随筆集

2016年9月13日

ソ連崩壊直後、ロシア・シベリア旅行の思い出

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広場に箱を並べただけの店。そんな“何でも屋”で買い物をする主婦。

 1993年、12月19日付けの中学生新聞に掲載した写真で、中央シベリアの奥地、人口6万人ばかりの町レソシビルスクの青空マーケットで撮影したものである。

 外国人を、ましてやアメリカ人など見たことも無い辺境の町の主婦が、米ドルで買い物をしているのに出会った。恥ずかし気に見せてくれた財布には、他に1ドル紙幣が3枚入っていた。

 こんな辺境の町の主婦が、どうして米ドルを持ち、買い物までしているのだろう。

 1991年、ソ連邦が崩壊し、年間7000パーセントものハイパー・インフレに見舞われたロシアだったが、エリツィン大統領が、旧1000ルーブルを新1ル―ブルへと、千分の一もの大デノミを敢行して乗り切った。日々暴落するルーブルに対して、かつての仮想敵国の通貨米ドルのみが輝きを増していた時でもあった。

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米ドルのお客様歓迎の張り紙を出したブティック。

 埃を巻き上げて広場に入ってきたトラックが荷台を開くと、待ち構えていた人たちが取り囲む。ブドウが2キロで400ルーブル、卵が1ダース270ルーブルだった。

 世界同一価格を標榜するマクドナルドのハンバーグ・セットが、当時の東京で100円、モスクワで1300ルーブルだったから、ここレソシビルスクでも、米1ドルは1300ルーブルで換算されていると考えてよいだろう。

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ブティックの張り紙を拡大すると、「ドル札($)買います」の表示。米ドルがそれほど欲しがっていたのだった!

 当時シベリアの人々の平均月収は2万ルーブルと言われていた。ドルに換算したら20ドルにも満たない。厳しい暮らしを強いられている人々の懸命に生き抜く姿を垣間見た思いでもあった。

 今にして思うのだが、どん底にあえぐロシア経済を象徴する風景を、なぜ本紙の夕刊の持って行かなかったのだろう。浪人者のOBには、本誌持ち込みは、いささか敷居が高かったのだ。

(東 康生)