随筆集

2020年3月11日

運動面を作りたくて整理部入り 傑物偉大な西和夫さんの不思議な顔

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1957年頃、整理部へ入った当時の西和夫さん

 元編集局長・西和夫さんの整理部時代の「知らざる一面」を紹介します。西さんは1955(昭和30)年頃から経済部へ異動するまで、ずーっと整理部記者でした。「俺はねエ、運動面の整理がやりたいから整理部へ来たんだよ」が口癖、とにかくプロ野球が大好きでした。

 2020年2月、西さんの訃報に接し、茲に改めて西さんのこだわり深い人物像が懐かしく思い出されてきたのです。

 昭和30年初頭の整理部では高原誠一さん(故人)が兵隊ながら運動面(スポーツ面という呼称はなかった)を長年にわたって独占編集していました。西さんは「俺にやらせろ!」と言ってはダダっ子のようにきかず、高原さんが休みの日は“オレオレ西さん運動面”が続くようになったのでした(かなり強引)。

 1958年秋には西鉄が3連敗から4連勝して巨人を倒した歴史的大逆転日本シリーズを担当、“鉄腕稲尾”の言葉は西さんが編み出してよく見出しに使いました。「あの日本シリーズはねえ、第5戦がキーだね。西鉄の奇跡を達成したのが第5戦だよ、モロちゃん」……のちのちまで語り草でした。

 その第5戦……3-2で巨人リードの9回裏、もう絶体絶命西鉄は先頭打者・小渕泰輔(2塁手)が三塁線ぎりぎりを抜くファウル気味の2塁打(代走・滝内弥瑞生)、長嶋茂雄三塁手は「ファウル、ファウル!」と抗議したが審判認めず2塁打。豊田泰光(遊撃手)送りバント、滝内三進。中西太(三塁手)は3ゴロで二死三塁。ここで不振続きの関口清治(左翼手)は1-3から痛烈センター前ヒットでなんと同点にしてしまった。巨人は先発投手・堀内庄が快投を演じていたが9回裏走者を出したところで藤田元司(疲れていた)に替えたのがたたった感じ。延長10回には大友工投手が登板して8番打者・稲尾和久投手にレフト・サヨナラ・ホームランを浴びたのでした。稲尾は第4戦も完投勝ち(得点6-4)しているにも関わらず、この試合も4回からリリーフ登板して巨人打線を1安打に抑え込んだのでした。稲尾は1958年シーズン長打率.365 本塁打4本という一流打者で、「西鉄の底力をまざまざと見せつけられた」と巨人・水原茂監督。

 逆に西鉄の三原脩監督は「今日の作戦は失敗の連続だよ。9回裏、豊田にバントさせたのはその後の中西が犠牲フライを打つと思っていたからナ。俺は野球に自信なくしたネ」。6回裏の2点は豊田四球のノーアウト1塁から中西が2ランを放ったもので起死回生の2点だったから、三原はその続きを求めたのかも。三原は、さらに西鉄先発投手・西村貞朗が与那嶺要(左翼手)に3ランを食らい一死も奪えず1回で交代させにゃあならん事態も失敗したを繰り返した。

  1958(昭和33)年「日本シリーズ」第5戦 平和台球場
  巨人 300 000 000 0 |3
  西鉄 000 000 201 1×|4

 この試合こそ……西和夫が愛する野球試合の1つであったわけです。後楽園球場に戻っての第6戦は「6-1」で西鉄勝利。第7戦も「2-0」で西鉄の勝ち(4勝3敗で三連覇成る)。この2試合ともに中西が1回表に2ラン3ラン。稲尾が二試合とも完投・完封だったのだから……あきれる。

 “駒沢の暴れん坊”という言葉は西さんの発言から出たんです。東映フライヤーズがめちゃくちゃな試合を展開して人気を博していて、駒沢野球場(世田谷区深沢・現在「駒沢オリンピック公園」)は当初は観衆200人とか300人だったのが、2万人を超える観客を呼ぶほどになっていました。西さんもよく駒沢球場で野球を見てから朝刊勤務(普段は軟派)の席についていたのです。やんちゃ極まりない選手が東映には多数いました……山本八郎(喧嘩っぱやい)、毒島章一(三塁打王4回)、土橋正幸(1試合16奪三振)、安藤順三(野村克也と誕生日が1日違い)……荒くれ揃い。西園寺昭夫、スタンレー橋本らも個性あふれるプレーで魅せましたね。なんの規制のないチームで、自由気まま、二日酔いオッケー。そういう雰囲気が西さん好み?だったようで、山本八郎がアウト・セーフの判定から審判を殴って蹴飛ばし、さらに投げ飛ばした事件があったときも、西さんは「審判もちゃんと見なきゃあナ。ま、ハチの暴力はもっとイカンけどね」と言っていました。

 1959(昭和34)年に新人で入った「張本勲はいいぞ、あれは。ぎっちょでレフトへあんないいヒットを放つやつはいないヨ」と評価していました。通算最多3085本安打の男に1年目から目をつけるなんぞ、西さんの野球を見る目は只者ではありません。

 もっと言えば、西さんは大リーグ通でした。スタン・ミュージアル(カージナルス)が来日した時、あれは毎日新聞が招聘していたため切符があったんですね。カージナルス對全日本の1戦2戦を後楽園で見たと言ってました。スタン・ミュージアルが3安打して稲尾もやられたのは「当然だよ」……大リーグのレベルは段違いであることはとうにご存知で、日本の野球は「まだまだ、だね」と。

 西さんは「愉快で楽しい知られざる事柄」を知っていました。スタン・ミュージアルは三年連続首位打者中で、ダブルヘッダー5本塁打、21歳でメジャーに入って以来37歳(1958年時)まで17シーズン3割以上の打率を残しています。左バッターボックスに背を丸めた独特のスタンスで立ち、獲物に飛びつく動物のような感じでバットを振る。ブルックリン・ドジャースとの試合で打ちまくり、ニューヨークのファンが「あの野郎!」と逆に尊敬してしまうほど……『oh here comes the man again……』と悲しい叫び声をスタンドで上げたとのこと。以来、ミュージアルの渾名「ザ・マン」が全米に定着しました。ブルックリンのファンはカージナルスは敵視しましたが、ザ・マンには大歓声と拍手を送ったのです。そんなエピソードを語る西さんの顔は得意満面でした。

 「俺はねえ、ミュージアルも好きだけど、アーニー・バンクス(シカゴ・カブス)が好きでねエ。あいつはジャッキー・ロビンソン二世になるぞ」と、褒めたたえていました。バンクスは黒人「ニグロ・リーグ」からシカゴに入団して、シーズン本塁打を44本、47本、45本、41本と量産、打点王2回(129、143)、愉快な明るい性格でミスターカブと呼ばれていました。「バンクスはねえ、へっへっへ、あいつ併殺打がめちゃ多いんだよね」と西さん。そういう選手を好むんです。バンクスの本塁打は通算512本。野球殿堂入り。背番号14はカブス初の永久欠番になっています。西さんの野球博識には驚くこと多々。

 あの頃の大リーグ情報は外電以外なかったのですから、運動部でAP通信やらUP通信やらをあさっていました。それと運動部の鈴木美鈴さんとは昵懇の仲(東大の先輩後輩)で、西さんは「ミレイさんの原稿は信頼できるからね」といつも言っていました。ミレイさんは来日したカージナルス・チームの通訳もやるくらいの記者で「記録の神様」といわれた人。アメリカの本物ルール・ブックを翻訳して日本の野球規則を作った人です(野球殿堂入り)。

 僕は西さんが運動面に熱中している頃、スポニチから毎日新聞に移ってきて、最初の2年間は運動面専属でしたから西さんと2人でプロ野球紙面を何度もつくりました。その都度「野球噺」で盛り上がったのでした。最終版が終わってから午前4時ころ「すし屋横丁」へ行き延長戦12回裏くらいまで飲ったナア。なんか、こう……有楽町時代の自由謳歌した編輯局の空気が懐かしい、ですね。

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1982年10月、西和夫さん退職時の会で

 その後、西さんは経済部、経済部長、編集局長へと進みます。1978(昭和53)年頃だったか「1ドル=190円代」に突入、メディアは打ち揃って「200円割れ」「200円割れ」と大騒ぎしていたのですが、西さんは編集局で叫んだね。「何を騒いでいるんだよ」「日本経済から考えて1ドル=180円から170円でいいんだ!」「新聞も価値判断まちげえるナっ」「円安温室はもういい」などなど、整理本部界隈でガンガンガン。あれから徐々に「国際金融の常識論」が編集局中で定まってきて、日本も市場開放へと進むのでした。

 編集局長就任の翌日でした、西さんは僕を呼んで「おいモロちゃん、インベーダー・ゲームに連れて行ってくれヨ」と言うのです。「即いきましょう!」。新宿のゲーム・センター(後の命名)で何ゲーム遊んだか……。いくらやっても、あっと言う間に2人とも敗退しました。しかし西さんは負けず嫌いで、その後なんどか同じゲーム・センターに行ったそうです。腕前が上達したかどうかは不明のまま、ですが。あれは正式名称「スペースインベーダー(Space Invaders)」というヤツで一世を風靡したもんね。西さんのいろんな場面での先見の明はたいしたもんです。

 日本記者クラブのラウンジで「西会」が開かれていた頃(2000年代はじめ?)、その前座で「野球談議オンリー会」……といってもアルコール主体ですが、野球のハナシで合うヤツはモロ以外にいなかったのでしょう? そこでも西さんはたびたび「西鉄大逆転シリーズ」をぶり返し、有楽町編集局の看板が「編輯局」だったことと合わせ、思い切り気に入った運動面を溌溂と作っていた時代を懐かしがっていました。

(OB・諸岡達一記)