随筆集

2017年7月14日

終戦秘話 幻の和平工作 藤村先輩、スイスで活動

社友 河合喜久男

画像
藤村義朗氏

 今年は戦後72年。毎年8月15日が来ると、日米直接和平工作に尽した先輩・藤村義朗海軍中佐(当時)のことが思い出される。

 当時、終戦工作として、モスクワでのソ連仲介工作、中国・重慶での繆斌(ミョーヒン)工作とともに、スイス・ベルンでの藤村先輩の和平工作があげられる。中でもスイス大使館付武官の藤村武官と米戦略機関欧州長官のアレン・ダレス氏との交渉が、最も実現性が高かった。しかしいずれも成功せず、歴史の歯車は正常に戻らず、日本のポツダム宣言受諾、降伏に至ったことは痛恨の極みである。

 藤村武官は、大阪の旧制堺中学の15年先輩で江田島の海兵卒、昭和15年海大卒、ドイツ大使館付武官補に赴任。私は京大卒、毎日新聞社に入社、休職、海軍予備学生として特訓後、昭和18年末士官任官、海兵教官に就任。先輩とは海軍でもご縁がある。

 昭和20年3月、先輩は敗戦で断末魔のベルリンからスイスに転任。親日家のドイツ人、ハック博士の紹介で米ダレス長官と終戦和平交渉に入る。先輩は若い頃から国士的で、日本をドイツの様にしてはならず何とか救いたいとの一念からだった。藤村武官から東京に緊急第一電が発せられたのが同年5月で、以後35通も暗号電を打たれたが、満足な返電は得られなかった。

 この交渉に協力した人に、海軍嘱託・大阪商船の津山重美駐在員(暗号電作成)や朝日新聞社特派員、笠信太郎氏、横浜出生・ダレス機関員ブルーム氏らがいる。機密保持しながら東京の首脳部に打電された。しかし東京では、ソ連仲介を重視、スイスでの交渉には積極的でなかったようだ。

 日本側は和平条件に、①日本の主権・国体維持②商船隊の維持?台湾・朝鮮の維持を主張。米国側は①②は良いが?はヤルタ会談で決定済みで難しいとのことだった。

 戦況はいよいよ悪化、広島、長崎に原爆投下、沖縄焦土戦、東京空襲、米軍の日本本土上陸計画など、昭和天皇は陸軍の本土決戦計画、竹槍戦法などお叱りになり、終戦を決意される。スイスでの終戦和平工作は幻の挽歌に終わることになる。

 敗戦後、藤村先輩は帰国、日本再建に貢献すべく、神田で露天商を始め、東京・青山で貿易商・ジュピターコーポレーション開業、社是の第一条には「会社、社員の人格即ち品性を磨くこと」とある。また海兵の5省訓の第一条には「至誠に悖るなかりしか」とあり、「モラロジー」(最高道徳)を研鑚、品性を高め、まごころを貫くことにつとめられた。千葉県富津市にハイテク工場建設、特異な貿易商社として発展せしめ、平成4年3月富津で永眠、信望を集めた内外から悔やまれた。

 帰国後の藤村先輩に、米内海相は「スイスでの和平交渉に賛成、実現につとめたが力及ばず申しわけなかった」と詫びられたと、本人から聞かされた。

 スイスでの終戦和平交渉は、藤村先輩自身の「思い出の記」やテレビドラマ「欧州から愛をこめて」、映画「アナザウエイ」、テレビドキュメンタリー「祖国へ緊急暗号電」等で記されている。

 先輩は「真の情報をつかみ、判断を的確にするのは、その人の品性による。非常時における最高リーダーの資質と判断がいかに大事であるか」を経験したと、私に語ってくれた。「知識より叡智を、真の情報をつかみ判断を誤らぬように」と先輩からの教訓でもある。(平成29年7月6日記) (注)河合喜久男さんは本年5月で満96歳になられました。

(河合喜久男)