随筆集

2018年10月12日

広島カープの初代監督石本秀一(野球殿堂入り)は毎日新聞OB

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 広島カープがセ・リーグV3。
 本拠地マツダスタジアムは、真っ赤に染まる。それを支える「カープ女子」。こんな現象を誰が予測しただろうか。

 広島カープ初代監督は、「真剣刃渡り」で有名な石本秀一(1897?1982)である。元毎日新聞広島支局員。

 石本は、広島商業の投手として、現在の夏の甲子園大会の第2回、第3回に連続出場した。1916、17(大正5?6)年である。石本キャプテンのとき、1年生だった浜崎真二(野球殿堂入り)は「当時の広商に監督はおらず、石本さんがすべての指揮をとった」と、著書に書いている。

 関西の大学を1年で中退、満州に渡って、三井物産に勤務し、大連実業団で活躍する(「わが信念の野球」ベースボール・マガジン1950(昭和25)年6月号)。

 満州の早慶戦、大連実業対満鉄戦(実満戦)で活躍。地元大連商のコーチをして、夏の全国大会に2回出場させている。1921(大正10)年は初出場でベスト4に食い込だ。

 1923(大正12)年9月、故郷に帰った石本は大阪毎日新聞広島支局の記者になる。26歳である。

 仕事の合間に母校広島商野球部のコーチをした。そして翌24(大正13)年、甲子園球場が落成した年に全国制覇している。文字どおり「夏の甲子園」優勝第1号である。商業学校が初めて優勝したこと、深紅の優勝旗が神戸以西に初めて行ったことを大会史は特筆している。

 広商は、1929、30(昭和4?5)年に夏の甲子園大会2連覇。さらに31(昭和6)年春のセンバツで優勝、そのご褒美でアメリカ遠征をした。

 石本は、アメリカ報告を毎日新聞広島版に連載、それを元に『広商黄金時代』(1931(昭和6)年大毎広島支局刊)を出版している。

 伝説の「真剣刃渡り」は、その際の選手の精神統一法で取り入れたが、当時の選手鶴岡(旧姓・山本)一人(野球殿堂入り)が書いている。

 《全国大会の前には、甲子園の近くの民家を借りて合宿した。その時にやらされたのが「真剣刃渡り」である。…日本刀の刃を上にして置き、かけ声もろとも、それを素足で踏んづけて渡る。気合を入れ、気持ちが集中してさえいたら傷つかない。それで度胸もすわるというのが「真剣刃渡り」だ。実は刃はついていないのだが、見ただけでも恐ろしかった》=「私の履歴書」(1984(昭和59)年日本経済新聞連載)

 石本は、1936(昭和11)年、プロ野球大阪タイガース(現阪神)の監督に招かれ、毎日新聞記者を退職する。打倒巨人! 翌37(昭和12)年秋のシーズンと、翌38(昭和13)年春に連続優勝した。

 その後、名古屋金鯱軍2年―大洋―西鉄。戦後、結城―金星2軍―大陽ロビンスと、監督を転々とした。

 そしてセ・パ2リーグとなった1950(昭和25)年、創設された市民球団広島カープの初代監督に就任する。

 ここではお金集めに苦労する。シーズン途中で選手の給料が払えない事態に陥った。伝説の「樽募金」が始まったのは、この時である。

 石本は、監督業そっちのけで後援会づくりに走り回った。

  身売りか解散か
   カープに危機

 《カープ全選手の給料支払いがすでに20日も遅配となり、そのため選手の留守家族から連日矢の催促が遠征先に舞い込み、ために選手の士気もとみに低下の一途をたどっている》=「日刊スポーツ」同年11月18日付。

 カープは、セ・リーグ8チームの最下位に終わった。

  41勝 96敗 1分、勝率.299

 優勝した松竹ロビンスとは、59ゲームも差がついた。

 最下位の1つ上、第7位は国鉄スワローズだった。

  42勝 94敗 2分、勝率.309

 今シーズン、優勝はカープ、2位はスワローズだから、時代は変わるものである。

 石本が生きていたら、どういうコメントを出しただろうか。

 石本は、選手を育てる名人といわれ、ミスタータイガース藤村富美男、タイガースの西村幸生、西鉄ライオンズでは稲尾和久(いずれも野球殿堂入り)、中日ドラゴンズでは権藤博投手らを大選手に仕立てた。

(堤  哲)