随筆集

2017年5月8日

野球殿堂入りの毎日新聞関係は美嶺さんが19人目

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 ことし野球殿堂入りした元毎日新聞運動部記者鈴木美嶺さん(1991年没、70歳)の殿堂入りセレモニーが5月27日(土)東京六大学春のリーグ戦最終週早慶1回戦の試合開始前に行われる。

 毎日新聞関係者で野球殿堂入りは、美嶺さんが19人目。野球の発展に、毎日新聞がどれほど貢献してきたか。

 野球試合の報道はもとより、プロ野球がない時代に、学生野球のスターらを社員に採用して「大毎野球団」をつくった。日本で最強の野球チームとなって、全国に遠征して地元中学(旧制)の野球部を指導した。アメリカにも遠征して、米大統領を表敬している。春のセンバツ大会、夏の都市対抗野球大会を主催。戦後、プロ野球がセ・パ2リーグになったとき「毎日オリオンズ」を結成、パ・リーグで優勝し、さらにセ・リーグの覇者松竹ロビンスを降し、日本一に輝いている。初代である。

 ここで19人を紹介したい。まずは橋戸頑鉄から、生年月日の古い順に。この情報を掘り下げて「野球文化學會」の論叢集「ベースボーロジー」第12号(今秋出版予定)に執筆しようと思っている。もっとも学会誌なので、論文審査にパスしたらの話ですが。

 では――。

 ①橋戸 信頑鉄、1879?1936)青山学院―早大。第1回早慶戦(1903年)、早大アメリカ遠征(05年)の主将。『最近野球術』出版。日本初のプロ球団日本運動協会結成に参画。大阪朝日記者として夏の中等学校優勝大会に関与、大阪毎日(大毎)・東京日日(東日)記者として都市対抗野球大会創設に尽力。「橋戸賞」に名を残す。

 ②三宅大輔(1893?1978)慶大―大毎。1925年早慶戦が復活した時の慶大監督。1927年都市対抗野球第1回大会に東京倶楽部から出場。大会第1号ホーマー(ランニング)を記録。プロ野球誕生に参画し、巨人軍初代監督。阪急監督も。「野球入門」など著書多数。

 ③腰本 寿(1894?1935)ハワイ出身。慶大―大毎。「大毎野球団」アメリカ遠征のキャプテン。慶大監督。15シーズンで7回優勝し、「エンジョイ・ベ-スボール」で慶大の黄金時代を築いた。選手からは「お父っあん」と慕われた。40歳で病没。

 ④岡田源三郎(1896?1977)早実で第1回全国中学校優勝野球大会出場。1番捕手。明大―大毎。1923?35年明大監督で黄金時代を築く。1925年ハワイ遠征の帰国船で大毎野球団と乗り合わせ、湯浅投手、天知捕手ら主力6選手を大毎へ。名古屋金鯱軍初代監督。

 ⑤小野三千麿(1897?1956)慶大―大毎。野球殿堂HPに「米大リーグ相手に初の白星を挙げた剛球投手」とある。大毎野球団の大黒柱。大毎体育部長(戦時中運動部を改称)。都市対抗野球大会の補強制度を考案。「小野賞」に名を残す。

 ⑥石本秀一(1897?1982)大阪毎日新聞広島支局。母校広島商業監督として、1924年、29?31年の4回夏の甲子園で優勝。31年センバツも優勝して、夏春夏と甲子園制覇。「真剣刃渡り」の伝説を残す。1936年大阪タイガース二代目監督。名古屋金鯱軍、大陽ロビンス各監督。1950年創設の広島カープ初代監督。

 ⑦桐原眞二(1901?1945)北野中―慶大―大毎。1924(大正13)年慶大キャプテン。遊撃手。早慶戦の復活に全力をあげ、翌25年秋、19年ぶりに早慶戦が復活し、学生野球人気が過熱した。大毎経済部長から出征し、戦死した。

 ⑧浜崎真二(1901?1981)広島商―神戸商―慶大―満鉄。身長150㌢の左腕投手。夏の全国大会、早慶戦で活躍。大毎野球団の満州遠征に参加。都市対抗野球第3回大会で大連満州倶楽部の優勝に貢献。阪急、高橋、国鉄の各監督。「球界のご意見番」。

 ⑨天知俊一(1903?1976)捕手。明大―大毎。湯浅禎夫投手と黄金のバッテリーといわれた。東京六大学・甲子園大会の審判員。帝京商(現帝京大高校)監督。選手に杉下茂投手。中日ドラゴンズ監督。1954年杉下茂投手を擁して日本シリーズ優勝。

 ⑩井口新次郎(1904?1985)和歌山中学で1921、22年全国中学校優勝野球大会2年連続優勝。早大で三塁手4番。1929年大阪毎日新聞に入社した年に大毎野球団が解散、記者として活躍、西部本社運動部長。センバツ、高野連、日本野球連盟の役員を歴任。

 ⑪横沢三郎(1904?1995)明大―大毎。名二塁手。1923年秋のリーグ戦で明大初優勝に貢献。大毎野球団解散後、東京六大学専属審判員。都市対抗野球の1930年第4回から第9回まで東京倶楽部で4回優勝。プロ野球東京セネタース監督。パ・リーグ審判部長。

 ⑫小川正太郎(1910?1980)左腕投手。和歌山中学でセンバツ、夏の甲子園に計8回出場。センバツ優勝でアメリカ遠征、夏では8連続三振を記録。早慶戦で宮武三郎、水原茂と投げ合った。34年大毎記者。日本社会人野球協会(現日本野球連盟)の発展に寄与。

「毎日オリオンズ」関係では――。

 ⑬若林忠志(1908?1965)ハワイ生まれの日系2世。法大―川崎コロムビア―阪神。“七色の魔球”で1930年30勝。元祖・頭脳派投手。42年阪神で監督を兼任、戦後1946年38歳で阪神に復帰、50年毎日オリオンズに移籍、53年監督。

 ⑭西本幸雄(1920?2011)和歌山中学―立教大学。1949年別府星野組の監督兼一塁手で都市対抗野球大会優勝。翌50年毎日オリオンズ入団。大毎、阪急、近鉄20年間の監督生活で8度リーグ優勝。しかし、1度も日本一に就けず、「悲運の名将」といわれた。

 ⑮別当 薫(1920?1999)甲陽中学―慶大―阪神―毎日オリオンズ。50年43本塁打、105打点で本塁打王、打点王の2冠。打率.335、盗塁34で初のトリプルスリー。1954年オリオンズ監督。その後近鉄(62?64)、大洋(1967?72、77?79)、広島(73)監督。

 ⑯荒巻 淳(1926?1971)別府星野組―毎日オリオンズ。「火の玉投手」。1949年都市対抗野球大会優勝、最高殊勲選手賞「橋戸賞」を受けた。翌50年プロ入りして26勝8敗、防御率2・06で最多勝と防御率第1位となり、パ・リーグ初代新人王。

 ⑰山内一弘(1932?2009)川島紡績(現・カワボウ)―1952毎日オリオンズ。「打撃の職人」。60年本塁打王と打点王の2冠、MVP。その後阪神に移籍、プロ野球史上初の300本塁打。オールスター16回出場「オールスター男」。ロッテ、中日で監督を務めた。

 ⑱榎本喜八(1936?2012)早実ー1955毎日オリオンズ。「安打製造機」。新人で開幕戦5番デビューし、新人王。首位打者2回(60年 .344、66年 .351)。プロ野球史上最年少の31歳7か月で2000本安打を達成した。2016年殿堂入り。

 ⑲鈴木美嶺(1921?1991)「みれい」はフランスの画家ミレーから。東大野球部から日刊スポーツを経て1950年毎日新聞入社。都市対抗野球大会で運動面連載の「黒獅子の目」は逸品だった。殿堂入りはプロとアマの野球規則書を統一した功績。

(毎友会HP随筆欄・諸岡達一さんの記事参照)

(堤 哲)