随筆集

2019年4月26日

『ロッキード事件取材全行動』と『児玉番日記』

 「週刊文春」のGW特集号に『毎日新聞ロッキード取材全行動』(毎日新聞社会部著、講談社1977年2月刊)が出てきた。

 ロッキード事件の第一報が1976(昭和51)年2月5日朝日新聞朝刊2面に掲載された日のことを「ロッキード角栄はなぜ葬られたか」連載第45回で綴っている。

 ――5日未明の毎日新聞の様子は、同社社会部がまとめた『毎日新聞ロッキード取材全行動』に克明に記されている。

 ロッキード事件報道は、ここから始まった。

 毎日新聞編集局では、朝刊が降版したあとに外信部のデスクが、UPIから配信されていたといってテレックスを社会部デスク(故原田三朗)に持ってきた。

 米上院チャーチ委員会で「児玉誉士夫がロッキード社から708万5千ドル(約21億円)を受け取った」事実が明らかになったのだ。

 翌日の朝刊に入れたのは朝日新聞だけで、それも2面だった。

 原田は夕刊での紙面展開のため、警視庁クラブをはじめ警察庁、司法クラブ、航空・運輸担当者に電話連絡した。

 ――当時、毎日新聞の司法クラブ担当だった高尾義彦は、早朝に電話で叩き起こされた。

 「毎日新聞の司法クラブ員で一番の若手の30歳で、検察担当でした。朝日の記事を読んですぐに、検察庁に向かいました」

 ――「最初のミッションは、児玉の居場所を探すことでした」と高尾。

 ここで『児玉番日記』が紹介される。最初はサツ回りが交代で児玉邸を張っていたが、そのうちに首都圏をはじめ地方支局から応援を得た。

 張り番の記録を大学ノートに残した。

 《体と神経がすり減るのに、新聞に児玉番の記事が1行も出ない日がほとんどだ。
  忍び、耐える。》

 これをサブデスクの故根上磐がまとめ、毎日新聞出版局から出版したのだ。

 毎日新聞の最初の特ダネが「児玉、臨床尋問へ」。3月5日夕刊1面トップだった。

 故才木三郎が掴んだ。

 午後2時55分、黒塗りの乗用車が児玉邸通用門前に止まり、検事らしい2人が階段を駆け上って通用門をくぐった。

 しかし、東京地検は、この事実さえ認めない。むろん発表もしない。

 『全行動』にこうある。《ふつう、夕刊で抜かれた記事は、夕方、印刷する朝刊の早版までには追いつくのが通例である。結局、他社が確認できたのは、検察幹部の家へ夜回りに行ってからのことだった。これだけ、鮮やかな抜きっぷりというのは、まったく珍しいことだった》

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(堤  哲)