随筆集

2019年6月17日

「毎小」に連載小説を書く予定だった田辺聖子さん

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毎日新聞6月17日付夕刊から

 おセイさんが亡くなった。6月6日、91歳だった。

 田辺聖子さんは、毎日小学生新聞の愛読者だった。「毎小」が創刊60周年を記念して発刊した『毎日小学生新聞にみる子ども世相史』(NTTメディアスコープ、1997年)に、寄稿文が載っている。全文を紹介する。

 なつかしい「チンペラ新聞」

 小学生のころ、私はずっと「毎小」を取ってもらっていた。弟も妹もそれを読んだ。連載小説もたのしんだが、歴史・地理・理科の記事は、かみくだいておもしろく説かれているので、学校の勉強より身についた。私は活字中毒の子どもだったから、新聞の隅から隅まで読むのであった。

 子どもたちの夕食は早いので、大人が晩ご飯のとき、ちょくちょく店番をいいつけられる。(私のうちは写真館であった。夜、写真を撮りにくる人はいないが、出来あがった写真を取りにくる人はある)。私は店番がいやではなかった。ストーブは暖かだし、電燈は明るいし、いつも祖父や父が座る事務机の回転椅子はくるくるまわって面白いし、何より部屋は広いから両手を大きく拡げて「毎小」を捧げ持ち(大人がやっているように)顔をあちこち動かして、好きな記事を拾い読みできるってもんだった。

 あるとき、晩ご飯を終えた祖父が事務所へきて、私のそんな姿を見、
 「チンペラが一人前の格好をして、チンペラ新聞みよるわ」
 と抱腹した(古い大阪人はチンピラといわす、なぜかチンペラという)。私は小学四年か五年くらいだったろうか。チンペラ新聞は弟や妹にひきつがれ、ながく家にあった。

 三十代の私は毎小編集部にいた瀬川健一郎氏の知遇を得、もしかしたら毎小の連載小説を書かせてもらえるかもしれぬ、ということになり、私はわくわくして順番を待った。

 ――まさにそういうとき、芥川賞をもらってしまった。とたんに書かねばならぬ原稿が押し寄せ、児童小説連載の夢は遠のいてしまった。——しかし「毎小」はなつかしい、私がいまも新聞好きで、テレビより新聞にしたしむのは「毎小」のせいかもしれぬ。

 おセイさんが第50回芥川賞を受賞したのは、1964年、36歳だった。もし芥川賞をとっていなかったら、「毎小」に連載小説が載った?

 担当の瀬川健一郎氏をネットで検索すると、大毎社会部出身で元和歌山放送社長・会長の北野栄三さん(89歳)が大阪北野高校の同窓会「六稜会」HPで大先輩の瀬川さん(1989年没、76歳)の思い出を語っていた。

 瀬川さんは北野中学から東大の美学を卒業、小学生新聞=1936(昭和11)年12月22日創刊=の生え抜きで、学生新聞の副部長(デスク)をしていた。その後編集長?

 「手塚治虫が世に出るきっかけを作ったのも瀬川さんやったと僕は考えているんです」

 漫画家・手塚治虫が「毎小」デビューをしたのは、1946(昭和21)年1月4日から3月31日まで連載した「マァチャンの日記帳」である。

 瀬川さんは作家の織田作之助と親しく、小説のモデルとして登場する。

 「織田作は二度結婚してます。最初のは長い恋愛のあと戦争中に結婚してるんですが、そのとき瀬川さんが仲人をするんです。一番親しかったと思いますよ」

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瀬川健一郎氏(六陵会HPから)
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左から織田作之助、白崎禮三、瀬川健一郎各氏

(堤  哲)