随筆集

2019年6月3日

活躍する「ヤメ毎」ライター

 月曜日朝、一番に読む山田孝男特別編集委員の「風知草」。今朝は《「日本国紀」をめぐって》 。

 国民のある層が熱心に読む本を、他の層は読まないし、関心がない。
 作家、百田(ひゃくた)尚樹(63)の近著「日本国紀」(2018年11月、幻冬舎刊、累計65万部)も、そういうベストセラーである。

 まず紹介しているのが、ニューズウィーク日本版6月4日号「百田尚樹現象」。
 ノンフィクションライター、石戸諭(さとる)氏(35)のリポートである。
《百田と幻冬舎社長のインタビューを含む豊富な取材と公平な書きぶりで、ほぼ完売したそうだ》

 先週、図書館でこの特集を読んだ。百田現象がよく分かった。
 記事を読んでいて元毎日新聞の記者であることを知った。
 ネットで検索すると、1984年生。立命館大卒業後、毎日新聞→BuzzFeed Japan→個人事業主。記者/ノンフィクションライター。『リスクと生きる、死者と生きる』は読売新聞「2017年の3冊」に選出されたとあった。

 毎日新聞を途中退社して、他紙や他メディアの記者、ノンフィクションライターとして活躍している人たちを「ヤメ毎」と呼ぶそうだ。
 明治・大正・昭和の戦前は、新聞記者の転社は当たり前のようにあった。
 例えば読売新聞「編集手帳」の名コラムニスト高木健夫。記者になったのは徳富蘇峰の「国民新聞」。1927(昭和2)年だった。駆け出しの山形県米沢通信部から社会部。デスクに鈴木竜二(のちプロ野球セ・リーグ会長)がいた。警視庁を担当して、「読売新聞」にスカウトされる。そのあと毎日新聞の前身「大阪毎日新聞」(大毎)の社会部記者に。再び東京に戻って「二六新報」→古巣「国民新聞」→1930(昭和5)年満州「大新京日報」→「読売新聞」新京支局長。「2・26の時は東京社会部にいた」。社会部デスクから東亜部デスク→1938(昭和13)年北京で大毎元社会部長が創刊した「東亜日報」へ。戦後、引き揚げてきて「読売新聞」に戻ったのが1946(昭和21)年6月。「編集手帳」を担当したのは、49(昭和24)年3月1日からだ。
 「新聞記者ほど面白い仕事はない」
 これだけ自由に飛び回れば、そう思うのが自然だ。

 鉛筆1本の人生である。「社畜」を嫌った「ヤメ毎」記者の活躍を祈る!

 石戸氏は、自身のツイッターで「風知草」に取り上げらたことに触れている。
 《古巣・毎日新聞の名物コラム「風知草」にニューズウィーク「百田尚樹現象」を取り上げていただきました。山コラムの後半で山田孝男さんが指摘しているように、近現代史は現代政治と結びついていて、歴史認識は論争の火種になります。だからこそ、現象を分析する意味があるというわけです》

(堤  哲)