いのは京二が初めは消極的だったことだ。

     「自分はこの問題にあまり深入りしたくない」と言っていたのが、半年後には仲間を集めてチッソの前で坐(すわ)り込みを敢行している。この豹変(ひょうへん)について後に聞かれた彼は「まあ、結局彼女との関わりが決定的だったと思います」と答えた。
     その半年の間に二人の本当の「魂の邂逅」があったのではないか。後に京二は『苦海浄土』の解説にこう書く――

     「石牟礼氏が患者とその家族たちとともに立っている場所は、この世の生存の構造とどうしても適合することのできなくなった人間、いわば人外の境に追放された人間の領域であり、一度そういう位相に置かれた人間は幻想の小島にむけてあてどない船出を試みるしか、ほかにすることもないといってよい」

     伝記である以上、著者はその対象である人物から一定の距離を置いて客観的を心掛けなければならない。しかしこれは二人の「仲」の伝記である。そこに関わる著者は自分の魂も参加させざるを得なくなったらしい。事態に対して大胆な解釈をどんどん投入する。

     本書の終わりで道子・京二が「曽根崎心中」のお初・徳兵衛になぞらえられる。五十年に亘(わた)る道行き。

     言わば著者は自ら義太夫語りとなって、顔を紅潮させ見台(けんだい)から身を乗り出し汗を散らしながら一代記を熱弁している。伴奏の太棹(ふとざお)として石牟礼道子と渡辺京二の厖大(ぼうだい)な著作が傍らにある。

     読んでいて陶酔に誘われるのは当然だろう。(作家)

    2020年11月24日

    元中部本社代表、佐々木宏人さんの大阪講演『封印された殉教』 ―― 同期の藤田修二さんがレポート

     毎日新聞社同期(1965年)入社の佐々木さんが11月21日、コロナ渦中に東京からわざわざ大阪に来て講演するというので、これは逃せないと聴きに出かけた。講演タイトルは「封印された殉教-『国家による弾圧』と『宗教団体の戦争協力』-を考える」。場所は大阪市北区のカトリック大阪梅田教会サクラファミリア聖堂。カトリック大阪教区・部落差別と人権を考える「信徒の会」11月の学習会として催された。広い聖堂には間合いを取って座った聴衆が約50人。私を除いて他全員がキリスト者だったと思われる。

     佐々木さんは講演タイトルと同名の取材10年余に及ぶ労作『封印された殉教』上下2巻を1昨年刊行した。敗戦直後の1945年8月18日、横浜のカトリック保土ヶ谷教会で横浜教区長の戸田帯刀神父が射殺体で発見された事件を克明に追ったドキュメントだ。事件は、ほとんど知られることなくなぜか封印され、犯人憲兵説があるが今もって明らかでない。10年後に東京の教会に「私が犯人。憲兵だった。謝罪したい」と男が名乗り出てきたが、東京大司教区は男に会いもせず許しを与えた。

     佐々木さんは事件の真相を追及する一方、戦前の国家による宗教弾圧にもこの本の多くのページを割いている。リベラルな戸田神父は1941年札幌教区長時代にも軍刑法違反容疑で逮捕されている。キリスト教で言えばカトリック、プロテスタント問わず、多くの聖職者が過酷な拷問を受け、獄中死した。

     佐々木さんはそこにとどまらず、宗教側の自己保身、国家への忖度、すり寄りに厳しく言及している。その体質は戦後まで及ぶという。自身クリスチャン(退職後の2006年受洗)として身を置いた世界で何があったのか明らかにしたいという欲求は、やはりジャーナリストとしての矜持がもたらせた本能だったと思われる。

     講演で彼が強調したのは事件の今日的意味だった。

     学術会議問題で政府によって任命拒否された1人、芦名定道・京大教授はキリスト教神学の研究者。キリスト教研究は危ないという恐れが訳もなく広まる恐れがあると。同様に拒否された加藤陽子・東大教授は中道的な近現代史の研究者で上皇・上皇后の講師役。リベラル皇室への当てつけ、圧力かと。つまり戦前侵された信教・学問の自由、民主主義の1丁目1番地が今問われている、と。私は恥ずかしながら加藤さんが皇室の講師役の1人とは知らなかった。ちなみに佐々木さんの従妹末盛千枝子さんは著名な絵本編集者で美智子上皇后の友人だ。

     最後にナチスドイツの強制収容所に収容されたプロテスタント神学者、マルティン・ニーメラーのよく知られた言葉を紹介して講演は終えられた。

    「ナチスが最初共産産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。

    社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。

    彼らが労働組合員を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は労働組合員でなかったから。

    彼らがユダヤ人を連れて行ったとき、私は声をあげなかった。私はユダヤ人などではなかったから。

    そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」。

     佐々木さんは四肢の先端の筋肉神経線維が徐々に委縮していく難病、遠位性ミオパチーの診断を2006年に受けた。全国で患者数400人という極めて珍しい病気だ。現在は歩行が困難で手先が不自由だ。それでも呼ばれれば大阪にも来る。先年は岡山まで出かけたという。頭と声はしっかりしている、性格は明るい。先に挙げたジャーナリスト、信仰者としての信念がそれを支える。

     私は傘寿に手が届いたか届こうとしている多くの同期生の中で、彼が今最も輝いている一人ではないかと思っている。信仰者の先達で介助者でもある彰子夫人が確かな灯芯になっているに違いない。夫人に初めてお目にかかってそんな感じがした。

    (大阪毎友会会員 藤田 修二)

    2020年11月22日

    三島事件から50年、「最後の手紙」 を受け取った徳岡孝夫さん

     11月25日は、三島由紀夫事件から半世紀である。NHKの特集番組で毎日新聞OBの徳岡孝夫さん(90歳)がインタビューを受けていた。三島にノーベル文学賞を受賞した時の原稿を書いて欲しいと頼んで断られたという話だった。

    徳岡孝夫さん、NHKのテレビ画面から(11月21日)

     以下は三島事件を報じる毎日新聞の記事である。

    毎日新聞1970 年11月25日付夕刊
    11月26日付社会面の徳岡原稿

     徳岡さんは、作家の三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で自衛隊員に決起を促す演説をしたあと自決した事件(1970年11月25日)の際、「最後の手紙」を受け取り、翌26日朝刊社会面トップで署名記事を書いている。

     《バルコニーの上と下、5メートルをへだてて、私は叫び続ける三島由紀夫と対していた》《その朝、楯の会の1人から三島の最後の手紙を渡された私は、今バルコニーに突っ立っているその手紙の差出人が、死を決意していることを知っていた》

     《三島から〝決行〟を予告されたのは前日24日午後だった。…「傍目にはいかに狂気の沙汰に見えようとも、小生らとしては、純粋に憂国の情に出でたるものであることを御理解いただきたく」と手紙にあった

     演説が終われば、三島はどうやって死ぬのだろう。古式にのっとって自分の腹に日本刀を突き立てる――自作を映画化した「憂国」で、彼がやってみせた方法以外には考えられなかった》

     この事件報道では、朝日新聞が夕刊1面で「楯の会」隊員が乱入した総監室の現場写真を載せた。その写真には、切り落とされた2人の首が写っていた。

     徳岡さんがどれほど三島と親しかったのか。ドナルド・キーンさんとの共著『三島由紀夫を巡る旅』(新潮文庫)によると、徳岡さんが最初にインタビューをしたのは、三島が密かに自衛隊に体験入隊した情報をつかんで。1967年5月、サンデー毎日の記者だった。

     2度目は、徳岡さんがバンコク特派員になって、2か月後の同年10月。「ノーベル文学賞の発表がある」と本社からの手配だった。

     三島はインドからの帰り、バンコクに寄った。「明らかに日本のジャーナリズムを避けるためと思われた」と綴っているが、その中にホテルに滞在している三島に《私の蔵書から『和漢朗詠集』を貸した》。

     《「助かった。愛読しましたよ」と三島》

     さすが京都大学文学部卒である。『和漢朗詠集』を携えて海外特派員に出る記者が他にいるだろうか。

     この時の対談は、2回に分けて新聞に載った、ともある。

     3度目は海外勤務から帰国してまもない70年5月。そのあと《私たちはさらに2度会い》事件当日の「最後の手紙」となる。

    (堤  哲)

    2020年11月21日

    スペイン風邪から100年⑩ 歴史を軽視する政治の怖さを見る

    (中安 宏規)

    2020年11月16日

    「早スポ」 も 「ケイスポ」 も東日印刷でつくっています!

    早スポ優勝号外
    両紙の早慶戦特集号

     秋の東京六大学野球リーグ戦で早大は慶大に連勝して5年ぶり46回目の優勝を飾り、学生新聞「早稲田スポーツ」(早スポ)は優勝号外を発行した。

     実は、「早スポ」も「ケイスポ」(慶應スポーツ)も、ともに東日印刷で制作・印刷している。野球の早慶戦の前に、スポニチ本社もある東日印刷ビル(江東区越中島)でひと足早く、学生記者たちの早慶戦が展開されているのだ。

     この優勝号外も東日印刷の輪転機でカラー印刷したもの。東日印刷は、毎日新聞グループの中核企業の一つで、毎日新聞やスポーツニッポン新聞の印刷がメーンである。

     よく見ると、紙面の左端に東日印刷の突き出し広告が載っている。「コロナ禍で広告の出稿が減って、学生さんたちは苦戦しているようです。企業等のご紹介をよろしくお願いします」と営業担当社員からのメッセージが付いていた。

     野球の早慶戦特集号は、いつもは神宮球場周辺で1部100円で販売。早スポ、ケイスポにとって貴重な財源だった。ところが今季はコロナ禍で販売活動が中止となり、新聞は入口の通路に置いて無料配布となった。

     60年前、創刊2年目の早スポは、早慶6連戦の新聞販売で赤字を解消した経緯があった。創刊メンバーで2代目編集長西川昌衛(81歳、元日本信販、現ニコスカード専務)は「6連戦は救いの神だった。あの時、赤字倒産していたら今の早スポの隆盛はなかった」と述懐する。私(堤)は、当時早スポの1年生記者で、慶大担当として日吉のグランドで前田監督、渡海主将らにインタビューしている。西川のあとの3代目編集長となった。

     そして2021年、第62代編集長に初めて女性が就く。

     今秋の早慶戦は、60年前の早慶6連戦と奇妙に重なっていた。天皇杯に一番近くにいたのが慶大だった。コロナ禍の影響で、リーグ戦は2試合制。1回戦で勝てば優勝、9回引き分けなら2回戦引き分けでも優勝。1回戦で負けても2回戦で勝てば優勝だった。

     60年前は、早慶戦前のリーグ戦順位が①慶大8勝2敗、勝点4②早大7勝3敗、勝点3。で、慶大は勝点をあげれば優勝。早大は2連勝で優勝、2勝1敗なら慶大と同率となって優勝決定戦――。

     そのうえ6連戦を戦った早大石井連蔵、慶大前田祐吉両監督(ともに故人)がことし1月にそろって野球殿堂入り。早大小宮山悟(55歳)と堀井哲也(58歳)両監督は、2人の教え子でもあった。

     一球入魂の精神野球か、エンジョイベースボールか。60年前のうっぷん晴らしか、返り討ちか?

     観客はネット裏から内野席までで、応援も拍手だけの制限がついた。

     空っぽの外野席はライト後方に早大応援部、レフトに慶大応援指導部。60年前、慶大の応援席には初めて女性バトントワラーが登場したが、今回、慶大のリーダーはポニーテールの女性だった。男性部員の不祥事でリーダー部は解散処分を受けていたのだ。

     ▽1回戦
      慶 大000 000 100 ┃ 1
      早 大000 001 20Ⅹ ┃ 3

     早大はキャプテン早川、慶大は木澤と両エース対決。7回裏、8番蛭間が木澤投手から左翼席に2ランホーマーを浴びせた。早川は15三振を奪う好投だった。

     ▽2回戦
      早 大001 000 002 ┃ 3
      慶 大001 100 000 ┃ 2

     1点を追いかける早大は、9回2死走者なし。マウンドは7人目のエース木澤。7番1年生の熊田が安打で出塁。打者蛭間。慶大堀井監督は即動いた。投手を抑えの切り札左腕生井に代えた。その1球目、蛭間の打球はセンターバックスクリーンへ一直線。劇的な逆転劇だった。最後は、早大のエース早川がピシャリと抑えた。

     早大小宮山監督は「野球人生で一番感動した試合」と声を詰まらせた。そして「石井さんの墓前にいい報告ができます」。

     『早慶戦全記録』(啓文社書房刊、@1800円+税)という本を昨秋出版しました。「三田評論」2020年2月号に三田体育会副会長・對馬好一氏が書評を書いてくれました。

     https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/other/202002-1.html

     早慶戦のすべてが分かります。是非ご一読ください。

    (堤  哲)

    2020年10月31日

    スペイン風邪から100年⑨ 安倍首相の退陣考察

    (中安 宏規)

    2020年10月29日

    元出版写真部・平嶋彰彦さんの写真展 11月6日から

     元出版写真部、平嶋彰彦さんの写真展「東京ラビリンス」(予約制・WEB展)が、今年25周年を迎える駒込のギャラリー「ときの忘れもの」で11月6日から開かれます。

     以下は「ときのわすれもの」ホームページに掲載された案内です。

    会期=2020年11月6日[金]—11月28日[土] 11:00-19:00※日・月・祝日休廊
    ※アポイント制にてご来廊いただける日時は、火曜~土曜の平日11:00~19:00となります。
    ※観覧をご希望の方は事前にメールまたは電話にてご予約ください。

    会場の画廊「ときの忘れもの」オーナーの綿貫不二夫さん(75歳)と平嶋彰彦さん(74歳)=右。綿貫さんは元毎日新聞販売局。平嶋さんと入社同期(1969年入社)=堤哲さん撮影

     ときの忘れものから、写真家・平嶋彰彦さんのポートフォリオ『東京ラビリンス』を刊行いたします。ポートフォリオ『東京ラビリンス』は、『昭和二十年東京地図』(写真・平嶋彰彦、文・西井一夫、1986、筑摩書房)の写真の中から、監修の大竹昭子さんが写真を選出し、ニュープリントしたモノクローム写真15点が収録されています。

      『昭和二十年東京地図』は、平嶋さんが当時手にした復刻版『戦災焼失区域表示 コンサイス東京都35区区分地図帖』(東京空襲を記録する会、日地出版、1985)を西井一夫さんに見せたところ興味を示し、『毎日グラフ』での連載企画がスタートしました。平嶋さんと西井さんは、1985年9月~11月にかけて(1986年1月~2月に撮り直しあり)、東京の街を取材して歩き、それが書籍化されました。

     今回、平嶋彰彦ポートフォリオ刊行に伴い、写真展を開催します。

     作家在廊日時:(いずれも12:00~17:00 変更になる場合もございます)
     11/06(金)07(土)13(金)14(土)20(金)21(土)27(金)28(土)

     平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』概要
     オリジナルプリント15点組 各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
     撮影:1985年9月~1986年2月 制作:2020年 限定10部
     2020年10月30日 「ときの忘れもの」発行

    日頃ぼくが好んで口走るフレーズに“過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい”というのがあるが、平嶋さんの15点の写真はまさにこのフレーズにぴたっとくるのである。つまり、古今東西、世界中の写真家たちが写し撮った夥しい写真も、世界史の、人類史の貴重な記録ではあるが、一人の人間が押したシャッターの内実には、更に抜きさしならない何かに支えられているからである。
    森山大道(平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』パンフレットより抜粋)

    ときの忘れもの/(有)ワタヌキ
    〒113-0021 東京都文京区本駒込5-4-1 LAS CASAS
    TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
    Mail    URL http://www.tokinowasuremono.com

    2020年10月28日

    「別世界に来てしまった」 ― 毎日新聞記者がヤフーで体験したニュースプラットフォームの“裏側”

    【毎日新聞→Yahoo!ニュース個人編集部・出向社員コラム】
    ※こんな新しい働き方も、メディアの今後の在り方を考えるうえでも、OB、OGの皆様の参考になるのでは、と紹介します。 (Yahoo!News HACKから転載)

     Yahoo!ニュースではこれまで、新聞社から記者やカメラマンがYahoo!ニュース トピックス編集部などに出向してきました(詳しくはページ下部の関連記事をどうぞ)。

     今回は、昨年10月から1年間、Yahoo!ニュース個人編集部に出向した毎日新聞の記者・待鳥航志さんにこの1年間を振り返ってもらいます。

     新聞の部数減が止まらない今、新聞社の活路はどこにあるのか。記事はどうすればより読まれ、買われるのか……。新聞社が直面する課題に対処するための手がかりを得ることをミッションにヤフーで働き始め、新聞社とヤフー、それぞれのコンテンツ制作に対する姿勢の違いから、多くの学びがあったと話す待鳥さん。「編成視点の強さを感じた」というヤフーでの経験のどんなところに、答えを探るためのヒントがあったのでしょうか。

    においが違う、職場環境が違う…ヤフー訪問時の最初の衝撃

     「なんかミントの香り、しない?」。2019年10月から1年間の出向のため、事前のあいさつでヤフーのオフィスに訪れたとき、毎日新聞の上司と驚いたのはヤフー社内のにおいでした。新聞社の紙やインク、エアコンのカビっぽいにおいに慣れた鼻に、ヤフーの来客用フロアを包む清涼系の香りは鮮烈でした。においだけでなく、新聞社とIT企業の職場環境はまるで違います。ゲラや取材ノート、ファクスで送られてくるプレスリリース、書籍など、紙だらけの職場の風景が当たり前だったのに、ヤフーのオフィスに並ぶのは画面ばかりで紙がない。別世界に来てしまった。私の1年間のヤフー出向は、職場環境のギャップに対する驚きから始まりました

     前置きが長くなりましたが、毎日新聞で記者をしている待鳥航志(まちどり・かずし)と申します。2015年に入社し、高松(香川県)、姫路(兵庫県)の2支局を経て2019年春から東京本社の「統合デジタル取材センター」に所属しています。紙面ではなくデジタル向けの記事を書くためのこの部署で、一番若手だった私が、プラットフォームメディアで編集や編成のノウハウを学ぶために出向することになったわけです。

     ヤフーは小学生の時に初めて触れて以来、なじんできたメディアです。出向が始まる間近の9月下旬、配属の部署が言い渡されました。「Yahoo!ニュース個人編集部」(以下、ニュース個人編集部)。ヤフーと言えば「ヤフトピ」(Yahoo!ニュース トピックス)の編集部(以下、トピ編)と思っていたけど、ニュース個人とはどんな部署なのか、ピンと来ませんでした。

    650人の執筆陣が書くプラットフォーム 「記事は事後チェック」に違和感も

     ニュース個人とは、個人の書き手(オーサー)が専門性に基づいて自主的にニュース記事を執筆し、発信するプラットフォームです。そのオーサーの数、約650人。編集部では約25人のメンバーが、オーサーの執筆サポートや、プラットフォームの運営などをしています。

    出向中の待鳥さん

     出向から時間がたってヤフーの環境になじむにつれ、ニュース個人の編集者が、新聞社の編集者(デスク)とは仕事内容が大きく異なる部分があることが分かってきました。

     新聞社ではデスクが記事出稿の司令塔となり、記者の原稿を必ずみて、分かりやすさやニュース価値を考慮して修正し、出稿するかどうかや掲載時期も決めます。掲載時には締め切り直前まで、記者やデスク、校閲記者が一字の間違いも出さないようにチェックします。

     その新聞社からニュース個人に来て驚いたのは、記事のチェックが基本的には公開後に行われる、ということです。ニュース個人はオーサーごとに合意した執筆範囲やガイドラインに沿う限りで、公開時期や書きぶりはオーサー自身で決めることができます。実際にオーサーの方々からは「好きなタイミングで公開できるのが良い」との声を多く聞きました。ただ、出向当初は原稿の事後チェックに対する違和感になかなか慣れませんでした。

    蚊はコロナを媒介する? 日常の素朴な疑問を専門知に結び付ける

     具体的に、ニュース個人の編集者はどんな業務にあたっているのか。記事のチェックの他に、中心的な業務が2つあります。

    忽那さんの記事

     一つはオーサーへの執筆の「提案」です。時勢に合わせ、「今どんな記事が必要とされているか」を考え、その記事を書ける専門のオーサーに執筆を提案する業務です。たとえばコロナ禍では注意喚起や対策などについて提案し、(もちろん提案ではないものも含め)多くの医療オーサーが専門性に基づいた記事を多数発信しました。中でも印象的だったのが、感染症専門医のオーサー忽那賢志さんが執筆した「蚊は新型コロナを媒介するのか?」です。

     夏が近づいていた時期で、編集部メンバー(私ではないです)の素朴な疑問が提案につながりました。記事にもあるように、専門家からすれば蚊がコロナを「媒介するわけない」。けれどもイチ生活者としては気になる話です。このように日常生活に寄り添った疑問と専門知を結び付ける視点を、ヤフーの編集者はさまざまな場面で持っていました。

     それは本来、新聞記者が持つべき視点でもあるはずなのですが、新聞記事は生活目線の疑問にどれだけ答えられているだろうかと、反省させられました。すぐに思い出されるのは事件記者だった時。捜査状況を伝える記事を書くために私も警察幹部への「夜討ち朝駆け」取材に駆け回っていましたが、同業他社が何を書いているかばかりを気にして、読者がどんな点に関心や疑問を持っているかに対してほとんど注意を払っていませんでした。

    多くの切り口の記事を集め、良質記事を選んで目立たせる…プラットフォームの編集業

     もう一つの主な業務は「出稿連絡」です。ニュース個人には1日50本前後の記事が投稿されますが、この中からトピックス掲載にふさわしい記事を編集部内で検討して選び、トピ編宛てに連絡します。今必要とされている記事、ユーザーの関心に刺さりそうな記事が、その対象になります。トピ編側では1日約6000本配信されるほかの媒体社の記事と同様に何をトピックスに取り上げるかを精査しています。ニュース個人編集部が出稿連絡をしなくとも、トピ編側で記事をキャッチアップし、掲載されることもあります。この連絡業務で印象的だったのが、北朝鮮や中国を専門とするオーサー西岡省二さんの記事「文政権に強い心理的打撃を与えた金与正氏――「爆破指揮」で強面に脱皮した北朝鮮王女」です。

    西岡さんの記事

     6月16日午後4時ごろに「北朝鮮が開城の南北共同連絡事務所を爆破した」と報道された後、すぐに西岡さんと連絡を取り合いました。午後7時前に解説記事を公開いただけて、部内で検討してトピ編に出稿連絡しました。記事は同日午後8時ごろからトピックスのトップに掲載。関心が高いタイミングで深掘りされた記事をスピーディーに執筆いただけたことで、非常に多くのユーザーに閲覧されました。さらにこの件を巡っては、在米オーサーや韓国情勢を専門とするオーサーも次々と記事を公開しました。ニュースの速報性や記事の完成度の高さは新聞社の強みだと思いますが、解説記事の視点の多様さやスピード感において、ニュース個人も決して引けを取らないと感じました。

     以上の2つが主な業務です。ニュース個人の編集者の仕事は、より多くの切り口の記事がプラットフォームに集まるよう促すとともに、その中からより良質の記事を選び取って目立たせること、と要約できるかもしれません。

    コロナ対応で生かされた「ユーザー目線」のページづくり

     出稿連絡はニュース個人からトピ編へのコミュニケーションですが、逆にトピ編など編成側から記事テーマのリクエストを受けてオーサーに執筆提案することもあり、双方向での連携があります。出向期間中、すぐ思い出せるだけでも、台風被害、コロナ禍、九州豪雨災害、安倍首相の辞意表明――など数多くの大きなニュースがありましたが、こうした際にも編成と編集が連携して対応してきました。

     中でもヤフーの強みを感じたのが、新型コロナウイルスの対応です。ヤフーでは2月ごろ、新型コロナに関する情報をまとめる特設ページをリリース。私は4月半ばから約1カ月半、このページの編成チームに加わりました。編成チームではコロナに関する新たな情報をつぶさに収集し、その都度、特設ページを更新するかどうかを検討します。更新する場合、Q&A形式で疑問を設定し、それに対する回答を政府の公式サイトや専門家の意見で引用して提示します。

    ヤフーの特設ページから、コロナに関するQ&A

     Qを設定する際に重視されるのは、「生活者にとって必要な情報とは何か」という視点でした。「布マスクの正しい洗い方とは」「10万円給付はどうすれば受け取れるか」「コロナの影響で家賃が払えなくなったら」など、それらは漠然としていたり細かかったり、けれどもコロナ禍の生活に身近で重要な内容です。Qへの回答となるAを、政府の公式サイトで確認できる場合はそこから引用します。政府の情報で捕捉できなければ、疑問への回答となる記事をオーサーに提案して執筆してもらい、特設ページに盛り込みます。

     ではヤフーの特設ページは、新聞社のものと比べるとどうだったのか。その違いは、予防や治療法、マスクの効果など、コロナに関する知識を記載した部分において明確に表れていました。いずれのページでも、日ごとの新規感染者数や推移について、グラフを使うなど視覚的に分かりやすくする工夫がある一方、新聞社のページではコロナに関する知識をまとめた部分が、関連する記事の集積によって作られており、「記事ベース」のページといえる作り方でした。もちろん、記事を読めばコロナの予防などに関する情報は分かるのですが、新聞記事は背景や経緯などさまざまな情報が書き込まれてそれなりの分量になるため、ある疑問に対する簡潔な回答がすぐに得られるものでは必ずしもありません。

    毎日新聞の特設ページの記事集積部分

     対してヤフーの特設ページは、先述のような疑問ひとつずつに、グラフィックも交えて簡潔な回答を与える内容です。ページ編成時に記事をそのまま掲載するよりも手間をかけており、必要な回答(コンテンツ)を最低限だけ記載する「コンテンツベース」のつくりといえると思います。考えてみれば、特設ページにアクセスするユーザーにとって必要なのは「記事としての完成度」よりも、疑問に対する簡潔で確かなコンテンツです。細かな違いですが、ヤフーの「ユーザー目線」重視を改めて感じる経験でした。

     このようにヤフーがよりユーザーに近い形で特設ページを作ることができるのは、それだけ「編成」に力を入れているから、という捉え方もできると思います。他方で編成の強さには、課題もあるように感じました。記事の後編では、この「編成」に関するヤフーと新聞社の違いを考えてみたいと思います。

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    2020年10月26日

    れいわ難病議員のそばで、「改革」の現場を日々、体験 ― 新聞記者からALS議員秘書に転身した蒔田備憲さん

     2019年9月、14年半お世話になった毎日新聞社を退職しました。同年10月から、進行性の難病「ALS」(筋萎縮性側索硬化症)の参議院議員、舩後靖彦氏の公設秘書として働いています。いまも「議員秘書」である自分に戸惑いは消えませんが、憲政史上初という人工呼吸器装着のALS議員のそばで、日々「改革」の現場を目の当たりする刺激的な日々を送っています。

    舩後議員のそばでPCを操作する蒔田さん

     「舩後さんの秘書、やってみない?」。昨年8月、知人から突然、こんなメールが届きました。知人はALSの患者活動に長く携わっている人。取材をきっかけに10年近い交流がありましたが、私は舩後氏に会ったことも、取材をしたこともありません。誘いに驚いた一方、次の瞬間には「面白そう」という気持ちがわきました。やりがいのある記者という仕事を離れることは本当に悩みましたが、この「面白そう」という気持ちに押され、転職をすることになりました。

     ALSを発症すると、全身の筋肉が徐々に動かなくなります。原因は不明で、治療法もありません。人によって進行度は様々ですが、発症から数年で自力の呼吸が難しくなるといわれています。国内には約1万人の患者がおり、国の医療費助成の対象となる「指定難病」になっています。舩後氏は2000年に診断され、02年に人工呼吸器を装着しました。現在はわずかに動く顔の筋肉を使い、瞬きなどでコミュニケーションをとります。

     舩後氏自身とのかかわりはありませんでしたが、ALS患者との交流は長くありました。毎日新聞入社数年後から、障害や難病のある人が直面する生活上の困難さに関心を持ち、単発の記事を書いたり、企画をしたりしていました。佐賀支局勤務時代(2010~14年度)には1年9か月にわたり、難病患者の日常を伝える「難病カルテ 患者たちのいま」という週1回の連載を一人で担当しており、何人ものALS患者と出会いました。そうした経験を知っていた知人が、声をかけてくれたのでした。

     国会で働きはじめ、舩後氏のそばに行ってみると、ハード面でもソフト面でも、国会は「障壁」ばかりでした。参議院の玄関には昇降機もなく、正面から建物に入ることもできませんでした。本会議場で行う法案の採決などの「起立採決」も。従来の設備やルールを一から、見直していく作業が必要となりました。

    文教科学委員会で

     最もタフな交渉となったのが、委員会です。国会議員にとって一番の活躍の場である委員会質疑でも、「全身まひ」の状態である舩後氏は、資料を映し出すためのモニターやパソコン、介助者の同席が不可欠です。こうした根本的な課題から、委員会開会中に介助者が水を飲めるようにする(従前は発言者以外が水を飲むこともダメ)ところまで、いままで認められていなかった前例を一つ一つ、議員とともに交渉しながら取り組んできました。さらに、舩後氏の代わりに秘書が質問文を読み上げる「代読質問」が認められ、舩後氏の目の前に50音を印刷した透明のプラスチックシートを掲げ、舩後氏が視線と瞬きで1文字ずつ文章を作成する「文字盤」で再質問する際は、持ち時間が減らない形にもなりました。

     舩後氏というたった一人の存在が、長い歴史の積み重ねで、前例と慣習で固まった国会の場を大きく変えてしまう瞬間を見続けられるのは、本当に興味深いです。重度障害者2人を国会に送り込んだ、れいわ新選組代表の山本太郎氏は「国会にミサイルを撃ち込んだ」と表現しますが、あながち冗談でもないようにすら、感じます。

     国会に入ってつくづく感じるのは、大多数の国会議員というのは健康で、24時間でも働ける体力がある「スーパーマン/ウーマン」の集まりだということです。そうした環境だからこそ、舩後氏のような「規格外」の存在がいる価値があると思います。こうした活動は、舩後氏や同僚議員である木村英子氏のためだけのものではありません。舩後氏がほかの健康な議員と同等に活動できる環境を整えることで、障害者だけでなく、けがをした人、子育て中の方や、持病のある人も、国会で活動できるのだという土台作りになるのだと感じています。

     障害者はこれまで、「社会に迷惑な存在」という偏見・差別を向けられながらも、社会のなかで身をさらし、「当たり前に生きる」大切さを訴え、世の中を変えてきました。舩後氏の国会活動もまさに、こうした営みの延長線にあると感じています。この一歩一歩が、多様性のある国会、ひいては社会につながるはずです。

     議員秘書の仕事を始めてから常に、心がけていることがあります。公設秘書は国会議員の手足となって働く仕事ではありますが、立場としては「公務員」。ただ単に、目の前にいる議員のためだけに働くことだけではなく、議員活動のサポートを通じて社会に貢献するのが役割だと感じています。地方支局と社会部しか経験していない自分にとって、国会はほとんど未知の場で失敗ばかりですが、新聞記者時代の経験や挫折を生かし、多様性ある社会の実現に少しでも貢献したいと考えています。

    プロフィール
    蒔田備憲(まきた まさのり)さん
    1982年生まれ。神奈川県出身。筑波大学卒業後、2005年毎日新聞入社。大津支局、富山支局、佐賀支局、水戸支局、多摩総局、東京本社社会部。著書は「難病カルテ 患者たちのいま」(2014年、生活書院)。

    2020年10月23日

    阿部菜穂子さん『チェリー・イングラム』英語版が米国で優秀賞 ― フェイスブックで近況報告

     【近況報告1】拙著『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』の英語版(米国版 ‘THE SAKURA OBSESSION’)が、このほど米国に基盤を持つ国際組織、植物学評議会(CBHL)の2020年優秀賞を受賞しました。

     CBHLは植物の収集と保護を目的とし、植物・園芸分野での資料・情報の蓄積と提供を担う国際組織です。賞は毎年1回、「植物学、園芸分野の研究に重要な貢献をした書籍」の著者と出版社に与えられます。

    'THE SAKURA OBSESSION' , the American version of 'Cherry' Ingram, The Englishman Who Saved Japan's Blossoms, has been given the CBHL's 'Award of Excellence in History' as part of its 2020 annual literature awards. The Council on Botanical and Horticultural Libraries (CBHL) is a professional organization in the field of botanical and horticultural information services. The literature award is given to the author and publisher of a work that makes 'a significant contribution to the literature of botany or horticulture'.

     【近況報告2】コロナ感染の拡大を機に(?)ロンドン郊外に引っ越しました。新居の目玉はクリの樹。高さ30メートルぐらいで、幹が5本あります。地元行政区の保護樹木に指定されている古木です。英名はSweet chestnut, 和名は西洋グリです。次々にイガに包まれた実が落ちるので、拾って焼き栗に。日本の栗より小さめですが、とても美味しいです!

    We have moved a little away from London into the countryside in the midst of the pandemic. There is a magnificent 30-meter-high sweet chestnut tree in the front garden, which has 5 trunks. It is very old and. is a designated protected tree. It is producing beautiful chestnuts and we have been enjoying roasted chestnuts!

     ※阿部菜穂子さんは1981年、毎日新聞入社、京都支局、社会部、政治部、外信部に勤務。95年退社。2001年からイギリス在住。2016年、『チェリーイングラム』(岩波書店)で日本エッセイストクラブ賞。

     著書の紹介によれば「大英帝国の末期に生きた園芸家が遠路訪れた日本で目にしたのは、明治以後の急速な近代化と画一的な染井吉野の席巻で、多種多様な桜が消えようとする姿だった。『日本の大切な桜が危ない!』 意を決した彼はある行動に出た――。日本の桜の恩人であり、今につながる桜ブームをイギリスに起こしたその稀有な生涯を描く」。

    【各国での受賞歴は次の通り】◇Sunday Times: Best Gardening Books, 2019(英サンデー・タイムズ紙 2019年最優秀ガーデニング書籍賞)◇NPR's Science Friday: Best Science Books, 2019(米公共ラジオ放送、2019年最優秀科学書籍賞)◇Irish Times: Best Gardening Books, 2019(アイルランド・アイリッシュ・タイムズ紙 2019年最優秀ガーデニング書籍賞)◇PopMatters: Best Non-Fiction Books, 2019 (ポップ・マターズ――米国で人気のあるポップカルチャーに関するウェブサイト―― 2019年最優秀ノンフィクション賞)◇The Daily Mail: Best books for nature lovers this Christmas, 2019(英デイリー・メイル紙 2019年 自然愛好家のための最優秀クリスマス賞)◇Woodland Trust: Best books of the year 2019 (ウッドランド・トラスト――英国最大の環境保護団体――2019年最優秀書籍賞)

    2020年10月21日

    警視庁記者クラブ1977年の顔ぶれ ― 軍事アナリスト小川和久さんが保存

    堀越章キャップ時代、旧警視庁七社会のお別れ会。左からぐるっと(敬称略)、坂巻煕、その後、諸岡達一、白木東洋、前田昭、宮武剛、加納嘉昭、今吉賢一郎、市倉浩二郞、松田博史、(2人の女性を除いて)根上磐、山本進、内藤国夫、佐々木叶、開真、山口清二。中央に堀越章

     元中部本社代表、佐々木宏人さんのフェイスブックに、軍事アナリスト、小川和久さんが投稿しています。インタビュー「新聞記者の歩み」の感想などのコメントを添えて。小川さんが「週刊現代」の記者だった頃の一枚のようです。

     まだ若々しい皆さんの顔が懐かしく、鬼籍に入られた方々を偲びつつ。

    小川さんのコメント:こういう先輩の話が後輩のジャーナリストへの刺激になりますね。私の駆け出し時代、貴社の内藤国夫さんの「新聞記者10年」から学んだことが少なくなかったです。若い記者なのに、パレスサイドビルの建設に首を突っ込んでいたりして、とんでもないオッサンでした(笑)。1977年頃の警視庁記者クラブの毎日の部屋の写真です。内藤さんも笑っています。

    2020年10月20日

    私設防潮堤が27.8mもの津波から旅館を守った! ——20日付朝刊「東日本大震災10年へ」続沿岸南行記ルポから

    2020年10月3日撮影
    2011年3月29日撮影

     ——羅賀(らが)地区に入り、細い道を上ると「本家(ほんけ)旅館」の看板が見えてきた。「よくおいでになりました」。畠山照子さん(94)が笑顔で出迎えてくれた。

     小高い場所に建つ旅館からは、海沿いの一帯を見渡せる。震災前は住宅や商店など約80軒が並んでいたが、今は更地に。道路は整備されたが、通る車はほとんどない。「駐在所にスナックに雑貨店……。新鮮な物を食べてもらおうと、あそこにあった魚屋さんでよく買い物した。(今はどれもなくなり)寂しいね」

     1946年、漁協の事務員だった栄一さんと結婚。51年に旅館を開いた。詩人の三好達治や作家の吉村昭ら著名な文人も訪れたという。

     震災の2カ月前、栄一さんが88歳で亡くなった。失意の中で震災が起き、一時は旅館を続ける気力が衰えた。最後に客を泊めたのは2年前。今は90歳を超えての1人暮らしだが、「休んでいるだけ」と旅館の看板は下ろしていない。

     眼下の海沿いに暮らした栄一さんの先祖は、明治の三陸大津波(1896年)で犠牲になり、昭和の三陸大津波(1933年)でも営んでいた雑貨店を流された。東日本大震災で平成の大津波を経験しても「お父ちゃんがいる家を空っぽにできない」と、ここを離れる気になれないのは震災当時から変わらない。

     焼きおにぎりをごちそうになり、帰ろうとした玄関先で畠山さんから「お友達になってちょうだい」と声を掛けられた。「また来ます」。そう約束して車に乗り込み、手を振り合った。【安藤いく子】

     ◆あの頃は

     岩手県田野畑村の二つの旅館では2011年3月28、29日に当時の担当記者が取材した。

     本家旅館がある羅賀地区はがれきに覆われ、村内でも被害が深刻な地区だった。ここで津波は高さ27.8メートルまで到達したとされる。

     当時、田野畑村の人口は約3800人で、29人が犠牲になった。

     写真の畠山照子さんは、毎友会相談役・高尾義彦さんの奥さまのお母さん。亡くなった照子さんの夫栄一さんが「城壁のような石垣」を、大金をかけて築いた。お蔭で東日本大震災の被害から免れた。

     毎日新聞デジタルには動画もアップされているとのことです。

    (堤  哲)

    2020年10月19日

    ユーチューバー始めました! さなちゃん、こと真田和義です

     https://www.youtube.com/watch?v=s1OmPjcZLKo

    サムネイル画像。これがYouTubeの一覧となり視聴者を誘うので、とても重要

     来年4月に古希だというのに、この夏からユーチューブ(YouTube)を始めた。おっかなびっくりだったが、動画撮影と編集にはまって、BGMで音楽も再発見、楽しくて仕方がない。チャンネル名は「さなちゃんの人生100年ちゃんねる」。毎友会のみなさま、ぜひ登録をよろしくお願います!

     孫のような先輩ユーチューバーのサイトによると、視聴者登録1,000人、再生時間合計4,000時間の基準を超えると、広告収入で一攫千金になる。ほんとかいな。これはファクトチェック不要。夢として受け止めている。8月7日からスタートして10月18日現在、計40本を投稿。登録者数60人超、再生回数1,000回、再生時間60時間。人気俳優でもイケメンでもない69歳の高齢者の動画を見てくれる温かいファンに感謝するばかりだ。

     さて、記念すべきアップ第1回は「キャンプ・ごはん クリガニのトマトソース煮」。北海道の東、北方領土を望む尾岱沼のキャンプ場で19泊20日間、テントを張った。地元・根室でジビエ研究家としても知られる北海道報道部、本間浩昭記者の協力で、「キャンプ飯」を計8本撮影した。動画の冒頭では北方領土返還を願う自作のタップダンス「ノック」(領土返還の固いトビラを叩く趣旨)で飾った。合板ボードを持ち込んで、その上で踊ったのだ。自分でも「よく、やるよ」と思う。

     なぜ、こんなことに手を付けたのか。平均寿命が女性87.45歳、男性81.41歳の時代だ。100歳以上は8万人もいる。酒漬けの自分が、それほど長生きするとは思えないけれど、新聞記者時代に培った取材力、企画力をこれからも人生で生かすにはどうすべきか、思案した。このまま朽ちたくない(笑)。やはり、デジタルだろう。新型コロナの非常事態で世界の「絆」を強めるには益々、インターネットの技量が必要になる。かつ、社会貢献になる内容も発信して人生を楽しみたい。

     サイトには、どうやってユーチューバーになり、成功するかの「チュートリアル」、つまり基本操作教育プログラムの映像があふれている。優しい若者たちが講義してくれるのだ。

     7月に東京から札幌に引っ越し、当地のヨドバシカメラ、ビックカメラで親切な店員に撮影機材の予算を伝えて教えを請い、ソニーのハンディカム、カメラに取り付ける専用マイクロフォン、三脚の三点セット合計73,569円で購入した。のちほどにナレーション録音用の高性能マイクロフォン6,498円も必要になった。安いのはノイズが入ってダメだ。

     さて、動画編集の機材は液晶画面が壊れたノートパソコンと、ずっと以前、秋葉原で買ったモニターがあるので大丈夫だが、問題はソフトだ。無料のお試しソフトはある。メーカーのウォーターマーク(透かし)が画面に入る。ちょっと、興覚めじゃないの。購入すると、透かしはなくなるという仕掛けだ。完全無料もある。技術的に少し、難しい。

    撮影・編集機材。ノートパソコンは液晶画面が壊れている。中央は専用マイクロフォンを装着したハンディカム。下は黒い三脚、上は自撮りの顔を美しく照らす(笑)円形ライト

     しかし、ソニーは偉い。自社でPlayMemoriesという簡単ソフトがある。有料の本格ソフトに比べると、画面にアニメが飛び込んだり、文字が踊ったり、いくつもの画面が重なり合うなんてできないが、撮影した素材の切り貼り、結合、BGM挿入、変速など基本はちゃんと行える。これで動画編集はなんとかこなしている。

     さらにネタをどうするか。いろいろな画像を見ると、面白おかしく工夫する試行錯誤に満ちている。視聴率アップの奇策は、迷惑系ユーチューバーといわれる若者は食品を買い、代金を払う前に店内で食べる姿を撮影・投稿の暴挙(!)に出て、逮捕者まで生み出している。

     私には、到底、そんなことは出来ないので、日々の生活を基本的に追うことにした。ふるさと・北海道釧路市の自然や、今、住んでいる札幌の日常を紹介したりしている。「コラム ちょっと思うこと」も始めた。やはり、新聞記者の思いはささやかながら反映したい。

     チュートリアルで先輩ユーチューバーが、こう強く言っている。①プライドは捨てなさい②人の話は素直に聴きなさい③数を重ねて質を高めなさい④何があっても諦めてはいけない―とね。別な若先生は、何が何でも100本アップを目指しなさい、と。これらの話をまとめると、ユーチューバーを目指す100人のうち、100本の手前で断念する人が99人だそうだ。この99人に入るか、残りの1人になるか。そのうち、結果は出る。

     ここまで来て、分かったことの基本中の基本はひとつ。健康であることだ。早起きも必須条件。体調が良くないと好奇心がわかない。アイデアが浮かばない。外に撮影に出る気がしない。69歳のルーキーが本物になるかどうか、健康と表裏一体だ。人生100年の時代、楽しく生きよう!

    ※真田和義さんは1975年毎日新聞社入社、2001年北海道支社報道部長として「旧石器発掘ねつ造」スクープで新聞協会賞、早稲田ジャーナリズム大賞、菊池寛賞受賞(取材班代表)。2005年ノーベル平和賞受賞のワンガリ・マータイ氏を日本に招きMOTTAINAIキャンペーン事務局長、常務執行役員、顧問を経て2019年退社

    2020年10月13日

    角川春樹君のこと ー 映画「みをつくし料理帖」公開にあたって

    ゆうLUCKペン出版記念パーティーで(2020年2月26日)
    ゆうLUCKペン出版記念パーティーで(2020年2月26日)

    野島孝一(元学芸部編集委員)

     堤哲さんに頼まれて、これを書いている。最近、角川春樹君が、毎日新聞をはじめ、あちこちでインタビューに応じている。自ら製作・監督した松本穂香主演の「みをつくし料理帖」(原作・高田郁)が2020年10月16日に公開されるのに伴い、宣伝活動でしゃかりきになっているのだろう。堤さんは、私が毎日新聞OBの同人誌「ゆうLUCKペン」に書いた自分史に、國學院久我山高校で私と角川が3年間同じクラスにいたと書いたところを目ざとく見つけて、”時の人“になった角川とのことを書けと言ってきたに違いない。

     残念ながら高校のころ、角川とそれほど親しかったわけではない。私は無口だったし、彼も無口なほうで、談笑した覚えがほとんどない。ただ教室では3年間席替えがなく、彼の後方に座っていた私は短く刈り上げた彼の“絶壁後頭部”の眺めになじんでいただけだ。“絶壁頭”については、私とて彼にひけをとらなかったのだが。そのころ(1957~60)の國學院久我山高校は男子校で、程度は相当低かった。井の頭線を挟んで、線路の向こう側には天下の秀才高、都立西高校があり、女子学生もいて線路を挟んで天国と地獄の様相を帯びていた。まさかのちに学芸部で机を並べた松島利行さんが、そのころあっち側の天国(西高)にいるとは思いもよらなかった。

    製作委員会ホームページから
    製作委員会ホームページから

     なにしろこっちには、やくざの舎弟を名乗る不良もいた。授業の終了後には畑が広がる校舎の前で他校の不良がたむろしてこっちの不良が帰るのを待ち受けていたこともあった。教室内の光景は索漠としており、ボタンまで真っ黒い制服はカラスのようで味気ないことこの上もなかった。

     柔道が正課で、週1回は道場でドタバタやっていた。当時の角川は色の白いやせた男で、今から思うと美男子だったかもしれない。ある日、角川がけいれんを起こして倒れたのを覚えている。だれかのかかとが角川の頭部を直撃したようだった。そんなこともあって、彼はひ弱な印象が強かったのだが、とんでもない。彼は早稲田を振って國學院大學に入ったのだが、拳闘部で活躍し、プロボクサーのライセンスも取ったと後で聞いた。渋谷でチンピラ相手に立ち回りをしたとも。ケンカしなくてよかった――。

     高校時代、彼の父親が有名な角川源義氏だとは知っていた。家族が複雑だとも聞いた。あるとき同じクラスの数人で、角川の家で勉強をすることになった。そのとき彼が妙なことを言った。「米を1合持ってこい」。何に使うのだろうと思いながら、おふくろに頼んで袋に米を入れてもらった。杉並区の彼の家に行くと、なんと車寄せのある豪邸だ。お手伝いさんが来て米を集めた。後からそれは握り飯になって現れた。いくら食い盛りの高校生が集まっても、もはや戦後ではない時代だよ。豪邸で食う持参米のおにぎりは、複雑な味がした。

     お互いが違う大学に進み、高校時代の友人たちとも疎遠になったが、思いもよらぬ形で角川と再会した。私がロッキード事件のさ中に東京本社社会部から学芸部に移った1976年に角川が初プロデュースした「犬神家の一族」が劇場公開され、大ヒットした。いまはなき日比谷の有楽座で完成披露試写会が開かれた。玄関には白いタキシードの角川が立っていて、「おい、野島だよ」と声をかけると「久しぶりだな」と応じてくれた。それはいい。後でレセプション会場に白塗りの棺桶が運び込まれた。いきなり中から現れたのは角川だった。度肝を抜かれた。あんなにおとなしかった奴がなあ。

     そのあとの彼の活躍は目覚ましかった。彼が製作した「人間の証明」「野性の証明」「復活の日」などの大作が、テレビのCMでバンバン流れる。一種の社会現象のようにヒットする。まるで神懸かりだ。そういえば、彼はスピリチャルや俳句の世界でも寵児になった。高校時代の彼とは、まったく別人のよう。

     彼は8本の映画を監督している。多分、製作だけでは飽き足らなくなったのだろう。最初の「汚れた英雄」(83年)は、人物像にまったく深みがなく、バイクのレースシーンも1社のバイクしか走らないので、気に入らなかった。監督として角川を見直したのは、「天と地と」(90年)だ。上杉謙信役の渡辺謙さんが病気で主役を榎木孝明さんに代わるハプニングがあったが、まずまずのヒットをした。私はカナダのロケに行き、角川監督を取材した。日本映画をカナダで撮るなんて、それだけでも常人には考え及ばない。川中島の合戦シーンが、まさかカナダで撮られたなんて見破った観客はどれほどいかだろうか。私が角川監督を評価したのは、カナダ人を含む大勢の助監督たちを束ねて指揮し、黒山のような軍勢を効率よく動かして、撮影していった技量だ。まるで野外のゲームのように助監督たちに命令を出し、群衆を動かす。彼は3000人のエキストラを外国で駆使したのだ。日本映画界で黒澤明監督以外にそういうスケールの監督は思い浮かばない。

     そうしてあの事件が起きた。社員カメラマンがアメリカからコカインを日本に持ち込み、角川も1993年に逮捕された。彼は罪を認めようとはせず、実刑をくらって2001年から4年間収監された。角川が「時をかける少女」(97年)を監督して撮り直すと聞いて取材したのは、裁判の係争中だったと思う。初代の「時をかける少女」(83年)は角川がプロデュースし、大林宣彦監督で撮って大評判になった。原田知世をスターにしたのも角川の功績だ。なんで新たに監督をして撮り直すのかを聞いたのだが、答えは忘れてしまった。角川監督版「時をかける少女」はモノクロ映画だった。当時はまだフィルムで撮影していたが、モノクロ映画は絶滅しており、第一、国内ではフィルムが生産中止になっていた。確か東南アジアでフィルムを探し出したようなことを言っていた。

     「みをつくし料理帖」は「笑う警官」(09年)以来の監督作品だ。正直言って角川監督がこれだけの情緒豊かな作品を作るとは思わなかった。日本の伝統文化がしっくりとなじんでいる。女心が繊細に描かれている。彼は確か5番目のカミさんと暮らしている。

     女心もいいかげんわかりそうなものだものね。

    2020年10月12日

    大治朋子著『歪んだ正義』が読売新聞書評で紹介されました ― 都内でトークイベントも

    読売新聞10月11日付朝刊「本よみうり堂」12ページ

    調査報道、裏話楽しむ 大治記者イベントに大学生ら150人 /東京

    毎日新聞2020年10月11日 都内版

     毎日新聞の大治朋子専門記者による「歪んだ正義~『普通の人』がなぜ過激化するのか」(毎日新聞出版)の出版を記念したトークイベントが6日、オンラインで開かれた。大学生など約150人が参加し、調査報道で知られる大治記者の取材の裏話などを楽しんだ。

     大治記者は1989年入社。2002~03年の防衛庁(当時)による個人情報不正使用に関する報道で新聞協会賞を2年連続で受賞したほか、米国の対テロ戦争の実態などを追った長期連載で10年度ボーン・上田記念国際記者賞を受賞した。

     イベントは毎日新聞麻布赤坂販売所(港区麻布十番)3階イベントスペースから、ウェブ会議システム「Zoom」で中継された。大治記者は冒頭、新型コロナウイルスの流行に伴い現れた「自粛警察」を例に暴力のメカニズムを分析。「ストレスがたまると人を攻撃する癖のある人は元来いるが、理性が蓋(ふた)をしている。今回そうした行為に走った理由は、自尊心と承認欲求を満たすためと思われる」と指摘した。

     イベント後半では参加者の質問に答え、調査報道で大事にしているポリシーなどを披露。「自分がいつも大事にしているのはQOL(人生の質)を上げる報道。そのタネはどこにでも転がっている」などと話した。

    (千代崎 聖史)

    2020年10月12日

    北海道毎友会総会で、新会長に江畑洋一さん選出

     北海道毎友会の2020年度定時総会が10月8日、北海道支社で開かれ、大西康文会長(元毎日新聞社取締役)の退任を承認。新会長に江畑洋一さんを選出するなど新役員体制(第29期)を決めた。会長の交代は8年ぶり。恒例の懇親会はコロナ禍の影響で初めて中止となり、出席会員は15人にとどまったが、コロナ禍の収束を願うとともに来年の再会を誓い合った。

     顧問を代表し挨拶した末次省三支社長は社業の厳しさを報告する一方で、「コロナ禍の下で新聞社として何ができるかを考えながら飛躍を遂げたい。皆さんのお力添えをお願いしたい」と話した。

     退会者(物故者)6人の方々が紹介され、黙祷。19年度の決算報告を承認した。紙媒体としての社報が今年度限りで廃止されることが江畑新会長から報告された。今後、東京毎友会ホームページへの相乗りを検討する。

     新会長となった江畑さんは1975年毎日新聞入社後、北海道支社報道部を経て支社次長、北海道毎日サービス社長などを歴任。「紙がデジタルへと変わっても正しい情報を伝える大切さは変わらない。毎日新聞の役割は大きく、私たちに何ができるか考えていきたい」と挨拶した。

     新しい役員体制は次の通り(敬称略)。【副会長】松宮兌、山田寿彦【会計監事】木下順一【会計】小野寺義治【幹事】小原利光。総会時点での会員数は147人。

    前列中央が江畑洋一新会長、向かって左が末次支社長、右が大西前会長

    (山田 寿彦)

    2020年10月9日

    連載「ジャーナリズムよ。私の記者20年日誌」を始めました ― 毎日新聞
    グループホールディングス顧問・小川一

     日本新聞協会発行の月刊誌「新聞研究」で、1999年1月号から2003年5月号まで続いた連載がありました。「忙中日誌」と題され、新聞社のデスクが日々の仕事や出来事を綴ったものです。その筆者である「大林三郎」は、実は私でした。今回、私が筆者であったことを明かした上で、当時の日誌を改めて読み直す連載「ジャーナリズムよ。私の記者20年日誌」を「note」で始めました。「note」は、編集者やジャーナリストがよく使っているブログサイトです。

     「忙中日誌」は、1960年代に共同通信社会部デスクだった原寿雄さんが「小和田次郎」のペンネームで執筆した名著「デスク日記」を意識したものでした。現代版の「デスク日記」が展開できないかと考えた新聞研究編集部が、筆者に私を選んでくれました。当時の上司に相談したところ「面白い。やってみたら」。この自由さとおおらかさが毎日新聞です。まさか編集局長は私が筆者とは知らないだろうと思っていたのですが、連載が始まってしばらくした頃、「今月号は話題になっているよ。いったい誰が書いているんだろう、って」と廊下で話しかけられました。本当にいい会社です。

     「忙中日誌」の連載は、毎日新聞の小川一が書いているということを気づかれないようにするため、少し苦労しました。原さんのデスク日記を読んでいると、後輩の結婚式に出た様子などが書かれています。どうやってペンネームを維持できたのか、よほど原さんに聞いてみようかとも思ったのですが、それも失礼なので、私なりに考えて対処しました。例えば、飲み会の様子などは日付をずらしたり、他社のデスクの体験談を自分事のように書いたりもしました。総じて、事実や事態の文脈を曲げず、後世に読み返してもその検証に耐えられるものにしたつもりです。連載中、後輩や他社の記者から「大林三郎は小川さんでしょう」と聞かれたことが3度ほどありました。その時は、笑ってごまかしました。

     今回、新たな連載を始めようと思いついたのは、NHK広島放送局がツイッターで展開している「ひろしまタイムライン」を知ったのがきっかけでした。原爆投下前後から敗戦直後の広島の庶民の悲惨な暮らしを、当時の人々の日記などから掘り起こし、BSの特集番組に編成するとともに、ツイッターで再現する取り組みです。一部に差別表現があり、残念な事態も招きましたが、その発想には大きな刺激を受けました。自分が過去に書いたものでも、現在にアップデートすることができると教えられました。また、インターネットの時代の今、デジタル情報としてアップしない限り、多くは死蔵してしまうという意識もありました。

     私は、2019年1月~4月に「平成の事件ジャーナリズム史」を15回、2020年1月~4月に「令和のジャーナリズム同時代史を13回にわたって毎日新聞のニュースサイトで連載しました。この時も、過去の著書や雑誌に書いたものを拾い出して再構成しました。読者の反応もよく、「平成の事件ジャーナリズム史」2回目の記事は、毎日新聞が1年間に発信する10万もの記事の中で、有料読者獲得ランキングでトップ10に入りました。連載でトップ10入りしたのは、私の記事だけでした。還暦すぎた私が、若い人たちに勝ったようでうれしかったこともあって、20年以上前の日誌を現在の連載にすることを決めました。ちょうど、取締役を退いたこともあり、実名を明かしても、会社に迷惑をかけないだろうという判断もありました。連載の舞台を「note」にしたのも、ペンネームで書いた作品を、毎日新聞の看板の下で展開するのは適切ではないと考えたためです。

     「忙中日誌」は1998年11月1日から始まります。日本の新聞の発行部数が最高を記録したのは1997年です。ちょうど部数減少が始まった頃に連載を始めたことになりますが、それでも、日誌には、まだまだ元気いっぱいの紙の新聞の姿が描かれています。「コンプライアンス」や「働き方改革」「テレワーク」などが幅をきかす今とは、白黒反転したような懐かしい風景です。連載は、そんなノスタルジーに陥ることなく、当時の熱量を今に伝導するものにしたいと考えています。

     「忙中日誌」は、私が社会部デスクから横浜支局長に転出する直前の2003年3月で終わりました。今回「ジャーナリズムよ。私の記者20年日誌」という題名にしたのは、「忙中日誌」だけでなく、その後の出来事も盛り込むためです。社会部長や編集編成局長時代に書いた文章も拾い出して、アップデートしていくつもりです。原則として毎週日曜日に投稿し、1年間は続ける覚悟です。読んでいただければ幸いです。

     小川一さんのブログについて、堤哲さんから以下の寄稿をいただきました。

     社会部旧友・小川一さん(62歳)がインターネット上で「ジャーナリズムよ。私の記者20年日誌」https://note.com/pinpinkiri/n/ne12393620f6cの連載を始めた。

     はじめに、にこうある。

     《ジャーナリズムの危機は、20年前にもさかんに指摘されていました。その危機は、乗り越えられないまま、インターネットの普及とソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の登場で、さらに深刻なものになりました。

     巷間にあふれるフェイクニュースや、人の命をも奪う誹謗中傷の投稿は、角度を変えてみれば、ジャーナリズムの衰退と敗北の結果とも言えます。

     一方で、全員が発信できる時代は、全員が発信者の責任を共有する時代、全員がジャーナリストになりうる時代でもあります。

     そんな時代を迎え、もう一度ジャーナリズムを多くの人と一緒に考えてみたいと思いました》

     小川さんは、社会部記者時代、月刊「新聞研究」(日本新聞協会発行)に「大林三郎」のペンネームで「忙中日誌」を連載していた。1999年1月号から2003年5月号までの4年半に及ぶ。

     筆者の新人記者時代の教科書でもあった小和田次郎著『デスク日記』(共同通信社会部デスク原寿雄著)のひそみに倣って連載を始めた、と書いている。

     20年前と今——。新聞の危機は深刻だ。

     1999年日本の新聞の発行部数は5370万部、総売上高は2兆4688億円。

     2019年の発行部数3780万部(▲1590万部)、総売上高1兆9323億円(▲5365億円)。

     2020年はコロナ禍で発行部数、総売上高とも、さらに落ち込んでいると思われる。

     20年前の日誌と比較することで《ジャーナリズムの過去と現在と読み解き、未来を展望する手がかりが得られれば、と思っています》

     さらに《この時代を報道の現場から記した日誌は、私個人の反省の記録であると同時に、ジャーナリズムとマスメディアの未来へ、反面教師という面も含めた伝言になることを願います》

     小川さんは、元社会部長→編集編成局長→取締役メディア担当

    (堤  哲)

    2020年10月2日

    我が町野鳥図鑑を作成(藤田修二)

     毎日労組OB会の会報『元気な歩み』でも少し触れましたが、私の住んでいる神戸市東灘区の人工島「六甲アイランド」でこれまでに確認された野鳥図鑑を発刊しました(写真①)。発行元は私がかかわっている六甲アイランドまちづくり協議会。

     図鑑と言っても何十頁もある大層なものではなく、B5版4つ折り、ページ数にすれば8ページのリーフレットのようなものです。91種類の野鳥とその解説を掲載しました。実は確認された野鳥は100種類余に上りますが、予算とスペースに限りがあるのと自前で撮影し、かつ図鑑として耐えられる画像に限ったので残念ながら上記の数になりました。

     撮影したのは私のほか、島内居住の花鳥風月を愛する3人。うち女性が2人です。

     私は、現役のころはただ住んでいるだけでしたが、余裕ができて島内を歩くと結構たくさんの種類の鳥がいるなあと気づきました。六甲アイランドは面積600ヘクタールありますが、全体としては自然に恵まれてはいない島です。でも公園や散歩道、池、周囲の海に、一時羽休めに寄ってくれる渡り鳥たちが多いことがわかりました。その意味では砂漠の中のオアシス的感じです。

     出来上がった図鑑を神戸市環境局の生物多様性担当職員に持っていったら、後日「人工の島にこんなにたくさんの鳥が見られるんですね。みんな驚いています」と返信がありました。

     合計8000部印刷、島内の各街区、小・中・高校、大学などに配りました。六甲アイランドまちづくり協議会のホームページにも載せましたので、関心がある方はご覧いただけたら幸いです。

     毎日新聞神戸支局の木田智佳子記者が興味を持ち、地域面で記事にしてくれました(写真②)。神戸新聞も取材してくれ、毎日新聞の後に掲載されました。

    (元社会部 藤田 修二)

    <大阪毎友会ホームページから転載しました>

    2020年9月24日

    50年前の早稲田の街の写真もあります—毎日フォトバンク

     コロナ禍で、早稲田大学は10月18日(日)に予定していたホームカミングデー・稲門祭を中止した。

     ホームカミングデーには校友のだれもが参加できるが、これまで卒業50年目、45年目、35年目、25年目、15年目の校友には招待状を送っていた。

     早大校友会が発行するコミュニケーション誌「早稲田学報」10月号には、卒業50年目の2020稲門祭実行委員長である作家の三石由起子さん(81年文学部卒)が稲門祭への思いを綴り、その先に4ページにわたって「50年ほど前の早稲田の風景」写真が8枚掲載されている。

     ホームカミングデーで母校へ行けないので、せめて当時の早稲田の風景を懐かしんでもらおうという企画であろう。

     その写真説明に、「1968年10月20日池田信撮影、毎日新聞社提供」とクレジットが入っている。

     「池田信って、写真部OB?」

     ではなかった。池田さんは元東京都庁のお役人。写真を撮ったのは都立日比谷図書館の資料課長時代。東京の姿を記録しておきたいと、カメラを肩に東京の街をさまよったという。池田さんは1987(昭和62)年に75歳で亡くなっているが、その後、写真を寄贈された毎日新聞社は、池田信写真集『1960年代の東京—路面電車が走る水の都の記憶』を2008年3月に発行している。

     編集人は出版写真部・高橋勝視、制作スタッフ・編集に出版写真部平嶋彰彦、校閲・写真部横井直樹、編集協力に編集局整理本部・松上文彦の名前がある(敬称略)。

     寄贈のきっかけは、松上さんの親友の夫人である今村裕子さんが池田さんの姪にあたったこと。子どものいなかった池田さんの死後、写真資料を引き取って10数年保管していた今村さんは、転居にあたり始末しようと考えたが、ひょっとして新聞社で使えないかと相談してきたのだ。とりあえず調査部あてに送ってもらったところ10数個の段ボール箱がどさっと届いて、あまりの分量にびっくり。

     その中には東京を写した2万数千点のネガと密着の紙焼き、そして撮影日時と撮影場所が綿密に記録されていた。寄贈を受けたその写真を調査部にいた森岡義人さんが、数年がかりでデータとして毎日フォトバンクに登録した。それを出版写真部の平嶋彰彦さんが精査し、川に沿った水辺の風景と都電の走る街並みを中心に400枚をピックアップしてまとめた。東京の街を知る資料的な価値のきわめて高い写真集で、2008年の発行以来、増し刷りを重ね、毎日新聞社から分社した毎日新聞出版からは2019年2月に新装版が発行されている。池田さんの写真は毎日ネットでも好評で、堅調なアクセス数を記録している。早稲田大学周辺で撮影した写真も、毎日フォトバンクに登録されている。

     毎日新聞の懐の広さを感じる話題ではないだろうか。

    (堤  哲、松上 文彦)

    2020年9月21日

    旧石器発掘捏造スクープを成功に導いた常識外れの決断 ― 20年後のNHK「アナザーストーリーズ」を機に取材班キャップが振り返る

    写真はNHKテレビ・アナザーストーリーズから
    写真はNHKテレビ・アナザーストーリーズから

     毎日新聞北海道報道部による旧石器発掘捏造のスクープ(2000年11月5日朝刊)から今年で20年。NHK・BSプレミアム『アナザーストーリーズ』が9月15日、スクープの顛末と、考古学界や社会に与えた衝撃を振り返る番組を放送した。私は取材班キャップとして「神の手」ことF氏に捏造映像を見せ、本人の言い分を聞く詰めの取材を担当したため、インタビューを求められた。またぞろ、美味しい所をいただいてしまったと、いささか申し訳ない気持ちでいる。

     取材班メンバーは、番組に登場した私と高橋宗男君、山本建君のほか、担当デスクの渡辺雅春さん、早川健人君、写真課員の西村剛君、第一報の「一通のメール」をもたらした本間浩昭君の計7人。私以外のメンバーがそれぞれ重要な役割を果たし、お膳立てしてくれたフルコースディナーのメインディッシュを「つまみ食いした」程度が私の役回りだ。

     スクープの成功はいくつもの奇跡が積み重なった。失敗もその一つ。北海道の発掘現場で高橋君が大失敗していなければ、山本君が宮城県・上高森の茂みに潜んでとらえた鮮明な捏造映像はなかった。しかも、「遺跡」の有名度は後者の方がけた違いである。そして何よりもの奇跡は、取材班の編成を命じた真田和義報道部長の神がかり的な直感力である。

     本間君が真田さんにメールを送ってきたのは2000年8月25日。「こんなことはあり得ない。怪しい」という内容ではあったものの、確たる証拠はなかった。真田さんはそれだけの情報で取材開始を即断即決。朝、出勤してきた私にメールを見せ、「俺は最近運がいいんだ。これで新聞協会賞を取るぞ。デスク渡辺、キャップお前。取材班を人選しろ」と命じた。「この人、何を言い出すのか」と面食らったどころではない。渡辺さんも「筋悪な話だなあ」という受け止め方であった。

     本間情報では、F氏が北海道新十津川町の発掘に数日後にやってくるという。バタバタと人選し、機材をそろえ、過去の新聞記事や資料を読み漁った程度の準備で明け方の張り込みとなった。F氏は早朝、一度だけ、無人の発掘現場に現れ、不審な行動を見せた。しかし、動画撮影はビデオカメラ担当の高橋君が操作を誤り失敗。西村君が望遠で撮影したおぼろげな写真だけが成果だった。

     発掘最終日の記者会見で、「石器が出た」と発表された。「不審な行動」との因果関係は分からなかった。北海道での発掘は、年内はそれが最後で、次の発掘現場は埼玉県。私はこの取材はこれで終わった、継続するにしても年が明けてからだろうと思った。北海道報道部の持ち場は北海道という固定観念からだ。この時点で取材費を100万円ぐらい使っていた。しかし、不審な行動を目撃した高橋君は取材続行を強く主張。渡辺さんも同調した。

     真田さんはしばらく熟考していた。「この写真でFを落とせないか」と相談された私は「否定されたら終わりです。無理でしょう」と答えた。もしこの段階で勝負をかけていたら、取材は水泡に帰していただろう。

     真田さんは取材続行を決断する。「金はいくらかかってもいい。俺が責任を取るから」と言った。ゼロか百かの大博打。『アナザーストーリーズ』風に言えば、この決断こそがまさに「運命の分岐点」となる。

     真田さんは後日、自分がなぜそんな決断ができたのかを語る。報道部長になる前に総務部長の経験があったからだという。どういうことか。当時の報道部の予算は年間800万円程度。一方で、販売部はABC部数を積み上げるための経費に毎月1億円ぐらい使っていた。支社全体の中で報道部の予算がいかに微々たるものか、という金銭感覚が総務部長の経験ゆえに持てたという。「1000万や2000万、どぶに捨てたってどうってことねえよ。失敗したら、ごめんなさいで終わりだ」。真田さんは腹をくくった時の気持ちをこんな言葉で表現した。

     過去の報道部長経験者から「自分だったら真田みたいな決断はできなかっただろうな」と言われたものだ。組織ジャーナリズムの弱点と言うべきか、その立場で可もなく不可もなく、無難に過ごすことが次のステップにつながる。どの会社にもありがちな組織文化の中で、失敗を恐れなかった真田さんの英断は奇跡だったと今も思う。

     立花隆氏をして「日本ジャーナリズム史上に残る完璧なスクープ」と言わしめた発掘捏造報道の最大の立役者は紛れもなく真田さんである。真田さんは、東京本社編集局次長(交番)を自薦するが、東京の感覚で言えば、彼はいわば外様、ノンキャリ扱い。会社は彼を編集局の中枢に置く人事を頑として認めなかった。

     社長室に異動し、「MOTTAINAIキャンペーン」や創価学会担当のスペシャリストとして、その異能ぶりを発揮する。北海道支社長を打診されても一蹴した。「支社長なんかで終わってたまるか」と。その後、執行役員として活躍したが、取締役に登用されることはなかった。

     真田和義は常人には思いつかない発想をする。新聞社経営が多難な時期こそ、型にはまらない組織論、経営論、リーダーシップ論が必要だろう。スクープの社会的意義を別として、真田さんが我が身を顧みずに下した常識外れの決断が歴史に残る大スクープを成就させた事実こそ、社内で共有され、いつまでも語り継がれてほしいと思っている。

    (北海道毎友会会員・山田寿彦)

     ※山田寿彦さんは1985年、毎日新聞社入社。北海道支社報道部副部長、東京本社代表室委員、社団法人北方圏センター出向(出版部長)を経て2011年、選択定年退職。2014年、はり・きゅう・あん摩マッサージ指圧師国家資格を取得。2015年、札幌で治療院を開業

    ※WEB上の「デイリー新潮」9月21日配信記事に、「『神の手』旧石器捏造事件から20年 今だから話せる〝世紀のスクープ〟舞台裏」が掲載されています。下記URLでご覧ください。
    https://news.yahoo.co.jp/articles/3d8f4d925075be2d76b7984985051bd174faf012?fbclid=IwAR1eoBObqCRv4cDvS1H-lAbhLmo9GewTGO4jkgH_olhUW8nKPrFZRb4rG1g

    2020年9月19日

    元カメラ毎日編集部、松村明さんの『閃光の記憶 被爆75年』が朝日新聞2020年9月19日の書評欄で紹介されています

    2020年9月14日

    「もういくつ寝ると<ユルリとね> 」―元エコノミスト編集長、高谷尚志さんがFB連載250回に


    「少年時代」の舞台入善町は黒部スイカを品種改良して入善ジャンボスイカとして全国的な評価と知名度を獲得しています

     「少年時代」井上陽水、映画「少年時代」篠田正浩監督に岩下志麻(少年の母)、劇画「少年時代」藤子不二雄a、いずも有名ですよね。

     でも原作は芥川賞作家柏原兵三「長い道」。 兵三少年が母岩下志麻に連れられて、志麻の夫、兵三の父の実家のある富山湾に面した富山県入善町に縁故疎開、その時の思い出を綴った小説です。東京の柏原家は男の子が5人、全員「兵」の字の後に一、二、三、四、五をつけて名前とした。東京は子沢山だったのですが、肝心の入善町のご本家はお子さんに恵まれない。

     そこで本家のご当主に一人是非ということで、入善町のご本家に幼少から赴いたのが「五」番目の兵五。 坂東・村椿甲子園の投げ合いで全国を沸かせたあの魚津高校を卒業、東京の大学に行っている時は東京の柏原家で居住。そこは東大の近くで 東大独文に通う、兄の柏原兵三氏の 友人、仏文の大江健三郎氏も遊びに来ていて、丸いメガネで朴訥にボク大江です 何ていうところも見たという貴重な体験をしています。

     東京でビジネスマン。 東京の大学にやはり行っていた入善町近くの女性と結婚。子供3人、孫6人。

     そこに2011.3.11東日本大震災、それをきっかけに柏原総本家当主の自覚に目覚め、家屋敷、田畑、仏壇、お墓を守る、の決意で、入善町に移り住んだのですね 。その時家屋敷は空き家になっておりました。

     田畑を耕し晴耕雨読。これもいいのですが、兄兵三譲りの文才がムラムラと鎌首をもたげ、そうだブログを書こう、そこで2011年5月から延々と毎日 ブログを更新することになったのです。途中からお正月ちょっと休載、病院に入院中休載、を除けば本当に毎日更新しています。

     その数たるや。なお兵五氏とは取材先で知り合いになりました。ご興味のある方、「随筆風」と検索してください。すぐに出てきます。 ペンネーム「樫平吾」。

     前方に富山湾、後方に北アルプス、四季折々、畑ではネズミモグラナメクジとの戦い、果実を狙う野鳥、村落共同体、ユーモアたっぷりに描き出します。とりわけ都々逸とか警句をひねり出すか見つけてくるのにたけています。

     ・村落共同体
     ホトトギス 自由自在に聞く里は 酒屋へ三里 豆腐屋へ二里

     ・男女の機微
     君は吉野の千本桜 色香よけれど き(木、気)が多い
     浮気うぐいす 梅をばじらし わざと隣の桃で啼く
     老いらくの恋と知りつつ炭の宿 後は囲炉裏の 灰になるまで

     ・人生の機微
     裏を見せ表を見せて散るもみじ<良寛>
     立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半‥

     ・頂門の一針メタボ対策
     今日の我慢か明日の肥満か
     (拳拳服膺してます)

     「樫平吾」に刺激されて、足元にも及ぶものではないにせよ、私も何か、ということで Facebook に「もういくつ寝ると<ユルリとね> 」を毎日、投稿を始めました 。250 本 になるのを、毎友会編集部に気づいていただき、何か書いてみたらとの注文をいただいたような次第です。

     面白いと思ったことをその場で書けて発表の場があるというのは定年退職者にとってはありがたいことです。

     古い話でも新鮮さは失わない。例えばクイズダービー山城新伍、第三の顔とは、大橋巨泉絶句。同じクイズダービーおなじみの教授、篠沢秀夫さんのフランス文学講義録を読んでましたら、『猿の惑星』をめぐる仏文学者と英文学者の仁義なき戦い。断捨離しようと思ってパラパラと眺めた雑誌に太地喜和子さんが椎名誠さんとの対談に登場しているのでちょいと読み返してみると太地さん、自分の葬式を脳裏でシミュレートしていると言っているんですね。慌てて日付を見ると自動車海中転落事故の1年前。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

     今後、開高健VS淀川長治 裏グルメ対決、杉浦日向子 VS小泉武夫 究極の臭い対決、あの壇蜜が銚子の大学(千葉科学大学。10年ほどお世話になってました)を撹乱した話などを予定しております。

     FB は全公開ですのでお気軽に訪問いただければ。

    (高谷 尚志)

     https://www.facebook.com/profile.php?id=100005457191329

    2020年9月12日

    長田達治さんが「竹下派 命がけの権力闘争」を日本記者クラブ会報に

     政治部副部長、ソウル支局長、アジア調査会専務理事などを務めた長田達治さんが日本記者クラブ会報9月号「書いた話 書かなかった話」に、「竹下派の誕生と分裂のドラマ 七奉行が『命がけの権力闘争』」を執筆しています。クラブのホームページでも読めます。

     https://www.jnpc.or.jp/journal/bulletins
     14、15ページ

    2020年9月10日

    毎日ファッション大賞選考委員・太田伸之さんがMD実学本を出版

     2020年(第38回)「毎日ファッション大賞」(毎日新聞社主催、経済産業省後援)の受賞者が決定しましたと、9月9日付朝刊に社告があった。

     <大賞>デザイナー・熊切秀典氏(beautiful people)
     <新人賞・資生堂奨励賞>デザイナー・横澤琴葉氏(kotohayokozawa)
     <鯨岡阿美子賞>ファッション甲子園実行委員会
     <話題賞>ワークマンプラス

     毎日ファッション大賞の選考委員を務める太田伸之さん(67歳)が『売り場は明日をささやく―大変革期を生き抜くファッションMDの実学』(繊研新聞社刊、2,200円+税)を出版した。

     MD(マーチャンダイザー)とはマーチャンダイジングの頭文字からで、マーケットやトレンドを分析し、商品企画から販売計画、予算・売り上げを管理する、アパレル企業のブレーンだそうだ。

     太田さんは、この本についてこう書いている。

     《ファッションビジネスはいま赤信号状態、なので表紙は真っ赤に塗りつぶしました》
     《タイトル「売り場は明日をささやく」は、売り場を注意深く見て分析すれば明日の業界、市場が見えてくるという意味です》
     《コロナ後、同じ景色は戻ってきません。これからどういう戦略を立てるのか、ぜひ拙著を参考にしていただきたいです》
     《「もっと魅力的な商品を作ろう」、まさにクリエーションが問われるのはここからではないでしょうか》

     太田さんの三重県桑名市の実家は、テイラーだった。明治大学の学生時代からファッションのサークル活動をはじめ、大学を卒業してNYへ。百貨店、有名ブティックなどを回り、クリエーターにも会って、その現地報告を繊研新聞に送った。同時にアートとデザインの私立専門大学であるParson’s School of Designに通った。のちに同校の講師となって、授業も受け持った。

     8年のNY生活を終えて帰国、1989(平成元)年11月に東京ファッションデザイナーズ協議会(CFD)を立ち上げて、議長に就任する。

    毎日新聞社2009年刊

     日本のファッションを世界に発信!で、東京コレクッションを春秋に開くとともに、ファッションビジネス塾を開いてマーチャンダイザーの育成を始めた。

     1995(平成)年CFD議長を退任して銀座のデパート松屋営業本部顧問兼東京生活研究所所長→2000年イッセイミヤケ社長→2011年松屋常務執行役員、MD戦略室長→海外需要開拓支援機構(クールジャパン)社長→18年退任。(株)MD03設立。

     以上は、太田さんの『ファッションビジネスの魔力』(毎日新聞社2009年刊)などからの引用だが、太田さんが一番信頼していたのは毎日新聞のファッション記者市倉浩二郎(1940年入社)だった。市倉はパリコレから帰国して体調を崩し、1994年4月25日に亡くなった。53歳だった。

     太田さんは、社会部旧友大住広人さん(1961年入社)とともに市倉の葬儀すべてを仕切った。太田さんは、今でも「桜の季節は市倉を思い出すので好きでない」という。

     新宿伊勢丹本館2階の「TOKYO解放区」がある。『売り場は明日をささやく』108ページに解放区誕生の経緯が綴られている。

    1994年4月19日毎日新聞夕刊

     狙いは若手ファッションデザイナー育成、インキュベーションのための売場確保だった。

     太田さんが持ちかけたのは後に社長となる武藤信一さんであり、そのバイヤーが後にファッション業界初の参議院議員となる藤巻幸夫さん(2人とも故人)だった。

     そのオープンが1994年4月。なんとその記事を夕刊ファッション欄に私が書いているのだ。多分、市倉が体調を崩して入院、編集委員室で隣合っていた私に「穴埋め」原稿が求められ、伊勢丹で写真を撮って書いたと思われる。市倉の代打・代走だった。

     その記事で太田さんはこういっている。

     「卵がかえる機会は与える。孵らない卵は捨てる。かえったヒヨコは追い出す、ということです」

     「解放区」から何人の若手デザイナーが羽ばたいてメジャーになったのだろうか。

    (堤  哲)

    2020年9月9日

    毎日新聞記者Jr.佐藤一平さんがCFに出演

     YouTubeを見て下さい。

    https://www.youtube.com/watch?v=1fByS3tlQBg

     富士ゼロックスのCFです。

     これに出演しているのが、元銚子通信部佐藤正三さん(1983没、39歳)の長男一平さん(48歳)です。イケメンでしょう!

     身長182センチ、趣味:絵画、ギター、英会話。特技:殺陣、剣術(小野派一刀流)、乗馬というから格好いい。

     お母さんは、千葉・白扇書道会(種谷萬城会長)所属の書家佐藤星紗(和子)さん。毎日書道展会員であり、むろん「毎日賞」も受けている。千葉支局で長いこと働いていたから「あの佐藤さんの息子さん」といわれる方もあるかも知れません。

     一平さんは、俳優仲代達矢の「無名塾」へ300倍の難関を突破して入団。5年間にわたり全国行脚して舞台俳優をつとめた。その後独立して、映画、テレビ、舞台などで活躍している。

     皆さん、応援をよろしくお願い致します。

    (堤  哲)

    2020年9月7日

    「新聞もなんとかせい!」元朝日新聞販売局丸山清光さん
    ――他人事ではなく、新聞販売の現場に「喝!」

     明治大学野球部の監督を37年、東京六大学野球リーグ戦優勝15回の最多記録を持つ「御大」島岡吉郎(1911~1989)の「人間力野球」を、1975(昭和50)年度のキャプテン丸山 清光さん(67歳)が綴ったノンフィクションである。

     島岡は明大の学生時代応援団長。1952(昭和27)年監督に就任するが、明大野球部のHPに「キャプテン以下11人が退部」「この退部事件は毎日新聞のスクープで部外者の知るところとなり」とある。

     「黒雲なびく駿河台」「明大野球部瓦解の危機に瀕す」が見出しだった(同HP)。

     しかし、この素人監督は就任4シーズン目に優勝。野球殿堂入りをしている。

     筆者の丸山さんが投手でキャプテンだった1975(昭和50)年は春秋連覇した。前年秋、法大1年生の江川卓投手に連敗した。「浮き上がってくる剛球と天井から落ちてくるカーブに完璧に抑えられた」のだ。

     島岡監督は翌春ハワイ遠征をして、江川対策を練る。上背のある投手の投球に慣れることと、高目の投球には手を出さないこと。

     帰国して、合宿所内に貼り紙が出た。「打倒江川! 江川の高めの球を捨てろ」

     あげくフリーバッティングでは、ピッチャーマウンドの2メートル前から打者の胸元へ速球を投げさせ、打者はバットを振らない「見逃す打撃練習」をした。

     結果〇3-2、●2-8、〇4-2で明大が「打倒江川」を実現した。

     そして秋——。初戦の東大に連敗した。次の立大に2勝1敗。早稲田、慶應に連勝して天王山の法大戦。江川は肩を痛めて不出場。明大は連勝して、早慶戦で早大が連勝すると優勝決定戦だったが、第2戦に早大が敗れ、練習グラウンドで島岡監督の胴上げとなった。六大学野球史上、東大に連敗して優勝したケースは、このシーズン以外にない。

     江川は、翌76、77年の春秋に優勝して4連覇で卒業した。1年生の74年秋も優勝、明大が優勝した75年は春秋とも2位だった。4年間の投手成績は47勝12敗。山中正竹(法大)の48勝に次ぎ歴代第2位である。

     丸山さんは卒業して1976年(昭和51年)4月、朝日新聞に入社する。「入社31年目に関連企業に出向…社長業を2社、12年」。優秀な販売担当員だった。

     最終章の見出しは、《新聞応援歌「新聞もなんとかせい!」》。

     入社時、朝日新聞の発行部数は700万部。「昭和の終盤に800万部」だった。

     しかし、「平成に入ると販売部数の伸長が止まり次第に減少を始めた。100%前後あった対世帯到達度が低下を始め、今では実質50%を割り、エリアによっては40%を下回り、止まる気配はない」。

     「そして、実売を上回る過剰な販売部数が大きな障壁となり、販売店の経営を悪化させている」と、深刻な販売現場の衰退を嘆いている。

     丸山さんはこう訴える。

     「新聞がなくてはならない『文化的日用必需品』として、形を変えても人々に再び手に取ってもらう日が来ることを祈って止まない。御大の『なんとかせい!』の一言を贈りたい」

    (堤  哲)

     文藝春秋企画出版部発行、定価:本体1,800円+税。ISBN:978-4-16-008979-2

    2020年9月6日

    スペイン風邪から100年⑧ 75年前の日独伊米英とコロナ禍

     80歳、傘寿の誕生日を7月に迎えた中安宏規さん(1964年入社)の「濁水かわら版」102号が届きました。以下は本人のメッセージ——。

     超ご無沙汰しました。

     PCとの喧嘩で打った単語がどこかへ飛んでいく。変換がめちゃめちゃ。せっかくできた紙面が、ぐちゃぐちゃに崩れる。

     1型糖尿病は安定してA1Cが6.8 体重は≒55kg 血圧は128~70.歩くのが少々シンドイけど今日も夕方あるいてきました。

     102号はコロナの記録と検証&75年前(昭和20年)のNEWSの抱き合わせです。僕自身が初めて知ることも多々ありました。

     ご笑読下されば幸いです。

    (中安 宏規)

    2020年9月4日

    「東京日日新聞」創刊の地

     9月3日付夕刊「憂楽帳」に「創刊の地を探す」とあった。

     コラムを要約すると——。

     《毎日新聞の前身、東京日日新聞が創刊した地は「浅草茅町(かやちょう)1丁目24番地」。社史によると、創業者の一人、戯作(げさく)者の条野伝平の自宅で、1872(明治5)年2月のことだ。この町名は、もう残っていないが、台東区のJR浅草橋駅や屋形船が浮かぶ神田川のすぐそばのようだ。我が家からも近い》

     で、筆者は現場を探すのだが、結論は《いつか、条野宅の跡を探し当てたい》。

     到達できなかった。

     社会部旧友今吉賢一郎さん著『毎日新聞の源流』(毎日新聞社1988年刊)に条野伝平宅の地図まで載っているのだ。

     この本のあとがきに今吉さんが書いている。

     《昭和62年8月30日付で毎日新聞(東京)は4万号を迎えた。この日を挟んで「人脈」欄に連載の機会を与えられた》

     《明治5年(2月21日)に東京日日新聞が浅草茅町1丁目、条野伝平宅で誕生したとき、そこはまさに通人たちの集中している地区だった。いちばん時代を呼吸している街だった。…もともと新聞は、地域に根をおろしたものだった。最初から漠然とした全国紙などは存在しなかった。東京日日新聞は、時代を呼吸する街に根を張る新聞として始まっていた》

     条野宅で発行していたのは20号までで、明治5年3月12日付から元大阪町新道(辻伝右衛門邸宅に移った。現在の中央区日本橋人形町1丁目)。

     辻は《銀および銀貨を管理した江戸「銀座」役人の筆頭》《資金力を背景に日報社(東京日日新聞の発行社)にかかわった》と今吉さんは説明している。

     さらに明治6年2月25日付から浅草河原町16番地に変わった。地図にある江戸通りの交差点の角地だ。

     毎日新聞は2022年2月21日に創刊150年を迎える。

    (堤  哲)

    2020年9月2日

    山崎正和氏の訃報―奥武則さんが「今週の本棚」スタートを振り返る

     山崎正和さん(下の写真)が亡くなった。訃報は各紙に大きく載り、追悼記事も各紙に出た。追悼記事で、私が読んだのは、朝日新聞の鷲田清一氏と毎日新聞の五百旗頭真氏のもの。両方とも、山崎さんが、「劇作家」や「評論家」といった肩書きに収まらない文化創造者ともいうべき存在だったことにふれている。たしかに、山崎さんのような「大知識人」は、もう出ないだろう。

     「山崎さん」と親しげに(?)に呼んでいるが、個人的に深いかかわりがあったわけではない。ただ、毎日新聞社時代、何度かお会いし、座談会にも出ていただいた。

     一つは、1995年4月から翌年3月まで週一回、一ページの紙面全部を使って連載した戦後50年の大型企画『岩波書店と文藝春秋――戦後50年 日本人は何を考えてきたのか』の締めくくりの座談会「総合雑誌を考える」である(上に紙面の写真)。

     この企画の相談相手の半藤一利さんの司会で、山崎さんと作家の丸谷才一(上の写真左)さんの三人で座談会をしてもらった。

     山崎さんと丸谷さんは多くの対談などをしていて、旧知の仲。この座談会でもお互いの発言をめぐって「論争」するといったことはなかった。だが、なんというか、名人・達人同士の「技」の見せ合いといった趣があって、同席していて、一種の緊張感があったのを覚えている。

     毎日新聞が丸谷さんを編集顧問に迎えて、書評欄を刷新した「今週の本棚」をスタートしたのは、1992年4月だった。山崎さんに客員的なかたちで書評執筆メンバーに入ってもらった。むろん、丸谷さんの提案である。

     毎年春に書評メンバーが集まって、懇親会を開く。その席で、山崎さんに会ったのが初対面だった。「あなたは本当に新聞を作るのが好きなんですね」と言われたのを覚えている。

     「今週の本棚」では、従来のように「書評委員会」を開いて書評する本を決める方式に変えて、今後の予定や新刊本のお知らせを小冊子にして毎週、メンバーに送ることにした。この冊子は、丸谷さんが「竹橋通信」と“命名”してくれた(竹橋は毎日新聞のある場所)。担当デスクとして、この「竹橋通信」を作っていたわけだが、たんなる「連絡」ではつまらないと思って、冒頭にちょっとした短文を書いた。山崎さんは、その「竹橋通信」のことを、たぶん褒めてくれたのだろう、と勝手に思っている。

     山崎さんの「世阿弥」をはじめとする劇作にはまったく接していないのだが、構想力あふれる文明批評にはいつも感銘を受けていた。

     私にとっても「巨星墜つ」という思いは強い。

     そういえば、丸谷さんもすでに2012年10月に亡くなり、「今週の本棚」の顔ともいうべきコーナーのイラストを長く描いていただいた和田誠さん(上の写真㊨)も今年10月に逝かれた(ちなみに、本ブログのプロフィールに載せた「似顔絵」は ©MAKOTO WADA である)。

     炎暑の日々だが、黄昏時にいる思いが募る。

     (奥武則さんの「新・ときたま日記」8月29日付け)

     奥武則さん=ジャーナリズム史研究者。新聞社に33年。2003年4月―2017年3月、法政大学社会学部・大学院社会学研究科教授。「ジャーナリズムの歴史と思想」などを担当。法政大学名誉教授。毎日新聞客員編集委員。

    2020年9月2日

    金大中事件がライフワークの古野喜政さん

     西のヤマソウ(山崎宗次)と呼ばれた大阪社会部のやり手記者だった古野喜政さん(84歳)。2001年8月に日本ユニセフ協会大阪支部(現大阪ユニセフ協会)を立ち上げ、副会長を務める。足掛け20年である。

     会報「ユニセフ大阪通信」第79号(2020年8月15日号)にこんな記事が載っていた。

    「ユニセフ大阪通信」第79号(2020年8月15日号)4ページ
    古野喜政氏

     大阪社会部時代、古野さんに大阪府警担当に引っ張り込まれた。

     古野キャップ以下7人。捜査二課担当が鳥越俊太郎。私がそのカバーで捜査三課・四課担当だった。サブキャップ佐藤茂(1970年植村直己らがエベレストに登頂した登山隊に同行、故人)、捜査一課藤田昭彦、神谷周孝、防犯・交通藤田健次郎。

     土曜日の午後、府警ボックスでカンテキ(七輪)を使って焼肉をよくやった。ニオイが府警中にわたって文句をいわれたこともあった。いい時代だった。

     古野さんは小倉高校から京大法学部、猪木正道ゼミだった。60年入社。大津支局から大阪社会部。口八丁手八丁の事件記者だった。

     府警キャップ時代からハングルを勉強、1973(昭和48)年3月~76(昭和51)年3月ソウル特派員。金大中事件、文世光事件などに遭遇。大阪社会部で培った事件取材をソウルでもいかんなく発揮した。

     「金大中さんに最も近かった日本人記者は僕とちゃうかな」という。

     1981年に『韓国現代史メモ:1973-76 わたしの内なる金大中事件』(幻想社)、退職後『金大中事件の政治決着 : 主権放棄した日本政府』(東方出版2007年刊)、『金大中事件最後のスクープ』(2010年05月刊)を出版した。金大中事件は、ライフワークなのである。

     大阪本社社会部長時代にはグリコ・森永事件。同本社編集局長、常務取締役西部本社代表からスポーツニッポン大阪本社専務。

    (堤  哲)

    2020年8月29日

    「記者清六の戦争」連載に関連して

    毎日新聞殉職社員追憶記『東西南北』

     伊藤絵里子記者の連載「記者清六の戦争」が8月29日付朝刊で終わった。連載は25回に及んだ。

     伊藤記者の曾祖父の弟、伊藤清六記者は、「マニラ新聞」に出向した。1945(昭和20)年1月8日、首都マニラのあるルソン島に米軍上陸。空襲も激化し、1月末に発行を停止して、マニラを脱出する。

     「逃れた地で陣中新聞」をガリ版刷で発行したが、最後は「ヤシ林をさまよい餓死」する。38歳だった。

     毎日新聞社が発行した、戦争で殉職した社員追悼記『東西南北』(毎日新聞社終戦処理委員会編集・発行、1952年刊)に星安藤四郎(経済部長→監査役)が追悼文を寄せている。

     《伊藤のオッサン、農政記者伊藤を高く評価する。観念的な農政評論家では決してなかった。日本の農業に脈々として流れる、血と土の精神を把握した、わが国農業の指導者であった》

    南京攻略戦を取材した東京日日・大阪毎日新聞の記者たち(1937年12月14日撮影)

     《僕は南方からの帰途、マニラで兄に再会することを唯一の楽しみにして      
    いた。僕の搭乗機はマニラ空港に降り立った。しかしそれは給油の僅かの時間であって兄との再会は無残にはばまれた。名刺に祈御健闘と認め、これを人に託したまま空からの挨拶に心を残しつつ帰国したのであった》

     中安宏規(64年同期入社)の「濁水かわら版」に、従軍記者を調べていて『東西南北』(360頁)を古書店で入手した、という記述がある。

     表紙は餓死者が多かったルソン島山岳部の景観写真。題字は聖徳太子筆「法華経義疏(ぎそ)」(注:義疏は注釈書の注釈書)からの集字。

     敗戦時、資本金 1000 万円の毎日新聞社は、500 万円を海外で斃れた社員の状況把握、遺族への償いや生還者の給与の支払いに充てたと記している。

     中安は、毎日新聞社が満州事変以降、支那事変と太平洋戦争の戦場に派遣した社員数を『東日 70 年史』と『東西南北』から作成している。

    毎日新聞社が戦場に派遣した記者など社員数

    満州事変 錦州に 50 名余派遣 (東日 70 年史)
    支那事変~敗戦 中国戦線の従軍特派員(大阪人事部資料) 華北 213 名
    華中 307 名 華南 83 名 海軍関係 54 名、計 657 名。
    終戦直前の記録なし。(東西南北)
    1938 年度~39 年度 中国戦線38年上期のべ269名、下期のべ418名。
    39年上期同570名、下期同628名 総計1905名(東日70 年史)
    1940 年10 月~ 蒙古~タイ~仏領印度支那へ常駐特派員約 100 名、従軍特派員70 余名派遣 (東西南北)
    1941 年太平洋戦争宣戦布告直後 ホンコン 10 名 タイ 15 名 マレー方面 10 名 フィリピン15 名
    オランダ領印度支那 25 名 仏領印度支那 25 名華南 20 名 計120 名。連絡員 50 余名で総計 170 名余を戦時派遣。(東西南北)
    42/2/15 シンガポール陥落→3/10 日 昭南(シンガポール)支局開設
    支局長以下 10 余名 (東西南北)
    43/3 入退社を除く異動 138 件中、内外地間異動 77 件(58%)
    45/8 終戦時の状況 外地派遣社員 342 名(殉職を含む)。現地採用の南方新聞社員・連絡員 127 名の計 469 名に及ぶ。(東西南北)

     469人の地域別は、樺太・千島52、朝鮮312、満州211、中国華北14、華中23、華南22、台湾26、沖縄21、マレー・ビルマ252、フィリピン1,446、ジャワ・スマトラ94、その他の戦地46、欧州特派員6である(中安宏規調べ)。

     「記者清六の戦争」⑪で南京陥落から一夜明けた1937(昭和12)年1月14日に「東京日日」「大阪毎日」特派員の記念撮影(佐藤振寿写真部員撮影)が載った。冒頭に掲載した写真だが、その数の多いのに驚く。

     中安は、戦死者の数も調べた。全日本新聞連盟編『日本戦争外史・従軍記者』(1965年・新聞時代社刊)によるが、それによると太平洋戦争の死亡記者数は同盟通信56人、朝日新聞47人、毎日新聞66人、NHK39人、読売新聞38人、東京新聞4人、西日本新聞 1人で、計251人。

     『東西南北』には、76人が列記されている。清六の上司南條真一マニラ新聞編集局長は1945(昭和20)年6月15日戦病死と記録されている。

    (堤  哲)

    2020年8月25日

    『封印された殉教』の著者、佐々木宏人さんが読売新聞に

     軍国主義を批判し平和を訴えた神父が1945年8月の敗戦直後に横浜市の教会で射殺された事件を追った元経済部長、佐々木宏人さん(78)の著書『封印された殉教』が、読売新聞都内版(22日付け)に取り上げられました。取材に応じた佐々木さんは「自由に意見を言えない社会はいけない。平和のため力を尽くした神父のことを伝えていきたい」と話しています。

     佐々木さんは昨年6月、毎日新聞メディアカフェで著書の話をした際、毎友会ホームページで紹介されています。

    2020年8月24日

    戸澤正志・西部本社編集局長の命日に、追悼社報がフェイスブックに

     毎日新聞社顧問(元取締役西部本社代表)岩松城さんが、2001年8月24日に西部本社編集局長在任中に亡くなった戸澤正志さんを送る、当時の社報号外をフェイスブックにアップしている。一人の記者の逝去を、社報号外を作成して悼む。温かい社風と言うべきか。東京本社でも、戸澤さんの人柄を知る人は多いのでは。

    2020年8月24日

    さよなら「豊島園」

     地下鉄にこんな中吊り広告が出ていた。西武鉄道の車両だったのか。

     豊島園の思い出は、「くりくり」につながる。1977(昭和52)年6月に創刊したタブロイド判の週刊新聞だ。

     「くりくり」の題字の上に
        Teen‘s Space, Go Go Go!!

     若者、中高校生向けの情報紙をうたった。

     豊島園は、この情報紙に最初に反応したひとつである。早速「くりくりフェスティバル」を企画、読者参加のイベントを実施した。

     広報に荒川圭一郎さんがいた。くりくり編集部によく顔を出した。

     西武百貨店も、くりくり専用スペースをつくった。女性社員が「くりくりおねえさん」になって、来訪者のお相手をしてくれた。

     今、くりくり野球大会が西武ドーム球場(メットライフドーム)で開かれているのも、その延長線にある。

     豊島園が開園したのは、1926(大正15)年である。ことしで94年。今月いっぱい、8月31日で閉園する。閉園記念イベントが行われている。

     跡地は東京都が公園として段階的に整備する計画になっている。その計画の一環として、「ハリー・ポッター」の映画撮影で実際に使われた衣装や小道具などを展示する「スタジオツアー東京」を2023年にオープンする。広さは約3万平方メートル。ロンドンの「メイキング・オブ ハリー・ポッター」に次いで世界で2番目の施設になる。

    (堤  哲)

    2020年8月24日

    続「南海タイムス」休刊、八丈島はコロナ感染ゼロ

    毎友会HPを朝日新聞が追いかけた?

    8月22日朝日新聞夕刊社会面のトップ記事

     8月22日朝日新聞の夕刊社会面を見てびっくりした。八丈島の「南海タイムス」休刊のニュースがトップで載っていた。

     紙面を写メして(表現が古いか)八丈島に送ると、毎日新聞社会部八丈島通信員でもある菊池(苅田)まりさんから返信メールが届いた。

     《島の人からは、「タイムスがないと、さびしい」とか「特集号でもいいから出してほしい」「発行回数が少なくなってもいいから」など、あたたかい言葉をかけていただいています。「町議会を客観的に報道する新聞は必要」という声もあります》

     《八丈島は、今のところ、コロナの感染者はゼロです。3月以降、ほぼすべてのイベントが中止になりました》

     《全日空の羽田ー八丈島路線はコロナ前は1日3往復でしたが、4月半ばから1往復になり、観光業や飲食業が大きな影響を受けました。

     飛行機はガラガラで、4月の来島者は昨年の同じ月と比べて9割減少しました。

     緊急事態宣言中は、島の人は上京を控えていましたし、親の葬儀にも出られない人がけっこう多かったです(里帰りの自粛で)》

     《宿泊施設はホテルなどが営業を再開しています。今は、飛行機は1日2往復です。お土産店やレンタカー、タクシー会社などは売り上げが激減しましたから、これからが心配されます》

    (堤  哲)

    2020年8月20日

    女性報道写真家第1号の誕生に、社会部OBの誘い

    9月1日で106歳になる笹本恒子さん(読売新聞から)
    100歳を迎えた時(2014年筆者撮影)

     日本初の女性報道写真家・笹本恒子さん(105歳)が8月20日付読売新聞朝刊の「戦後75年 終わらぬ夏」番外編の1ページ特集で紹介された。

     元気である。《今、本を書きかけています。わたくし、ポンポコたたく機械は使えないので手書き。書きかけてはやめ、書きかけてはやめ……》

     2012年に毎日新聞社から自伝『お待ちになって、元帥閣下』を発刊した。

     その本の献辞に《私を写真の世界に導いてくださった林謙一さんに、この本を捧げます》。

     林謙一(1906~80)は、NHKの朝の連続テレビ小説「おはなはん」の原作者として知られる。早大理工学部建築学科を卒業して「東京日日新聞」社会部記者となった。国鉄の記者クラブの時、忠犬ハチ公を最初に紹介した、と自著に書いている。(その記事を犬研究家の社会部旧友仁科邦男が追っているが、記事の発見に至っていない)

     その後、内閣情報部に転職、1938(昭和13)年7月「写真協会」設立にかかわり、その年2月創刊の『写真週報』編集にあたった。 笹本さんは、報道写真家になったきっかけをこう話している。

     《林さんは話がお上手で、『LIFE』創刊号(1936年11月)の表紙は女性写真家マーガレット・バークホワイトの作品。ここ(写真協会)に入って報道写真家になりませんか、といわれました。報道写真家という言葉も初めて知ったのですが、林さんにあおられて、やってみたいと思います、と返事をしてしまったのです。それが写真家になるきっかけでした》=堤哲著『伝説の鉄道記者たち』。

     読売新聞の特集で紹介された笹本さんの作品は5点。「ヒットラー・ユーゲント来日」、「日独伊三国同盟夫人祝賀会(東条英機夫人が写っている)」(ともに1940年)と戦後の「銀座4丁目P.X.」「米軍専用車」(鉄道)、「マッカーサー夫人」。

     そしてこう述べている。《戦争と聞いてまず思うのは、愚かなことをしたということ。人間の命をたくさん奪い、大事なものをたくさん壊した。戦争はするものじゃない。つくづく、そう思います》

    (堤  哲)

    2020年8月17日

    9階アラスカが8月いっぱいで閉店

    このビル9階西側にレストランアラスカ(2020年8月撮影)

     毎日新聞東京本社が有楽町駅前から新築の竹橋パレスサイドビルに移転したのが1966(昭和41)年9月23日だった。その西側の最上階9階に出店したのが、レストランアラスカである。

     皇居のうっそうとした緑を眼下に眺めはバツグン。エグゼクティブが高級ワインを飲みながらという雰囲気で、安月給の身には敷居の高いレストランだった。カレーライスが確か2500円だったと思う。

     それが8月31日で閉店する、とHPにあった。オープンして55年目である。コロナ禍で客足が遠のいたのであろう。

     アラスカは、1928(昭和3)年に大阪の北浜で創業した関西初の本格的西洋レストランだという。3年後の31(昭和6)年に、朝日新聞大阪本社の新社屋が中之島に新築され、その10階に出店した。京都、神戸にも出店。谷崎潤一郎の小説「細雪」にもしばしば登場した。

     その後、有楽町の朝日新聞東京本社にも出店して東京進出。同じ大阪出身の毎日新聞東京本社ビルにも同居することになった。創業の初代社長望月豊作さんの時代である。

     現在は、内幸町の日本プレスセンタービル10階にもお店がある。

     『なぜエグゼクティブは、アラスカに集まるのか?』(幻冬社)という本も出版されているから、「アラスカ文化」が存在しているであろう。

     この情報を伝えてきた社会部旧友のメールには「5500円つまみ付き飲み放題コースも後2週間ですよ」とあった。

    (堤  哲)

    2020年8月14日

    池田澄子さんの俳句が「季語刻々」に

     「季語刻々 今昔」(8月14日付け)に、池田澄子さんの俳句が紹介されています。池田さんは、長く整理本部で活躍し中部本社編集局長などを務めた故・池田龍夫さんの夫人で、岩波書店の月刊誌『世界』の俳句欄選者など俳人として活躍しています。

     7冊目の句集『此処』(朔出版)を上梓された際、寄稿をお願いしましたが、謙虚にお断りになりました。今回は、毎日新聞紙面での紹介でもあり、出来るだけ多くの方々に読んでいただきたく、、独断で紹介させていただきます。

    2020年8月6日

    ことしも広島で慰霊をする関千枝子さん

     関千枝子さんのブログ7月下旬号——。

     ……私の著書「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」(1985年に出した本ですが、まだ現役、ちくま文庫で読めます)を朗読劇にしてやってくださるところがいっぱいあるのですが、それも今年は皆中止になってしまいました。劇場のクラスターもあり、怖いし、朗読劇などは散々です。

     それがある大阪のグループの方々の朗読劇が27日、大阪府島本町の「反核平和フェスティバル」で行う。観客は20人にしぼるがという話がありました。その後。大阪もコロナ感染者が増え、心配しておりましたが、島本町はなかなか革新的なところで大分昔ですが、女性の町会議員の数が日本一だったか、2位だったか有名になったところです。立派にフェスティバルをやり遂げ、朗読劇も20人のお客様は全員来てくださり、見事にできたようです。本当にうれしくなりました。コロナに負けず元気にやっているところはあるのですね。

     この朗読劇をやった方、8月には広島に来られます。広島も市の式典も少数で、式典のある6日の朝は平和公園にも入れないとか、大変ですが、私のクラスの眠る慰霊碑では、例年通り慰霊祭をちゃんとやるそうです、朗読劇の皆様にいろいろご案内したいと張り切っています。私も〔不急不要〕ではないと思いますので、広島に参ります。8月上旬号はそんなご報告になりそうです。

     社会部旧友の関千枝子さん(88歳)の著書『広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち』。

     「勤労動員にかり出された級友たちは全滅した。 当日、体調不良のため欠席して死をまぬがれた著者が、40年の後、一人一人の遺族や関係者を訪ねあるき、クラス全員の姿を確かめていった貴重な記録」と紹介にある。

     あの日、1945年8月6日。二年西組は爆心から南へ1.1キロメートルの広島市雑魚場町の市役所裏に動員され、建物疎開作業をしていた。

     動員された39人の生徒のうち38人が同年の8月6日から20日までに死亡し、一人生き残った坂本節子さんは37歳の若さで、胃がんで亡くなった。

     引率の先生3人も全員死亡。最年長の教頭先生が37歳、最も若い先生は20歳だった。

     この日の動員に欠席して生き残った生徒が7人。関さんはそのうちのひとりだった。

     関さんは、毎年原爆忌の8月6日は広島で、慰霊とともに、この悲劇を語り継ぎ、反戦平和を訴える。

     8月上旬号のブログがアップされたら、紹介します。

    (堤  哲)

    ※関千枝子さんの話は著書の紹介ととともに、6日付朝日新聞「天声人語」に取り上げられています。

    2020年8月4日

    「新聞革命」から30年経って

    新題字91年11月5日~
    78年元旦~
    それ以前(新の偏が立+未)

     毎日新聞が「新聞革命」と銘打って紙面の大改革を行ったのは1991年11月5日であった。この紙面改革を柱とするCI(コーポレート・アイデンティティ)計画の検討に、当時の経営企画室が着手したのは1990年1月だったから、それからすでに30年を越したことになる。

     そこで当時の責任者として、CI計画を実施した体制について、少し説明しておこうと思う。最近紙面に掲載された一つの死亡記事についてちょっとした波風が立ったたからである。

     社内の体制は、当時の渡辺襄社長を委員長とするCI委員会を中心にした全社運動であった。経営企画室が事務局となり、さまざまな委員会を作って、作業を行った。

     外部から支援、協力するCIパートナーとして選んだのは「PAOS」であった。企業活動に美的観点を導入して企業イメージを一変するという点で、当時最も先進的であり実績を上げていたコンサルタント会社であった。同様の仕事をしていた複数の会社からの提案を検討した上でPAOSを選んだのである。PAOSは、ケンウッド、銀座松屋、INAX、ベネッセなどのCIで大きな効果を上げ、ダイエー、マツダ、NTTなどでもCI作業を担当していた実績のある会社だった。PAOSのリーダーは中西元男さんで、たまたま1990年の毎日デザイン賞を受賞していた。

     PAOS側では、プランニング室とデザイン室があって、プランニング室で全体計画や毎日社員の意識改革問題などを担当し、デザイン室が紙面改革や販売店の店舗デザインなどを担当していた。

     私たち、CI事務局(社内的にはMAP事務局)は連日のようにPAOSと連絡、打ち合わせの会議を開いていた。いくつかの大掛かりなマーケット調査を行い、社内意識改革のための社員大会、討論会、全社の職場説明会などを展開した。それらをまとめ上げて社内検討を始めてから1年10カ月で、例のない思い切った紙面改革を外に向かって打ち出すのは、相当の力仕事であった。

     PAOSとの会議には、中西さんのほか、デザインディレクターの佐野豊さん(故人)、プランニング室長の小田島孝司さんが必ず出てきた。1991年7月にPAOSから、新聞題字、コーポレートシンボルなどのデザイン提案が役員会に提示され、11月の紙面刷新へと進んでいったのである。

     紙面刷新で大きな話題になった「腹切り」はPAOSの提案だが、PAOSにとって非常に苦心した提案だったようである。真ん中で折ることができるメリットがあっても、従来の段数を変更すると、これまでと同寸法の広告スペースが確保できるか、が大きな問題であったのではないかと思っている。このスペース調整は紙面の上の欄外を拡大することによって乗り越えた。そしてこの拡大欄外が紙面改革の一つのポイントになったのだが、PAOSは徹夜作業を繰り返して細かい計算をやったと聞いている。

     毎日社内でも、タブーを破るこの「腹切り」問題は難航したのだが、11月5日の紙面刷新の朝、多くのTV局がこの着目を誉める報道をしたことで、社内の論争は収束したと私は思っている。

     これらの作業を振り返ってみて、毎日の活字フォント見直しという作業でフォント専門のデザイナーと会議(結論として変更する必要がないことになった)をやったケースを除いて、毎日のデザインに関連して、中西さん、佐野さん以外のデザイナーとコンタクトしたことはない。あえて付け加えれば、もう一人、TV広告をお願いした仲畑貴志さんがあるだけである。

     7月31日の本紙に、グラフィックデザイナーの戸田ツトムさんの訃報が掲載され「毎日新聞が紙面を刷新した際にデザインを担当」という経歴が書かれていたことから、当時の関係者たちが首をかしげることになった。戸田さんは、書籍装丁などで有名なデザイナーであるが、毎日新聞の紙面改革にどういう関係があったのだろうか、という疑問である。

     最終的に分かったことは、戸田さんがPAOSの下請けとして関わっていた、ということである。中西さんは「戸田さんの意識の中で毎日新聞プロジェクトへの思い入れが強かったのだろうと思う。彼の仕事の中で重要なプロジェクトだったと位置づけておられたのだと想像します」と言っておられる。戸田さんの業績一覧の中に「毎日新聞の紙面デザイン刷新1991」と書かれているのである。

     同時に、元PAOSの責任あった人の側から「毎日の件で戸田氏と契約をしたことも、しかるべき支払いをしたことも記憶にない」という情報が寄せられている。

     戸田さんのような有名デザイナーが毎日の紙面改革に参加したことを大切な経験と認識され、誇りにしていただくのは、ある意味ではありがたいことである。しかし、これはあくまでPAOSと戸田さんの関わりであり、PAOS社内の問題である。私は、毎日新聞社のデザイン改革は中西さんと佐野さんの作業であると認識してきたし、今もその認識は変わらない。正確な事実が風化してばいけないと思う。

     付け加えておかなければならないが、デザイン改革はPAOSの提案ではあったが、デザインに関するすべての権利は毎日新聞社がもちろん保持している。

    (秋山 哲)

    2020年8月3日

    青野由利さん、日本記者クラブ賞受賞記念講演

     青野由利さんが2020年度の日本記者クラブ賞を受賞し、7月29日に受賞記念の講演がわれました。

     コロナ禍で聴衆は入場できず、テレワークによる講演となった。

     動画が一般公開されています。
    https://www.youtube.com/watch?v=Q5nQMrMdb9w&feature=youtu.be

    2020年7月22日

    「点字毎日」編集長を15年務めた銭本三千年さん

     「点字毎日5000号」7月22日朝刊の記事を見て、「点毎」編集長を15年務めた銭本三千年さんを思い出した。「点毎」が2018年度の日本記者クラブ賞の特別賞を受賞した際、ネットを検索していて銭本さんのブログ【吉備野庵】https://zenmz.exblog.jp/を見つけた。

     即、この毎友会HP「元気で~す」で紹介した。ところが昨年3月からブログが更新されていないのだ。掲載されている最後が「修行に似た食事療法」(3月8日)、「人生終焉への備え…黄昏に輝き始めた残照」(3月6日)。

     健康状態が心配だ。ことし7月19日に91歳の誕生日を迎えるはずである。

    お孫さんが描いた錢本さん(2008年8月)

     銭本さんは、1954(昭和29)年同志社大学法学部政治学科を卒業して毎日新聞入社。71(昭和46)年2月「点毎」編集長に就任。31年勤めた毎日新聞社を定年後、大阪千里ニュータウンから岡山・吉備高原都市へ転居した。高梁市の短大に介護福祉士養成の保健福祉専攻コースを創設し、保健科保健福祉専攻主任教授に就任。新聞記者在職中も大阪市立大学で非常勤講師をつとめ、大学・短大での教職歴は通算25年という。

     「点字毎日」の生き字引といった存在で、「点毎」の発行を促した好本督(1973年没、95歳)、初代編集長中村京太郎(1964年没、85歳)両氏にも直接会って、話を聞いている。

     1955(昭和30)年、3度目の来日をしたヘレン・ケラー女史(68年没、87歳)は、点毎を視察した。入社2年目の銭本さんが取材をした。

     「点字は盲人を暗黒から解放しました。日本の盲人は”点字毎日”で自らの言論を得ました」

     ヘレン・ケラー女史が、「点毎」の意義をこう述べた、とブログに綴っている

     【吉備野庵】は、英文も併記されていて、昨年3月6日の本文は《私も馬齢を重ねて89歳、残り少ない人生…》は——。

    I am 89 years old and suddenly have faced multiple health problems in a limited life left. Heart failure was developed in addition to the kidney disease that had previously been afflicted. There is no effective treatment for both. Modern medicine will only prolong deterioration. This fact urged me to prepare for the end of life that I had never been conscious of.

    (堤  哲)

    2020年7月9日

    休刊の「南海タイムス」菊池まりさんからの便り

     八丈島の地元新聞「南海タイムス」の休刊は、7月8日付毎日新聞夕刊で報じられた。

     同社のHPには、休刊の挨拶があった。メールで連絡すると、菊池まりさんが休刊までの経緯を書いてくれた。

     まりさんは、毎日新聞社会部八丈島通信部でもある。父親菊池正則さんからで、まりさんの記事が何本も毎日新聞に掲載されている。

     社告——。

     1931年 ~ 2020年 ありがとうございました

     南海タイムスは今号(6月26日発行)をもちまして休刊いたします。

     1931(昭和6)年の創刊から、およそ90年間にわたって八丈島のみなさまに支えられ、今日まで発行を続けられましたことを感謝申し上げます。

     長い間、ほんとうにありがとうございました。

    休刊号6月26日付第3752号
    社長の苅田義之さん(右)と妻の菊池まりさん

     父が経営するローカル紙「南海タイムス」の発行と印刷の仕事に携わるようになったのは、1976(昭和51)年。オイルショックの2年後でした。昭和30年から勤めていた高齢の記者がひとり、という小さな新聞社でしたが、私が入って記者はふたりになりました。

     2年後には、活版印刷からオフセット印刷へ転換し、紙面をタブロイド判からブランケット判に大きくしました。記者も3人体制になり、写真の掲載は容易になったのですが、写真植字による編集作業は過酷でした。新聞は週刊でしたが、取材、原稿書きより、印画紙の切り貼り、フィルム原板の修正など、紙面作りの方に時間が割かれ、印刷前日の作業は深夜までかかっていました。

     小さな地域では、新聞は、政治新聞とか、行政の広報紙になりがち、と聞きます。記者は、中立の立場を守れるよう、「不即不離」で、みんなから離れないようにしつつ、深すぎない関係を保つことが大切では、と思います。画家の故・堀文子さんの信条「群れない、慣れない、頼らない」にも近い関係かもしれません。

     ここ35年ほどは主に夫・苅田義之とふたりで作ってきました。その間、スタッフをはじめ、多くの人に助けられました。大きく変わったのはデジタル化に移行した1994年からです。楽に紙面の編集ができるようになり、1999年からは版下データを送信して印刷を外注。配達も郵送に切り換えました。こうして省力化できたことは、その後、長く発行を続けられる要因になったと思います。ただ、最近は郵送料や振込手数料の値上げが経営に大きく響くようになっていました。

     私たちは高齢化し、人口減が続く中、若い人に託すには将来が見通せないため、徐々に事業を縮小してきました。コロナに押される形で休刊に踏み切りましたが、予想外に多くの方が復刊を望んでいることを知りました。体力が残っていれば、なにか新しい形で情報発信をしていけたら、と思っています。

     私にとって、新聞の仕事を通して得られた最大のものが、眠っている古書との出会いでした。それらの古書を引用したのが、流人・近藤富蔵の編著書「八丈実記」(都指定有形文化財)ですが、この「八丈実記」と古書を読み比べると、富蔵は史料をいろいろ書き換えていることがわかりました。彼は、三度の自宅の火事で、原本を焼いたと伝えられていますが、それらの写本が国会図書館や大学の図書館などに残っており、確認することができました。「明治維新前後は偽文書が多い」といわれていますが、興味は尽きません。

     いま伝えられている八丈島の歴史の多くが、その「八丈実記」を典拠としています。文化庁の元文化財調査官に寄稿を依頼し、南海タイムス最終号の前の号で、歴史解釈の誤りを指摘していただきました。これからも、まだ埋もれている史料を紹介していきたいと思っています。

     南海タイムスは、東京日日新聞の八丈島通信員でもあった作家の小栗又一氏が1931(昭和6)年に創刊しました。その頃、たまたま島を訪れた私の祖父・吉田貫三が、行政職にあった人から、島には印刷所がないから機械ごと移住してもらえないか、と請われ、岐阜県大垣市で大正12年に創業した吉田印刷部は、昭和7年、八丈島に移転しました。

     大垣市で受注していた印刷物(無声映画のパンフなど)のスクラップは、いまも社内に残っていますが、レトロなデザインが楽しいものばかりです。

     小栗氏は創刊から2年後に島を離れ、新聞は祖父が発行を続けることになりましたが、戦前戦中戦後の新聞経営は苦労が多かったと聞いています。自社に印刷設備がなかったら、発行はこの混乱期に終わっていたと思います。戦時中、南海タイムスはなぜか、新聞統合の対象にならず、敵国言語の「タイムス」という名称の変更もしなくて済みました。ただ、記事の検閲は受けていました。

     八丈島の人口は戦後長い間、1万人以上を維持していたのですが、現在は7300人ほどです。そんな小さな島で約90年も新聞の発行を続けられたのは、八丈島の人たちが支えてくださったからです。心から感謝しています。

    (南海タイムス社・菊池まり)

    2020年7月9日

    大阪中之島に「こども本の森」オープン
    ――朝野富三元大阪編集局長が寄稿(大阪毎友会HPから転載)

     大阪が生んだ世界的な建築家の安藤忠雄さん(78歳)がつくった「こども本の森 中之島」が、新型コロナの影響で当初より四カ月遅れで7月5日に開館しました。計画段階からかかわってきたので、今はほっと一息ついています。

     安藤さんが計画を公表したのは3年前。私に「手伝わへんか」と声がかかり、ずっとそばで彼の進め方を見てきました。施設のコンセプトづくりから運営を委託する業者選定、施設の寄贈先である大阪市との調整などにあたってきました。

     中之島公会堂近くに建った鉄筋コンクリート3階建て延べ約800平方メートルの弓なりにカーブした建物の建設費約7億円は全額、安藤さんが負担しています。年間5000万円の運営費もすべて安藤さんの呼び掛けによる寄付でまかなうことになり、すでに20年分を確保したのだから、「すごい!」の一語に尽きます。

     寄付に応じてくれた企業は610社にのぼります。しかし今の世の中、進んで寄付する企業なんかあるはずはありません。そこは、すべて安藤さんの“腕力”によるもので、近くでそれを見ていただけに、なみなみならぬ子どもへの想いと、大阪への誇りを感じました。

     安藤さんと知り合ったのは、私が社会部長の時で、阪神大震災が起き、毎日新聞大阪本社が取り組んだ震災救援事業で連携しました。今も残っている神戸市中央区のHAT神戸にあるなぎさ公園の「ゆめ・きずな」モニュメントはその一つです。

     世界子ども救援キャンペーンでネパールに子ども病院をつくることにした時には、病院の設計を無償で引き受けてくれたのも安藤さんでした。それ以外でも、さまざまなことでお世話になっています。

     『日本沈没』の作家小松左京さんと安藤さんの対談を本社で企画したことがあります。長時間の対談でしたが、謝礼もなく、紅茶とケーキを出しただけでしたが、帰りしな、安藤さんが「毎日新聞は貧乏だけど、あたたかくていい会社だよな」と私につぶやいた言葉を今も覚えています。

     本の森の開館式に私も出席しました。名誉館長はノーベル賞の山中伸弥教授で、多くのマスコミが取材に来て、早くも大阪の新しい名所になろうとしています。しばらくは、私は施設に足を運ぶことになりそうですが、子どもたちの笑顔が何よりの報酬です。蔵書は1万8000冊。みなさんにもぜひ一度、と言いたいところですが、当面は予約制ですので、ネットで予約してください。

    (元大阪本社編集局長・朝野 富三)

    山中教授(左から2人目)と安藤さん(同)3人目

    2020年7月8日

    100回を超えた「校閲至極」―サンデー毎日連載

     「サンデー毎日」連載の「校閲至極」が人気だ。今週7月19日号の第105回は、「虎〇門、霞〇関、丸〇内の〇は?」。

     住居表示と固有名詞が違うのだ。虎ノ門。地下鉄日比谷線の新駅は「虎ノ門ヒルズ」。「虎ノ門ヒルズ森タワー」「虎ノ門ヒルズビジネスタワー」。

     しかし、金毘羅神社近くで、《記事に頻出する病院は「虎の門病院」が正解》とある。

     霞が関。地下鉄の駅は「霞ヶ関」。ビル名は「霞が関ビル」。

     丸の内。地下鉄の線名は「丸ノ内線」。旧丸ビル(丸ノ内ビルディング)が2002年に建て替えられて「丸の内ビルディング」。

     といった具合に、東京本社校閲センターの渡辺靜晴さんが蘊蓄を傾けている。

     HPによると、《この連載は2018年6月10日号の毎日新聞大阪本社・林田英明記者による「河野悦子よ、なぜスルー」という見出しの回から始まりました》。

     河野悦子とは、日本テレビ系で放映された出版社の校閲部を舞台にしたドラマ「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」の主人公で、石原さとみが演じた。ヒット番組だった。

     そのドラマで「鐘乳洞」と間違った字が映し出された。「河野悦子よ、なぜスルー」と指摘したのだ。

     「鐘」はつくりが「重」の「鍾」が正しい、とあった。

     以後、東京と大阪本社の校閲記者が交代で担当。《言葉にまつわる喜怒哀楽、見逃しの悔しさ、技術革新で変わった部分と変わらない部分、そして日本語を通じて見える今の社会》を1回1,100字にまとめた。

     渡辺、林田記者のほかに、東京本社の岩佐義樹、大阪本社の水上由布記者ら、《ベテラン、若手を問わず登場しました》。

     活版時代の降版間際は、殺気立っていた。

     紙面が組み上がって、大刷りを何枚も取る。最初に校閲部(当時)に回る。校閲部では、降版までのほんのわずかな時間に、紙面をチェックして赤字を入れる。

     校閲のOKが出ないと、降版はできない。

     編集からも直しが出るから、活字を拾う人も、面の担当者も大忙しだ。何人もが同時にピンセットで活字を抜き、直しの活字をはめ込む。活版場は湯気が沸いている感じだった。

     思い出したことがある。4半世紀も前の話だが、宮尾登美子さん(2014年没、88歳)が毎日新聞に連載した小説「蔵」が映画化された。映画の封切りに合わせて、宮尾さんに生活家庭面で随筆「蔵の春秋」を週一連載してもらった。

     当時編集委員だった私が、宮尾さんの原稿を受け取る係になった。

     そして第1回。宮尾さんとはファックスのやりとりで、最終ゲラのOKをもらった。

     1995(平成7)年5月11日(木曜日)。出社するとすぐ宮尾さんから電話があった。

     「私の原稿に勝手に手を入れて、何だと思っているのですか。こんなことでは、連載を中止します」

     相当の剣幕だった。

     OKの出た最終ゲラに、校閲が毎日新聞の用字用語で直しを入れたのを知らなかった。

     どこをどう直したのか、覚えていないが、「蔵」を担当した学芸部の宮尾担当記者にお願いして、当時宮尾さんの住んでいた狛江までお詫びに行った。

     次回以降は、宮尾さんからOKの出たゲラに、校閲チェックを入れないようお願いした。

    (堤  哲)

    「校閲至極」のラインアップは以下の通りだ。

    第1回 校閲ドラマに「鐘乳洞」の誤字
    第2回 「首相夫人」か「首相の妻」か
    第3回 タイガース版辞書なのに「ミスタージャイアンツ」!
    第4回 オホークツ海
    第5回 テニススコアのミス
    第6回 鉄綿花ってどんな花?
    第7回 存在しない「津田沼市」
    第8回 ロスタイムかアディショナルタイムか
    第9回 映画「否定と肯定」が「肯定と否定」に
    第10回 広辞苑に「エロい」載る
    第11回 矢先、募金…国語辞典は?
    第12回 サヨサラ
    第13回 子ども? 子供?
    第14回 飲み会を「飲み方」という?
    第15回 板東と坂東の誤り
    第16回 大先輩に聞く校閲の心構え
    第17回 心中天綱島
    第18回 ロシアでは「昼食」も「朝食」に?
    第19回 ちょうちん行例
    第20回 ♯と# どちらがハッシュタグ?
    第21回 ごんぎつねは「子」ギツネか
    第22回 「杉田氏」が「水田氏」に
    第23回 「努力はミになる」は身か実か
    第24回 変な文語「はるけし栄華」
    第25回 留飲とは?「晴らす」ものか?
    第26回 読みにくい「はってたすき」
    第27回 多賀城市で珍字発見
    第28回 W杯の侍ジャパン、文書決済
    第29回 「・・・」は「……」に
    第30回 「新年明けまして」は間違い?
    第31回 けじめの語源は
    第32回 仁徳天皇陵か大山古墳か
    第33回 「改ざん」などの交ぜ書きは悪か
    第34回 「乞はわれ」→「云はれて」→「言はれて」
    第35回 広辞苑に見る「焼く」「炒める」の違い
    第36回 写真で見破る舞妓さんと芸妓さんの間違い
    第37回 「男はつらいよ」場面紹介の誤り
    第38回 「一片の悔いなし」は不適切か
    第39回 将棋の先手後手の誤り
    第40回 「ハーフ」と「日本人来日」
    第41回 5.18倍=518%増? 数字の落とし穴
    第42回 カルトの教組、どうするの!
    第43回 あり寄りのあり・なし
    第44回 誤字とされる「鐘乳」が辞書にあった
    第45回 野球スコアの誤りをSNS画像で発見
    第46回 佐渡港なんてなかった
    第47回 折口信夫、柳田国男の「口」「田」は清音
    第48回 銭形警部の名は誤植から
    第49回 鹿児島で珍字発見
    第50回 速読本、誤字が目に付き速読できない
    第51回 技術が進んでも「日本書記」など誤りは続く
    第52回 已己巳己
    第53回 政局に「する」
    第54回 キャンバス跡地
    第55回 国・地域より「チーム」で
    第56回 逢坂剛さんとの話で盛り上がる
    第57回 チコちゃん「ボーっと」書くんじゃねーよ
    第58回 校閲者の本の間違いで大ショック
    第59回 「荷物の絵付け」実は
    第60回 6月31日
    第61回 京アニ作品関連の誤り
    第62回 熊のごとき誤植…校閲者の短歌
    第63回 マケドニアの首都は? いや今は
    第64回 創氏改名の元の名は「氏名」か
    第65回 詫間が託間に
    第66回 字幕で「元号は令和」が「剣豪はレイバー」に
    第67回 山口県美弥市、羅患率
    第68回 ハングルは文字なのに
    第69回 昴が人名用漢字になってさあ困った
    第70回 ハロウィンではなくハロウィーン
    第71回 チリペッパーとチリパウダー
    第72回 現地識者? 「現地紙記者」と分かりスッキリ
    第73回 アイヌ語は「日本語ではない日本の言葉」
    第74回 敷居が高い=入りにくい、広辞苑も認める
    第75回 天地天命が定着? 違うでしょ
    第76回 サンデー毎日(毎日出版社)で好評連載中?
    第77回 「白系ロシア人」は「白人のロシア人」の誤り
    第78回 一人輩出は成り立たない
    第79回 「原則許しません」
    第80回 縦書きの「.」の違和感
    第81回 府中市、伊達市はどこの?
    第82回 扶持米と扶助米…映画の間違い
    第83回 いえ、大丈夫です
    第84回 読み合わせの漢字の字解き
    第85回 「露本土とクリミア結ぶ」
    第86回 きいひん、きいへん、けえへん、こおへん、きやへん、こん
    第87回 「季下に冠を正さず」とは
    第88回 2位タイが「最多タイ」に 第89回 「冥福を慎んでお祈りいたします」
    第90回 ろくろを「ひく」挿絵で納得
    第91回 カマボコを8センチ幅に切る?
    第92回 プロ野球応援の「お前」は失礼か
    第93回 「耳障りのいい政策」
    第94回 「球春」っていつ?
    第95回 「神戸のご一党さん頑張って」
    第96回 咳は常用漢字ではない
    第97回 「二足のわらじ」と「立ち上げる」
    第98回 恐竜のメッカ
    第99回 在宅勤務始まる
    第100回 残念至極な指摘
    第101回 コロナも仕事も気の緩みが大敵
    第102回 1カ所「壇ふみ」 誤植はつらいよ
    第103回 「鉄の暴風」を伝えるために
    第104回 間違いあるある コロナ関連記事
    第105回 虎〇門、霞〇関、丸〇内の〇は?

    2020年7月6日

    宝物は毎日ファッション大賞のクリスタルトロフィー

    読売新聞7月6日朝刊13面から

     ——手にするクリスタルガラス製のトロフィーは美しくきらめき、地球儀の柄が刻み込まれている。40歳だった1991年、世界的なデザイナーの登竜門「毎日ファッション大賞」を受賞した時に贈られたものだ。

     ファッションデザイナー・ドン小西さん(69歳)が「毎日ファッション大賞」のトロフィーを手にした写真が7月6日読売新聞朝刊くらし面「たからもの」にあった。

     見出しは《「俺はできる」自信くれる》。

     「毎日ファッション大賞」は、毎日新聞社が創刊110年を記念して、1983年に創設した。大賞受賞者は、第1回から川久保玲、三宅一生、高田賢三、山本耀司……。

     ドン小西さんの大賞受賞は、第9回だった。記事にこうある。

     《がむしゃらに服作りに取り組む中で受賞したのが毎日ファッション大賞だ。トロフィーに刻まれた地球儀を見ると「もっと世界に飛躍しなさい」と背中を押されているような気がして、ニューヨークやロンドン、ミラノなど世界各国でショーを開催。鮮やかな色の組み合わせ方が評判となり、「色の魔術師」の異名を取った》

     《トロフィーは、自宅アトリエのアンティークのキャビネットに飾っている。落ち込んだ時、自信をなくした時、経営面で困難に直面した時……。このトロフィーが「俺ならできる」という気持ちを奮い立たせてくれてきた》

     《秋に古希を迎えるが、服を作ったり着こなしのアドバイスをしたりと、全力で仕事に取り組む。「トロフィーが人生のモチベーションを上げてくれた。まだまだ新しいことに挑戦したい」。トロフィーの重厚なクリスタルガラスの向こうには、活力あふれる瞳が輝いていた》

     ドン小西さんは、週刊朝日でファッション・チェックを連載している。女優から政治家まで、安倍昭恵さんにも辛口の評を送った。トランプ米大統領のファッション・チェックもしたことがある。

     「ファッションにはその人の内面が現れる。僕はファッションを見れば人となりが分かるし、90%当たる」と言っている。

     ファッションデザイナーとしては、31歳で独立。《当初は資金繰りが厳しく、糸屋さんに余り物を分けてもらい、譲り受けた200色もの糸で編み込んだカラフルなセーターが「芸術作品」として話題となり、有名デザイナーに》と毎日新聞の記事にあった。

     毎日新聞は、2022年に創刊150年を迎える。従って「毎日ファッション大賞」も間もなく40年である。

    (堤  哲)

    2020年6月16日

    東京毎友会が発足してことし69年―堤哲さんの歴史発掘レポート

     このHPの主である毎日新聞東京本社のOB会「東京毎友会」は、1951(昭和26)年11月17日に発足した。69年前である。初代会長は高石真五郎元社長だった。

     東京に続いて西部本社でも設立、大阪本社「毎友会」創立は1954(昭和29)年6月19日だった。

     断捨離作業中に、社内野球史を調べたときの社報コピーで思わぬ発見となった。

     呼びかけ人は、経済記者の笹沢三善さん(1989年没、96歳)。笹沢さんは、早大政経を卒業して、1918(大正7)年に入社した。

     《毎日新聞社は僕が26歳の青年期から55歳の定年を過ぎて後も嘱託などで7年を暮らし、通算36年の生涯を送った思い出の職場である》

     笹沢さんは、1926(大正15)年に『農家の副業 : 趣味と実益』と『水産王国』を出版している。現在の農水省を担当していたのであろう。

     『水産王国』にこうある。《私は学者でもなければ、水産専門家でもなく、又、創作家でもありません。唯一介の新聞記者です。大正14年の夏中、東京日日新聞の経済欄に—恵まれたる海の幸、わが水産業—という表題で連載》した。これをまとめた。

     ◇

     設立総会の日の日記を、社報の随筆欄に残している。

     11月17日(土・晴)3時から小会議室で毎友会の設立総会。議長に推されて議事を 進める。名称を毎友会とすること、規約は発起人会の立案を議決して5時散会。皆熱心に討議されたのは、発起人としてうれしかった。

     設立総会の社報(昭和27年2月20日号)の見出しは——。

       “毎友会”生る
       停年者の互助組織

     設立発起人のひとり・細沼秀吉さん(出版局元「生活科学」編集長、1961年没、65歳)が毎友会創設の趣旨をこう記している。

     《本社に20年以上勤続し東京本社で停年となり退職したものを会員とし、会員の相互扶助を第一目的に、この結びつきを通じて第二線ジャーナリストとしての心身の切磋琢磨ならびに本社のよりよき発展に陰ながら力を尽くし、大きくは日本文化の進展にも寄与しようとするもの》

     OB人脈の活用を目的としていたのだろうか。事業に「講演、出版活動その他を行う」ともある。

     運営委員は10人。笹沢、細沼さんの他、岡野秀治、小倉承章、尾崎昇、笹井八郎、相馬基、平野杉松、藤森良信、水沢清三郎の名前が残る。

     相馬基さん(1981年没、85歳)は、元明治大学の応援団長で、「337拍子の生みの親」とNHKの「チコちゃんに叱られる」で紹介された。相撲記者だが、「編集兼印刷発行人」として題字下に名前が載っていた。1949(昭和24)年に廃止されるまで20年間もだ。

    高石真五郎氏

     「毎友会」初代会長高石真五郎さん(1967年没、88歳)のことを改めて紹介したい。

     千葉県出身。鶴舞尋常小学校を卒業、1893(明治26)年慶應義塾童子寮に入り、1901(明治34)年大学部法律科卒。大阪毎日新聞(大毎)小松原英太郎社長の私設秘書となり、社長執筆の社説の聞き書きをして、同年7月大毎入社した。

     童子寮で、福沢諭吉から「福翁百話」に「贈高石真五郎君 諭吉」と肉筆サイン本を直接もらった、と書き残している。

     慶應義塾野球部OB会「三田倶楽部」の名簿にも載っている。「もっぱら右翼手だった」と書いているから、一流選手ではなかったのだろう。

    東京五輪マラソン表彰式。アベベの前の禿げ頭が高石さん(1964年10月22日毎日新聞朝刊)

     大毎入社の1年後には英国に留学。日露戦争後に日本人で初めてロシア入り。この時、作家のトルストイにも面会している。

     ヨーロッパのいわば移動特派員として数々の特ダネを放ち、1909(明治42)年には帰国して、外国通信部デスクから部長。「外電の大毎」とうたわれるようになった。

     国際オリンピック委員会(IOC)委員になったのが1939(昭和14)年。翌40(昭和15)年の東京五輪は戦争のため中止となったが、1964(昭和39)年の東京五輪を誘致、マラソンで円谷幸吉選手が銅メダルを獲得した表彰式でメダルを授与した。

     その間、大毎同期入社で慶應義塾先輩の奥村信太郎(1951年没、75歳)のあとを継いで、戦後45(昭和20)年9月に社長に就任するが、11月に辞任。公職追放になった。

     毎友会会長になったのは、公職追放が解除された後である。

     高石さんはその後、日本自転車振興会(現JKA)の会長となるが、名前が残っているのは五輪関連である。

    有楽町駅前の毎日新聞社に掲げられた「世界は一つ」の標語(1964年4月撮影)

     64東京五輪の標語は、毎日新聞の提唱で「世界はひとつ 東京オリンピック」となったが、その最終選考会で「世界はひとつ」でどうか、と発言したのが高石さんだった、と大島鎌吉さん(毎日新聞元ベルリン特派員、64東京五輪の日本選手団長、1985年没、76歳)が書き残している。

     もうひとつ。1972年札幌冬季五輪が決まった66年4月ローマで開かれたIOC総会。高石さんは病気で出席できず、録音テープでメッセージを送った。そのメッセージが札幌開催決定の決め手になった。

     ゴルフ好きだった。始めたのは47歳、1925(大正14)年からといわれる。大毎編集局のトップ、編集主幹の時だった。「大毎」を日本の一流紙に育てた本山彦一社長に睨まれてもゴルフをやめなかった。

     1眼、2足、3胆、4力

     高石が理事長をつとめた相模原ゴルフクラブなどにその揮毫が掲額されている。

     東京本社のゴルフ会に「高石杯」がある。一番の歴史と権威を誇っている。時代が流れて今、風前の灯と聞く。しっかり受け継いでもらいたいと思う。

     ◇

     私が1997年に繰上げ定年退職した際、3万円を払って毎友会に入会、そのときもらった名簿(96年10月現在)にある会員は1,542人だった。設立総会時の会員は約40人とあるから大成長である。

     その後、名簿は作成されていないが、2020年2月現在の会員は1,385人である。

     改めて会則を読むと、目的は「会員の親睦、相互扶助、毎日新聞社の発展に寄与」と、設立時と変わっていない。会員の資格が在社20年から15年以上に短縮されている。

     石井國範会長から「毎友会発足の経過が明確になり、喜ばしい。さらに活動を充実させたい」とコメントが寄せられた。超高齢社会を迎え、このHPを通じて親睦・交流が図れればと思う。

    毎友会HP http://www.maiyukai.com/

    (堤  哲)

    2020年6月16日

    仁科邦男さんがNHK「チコちゃんに叱られる」に出演!

     『犬の伊勢参り』(平凡社新書)『犬たちの明治維新 ポチの誕生』(草思社)などの著書がある元毎日映画社社長(元出版局長、社会部)、仁科邦男さんがNHK「チコちゃんに叱られる」に出演します。

     放送は19日(金)午後7時57分、再放送は20日(土)午前8時15分です。

     番組の紹介は以下の通りで、仁科さんは「テーマはポチ。NHKの台本通りしゃべりました」と。

     チコちゃんに叱られる!▽犬の名のポチとは?▽カメの甲羅▽眠いと目をこする

    (NHK総合1・東京) 6月19日(金)午後7:57~午後8:42(45分)

    (NHK総合1・東京)=再放送 6月20日(土)午前8:15~午前9:00(45分)

     ゲストは石川さゆりさんとウエンツ瑛士さん。岡村隆史さんと挑みます。ポチの疑問からは日本人と犬との奥深い歴史が、カメの甲羅からは生き物の進化の不思議が、目をこする理由からは人体の知られざるメカニズムが明らかになります。働き方改革コーナーは「長寿食」。何気なく通り過ぎているものごとに驚くべき世界が潜んでいます。あなたはボーっと生きていませんか?ご家族で楽しんでください。

    2020年6月11日

    日本記者クラブに故田中洋之助氏が絵を寄贈

    「日本記者クラブ会報」2020年6月10日第604号

    故田中洋之介会員からの贈り物

     4月7日に97歳で亡くなった田中洋之助さん(毎日新聞出身)の奥さまから、「故人の希望で絵を1枚クラブに寄贈させていただきます」という電話がありました。

     後日、大きな包みが宅急便で事務局に届きました。開けてみると、立派な額に入った爽やかな油彩画(写真)でした。作者は画家の正田徳衛さん、タイトルは「果物籠に盛られた林檎」。艶々としたリンゴから甘酸っぱい香りが漂ってくるような20号の写実画です。

     奥さまによると、田中さんは昔から絵が好きで、「たくさん集めていたわけではありませんが、時々出してきては眺めていました。中でも好きな1枚だったようで、生前からお世話になったクラブに贈るように言われていました。ずっと自宅に居ましたが最期は病院に入りました。新型コロナのために思うように面会もできませんでしたが、安らかな顔をしていました」。

     ご冥福をお祈りします。

    (河野)

    2020年6月9日

    日本記者クラブ賞に青野由利さん

     由利ちゃんのおしゃれな写真が、日本記者クラブのHPにあった。

     2020年度の日本記者クラブ賞に、科学記者青野由利さんの受賞が決まった。22日に贈賞式が行われる。

     《30年以上にわたり、科学報道の第一線で精力的に取材を続けてきた。生命科学から宇宙論まで科学の各分野をわかりやすく解説するだけではなく、「科学と社会との接点」を常に意識した姿勢も高く評価したい。特に週1回の連載コラム「土記」は、科学的視点を踏まえながら人間の喜怒哀楽が伝わってくる完成度の高い内容となっている。『ゲノム編集の光と闇』など単著7冊、共著・共訳9冊と新聞以外でも活発な執筆を続けている。新型コロナウイルス問題で科学報道の重要性が再認識されている時期でもあり、科学報道を牽引してきた業績を顕彰したい》

     63歳と、新聞各紙にあった。毎日新聞の女性記者としては、1984年度の増田れい子さん以来2人目である。

     日本記者クラブ賞は、元朝日新聞記者、東大新聞研究所教授・千葉雄次郎氏が自著『知る権利』の出版を記念した寄託金を基金として創設。第1回は1974年度で長崎新聞朝刊コラム「水と空」の松浦直治氏に贈られた。

     以下、毎日新聞関係の受賞者を振り返ると——。(肩書は当時、敬称略)

    2018年度 「点字毎日」=1922年創刊以来、戦争中も休みなく発行を続けた日本唯一の点字新聞。毎日新聞創刊150年の2022年、創刊100年を迎える。
    2014年度 山田孝男(毎日新聞社政治部特別編集委員)
    2012年度 萩尾信也(毎日新聞社会部部長委員)
    2010年度 梅津時比古(毎日新聞東京本社編集局学芸部専門編集委員)
    2001年度 鳥越俊太郎(全国朝日放送「スクープ21」キャスター)=元サンデー毎日編集長
    1999年度 黒岩 徹(毎日新聞社編集委員)
    1997年度 牧 太郎(毎日新聞社社会部編集委員)
    1995年度 山本祐司(フリーランス・元毎日新聞社会部長)
    1993年度 古森義久(産経新聞社ワシントン支局長)=元毎日新聞サイゴン特派員
    1992年度 岩見隆夫(毎日新聞社特別編集委員)
    1990年度 諏訪正人(毎日新聞社論説室顧問)
    1987年度 吉野正弘(毎日新聞社編集委員)
    1984年度 増田れい子(毎日新聞社論説室特別嘱託)
    1976年度 松岡英夫(毎日新聞社終身名誉職員)
    1975年度 古谷綱正(東京放送ニュースキャスター)=元毎日新聞「余録」担当

    【追伸】
     牧内節男さんの銀座一丁目新聞「銀座展望台」に、日本記者クラブ賞を受賞した毎日新聞論説室専門編集委員の青野由利記者について、《青野記者が毎日新聞の採用試験の際、私は立ち会った、「東大薬学部の学生が記者になるとは面白い」と思ったことを思い出す》

     さらに《彼女のコラム「土記」(6月6日)には武漢ウイルス研究所の主任研究員石正麗さんを紹介、彼女が「わかっているウイルスは氷山の一角。新たなウイルスの流行はいつでも起こりうる」という警告を載せている。

     この「土記」の結論は「次のパンデミックはコロナとは限らない。国同士が対立している場合ではない」である。日本の政治家でこれほどの見識を持つ者が何人居るであろうか…》

     青野さんは80年入社。東大薬学部を卒業した後、東大大学院総合文化研究科修士課程修了。1988~1989年フルブライト客員研究員としてマサチューセッツ工科大学に在籍している。

    (堤  哲)

    2020年6月9日

    濁水かわら版 101号 ニコルさんと子供たち

    (中安 宏規)

    2020年6月8日

    「三密」を避けましょうという時代に……

     この写真は、写真部OB二村次郎さん(1994年没、80歳)の作品である。雑誌のコピーが断捨離作業中に見つかった。

     二村さんは1938(昭和13)年に報知新聞から東京日日新聞(毎日新聞)に入社した。

     ポン焚き(フラッシュのマグネシウムを焚くカメラマン助手)から始めて、カメラマンになった職人時代の写真部員である。

    二村次郎さん

     毎日新聞のHPを検索すると、1960(昭和35)年のローマ五輪に派遣され、水泳の山中毅選手、鉄棒の小野喬選手などの競技写真の他、ボート競技を観戦するモナコのグレース・ケリー王妃とか、採火式の会場で毎日新聞OBの作家井上靖さんを撮っている。

     毎日新聞東京本社写真部OB会編『【激写】昭和』(1989年刊平河出版社)に、こんな思い出話を書いている。

     《熱帯魚にも夢中になった。その当時の王様はエンゼルフィッシュであり、その産卵状況を撮りたいと、熱帯魚業者に頼み込んだが、どこも許してくれなかった。それならば、自分で飼育して撮ろうと、3年間飼い続けて、見事に念願を果たして、業者をアッと言わせた》この写真は、その余禄に違いない。

     思い出話の前段で《ニュース写真のかたわら、あらゆるものにレンズを向けた》とあり、「蚊のオシッコ」や「ノミの飛翔」の撮影に成功したと綴っている。

     作家の戸川幸夫さんは「サン写真新聞」の編集部に在籍したことがあり、カメラマンを題材にした作品も書いている。「ノミの飛翔」撮影に苦闘する写真部員の話を読んだ気がする。

     ネット上にこんな話が載っていた。井上靖さんが1973年にアフガニスタン、イラン、トルコを巡る旅で写真を撮影した際、二村さんの助言に従って「距離は無限大、絞りは日中11、夕方8に固定。あとは機械に任せました」。雲の写真が残っている。5年後に敦煌を初めて訪れた時も、雲を撮影したという。

    (堤  哲)

    2020年6月2日

    「アサヒカメラ」に掲載された写真

     日本最古のカメラ誌「アサヒカメラ」が創刊94年で休刊——2日付各紙朝刊が報じた。

     版元の朝日新聞出版は、2020年7月号(6月19日発売)をもって休刊を発表し、休刊の理由に「コロナ禍による広告費の激減」をあげ、「これ以上維持していくことが困難となり ました」と説明している。

     広告収入の激減の前に、販売部数の落ち込みがあった。2006年4万0482部、10年3万1346部、14年2万1159部、18年1万6573部(日本ABC協会調べ)とここ10年余で半減して いる。

     「アサヒカメラ」は、1926(大正15)年4月創刊。日本最古の総合カメラ誌を看板にしていた。

     木村伊兵衛写真賞は引き続き、朝日新聞社及び朝日新聞出版が共催する。土門拳賞が「カメラ毎日」が1985年4月号で休刊したあとも継続されているように。

    毎日新聞1969年10月14日夕刊対社面

     「アサヒカメラ」に、私が撮影した写真が掲載された。原稿料として1万円もらったことを憶えている。

     国会図書館のデータベースで調べると、1969年12月号の「写真批評・話題の写真をめぐって」。その248ページに「わずか二人の教室も/堤哲」とある。

     これがその写真である。

     70年安保の前年。東大や日大で始まった学園紛争は高校に波及して、東京都立青山高校で全共闘の生徒たちが学園封鎖ロックアウトをした。

     青山高校の所在地は渋谷区。渋谷警察署の管内で、3方面記者クラブの担当だった。クラブ員は、連日「あおこう」に通った。

     写真は、1カ月ぶりに授業が再開された日の3年5組の教室。授業を受ける生徒は2人。ガランとした教室。机やイスは封鎖のために運び出されているのだ。

     この報道写真を「話題の写真」として審査員が取り上げてくれた。感謝!である。

    (堤  哲)

    2020年5月27日

    スペイン風邪から100年⑦ 江戸ッ子のわらんじを履くらんがしさ

    1964年入社・中安宏規さん(79歳)制作の「濁水かわら版」が100号を迎えました。
    スペイン風邪から100年の第7回。
    何故岩手県は感染者ゼロを続けているか。食べ物も関係ある?
    盛岡市民は、ヨーグルト、りんご、ワカメ、サンマの購入額が全国の県庁所在地の中で第1位なのだ。
    「コロナ甲子園で 1 位」は、そのお蔭?
    中安さんは盛岡支局で勤務したことがあり、多少鼻高なのである。
    力作です。読んでください。

    (堤  哲)

    (中安 宏規)

    2020年5月18日

    「不要不急」の検察庁法改正案、安倍首相が採決断念

     検察庁法改正法案に抗議する国民的な怒りのうねりを追いかけるように、特捜部経験者の反対意見が続いた。松尾邦弘検事総長ら14人に続いて、熊崎勝彦元特捜部長ら38人が18日、森まさこ法相に意見書を提出した。

     こうした動きに、安倍首相は18日、二階自民党幹事長らと協議し、「国民の声に耳を傾け、国民の理解なしには前に進めることは出来ない」と今国会での採決を断念した。

     熊崎意見書の全文と名前を連ねた検事名は以下の通り。

    法務大臣森まさこ殿

    検察庁法改正案の御再考を求める意見書

     私たちは、贈収賄事件等の捜査•訴追を重要な任務の一つとする東京地検特捜部で仕事をした検事として、この度の検察庁法改正案(国家公務員法等の一部を改正する法律案中、検察庁法改正に係る部分)の性急な審議により、検察の独立性•政治的中立性と検察に対する国民の信頼が損なわれかねないと、深く憂慮しています。

     独立検察官等の制度がない我が国において、準司法機関である検察がよく機能するためには、民主的統制の下で独立性•政治的中立性を確保し、厳正公平•不偏不党の検察権行使によって、国民の信頼を維持することが極めて重要です。

     検察官は、内閣又は法務大臣により任命されますが、任命に当たって検察の意見を尊重する人事惯行と任命後の法的な身分保障により、これまで長年にわたって民主的統制の下で、その独立性•政治的中立性が確保されてきました。国民や政治からの御批判に対して謙虚に耳を傾けることは当然ですが、厳正公平-不偏不党の検察権行使に対しては、これまで皆様方から御理解と御支持をいただいてきたものと受けとめています。

     ところが、現在国会で審議中の検察庁法改正案のうち幹部検察官の定年及び役職定年の延長規定は、これまで任命時に限られていた政治の関与を任期終了時にまで拡大するものです。その程度も、検事総長を例にとると、1年以内のサイクルで定年延長の要否を判断し、最長3年までの延長を可能とするもので、通例2年程度の任期が5年程度になり得る大幅な制度変更といえます。これは、民主的統制と検察の独立性•政治的中立性確保のバランスを大きく変動させかねないものであり、検察権行使に政治的な影響が及ぶことが強く懸念されます。

     もっとも、検察官にも定年延長に関する国家公務員法の現行規定が適用されるとの政府の新解釈によれば、検察庁法改正を待たずにそのような問題が生ずることになりますが、この解釈の正当性には議論があります。検察庁法の改正に当たっては、慎重かつ十分な吟味が不可欠であり、再考していただきたく存じます。

     そもそも、これまで多種多様な事件処理等の過程で、幹部検察官の定年延長の具体的必要性が顕在化した例は一度もありません。先週の衆院内閣委員会での御審議も含め、これまで国会でも具体的な法改正の必要性は明らかにされていません。今、これを性急に法制化する必要は全く見当たらず、今回の法改正は、失礼ながら、不要不急のものといわざるを得ないのではないでしょうか。法制化は、何とぞ考え直していただきたく存じます。

     さらに、先般の東京高検検事長の定年延長によって、幹部検察官任命に当たり、政府が検察の意向を尊重してきた人事慣行が今後どうなっていくのか、検察現場に無用な萎縮を招き、検察権行使に政治的影響が及ぶのではないか等、検察の独立性•政治的中立性に係る国民の疑念が高まっています。

     このような中、今回の法改正を急ぐことは、検察に対する国民の信頼をも損ないかねないと案じています。

     検察は、現場を中心とする組織であり、法と証拠に基づき堅実に職務を遂行する有為の人材に支えられています。万一、幹部検察官人事に政治関与が強まったとしても、少々のことで検察権行使に大きく影響することはないと、私たちは後輩を信じています。しかしながら、事柄の重要性に思いを致すとき、将来に禍根を残しかねない今回の改正を看過できないと考え、私たち有志は、あえて声を上げることとしました。

     私たちの心中を何とぞ御理解いただければ幸甚です。

     縷々申し述べましたように、この度の検察庁法改正案は、その内容においても審議のタイミングにおいても、検察の独立性.政治的中立性と検察に対する国民の信頼を損ないかねないものです。

     法務大臣はじめ関係諸賢におかれては、私たちの意見をお聴きとどけいただき、周辺諸状況が沈静化し落ち着いた環境の下、国民主権に基づく民主的統制と検察の独立性•政治的中立性確保との適切な均衡という視座から、改めて吟味、再考いただくことを切に要望いたします。

    元•特捜検事有志
    熊崎勝彦(司法修習第24期)
    中井憲治(同上)
    横田尤孝(同上)
    加藤康榮(司法修習第25期)
    神垣清水(同上)
    栃木庄太郎(同上)
    有田知徳(司法修習第26期)
    千葉倬男(同上)
    小高雅夫(同上)
    小西敏美(司法修習第27期)
    坂井靖(同上〉
    三浦正晴(同上)
    足立敏彦(同上)
    山本修三(司法修習第28期)
    鈴木和宏(同上)
    北田幹直(同上)
    長井博美(司法修習第29期)
    梶木 壽(同上)
    井内顕策(司法修習第30期)
    内尾武博(同上)
    勝丸充啓(同上)
    松島道博(同上)
    吉田統宏(司法修習第31期)
    中村 明(同上)
    大鶴基成(司法修習第32期)
    松井 巖(同上)
    八木宏幸(司法修習第33期)
    佐久間達哉(司法修習第35期)
    稲川龍也(同上)
    若狭 勝(同上)
    平尾雅世(同上)
    米村俊郎(司法修習第36期)
    山田賀規(同上)
    奥村淳一(同上)
    小尾 仁(司法修習第37期)
    中村周司(司法修習第39期)
    千葉雄一郎(同上)
    中村信雄(司法修習第45期)
    以上3 8名
    (世話人)
    熊崎勝彦
    中井憲治
    山本修三

    2020年5月18日

    ロッキード世代の元検事が検察庁法改定に反対の意見書を提出

     元社会部の板垣雅夫さん(77歳)から「15日、松尾邦弘元検事総長(77歳)ら14人の元検事が法務大臣に提出した検察庁法改定に関する『意見書』の全文をお読みすることをお勧めいたします」というメールが元社会部のロッキード取材班の仲間たちに届いた。

     「前半は、新聞ではよく分からなかったこの法案の意味がよく分かります。後半は、『ロッキード世代』などという言葉が出てきて、ロッキード事件発覚時の若い検事たち(当時)の反応が生き生きと書かれています。要するに、今度の意見書提出は、検事のロッキード世代が中心になったようです。興味深いです」

     記者会見した松尾邦弘元検事総長は、1968年検事任官で、ロッキード事件では逮捕した丸紅前専務の伊藤宏(49歳)から田中角栄元首相へ5億円を贈った供述を引き出した。当時33歳の若手検事だった。

     一緒に記者会見した元最高検検事の清水勇男さん(85歳)は、64年検事任官。東京地検特捜部にロ事件捜査本部が設置された最初からのメンバーで、主に全日空の捜査にあたった。

     14人のひとり、堀田力元検事(86歳)は、朝日新聞で「稲田伸夫検事総長も、黒川弘務東京高検検事長も辞職せよ」という強烈な意見を述べている。

     元検事総長が法案に反対を表明するのは、全く異例のことだが、松尾さんは「検察幹部の定年延長が政権の意向で左右することになることは、政権のおぼえがめでたい特定の検察官が重用されるなど検察の人事に強い影響を与えることになり、これまで公平、公正な準司法機関としてその人事構想を政権は尊重してきた慣行が崩される危惧が強くあります。ねばり強く意見を言っていこうと思っています」と語っている。

    (堤  哲)

     意見書の全文は以下の通り。

     東京高検検事長の定年延長についての元検察官有志による意見書

     [1]東京高検検事長黒川弘務氏は、本年2月8日に定年の63歳に達し退官の予定であったが、直前の1月31日、その定年を8月7日まで半年間延長する閣議決定が行われ、同氏は定年を過ぎて今なお現職に止(とど)まっている。
     検察庁法によれば、定年は検事総長が65歳、その他の検察官は63歳とされており(同法22条)、定年延長を可能とする規定はない。従って検察官の定年を延長するためには検察庁法を改正するしかない。しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現検事総長稲田伸夫氏の後任として黒川氏を予定しており、そのために稲田氏を遅くとも総長の通例の在職期間である2年が終了する8月初旬までに勇退させてその後任に黒川氏を充てるための措置だというのがもっぱらの観測である。一説によると、本年4月20日に京都で開催される予定であった国連犯罪防止刑事司法会議(コングレス)で開催国を代表して稲田氏が開会の演説を行うことを花道として稲田氏が勇退し黒川氏が引き継ぐという筋書きであったが、新型コロナウイルスの流行を理由に会議が中止されたためにこの筋書きは消えたとも言われている。
     いずれにせよ、この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国35を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。

     [2]一般の国家公務員については、一定の要件の下に定年延長が認められており(国家公務員法81条の3)、内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定したものであるが、検察庁法は国家公務員に対する通則である国家公務員法に対して特別法の関係にある。従って「特別法は一般法に優先する」との法理に従い、検察庁法に規定がないものについては通則としての国家公務員法が適用されるが、検察庁法に規定があるものについては同法が優先適用される。定年に関しては検察庁法に規定があるので、国家公務員法の定年関係規定は検察官には適用されない。これは従来の政府の見解でもあった。例えば昭和56年(1981年)4月28日、衆議院内閣委員会において所管の人事院事務総局斧任用局長は、「検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されない」旨明言しており、これに反する運用はこれまで1回も行われて来なかった。すなわちこの解釈と運用が定着している。
     検察官は起訴不起訴の決定権すなわち公訴権を独占し、併せて捜査権も有する。捜査権の範囲は広く、政財界の不正事犯も当然捜査の対象となる。捜査権をもつ公訴官としてその責任は広く重い。時の政権の圧力によって起訴に値する事件が不起訴とされたり、起訴に値しないような事件が起訴されるような事態が発生するようなことがあれば日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊することになりかねない。検察官の責務は極めて重大であり、検察官は自ら捜査によって収集した証拠等の資料に基づいて起訴すべき事件か否かを判定する役割を担っている。その意味で検察官は準司法官とも言われ、司法の前衛たる役割を担っていると言える。
     こうした検察官の責任の特殊性、重大性から一般の国家公務員を対象とした国家公務員法とは別に検察庁法という特別法を制定し、例えば検察官は検察官適格審査会によらなければその意に反して罷免(ひめん)されない(検察庁法23条)などの身分保障規定を設けている。検察官も一般の国家公務員であるから国家公務員法が適用されるというような皮相的な解釈は成り立たないのである。

     [3]本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
     時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
     ところで仮に安倍総理の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法81条の3に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである。
     加えて人事院規則11―8第7条には「勤務延長は、職員が定年退職をすべきこととなる場合において、次の各号の1に該当するときに行うことができる」として、①職務が高度の専門的な知識、熟練した技能または豊富な経験を必要とするものであるため後任を容易に得ることができないとき、②勤務環境その他の勤務条件に特殊性があるため、その職員の退職により生ずる欠員を容易に補充することができず、業務の遂行に重大な障害が生ずるとき、③業務の性質上、その職員の退職による担当者の交替が当該業務の継続的遂行に重大な障害を生ずるとき、という場合を定年延長の要件に挙げている。
     これは要するに、余人をもって代えがたいということであって、現在であれば新型コロナウイルスの流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐには見付からないというような場合が想定される。
     現在、検察には黒川氏でなければ対応できないというほどの事案が係属しているのかどうか。引き合いに出される(会社法違反などの罪で起訴された日産自動車前会長の)ゴーン被告逃亡事件についても黒川氏でなければ、言い換えれば後任の検事長では解決できないという特別な理由があるのであろうか。法律によって厳然と決められている役職定年を延長してまで検事長に留任させるべき法律上の要件に合致する理由は認め難い。

     [4]4月16日、国家公務員の定年を60歳から65歳に段階的に引き上げる国家公務員法改正案と抱き合わせる形で検察官の定年も63歳から65歳に引き上げる検察庁法改正案が衆議院本会議で審議入りした。野党側が前記閣議決定の撤回を求めたのに対し菅義偉官房長官は必要なしと突っぱねて既に閣議決定した黒川氏の定年延長を維持する方針を示した。こうして同氏の定年延長問題の決着が着かないまま検察庁法改正案の審議が開始されたのである。
     この改正案中重要な問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する改正についてである。すなわち同改正案には「内閣は(中略)年齢が63年に達した次長検事または検事長について、当該次長検事または検事長の職務の遂行上の特別の事情を勘案して、当該次長検事または検事長を検事に任命することにより公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由として内閣が定める事由があると認めるときは、当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日の翌日から起算して1年を超えない範囲内で期限を定め、引き続き当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日において占めていた官及び職を占めたまま勤務をさせることができる(後略)」と記載されている。
     難解な条文であるが、要するに次長検事および検事長は63歳の職務定年に達しても内閣が必要と認める一定の理由があれば1年以内の範囲で定年延長ができるということである。
     注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長が可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川検事長の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法13条)を設けており、定年延長によって対応することは毫(ごう)も想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。
     今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図していると考えられる。

     [5]かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移に一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、広くは国民大多数であった。
     振り返ると、昭和51年(1976年)2月5日、某紙夕刊1面トップに「ロッキード社がワイロ商法 エアバスにからみ48億円 児玉誉士夫氏に21億円 日本政府にも流れる」との記事が掲載され、翌日から新聞もテレビもロッキード関連の報道一色に塗りつぶされて日本列島は興奮の渦に巻き込まれた。
     当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に着手するという積極派や、着手すると言っても贈賄の被疑者は国外在住のロッキード社の幹部が中心だし、証拠もほとんど海外にある、いくら特捜部でも手が届かないのではないかという懐疑派、苦労して捜査しても(1954年に犬養健法相が指揮権を発動し、与党幹事長だった佐藤栄作氏の逮捕中止を検事総長に指示した)造船疑獄事件のように指揮権発動でおしまいだという悲観派が入り乱れていた。
     事件の第一報が掲載されてから13日後の2月18日検察首脳会議が開かれ、席上、東京高検検事長の神谷尚男氏が「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後20年間国民の信頼を失う」と発言したことが報道されるやロッキード世代は歓喜した。後日談だが事件終了後しばらくして若手検事何名かで神谷氏のご自宅にお邪魔したときにこの発言をされた時の神谷氏の心境を聞いた。「(八方塞がりの中で)進むも地獄、退くも地獄なら、進むしかないではないか」という答えであった。
     この神谷検事長の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至るご存じの展開となった。時の検事総長は布施健氏、法務大臣は稲葉修氏、法務事務次官は塩野宜慶(やすよし)氏(後に最高裁判事)、内閣総理大臣は三木武夫氏であった。
     特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動に怯(おび)えることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在であった。
     国会で捜査の進展状況や疑惑を持たれている政治家の名前を明らかにせよと迫る国会議員に対して捜査の秘密を楯(たて)に断固拒否し続けた安原美穂刑事局長の姿が思い出される。
     しかし検察の歴史には、(大阪地検特捜部の)捜査幹部が押収資料を改ざんするという天を仰ぎたくなるような恥ずべき事件もあった。後輩たちがこの事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。それが今回のように政治権力につけ込まれる隙を与えてしまったのではないかとの懸念もある。検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。
     しかしながら、検察が萎縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで掣肘(せいちゅう)を受けるようになったら検察は国民の信託に応えられない。
     正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。
     黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。

     【追記】この意見書は、本来は広く心ある元検察官多数に呼びかけて協議を重ねてまとめ上げるべきところ、既に問題の検察庁法一部改正法案が国会に提出され審議が開始されるという差し迫った状況下にあり、意見のとりまとめに当たる私(清水勇男)は既に85歳の高齢に加えて疾病により身体の自由を大きく失っている事情にあることから思うに任せず、やむなくごく少数の親しい先輩知友のみに呼びかけて起案したものであり、更に広く呼びかければ賛同者も多く参集し連名者も多岐に上るものと確実に予想されるので、残念の極みであるが、上記のような事情を了とせられ、意のあるところをなにとぞお酌み取り頂きたい。

     令和2年5月15日
     元仙台高検検事長・平田胤明(たねあき)
     元法務省官房長・堀田力
     元東京高検検事長・村山弘義
     元大阪高検検事長・杉原弘泰
     元最高検検事・土屋守
     同・清水勇男
     同・久保裕
     同・五十嵐紀男
     元検事総長・松尾邦弘
     元最高検公判部長・本江威憙(ほんごうたけよし)
     元最高検検事・町田幸雄
     同・池田茂穂
     同・加藤康栄
     同・吉田博視
     (本意見書とりまとめ担当・文責)清水勇男

     法務大臣 森まさこ殿

    2020年5月15日

    「♯検察庁法改正案に抗議します」に共鳴(高尾義彦)

    ハワイの日本語新聞「日刊サン」のコラム

     検察首脳の定年を内閣の恣意的判断で延長することを可能とする検察庁法改正案に、国民の怒りのうねりが広がっている。毎友会ホームページで、この問題について論評することは自制してきたが、憤りを共有する石井國範会長の同意をいただき、一石を投じたい。

     強引に定年延長を推し進める安倍晋三首相の父、安倍晋太郎氏は元毎日新聞記者であり、天上から民主主義、三権分立のルールを息子に教示していただきたい、との思いも込めて。

     今回の定年延長は、2つの問題が重なり合って、国民には分かりにくいものとなっていた。それが、コロナ対策を進める政治に関心が高まるにつれて、この問題に国民が強い意志を表明する事態になった。ツィッターでの抗議に400万件もの賛同ツィートが寄せられ、「火事場泥棒」「どさくさまぎれに」と、一気に世論が高まってきた。

     2つの問題点のうちの一つは、黒川東京高検検事長の定年延長で、1月31日の閣議で突然、決定された。この時点で下記のコラムをハワイ・ホノルルで発行されている日本語新聞「日刊サン」に執筆した。掲載は12日付だが、締め切りはほぼ1週間前なので、かなり早い段階で問題提起したつもりだ。検察庁法には定年延長の規定がなく、安倍首相が法律解釈を変えた、と表明したのが13日だが、その後の国会審議などで「解釈変更」が正当な手続きを経ておらず、法務省などにその議事録が存在しないことが、情報公開法に基づく毎日新聞の取材で明らかになり、極めて不透明で勝手気ままな法解釈の変更であることが裏付けられた。

     ハワイのコラムをまず読んでいただければ、安倍首相の解釈変更が、いかに法を曲げるものかはご理解いただけると思うので、その後に第2の論点を考えたい。

    法匪!? 検事総長候補の定年延長

     現場を離れた後も、司法記者の端くれを自任する筆者にとって、黒川弘務東京高検検事長の定年を延長した安倍内閣の閣議決定ほど、まがまがしく感じた司法界の事件はない。国家公務員法と検察庁法を、政権に都合のいいように捻じ曲げた解釈で、違法と指摘する意見に賛同し、警告したい。
     決定は唐突だった。2月8日に63歳の誕生日を迎える黒川検事長の定年を半年延長する閣議は、その一週間前の1月31日だった。森雅子法相は「検察庁の業務遂行上の必要性に基づき、引き続き勤務させる」と説明したが、検察史に前例のない決定に、納得した国民は少なかったのではないか。
     検察庁法22条は、「検事総長は、年齢が65年に達した時に、その他の検察官は年齢が63年に達した時に退官する」と定める。検事長も検察官の一人として63歳が定年となる。この規定については、検察庁法32条の2に「国家公務員法附則第13条により、検察官の職務と責任の特殊性に基づいて、同法の特例を定めたものとする」とされ、検察官の定年は国家公務員の中でも特に厳しく守られなければならないと解釈すべきだ。国家公務員法に一般の公務員に対する定年延長の規定があっても、この規定は検察官には適用されないと解釈するのが妥当な判断だ。
     検察庁法にこの規定が設けられているのは、刑事事件処理に当たって、国民から絶大な権力を負託された検察官を厳しく律して、権力の乱用を防ぐためだ。それが「検察官の職務と責任の特殊性」だ。
     異様な決定がなぜ強行されたか。開会中の国会でも論議が集中し、クローズアップされたのが、次期検事総長人事だった。
     現在の稲田伸夫検事総長が65歳の定年まで務めるのではなく、慣例に従い在任2年となる8月を目途に退官するとの観測がある。だとすれば7月には検事総長交代の時期を迎える。その場合、黒川検事長の同期、林真琴名古屋高検検事長が7月の63歳の誕生日前に検事総長の座を引き継ぐのが自然な流れとみられていた。
     法務・検察部内では、司法修習35期の中で、林、黒川両氏のどちらかが将来の検察トップとの見方が早くからあった。林氏は2002年の名古屋刑務所虐待事件を受けて矯正局で監獄法改正の実績を挙げ、黒川氏は官房長など政界との折衝を担当して実力を発揮したが、ある時期までは林氏が一歩、先んじると評価されていた。
     ここで注目したいのは、今回の異常な閣議決定は、2016年9月の法務省人事に伏線があったという解説である。検事総長交代を中心とした4年前の人事で、黒川官房長が法務事務次官に昇格し、その後、共謀罪の成立などで安倍政権を支えてきた。
     法務・検察首脳は当時、次官には林刑事局長を昇格させ、黒川氏は地方の高検検事長に転出させる案を描いていた。ところが官邸側が黒川氏の次官昇任を要請したことから原案を変更、林氏は刑事局長に留任となった。黒川氏の次官起用は菅義偉官房長官の意向と受け止められた、と当時、朝日新聞編集委員だった村山治記者は解説している。村山記者はかつて毎日新聞に在籍、筆者は司法記者クラブで一緒に仕事をした。朝日新聞に移ってからも、司法記者一筋の経歴で、その解説は信用度が高い。
     官邸サイドが法務・検察のトップ人事に介入したとの懸念が指摘され、政界からの「独立」を掲げてきた検察の歴史に、崩壊の兆しが見えたともいえる人事だった。今回の閣議決定は、官邸介入の構造をさらに露骨に示した。
     検察は戦後、政治からの独立を最優先課題として組織を運営してきた。歴史は、造船疑獄(1954年)で佐藤栄作自由党幹事長を収賄容疑で逮捕する方針を固めていた検察に、犬養毅法相が検察庁法14条による指揮権を発動した前例に遡る。以来、検察は疑獄捜査などで政治の側からの圧力に神経をとがらせ、政治の側もある種の自制をしてきた。
     田中元首相を逮捕したロッキード事件(1976年)では、布施健検事総長が「全責任は自分が負う」と検察首脳会議で明言した。1992年に起きた東京佐川急便事件では、金丸信元自民党副総裁の5億円脱税を略式起訴した検察に不信感が広がり、立て直しのためロッキード事件主任検事だった吉永祐介氏が総長に抜擢された。
     当時、吉永氏は大阪高検検事長で定年とみられていて、筆者が大阪の官舎に訪ねた際には、淡々と定年を迎えるという心境がうかがわれた。ところがカミソリと言われた後藤田正晴法相が就任直後に、「吉永君はどこにいる」と名前を挙げて指名したと伝えられる。今回の定年延長とは逆に、検事総長に最適の人物を、政治の側が選択した。
     「法匪(ほうひ)」という言葉がある。法律を詭弁的に解釈し自分の都合のいい結果を得ようとする者、という意味で、筆者はこの言葉を伊藤榮樹検事総長から聞いた。
     果たしてこの夏に黒川検事総長が誕生するのかどうか、そのプロセスに関わる閣僚や法務・検察首脳が、「法匪」と呼ばれることのないよう良識を期待したい。

     第2の論点は、その後に政府が国家公務員法と抱き合わせで検察庁法の定年延長案を国会に提出した問題だ。これは黒川検事長の定年延長を後付けで正当化するもの、と野党が批判してきた。事実、昨年10月段階で国家公務員法の定年延長が政府内で議論された際、検察庁については「必要がない」との判断だったといわれる。国公法案と「束ねて」、一体のものとして国会に提案された手続きにも問題があるが、それ以上にこの規定が検察の独立・中立性を根本的に崩壊させる危険性をはらんでおり、高まる世論の批判もこの点に焦点が合わされている。

     改正案は、一般の検察官の定年を現行の63歳から65歳に引き上げるとしているが、問題となっている条文は、最高検次長検事、高検検事長、検事正らに63歳の役職定年を設定(検事総長の定年は現行の65歳のまま)、総長も含めこれら検察首脳については、「内閣が定める事由があると認めるときは」最高3年まで定年を延長できるという規定だ。内閣の判断で定年を延長したりしなかったり、内閣が検察首脳人事に介入できることになるが、その基準は明確にされていない。

     安倍首相は記者会見などで「恣意的な人事は行わない」と言明しているものの、その根拠は明らかでなく、定年延長基準の具体的説明もない。これでは内閣が変わった場合、恣意的な判断が入り込む余地が十分にある。内閣お気に入りの検察首脳が長くその地位にとどまれる規定で、現在は検事総長は2年程度で勇退する慣行だが、2022年4月の施行後は、5年間もその地位にとどまる検事総長が生まれる可能性も指摘されている。

     こうした事態に、ロッキード事件捜査を担当した松尾邦弘元検事総長、堀田力元官房長ら検察OBが改正案に反対する意見書を法務省に提出。表立った発言が出来ない現職検察官に代わって、検察の受け止め方を意思表示した形になった。

     国会審議は大詰めの15日、それまで自民党が拒否していた森法相が内閣委員会に出席し、審議が行われた。野党委員の追及に対して、森法相は定年延長を認める場合の具体的な基準を明示できず、野党委員を納得させることは出来なかった。

     野党は、それ以前に答弁していた武田良太行政改革担当相の不信任案を提出して対抗。この日、延長法案の採決を予定していた与党は、来週以降の委員会に審議を持ち越すことになり、取り合えず強行突破は回避された。

    検事総長 粘って夏を 超えるべし

     これは河彦の名前で日々、つぶやいているツィッター俳句(12日)。安倍政権の愚行を阻止する手段としては、稲田検事総長が2年で辞任しないで来年の定年まで勤めれば、黒川検事総長は実現しない。国民は検察をめぐる政治の動きを、自分たちの権利が侵害され、自らの自由や民主主義、三権分立が絵に画いた餅になりかねない事態であると受け止めて声を上げていることを、安倍首相はじめ政治家たちは重く受け止めるべきだろう。

    (高尾 義彦)

    2020年5月2日

    米ツイッター利用者が前年比24%増と過去最高の伸び

     元英文毎日・社会部、半田一麿さん(84歳)から毎朝午前4時過ぎに送られるブログ「 today's joke 」。世界中のニュースから拾ったその時々の話題と、コピーライターの仲畑貴志さんが選句する毎日新聞万能川柳から1句、さらに英文ジョークの3本立て。英語の勉強にもなります。

     5月2日(土)早朝に届いたのは、新型コロナウイルスによるパンデミックでアメリカのツイッター利用者が前年より24%増と過去最高の伸びだったというニュースだった。

     以下に引用します。

     today's joke (the shark):
     Twitter sees record user growth, thanks to COVID-19.

     インターネット短文投稿サイトを運営する米ツイッター(Twitter)は30日、2020年1~3月期の1日当たりの平均利用者数が前年同期比24%増の1億6600万人と、過去最高の伸び率になったと発表しました。

     新型コロナウイルス関連の投稿が増えたことが寄与したものと受け取られています。

     Engadget NewsはTwittersees record user growth, thanks to COVID-19→「新型コロナウイルスの影響でツイッター、記録的な成長率を示す」と報じました。

     同社の1~3月期の売上高は前年同期比2.6%増の8億800万ドル(約860億円)と、市場予想を大きく上回った結果となりました。ただ、純損益は800万ドルの赤字に転落しました。新型コロナの影響が世界中で深刻化した3月11~31日の広告収入が、前年同期比で約27%減少したのでした。同社は、→「ユーザーは落ち着きを取り戻しつつあることは間違いない。新型コロナの情報を求めより多くのユーザーがツイッターを利用したことが大きい」と分析しています。

     ★「霊園に格差社会の縮図見る」…万能川柳

     ・a man eating shark(サメを食べる男)をman-eating shark(人食いザメ)に引っ掛けている。

     ・The Shark

     Lou: A man fell overboard from a ship. A shark came up, looked over her and swam away.

     Bud: Why did the shark do that?

     Lou: Because it was a man eating shark.

     【試訳】

     ・サメ

     ルー:男が船から落ちたんだよ。そこにサメがやってきて男を見て、またどこかに行っちゃったんだよ。

     バッド:どうしてサメはそんなことをしたんだろうな?

     ルー:サメを食べる男だったからさ。

     以上

    (堤  哲)

    2020年4月30日

    スペイン風邪から100年⑥ 27年間の医学部入学定員削減のツケ

    (中安 宏規)

    2020年4月26日

    新型コロナウイルスNOW!

     元英文毎日・社会部記者の半田一麿さん(84歳)から「是非、ご一読」と「新型コロナウイルスNOW!」が送られて来た。公立陶生病院(愛知県瀬戸市)感染症内科主任部長・武藤義和さんが作成したものが転送されたのだ。参考までに転載したい。

    【PDFを開くのに、少し時間がかかります】

    2020年4月23日

    美智子さまから手紙をもらった清水一郎お妃記者

     長谷川町子さんの「意地悪ばあさん」(毎友会HP随筆集2020年4月9日)を調べていて月刊「文藝春秋」1990年2月号「昭和を熱くした女性50人」に行き当たった。50人の中に「皇太子妃美智子」(上皇后陛下)があった。ライターは社会部の先輩・清水一郎さん(2012年没、85歳)だった。

     

     清水さんは、皇太子殿下(上皇陛下)の婚約発表前、池田山の正田邸で美智子さまと2人だけになられる機会があった。当時宮内庁担当で、社会部「皇太子妃取材班」。美智子さまの母親富美子さんに信用されていた。

     《たまたま正田家におりましたら、どこかの報道機関が押しかけ、私は鉢合わせになるとまずいので、茶の間にいることにしました。そこに美智子さんが入ってこられ、お話を伺うことになったのです。二人の話が隣の居間に聞こえるとまずいだろうということで、美智子さんがテレビのボリュームをあげたりしました。ところが隣から富美子さんが来て、小さくされてしまうのです。美智子さんは「子の心、親知らずだわ」とにが笑いされていました。

     そこでサンルームのようなところに場所を移して、話を続けました》

     婚約発表があったのは、1958(昭和33)年11月27日午前11時半。

    1958(昭和33)年11月27日付特別夕刊 1958(昭和33)年11月27日付夕刊1面

     毎日新聞は、すでに用意していた8ページの特別夕刊を全国で一斉に配布した。1面トップの凸版見出しはカラー印刷した。画期的なことだった。

     お妃報道の過熱から宮内庁の要請で報道協定が結ばれた。特別夕刊は密かに制作された。『毎日新聞百年史』にこうある。

     《11月16日には緊急支局長会議が開かれ、〝発表と同時に配布する。それまでは1部でも外部に出さないように〟と厳命があったものである。前夜、支局長らは「特夕」の梱包を抱いて眠った》

     さらに《朝日の2ページ号外、読売の半ページ号外に比して圧倒的な質と量の勝利であった》と続けている。

     清水さんは夕刊1面で署名記事をものにしている。

     「こんどのことは、大変大きな出来事には違いありませんが、普通の結婚と変わりはございません」

     書き出しは、あの時、美智子さまが漏らされた言葉である。

     夕刊の中面に「お妃記者座談会」が載っているが、大森実ニューヨーク支局長(のちワシントン支局長→外信部長)の囲み記事がある。美智子さまは10月に

     極秘で欧米旅行。帰国する同じ飛行機にワシントン特派員の内田源三記者が飛び乗るまでの経緯を書いている。

     機内の日本人は美智子さまと内田記者の2人だけ。その模様は社会面に載っているが、雨の羽田空港で出迎えたのは毎日新聞の記者だけで、他社は気づいていなかった、という。

     そして翌59(昭和34)年4月10日にご結婚される。

     清水さんは、1面トップで再度スクープを放つ。

    1959(昭和34)年4月10日毎日新聞朝刊1面

     嫁ぎゆく心境、本社に寄せる
    《ご婚約の後、お手紙をいただきました。その一部を特別に許可をいただいて…掲載させていただきました。結果的にご成婚に関して、私の二大スクープになりました》

     美智子さまから届いた便せん3枚の手紙。自分のペースで堅実に歩んでいくこと、婚約期間中、皇太子さまに励まされたことのうれしさを伝えていた。

     清水さんは、編集局長賞を受けた。

     それは8年にわたる「皇太子妃取材班」の努力の成果でもあった、と、取材班のメンバーだった牧内節男さんが「銀座一丁目新聞」に書いている=2012(平成24)年4月1日号「追悼録」清水一郎君逝く。

     《取材班のメンバーは杉浦克己社会部長、藤樫準二編集局嘱託(宮内庁記者60年)、柳本見一デスク、桐山真、清水一郎、牧内節男、藤野好太朗、古谷糸子、関千枝子、小峰澄夫の10名であった。現在生きているのは牧内と関の2人だけである》

     《皇太子妃として正田美智子さんの線をつかんだのは毎日新聞が一番早かった。情報は複数の筋からもたらされた。正田美智子担当になったのは宮内庁クラブの清水一郎記者であった。正式発表までに清水記者は何度も池田山にあった正田邸を訪れて美智子さんと会っている。清水君は記者としてよりも人間として信用されたのだと思う。美智子さまは民間から皇室に嫁ぐ悩みを清水記者に相談したこともあったと聞く。清水記者は慎重居士で粘り強くコツコツ仕事をするタイプであった。その性格を見抜いて当時、社会部デスクであった福湯豊デスク(故人)が警視庁捜査2課担当から宮内庁記者クラブに配置換えした。名文家・藤野好太朗記者を入れたのも福湯デスクであった。仕事がうまくいくかどうかは人事の妙が大きく影響する。

     (2012年)3月23日小雨降る中、西立川で開かれた告別式で喪主を務める長男の保彦さんが「小学校の5,6年生のころ牧内家で手造りのアイスクリームを頂いたがあの味が忘れません」と話した。そんなことすっかり忘れてしまった。あのころは寝食を忘れて仕事に励んだ。それから50年。戦友たちが相次いであの世に逝く……》

     牧内さんはことし8月の誕生日で95歳。関千枝子さん(88歳)は『広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち』(筑摩書房1985刊)の著者。広島の原爆忌に毎年足を運び、原爆の悲劇を語り継いでいる。

     清水さんは、私がサツ回りをしていた時、八王子支局長だった。その後、世論調査部長をつとめた。髪の毛をいつもいじっている、クセの記憶しかないが、退職後、1度だけ自宅に電話したことがある。クラシック音楽を聴いていた。防音が完璧なのであろう。かなりの音量だった。

    (堤  哲)

    2020年4月20日

    医療崩壊は間の抜けた医療行政のツケ

     中安「濁水かわら版」の医師不足の指摘を、4月20日夕刊コラム「見上げてごらん」で永山悦子記者が「医療崩壊、本当の心配」と杞憂している。

     コラムを引用する。

     《日本の医師数は、経済協力開発機構(OECD)の平均より13万人も少ない。1982年に「将来は医師過剰時代になる」として医学部の入学定員を抑制する閣議決定がされ、定員削減が2008年まで続いたことが背景にある》

     中安さんが訴えた「失われた27年」である。その間ひたすら医学部入学定員を減らしてきた。医療現場はどうなっているのか。

     《日本の病院で働く勤務医たちの働き方は過酷だ。全国の勤務医の4割(8万人)が過労死ラインとされる年960時間(月80時間)以上残業し、そのうち2万人は年1940時間以上も残業している》

     《そこへ降りかかってきた新型コロナウイルス》

     永山記者は、こう訴える。

     《今、あらゆる病を持つ人の医療が危機にさらされている。医療機関への人・モノ・カネという具体的な支援が急務だ。そして、この感染禍を乗り切ったあかつきには、医師不足の解消を「一丁目一番地」の課題としてほしい。気合で危機を乗り切るような綱渡りの医療は続けるべきではない》

     中安さんは「臨床医減少のツケが病院と高齢者施設へ」しわ寄せされていることを指摘している。さらなる続編に期待したい。

    (堤  哲)

    2020年4月17日

    スペイン風邪から100年⑤ 緊急事態宣言を発令 ドイツに遅れる日本の医療

    (中安 宏規)

    2020年4月16日

    それでも桜は咲きました【15日ロンドン発 阿部菜穂子】

     桜関係の行事はすべて中止になりました。

     桜の行事だけではなく、欧州各国の日常すべてが「停止」状態です。本当にあっという間にコロナウィルス感染が拡大し、イギリスでも大変な被害が出ています。これまでに1万2千人以上が亡くなりました。国が対策に乗り出すのが少し遅れたとはいえ、日本に比べてなぜ欧州の死者数がこんなに爆発的に多いのか、よくわかりません。

     イギリスは「全土封鎖(ロックダウン)」状態になって4週目です。学校、大学のほかレストランやパブ、スーパーと薬局以外の全店舗は閉鎖されたままで、住民には一日1回の屋外での「運動」が許されているのみです。外出時は家族以外の他人との距離を2メートル以上あけることが鉄則です。同居していない家族に会いに行くこともできません。

     それでも桜は咲きました。今朝のタイムズ紙1面に、北部ノーサンバランド州の「アニックガーデン」の「太白」桜園の様子が載っていました。

     今が満開のようです。この桜は、日本で絶滅してしまったのを「チェリー・イングラム」ことコリングウッド・イングラムが1932年に日本に里帰りさせたものです。アニックガーデンには350本の太白が植えられています。

     桜の行事は中止になってしまいましたが、その代わりにオンラインで「チェリー・イングラム」各国語版の販促活動が行われています。たとえばイタリア語版の出版社ボラッティ・ボリギエリ社から本について小ビデオを作成してほしい、と要請があり、送ったところ、同社のフェイスブックサイトにビデオが掲載されました。
    https://www.facebook.com/watch/?v=529316437766724

     また、オランダ語版(下の写真)用には、オランダの主要3紙からスカイプによる取材を受けました。

     記者たちは本をよく読んでくれていて、なかなか内容のある取材でした。(桜のシンボリズム、ことに明治維新後の日本で桜が国家統一のシンボルとして使われ、それが20世紀の軍国イデオロギーにつながっていった経過に興味を示され、かなり突っ込んだ質問を受けました。)

     イギリスでは今、すべてがオンラインで行われています。会社の会議も「zoom」等を利用したビデオ会議で行われています。

     最近、平凡社の雑誌「こころ」に添付の記事を書きました(2020年4月発行、第54号エッセイ「奇矯なジェントルマン」)。

    画像をクリックするとPDFで見ることができます

     これがロックダウン状態になる前に行った、最後の桜の仕事でした。詳しくはhttp://naokoabe.com/index.php/ja/ を見ていただければ幸いです。

    クランブルック伯爵と長男ゲイソン氏(左)

     「チェリー・イングラム」本の反響がイギリスの貴族にまで及んだのにはびっくりしましたが、クランブルック伯爵家での夕食会や邸宅での植樹式で伯爵家の人々と歓談したことは、大変楽しい経験でした。

     伯爵の長男ゲイソン氏(将来の第6代伯爵)は桜の愛好家で、すでに50本もの桜を庭園に植えています。多様な品種の桜です。ここに今回、「太白」や「ホクサイ」、チェリー・イングラムの創った「クルサル」が加わりました。もっとたくさんの桜を植えたいと情熱的に話しておられたので、私はひそかに「2代目チェリー・イングラム」になってもらいたい、と思いました。こうやって桜の伝統がイギリスで続いていくのはとてもうれしいです。

    (阿部 菜穂子)

    2020年4月11日

    大林宣彦監督の訃報で、映画「女ざかり」を思い出した!

     4月10日亡くなった映画監督の大林宣彦さん、82歳。

     毎日新聞HPには、この写真が載っていた。説明は――。

     映画「女ざかり」の撮影が行なわれた毎日新聞東京本社編集局内で、撮影の合間、大林宣彦監督と談笑する主演の吉永小百合さん =東京都千代田区の毎日新聞東京本社で1993年12月14日、木村滋撮影

     で、松竹映画「女ざかり」のことを一気に思い出した。

     この映画は、翌94年6月18日に封切られた。原作は丸谷才一のベストセラー小説『女ざかり』(文藝春秋刊)。主演の吉永小百合は、新聞社の女性論説委員。相手役の三國連太郎は、事件記者あがりの「書けない論説委員」という設定。

     公開初日の舞台挨拶で、大林監督は主演の吉永小百合さんに「あなたのシワを撮りたい、と言ったんですよね」。

     撮影は、16mmカメラ3台を同時に回して行われた。普通、映画の撮影は35mmのカメラ1台だ。カット数3400。1時間58分の映画だから、単純計算で1カット2・08秒。ちゃかちゃかとやたら画面が変わる。「ドキュメンタリータッチの不思議で素敵な映画となった」と小百合さんは感想を述べた。

     ヨドチョウさん、映画評論家の淀川長治は「この映画の印象は小百合がメシを口にかきこむこと、かきこむこと、口にメシをほおばって、口の中にメシを押しつぶしているところの吉永小百合。それと頭はいいが文体がまずい、同じく記者の三國連太郎の目の下の深いシワ」と、産経新聞の映画評に書いている。

     この映画のロケが毎日新聞社内で行われたことから、松竹と毎日新聞、それに電通の3社でキャンペーンのアイデアが練られ、小百合さんにエッセーを週一で連載してもらうことになった。「男ざかり女ざかり」。その原稿のキャッチャー役が、ヒマな編集委員だった私に回ってきたのである。

     ワープロが出始めのころ。小百合さんは手書きの原稿をファックスで送ってきた。

     第1回は作家の宇野千代。見出しは「あなたはケチですね」。

     男性に積極的になれない臆病な小百合さんが、結婚歴4回、90歳を超えた恋多き女流作家に「あなたはケチですね」と叱られたというのだ。

     第4回に三國連太郎さん。その書き出しは「書けない新聞記者がいることを『女ざかり』を読んで知った」。

     書けない新聞記者、なんて言われるとギクリとする。

     連載は4か月余、17回で終わった。小百合さんが〆切に遅れることは1度もなかった。

     一番の思い出は、テレビ番組撮影のロケ現場ニューヨークに着いて行ったこと。映画「女ざかり」で共演したNY在住の松坂慶子を訪ねるという設定で、「連載の原稿はNY渡しと言っています」と編集局長に申し出たら、出張旅費を出してくれたのだ。いい時代だった。

     ちなみに他に誰を取り上げたか。女性は、岡本綾子、竹宇治聡子(旧姓・田中)、ジェシカ・タンディ、小川誠子(囲碁)、松坂慶子、高樹のぶ子、土井たか子、杉村春子。

     男性は、清原和博、小澤征爾、片岡孝夫、篠山紀信、三宅一生、丸谷才一、和田誠。

     候補者リストには、高倉健らもあったが、残念ながら…。

    (堤  哲)

    2020年4月3日

    スペイン風邪から100年④ メルケル首相の“コロナ”演説全文

    (中安 宏規)

    2020年4月1日

    キャリアスタッフ、OBアルバイト、ご苦労様でした

     東京本社管内では「キャリアスタッフ」(60~65歳)の橋口正さん(松戸通信部)、渡辺洋子さん(千葉支局)、上遠野健一さん(木更津通信部)がこの3月末で卒業されました。

     また、3月末で卒業された「OBアルバイト」(65歳以上。2019年度をもって制度廃止)は中島章隆さん(館山通信部)をはじめ、以下の方々になります。

     ・塚本弘毅さん(八戸通信部) ・鬼山親芳さん(宮古通信部)
     ・田村彦志さん(能代通信部) ・増田勝彦さん(高崎通信部)=前橋支局通信員
     ・畑広志さん(沼田通信部)  ・柴田光二さん(大田原通信部)
     ・松山彦蔵さん(秩父通信部) ・舟津進さん(掛川通信部)
     ・高橋和夫さん(相模原通信部) ・澤晴夫さん(小田原通信部)=昨年12月末で退職
     ・小田切敏雄さん(富士吉田通信部)=昨年9月末で退職
    (通信員は4月からスタートした制度で、各支局が管内に住むOBと契約し、自主的に投稿する原稿を買い取る)

     このうち地方版などから5人のメッセージを紹介します。

    中島章隆さん(元運動部)
    今日で卒業します /千葉
    2020年3月31日 地方版

     森田健作知事が武将に扮(ふん)した第30回南総里見まつりは2011年9月30日。私が館山通信部に着任する前日でしたが、引っ越し荷物と一緒に館山に着いた私は早速、写真と原稿を千葉支局に送り、翌10月1日付紙面に署名入りで記事が掲載されました。

     これが私の「千葉版デビュー」です。知事が扮(ふん)した里見の殿様の名前を間違え、翌日の千葉版で訂正記事を出すおまけがつきます。

     それ以来、8年半。本日をもって46年務めた毎日新聞の記者を卒業します。

     新人として最初に赴任した青森支局の6年を除けば、31年半は東京本社勤務。館山では久々に読者の皆さんと肌で接しながらの毎日でした。

     「今朝の記事読んだよ」「写真はもう少し工夫したら」などなど、直接声をかけていただいたのは、本社では経験できないことばかり。本当に記者冥利に尽きます。

     新型コロナウイルスが猛威を振るう中、新聞社を去るのは心苦しいのですが、後輩にバトンを託して記者生活にピリオドを打ち、筆をおきます。今は筆ではなく、パソコンですが。

    柴田光二さん
    県北取材20年余に別れ /栃木
    2020年3月28日 地方版

     この3月で退職することになりました。大田原通信部に着任以来、20年余にわたり大田原市を中心とする県北地区を取材しました。担当は着任当初は7市町村でしたが、平成の大合併などもあり最後は矢板を含めた4市町でした。

     振り返ると、自然災害の恐ろしさを思い知らされた1998年の那須水害、県北地域が候補地になった首都機能移転、地域の形が変わった市町村合併、2018年の那須野が原開拓の日本遺産認定などが印象に残っています。忘れられないのが、17年の雪崩事故です。大田原高校山岳部の生徒ら8人もの尊い命が失われたことが、今も悔やまれます。

     フレッシュなところでは、那須塩原市の渡辺美知太郎市長の誕生でしょうか。36歳での初当選で、県内最年少の市長になりました。JR那須塩原駅の近くにある工場跡地の活用について、津久井富雄・大田原市長と共に事業者への要望活動をしています。両市長は、県北地域に人口20万から30万の都市を作る構想も共有しています。跡地の活用も含め、今後の行方が気になっています。

     退職後は、出身地の福島県から県北地域の繁栄を願っています。お世話になりました。

    松山彦蔵さん(元出版局)
    秩父よ、逆襲を /埼玉
    2020年3月30日 地方版

     秩父市は2018年、人口1000人当たりの転入率が19・68人で全国815市区中783位。民間サイト「生活ガイド.com」が算出した全国ランキングにベテランの市職員は目を疑った。

     「こんなに下位なのか」

     人口減少の続く市は移住施策に力を入れ、相談センターやお試し住宅を設け、転出超過をここ数年、300人台前半に抑えていた。手応えを感じた直後の、この順位だった。

     そこで移住加速に向け提言したい。都民に週末や夏冬などに秩父で田舎暮らしをしてもらう「2地域居住」に、首都直下地震をにらんだ避難場所の提供もセールスポイントにしたら、と。地震の揺れに強いとされる秩父で避難民を受け入れるため、空き家・空き地を都会の力を借りて整備するのだ。保険会社ではないけれど、有事に備え地方もしたたかにしぶとく、生き残り戦略を練る時機だと思う。

     3月末で毎日新聞社を退職し秩父を離れるが、ぜひ秩父の逆襲を見守りたい。

    上遠野健一さん(元社会部)
    望郷と感謝の土地 /千葉
    2020年3月24日 地方版

     新聞記者生活を送る最後の場所と決め、木更津に赴任した。約2年分の記事のスクラップブックを見返している。最初のページには、2機目の米軍輸送機オスプレイの陸上自衛隊木更津駐屯地への到着を予告する記事が貼ってある。カッターナイフで自身の記事を切り取り、貼り付ける。この作業を一日の締めくくりとする日課が好きだった。貼る記事がなく、空白日が続くと、己の怠慢を反省した。

     東京湾に面した富津、君津、木更津、袖ケ浦、市原は歴史と文化、人と自然に恵まれ、記事の宝庫だった、とスクラップした記事が教えてくれる。記者駆け出しのころ、初任地は、生まれ故郷と同様に忘れ難く「第二の古里」になる、と先輩諸氏から励まされ、取材に奔走した。

     記者最後の土地は何か、多くの記者が私に語らなかった。今、記事化した課題の決着を見届けることなく、この地を去る未練が残る「望郷の地」か、と思う。半面、多くの人に支えられ、新聞記者で終われる「感謝の地」と強く思う。送別に贈られたフキノトウの味はほろ苦く、口になじんだ。

    橋口正さん(元写真部)=フェイスブックから

     39年11ヶ月のエンプロイヤー人生が今日で終わります…。
     まあ、(松戸通信部では)3年も勤まればいいと思っていたのですが…。
     みなさまの温かい懐のお陰で、ここまでこれたのかな…。
     さて、新しい人生を寿ぐように、娘の「愛児」が家族に加わってくれました。とても高価な「ペット用落花生」を手に…。可愛いですねぇ~…。

    2020年3月30日

    スペイン風邪から100年③

    (中安 宏規)

    2020年3月27日

    エージシュート達成記

     大阪毎友会HP、2020.03.24 閑・感・観~寄稿コーナー~ に、とんでもないゴルフ記事が載っていた。参考までに転載したい。

     後期高齢者のゴルファーの目標は健康で楽しくプレーすることが一番で、加えて夢は「エージシュート」を達成することです。

     そのエージシュートは、18ホールを回る1ラウンド(パー72)で、満年齢か、それ以下のスコアでプレーすること。アマチュアでは75歳前後からやっとチャンスが巡ってくるが、なかなか難しい。

     それが、2018年(75歳)と19年(76歳)に2回達成できた。今回は感激も大きかった18年のラウンドを紹介します。

     8月27日晴。場所は山陽自動車道岡山ICに近い自宅から15分の岡山北ゴルフ俱楽部(パー72、5394y)。スポーツジム仲間3人(いずれも75歳前後)と「レディース&シニア友の会月例杯」に参加。朝から気温が上がり最高気温は35・2度。スタート前から暑さにバテ気味で、「エージシュート」なんて全く意識なし。

     1、2番は無難にパーオンして連続パーセーブ。3番は右ドッグレッグで前下がりの左ラフからの2打を7Iで奥4・5mにパーオンし、下りパットを決め、バーディー。4番パー3でもパーセーブし、「今日は調子がいいなぁ」と思っていたら、5番、6番で1m弱のパットを外し、連続ボギー。しかし、気を取り直した7、8番はパーセーブでまとめた。ロングホールの9番は3打を右ガードバンカーにいれ、ボギー。前半は2オーバー「38」で、私にとっては上出来だ。

     後半、同伴者からは「村田さんがエージシュートしたらお祝いをしてあげる」とプレシャーをかけられる。池絡みの難ホールが多いので、「有り得ない」と軽く流す。10番は16・5mにパーオンしたが、3パットが出易い長い距離。不安がよぎるが、なんとか2パットで凌ぐ。

     11番、12番をパーセーブした後の13番(パー5)がエージシュート達成のキーホールになった。打ち下ろしの右ドッグレッグで、1打が右に飛び出し、高さ約20メートルの斜面を越え、OBゾーンの木の中に飛び込んだように見えた。念のため尾根沿いを歩いていくと、斜面下にボールがあり、確認するとマイボールだった。木か何かに当たり、落ちたのだろう。「ラッキー」と喜ぶ。パーオンは出来なかったが、2・3mを沈めパーセーブ。「OBがパーセーブになった。ツキがある」と確信。

     でも、これからが正念場。14番をパーセーブした後は15番はハンディキャップ2の難ホール。2打の距離が170y残り、これまでパーオンの回数が少ない。7番ウッドでカラーまで運び2・3mを寄せワンで決め、ピンチをかわす。

     16番、17番はいずれもパーセーブした後の18番は池越えのホール。これまでここで池に入れ、エージシュートを逃したことがあり、緊張感が漲る。まずユーティリティでフェアウエーをキープ。池越えの2打は残り距離が150y。「奥のガードバンカーOK」で大きめの6Iで狙うと、奥カラーで止まり、得意のPWで1・5mに寄せワンパーセーブ。後半「36」のパープレーで乗り切った。

     最後の1パットを決めた瞬間、「とうとうやり遂げた」と感無量。同伴者の祝福も受けた。前後半のグロスは「74」。75歳6カ月より1打少ない。

     【エージシュート・データ】バーディー1▽パーセーブ14▽ボギー3▽フェアウエーキープ11▽パーリカバリー6▽パット31(1パット6、2パット11、3パット1)

     ちなみに2回目は2019年7月8日、毎日新聞中四国印刷のOBらで楽しんでいる「GG会」で達成。コースは1回目と同じ岡山北ゴルフ俱楽部でスコアは「76」。年齢は76歳5カ月だった。

     ゴルフ辞典によると、60歳を超えるゴルファーは国内に267万人(2015年)いると言われ、エージシューターは1,500人と推定されている。ちなみに、日本人アマチュアでは95歳の男性が1572回(19年1月)の最多記録がある。

     私には、まだまだこれからだが、今後も健康を維持して、1打1打を大切にプレーして行きたいと思う。

    (元姫路支局長・村田 征生)

    2020年3月26日

    ハプニングの健ちゃんって?

     大学の美術サークルOBらが半世紀にわたって作り続けてきた手作りアートカレンダーを並べた展覧会が、中央区銀座7の「Gallery Tanaka」で開催されている。28日まで。

     メンバーは、東京大に1964年度に入学し、美術サークルに所属していた同期が中心。毎年、特にテーマは決めず、各自の自由な発想で版画や写真を提出し、カレンダーの挿絵に取り込んでいる。

     在学中はサークルの運営資金を確保するために販売していたが、卒業後は趣味のカレンダーとして親しい人たちに配っている。一時は作品提出者が1人だけという継続の「危機」もあったが、どうにか作り続け、来年度分で55点目となる。

     会場には、前衛的な技術などを用いた彩り豊かな作品の数々が並ぶ。今は弁護士や企業幹部などとして各界で活躍している仲間たちが、職業を超えて交流を続けている。

     メンバーの一人で元毎日新聞常務の中島健一郎さん(75)は「展覧会を見ていただいた方が、高齢社会をハッピーに生きるヒントを得てもらえたらうれしい。それぞれの年の主な出来事も記し添えてあるので、半世紀の時代の変化も感じてもらえたら」と来場を呼びかけている。

     開場時間は正午~午後7時。問い合わせは同ギャラリー(03・3289・2495)。

     ――これは25日付毎日新聞東京版の記事だが、写真をよく見てください。前列右から2番目が健ちゃん、いや元常務の中島健一郎さん(75歳)。左端に弘中惇一郎弁護士。そうゴーンさんの元弁護士だ。

     それはさておき、アーチスト中島健一郎さんの作品を見てみたい。

     大学2,3年のころ、ハタチ前後の作品だ。

     もうひとつ、会場に貼られていた写真。

     よく見ると左側でスプレーを噴出させているのが健ちゃんだ。

     説明に《美術界の潮流『ハプニング』を新宿で遂行》とある。

     ハプニングの健ちゃんは、このあと新宿の街を素っ裸で駆け抜ける「ストーリーキング」も演じた。

     1968(昭和43)年毎日新聞入社。駆け出しの長野支局ではあさま山荘事件で特ダネを放ち、社会部では警視庁の1課担当記者として、さらにロッキード事件でも数々の特ダネをものにした。伝説の事件記者である。

     そしてワシントン特派員、社会部長、事業本部長などを歴任、常務取締役で退職。現在は千葉県市原市で、自然と調和した持続可能なコミュニティー「土太郎(どたろう)村」づくりに全精力を傾けている。

     この試みは、朝日新聞千葉県版2017年1月1日付で《20XX年「土太郎村」独立》の見出しで報じられた。未来の村のモデルとして、全面を埋めて紹介されたのだ。

     いつまでも夢を追う健ちゃんである。

    (堤  哲)

    2020年3月16日

    続 「スペイン風邪から100年」

     1964年入社、元社会部中安宏規さんから「濁水かわら版」95号が届いた。

     100年前のスペイン風邪で、日本の感染者 は2380余万人、死亡38万8千余人にのぼった、と報告する内務省資料を見つけた。その詳報である。

    (堤  哲)

    2020年3月14日

    東日本大震災から9年、朝日新聞「ひと」欄紹介の元毎日新聞記者

     手塚さや香さん(40歳)。2001年入社、初任地が盛岡支局だった。《4年間、事件や行政から酪農まで、何でも取材。明るい性格で周囲に支えられた》

     その後、東京、大阪両本社で学芸部記者として活躍した。《大阪にいた時に震災が発生。希望して再び岩手に赴任したが、現地で痛感したのは深刻な人手不足だった。報道だけでは、すぐに解決できない。ならば「自ら復興の担い手になろう」と2014年に退社し、釜石に移住した》

     3月12日付朝日新聞「ひと」欄は、こう紹介している。

     釜石では復興支援員組織「釜援隊」の一員になった。鵜住居(うのすまい)地区にある「釜石地方森林組合」に派遣された。

     鵜住居といえば、ラグビーW杯の会場となった「釜石鵜住居復興スタジアム」が有名だが、手塚さんが震災の1か月半後に鵜住居を訪れた時は、壁に赤いスプレーで「○」「×」と描かれた廃墟のような建物が並んでいたという。

     肩書は「岩手移住計画」代表。HPによると、岩手移住計画は、岩手にUターン・Iターンした人たちの暮らしをもっと楽しくするお手伝いをし、定住につなげていくために活動している任意団体とある。

     ことし2月には釜石市から「移住コーディネーター」に委嘱された。

     さいたま市出身で、2年前、同じく移住してきた男性と結婚した。

     「ひと」欄は、最後にこうまとめている。《震災から9年。復興関連の工事は終わりに近づき、岩手を離れるボランティアも少なくない。「だからこそ、地域の農林水産業を今後どう盛り上げるかが大事。そのためにも生産者の思いを発信し、首都圏の消費者とつないでいきたい」。記者として育ててもらった岩手の地から、これからも発信を続けていく》

     手塚さんは、何故13年余で毎日新聞の記者を辞めて、被災地に移住したのか。

     手塚さんの5年後輩で、毎日新聞記者を10年余で辞め、現在ノンフィクションライターとして活躍している石戸諭さん(35歳)が雑誌「群像」2020年4月号に書いている。

     《違和感――。震災以降、新聞で物事を伝えていくということにつきまとう、どうしようもない「他人事」感に嫌気がさしてしまったのだ》

     《違和感ばかりが強まっていった私は、より自由に伝えられるニュース文体を求めてインターネットメディアに移籍し――それでも飽き足らなくなり、今に至る――、手塚は手塚でより現場に接近する場を求めていった。私も彼女も震災が人生の分岐点になったわけだが、そんな人は決して珍しくはないだろう》

     石戸さんは2006年入社、岡山支局、大阪社会部、デジタル報道センターを経て、2016年1月にBuzzFeed Japanに移籍した。2018年からノンフィクションライター。ニューズウィーク日本版に「百田尚樹現象」を書いたことはこの毎友会HPでも紹介した。

     インキュベーター(孵卵器)を思い浮かべる。毎日新聞に入社して、新聞記者の訓練を受け、独立して巣立っていく。「ヤメ毎」が増殖している。

    (堤  哲)

    2020年3月4日

    歴史は繰り返えされる スペイン風邪から100年

     東京オリンピックの1964年入社、元社会部中安宏規さんが「濁水かわら版」94号で100年前のスペイン風邪を特集している。
     博学中安さんの警句を聞いて下さい。

    (堤  哲)

    2020年3月1日

    世界を巡る阿部菜穂子「サクラ大使」

    イタリア語版
    ドイツ語版
    アメリカ・ペーパーバック版
    イギリス・ペーパーバック版
    イギリス版
    日本語版(2016年3月岩波書店刊)

     ロンドン在住の元毎日新聞記者阿部菜穂子さん(81年入社、社会部、政治部、外信部に在籍)著『チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人』(2016年3月岩波書店刊)が英米に続いてことし3月にイタリア、ドイツ、オランダで次々に出版される。スペイン語とポーランド語が今秋、さらに中国語への翻訳も進行中だ。

     阿部さん、というより菜穂子さんは、イタリア語版の出版に合わせて、フィレンツェで開かれるブックフェアで講演会を開く予定だったが、北イタリアでのコロナウィルスの感染騒動で延期された。

     しかし、オランダ語版の宣伝イベントは予定通りで、3月下旬にアムステルダムへ。そのあと米国ワシントンへ飛ぶ。4月12日まで開催のポトマック河畔「桜祭り」に参加する。

     「各州の桜女王が集まったパーティだとかパレード、和太鼓などの野外演奏などが大々的に行われるのですが、オープニングでスピ―チを頼まれています」

     さらに「英国でも3-5月は桜フェスティバルや桜の植樹セレモニーなどが多数あり、いくつか呼ばれています。なんだか本の反響が予想以上に大きくて、まるで「チェリー・ブロッサム大使」にでもなったかのようで、びっくりしています。桜の季節が終われば落ち着くと思うのですが……」とメールで伝えてきた。

     『チェリー・イングラム』は、2016年の第64回日本エッセイストクラブ賞に選ばれた。菜穂子さんは、英国版の出版に3年掛けて再取材して、全面的に書き直した。

     桜の本家・日本では江戸時代には250種もの栽培品種が生まれたが、明治維新で荒廃。もっぱらソメイヨシノが植樹された。

     《大戦中に「散る桜」が軍部によって強調され、神風特攻隊員らが側面に桜の花の描かれた特攻機で「桜のように散る」ことを強要された事実は、西欧社会ではまったく知られておらず、特別に興味を持たれた》と菜穂子さんはいう。(日本英語交流連盟のサイトhttps://www.esuj.gr.jp/jitow/586_index_detail.php#japaneseより)

     「日本の桜を救ったイギリス人」コリングウッド・イングラム(1880-1981)は、訪日した際に多種多様な桜を持ち帰った。英国ケント州・ベネンドン村のイングラム邸の庭園では130種類もの桜が咲き誇る。

     このイングラムの桜園から、日本で絶滅した白い大輪の花をつける「太白」(たいはく)が、里帰りしている。

     《1920年代後半の日本に、「多様性を大切に」と警告を出したイングラム。100年近くも前のそのメッセージは、現代でも十分に重みをもつ。多様な桜を大切にする社会は、住人たちの異なるものの見方も尊重するであろう。社会がいつの間にか偏狭なナショナリズムに覆われてしまわないように、イングラムのメッセージをもう一度、しっかりと受け止める必要があるように思う》と、菜穂子さんは訴えている(同上の日本英語交流連盟サイトより)。

     菜穂子さんのHPは www.naokoabe.com

    (堤  哲)

    2020年2月25日

    大流行する「不都合な真実」

    (中安 宏規)

    2020年2月8日

    オレは金メダリスト?

     渋谷区役所15階で開かれている東京オリンピック・パラリンピック展会場に、毎日新聞の特別号外パネルがあった。

     真ん中がくり抜かれていて、そこから体を出して、ガッツポーズ!

     「オレは金メダリスト」の記念撮影が出来る仕掛けである。

     写真は、たまたま見物に訪れたサラリーマンにモデルをお願いした。HPにアップすることも了承してくれた。

     「世界は一つ 東京オリンピック」は、56年前の1964年に毎日新聞社が募集して採用したキャッチフレーズだが、今回も使用されるのか。

     会場では、毎日新聞主催で「東京1964パラリンピック写真展」(2月28日まで)も行われている。

     ぜひ足を運んでください!

    (堤  哲)

    写真展から

    選手と握手をする皇太子殿下と美智子妃殿下(現上皇・上皇后両陛下)
    選手宣誓をする青野繁夫選手
    パラリンピック開幕を伝える毎日新聞1964年11月8日(日曜日)付夕刊
    (日曜日に夕刊を発行していたのだ!)
     

    2020年2月7日

    黒岩涙香と「早慶戦全記録」

     慶應義塾が発行する「三田評論」2月号に、拙著『早慶戦全記録』の書評が載った。筆者は三田体育会副会長、柔道部OBの對馬好一氏。元産経新聞の記者である。

     「とにかくすごい本だ」「学生スポーツ史の貴重な資料といえる」などと褒めていただいたのだが、巻頭随筆「丘の上」に、同期入社で初任地長野支局に一緒に赴任した黒岩徹氏の二男亜純クン(TBSモスクワ支局長)が書いているではないか。

     「新聞界の風雲児 曾祖父、黒岩涙香」

     こんな偶然があるのか。読んでみてください。

    (堤  哲)

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    2020年2月6日

    幻の名著『野球博覧』に光!

     整理の鬼才諸岡達一氏らが精魂を込めて2014年に自費出版した『Baseball Tencyclopedia野球博覧』(A5判、本文415ページ)が、5日付け東京スポーツ紙で紹介された。

     元NTVアナウンサー越智正典さん(91歳)の連載コラム「ネット裏」。山口俊投手がブルージェイズ、筒香嘉智外野手がレイズ、秋山翔吾外野手がレッズへと大リーグに移籍したが、越智さんはその3球団の紹介を「野球博覧」の「大リーグのニックネーム その由来の考察」松崎仁紀(03年紙面審査副委員長で退職→東日印刷)から引用、同時に『野球博覧』を紹介している。

    画像をクリックするとPDFが表示されます

     越智さんといえば読売ジャイアンツ。1974(昭和48)年10月14日の長嶋茂雄の現役引退試合(対中日戦、後楽園球場)では、試合後の共同記者会見を担当した。運動部長を最後に1975年退社。その後、野球評論家・スポーツライターとして、今なお活躍中だ。

     経歴を調べたら早大政経学部を卒業して、1951(昭和26)年NHKへ入局。NTV開局に伴い54年に移籍、以来スポーツ中継の実況アナウンサー、とりわけジャイアンツの中継で名高い。

        ◇

     ここで『野球博覧』をもう少し宣伝したい。毎日新聞の野球好きの論説委員・編集委員らが結成した草野球チームが「大東京竹橋野球団」。1983(昭和58)年創設で、結成30年を迎え、選手も高齢化したことから記念誌を発行して解散を決議した。

     で、「野球文化學會」を創設した諸岡達一さんが実質的な編集委員長となって、2014年2月3日に発行、同日、毎日新聞社内の毎日ホールで「創設30周年」の記念パーティーを開いた。

     今その記念写真を見ると、慶應義塾大学名誉教授の池井優、同野球部63(昭和38)年度キャプテンの西岡浩史、松竹ロビンスオーナー家の三代目田村駒治郎らの来賓、元スポニチ社長・会長の牧内節男、同森浩一さんら、往年の名?迷プレーヤーが笑顔で収まっている。

     鬼籍に入った人も少なくなく堀井淳夫、四方洋、「不動の一塁手」原田三朗、球団歌を作詞した尾崎三千生、影山信輝、主務を長く務めた堀一郎。

     パーティーの最後まで残った68人が写っているが、サントリー、東京ガス、損保ジャパン(旧安田火災)とお相手をしてくれたチームの選手らもいる。

     『Baseball Tencyclopedia 野球博覧』は、非売品としていたが、実際は頒価@1千円で希望者にお分けした。その後、残部を野球ブックフェアにも出品した。

     その際の内容紹介は以下だ。

     ①謎多きベースボールの起源をまったく新たに解明した米書(Baseball in the Gardenof Eden=2011年刊行)を本邦初翻訳して9人9イニング90フィートに至る細部経緯を分析した。

     ②明治20年代における本格野球報道の嚆矢とした新聞紙面の筆者と記事詳解。

     ③大正9年~昭和4年、日本中はおろか渡米して野球を探求・実施してファンを沸かせた「大毎野球団」はプロ同然だった真実。

     ④日本職業野球揺籃期から戦後にかけて球趣を躍動させた数奇な人物伝。

     ⑤セ・パ2リーグ制を確立させた昭和24年野球界の仔細なインサイドストーリー。

     ⑥終戦直後の野球少年民主主義社会において、焼跡三角ベースで育った熟年草野球メンバーが独断と偏見に満ち満ちて身勝手に綴った利己主義的……近代文化史に通じる野球書。

     ごく僅かですが残部があります。希望者に@1.000円でお譲りします。

     申し込みは堤哲まで。tsukiisland@gmail.com

    (堤  哲)

    2020年1月8日

    種村直樹コレクションが鉄道工学ギャラリーに誕生

     東京豊洲の芝浦工大附属中学高等学校にある「しばうら鉄道工学ギャラリー」に、レイルウェイ・ライター故種村直樹さん(2014年11月6日没、78歳)のコレクションコーナーが新設され、2020年1月7日にオープンした。

     種さんは、1959(昭和34)年入社。高松支局→大阪本社社会部→中部本社報道部。ここで国鉄名古屋鉄道管理局の記者クラブに配属になったのが鉄道記者の始めだった。その後、東京本社社会部で国鉄本社の「ときわクラブ」担当となり、72(昭和47)年の国鉄100年のときは、1人で特集記事を書いた。

     社会部内の配置替えで国鉄ときわクラブを外されると、会社の無定見な人事異動に怒って退社、レイルウェイ・ライターとして独立した。73(昭和48)年だった。

     種村コレクションの同ギャラリーHPにある紹介文——鉄道旅行のノウハウをまとめた「鉄道旅行術」をはじめ、気が向くままに汽車旅を楽しむ「気まぐれ列車」シリーズ、日本の沿岸を反時計周りに旅する「日本列車外周の旅」シリーズ、また東京駅と共に歩んだ80年を鉄道史の観点から描いた「東京ステーションホテル物語」などの著作がある。主な所蔵品として、事務所デスク周辺の執筆アイテム、赤字で修正コメントの入った自著などがある。

     右下の写真は郵便貯金通帳である。『旅のついでに3334局 日本縦断「郵便貯金」の旅』(徳間書店1995年刊)、『ただいま3877局 気まぐれ郵便貯金の旅』(自由国民社1997年刊)の著作もある。

     旅先の郵便局に寄って「貯金の旅」も楽しんでいたのだ。

     「しばうら鉄道工学ギャラリー」は、芝浦工大附属中学高等学校が2017年4月に豊洲に校舎が新築されたのに伴い、校舎内に設置された。

     同校の前身は、1922(大正11)年に丸の内に開校した「東京鉄道中学」。その年は日本に鉄道が開通して50年。それを記念して貧乏で中学校へ行けなかった鉄道職員に「中学程度の基礎教育を」という考えで生まれた。

     発案者は、当時鉄道省経理局会計課長だった十河信二だ。のちの国鉄総裁、東海道新幹線の生みの親である。全国各地に「鉄道中学」を設置する計画だったが、実現したのは東京だけだった。

     鉄道50年記念事業で鉄道博物館(のちの交通博物館)も新設されたが、余談ながらこの50周年記念式典の10日後に第1回全国鉄野球大会が芝浦で開かれている。札幌、仙台、東京、名古屋、神戸、門司の6鉄道局チームで争い、門鉄が優勝した。都市対抗野球大会が始まったのは、1927(昭和2)年だから、国鉄大会は5年も早い。

     ギャラリーには、同校の鉄道研究部が製作したジオラマが設置されている。模型を持参すれば、走らせることもできるという。

     窓際には、列車の座席が5列ほど。脇のレールにはターンテーブル。書架の向きを簡単に変えられるのだという。

     個人のコレクションでは、元国鉄マンの星晃、関長臣、元交通博物館の岸由一郎、鉄道切符コレクターの築島裕など。

     入場無料。開館は火曜日~土曜日の10時~12時半、13時半~16時。

     有楽町線豊洲駅から徒歩7分、ゆりかもめ新豊洲駅から徒歩1分。

     江東区豊洲6-2-7 ☏03・3520・8516

    (堤 哲)

    2020年1月1日

    台風15・19号の置手紙 じゃくきょうより生ず ハギビスの旅

    (中安 宏規)

    2019年12月23日

    報道写真展24日まで、三越日本橋本店です

     暮れ恒例の報道写真展が日本橋の三越本店で開かれている。

     まず新聞協会賞の大阪本社写真部、幾島健太郎記者の「台風21号 関空大打撃」(2枚組み写真)。

     天災もので10月12日、「台風19号が接近中に竜巻」。東京本社写真部手塚耕一郎記者の写真も迫力がある。

     4月19日東京池袋で当時87歳の運転者による暴走で母子らが死傷した事故現場写真。母子の乗った自転車が真っ二つだ。東京本社写真部・宮間俊樹記者の撮影。

     他にも「ブータンで笑顔の秋篠宮ご夫妻と悠仁さま」(小川昌宏)、「升席ソファで大相撲観戦」(手塚耕一郎)、「炉端焼きを楽しむ日米首脳」(藤井達也)、「日本競歩 世界の頂点に」(久保玲一)など毎日新聞写真部員の力作が展示されている。

    (堤  哲)

    2019年12月23日

    27日開幕、花園の高校ラグビーに注目!

     ラグビーW杯の影響か、27日から大阪・東大阪市花園ラグビー場で始まる「第99回全国高校ラグビー大会」のチケットの売れ行きが好調なのだという。

     この大会の主催者は毎日新聞社なのに、12月20日付朝日新聞夕刊に報じられた。

     その記事によると、12月1日に販売を始めた前売り券の売上枚数は、2週間で約3600枚。売り上げが過去最高だった前回大会の同時期に比べて約2倍増。チケットは全席自由席で一般1200円(高校生300円)。当日券も価格は同じで事前に買う「お得感」はないが、関西ラグビー協会の担当者は「W杯のチケットが買えない人が多かったこともあり、早めにチケットを確保しておこうという心理が働いているのではないか」とみている。

     そして《前回大会の総売上枚数は1万300枚ほど。今大会は2万枚は見込めそうだという。W杯でラグビーに興味を持った「にわかファン」が、例年以上の盛り上げにひと役買っている》と書いている。

     この大会の始まりは、1918(大正7)年。ラグビーのルーツ校慶応義塾の13(大正2)年度キャプテン杉本貞一氏(1892~1956)が、慶応の先輩で当時大阪毎日新聞社会部長だった奥村信太郎(のち社長、1875~1951)に大会開催を持ち掛けたところ、「費用は一切面倒をみるから」と奥村が答え、実現した。

     戦中・戦後3年間中断しているので、ことしが第99回。全国の予選を勝ち抜いた51校が「高校ラグビー日本一」を目指し、熱戦を繰り広げる。 組み合わせは、別表の通り。

     日程は、27日(金)午前10時半から開会式、正午から1回戦▽28日(土)1回戦▽30日(月)2回戦▽1月1日(水・祝)3回戦▽3日(金)準々決勝▽5日(日)準決勝。 優勝戦は、7日(火)午後2時キックオフだ。

    (堤 哲)

    2019年12月2日

    「縦横無尽」、朝日新聞の読書面

     11月30日の朝日新聞読書面を開いて、アッと驚いた。

     見開きページの右端、「ピカソの私生活 創作の秘密」(オリヴィエ・ヴィドマイエール・ピカソ著、岡村多佳夫訳、西村書店 4180円)の書評だけ横組みなのである。

     書評の書き出しにこうある。

     ——本書は作品や写真が多数掲載されているせいか本文は横組み。その延長で書評も横組み。ピカソのキュビズムは縦横斜め回転。女性遍歴もその作品も20世紀の様式をひとりで駆け抜けた。91年の生涯を万華鏡的様式とその変化に寄り添った7人の女性とピカソの物語。

     評者の横尾忠則氏の名前だけは、タテ書きだ。

     活版時代では、ちょっと考えられない試み。コンピューター編集は何でもありと思った。

    (堤 哲)

    2019年11月30日

    若者のための エナジー通信 追伸
    by Yasuaki Enari
    Vol.37 -2

     11月29日、元首相の中曽根康弘さんがお亡くなりになりました。101歳。大往生です。 戦後政治の総決算をスローガンに、国のリーダーとして様々な策を打ち出し実行してきました。国鉄、日本電信電話公社、日本専売公社を民営化させたことも大英断で、レーガン大統領との親密な日米外交も記憶に残っています。骨のある政治家でした。

     

     目の前で初めて中曽根さんを見たのは、1970年代後半だったと思います。群馬3区から立候補していた中曽根さんは地元・高崎市へ戻って選挙演説をしていました。駆け出し記者の私には名の通った人の演説が高尚に聞こえました。とにかく弁舌さわやかで、高所大所から政治を語り、幅広い見識を感じさせてくれました。当時は若手のホープでもあり、同じ選挙区だった福田赳夫・元首相とは一味違った魅力もありました。まだ、政治の奥深さもわからない私には中曽根さんの語る政策のことを理解するのは大変なことでしたが、言葉を大切に演説していたことだけは印象に残っています。

     

     演説後に歩きながら語った「政治家というのはね、国と国民のことを第一に考えて行動しなければいけない」ともらした一言も忘れられません。

     

     1982年に総理になってからは、自らの信念に基づいて政権を築いてきましたが、後藤田正晴氏を官房長官に据えたことも強みになりました。イラン・イラク戦争の時に、中曽根さんは海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣するつもりでした。ところが後藤田官房長官が反対し、「閣議でサインしない。辞任は覚悟している」とまで言い切りました。日米関係重視の中曽根さんにしてみれば耳の痛い話だったはずです。最終的には後藤田官房長官の圧力に押されて、掃海艇の派遣を断念したのです。いいブレーンを持てたことも、中曽根政権の信頼につながっていました。

     

    ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○

     

     それに比べて…に再び戻ってしまいました。信念もなく、実直さが物足りない安倍政権にはやはり、政治家としての「美」が感じられないのです。官房長官の真剣さのないまやかし的な発言も、イエスマンならではの内容です。

     

     かつてのような派閥がなくなり、与党内にも論客がいなくなりました。今の政治は、権力のある総理の思いのままです。空しさばかりが去来しています。

     中曽根さんの訃報を聞きながら、そんなことを考えさせられました。

     

    2019/11/30 江成康明

          

    (堤 哲)

     

    2019年11月5日

    台風15・19号の置手紙 天災は常時やってくる

     1964年東京五輪の年に入社、オリンピックではドイツ語の通訳として活躍した中安宏規さん(79歳)の「濁水かわら版」第91号。

     巻末に「3Pal」(良きにし悪しきにしろ3友人)のコラム。

     「3Pal」とは、左目緑内障・脊柱管狭窄症・ 1型糖尿病だ。「 3Pal=3 病息災の生活」を送りながらコラムを書き続けている現況だそうです。

    (堤  哲)

    2019年10月2日

    アスナビ・走り高跳び佐藤凌選手世界選手権出場

     東日印刷の「アスナビ」佐藤凌選手に応援を!

     と、この毎友会HPで訴えたのは、2019年6月27日だった。

     その佐藤選手がカタールのドーハで開かれている世界陸上選手権に出場していた。残念ながら2メートル26をクリア出来ずに予選落ちした。しかし、こえにめげずに「東京五輪を目指す」と決意を述べた、と10月2日付け毎日新聞夕刊に載っていた。

    男子走り高跳び予選で2メートル22をクリアする佐藤凌=カタール・ドーハで2019年10月1日、久保玲撮影

    以下、夕刊の記事を紹介したい。

     世界選手権に初めて挑んだ男子走り高跳びの佐藤凌(25)。日本オリンピック委員会(JOC)が実施している選手支援制度「アスナビ」で東日印刷(東京都江東区)に就職し、支援を受けながら、競技生活を続けている。今回は予選で敗退したが、来夏の東京五輪を見据え、「大舞台の雰囲気を確かめることができた」と充実の表情を浮かべた。

     佐藤は高揚感から助走のリズムが狂った。予選で最初の2メートル17は3回目でようやくクリア。次の2メートル22は2回目に跳んだが、2メートル26は3回とも失敗して全体22位で決勝進出を逃す。「楽しかった半面、悔しさがあった」と言う。

     新潟県長岡市出身。小学6年の時、地元クラブで陸上を始め、3カ月後に全国大会の走り高跳びで優勝を飾った。高校、大学でも全国大会で常にトップの座にいた。しかし、東海大4年だった2016年、リオデジャネイロ五輪に出場できず、競技を継続できる就職先を探すため、アスナビを利用することを決めた。

     アスナビは10年からスタートした制度で、就職を希望する選手と企業を仲介し、これまでに297人が職に就いた。佐藤も数社の中から、遠征費を全額補助するなど支援が手厚い東日印刷を選んだ。同社は1952年創業で初のスポーツ選手の採用ではあったが、佐藤裕正・人事部長(47)は「目力の強さを感じた。話も上手で引退後も会社の中枢になってくれる」と正社員での受け入れを決定した。

     17年春の入社直後、佐藤は海外遠征で踏み切り足の左足首を疲労骨折。大会では結果を残せず、週1回の出勤時に気まずさを感じていた。ところが、同僚から「無理しなくていい。本番は東京五輪」と言われ、気まずさは消えた。焦らずにリハビリにも取り組むことができた。故障が癒えた18年から調子を上げ、今年7月の大会で3年ぶりに自己ベストを更新する2メートル27をマーク。世界選手権の代表入りを果たした。

     シーズンオフには会社の近隣の学校での講演などを行うほか、出社の際は来客の対応もして「人生経験でプラスになっている」と感謝する佐藤。「(東京五輪に出場すれば)いろいろな方が応援しに来てくれる。いい結果を報告できるように頑張りたい」と誓った。

    (小林悠太)

    2019年9月17日

    濁水かわら版 90号:日本の戦争 25 中庵少尉の2つの戦争 完結編

    (中安 宏規)

    2019年9月9日

    1922(大正11)年「大毎」「東日」で松方コレクション展開催

     涼しくなってからと先週末、人気の松方コレクション展に行った。展示品に1922(大正11)年10月15~20日、大阪毎日新聞社の堂島新社屋3階で開かれた「松方幸次郎氏所蔵泰西名画展覧会」図録があった。

     97年前である。図録といっても、現在の色彩豊かなものにはほど遠いが、展示作品の作家は、ルノアール、ゴッホ、ゴーガン、セザンヌ、ミレー、レンブラント、ドラクロア、ドーミエ、クールベ、シスレー、ムンク……。松方がパリで購入した作品が神戸港に着き、その作品を展観したのだ。

     写真が、大毎の堂島新社屋。地下1階、地上5階、のべ12,200㎡。御影石を外壁に使った重厚な建物で、この3階が会場となった。

     この新社屋は、その年の3月に完成して、数々の落成事業を行った。サンデー毎日、英文毎日、点字毎日が創刊された。「泰西名画展」もそのひとつだったのであろう。

     社史を調べると、同じ3月に「社規として記者は和服を禁止し、洋服、社員章をつけさせる」とある。まだ和服が一般的で、洋服はハイカラだった時代である。

     11月には東京日日新聞の新館が完成、その記念事業として「泰西名画展」が開かれている。大阪から東京へ、松方コレクションが運ばれた。

     大毎はその11月に、「松方氏浮世絵版画展」を開いている。「泰西名画展」の第2弾である。

     さて、上野の西洋美術館で開かれている「松方コレクション展」(今月23日まで)。松方幸次郎(1866~1950)がヨーロッパで蒐集した作品約160点を展観している。

     HPによると、今回の見どころは——。
     ①オルセー美術館の至宝・ゴッホ《アルルの寝室》をはじめ、世界各地に散逸した松方旧蔵の名作が集結します。
     ②2016年にパリ・ルーヴル美術館で発見され、国立西洋美術館に寄贈されたことで大きな話題となったモネ《睡蓮、柳の反映》が現存部分の修復を経て、初めて公開されます。
     ③ロンドン、パリでの松方の蒐集の足取りをたどりつつ、散逸、焼失、接収…と苦難の歴史を歩んだコレクションの数奇な運命を明らかにします。

     入口のフロアに、モネ《睡蓮、柳の反映》の修復後が飾られ、会場の最後に上半分が失われた実際の作品が飾られている。

     是非、会場へ足を運んでください。

    (堤 哲)

    2019年9月1日

    生粋の銀座っ子・岸田劉生と毎日新聞の前身「東京日日新聞」

    麗子、麗子、麗子……

     没後90年記念「岸田劉生展」が東京駅丸の内北口にある東京ステーションギャラリーで開かれている(10月20日まで)。 「これまで数多くの岸田劉生展が開催されましたが、本展は初期から最晩年までの名品ばかりを厳選する、今後しばらく出会えないような、珠玉の劉生展を目指しました」とうたう。重要文化財《道路と土手と塀(切通之写生)》はむろん、名品の数々が展観され、麗子像だけでも30点近い。

     劉生は、岸田吟香(当時58歳)の第9子、4男として1891(明治24)年6月23日、東京・銀座で生まれた。銀座通りに面した目薬「精錡水」の「楽善堂薬房」で生まれ育った。

     生粋の銀座っ子である。

     1927(昭和2)年5月には、「東京日日新聞」夕刊1面に「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」と題し、関東大震災から復興した「大東京繁昌記」を連載している。

    1927(昭和2)年5月24日「東京日日新聞」夕刊1面の連載第1回。絵は劉生の実家「薬善堂」

     銀座は1972(明治5)年の大火で灰燼に帰した。不燃都市を目指し、銀座通りの両側に赤レンガの洋風建築が軒を連ねた。銀座通りの幅15間(27・3m)は、その時の都市計画による。

     「薬善堂」の隣には、浅草から引っ越してきた「東京日日新聞」日報社があった。銀座2丁目、現在名鉄メルサのあるところだ。

     吟香は、その「東京日日新聞」の初代主筆。福地桜痴が1874(明治7)年秋に入社して、主筆を譲り、編集長となった。

     吟香は1905(明治38)年に亡くなる。72歳だった。

     劉生は東京高等師範学校付属中学の3年生、14歳の誕生日を迎える直前だった。

     吟香の葬儀をきっかけに、劉生は数寄屋橋教会に通うようになり、洗礼を受ける。独学で水彩画を制作するなかで、画家への歩みを始める。

     あとは、展覧会会場で鑑賞してください。

     11月2日から山口県立美術館(~12月22日)、来年1月8日から名古屋市美術館(~3月1日)に巡回する。

     

    (堤   哲)

    2019年8月30日

    濁水かわら版 89号:日本の戦争 24 中庵少尉の太平洋戦争(下)

    (中安 宏規)

    2019年8月26日

    毎日新聞出版が分社4年で黒字化!

     ネットを検索していて、思わぬ情報に出くわした。

     これはマスコミ専門紙「文化通信」の7月22日号の1面である。

     黒川社長は、大阪社会部の出身だ。京大法卒、85年入社。私も出席した大阪社会部100年のパーティー(2001年11月8日)のときはデスクだった。

     12年大阪本社編集局次長から東京に異動して出版局長。出版局が毎日新聞出版社に分社化された15年4月1日に社長となった。

     その時の宣言文が残っている。少し長いけど引用したい。

     ――戦後70年の節目にあたる2015年4月、毎日新聞出版は誕生しました。

     創刊143年を迎え、我が国でもっとも伝統のある毎日新聞社の出版局が独立し、新生の出版社が船出したのです。

     私たちが掲げる理念は「100歳までの幸福の追求」です。
     「世界一の長寿国」に暮らす私たちは、もっと幸せになれるはずです。
     幸福を享受する権利を有しているはずです。
     ところが現実はどうでしょう。胸痛むニュースが世の中を覆っています。
     100年 幸せに生きよう
     100年 未来を楽しもう
     そのためのエネルギーを詰め込んだ1冊の書籍や雑誌。
     私たちが全身全霊を打ち込んで世に問うのは、このような出版物です。
     読むたびに 心豊かに
     読むたびに 精気満ちあふれ
     読むたびに 知恵湧き出づる
     生涯にわたって真の友となるような、そんな出版物を1冊でも多く、読者の皆さまにお届けしたい。
     出版界はいま、かつてない激動の時代を迎えています。
     きのうまでの常識は、未来には通用しません。
     時代の風を敏感に嗅ぎ取り、出版社自らが変化する。
     送り手目線ではなく、受け手である読者が真に求める価値を提供する。
     そこに私たち毎日新聞出版が存立する基盤があると確信します。
     旧来の陋(ろう)習を破り、大胆なイノベーションを通じて、新たなる出版文化の創造に挑戦することを、ここに宣言します。

     2015年4月1日

    代表取締役社長 黒川昭良

     出版文化の可能性を信じたい。

    (堤  哲)

    2019年8月22日

    濁水かわら版 88号:日本の戦争 23 中庵少尉の太平洋戦争

    46.2歳で応召入隊した中安宏規の父親

    (中安 宏規)

    2019年8月5日

    クリッピングサービスの「内外切抜通信社」が元気だ

     元社会部の近藤義昭社長(77歳)によると、世界で最初の新聞切抜会社がパリで生まれたのが、今からちょうと140年前。1879年(明治12年)のことだ。

     日本では、それから11年後の1890年(明治23年)3月1日に「日本諸新聞切抜通信」が発足した。

     「一に時勢を知り二に自己の名誉信用を維持する、此社会に業を営む人々の須更も怠る可からざる所ならん、時勢を知ると信用を維持するの機関、即ち新聞紙にして一日新聞紙を讀ざれば一日の時勢に後れ、又一たび新聞紙に我名誉を損するの記事を載らるれば直に夫だけの信用を失ふ、故に新聞紙を閲読するは何人も必要とする所なり。(中略)切抜の通信に拠りて必要の事件を知り、時勢に遅れざるを得、又自己の信用を維持するを得る」

     これが設立趣意書である。近藤社長は、この3月1日を「切抜の日」と制定して、クリッピングサービスの重要性をPRしている。

     内外切抜通信社(本社:新宿区大久保、毎日新聞社早稲田別館)の創業は、80年前の1939(昭和14)年。周年事業の一環として、毎日新聞WEB版に企業紹介の記事広告を掲載している。

     人間国宝に内定した講談の神田松鯉師匠が見学する設定だ。https://mainichi.jp/sp/shori-kirinuki/report_01.html

     内外切抜通信社は、毎日新聞グループ会社のひとつである。

    (堤  哲)

    2019年7月20日

    濁水かわら版 87号:第25回(19年)参院選挙

    (中安 宏規)

    2019年7月25日

    「くりくり」シンボルマーク

     くりくり少年野球の開会式の写真を見て、びっくりだ。

     赤塚不二夫さんがつくったシンボルマークが、大会旗になって、入場行進に使われていたからだ。

    7月22日メットライフドームで

     毎日新聞が「くりくり」が創刊したのは、1977(昭和52)年5月28日。タブロイド判、16p。題字のうえにTeen’s Space, Go Go Go!!とうたい、左わきにタテに太字で「創刊号だッ」

     整理の鬼才諸岡達一(現在83歳、元気だ!)のレイアウトである。

     紙面の真ん中に、天才バガボンのパパが「赤塚不二夫がシンボルマークは作りますのだ!!」のイラストメッセージ。

     それからしばらくして完成したのが、上の写真にあるデカメである。お尻からガスが出ている。色はついていなかった。のちの編集部で彩色したのであろう。

    「くりくり」創刊号(1977年5月28日付)

     編集後記に編集部員のひとことが載っている。掲載順に安藤守人、有馬寧雄、河内孝、堤哲、三井順治、岩崎守男、前田佳一、小邦宏治、降幡金三郎、杉川誠一、諸岡達一。編集長・堀井敦夫。

     今から42年前です。

     シンボルマークの制作者・赤塚不二夫先生も喜んでおられると思います。

     そういえば私の結婚披露の会費制パーティーの写真に、くりくりTシャツを着て、参会者にお礼の挨拶をしている写真があったなぁ。

    (堤  哲)

    2019年7月23日

    京アニ事件の世界的反響を取り上げた半田コラム

     元英文毎日、元社会部記者の半田一麿さん(この27日で84歳)は、毎日時事コラム『today's joke』を仲間にメール送りしている。届くのは毎朝午前5時前。もう何年も続けている。ボケ防止のためという。

     以下は、半田コラムである。

    (堤  哲)

    7月21日 日曜日の『today's joke』——。

    京都アニメーションスタジオ放火事件に
          哀悼の意を表明する動きが世界的に広がる

    'Too painful': Kyoto anime fans join prime ministers in...

    京都アニメーションのスタジオ火災をめぐり、カナダのジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相(47)は19日、自身のツイッター上に、→「カナダ国民は、京都の放火事件の犠牲者の遺族に最も深い哀悼の意を表する」と書き込みました。日本国民に向けても「私たちはあなた方とともに、このような痛ましい犠牲について悲しんでいます」とのメッセージを送りました。

    The Guardian紙は→ 'Too painful': Kyoto anime fans join prime Ministers in mourning fire victims「余りにも悲しすぎる:京都のアニメファンに首相たちも仲間入りして、犠牲者に哀悼の意を捧げる」と報じました。

    トルドー首相の他、台湾の蔡英文(Tsai Ing-wen)総統も日本文の追悼メッセージを送り、アップルのティム・クック(Tim Cook)CEOも犠牲者とその家族に追悼メッセージを送っています。蔡総統は11日からカリブ海諸国を歴訪中で、ツイッターでは、→「京都アニメーションは台湾の多くの人にとって、青春の思い出でもあります」とも言及しました。蔡総統の投稿は19日午前11時50分現在、3万回以上リツイート(retweet)され、賛同を示す”いいね”は既に7万5000件以上に上っているのです。

    犠牲となった人々への深い悲しみと怒りはアニメの世界を超えて広がりつつあるのです。

    2019年7月20日

    濁水かわら版 86号:日本の総理大臣(3)

    (中安 宏規)

    2019年7月13日

    都市対抗野球は90回の記念大会です。是非!観戦・応援に行ってください!!

    選手宣誓をする大阪市・大阪ガスの峰下智弘主将

     第90回を迎えた都市対抗野球大会が7月13日、東京ドームで開幕した。

     参加36チーム。最多出場は大阪市の日本生命で60回。初出場が岡山市のシティライト岡山と、宮崎市の宮崎梅田学園。決勝は7月25日午後6時からだ。

     毎日新聞社と共催の日本野球連盟(JABA)が設立70周年。大会と連盟の双方が節目を迎えるに当たり、社会人野球の歌「我街(われら)の誇り」が作られた。

     作詞は作家の伊集院静さん。作曲は数多くのヒット曲を手掛けた林哲司さん。

     開会式で藤原歌劇団の男性歌手5人が力強く歌い上げた。

     大会期間中、東京ドームにある野球殿堂博物館で「都市対抗野球90回のあゆみ」展を開催している。こちらにも足を運んでください。

    初代黒獅子旗(手前)と2代目黒獅子旗

    (堤  哲)

    2019年7月11日

    濁水かわら版 85号:日本の総理大臣(2)

    (中安 宏規)

    2019年6月28日

    あとわずかで閉幕、Bunkamuraザ・ミュージアム「印象派への旅 海運王の夢」

     渋谷Bunkamuraザ・ミュージアム「印象派への旅 海運王の夢 バレル・コレクション」展へ行った。今月30日までだから滑り込みセーフだ。 実は、あまり期待していなかったのだが、バレル・コレクションのスゴサに圧倒された。

    グラスゴー市のバレル・コレクション

     グラスゴーの海運王ウィリアム・バレル(1861~1958)が集めた作品で、美術館の改修工事に伴い、作品が海外に持ち出された。2020年に再開する。

    写真撮影可能なクールベの美人画

     もうひとつ。展観の最後に「写真撮影可能」があった。日本の美術展では、珍しいのではないだろうか。

     あと何日もありません。駆け込んでください。

     最後に美術展のHPの案内をコピペします。

     ―—産業革命期に英国随一の海港都市として栄えたスコットランド・グラスゴー出身のウィリアム・バレルは、若くして家業の海運業を手伝い始めた後、船舶の売買で大成功し「海運王」と称されました。

     少年の頃から美術品に関心を持っていたバレルは、1890年代から1920年代にかけて主に画商アレクサンダー・リードから作品を購入し、ペプローやメルヴィルなどスコットランドの画家をはじめ、クロホールなど特にグラスゴーで活躍した画家の作品を好んで集め、徐々にフランス絵画にも興味を抱くようになりました。同時に古今東西の美術工芸品の収集にも意欲を燃やしました。

     1944年、バレルはコレクションのうち何千点もの作品をグラスゴー市に寄付し、それが美術館「バレル・コレクション」となりました。美術館建設に関しての条件は大きく二つ、「大気汚染の影響が少ない郊外に作品を展示すること」「国外に持ち出さないこと」でした。厳しい条件の中、本展は本国のバレル・コレクション改装に伴い、奇跡的に実現した展覧会。9,000点以上にも及ぶ同コレクションの中から西洋近代絵画を中心に、計80点の作品をご紹介します。英国でしか見ることのできなかった海運王の世界屈指の夢のコレクションを、渋谷でご堪能ください!

    (堤  哲)

    2019年6月27日

    岩尾光代さんがNHKテレビ「日本人のおなまえっ!」に出演

     元「サンデー毎日」の歴史研究家、岩尾光代さんがNHKテレビ「日本人のおなまえっ!」に出演します。
     27日(木)午後7時57分からの放送で、テーマは「選挙のおなまえ」。再放送は6月29日(土)午前10時05分です。
     取材時に岩尾さんは骨折のためリハビリ中で、車椅子での出演となります。

    https://www4.nhk.or.jp/onamae/x/2019-06-27/21/32808/2291086/

    (高尾 義彦)

    2019年6月17日

    濁水かわら版 84号:日本の総理大臣

    (中安 宏規)

    2019年6月8日

    司法記者高尾義彦氏のエッセイが日本記者クラブ会報に

     日本記者クラブ会報6月号「書いた話 書かなかった話」に、元社会部司法担当高尾義彦氏のエッセイが掲載されました。

     会報の20、21ページを見て下さい。

    https://s3-us-west-2.amazonaws.com/jnpc-prd-public-oregon/files/2019/06/d5d4173c-94fd-4273-85db-7d55fff8ae7e.pdf

    (堤  哲)

    2019年6月1日

    クリムト展が6月19日(水)は無料で鑑賞できます!

    女の三世代
    ユディトI

     クリムトと 上野の緑 癒しの日 河彦

     東京都美術館は毎月第三水曜日は65歳以上入場無料のシルバーデー。混み具合も危惧したほどではなく、「クリムト展」を鑑賞した。金箔や銀色なども多用して装飾的な作品が楽しい。上野公園は新緑が一番美しい季節で、作品と緑と、両方に癒された一日だった。

     これは当毎友会運営委員の高尾義彦氏の俳句とエッセイ ツイッター俳句「無償の愛をつぶやく」(2019年5月15日)だが、クリムト展の今月の無料鑑賞日は、6月19日。65歳以上は運転免許証・健康保険証などを持っていけばOKです。

     是非!ぜひ!行ってみてください。

     昨年5月、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館で、この《ユディトⅠ》を鑑賞してきました。私の撮った写真を添付します。

     クリムトとエゴン・シーレの作品は、ウィーンのどの美術館にもある感じです。一度ウィーンも訪ねてください。世界の安全な街ランキングのトップがウィーンです。

    接吻

     ついでに、私が撮影した《接吻》もアップします。

    (堤  哲)

    2019年5月30日

    [続報]あの写真を撮ったのは「吉川秀子さん」

     

     先日、トピック欄に投稿した拙稿で、「この写真を撮った英文毎日の記者は誰?」と書いたところ、堤哲さんが英文毎日OBに問い合わせてくれた。さっそく半田一麿さんと鑑江龍一さんから「吉川秀子さんではないか」との情報が寄せられた。 

     吉川さんはすでに亡くなられており、ご本人から確認することはできなかった。元英文記者に東京オリンピック当時の英文毎日の記録を調べてもらったが、分からなかった。半田さんと鑑江さんによると、当時の英文毎日には女性記者が2人おり、そのうちの一人で精力的に写真を撮って活動していたのが吉川秀子さんだったという。

     そこで、朝日の記事の筆者を通じて美談の主の米山葵さん(73)=当時大学1年生=に吉川さんの名前を明示して確認してもらったが、「素敵な女性だったことしか覚えていません」とのことだった。

     残念ながら決定的な「証拠」は見つからなかったけれど、朝日掲載の写真は「吉川さん撮影」と見ていいのではないか、というのが私の結論だ。カメラを担いだ吉川さんの姿を社内で見かけた記憶がかすかにある。半世紀以上も昔のこと。まさに往時茫々である。皆さんのご協力に改めて感謝申し上げたい。

    (天野 勝文)

    2019年5月21日

    朝日が報じた「東京五輪美談」その後

     

     この写真を撮った英文毎日の女性記者は誰?

     5月18日付朝日新聞夕刊最終面の「東京五輪物語」を読んだ。こんな話だ。

     1964年の東京オリンピック開催中、ある女子大生が友人と2人、競技時間外で自由に入れた東京体育館(体操などの会場)をふらっとのぞいた。観客席で二つ折りの財布を見つ けた。チェコスロバキア(当時)の選手のものと見当をつけて大使館へ。後日、毎日新聞社の英字紙の女性記者から「財布の持ち主がお礼を言いたいそうです」と電話。監督と通 訳、仲介役の記者を伴って、女子大生宅を訪ねてきた。長身で、涼しげな笑顔が美しい青年が、ボート男子・エイトで銅メダルに輝いたルンダーク選手だった。「選手村に行って みたい」と伝えると、招待してくれた。女子体操で3つの金メダルを獲得した同国のチャスラフスカ選手にも会わせてくれた。

     お礼に訪れたルンダーク選手を囲む写真が夕刊に大きく載っている。英文毎日の女性記者が撮った思い出の記念写真。記事の筆者・伊木緑記者は筑波大学OGで、たまたま知り合 いだった。話題の主・かつての女子大生、米山葵さん(73)に女性記者の名前を聞いてもらった。残念ながら記憶は薄れていた。「それなりに中堅の記者だった。新聞記事も送っ てもらったように記憶しているが、見当たらない。ぜひ、どなたかに行き当たるといいのですが…」と話しているという。

     55年前のこと。英文毎日関係者でこの記者をご存知の人はいないだろうか。朝日の記事がネタだが、「ちょっといい話」ではないかと思い、紹介した。

    (天野 勝文)

    2019年5月12日

    元写真部長中西浩さんの撮影写真から「ひばりヶ丘55年」

     5月12日日曜日付け東京版に、元東京本社写真部長・中西浩さん(88歳)が現役の写真部員だった時に撮影した西武池袋線ひばりヶ丘駅周辺の航空写真が、現在の写真と比較して掲載された。

     東京五輪の1964年は、駅周辺に畑が広がっていた。79年撮影ではほぼ住宅で埋め尽くされ、それが現在は高層のタワーマンションが目立つ。東京郊外のスプロール化現象の典型である。

     原稿の筆者は、元写真部の黒川将光記者。

    (堤  哲)

    2019年5月6日

    濁水かわら版臨時号 天皇定年制&女性天皇の道!!

    (中安 宏規)

    2019年5月5日

    蘇った小林弘忠絶筆の『満州開拓団の真実』

    テレビ朝日「やすらぎの刻」の画面から

     小林弘忠著『満州開拓団の真実』(七つ森書館)は、長野県下高井郡の出身者で構成された「高社郷開拓団」の集団自決事件に焦点を当て、正しい情報を与えられず、美名の下に入植した人々の悲劇を通じて満蒙開拓という「国策」の罪を改めて浮き彫りにする。

     著者は元毎日新聞社会部記者。定年退職後『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』(毎日新聞社)で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。小林さんは校正作業を済ませた7月半ば、刊行を待たずに80歳で病没したため、本書が絶筆となった。

    ――これは、毎日新聞2017年9月28日夕刊に掲載された記事だが、テレビ朝日で月~金曜日に放映されている倉本聰脚本の「やすらぎの刻」で、この絶筆本が映し出された。

     ドラマで石坂浩二が演じる脚本作家が、満州開拓団のことを書くための資料に使っているという想定の場面だった。

     コバチュウさん、遺作が活かされていますよ!

     コバチュウさんとは社会部のサツ回りでほんの一時期一緒だったが、原稿を書くのが早かった。筆力があった。著作は20冊を超えているか。とにかく良く調べている。『新聞報道と顔写真―写真のウソとマコト』(中公新書)は調査部長の経験が生かされた。

     怒った顔を見たことがない。人格円満な先輩記者であった。

    (堤   哲)

    2019年5月1日

    きょうから令和元年

    有楽町駅のホームから
    神宮球場のポスター

     除夜の鐘つきたいような4月末

     朝日新聞の「朝日川柳」にあった☆付きの句。

     街はお祭り騒ぎ?

    (堤 哲)

     

    2019年4月19日

    濁水かわら版臨時号 バブル化する偽りの一体感

    (中安 宏規)

    2019年4月13日

    藤田恭平さんの追悼記事が朝日新聞に

    掲載された家族提供の写真

     朝日新聞4月13日夕刊「惜別」欄に、「市民の手で」開校運動35年、の見出しで。

     ――千葉県松戸市の公立夜間中学「市立第一中学校みらい分校」が4月16日、初めての入学式を迎える。その開設運動を35年以上にわたり続けてきた「松戸市に夜間中学校をつくる市民の会」の初代代表を務めた。「憲法で保障された教育を受ける権利を市民の手で守る」が口癖だった。

     これが書き出し。毎日新聞を退社したあと、1983年4月に代表となり、塾形式の「松戸自主夜間中学校」を開講した。

     「市民運動の堕落は金にある」と言い、公的助成はいっさい受けなかった。資金繰りはバザーや祭りにたこ焼き店を出して捻出。2012年に代表を退いた後も欠かさず参加して支えた。これまで学んだ生徒は約2千人にのぼる、とある。

     ――趣味は野菜作り。畑で収穫した大根やジャガイモをきれいに洗い、知人や近所に配った。「きまじめで、やることが徹底していた」と長女まゆみさん(64)。「配り役の母は『相手が逆に気を使うから』と嫌がっていましたが……」と振り返る。

     ――両切りたばこのピースをくゆらし、ウイスキーならボトル半分をあけることもあった。90歳を超えてなお、新聞に丁寧に目を通し、大好きな歴史物の本を朝方まで読んだ。

     藤田恭平さんは、3月12日逝去、92歳だった。

     記事に、1月21日90歳で亡くなった妻治永子(ちえこ)さんの後を追うように旅立った、とあった。

    (堤  哲)

    2019年4月2日

    濁水かわら版臨時号 新元号「令和」の歴心を読む

    (中安 宏規)

    2019年3月17日

    荒俣宏「毎日コレ検索」最終回は「あっぱれ広告」

     毎月第3土曜に掲載された「荒俣宏の毎日コレ検索」が3月9日朝刊で終了した。3年続いた連載の最終回は、毎日新聞が新聞協会賞を3年連続で受賞したことに、朝日新聞・共同通信・時事通信3社の編集局長名で本紙に掲載された「あっぱれ広告」(1981年10月15日付朝刊)だった。

     広告のコピーを全文紹介すると――。

     毎日新聞読者のみなさまへ 毎日新聞東京本社上田健一さまへ

    「敵ながらあっぱれ。おめでとう毎日新聞さん!」

    このたび、
    われ等がフレンドリーライバル、毎日新聞さんが、何と三年連続、
    栄えある新聞協会賞を受賞されました(編集・ニュース部門)。
    まずは、おめでとうございます。
    ことに、この何年かの、
    あの苦難の時期に――、
    立派なものです。
    でも、世はテレビ時代。
    何を今さら新聞協会賞などと、
    お考えの方も居られるかも知れません。
    しかし、」あの衝撃的なスクープ(ライシャワー元駐日大使の核持込み発言)。
    それは、ひとり毎日新聞諸兄姉の栄誉であるばかりか、
    われ等全新聞人の栄誉でもあると、
    私たちには思えてなりません。
    ここに、心からなる畏敬と友情のエールを送ります。
    おめでとう。

     3年連続とは、

    1979年度「埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣から『ワカタケル雄略天皇』の銘のスクープ」
    1980年度「『早稲田大学商学部入試問題漏えい事件』のスクープ」
    1981年度「ライシャワー元駐日大使の核持ち込み発言」
    である。

     広告代理店の企画に、朝日新聞をはじめ3社の編集局長が同意して、掲載になった。
    それにしても、こんないい時代があったんだ。泉下の上田健一さんも喜んでいる?

     毎日新聞は、昨年も編集部門で3年連続受賞をして、同部門の最多受賞記録を30件に延ばした。3年どころか、4年連続の受賞を2回も記録しているのである。

     今また人口透析治療をめぐる問題をスクープ報道している。

     頑張る毎日新聞の記者たち。10月の新聞週間が楽しみでもある。

    (堤 哲)

     

    2019年3月11日

    濁水かわら版 東日本大震災3・11から8年

     2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震=M9)から8年が過ぎ去った。その震災発生3週間後の4月1日から8月末にかけ三陸沿岸の7地域を日帰りで歩いた。

    (中安 宏規)

    2019年3月5日

    発表の35分前にキャッチした「平成」――仮野元官邸キャップが特ダネの裏側を語った

    昭和64年1月7日毎日新聞夕刊3版

    仮野忠男元官邸キャップ(いずれもNHKテレビ画面から)

     仮野忠男さん。元毎日新聞・政治部官邸キャップ。改元のスクープを狙い、部下とともに秘かな作戦に出る――。

     5日夜、NHKBSプレミアムで放映されたアナザーストーリーズ 運命の分岐点「“平成”誕生~新元号決定までの攻防戦~」。

     昭和64年1月7日に発表された新元号「平成」。その選定作業は、昭和天皇の崩御を受けて始まり、即日決定したことに表向きはなっている、が事実は違う。準備作業ははるか以前から極秘で始められていた!密命を受けた官僚が、たった2人でこなした秘密の作業の真相とは!鉄壁の守りをくぐり抜け、あの2文字をつかんだ記者の作戦!そしてあの記者会見の知られざる舞台裏!新元号誕生のウラの攻防に迫るアナザーストーリー!

     写真の紙面は、1月7日夕刊3版の1面。仮野キャップら官邸取材班が新元号「平成」をキャッチしたのは、小渕官房長官が発表する35分前。仮野キャップは「すぐ号外の発行を!」と専用線に叫んだ。「光文」の誤報で懲りている本社側は「確認をとれ」と投げ返す。

     《新元号は「平成」》。紙面はできている。あとは輪転機のボタンを押すだけだ。迫真のドキュメント。他紙が新元号を入れたのは夕刊の最終版4版だけだった。再放送は3月11日(月)午後11時45分から。お見逃しのないように!

    (堤 哲)

    2019年3月3日

    82歳・江成常夫写真展「After the TSUNAMI」

     3月6日(水)まで、東京四ツ谷のポートレートギャラリー(新宿区四谷1-7-12日本写真会館5階)で、毎日新聞OBの江成常夫写真展「After the TSUNAMI」が開かれている。

     ――「東日本大震災」から8年になる。巨大地震による津波は、岩手、宮城、福島の3県などの沿岸に壊滅的被害をもたらした。 死者、行方不明者は19,000人に及んでいる。歴史は記憶の集積に他ならない。津波から7年余り、3県にまたがり現地を巡ってきた。未曾有の震災と復興の〝かたち〟を展示する。

     トークショーが2日に開かれたが、全国各地から江成ファンの聴衆が詰めかけた。その数ざっと100人。

     江成さんは、1962(昭和37)年に毎日新聞に入社。東京本社写真部で1964東京五輪、羽田沖の全日空機墜落、三億円事件、東大紛争、大阪万博、沖縄返還調印式などを取材したが、「自分が撮りたいと思っていた写真と違うな」と思った。

     1974(昭和49)年退職。「2度と会社の敷居をまたぐな」と写真部長からいわれ、涙を流しました、と無念の思いを吐露した。

     フリーのカメラマン。「誰も相手にしてくれない。冷たかったですね」

     ニューヨークで1年。そこで「戦争花嫁」に出会う。その取材にカリフォルニアで3年。その作品が評価されて日本写真協会の新人賞を受ける。

     以降、中国残留孤児、旧満州国、原爆、まだ遺骨が残る南洋の島々など日本の「負の遺産」を撮り続けた。

     「3・11は夕方のテレビで見ました。原発は人災ですよね」

     「私の写真は、人を写さないんです」

     被写体にすべてを語らせる、ということなのでしょう。

     江成さんは「新聞写真は客観性を重んじて、記録に主観を入れるなという。しかし、表現は主観で決まると思います。だから私は、常に記録と表現のハザマで悩みながら、その接点を探しながらシャッターを切ってきました」と話した。

     会場では、写真集「『After the TSUNAMI』東日本大震災」(冬青社、@9600円+税)も売られていた。

    (堤 哲)

     

    2019年1月4日

    20%の1779紙が廃刊 部数15年で4割減

     元日付けの東京新聞に、「広がる米のニュース砂漠」米国内で地元紙が減っている、という記事があった。

     新聞の購読者減による各紙の発行部数減は深刻だ。日本では、「県紙」が頑張っているので、地元に日刊紙がない、という事態にはなっていないが、人口減の時代に、発行部数の反転攻勢は不可能に思える。

     アメリカのローカル紙事情を、同紙の記事から――。

     UNC(米ノースカロライナ大学)が2018年10月に公表した調査報告「広がるニュース砂漠」によると、米国内の新聞は7112紙(うち1283紙が日刊)で、04年から1779紙(20%)減った。全米3143郡のうち2000郡以上で、地元の日刊紙がない。

     地方紙の衰退の背景にあるのが、インターネット社会が進む中、紙媒体としての新聞の読者が急減していることだ。UNCは「新聞の部数の減少を上回るペースで減り、さらに加速している」と指摘する。

     UNCによると、米国内の平日の新聞発行部数は15年間で、1億2200万部から7300万部へと4割縮小。特に直近4年間だけで2000万部も減った。「発行部数や取材体制の縮小が読者離れや広告離れを促し、経営側はデジタル時代への対応に必要な投資よりも経費節減に走る」という悪循環の構図を指摘する。

     地元紙不在の影響としてよく挙げられるのが、西部カリフォルニア州ロサンゼルス郊外にあるベル市の事例だ。

     米連邦通信委員会(FCC)によると、市幹部が1993年時点で7万2000ドル(現在のレートで約790万円)だった給与を不正に10倍超の78万ドルまで引き上げていた。2010年にロサンゼルス・タイムズの報道で発覚したが、不正は遅くとも04年には始まっていた。市政を監視してきた地元紙が98年になくなったことが要因とされ、FCCは報告書で「取材の縮小は汚職や税金の無駄遣いの危険を高める」と指摘した。

     カリフォルニア州の行政監視NPO「カリフォルニアンズ・アウェア」のテリー・フランケ相談役は言う。「ベルのような極端な事例を私は他に知らない。ただ、取材する地元紙が存在しなければ、知られることもないだろう」 

    (堤 哲)

     

    2018年12月22日

    活躍する毎日Jr

     この人は、誰だか分かりますか。

     文藝春秋の2019年新年号「同級生交歓」に載っている。

     オヤジさんによく似ています。

     そう、政治部OBで、政治評論家、テレビのコメンテーターで活躍した三宅久之さん(2012年没、82歳)の息子眞さん(狛江市議、54歳)。

     千代田区立一橋中学の「同級生交歓」。創業109年、神田のビヤホール「ランチョン」4代目店主、ピアニスト佐伯真魚さんらと。生ビールで乾杯!だ。

     三宅さんの3男で、広告代理店東急エージェンシーに勤めていたが、妻の発病で介護離職。2015(平成27)年狛江市議選に無所属で出馬し、初当選。「亡き父も驚愕しているに違いない」と書いている。

     オヤジさんは、ニッパチ入社(昭和28年)。政治部デスク→静岡支局長→特別報道部長。退職後政治評論家で活躍した。

    (堤 哲)

     

    2018年12月18日

    有楽町に2代目プラネタリウム

    空襲を受ける前の東日天文館

     有楽町マリオンに12月19日、プラネタリウムがオープンした。

     17日月曜日の毎日新聞に、有楽町にあった先代のプラネタリウム「東日天文館」の写真が載っていた=写真。

     「東日天文館」は、毎日新聞の前身東京日日新聞が1938(昭和13)年にオープンした。前年の大阪市立電気科学館(現市立科学館)に次ぐ国内2番目のプラネタリウムだった。

    開館を伝える東京日日新聞

     大変な人気だったというが、1945(昭和20)年5月の空襲で焼失。営業はわずか6年半ほどで終わった。

     今回のプラネタリウム「コニカミノルタプラネタリア TOKYO」は、朝日新聞社所有の有楽町マリオン9階に設置された。

     毎日午後10時半まで営業。鑑賞料金は、大人(中学生以上)1,600円、子ども(4歳以上)1,000円。

    (堤 哲)

    2018年12月7日

    『姫君たちの明治維新』の岩尾光代さん 毎日新聞夕刊学芸面に登場

    岩尾光代さん

     毎日新聞2018年12月5日夕刊学芸面に『姫君たちの明治維新』(文春新書)を出版した岩尾光代さんが紹介された。以下再録。

     石川啄木の短歌<新しき明日の来るを信ずといふ-->に込められた思いを書名に用いて、山口シヅエら初の女性衆院議員39人の誕生秘話を描いた歴史ジャーナリスト・岩尾光代さんが、明治150年にあたる今年の秋、再び野心作『姫君たちの明治維新』(文春新書)を世に送り出した。焦点を当てたのは大名家と皇族の姫君31人。前著と共通するのは、歴史に翻弄(ほんろう)されながらも気高く生きた女性の歩みである。

     歴史の闇に埋もれがちな声を丹念な調査で拾い上げた著者は長年、ベストセラー写真誌『1億人の昭和史』(毎日新聞社)シリーズを担当した人。膨大な古写真を整理し、「昭和」という激動の時代をひもといてきた編集者としての自負が難業に挑ませた。「文字に残る記録だけでなくて、時代の空気感を再現しなければと思ったのです。身分にかかわりなく、歴史の影となった声を掘り起こすこともジャーナリズムの役割だと思い、姫たちへの関心を持ち続けていました」

     明治維新を振り返る時、近代国家への階段を上り始めた正史に目は向きがちだが、著者の視点は裏面史へと向かう。旧皇族・華族の親睦団体「霞会館」の信頼協力を勝ち得て約40家の蔵を調べたところ、女の人の記録がほとんど残っていないことに気づいたという。

     なぜ姫君たちは語られることが少なかったのか。生まれながらに政の「駒」として、権力闘争や政略結婚の犠牲になった側面が強かった。何よりも「お家第一」であり、己の気持ちは二の次とされた時代である。

     「系図に名前もなく、ただ『女』とだけ記されたケースもあった。姫たちの写真を見ているうちに脳にインプットされて、彼女たちが『外に出して!』と訴えている気がしたほどです」

     全6章で構成。中でも終章の「戦火のかげで落城の妻たち」は取材者魂を感じさせた。「『人に歴史あり』と言いますが、歴史は人間によって作られるものなんです。人生にどう向き合ったか、その姿勢を意識して描きました」。時代に真正面から立ち向かった足跡がここに、確かにあった。【中澤雄大】

    (堤 哲)

    2018年11月22日

    新聞を鉛筆でそっくり再現した絵画展

     新聞の1面を鉛筆で一字一字正確に描いて、その上に自画像を重ねる。

     東京ステーションギャラリーで開かれている「吉村芳生 超絶技巧を超えて」展で、毎日新聞2008年10月8日付朝刊1面を正確に描き切った作品が展示されている。

     タテ146センチ、ヨコ109.1センチ。新聞を2.7倍に拡大して、凸版見出しも、記事も、広告もすべて手書きした超細密画だ。

     「新聞と自画像」シリーズで、毎日新聞だけでなく、朝日新聞、読売新聞、日経新聞、中国新聞も同じ手法で描いている。

     新聞シリーズの始めは、1979(昭和54)年11月8日から21日間、英字紙ジャパンタイムスを版画の手法で写し、鉛筆で描いた。26歳の時、上京して取り組んだ。

     実際の新聞の1面に、1年間毎日自画像を描いた作品も展示されている。他にもびっくりするスーパーリアリズムの作品が並んでいる。ぜひ一見を!

     同展は、2019年1月20日まで。東京ステーションギャラリーは、東京駅丸の内北口の改札口わきにある。作者の吉村芳生は、2013年12月6日逝去、63歳だった。

    (堤 哲)

    2018年11月9日

    朝日新聞連載コラム、「折々のことば」に本社記者・小国綾子さん登場

     今朝(11月9日)朝日新聞1面の連載コラム、鷲田清一「折々のことば」に、毎日新聞記者小国綾子さんが登場した。

     迷うのは、自分で選ぼうとしている証拠。自分の頭で考えている人だけが得られる「勲章」みたいなものだ。

     鷲田さんのことば――

     それでも迷いが吹っ切れない時は「やったことのない方を選ぶ」と毎日新聞記者は言う。嫌な仕事もやってみたら発見があったり、「できないこと」ばかり数えて凹(へこ)んでいた子育て期に旅に出たら、赤ん坊がいたからこそできた経験があったり。人生に思いもよらない線がいっぱい引けた。『?(疑問符)が!(感嘆符)に変わるとき』から。

     小国さんは、毎週火曜日の夕刊に「あした元気になあれ」を連載している。引用された『?(疑問符)が!(感嘆符)に変わるとき―新聞記者、ワクワクする』は2014年刊(汐文社)。

     私は残念ながらこの本を読んでいないが、『アメリカの少年野球 こんなに日本と違ってた』(径書房、2013年度ミズノスポーツライター賞受賞)は面白かった。

     地元の野球チームに入った9歳の息子・太郎クンが、日米の野球に対する考え方の違いに戸惑いながら成長していく。支えになったのはメジャーリーガー・上原浩治投手の言葉。「あきらめるな。あきらめたら、そこでゲームオーバー。でも、あきらめなければ可能性はゼロじゃない。だから絶対にあきらめちゃいけない」

     太郎クンの背番号は「19」である。

     小国さんは、1990年入社。夫(毎日新聞記者)のアメリカ勤務に退社して、家族で渡米。4年後の2011年に帰国し、毎日新聞社に再就職した。現在、統合デジタル取材センター勤務。

    (堤 哲)

    2018年10月17日

    3年連続30回目の新聞協会賞、最多記録を更新

     新聞週間の16日、仙台市で開かれた第71回新聞大会で、毎日新聞社仙台支局の遠藤大志(ひろし)記者(33歳)が新聞協会賞を受賞した。キャンペーン報道「旧優生保護法を問う」取材班を代表、受賞後のスピーチで「これからも法律(旧優生保護法)の実態を暴く調査報道を継続し、当事者の救済に弾みをつけたい」と述べた。

     毎日新聞の編集部門での受賞は3年連続30件目で、同部門の最多記録を更新した。

    遠藤大志記者

     遠藤記者は、2014(平成26)入社。熊谷支局、さいたま支局、埼玉西支局などを経て、2017年10月から仙台支局。

    毎日新聞が編集部門で新聞協会賞を受けた30件は以下である。
    ①1957年度「暴力新地図」「官僚にっぽん」「税金にっぽん」
    毎日新聞東京本社社会部(代表)編集局次長・三原 信一
    ②1961年度写真「浅沼委員長刺さる」
    毎日新聞社写真部・長尾 靖
    ③1962年度 北九州五市合併促進キャンペーン
    毎日新聞西部本社(代表)編集局次長・野村 勇三ら
    ④1963年度 連載企画「学者の森」
    毎日新聞東京本社編集局(代表)論説副委員長・藤田 信勝
    ⑤1964年度 連載企画「組織暴力の実態」
    毎日新聞社編集局(代表)社会部長・稲野 治兵衛
    ⑥1965年度企画「泥と炎のインドシナ」
    毎日新聞東京本社(代表)外信部長・大森 実
    ⑦1967年度 黒い霧キャンペーン
    毎日新聞社(代表)東京本社社会部長・森丘 秀雄,政治部長・細川 隆一郎
    ⑧1969年度 紙上国会・安保政策の総討論
    毎日新聞東京本社(代表)政治部長・五味 三勇
    ⑨1979年度「埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣から『ワカタケル雄略天皇』の銘のスクープ」
    毎日新聞大阪本社学芸部編集委員・岡本 健一
    ⑩1980年度「『早稲田大学商学部入試問題漏えい事件』のスクープ」
    毎日新聞東京本社社会部長・森 浩一
    ⑪1981年度「ライシャワー元駐日大使の核持ち込み発言」
    毎日新聞東京本社政治部編集委員兼論説委員・斎藤 明
    ⑫1986年度 スクープ写真「車イスの田中元首相」
    毎日新聞東京本社(代表)写真部長 山本 哲正
    ⑬1987年度 連載企画「一人三脚・脳卒中記者の記録」
    毎日新聞大阪本社編集委員 横田 三郎
    ⑭1989年度 連載企画『政治家とカネ』
    毎日新聞東京本社(代表)政治部副部長「政治家とカネ」取材班 長崎 和夫
    ⑮1992年度『リクルート ダイエーの傘下に』江副前会長の持ち株を譲渡」のスクープと一連の続報  毎日新聞大阪本社(代表)経済部長 吉川 順三
    ⑯1996年度「アウンサンスーチー、ビルマからの手紙」
    毎日新聞東京本社アウンサンスーチー取材班(代表)編集局次長兼外信部長 河内 孝
    ⑰2000年度「片山隼君事故」から事件事故被害者の権利と支援策の確立を追求し続けたキャンペーン報道  毎日新聞東京本社 編集局社会部 江刺 正嘉
    ⑱2001年度「旧石器発掘ねつ造」のスクープ
    毎日新聞社(代表)「旧石器遺跡取材班」北海道支社報道部長 真田 和義
    ⑲2002年度 防衛庁による情報公開請求者リスト作成に関するスクープ
    毎日新聞東京本社 編集局社会部 大治 朋子
    ⑳2003年度 自衛官募集のための住民基本台帳 情報収集に関するスクープ
    毎日新聞東京本社(代表)編集局社会部 大治 朋子
    ㉑2006年度「パキスタン地震」一連の写真報道
    毎日新聞東京本社編集局社会部(前写真部)佐藤 賢二郎
    ㉒2007年度 長崎市長銃撃事件の写真報道
    毎日新聞西部本社 編集局報道部(前長崎支局)長澤 潤一郎
    ㉓2008年度「石綿被害 新たに520カ所 厚労省は非公表」のスクープなどアスベスト被害の情報公開と被害者救済に向けた一連の報道
    毎日新聞社 大阪本社編集局科学環境部編集委員大島 秀利
    ㉔2009年度「無保険の子」救済キャンペーン
    毎日新聞大阪本社取材班(代表)福井支局長兼北陸総局次長(元社会部副部長)戸田 栄
    ㉕2011年度 「力士が八百長メール」のスクープをはじめ大相撲八百長問題を巡る一連の報道 毎日新聞東京本社取材班(代表)編集編成局社会部警視庁キャップ 千代崎 聖史
    ㉖同年度 「3・11 大津波襲来の瞬間」をとらえたスクープ写真
    毎日新聞東京本社編集編成局写真部 手塚 耕一郎
    ㉗2014年度「太郎さん」など認知症の身元不明者らを巡る「老いてさまよう」一連の報道
    毎日新聞東京本社特別報道グループ取材班(代表)編集編成局特別報道グループ 銭場裕司
    ㉘2016年度 連続震度7「奇跡の救出」など熊本地震の写真報道
    毎日新聞西部本社編集局写真部  和田 大典
    ㉙2017年度  写真「ボルトも驚がく 日本リレー史上初の銀」
    毎日新聞北海道支社報道部写真グループ(前東京本社写真映像報道センター)梅村直承
    ㉚2018年度 キャンペーン報道「旧優生保護法を問う」
    毎日新聞社「旧優生保護法を問う」取材班(代表)仙台支局  遠藤 大志

    (堤 哲)

    2018年10月10日

    2018秋の社会部旧友会懇親ゴルフ会

     田中正延さん(79歳)がいった。「54年前のきょう、東京五輪の開会式でした。その時の取材配置表を磯貝喜兵衛さんが保存していたのですが、私は語学要員でした」

     1964(昭和39)年入社の1年生だった。正延さんは、ドイツ語要員。前橋支局から動員された。ちなみに同期入社の語学要員は、他に英語の杉本良夫(浦和支局、豪ラトローブ大学名誉教授)・黒岩徹(長野支局)、ドイツ語の中安宏規(千葉支局)、スペイン語の滝本道生(京都支局、2004年没、62歳)。

     正延さんの語学力は、棒高跳びの決勝で試された。9時間10分の死闘を制したのは米ハンセン選手だが、敗れた独ラインハルト選手の記者会見に動員された。

     翌日の朝刊は、社会面トップで、そのドラマが報じられた。

      より高く……気力の闘い
       よくぞ!棒高の両雄
        疲れ、空腹、寒気に耐えて
      3万の目、夜空にくぎづけ

       

     10月10日、社会部旧友会のゴルフ会が若洲ゴルフリンクスで開かれた。第56回。優勝は、93歳牧内節男さんだった。グロス106、ネット73。「ハンデが甘すぎる。優勝を辞退したい」と牧内さん。

     この会は、70歳以上にプラスハンデをつけている。70歳?+2、75歳?+4、80歳?+8、85歳?+12、90?+20。90超は1歳ごとにさらに+1。

     牧内さんの持ちハンデは10。それに年齢ハンデを加算して、ハンデ33だった。

     「90歳を超えて、なおこの元気。参加者全員の励みになります」、「牧内さんのグロスを下回った人から1打100円の罰金をとるか」という意見も出た。

     「木刀を毎朝振っている。最近は100回がきつくなって、50回。ついでにゴルフクラブも振ります。東京五輪の2020年までは元気でいたいと思います」

     やはり日常の鍛錬がスコアにつながっているのだ。

     初参加は宗岡秀樹さん(70歳)。参加13人の平均年齢は79・3歳だった。

     表彰式の前に全員が近況を報告するが、冒頭の正延さんの発言もこの場でのこと。1964年同期入社の石黒克己さん(77歳)が「最近、千代田区観光協会の会長になりました」と報告、注目を浴びた。

     皇居も、官邸も、国会も千代田区にある。東京駅、丸の内のビル街、帝国ホテル。毎日新聞社もである。HPに「千代田区の魅力を高め国内外の人々との交流を促進し、もって地域文化の維持発展及び地域経済の活性化に寄与することを目的として、活動しております」とあった。

    (幹事・堤 哲、76歳)

    前列右から石黒克己、牧内節男、永井康雄(87歳)、勝又啓二郎(78歳)、堤哲。
    後列右から田中正延、宗岡秀樹、吉沢孝(79歳)、川合多喜夫(82歳)、澁澤重和(78歳)、山本進(73歳)、畝村治男(80歳)、大島幸夫(81歳)=敬称略

    2018年9月18日

    DVD「ありがとう堂島」大阪毎日新聞・堂島70年の軌跡

     竹橋引っ越しの記録映画がYou Tubeにアップされている、とこのHPのトッピクス欄に書いたが、机を整理していたら現在の大阪本社が完成して、堂島から引っ越したときのDVDが出てきた。

     透明な外箱に
      毎日新聞創刊140年(2012年2月21日)記念品
         毎友会(大阪)2012.5.21
    とある。

     企画:毎日新聞社、製作:毎日映画社、39分。

     「ありがとう堂島」大阪毎日新聞・堂島70年の軌跡
     この動画のURLは次のとおり。

    https://youtu.be/24ugJRQ96CU

     新社屋完成のパーティーは、1992(平成4)年11月20日に行われた。当時の小池唯夫社長が「20年間の夢が実現した」と挨拶したが、懐かしい顔がいっぱい出てくる。

     鳥越俊太郎、八木亜夫、畑山博、迫田太、木戸湊、徳岡孝夫、北野栄三、斎藤栄一、葉室鉄夫、亘英太郎、山崎貞一、高山武久……。(順不同、敬称略)。

     そういえば、古野喜政さんも、ちょこっと映っていたなぁ。

     大阪本社を支えてきた人たちである。

     堂島サヨナラパーティーは、1992(平成4)年12月18日に行った、とナレーションにあった。

     私も、このパーティーに参加した。大阪本社社会部在籍は、2年9か月だったが、その間にセンバツを2回担当した。池田町の山あいのグラウンドで蔦文也監督を事前取材したが、まさか「さわやかイレブン」が準優勝するとは思わなかった。創刊100年のゴヤ展の京都市美では、開幕前日に「裸のマハ」「着衣のマハ」を拝ませてもらった。

     大阪府警も担当した。鳥越俊太郎君(私が入社1年先輩)が捜査2課、私は捜査3,4課だったが、ニセ夜間金庫事件が起きて、本番の私はもっぱら捜査3課長宅へ夜回りをしていた。

     添付の写真は、つい最近大阪へ行ったときに撮影した。23階建ての「堂島アバンザ」の前に立つ旧毎日新聞大阪本社の正面玄関と、その後ろに設置された銘板である。

    23階建ての「堂島アバンザ」の前に立つ旧毎日新聞大阪本社の正面玄関
    その後ろに設置された銘板

    (堤 哲)

    2018年9月3日

    竹橋引っ越し大作戦

     元英文毎日編集委員の半田一麿さん(83歳)から「You Tube」にこんな動画がアップされているよ」とメールで連絡があった。

     1966(昭和41)年、毎日新聞東京本社が有楽町から竹橋のパレスサイドビルに引っ越すときの映画である。

     「新聞はとめられない」(24分37秒)
     企画:日本通運(株) 制作:毎日映画社
     https://youtu.be/XAVcm819bko

     半田さん、通称半ちゃんは、私が初任地長野支局に赴任したとき、入れ違いで本社にあがった先輩で、半ちゃんの下宿をそのまま引き継いだ因縁がある。上智大学新聞学科卒。1960(昭和35)年入社。社会部にも一時在籍した。

     映画は、松代地震の現場から社会部に電話で原稿が送られ、遊軍記者がザラ紙の原稿用紙にカーボン紙を挟んで、3Bの鉛筆で原稿取りをしているところから始まる。

     当時は活版印刷である。活字を1本1本拾って、1ページ大に組み上げた。漢字テレタイプも導入されていたが、大事件や締め切り間際は、ベテランの活版部員が活字を手拾いをした。機械より断然早かった。

     カーボン紙は、何故か。ラジオ・テレビの速報用で、原稿が2枚必要だったわけである。

     松代地震。長野市の隣、埴科郡松代町(現長野市)で、前年の8月3日から始まった群発地震である。ひどい時には、有感地震が661回(約2分に1回)あり、うち震度5が3回、震度4が3回。家屋が破損する被害も出た。

     気象庁地震課長の「Xデー」オフレコ発言で、長野支局に大型バス位の編集車(写真の暗室と、無線電送機があった)が横付けされ、社会部、写真部、電送担当の連絡部、車両課の運転手さんと計7,8人が応援に来たことがあった。

     長野支局長末安輝雄(2012年没、88歳)。本番は屋代通信部員だった越後喜一郎さん(2010年没、72歳)で、1年生だった長崎和夫さん(75歳)が地滑りに乗って社会面トップを書いたことは、この毎友会HPで紹介した。

     社会部から最初に応援に来たのは、遊軍記者で気象庁を担当していた米山貢二さん(2012年没、83歳)と森浩一さん(83歳)だった。現場ルポは、森さんがカーボン用紙を挟んだザラ紙に、スラスラと鉛筆を滑らせた。

     「社会部の遊軍記者って、格好いいな」と思った。

     映画には昔懐かしい顔がいっぱい出てくる。引っ越しが終わって乾杯の発声をしたのは田中香苗編集主幹(のち会長)、葉巻をくわえているのが狩野近雄取締役出版担当(のちスポニチ社長)。

    田中香苗編集主幹(のち会長)
    狩野近雄取締役出版担当(前東京本社編集局長)

     1966年9月23日の引っ越し大作戦である。見てください。

    (堤 哲)

    2018年8月26日

    TBSの新社長は、事件記者の息子さん

    佐々木卓TBS新社長

     うかつにも、TBSの社長が6月の株主総会で替わったことを知らなかった。毎日新聞の社会部記者だった武田信二社長(66)から、専務の佐々木卓(たかし)さん(59)にバトンタッチされたのだ。

     新社長のオヤジさんは、「毎日新聞屈指の事件記者であった」佐々木叶さん(2017年5月1日没、92歳)である。自慢の息子の社長就任を喜んでおられることだろう。

     オヤジさんの追悼録は、この毎友会HPに、社会部の同僚記者だった元スポニチ社長の牧内節男さんが書いている。
    →https://maiyukai.com/memorial.html

     佐々木新社長は、早稲田のラガーマンである。早大高等学院3年だった1977(昭和52)年、花園の全校高校ラグビー選手権大会に初出場。学部(法学部)に進んでも、ラグビー蹴球部でもまれた。身長168cmと小柄ながら、4年生の早慶戦(1981年11月23日)、早明戦(12月6日)に9番SH(スクラム・ハーフ)として出場、慶応には25―16、明治には21―15で、いずれも快勝している。

     早明戦に勝利したときの新聞の見出しは「荒ぶる涙、大西魔術」。名将・大西鉄之祐監督が17年ぶりに3度目の監督になった年である。

     佐々木新社長が、花園初出場を果たしたとき、早大高等学院を指導したのも大西鉄之祐監督だった。

     早大ラグビー部で1年下のスポーツライター藤島大さん(元スポニチ記者)は「佐々木さんは、大西先生の『最後の愛弟子』。大学でもチームのリーダー的存在となり、大西イズムを浸透させました」といっている。

     オヤジの叶さんは、私が社会部にあがって、サツ回りをしたときの警視庁キャップ。鬼の叶さんがいつの間にか、早稲田ラグビーのファンになっていた。息子の試合は必ず観戦していた。私が高校・大学を通じて息子の先輩だと知って、「大西先生はスゴイ。都会っ子を鍛えて、花園に連れて行ってくれた。卓が4年生のときの早明戦は、ワセダが4連敗中。予想は圧倒的にメイジ優勢だったんだ」と、熱く語っていたことを覚えている。

     TBSは、良心的な番組が多く、必ずしも視聴率を意識していないようにも感じるが、卓社長は、記者会見で「TBSは成績も上向きで現場の空気も明るくなりました。視聴者の皆さまに、もっと愛され、信頼される放送局にしていきたいと思っています」と語っている。打倒日テレが成るか、注目したい。

    (堤 哲)

    2018年8月24日

    毎日新聞書道クラブ会員展、ОBも参加し、楽しく開催

     毎週月曜日に、毎日新聞5階の部屋で友野浅峰先生の指導を受けている書道クラブの会員展が、新聞社1階の毎日アートサロンで8月20日から25日まで開かれ、21人の「力作」が展示されました。

     入口に、亡くなった岸井成格さんの遺作「以和為貴」などが飾られ、お別れの会の際に配られた毎日新聞号外も添えられました。岸井さんは友野先生の弟子として3年に1回、銀座で開かれる湖心社展にも出品してきました。

     OBでは、北村正任さんが「一犬吠影百犬吠聲」、寺田健一さんが「明年此欲知誰健」、石崎ルリ子さんが、星野富弘さんの「あなたの胸の火がわたしに飛び火して全焼です」など一人2、3点を出品。「夢」など一文字だけの小品も展示されました。高尾義彦も自作の俳句「打ち水のたちまち乾く江戸のいま」などを、徳島の藍墨を用いて書いてみました。

     友野先生の作品は「ふるさとの山河よこたふ遠花火」。故郷・長野を思わせる山の形が文字になっています。書道を始めて1年ほどの女性は、筆の代わりに指に墨をつけて、半切の和紙に「一聲雷震」。型にはまった作品より自由な作風を、と指導されている先生の方針で、楽しい書道展となりました。 入会希望の方は是非、どうぞ。

    (高尾義彦)

    2018年8月15日

    小野文恵アナが見た祖父の戦場

     社会部の先輩、野村勝美さん(89歳)が「浜田山通信」№223で、「非戦」を訴えている。
     このHPに転載したい。      堤  哲

     8月は原爆と戦争の悲惨を考える月である。異常気象の猛暑と集中豪雨のニュースをききながらクーラーのきいたリビングで毎日、テレビのドキュメンタリー番組に見入っていた。毎年ヒロシマ、ナガサキを見てきたはずだが、なぜかことしはより充実した番組が多かったように思われた。多分平成も最後だし、私のように戦時を経験している者が少なくなっていることも関連しているのだろう。

     私が見た番組名をあげておく。どれもすごい作品だ。何度再放送されてもよい。機会があれば何度でも見たい。ほとんどは録画したので、その気になればいつでも見れる。

     最初はことし亡くなった映画脚本家「早坂暁を探して」。昔ごひいきだった「桃井かおりが暁さん遍路ゆかりの地・松山の旅」。同じ4日の夜、「福井地震70年」。福井は終戦の年に空襲で全焼し、3年後地震で全滅している。5日にはTBSが「終戦SP・学徒出陣10万人が軍隊へ▽攻撃命令▽地上戦▽太平洋戦争の真実とは」。ほぼ同時刻にNHKがBS プレミアム「映像の世紀 独裁者ヒットラー、ムッソリーニ、スターリンの狂気」。これは何度オンエアしてもよい。独裁者はどのようにして民衆をかり立て、戦争で独ソ双方に4千万人もの犠牲者を出したか。関連してNHKEテレ「ヒトラーの専用列車」アメリカ号も興味深かった。

     原爆関係では他に8日NHKBS「ヒロシマの被爆樹木ニューヨークへ渡る」。9日「幻の原爆ドーム・ナガサキ戦後63年目の選択」。ETV特集「赤い背中が残したもの」。そしてなんといっても圧巻は12日NHKBS「"悪魔の兵器”原爆なぜ誕生? 科学者の闇 日本へ落とせ・・・誰が?」。マンハッタン計画の開始から完成、実験までを計画し実行したロスアラモス研究所とロバート・オッペンハイマーはじめ1200人の若き科学者やルーズベルト、トルーマン、オッペンハイマーの孫も登場する。アメリカがすべての資料を残していることにも感心するが、NHKBSの取材能力は絶賛に値いする。番組は最後に「人類はまた同じ悲劇をくりかえしていくのだろうか」としめくくっていたが、絶対にくりかえしてはならない。

     敗戦関連では8日NHKプレミアム「海の墓場トラック島」、12日「戦争孤児の闘い」、13日「船乗りたちの戦争」がいずれも出色のドキュメンタリー、年の故もあるだろうが涙がとまらなかった。

     もう一つ、NHKスペシャル、11日の「祖父が見た戦場」がすばらしかった。看板アナの小野文恵がフィリピンのルソン島で戦死した祖父景一郎の足跡を母公子と訪ね回るルポ。文恵はもちろん34歳で死んだ景一郎を知らない。生き残った戦友や、日本兵の死体を数えて記録した米軍の資料を取材し、ルソン島での祖父の足跡を辿る。そして旅の終わり、一人でマニラのホテルを訪ねる。そこはフィリピンの少女たちが日本兵の性暴力を受けた場所だった。どんなことがあっても戦争だけはやってはならない。

    2018年8月13日

    あれから33年、日航ジャンボ機墜落事故

     経済アナリストの森永卓郎さんが、自身のブログに日航機事故のことを書いている。

     ――ニュース番組にかかわるようになって20年以上、私の心のなかには、もやもやした疑問がずっとつきまとってきた。それは日本航空123便の墜落原因だ。1985年8月12日18時12分に、大阪に向けて羽田空港を飛び立った日航123便は、同日18時56分に御巣鷹の尾根に墜落した。乗客乗員524人中、520人が死亡するという、一機では、世界最大の航空機事故となった。

     疑問は墜落の原因である。機体後部の圧力隔壁が破損し、尾翼の一部が吹き飛び、油圧装置も破壊されて、機体のコントロールが不可能になり、墜落したとされた。

     同機は、過去に伊丹空港で尻もち事故を起こし、ボーイング社が修理した。圧力隔壁の修理が不十分で、それが破損につながったとされた。

     毎日新聞は、事故発生から4日後の8月16日1面で特報した。

    1985年8月16日付毎日新聞朝刊1面

     森永さんは、元日航客室乗務員の青山透子著『日本航空123便墜落の新事実―目撃証言から真相に迫る』(河出書房新社)から、墜落直前の123便を2機の自衛隊のファントム機が追尾していた、訓練用ミサイルが123便の尾翼を破壊したのではないか、という著者の指摘を紹介している。

     そして3年前、「123便の残骸か…相模湾海底で発見」というニュースがテレビ朝日系(ANN)で流れた。

     それを引き上げて、検証すれば事故原因がはっきりするのではないか、と訴えているのだ。

     森永さんの父親、森永京一さん(2011年没、85歳)は、1965年ウィーン特派員→68年ジュネーブ支局長。森永少年も海外生活を送っていて「小4はウィーン、そのあとジュネーブで過ごした」。

    (堤 哲)

    2018年7月30日

    金メダリストの元毎日新聞運動部長

    1932年ロス五輪三段跳びで金メダルを獲得した南部忠平さんの跳躍

     1932年ロス五輪の三段跳び金メダリスト・南部忠平さんの妻久子さんの訃報が、運動面の片隅に載っていた。7月24日没、明治45年生まれの106歳。長寿だった。

     久子さんは90歳の時、マスターズ陸上の女子砲丸投げ(重さ3kg)で3メートル32を投げた。日本記録である。その後、砲丸の重さが2kgに変更された。従って永久不滅のレコードだ。

     夫の南部忠平さんは、毎日新聞大阪本社の運動部長をつとめた。1950(昭和25)年、第1回全国高校駅伝は大阪―堺間往復6区間32㌔で行われた。広島県立世羅高校が初の栄冠に輝いたが、優勝カップを授与したのが南部さんだった。

     南部さんは、旧制北海中学卒。札鉄(札幌鉄道局)に入社したあと、1927年(昭和2)に早大に進学、競走部へ。早大2年生の時、アムステルダム五輪に出場し、三段跳びで4位入賞した。

     アムステルダム五輪では、毎日新聞運動部(大阪)の記者だった人見絹枝さん(1931年没、24歳)が陸上女子800メートルで銀メダルを獲得している。

     南部さんは、1932(昭和7)年に毎日新聞運動部(大阪)の嘱託となり、7月30日から始まったロス五輪に出場した。

     本命は走り幅跳び。7メートル98の世界記録保持者だった。しかし、結果は3位。

     三段跳びは、前回アムス五輪金メダルの織田幹雄(南部より1歳年下の27歳)に期待がかかっていたが、南部さんは5回目の跳躍で15メートル72の世界新記録を出して優勝、金メダルに輝いた。4回目までの記録を一気に50センチも伸ばしたのだ。3位の銅メダルは、関大の学生だった大島鎌吉(のち毎日新聞入社)が獲得した。

     1964年の東京五輪では陸上競技の監督。陸上競技で唯一メダルを獲得したのがマラソンの円谷幸吉選手で、その表彰式で銅メダルを授与したのがIOC委員の高石真五郎元毎日新聞社長だった。大島鎌吉さんは日本選手団長をつとめた(毎友会HP随筆欄「円谷幸吉選手に銅メダルをかけた高石真五郎IOC委員」、「金メダル16個! 五輪成功の“立役者”」参照)。

     南部さんは、毎日新聞社退職後、北海道女子短大、京都産業大学各教授、鳥取女子短期大学学長などを歴任した。1997年没、93歳だった。

    (堤 哲)

    2018年7月22日

    浅利慶太さんが亡くなって思い出すのは

     劇団四季を創設し、「キャッツ」「ライオンキング」などのロングラン公演で日本にミュージカル文化を根付かせた浅利慶太さんが7月13日亡くなった。85歳だった。

     毎日新聞1面の「余録」を23年2か月、6354本を執筆した諏訪正人さん(2015年没、84歳)は、俳優の日下武史さん(2017年没、86歳)らとともに劇団四季創設メンバーの1人だった。

     「10人だった創立メンバーは、今や私ひとりになってしまった」と、舞台照明家の吉井澄夫さんが追悼している(7月20日付日本経済新聞)。

    諏訪正人さん

     「旧制石神井中学の演劇部に入った私は、名コラムニストになる諏訪正さん(注:ジロドゥやコクトーの戯曲の翻訳、演劇評論などは「諏訪正」)と出会った。先輩の諏訪さんは、新進劇作家で慶応の予科で教えていた加藤道夫さんのもとに出入りしていた。加藤さんの縁で石神井と慶応の高校生がいつか芝居をやろうとメンバーに家に集まった。これが四季の母体だ」

     諏訪さんが日本記者クラブ賞を受けたパーティーのとき、浅利さんは、こんなエピソードを披露した。

     「パリに行ったとき、ちょうど諏訪さんが毎日新聞のパリ支局長。酔っぱらった勢いで、支局から総理官邸に国際電話をして、佐藤栄作首相を呼び出したんだ。諏訪さんは政治部の記者時代、佐藤番だったんですよ」

     「新聞記者は出ていけ!」。佐藤栄作首相がギョロ目をむいて憤然とした記者会見は、「退任時に国民にテレビで直接語りかけたら」と浅利さんがアドバイスした演出が裏目に出たものだった。

     浅利さんの著書『時の光の中で―劇団四季主宰者の戦後史』(文藝春秋、2004年刊)によると、劇団四季創立メンバーの俳優水島弘さんの父親が佐藤首相の鉄道省の先輩。その関係で寛子夫人に劇団四季の創立公演から毎回チケットを10枚買ってもらっていた。

     1967年2月、第二次佐藤内閣が発足した時、浅利さんは寛子夫人から呼び出された。「主人の長州なまりを直してほしい」と頼まれ、浅利さんは佐藤首相の家庭教師になった。

     まず直したのは、口癖の「そういうこんだ」を「そういうことだ」にしたこと。1対1の個人レッスンは、1年以上続いた。「セリフは、はっきり聞き取れるように」の劇団四季発声法を、佐藤首相が学んでいたのだ。

     「李香蘭」「異国の丘」「南十字星」。戦争の悲劇を語り継ぐ「昭和の歴史三部作」といわれる。その公演では、浅利さんは必ず劇場入口でお客さんを迎えた。諏訪さんも必ず姿を見せた。

    (堤 哲)

    2018年7月9日

    東京五輪の特ダネ紙面

     元主筆・木戸湊さんらが発行している同人誌「人生八声」15巻(2018年7月発行)に、元社会部の宗岡秀樹さんが「64年東京オリンピックのレガシー そして……」を寄せている。

     東京五輪のとき、宗岡さん(社会部では宗ちゃんと呼んでいたので、以下宗ちゃん)は神奈川県立湘南高校の1年生だった。ヨットの選手村は大磯プリンスホテルで、宗ちゃんはサイン帳2冊を、父親が親しかったホテルの支配人に託した。記念に選手のサインをもらいたい、と思ったのか。

     大会が終わって2か月後に、サイン帳が手元に戻った。

     《(別のホテルに宿泊した)アメリカを除く各国の選手がランダムにそれぞれの書き方でサインやメッセージを残していた。中にはたどたどしいカタカナと漢字で「ドイツ東」と書いたサインもあった。

     片方のサイン帳には当時ノルウェー王室からの選手と話題になったハロルド皇太子の写真と「Herald」の文字が入ったブルーの小さな紙が貼り付けてあった。ハロルド皇太子はサインをしようとしたのだが、王室の随行者から「将来国王になるので」と止められたのだという。そこで大磯プリンスホテルの支配人が気を利かせて朝食の際にサインした伝票の一部を切り取って貼ったのだという》

     宗ちゃんのお宝だった。

     東京五輪から半世紀――。2014年、藤沢文書館は「東京オリンピックとふじさわ」展を開いた。宗ちゃんは「お宝」を出品した。

     そしてことし2018年5月。同文書館から「歴史をひもとく藤沢の資料3」の小冊子が送られてきた。

     《「宗岡秀樹家文書 資料年代1964年(昭和39年) 目録件数2件(現代2件)」とあり「東京オリンピックヨット競技選手のサインを収集したサイン帳。選手村であった大磯プリンスホテルにて収集」と記されていた》

     宗ちゃんは、江の島沖で行われたF D級(フライングダッチマン)レースで、毎日新聞が社会面トップで特ダネを報じたことも紹介している。

     その紙面のコピーを見て、水戸支局で一緒に仕事をした社会部出身の台博見さん(1984年没、 54歳)を思い出した。1967(昭和42)年春の異動で私は長野支局から、台さんは社会部からで、一緒に県警クラブを担当した。

     台さんは、都落ちが気に入らなかったか、もっぱら県警記者クラブのソファーで寝転がっていた。

     自慢話は一切しない人だったが、ある時、この特ダネをしゃべったことがあった。 

      これぞ人間愛の金メダル
       レース中止して救う
        落ちた他艇の乗員を

    64年10月15日付

     風速15メートルの突風が吹き荒れる中、23カ国109艇で争われたが、27艇がチン(沈没)、27艇がレースを中止した。トップグループにいたオーストラリア艇の選手が海に投げ落とされ、艇もチンしてもう1人の選手も海中に。

     これに気づいたスウェーデン艇のキエル兄弟がレースを中断して100メートル以上もバックして2人を救い上げた。兄弟はその後レースに復帰したが、ビリから2番目の12位でゴールした、という佳話である。

     宗ちゃんの原稿によると、道徳の教科書にも取り上げられ、IOCのホームページでも「オリンピズム」のフェアプレーとして紹介されているという。

     この特ダネは「編集局長の賞」を受賞した。社報に受賞者が載っている。

     橋戸雄蔵(社会部、頑鉄の息子、故人)
     台博見
     大牟田育宏(富山支局→大阪経済部、中途退社)
     唐沢信一(写真部)
     丸亀弘明(横須賀支局→社会部→政治部、故人)
     若林武(嘱託)

     誰かがこの話を聞き込んで、チーム取材したものと思われる。

     東京五輪の取材配置表によると、橋戸さんがヨット取材のキャップ格だ。

    (堤 哲)

    2018年6月7日

    モロさん、62年前の八百長試合(?)を糺す

     野球文化學會(The Forum for Researchers of Baseball Culture)の創設者、元整理本部の鬼才諸岡達一さん(82歳)が元気だ。

    諸岡達一さん

     すでに会長を鈴村裕輔さん(41歳)=法政大学客員学術研究員=に譲り、6月3日(日)東京ドームホテルで開かれた総会では、顧問として乾杯の音頭をとった。

     「野球を人類不朽の文化とし、学問としての野球を確立する」

     そううたって野球文化學會を設立したのは、1999(平成11)年だった。元サンデー毎日編集長鳥井守幸さん(86歳)ら毎日新聞の仲間や、ベースボールマガジンの故田村大五さん、報知新聞の記録マニア故宇佐美徹也さんら野球好き文化人を呼び込んだ。論叢誌『ベースボーロジー』第1集を刊行した。

    佐々木信也さん

     この日の総会では、ゲストスピーカーとして佐々木信也さん(84歳)を招いた。湘南高校1年生のとき夏の甲子園大会で優勝、慶大ではキャプテンをつとめ、プロ野球高橋ユニオンズに入団した。フジテレビ「プロ野球ニュース」のキャスターとして大活躍した。

     ミスタージャイアンツ、立大の長嶋茂雄より2年先輩。「シゲと呼び捨てしているのは、私1人ではないか」といった。 髪は黒々。「染めていませんよ」と断るほど若々しい。

     佐々木さんの話が一段落すると、「質問!」とモロさんが立ち上がった。

     1956(昭和31)年10月8日、浦和市営球場で行われたパ・リーグ高橋ユニオンズと毎日オリオンズとのシーズン最終戦についてだった。佐々木さんは二塁手として出場していた。

     「浦和まで見に行ったんです」。モロさんは成蹊大学の学生だった。安倍晋三首相の先輩である。

     ユニオンズは、この試合に敗れると、勝率が3割5分を割り、2年連続で500万円の制裁金を連盟に払わなければならなかった。結果は、4-3でユニオンズの勝利。52勝98敗4引き分け、勝率3割5分0厘6毛4糸9忽3微…。

     当時は、引き分けを0・5勝と数えたから、やっと制裁金を免れたのだ(相沢正夫「『窓際球団』高橋ユニオンズ」=Number1982年1月号)。

     もうひとつ。この試合で毎日オリオンズの山内和弘(一弘、故人)が二塁打を2本放ち、シーズン47本の日本記録を達成している。

     モロさんは指摘する。この試合、毎日オリオンズがわざと負けたのではないか。山内の2本の二塁打も、ユニオンズ外野手の打球の処理が不自然だった。シングルヒットで済むのに二塁打にして、日本記録をつくらせたのはないか。

     総会の出席者は約40人。戦後生まれが大半で、「プロ野球史に、こんな試合もあったんだ」とキョトンとして聞いていた。

     
    画像
    質問するモロさんと答える佐々木さん、中央は野球文化學會理事で報知新聞の蛭間豊章さん

     佐々木信也さんがどう答えたか。ここでは書きません。同席していた人に尋ねてください。

     総会が終わって、モロさんは鈴村会長らにメールを送った。

     《ベースボーロジーなるみなさま。総会は大成功。いいゲームでした。取り仕切った役員努力が素ん晴らしい!
    感謝いたします。これからさらに「驚くことになります」よ! 諸岡達一》

    (堤 哲=野球文化學會監事)

    追伸
       モロさんから反論?がメールで着きました。掲載します。

    ……高橋ユニオンズ対毎日オリオンズの試合を例に出したのは「あれほど面白い野球はほかにない。さすが職業野球!」という大褒めの意味です。あの場で「そう喋った」ハズですが、いやあ表現が下手なもんで通じなかったかも。
     現代の野球ががんじがらめで面白くナイのに比べて「なんとも自由に野球をやっていた時代」なのです。そういう野球を103人が「好き」で観戦していた。(注:観客がそれだけしかいなかったのです)。そういう自由な野球と決まりきった現代野球の違いを「佐々木信也さん、如何に考えますか?」でした。

                                 

    「点字毎日」に日本記者クラブ賞特別賞

     毎日新聞が発行する日本唯一の週刊点字新聞「点字毎日」に、2018年度の日本記者クラブ賞の特別賞が贈られる。贈賞式は5月23日。

     「点毎」は1922(大正11)年5月11日、創刊した。戦争中の用紙難で週刊から旬刊になったことがあるが、休刊したことはない。4年後、創刊100年を迎える。

     発刊の経緯が「毎日新聞百年史」にある。
     「新聞社というものは長い間には、知らないうちに罪を重ねているものだ。善根を積んで、同業者の罪滅ぼしをしたらどうか」
     ロンドンに留学中の「大阪毎日」記者河野三通士は、好本督(ただす)氏からこういわれた。好本氏は、網膜色素変性症のため視力が減退、英国で貿易商を営む傍ら盲人福祉に尽くた。盲人初の文部省派遣海外留学生中村京太郎氏(当時32歳)を費用全額負担で実現させた。『日英の盲人』(1906刊)を著している。

     河野は、点字新聞の発刊を提案する。これを当時の本山彦一社長が受け入れた。大阪毎日新聞の新社屋堂島本社(現堂島アバンザ)完成記念として「サンデー毎日」「英文毎日」などともに創刊した。採算を度外視した社会貢献事業だった。初代編集長は、中村京太郎氏を迎えた。
     「点毎」は、1963(昭和38)年に菊池寛賞を受賞した。それを記念して翌64(昭和39)年に「点字毎日文化賞」を創設、第1回の受賞者に好本督氏を選んだ。

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    「点字毎日」創刊号(左)と現在の「点字毎日」

     「点字毎日」は視覚障害者のために、日本で唯一、独立した取材と編集で発行している点字新聞である。視覚障害者に役立つニュース、暮らし・イベント情報、ラジオ・テレビ番組などを掲載している。

     A4判、60ページ。創刊から続く「点字版」のほか、弱視者や家族、ボランティアの人たちに利用されている大きめの活字の「活字版」(タブロイド判、12ページ)、音声で聞ける「音声版」などを出している。問い合わせは点字毎日(06・6346・8388)へ。

    (堤 哲)

    世界に誇れるパレスサイドビル

     月刊「東京人」5月号の特集は「1960?1970年代 ビル散歩」。
     その内容紹介――。今年は日本初の超高層ビルとして霞が関ビルディングが誕生してから50年。その後40階を超えるビルディングの建設ラッシュが続きました。
     高層ビルが都市の発展の象徴であったいっぽうで、団地に変わってマンションが登場し、私たちの住環境も大きく変化しました。
     1960?1970年代に建てられたビル群の時代の結晶を読み解きます。

     その34ページに「オフィスビルの日本代表」として、パレスサイドビルが紹介されているのである。うれしいではありませんか。
     「完成した時代ならではの格好よさに磨きをかけて、今も現役。世界を巡ると、そんなビルに出会うことが少なくない。そこに自信を持って送り出せる日本代表がこのビルだ」

     パレスサイドビルは、1991年に優れた既存建築物を表彰する第1回BELCA 賞のロングライフ部門に服部時計店、丸ビルなどともに選ばれた。建築業協会(BCS)賞、モダニズム建築20選に選ばれるなど、いくつもの賞を受けている。

     1966(昭和41)年完成。設計は日建設計の林昌二氏である。

    (堤 哲)

    横山大観展がお隣の近代美術館で開催中

     生誕150年、没後60年記念の横山大観(1868~1958)展が5月27日まで北の丸公園の東京国立近代美術館で開かれている。毎日新聞の主催イベントだ。

     「群青富士」(展示は5月6日まで)や初公開の「白衣(びゃくえ)観音」など展示作品は約90点にのぼる。

     目玉は、重要文化財「生々流転」。長さ40メートル余が全巻展示されている。

     この作品は、第10回再興院展に出品された。上野公園「竹の台陳列館」での初日が1923(大正12)年9月1日。正午前、関東大震災に見舞われた。幸い作品には被害がなかった。

     この事実は、会場に流されている作品紹介のビデオで知った。大観が「生々流転」の下絵を描きあげたのはこの年の3月。それから半年間、80メートル以上の絹地を使って、完成させたという。無事でよかった!

     5月8日からは、「夜桜」と「紅葉」が同時に展示される。「夢の共演」と、同展のパンフレットにある。

     私は開催2日目の14日(土)に鑑賞して、帰りにパレスサイドビル「赤坂飯店」で久しぶりに野菜そばを食べた。「横山大観展に行かれたのですか」と店員に聞かれ、チケットを見せると、デザートとして杏仁豆腐のサービスがあった。

     パレスサイドビル内の飲食店などで「チケットサービス」を実施している。ただし日曜、祝日はビルが休館なので、サービスは受けられない。

     皇居の新緑を楽しんで、芸術鑑賞。そのうえ懐かしのパレスサイドビル飲食店で食事も一興だと思いますが、いかがでしょうか。

    (堤 哲)

    第90回センバツが23日(金)開幕

     「春は90回。夏は100回。高校野球は今年、春夏の大会とも節目を迎える」

     これは朝日新聞夕刊2面に、3月12日から5回連載の「春のセンバツをたどって」の書き出しである。
     「エッ、朝日がセンバツの連載」。正直、私はびっくりした。
     それどころか、朝日新聞は、朝刊スポーツ面でも「あの春 センバツ名勝負」を連載した。70年42回大会決勝簑島5-4北陽(延長12回)②89年61回決勝東邦3-2上宮(延長10回)③95年67回準々決勝今治西5-4神港学園(延長13回)④99年71回準決勝沖縄尚学8-6PL学園(延長12回)⑤03年75回準々決勝花咲徳栄2-2東洋大姫路(延長15回、引き分け再試合)。どれもスリリングな好試合だった。
     第1回の書き出しが、春はセンバツから――。
     これも「エッ!」だった。

     夏は1915(大正4)年、春センバツは1924(大正13)年に始まったが、夕刊の連載で、そのルーツは、運動具店の美津濃商店(現ミズノ)が企画して1913(大正2)年8月に豊中グラウンドで始めた「関西学生連合野球大会」だったとある。

     朝日新聞がその2年後に夏の大会を始めると、ミズノの大会は朝日の大会の代表を決める関西大会(大阪、和歌山、奈良)となり、第4回からは開催時期を1月、第8回からは3月に変えた。そして24年の第12回大会が最後となった。その年の4月1日から毎日新聞が名古屋でセンバツを始めたからである。
     その間の事情は、ミズノ創業者の生涯をまとめた『スポーツは陸から海から大空へ 水野利八物語』(1973美津濃刊非売品、翌74年ベースボール・マガジン社刊)に詳しい、と紹介している。

     夕刊の連載は、第1回「優勝旗は知る、大会の原点」②開催地、「名古屋に定めた」③「校風・品位」より前面に④21世紀枠、グンッと成長⑤時代連なって、今。
     最終第5回は、1995(平成7)年の阪神大震災2か月後に開催したことを紹介しているが、2011(平成23)年の東日本大震災は、センバツ開幕の12日前に発生した。「中止」の意見が圧倒的な中、朝比奈豊毎日新聞社長(当時)は、「こんなときだからこそ」と、第83回の開催を決意した。重い決断だった。
     開会式の選手宣誓。岡山創志学園のキャプテン野山慎介君はこう述べた。
     「私たちは阪神大震災の年に生まれました。そして今、東日本大震災で多くの命が奪われ悲しみがいっぱいです。今私たちに出来ることは、この大会を精一杯元気を出して闘うことです。頑張ろうニッポン。生かされている命に感謝して」

     朝日新聞夕刊連載の最終回は、こう締めくくっている。
     (阪神大震災の1995年)3月25日、第67回大会が開幕。開会式では犠牲者への黙祷(もくとう)などのあと、大会歌「今ありて」(作詞・阿久悠、作曲・谷村新司)が合唱された。
     《今ありて未来も扉を開く/今ありて時代も連なり始める》
     多くの困難も乗り越え、今年、第90回記念大会。23日の開会式ではこの曲にのって球児が入場行進する。

     編集委員・安藤嘉浩の署名があった。実は、安藤記者とは何回かお会いしたことがある。岐阜県立岐阜高校の高校球児で、立教大学では学生スポーツ紙「立教スポーツ」の記者をしていたという。

     センバツを盛り立ててくれた安藤記者にお礼をいいたい。

    (堤 哲)

    幻の新元号スクープ

    新元号「平成」を発表する小渕官房長官(1989年1月7日)
    新元号「平成」を発表する小渕官房長官(1989年1月7日)

     朝日新聞3月7日朝刊に、「幻の新元号スクープ/発表直前、毎日が入手」の大見出しが躍った。記事は、こう書き出している。

     1989年1月7日午後2時ごろ、首相官邸の記者クラブ。毎日新聞政治部の男性記者が、仮野(かの)忠男・官邸キャップに1枚のメモを手渡した。政府関係者から極秘入手した。それには、手書きで「平成」とあった。

     「取れました! 平和の『平』に、成田の『成』。ヘイセイです」

     仮野氏は東京・竹橋の本社で待つ橋本達明デスク(後の主筆)に電話した。

     毎日新聞創刊130周年を記念して発行した社史『「毎日」の3世紀』(2002年刊)には、こうある。

     この速報は読者数の一番多い夕刊3版から入った。小渕恵三官房長官(当時)が記者会見で正式に「平成」を発表したのは、それから30分以上も後の午後2時36分のことである。

     他社は小渕官房長官の会見を聞いて最終4版に入れるのがやっとだった。

    朝日新聞の記事に戻る。
     元号をスクープしようと、報道各社は熾烈(しれつ)な競争を繰り返してきた。「大正」は朝日新聞の新人記者だった緒方竹虎(故人)が特報。昭和改元では毎日の前身、東京日日新聞が報じた「光文」が誤報となり、社長が辞意を表明する事態となった。平成改元で、毎日は「光文事件の雪辱を果たす」と誓っていた。

     新元号「平成」スクープ――。89年2月1日付の毎日の社内報には大見出しが躍る。

     だが新聞協会賞は申請されず、読売新聞は「平成改元」(行研)で「スクープもなく、新元号『平成』は決まった」とした。

     毎日新聞政治部の「元号特別取材班」榊直樹記者(現・愛知東邦大学長)は、予定稿に「平成」と入れ、出稿した。しかし、即、輪転機は回わらなかった。

     「光文事件の二の舞いになったら」。どうも、それがブレーキになったらしい。

     「平成」は誰が掴んだのか。A記者と匿名である。「ひとえに取材源を秘匿し守るためである」と社史は綴っている。  取材チームに「主筆賞」が贈られた。

     【特別取材班】担当デスク橋本達明、榊直樹、小松浩
     【首相官邸クラブ】キャップ仮野忠男、松田博史、長田達治、冠木雅夫、平松壮郎、中山信、龍崎孝

    朝日新聞の記事の後半――。
     朝日新聞政治部では87年秋から、植木千可子記者(現・早大教授)ら2人が元号担当となった。中国の古書「四書五経」を引きながら、およそ100の私案を作成。その中には「平成」も含まれていた。

     当時、小渕官房長官の担当記者だった星浩氏(現・ニュースキャスター)は小渕氏が住む東京・王子の私邸を訪ね、植木記者らが作ったリストを2度見せている。その時ははぐらかされたが、小渕氏は後に「あの時は心臓が止まるかと思った」と打ち明けたという。

     平成31年5月1日から新元号に変わる。

     スクープ合戦は、すでに始まっている。

    (堤 哲)

    後輩が女子カーリングで初の銅メダル

    東京夢舞いマラソン・ポタリング記念誌『笑顔の年輪』
    初の銅メダルを喜ぶ日本女子カーリングチーム(左端が藤澤選手)=NHKテレビから

     おめでとう! カーリング女子 銅メダル! !

     「銅だね? そだね?」

     北海道立北見北斗高校のHPに、カーリング女子日本代表のスキップ、藤澤五月さん(ロコ・ソラーレ北見)の活躍を称える記事が早速アップされた。

     藤澤さんは85期。昨年12月に同校で実施した壮行会で、「藤澤選手は、挑戦することが大事という話を生徒にしてくれました」と校長先生も誇らしげに、つぶやきを書き込んでいる。

     元編集委員、というより元毎日労組本部執行委員長大住広人さん(80歳)は、藤澤選手の54年先輩、31期卒業生である。  大住さんの母校愛は大変なもので、現役時代、同僚編集委員ら毎日新聞の仲間10人ほど(このうちの4人が鬼籍に入っている)でツアーを組んで北見北斗高校を訪問した。

     そのビデオを見たことがあるが、校庭で全員が輪になって、校歌を合唱した。メロディーがデューク・エイセスの「幼なじみの思い出は 青いレモンの味がする……」で始まる「おさななじみ」に似ているとかで、蛮声を張り上げた。

      オホーツク海の流氷は
        欧露の空の雨雲か
      北の鎮の北海を
        寒風すさみ流る時
      万目すべて凍るなり
        されど我等の校庭に
      千古に青き茂みあり
        常盤に茂れる林あり

     インターネット情報は恐ろしい。大住さんが同窓会で校歌を歌っている姿が映し出されたのだ。

    https://www.musicjinni.com/CLqRy2jtDsF/%E2%99%AA%E5%BF%98%E5%B9%B4%E4%BC%9A%E3%81%A7%E6%A0%A1%E6%AD%8C%E5%90%88%E5%94%B1%EF%BC%88%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E5%8C%97%E8%A6%8B%E5%8C%97%E6%96%97%E9%AB%98%E6%A0%A1%EF%BC%89.html

    (堤 哲)

    東京夢舞いマラソン・ポタリング記念誌『笑顔の年輪』

    東京夢舞いマラソン・ポタリング記念誌『笑顔の年輪』

     25日に東京都心を走り抜ける東京マラソンは、2007(平成19)年から始まった。ことし12回目だ。

     ボストン、NY、ベルリン、ロンドン……。「世界の大都市にあって日本にないのは、市民に開かれた首都マラソン大会」。毎日新聞OBの大島幸夫さん(80歳)が、その実現に向けて第1回「大江戸夢舞いマラソン」を実施したのは2001年1月1日だった。21世紀の初日、お台場海浜公園→代々木公園の42.195㌔。もっぱら歩道を走り、赤信号はストップだ。

     翌2002年1月に第2回を開いた後、銀座目抜き通りを走る市民マラソンの実現に向けて、のシンポジウムを開くとともに、大島さんを理事長に市民による市民のためのNPO法人「東京夢舞いマラソン実行委員会」が立ち上がった。そして10月の第3回は市民ランナー1000人が四ッ谷から都心の目抜き通りを走った。

     東京都の石原慎太郎都知事が乗り出してきたのは、それからだ。第7回東京夢舞いマラソンは、「祝東京マラソン開催」をキャッチフレーズに、女性の完走者には赤いバラ、男性には白い羽根をプレゼントした。

     これでNPOは初志の使命を果たしたことになるが、参加者の根強い人気で大会は現在も続き、JKA後援の第9回大会からは自転車も参加するポタリング(自転車での散歩)大会を併せて開催している。

     2013年、第26回ランナーズ賞(月刊ランナーズ主催)の受賞を記念して、NPOの広範な市民力で編まれたのがこの『笑顔の年輪』。活動を支えた多くの市民たちの声が快くも熱っぽい。本文156ページ。非売品。ただし、東京夢舞いマラソン・ポタリングNPO(http://www.tokyomarathon.jp/)への賛同寄付者(1口2000円)には各1冊を謝礼進呈している。

     大島さんが皇居周回ランナーになったのは42歳の時。サブスリー(フルマラソンを3時間以内で走る)を達成し、世界中の市民マラソンを体験して『市民マラソンの輝き― ストリートパーティーに花を! 』(岩波書店2006年刊)を出版するなどでマラソン文化論を展開している。ことしの目標は、ボストンマラソンを5時間以内で完走だ。

    (堤  哲)

    読売文学賞に輝く 米本浩二著『評伝 石牟礼道子―渚に立つひと―』(新潮社)

    米本浩二著『評伝 石牟礼道子―渚に立つひと―』(新潮社)

     「評伝を、私に、書かせていただけませんか」

     石牟礼道子さんに、そうお願いしたのは2014年の初めだった。

     これが書き出しである。

     「著者は3年にわたって集中的な密着取材を行い、400時間をゆうに超える時間を石牟礼さんとともに過ごし、彼女の全体像に迫った」と、読売新聞の受賞者紹介欄にある。

     「苦海(くがい)浄土 わが水俣病」で知られる熊本市在住の作家で詩人、石牟礼道子さん(90歳)の初の本格的評伝だという。

     著者米本浩二さんは、毎日新聞西部本社学芸グループの記者である。57歳。

     同書の著者紹介によると、徳島県庁正職員を経て早稲田大学教育学部英語英文科卒。在学中に『早稲田文学』を編集、とあり、毎日新聞入社は1987年。筑豊支局などを経て2010年から西部本社で文学を担当している。

     毎日新聞の書評では「冷たい高みからではなく、著者自身が腰まで泥に浸(つ)かって対象に食い込む。一行のムダもない迫真性が、そこから生まれた」と絶賛。

     作家の池澤夏樹さんは、暮れの毎日新聞読書面で「2017年この3冊」に挙げた。

     池澤さん個人編集の「世界文学全集」は、日本人作家は石牟礼道子さん1人で、「苦海浄土」全3部が収録されている。米本さんは、池澤さんを「北海道のアニキ」と呼んで畏敬しているというのだ。

     贈賞式は2月21日午後6時半から帝国ホテルで行われる。

     その石牟礼さんが2月10日亡くなった。90歳だった。

     米本記者は、毎日新聞に「評伝」と、亡くなるまで最後まで寄り添っていたことを綴った。〈1月31日、亡くなる10日前のこと。ベッドに横になった石牟礼さんが寝息を立て始めた。そっと帰ろうとした私を「あの」と呼び止め、「筆記してください」と言う。私は急いでノートを広げた。石牟礼さんが語った言葉を以下に記す。

     「村々は 雨乞いの まっさいちゅう 緋の衣 ひとばしらの舟なれば 魂の火となりて 四郎さまとともに 海底の宮へ」〉

    (堤  哲)

    校閲記者の目ーあらゆるミスを見逃さないプロの技術

    校閲記者の目 あらゆるミスを見逃さないプロの技術

     紙面を守るゴールキーパーだ、という。

     「誤りを見逃す=失点しても、自ら点を取りに行って挽回するようなことはできません。けれど、0点に抑えることはできる。負けない試合はできるのです。これこそ校閲の存在意義です」

     毎日新聞の校閲グループが元気だ。『校閲記者の目』(2017年毎日新聞出版刊、1,512円)に、校閲記者の自負がまずあった。

     この本の売れ行きが好調で、版を重ね、4刷が出ている。

     私が現役の時は、活版だった。活字を新聞1ページ大に組み上げる「大組」は、いつも降版時間ギリギリだった。大刷りは、まず校閲に回るが、チェックする時間はほんのわずか。ゴールキーパーは天手古舞いだった。

     新聞社では下積みの仕事と思われていたが、今、校閲記者志望が増え、人気なのだという。石原さとみ主演のドラマ「校閲ガール」(NTV)が高視聴率をとった影響もあるのか。

     毎日新聞のHPでも、積極的に情報を発信。「SNS(ソーシャル・ ネットワーキング・サービス)を駆使して、ネット時代の読者との新たな『つながり』に成功している」と、編集担当取締役は評価している。

     本の著者紹介欄。「毎日新聞は東京に40人余り、大阪に30人余りの校閲記者がいる。原則として広告などを除く全紙面について記事のチェックをしており、いわば新聞の『品質管理部門』。書籍などと比べてかなり短時間で仕事をこなさなければならないのがつらいところ。朝刊の校閲作業は深夜になるため生活は『夜型』である」

     ・午前0時を越えて体力充ちてをり大連立不発の記事を読み直す
     ・ガレー船とゲラの語源はgalleyとぞ 波の上なる労働を思ふ
     ・八月は被爆と野球に追ひまくられ眼痺れるころ朝刊成る
     ・人の死を伝へる記事に朱を入れる仕事 くるくるペンを回して
     ・文字として過ぎてしまった人の死を 缶コーヒーは手を温める
     ・「コンセントを抜く」は間違ひ「プラグを」と直して節電の貼り紙とす
     ・死者の数を知りて死体を知らぬ日々ガラスの内で校正つづく

     本の最後にあった、現役校閲記者の短歌である。

     校閲グループデスクの岩佐義樹さんは『毎日新聞・校閲グループのミスがなくなるすごい文章術』(ポプラ社・1,404円)を出版した。

    写真は、元気いっぱいの校閲グループの皆さん

    写真は、元気いっぱいの校閲グループの皆さん

    (堤  哲)

     

    毎日中学生新聞で育った文化功労者・高橋睦郎さん

     詩人で、歌人で、俳人でもある高橋睦郎さん(80歳)は、2017年に文化功労者に選ばれ、日本芸術院会員にもなった。

     その高橋さんが、1月14日日曜日の日本経済新聞文化欄に「80歳を零歳として」と題してエッセーを書いているが、その中にこうある。

     「(中学校で文芸部に入り)私はいつか詩作の真似事に熱中し、母が取ってくれていた毎日中学生新聞の投稿欄に送った。詩だけでなく、短歌も、俳句も、ついでに作文も投稿した。

     それらすべてを通して入選・入賞回数が1位。選者の先生がたの煽(おだ)てに乗って、3年生の頃には詩作の習慣は抜けられないものになり……」

     毎日小学生新聞(毎小)・中学生新聞(毎中、2006年に休刊)を読んで育った人は数知れない。毎小創刊60年を記念して出版した『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』(毎日新聞社学生新聞本部編、1997年刊)には、読者代表として作家の田辺聖子さん(89歳)、鉄道マニアの元JR東海会長の須田寬さん(86歳)のエッセーが載っている。

     作家の小松左京さん(2011年没、80歳)、ノーベル賞を受賞した化学者の野依良治さん(79歳)も読者だった。

     漫画家の松本零士さん(1月25日で80歳)も毎日新聞西部本社に作品を持ち込んだと本人が語っているが、漫画家では手塚治虫さん、藤子不二雄さん、園山俊二さんらが「毎小」でデビューした。

     頑張れ!「毎小」と声援を送りたい。

    (堤  哲)

     

    江成常夫作品展 「多摩川 1970-74」
    1月5日(金)? 1月28日(日) JCIIフォトサロン

    江成常夫作品展 「多摩川 1970-74」

     毎日新聞写真部OBの写真家・江成常夫さん(81歳)は昨年6月、「多摩川1970?74」(平凡社、4,600円+税)を出版したが、その写真展が1月5日(金)から28日(日)まで、日本カメラ博物館のあるJCIIフォトサロン(千代田区一番町25、東京メトロ半蔵門線半蔵門駅4 番出口)で開かれる。入場無料。

     同写真集は、毎友会HPで紹介したが、展示されるのはモノクロ写真60点。「奥多摩の雪中に湧く源流、山女も遡上する清流や河原、そして、下流へ進むにつれて、廃棄物や生活排水の泡に埋め尽くされていく川の実相をとらえ、自然環境保全の大切さを訴える」(同サロンHP)。

     江成さんは、土門拳賞と木村伊兵衛賞の両賞を受賞している実力写真家である。是非、会場へ足を運んでください。

    (堤  哲)

     

    帰省ラッシュが間もなく

     平田明浩東京本社写真映像報道部長(かつての写真部長)が、「心に残る写真」というテーマで東京写真記者協会のHPにエッセーを書いている。

    帰省客で混雑するホームで、出迎えの親類に駆け寄る女の子 (1998年12月、JR名古屋駅で)
    帰省客で混雑するホームで、出迎えの親類に駆け寄る女の子 (1998年12月、JR名古屋駅で)

     1998年12月29日、JR名古屋駅の新幹線ホーム。〈デスクから帰省ラッシュの取材を依頼されて、眠い目をこすりながら徒歩数分の名古屋駅に向かった。

     ホームへの階段を上り、まずは帰省取材の王道であるホームが混雑する様子を撮影しようと脚立に乗って中望遠レンズを構えた。その時、東京方面からきた新幹線がタイミング良く到着した。ホーム上には大勢の帰省客に混じって初老の男性が立っていた。新幹線の扉が開いた。次の瞬間、車内から一人の女の子が両手をいっぱいに広げて勢いよく初老の男性に駆け寄った。あっという間の出来事。とっさに3コマ、シャッターを切った。撮影を始めてまだ数分だ。カメラには36枚撮影できるフィルムが入っていたので、取材を切り上げるには早い。でも、なんだかいい写真が撮れている気がして、急いで会社に戻った〉

     会社に戻り、ソワソワしながらフィルムを現像した。長いロールフィルムのまま、ルーペで確認すると、女の子が祖父に向けたなんともいえない笑顔が写っていた。

     写真は東京本社発行の新聞にも掲載された。…掲載後、「この写真を見て元気が出た」という内容のお便りをたくさんいただいた。写っている女の子と同じ年頃の孫を持つ方からのものが多かった。

     その後の私のカメラマン人生はというと、俗にいう歴史に残る瞬間に取材者として何度も立ち会い、撮影をしてきたつもりだ。だが、本当に心に残る写真は、会社から1キロも離れていない徒歩で行ける場所での写真なのである〉

    (堤  哲)

     

    永田ラッパにスカウトされた「大魔神」 追悼・橋本力(元毎日オリオンズ球団)

    2017.03.21撮影(毎日新聞紙面から)

     毎日オリオンズOB会に土井垣武や西本幸雄、山内一弘、山根俊英らが飲み食い集っていた頃、僕は毎年「エピソードを確認」するのが楽しみだった。ある時、植村義信と橋本力が並んで座していた。畳の宴席なのに橋本力だけは特別扱いで椅子に座っていた。もともとデカイ図体は聳えんばかり。「腰痛でね」。隣の植村義信が言う。「大魔神ねえ(橋本力の仇名)、俺と甲子園は同窓なんよ。そして、毎日オリオンズ入ったのも同期生やん」。

     大投手・植村義信は芦屋高校で1952(昭和27)年夏の甲子園(第34回大会)優勝投手。橋本力は同じ大会で函館西高校(北海道立の公立高校)の外野手。そのときの函館西は メチャ強く話題を呼んだ。1回戦岐阜工と延長12回0-0引き分け、再試合7-1で勝ち、2回戦7-3愛知高校を破る快進撃。準々決勝で成田高校に負けたのだった。橋本は同年のセンバツ(第24回大会)にも出場、初戦で同大会優勝の静岡商業と対戦し田所善次郎投手を苦しめながら0-1で敗退した(惜しい!)。

    オリオンズ帽をかぶった橋本力

     ドラフトなんぞナイ時分の1953(昭和28)年「超」高校級の植村と橋本は揃って毎日オリオンズ入り。カンペキに即戦力だった。後楽園球場で毎日オリオンズの試合を観戦しまくっていた僕は「超」に近い「鈍」高校生。2歳年上の橋本は「背番号1」。どんなヤツか。よよっ。橋本力が大遠投……ホームタッチアウト! 三塁からの走者をゲッツーで射止めた喝采プレーを見せた。「すっげー。肩の強いヤツが入ってきた」。オリオンズはこの年から別当薫監督になっていた。土井垣は東映に移籍するなどチーム若返り。1957(昭和32)年、橋本力は119試合に出て56安打の活躍だったが怪我で二軍落ちした。通算盗塁が30個なんて素晴らしい。いい選手に育ちそうだ、と思いきや。

     ところがどっこい。ファーム暮らし幸いを呼ぶとはツユ知らず。オリオンズのオーナーが永田雅一(ラッパ)となり、チーム名も「大毎オリオンズ」になった。何にでも顔を出すラッパのこと。春のキャンプを訪れた。ラッパがあちこちを見て、「おい、あそこにいる顔のゴツイの、なんっちゅうヤツだ」。「橋本力です」「おーい、橋本―っ。こっち来いっ」。呼ばれた橋本がラッパの前に来た。「キミぃ、いい面(ツラ)してんじゃあねえか」。

     折も折。ラッパ大映はベストセラー小説「一刀斎は背番号6」(五味康祐作)の映画化を考えていた。本物の野球シーンを指導する本物の選手が必要となり、ラッパが「橋本力しかねえよっ」。社長室に呼ばれて「キミぃ、やってくれっ」「どうせ、今シーズンは一軍には上がれんだろ」。一発で決まった。ついでに一刀斎チーム選手役でも出演した。180センチ近い肉体と“侍顔”が受けた。

    侍の役柄をした橋本力

     橋本力は映画俳優(京都撮影所専属)になる。別のハナシでは「一刀斎は背番号6」撮影中、フライを捕球する際に大怪我をして、大映側が気の毒に思い俳優業を勧めたとも言われるが、僕が聞いた本人のハナシでは「ラッパの誘い」に決断したのである。ラッパの先見! まことに大当たり! そのとおり、確かに橋本力は大毎オリオンズになったシーズン(1958年)、試合数も激減して13安打どまりだったのだから。

     いやあ、オリオンズOB会の宴席でも「その面構え」は大いに目立った。彫が深く目玉が大きい。体格が立派。力が強い。声が太い。まさに俳優。そうは言っても演技はシロト。当初「三人の顔役」「ひげ面」「悪名市場」などに出演したが、ほとんどは悪役専門。だが、ツラの魅力が利して「座頭市血笑旅」「眠狂四郎魔性剣」……と仕事は増えた。そうしてやってきたのが主役の座! 本人が大笑いして言っていた。「うれしかったですよオ。あんとき、ね。大映映画の主演だもんね」。

     「それがよ……それがよ。ヌイグルミの中に入るんだとは知らんかったから、びっくりしたねえ」。特撮時代劇映画・大魔神シリーズ三部作。「大魔神」「大魔神怒る」「大魔神逆襲」。大魔神の中で動き回る。

     「あれ、重いのよ。俺、力あったんで、まあ、なんとか振舞ったけどね。1本映画撮ると疲れたねえ。目も疲れた」

     そう。モンダイは、大魔神の目は橋本力のホンモノの目だった。被り物の穴から目だけ出した。「瞬きしないでほしい」と監督が注文を付けたので、瞬きをしなかった。目に力を込めて、えいっと。1シーンを瞬きしないで通した?! 「ああなると、もう、意地だよ意地」。意地で瞬きを堪えるなんざあ、ね。外野手は飛球を睨んだら捕球するまで瞬きはしませんからね。さすが、である。

     その後は勝新太郎に気に入られ、その縁で香港映画「ドラゴン怒りの鉄拳」でブルース・リーの敵役で共演した。その件については「なんかねえ、あんまり覚えていないんだよね」だった。野球の一試合一試合は「結構覚えているけどねえ、映画に出たのは、一つ一つ、そんなに記憶がないんだよ」。そうだよナ。映画に出演する人間にとっては撮影が断片的で物語性に乏しい。野球は自分が連続ドラマに出ているから一球一球が脳に残るのである。

     のちに、佐々木主税(横浜太洋ホエールス、横浜ベイスターズの守護神)が「ハマの大魔神」と仇名された。あれは、佐々木の風貌と投げるときの目をむく様が、橋本力の「大魔神」に似ていたからである。その元祖「大魔神」も、2017年10月11日死去した。83歳だった。ついでに言っておくが「ハシモト・リキ」は芸名。本名は「つとむ」。

     僕はラッパ(永田雅一)のさまざまな行動に「妙な興味」を抱く。陸上短距離の飯島秀雄を「盗塁の名手」に仕立て、橋本力を「大魔神」に仕立てた。そもそも「毎日オリオンズ」という球団創設も、プロ野球2リーグ創立もラッパが絡んでいる。戦後まもない時代の自由な発想から「面白いコト」が始まるのが嬉しかった。「大魔神」の死が、昭和20年代……僕のガキ学生時分を思い浮かばせてくれる。

    (諸岡達一)

     

    「土太郎村」に土壁の家

     写真は、OB中島健一郎氏の自宅である。2017年度「日事連建築賞」(日本建築士事務所協会連合会)の優秀賞に輝いた。

     「版築のいえ」。版築とは土壁のことで、写真の中央から突き出ているのが版築。厚さが1.2メートルもある。高さ2メートル。この写真は、玄関の反対側からだが、玄関を入ってすぐのところから、ピアノのあるホールとダイニングキッチンを分けて、建物の外まで突き出している。

     両側に開いているのは厚さ70センチの土壁。建物の両脇も同じ土壁で、版築の壁が1本と、土壁4本が基礎となって、その上に木造のシャレた家が建っている。

     土壁は横方向に弱く、その補強のために竹を使っている。鉄筋コンクリートでなく、全く自然素材の「竹筋土造り」である。冬暖かく、夏涼しいのが、特徴である。

     「土太郎村」。市原市南部の高滝湖から車で数分。緑深い自然の中、敷地面積約10万坪の広大な「村」の建設工事が急ピッチで進んでいた――。

     これは朝日新聞千葉版の2017年元日紙面の書き出しである。

     〈テクノロジーの発展やライフスタイルの変化で、私たちの未来はどうなっていくのか。20XX年の未来予想図をシリーズでお伝えします〉の連載第1回。

     土太郎とはこの地の字(あざ)名だだが、目指すのが、エネルギーを自前でまかない、自給自足の生活をする「サステナブル・ヴィレッジ(持続可能村)」。太陽光パネルは4・3メガワットの発電が可能で、水力発電も計画している。

     すでに木造住宅が50戸が建ち、将来は130戸ほどに増えて、「土太郎共和国独立宣言」をしたい、と村長さんの中島健一郎さん(72歳)はいっている。

     ちなみに中島氏は、元社会部長、事業本部長から常務取締役を務めた。

    (堤  哲)

     

    新聞協会賞受賞を祝う会 3コマ、0.2秒に決定的瞬間!

     リオ五輪4×100mのボルト選手(ジャマイカ)とケンブリッジ飛鳥選手が並走している写真で、2017日本新聞協会賞を受けた梅村直承(なおつね)記者=現北海道支社報道部写真グループ=のお祝いの会が21日、パレスサイドビルB1毎日ホールで開かれた。

     毎日新聞の編集部門での受賞は29件、写真部門では昨年に続く連続受賞で7回目で、いずれも最多受賞である。

     まず丸山昌宏社長が「動画全盛の時代に、一瞬を切り取ったこの写真のインパクトは強かった。皆さんとともに受賞を喜びたい」と挨拶、朝比奈豊会長が乾杯の音頭をとった。

     続いてゲストの鈴木大地スポーツ庁長官。10月からスポーツ面にコラム「長官鳥瞰(ちょうかん)」を月1回執筆することになっている。タイトルも自ら考えたという。「スポーツ写真が新聞協会賞を受賞するのは初めてと聞いてびっくりしました」などとお祝いの言葉を述べた。

     会場には、受賞の写真を撮影したキャノンのカメラが600ミリの望遠レンズを付けてセットされ、キャノン代表も「私どもも社内で鼻高々です」と喜びを話した。

     受賞者梅村記者は「1秒で14コマの連射ができます。この場面が写っていたのは3コマ。ピントはすべて合っていました」と報告した。

     1÷14×3=0.21

     あの場面は、わずか0.2秒の出来事だったわけだ。一瞬を切り撮る作業は大変である。

    (堤  哲)

     

    2017日本新聞協会賞をこの写真が受賞しました!

    リオデジャネイロ五輪陸上男子400メートルリレー決勝で競り合うアンカーのケンブリッジ飛鳥選手(左)とウサイン・ボルト選手=2017年9月7日(木) 毎日新聞「新聞協会賞受賞特集」から

    毎日新聞の編集部門受賞は最多の29回/報道写真で7回目

     表彰式は、10月17日広島で開かれる第70回新聞大会で行われる。

     報道写真は、一瞬をどう切り取るか。それがすべてである。

     リオ五輪の男子4×100m決勝。毎日新聞は4人のカメラマンを投入した。2人はフィニッシュラインに構え、トラックレベルの低い位置に1人。この写真を撮影した梅村直承(なおつね)記者(40)=当時東京本社写真映像報道センター、現北海道支社報道部写真グループ=は、トラック全体を見渡せる高い仮設の撮影台が撮影場所だった。

     受賞報告で梅村記者はこう明かしている。〈私の撮影位置ならば超望遠レンズで最終バトンパスを撮影した後、少し焦点距離の短いレンズを装着したカメラに持ち替え、フィニッシュの場面を写すのがセオリーだ。だが、私は超望遠レンズのままケンブリッジ選手の表情を撮ることにした。「押さえ」の写真を撮る選択肢を捨てたのだ〉

     〈最終のバトンパスからフィニッシュまでの約10秒間、セオリー通りでは撮影が難しい位置で起きた一瞬を捉えることができた〉

     何百人ものカメラマンがこのレースを撮った。しかし、ウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)の「アレッ、何故日本の選手?」という驚愕の表情を捉えたのは、梅村記者の1枚だけだった。

     おめでとう!梅村カメラマン。毎日新聞入社は2000(平成12)年。振り出しは大阪本社写真部で、2008年北京五輪も特派されている。

     毎日新聞の新聞協会賞編集部門での受賞は、昨年の熊本地震「奇跡の救出」など一連の写真報道に続き2年連続29件目。

     写真部門の受賞は①1961年度「浅沼委員長刺殺」東京本社写真部長尾靖撮影②1986年度「車椅子の田中角栄元首相」東京本社写真部永田勝茂撮影③2006年度「パキスタン地震一連の写真報道」東京本社写真部佐藤賢二郎撮影④2007年度「長崎市長銃撃事件」長崎支局長澤潤一郎記者撮影⑤2011年度「3・11大津波瞬間のスクープ写真」東京本社写真部手塚耕一郎撮影⑥2016年度「熊本地震・奇跡の救出など一連の写真報道」西部本社写真部和田大典撮影。

    (堤  哲)