2018年11月8日
父の思い出
私の父は幸川彰(1996年没、70歳)、1996年に70歳で亡くなりましたが、「幸川」と名乗ると、「あぁ、あの幸川さんの娘さんですか」といまだに言われます。先日、竹橋女子会に出席したおりに、「父の思い出」を書くようにと勧められて、二つほど書きました。これも、毎日新聞のささやかな「記録」になればいいなぁと思いつつ。
父の思い出 その1「スクープ記事を作る」
「ほら見てみい、すごいやろ!」父が広げた紙面の上半分を大きく占める写真には、外国の空港の滑走路で、機体がポッキリと二つに折れた旅客機が写っていました。
整理部にいたころです。
父が語ったところによると、その日は特に大きな出来事が無かったので、紙面のトップを何にするか悩んでいたところへ、アメリカの空港で起きた、センセーショナルな光景の航空機事故の写真が、外電で配信されて来たのだそうです。
これでいこうと閃めき、早速、米国の駐在経験もあり、名文家で知られた外信部の山内大介さん(のちの社長)に、「これトップにするから記事書いてくれへんか」と依頼。その空港にも詳しい山内さんは、まるで事故現場を見て来たように臨場感たっぷりな記事を付けました。大きく衝撃的な写真と、大介さんの活き活きとした文章で、大事件の紙面はできました。
半日遅れで他紙は続々と後追いし、機体の損傷の大きさにもかかわらず、奇跡的に人的被害の少なかった外国の航空機事故も、スクープになってしまいました。
大介さんの、ペンの力業です。
山内さんと父は、部長賞をいただきました。
父の思い出 その2「単身赴任した「絶海の孤島」の孤独な日々」
昔、各本社は、全く別々に紙面を作っていました。ファクシミリなど通信回線の発達があり、各本社間で連携していく過程で、西部、大阪、東京と、三本社の整理部の経験のある父は、60年代後半から、その基盤作りに単身、西部本社整理部に赴任しました。
西部本社の方達は、父を、西部本社整理部をなくすため、合理化のためにやって来たと思いました。実際、その時点では、各本社の役割分担は、まだ確と決まってはいなかったようです。
父の机の周りにも、天井からも、「東京本社の犬の幸川は、東京へ帰れ!!」というビラが貼りめぐらされ、毎日、一日中、にらむか、見えないかのように無視され、誰一人、口をきいてくれず、父の机は絶海の孤島。多弁な父が、誰とも話せない孤独の日々が続いたそうです。
その後、父にとっても、整理部のキャリアをスタートさせた西部本社整理部の、全毎日の中での在り方が決まり、足かけ7年の単身赴任は終わり、父は無事、私達家族の待つ東京へ帰って来ることができました。
20余年の後、父が亡くなった折には、西部本社の整理部員だった方々からも、今日の自分が在るのも父のおかげなどと、丁重な、お悔みのお手紙をいただきました。
(幸川 はるひ)