随筆集

2018年12月3日

「竹橋通信」が丸谷才一さんにほめられた

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客員編集委員 冠木雅夫さん

 毎日新聞の書評欄「今週の本棚」の評判がよいのは、こんなことにも起因している。12月3日付朝刊に掲載された客員編集委員・冠木雅夫さんのエッセーの再録。

 今は亡き作家の丸谷才一さんがプロデュースし、今も元気に続いている毎日新聞の「今週の本棚」が登場したのは1992年4月、ぜいたくな執筆陣の長文の書評と和田誠さんのしゃれた紙面設計で読書界をアッと言わせたものでした。英国流の書評文化を日本でも、という丸谷さんの提案を当時の編集局長が「ほいきた」と受け入れて始まった紙面です。私がデスクを担当したのは開始から3年半後、先生方とのお付き合いも含め楽しい時間を過ごせたと思います。

 週3ページをデスク1人記者1人という最小の編集部で切り盛りできた秘密は、「竹橋通信」というニュースレターにありました。竹橋は毎日新聞本社の所在地。A4判 10ページ前後で30人余の執筆者だけに週1回郵送するミニコミ紙です。掲載スケジュールや編集部に届いた新刊本のリストなどの連絡が主ですが、この「書評サロン」を維持するために大切なものがありました。あいさつ代わりの400字から800字ほどの前説、落語でいえば枕です。なにしろ読者はそうそうたる皆さん。「ゆめゆめ手を抜かないように」というのが前任者からの引き継ぎでした。少しは気の利いたものをと力んでみたものの、浅学非才の身、埋めるのがやっとだったと思います。

 苦し紛れに書いたのが編集部の楽屋話。たとえば、ある先生に誘われ、ぎっくり腰をおして京都の都おどり見物にいった話。痔(じ) の手術で休んだら同病の先生が次々と名乗り出た話。さる会社の引っ越しに遭遇し、不要品の椅子やクツベラをもらってきた話。故郷の喜多方で朝ラー(朝のラーメン)を食べてきた話。まあ、どうということのないものばかりでした。

あの言葉は一生の宝になりました

 そうこうするうち迎えた97年4月、書評欄関係者が一堂に会するパーティーで、あいさつに立った丸谷さんがこう切り出したのです。

 「この間、村上陽一郎さん(執筆者の一人、科学史家)にお目にかかりましたら、『竹橋通信の前説の文章、面白いですね』とのことでした。たしかにその通りで私も毎日曜、あれを楽しんでいます。うちのものも愛読者でして、わたしが読み終わるとすぐ、読んでクスクス笑って、それから『短評一つ書いてあげなさいよ』などといいます。実にあっさりと冠木さんの術中にはまっているわけです」(短評とは短い書評、不足して前説で訴えることもありました)

 身に余る賛辞に私は身を縮めていましたが、話は3人の前任者も含めて「知的で明るい文体で書評執筆者の趣味に合っている」と進んでいき、さらに、他の新聞が同じことをしたらということで、

 「もしも築地通信社の前説ならば、戦後民主主義の精神と読書人の使命(笑い)なんてことを書く、大手町通信の前説ならば、今週のジャイアンツに一喜一憂してばかりいる(笑い)。あまり面白くないでしょうね」と続いたのです。丸谷流のジョーク全開でした。

 いや、なぜ私がスピーチを克明に再現できるかと言うと、当時の「竹橋通信」のコピーを今も大事に持っているからです。会合でのスピーチも定番記事でした。

 丸谷さんは月曜午後に電話をかけてきて、書評欄を品評するのが常でした。執筆者には手紙で注文を付けたり称賛したりしていました。怖い半面、やる気の増す人もいたでしょうが、そうやって書評チームを運営していたのです。私も術中にはまったのですが、それはともあれ、あの言葉は一生の宝になりました。私の当時300号を超えた「竹橋通信」、今では1320号を迎えています。