随筆集

2018年6月17日

337拍子の生みの親・相馬基さんのこと

画像
明治大学応援団OB会HPから

 NHK総合テレビの人気番組「チコちゃんに叱られる」( 毎週金曜日)で、元毎日新聞の相撲記者・相馬基さん(1981年没、85歳)が紹介された。
 「どうして応援は337拍子なのか?」

 1921(大正10)年、相馬さんは明治大学の相撲部員で、応援団の初代団長だった。当時、野球の早慶戦は1906(明治39)年に中止になったまま。早慶戦の復活は、明大が中心になって1925(大正14)年春に東京六大学野球連盟が結成されてからになるが、10月19日早大戸塚球場での復活第1戦は、明大野球部の湯浅禎夫(のち大阪毎日新聞運動部長→プロ野球毎日オリオンズ総監督)が球審をつとめている。

 当時の明大野球部は、打倒早稲田、打倒慶應の意気に燃えていた。応援団長相馬は、「勝った方がいい! 勝った方がいい! 勝った方がいいったら、勝った方がいい!」という声と手拍子の応援を生み出した。それが337拍子だった。

 「チコちゃんに叱られる」では、現在の夏の甲子園で応援の定番となっているX JAPANの「紅」や、ピンクレディーの「サウスポー」も337拍子であると解説した。

 相馬さんは、1924(大正13)毎日新聞の前身「東京日日新聞」に入社するが、相撲記者の他に、「編集兼印刷発行人」という肩書を持っていた。新聞紙法(明治42年施行)により、1949(昭和24)年に廃止されるまで、新聞の題字下に発行責任者の名前表示が義務付けられ、相馬さんは1929(昭和4)年から「編集兼印刷発行人」だった。

 新聞記事が「国家総動員法違反」に問われる。名誉棄損で訴えられることは日常茶飯だった。

 そのたびに編集責任者である主幹や主筆が呼び出せられていたのでは、仕事にならない。で、苦情処理係、叱られ役、社内では「前科引受人」とも呼ばれていたという。

 何故、若い相馬が全責任を負わされたのか。相馬は、応援団長として有名だったうえ、相撲記者としても顔が売れていた。

 こんな相馬の証言が残っている。

 ――当時の検事局とか警察の偉い人とか、弁護士といった連中には、相撲のファンが多くて、それも極端なファンがいましたからね。(私の)顔をみればもうはじめからわかっている。(『私の昭和史Ⅳ 世相を追って』1974年、学芸書林刊)

画像
横綱大鵬の断髪式での相馬さん(1971(昭和46)年10月)

 毎日新聞の訃報(1981年9月25日朝刊)には、大正13年入社、相撲記者として昭和50年夏まで、最古参記者として健筆を振るった。その後も日本相撲協会教習所教師として相撲道、詩吟などを教えるなど、相撲ひと筋だった。大相撲の近代化をはかるため、相撲協会に仕切りの制限時間を進言した、とあった。しかし、「編集兼印刷発行人」であったことは、触れられていない。

(堤  哲)