随筆集

2018年12月21日

麹町寮の思い出

 弟と私の小学校の1学期が終わると同時に、我が家は甲子園から千代田区平河町、毎日新聞麹町寮の裏隣の借家へ引っ越した。

 その春、大阪本社から東京本社へ転勤した父は、麹町寮に滞在しながら新居を探していたが、寮母の小泉さんのお世話で、麹町寮の隣の借家へ住めることになったのだ。

 麹町寮を取りしきる寮母の小泉さんは、伝説の編集長の未亡人。一人娘であるお嬢さんの夫は、当時、毎日新聞に「教育の森」を絶賛連載中の学芸委員、村松喬さん(お父上は作家村松?風、甥御さんは直木賞作家村松友視氏)だった。そして村松夫妻は、我らが新居と同じ家主、同じ敷地の借家に、先にお住まいだったのだ。

 寮母小泉夫人の亡夫の伝説とは:

 第2次世界大戦敗戦後の混乱期、社受付に、抜身の日本刀を引っさげた右翼が、編集長との面会を求め、氏は素手で一人、敢然と対面し、右翼を追い帰し、毎日は事無きを得た。しかし、他社は対応を誤って大混乱に陥った。

 ― というものだった。

 とにかく寮母小泉さんはしっかりした方だった。父幸川彰が西部本社へ転勤になった折も、当初、私達家族は、父と一緒に北九州へ越そうとしていたのだが、家族は平河町に留まり、父が単身赴任になったのも、小泉夫人が、私達子供達、特に弟のために、今の教育環境を手離すべきでは無い。母と子供は留まるべき、と母を説得したからだった。

 麹町寮は、東京へ出張して来た社員の宿として、あるいは父の様に、東京へ転勤が決まり、新居を探す者の仮りの家としての役割以外に、盛んに宴会場として使われていた。

 宴会の夜はとてもにぎやかだったが、当時、静かな住宅街の平河町でも、そんなことを問題にする人はいなかったようだ。

 宴が終わりに近づくと、すぐにわかった。カラオケのない時代である。宴たけなわの頃に歌われるのは流行歌。やがてそれが軍歌になり、

 ―あの子はだ?れ、だれでしょね?
 ―夕焼?け、こやけぇの、赤トンボ?

 童歌になると、間もなく終わる。

 寮と我が家の間の、石塀の両側には、足場に木箱が置いてある。村松夫人がご母堂の小泉夫人との往き来に使っていたのだ。

 童歌が終わって静かになると、父が石塀を乗り越えて帰って来る。

(幸川 はるひ)