随筆集

2020年6月4日

すき焼きの人形町今半と牧内節男さん

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 写真は、人形町今半の2階にかかっている女将(故人)の書である。つい最近、ここでしゃぶしゃぶをご馳走になった。号に「雨星」。牧内節男さん(94歳)のHP「銀座一丁目新聞」の題字と同じ書家ではないか。

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 2004年(平成16年)7月1日号の追悼録に、牧内さんが記している。

 《知人の高岡節子さんの七回忌の法要に出かけた(6月19日・杉並・等正寺)。…「銀座一丁目新聞」の題字は平成9(1997)年4月ホームページを始める際に書いていただいた。この時、縦書きと横書きを4、5枚書いていただいたものから選んだ。雨星としてすでに名を成している人が忙しい最中、嫌な顔一つせずしてくれた。今になってそう思う。当時は感謝の念が足りなかった》

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1995年9月18日スポーツニッポン

 雨星さんは、日本女子大卒で、『桜楓の百人—日本女子大物語』(1996年舵社刊)で紹介されている。というより、この本はスポーツニッポン紙戦後50年の連載企画をまとめたもので、その題号を雨星さんが書いているのである。1ページのほぼ半分を割いた大型連載だった。

 OG大竹洋子さんの書評がネット上にあった。《女性たちの半生を語って戦後の女性史を辿ろうというこのユニークな企画は、はじめスボーツニッポン新聞紙上に登場し、世間をアッといわせたのだった。

 「スポーツ紙が?」という驚きやとまどいは、大学側やインタビューを受ける人にもあったらしい。

 一般紙のなかにあってさえきわめて大胆、かつ正攻法で堂々と行くこんな企画が、スポーツ記事や芸能ゴシップでその大半が埋められる新聞に登場することは、確かに人々を驚かせるにたる「事件」だったのである。

 だが、その心配はすぐに杞憂とわかった。岩波ホール総支配人・高野悦子さんから始まり、彫刻家・宮脇愛子さん、劇作家・真山美保さん、国文学者・青木生子さんと続く連載は、美しい写真とあいまって他の紙面を圧倒した。

 私は息をのむ思いで読みふけった。毎朝、新聞がくるのが待ち遠しかった》

 他に沢村貞子、平岩弓枝、一番ケ瀬康子、妹島和世、高橋留美子、大石靜……。

 毎日新聞「女のしんぶん」編集長、女性初の論説委員、日本記者クラブ賞を受けた増田れい子さん(2012年没、83歳)も載っている。増田さんは日本女子大を卒業して東大文学部国文科に進学した。

 執筆者(星瑠璃子、志賀かう子、吉廣紀代子)4人のひとりに毎日新聞「旅に出ようよ」編集長だった山崎れいみさん。れいみさんと雨星さんはポン女の同級生だった。

 私は、雨星さんの夫で人形町今半の創業者高岡陞(のぼる)さん(2018年没、91歳)の慶大同級生の三代目田村駒治郎さんに招かれたのだが、店は2人の息子に引き継がれている。座敷に挨拶に顔を見せた慎一郎社長、哲郎副社長は「女将が節子で、牧内さんは節男さん。SS会をつくって、よく毎日新聞の方がお見えになりました」と語った。

 毎日新聞東京本社の跡地に出来た新有楽町ビル地下1階に有楽町店、毎日新聞中部本社のある名古屋ミッドランドスクエア41階にも出店していて、毎日新聞とは縁が深い。

 牧内さんにメールをすると、こんな返信があった。

 《私が九州から帰ってきてスポニチの社長になった時、有楽町の「今半」で、サンデー毎日にいた岩見隆夫君(2014年没、78歳)、山崎れいみさんら5,6人が集まって「歓迎会」を開いてくれた。今半の女将、高岡節子さんが山崎さんと日本女子大の同級生であったので女将さんもその会に加わった。僕の名前が節男なので今後、月に一度「SS会」を開こうということになった。ここで様々な企画が生まれた。私がスポニチをやめるまで続いた。ときには自宅まで押し掛けた。…彼女が亡くなった時、れいみさんと私が出入りの商売人・著名人を差し置いてそれぞれ弔辞を述べたのも今や懐かしい思い出である》

 雨星さんは、有楽町店の女将もつとめた。このビルには販売OB古池國雄さん(2013年没、92歳)が理事長の販売組合があった。丸の内一帯の新聞全紙を一手に配達している超優良販売店だった。私と同期の販売朱牟田恒雄、河西瑛一郎(2018年没、77歳)、池田達雄(2019年没、78歳)さんらとよくすき焼きをご馳走になった。

 社会部OB堀井淳夫さん(2017年没、90歳)は高岡陞さん、三代目田村駒治郎さんと慶大同期。今半はお馴染みの店だった。

(堤  哲)