随筆集

2019年8月11日

日本女性初の五輪メダリスト人見絹枝さん

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1928年アムステルダム五輪で入場行進する人見絹枝さん

 人見絹枝さんは1928(昭和3)年のアムステルダム五輪陸上800メートルで2位に入り、日本人女性初の五輪メダリストになった。人見さんはその時、毎日新聞の前身大阪毎日新聞(大毎)のスポーツ記者だった。

 東京五輪まであと1年を切って、再び人見絹枝さんにスポットライトが充てられている。最近毎日新聞が主催したトークイベント「人見絹枝~駆け抜けたパイオニア」で、大阪本社副代表・小笠原敦子さんが以下の報告をしている。

 ——人見さんが(大阪)毎日新聞社に入社したのは1926年。19歳でした。この年、開催される第2回万国女子オリンピックに参加し、記事を書いてもらおうと考えて採用したようです。二足のわらじ、今で言う見事な二刀流でした。

 連載のタイトルは「女子運動家の旅日記」。現地のスウェーデンから署名入りで記事を書いています。記事の一つの見出しに「廿(にじゅう)代の女が多い」というのがありました。当時、日本の女性スポーツは学校体育止まり。女学校を卒業するかしないかの年齢で結婚して家庭に入るような時代で、20代でスポーツをするなんてあり得ませんでした。世界と日本の環境の大きな差を感じたことでしょう。

 アムステルダム五輪に出場したのは2年後の21歳。日本選手団唯一の女性でしたから、いろいろ苦労もあったでしょう。大会の前に1カ月余りロンドンに滞在、女性陸上クラブで調整しました。クラブでは、学生ではなく仕事を終えた女性たちが集まってスポーツを楽しんでいました。その姿を伝える記事では「英国の女子選手は幸福」と何度も記しています。
 人見さんは早世しなければ、日本で同じような組織を作ったのではないかと思います。

 人見さんの残された言葉で一番好きなのは「努める者は何時(いつ)か恵まれる」。努力は裏切らないという意味です。来年の東京大会に向けて、この言葉は大事に考えたいと思います。

 人見絹枝さんは1907年、岡山県で生まれた。二階堂体操塾(現日本女子体育大)を卒業後、大阪毎日新聞社(毎日新聞社の前身)に入社。26年の第2回万国女子オリンピックの走り幅跳びで当時の世界新記録となる5メートル50をマークするなど好成績を収め、総合成績で個人優勝を果たした。

 日本の女子選手として初めて五輪に出場した28年アムステルダム五輪では、8月2日に行われた女子800メートルで銀メダルを獲得した。大阪毎日新聞の運動記者として記事の執筆や講演なども行い、女子スポーツの普及にも貢献した。

 アムステルダム五輪の3年後の31年8月2日、肺炎のため、24歳で亡くなった。

(堤  哲)