随筆集

2016年7月8日

セイシェルの野鳥 背黒アジサシ

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 新聞社の常識とは言え、突然に、しかも、思いもかけない仕事が飛び込んで、てんてこ舞いさせられたものだ。

 1967年のこと。「毎日グラフ」永戸編集長から「ムツゴロウさんのお供でアフリカに行く、帰りにセイシェルで途中下車?して、野鳥を撮ってきてください。あそこは世界的に貴重な野鳥天国で、まだ日本人カメラマンが入っていない島々なのです」

 当時、BOACがセイシェル経由のナイロビ便を週に一便で飛ばし始めたばかりだった。だから、ここで飛行機を降りると、次の便は一週間後になる。これが取材時間と言うわけだ。

 とは言え、会社を卒業後WHOの事務局長を勤めた野生動物通の永戸さんと違い、私の方はニュース一筋、鳥の写真なんて考えたことも無い。「小さな島ですからね?。鳥は沢山飛んでいるはずですよ」。まるで公園の雀を写しにでも行くように簡単に言う。

 何はともあれ、銀座のイエナで“Bird of Seychelles”なる鳥の図鑑を買い、訳も分からぬままに飛び立った。

 アフリカ取材の撮影フィルムをムツゴロウさんに託して、右も左もわからない島に残されると、撮影への不安が肩に重くのしかかる。一人、インド洋の青空を仰いでいた。宿の親父に図鑑を見せて鳥を写しに来たのだがと尋ねると「そこらに幾らでも飛んでるじゃない?」と言う。島に唯一の観光案内所でも「ここは世界的に著名な鳥の楽園です。沢山飛びまわっているじゃないですか」。何を心配しているのかと言わんばかりで、一向に要領を得ない。

 ともかく私に与えられた時間は一週間だ。レンタカーで島内をかけ廻るがスズメやカモメ、茂みにいるのはキジバトばかりで、図鑑にある珍鳥たちの姿を全く見当たらない。

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 一枚もシャッターを切れないままに日が流れてゆく。眠れないままに迎えた一週間目の朝、覚悟を決めた。東京には「けん責」を覚悟でフライトを更に一週間延ばすと電報を打った。夜は、やけっぱち、飲みつぶれても良いと、それまで足を向けなかった島にただ一軒のナイトクラブ“プシー・キャッツ”に繰り込んだ。

 1600ミリと600ミリのドデカイ超望遠レンズをつけたニコンとスナップ用のニコン。それにハッセルブラットと全撮影機材を胸からぶら下げて店に入ると、先ずは女の子たちが驚きの声を上げた。それを聞きつけて男たちがワヤワヤと集まってきた。

 そして一斉に「あの鳥は写したか?」「あそこの岡の茂みを覗いたかね?」。「あの鳥を撮るのなら、あの男のテントを訪ねるべきだ・・・・」。

 もう酒を飲んでる余裕はない。懸命にメモするのが精一杯だった。

 翌朝からノートを頼りに車を走らせた。言われたところに行くと、探し求めていた鳥類図鑑の鳥たちが、目の前を飛んでいる。鳥の観察者たちも私を温かく迎えてくれる。情報はさらに深まった。

 こうなるとポイントを巡って、手当たり次第にシャッターを切りまくるだけだ。世界に16つがいしか確認されていない長い尾が美しい“セイシェル・サンコーチョウ“を、しかも抱卵しているメスに他所のオスがチョッカイをかけているところに、舞戻った亭主?が、メスを守る滅多に見られない情景が撮れた。100羽しか生息していないのではないかと言われる“セイシェル・チョウゲンボー”、特産種“セーシェル・タイヨーチョウ”など貴重な鳥たちが毎日撮れる。

 50羽しかいないとされる“ブラック・パロット”は、餌場への鳥の到来が遅く、ぎりぎり待たされ、帰国便出発10分前に滑り込むというハラハラの撮影にもなった。

 お陰様で「毎日グラフ」は、表紙から57ページを組むこれまでにない大特集になり、お陰でけん責を免れた。

 なお、何度かお茶を一緒したセイシェル共和国大統領(人口4万人の国)からは、返事が無かったが、南アフリカ共和国観光大臣からは、感謝状が届けられた。

 ギタリストで日本のフュージョン界を代表する高中正義さんは、“セイシェル”と言うLPレコードを作ってくれた。

写真は、年に一度、65万つがいの“背黒アジサシ”が集まり産卵し、雛を育てるバード・アイランドで撮影したもの。写真Aは、コロニーへの乱入者を威嚇して、私の後頭部を狙ってくる“背黒アジサシ”を振り向きざまに写した一枚。この写真は、コンテストで優勝し、レコードジャケットにも使ったのだ。毎日グラフの目玉写真は、これにするべきだったかな?。いまも気になっている一枚である。写真Bが毎日グラフ特集の目玉として見開きに大きく使った写真で爽やかさを狙ったものだ。

(元出版写真部 東 康生)