随筆集

2020年4月3日

中曽根番記者・松田喬和さんの述懐

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旧官邸の首相執務室を再現したスペースで、収録の松田喬和さん=高崎市末広町の青雲塾で

 昨年11月に101歳で死去した中曽根康弘元首相。その追悼番組が地元群馬テレビで4月14日午後7時から放送される。出演した毎日新聞特別顧問・松田喬和さん(74歳)は「戦後日本の転換点で、新時代の指標になる政治家だった」と振り返った。

 松田さんは旧榛名町(現高崎市)出身。政治部では自民党旧中曽根派などを担当。1995年刊行の『中曽根内閣史―理念と政策』(世界平和研究所)の執筆に参加し、中曽根氏の政界引退後も取材を続けてきた。

 収録では、中曽根氏が派閥抗争の激しい党内で「総理総裁」へと上り詰めていった過程や、政治的立場の異なる他者の意見をくみ取る度量の深さと文化的教養の高さを示す数々のエピソードを披露。首相在任時の厳しい国際情勢の中で米国を主軸に中国やアジア各国との友好も重視した外交や、改憲論者でありながら「独断で走ってはならない」などと丁寧な議論の必要性を指摘していたことも紹介した。

 以上は、毎日新聞群馬版の記事だが、かつて国鉄を担当した記者からすると、1987(昭和62)年4月の国鉄分割民営化が印象深い。

 中曽根大勲位が亡くなった時の毎日新聞社説を引用したい。見出しは「戦後保守政治の最後の生き証人」。

《1982年に首相に就いた。日本は当時世界第2位の経済大国となり、戦後のピークに立っていた。だが、政権発足に際して「戦後政治の総決算」のスローガンを掲げた。 内政では、行政、税制、教育の3改革を目指した。このうち、行革で大きな成果を残した。
なかでも、特筆すべきは国鉄改革だ。累積債務が37兆円を超え、国の財政を圧迫する大きな元凶だった。
官主導のシステムは戦後三十数年を過ぎ、行政の肥大化という問題を招来した。改革は時代の要請でもあった。
政治の生の変化に対応する姿勢は時に「風見鶏」と皮肉られたが、戦後政治に対し、新たな針路をもたらしたのは確かだ》

 国鉄分割・民営化の実現で、《戦後政治の一翼を担った国労、総評、社会党の崩壊へとつながり、戦後日本の政治体制であった「五五年体制」そのものが崩れ去ったのである》=牧久著『昭和解体』—国鉄分割・民営化30年目の真実―。

 松田さんは、行革が何故成功したか、中曽根さんから直接聞いた話を「汎交通」(2020年3月発行日本交通協会の機関誌)で紹介している。

 《NHKテレビで、自宅でメザシを摂る土光氏(土光敏夫第二臨調会長・当時経団連会長)が放映されたとき、「土光さんの清貧さがクローズアップされ、多くの国民の共感を呼び、行革は成功すると確信した」》

 松田さんは、1969年毎日新聞社入社。福島支局、東京本社社会部を経て74年政治部。横浜支局長、広告局企画開発本部長、論説委員を歴任。2004年4月から論説室専門編集委員。09年9月民主党政権下で首相番を務め、「松田喬和の首相番日誌」を自民党の政権復帰まで連載した。14年4月から現職。TBSテレビ「ひるおび」の政治コメンテーターやBS11「インサイドアウト」コメンテーターも務める。

(堤  哲)