随筆集

2017年8月18日

沢田教一写真展に、毎日新聞の特ダネ紙面

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 ベトナム戦争でピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」。報道写真家・沢田教一さん(1970年カンボジアで狙撃され死去、34歳)の写真展が日本橋高島屋で開かれている(8月28日まで)。

 朝日新聞社主催だが、会場に毎日新聞の紙面が拡大コピーして展示されていた。

 「おお、母子は無事だった」の大見出しがついた1966(昭和41)年7月3日付。「安全への逃避」の被写体になった2家族5人を沢田さんに同行して探し出して記事にしたのだ。特ダネだった。

 クレジットに【サイゴン二日発柳原特派員】。柳原義次氏(1995年没68歳)。大阪本社社会部から外信部、ソウル特派員からサイゴン特派員になった。そしてボン支局長から大阪本社社会部長(第25代)。ちなみに24代は北爪忠士氏、(2009年没84歳)、26代は松永俊一氏。

 〈「柳(やな)ちゃん」の愛称で親しまれた。堺の古い家柄に生まれ、東大経済学部時代は作家の辻井喬(堤清二)氏らと、学生運動の旗を振ったこともあり、闘志と正義感は人一倍強かった〉

 〈振り出しの大阪社会部時代は若手造反グループ「デンケン会」の中心人物の1人で……外信部に移ってからも、毎日労組の委員長にかつがれ、「柳原執行部」という名の一時代をつくった〉

 〈(ボン支局長時代の)東欧では自由化の波がソ連の戦車に押しつぶされた「プラハの春」に同情のペンをとった〉

 大毎社会部100年史『記者たちの森』に、後輩の社会部記者・磯貝喜兵衛さん(元毎日映画社社長)が「ダンディズムと人情」の見出しで紹介している。

 沢田教一氏は、三沢基地の写真店で働き、1960年に上京してUPI通信社東京支局に入社した。同支局は有楽町の毎日新聞東京本社内にあった。1965(昭和40)年7月にUPIサイゴン支局のカメラマンとなり、「安全への逃避」は1966年にピュリツァー賞を受賞している。

(堤 哲)