随筆集

2019年3月26日

「EEE-CHEE-ROH」

 イチローがメジャーデビューをしたのは、2001年。マリナーズ球団は、日本からの新人ICHIROについて、「EEE-CHEE-ROH」と発音してください、とファンに広報をした。「ITCH―eee―roh」や「eee-CHEER-oh」では、ダメですよ、と注意をよびかけたのである。

 マリナーズはその年、116勝46敗。勝率7割1分6厘という驚異的な勝率を残した。1番・ライトのイチローは692打数、242安打、打率3割5分で、ア・リーグの首位打者、盗塁も56を記録して盗塁王にも輝いた。そしてMVP(最高殊勲選手)に選ばれた。

 誰がこれだけの活躍を予想しただろうか。

 イチローは引退の記者会見で、メジャー挑戦の恩人として、当時のオリックス監督の仰木彬の名前をあげた。1991年ドラフト4位で愛工大名電高からオリックスに入団した。

 契約金4千万円、年棒430万円。

 打者としての才能を見抜いたのは、オリックスのスカウト三輪田勝利だった。毎日新聞運動部の六車護元部長は、早大野球部の同期で親友だった。

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 宗教記者として有名になった佐藤健は、2002年暮れにがんで亡くなった。その病室にはイチローのカレンダーがかかり、サイン入りのスパイクを見せて「イチローが送ってきたんだ」と得意気だった。

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2002年12月東大病院病室で

 佐藤健の著書に『イチロー物語』(1995年10月毎日新聞社刊)がある。六車運動部長のあっせんでイチローを取材、毎日新聞に長期連載したものをまとめたものだ。 沖縄のキャンプで「健さん、また二日酔いでしょう」とイチローからいわれるほど、イチローと親しくなっていた。

 編集委員室でよくイチローの真似をした。打席に入ってからの独特の仕草を、寸分違えずに演じるのだが、右でバットを構え、「イチローは左だぞ」と六車部長から茶々が入ったこともあった。

 佐藤健は、がんとの闘いを亡くなるまで毎日新聞で連載していて、もはや自身で執筆はできなくなって、社会部後輩の萩尾信也記者(のち日本記者クラブ賞を受賞)が病室で聞き書きをしていた。

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 写真をもう1枚。昨年6月20日、ヤンキースタジアムで私が撮った。ヤンキースとマリナーズの試合前。同行の日ハム球団の小嶋武士元社長がヤンキースに出向していた時に、キャッシュマン現GMと一緒に仕事をしていた関係で、GM室に表敬訪問したあと、グラウンドに降ろしてくれた。

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2018年6月20日NYヤンキースタジアムで

 イチローはマリナーズの選手と一緒にストレッチをし、試合前の練習をしていた。試合が始まればベンチにも入れないのだから、ツライと思うのだが、引退会見では、試合に出ないのにチームに帯同して練習を繰り返していたことを評価していた。

 イチローの引退会見は、午後11時56分から始まり、85分に及んで、終了は午前1時20分過ぎだった。BS日テレで最後まで見てしまった。

 菅官房長官は翌27日の記者会見で国民栄誉賞を検討しているといったと伝えられる。2001年にも国民栄誉賞は検討された。その時は、イチローが「まだ28歳。発展途上」を理由に辞退している。

(堤  哲)