随筆集

2020年7月20日

110年前、関西には野球場がなかった!

 春のセンバツ出場が決まっていた32校が8月10日から真夏の阪神甲子園球場で交流試合を行う。各校1試合、応援団の熱い声援はないが、思い出のコロナ大会となろう。

 高校球児憧れの「甲子園」。甲子園大運動場の完成は、甲子(きのえね)の1924(大正13)年で、夏の第10回大会から使われている。

 それ以前はというと、第1、2回大会は阪急豊中駅から西へ500mほどにあった豊中運動場。現在「高校野球発祥の地記念公園」になっている。記念碑が建てられ、歴代優勝・準優勝校のプレートが飾られている。

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豊中市にある高校野球発祥の碑(豊中市のHPから)
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鳴尾球場跡地(筆者撮影)

 第3回からは、鳴尾運動場。阪神沿線西宮市内の競馬場のラチ内に、野球場を2つ造った。大会の日程短縮にも寄与した。甲子園球場から南へ1キロ余り、浜甲子園運動公園に記念碑が建っている。

 余談ながら、この鳴尾球場建設には、毎日新聞OB・橋戸頑鉄(本名:信、1936年没、57歳)が貢献している。当時大阪朝日新聞の記者だった。

 2019年に朝日新聞が出版した『全国高等学校野球選手権大会100回史』の〈大会が生んだ野球人〉に名前がある。第2回大会のページだ。「前年から手がけられていた野球規則を完成させる。野球殿堂入り」。

 1915(大正4)年。「第1回大会を開催する段になって、まだ日本には満足な邦文の野球規則がないのに気づいた」(上野精一元朝日新聞社長)。アメリカの野球規則を翻訳したが、完全ではなかった。第1回大会のあと、当時「萬朝報」記者・頑鉄が招ねかれたのだ。

 頑鉄は、1903(明治36)年の第1回早慶戦、05(明治38)年早大アメリカ遠征のキャプテン。帰国後に『最近野球術』(05年11月博文館刊)を著すなど、一番の野球通だった。のちに「東京日日新聞」(現毎日新聞)から声がかかり、都市対抗野球大会を創設する。最高殊勲選手賞「橋戸賞」に名前が残る。

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 中等学校野球の全国大会が始まる5年前の1910(明治43)年、「大阪毎日新聞」(大毎、毎日新聞の前身)が米シカゴ大学と早稲田大学を関西に招いて3試合を行った。

 シカゴ大は早大に招かれ来日したが、東京で早大、慶大と各3戦、早大OBの稲門倶楽部とも試合をしたが、7戦全勝だった。

 関西で初の国際野球試合——。その特集紙面が以下だが、阪神間には観客を入れて野球の試合をするグラウンドがなかった。阪神電鉄は、大毎の要請を受け、香櫨園遊園地内に野球場を造った。

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「大阪毎日新聞」シカゴ大vs早大戦見開き特集1910(明治43)年10月23日付

 香櫨園遊園地は現存しない。現在の阪神香櫨園駅ではなく、阪急夙川駅の西側とJR線の間に広がる8万坪。池にウオーターシュート、庭園にメリーゴーラウンド、奏楽堂や動物園、博物館などが設けられ、当時としては一大テーマパークだった。命名の由来は、山林原野を購入した大阪商人の香野蔵治と櫨山喜一の苗字からだ(野球文化學會論叢「ベースボーロジー」第11号、市居嘉雄氏「香櫨園運動場で関西初の国際野球試合」)。

 野球場は、広さ4700坪。「何分急造のこととてスタンドを設備する余裕なかりしは遺憾なり」と紙面にある。

 「柵もスタンドもない…左翼の方は本塁から30間ほどのところからダラダラのスロープとなり、ここへ長打をカッ飛ばされると、追っかけてつかんでもどこへ送球したらよいのかサッパリ分からぬといった大変なグラウンドであった」

 当時早大のマネジャーで、シカゴ戦3試合の球審をつとめた西尾守一が述懐している。西尾は翌年卒業と同時に大毎に入社、スポーツ記者の第1号となった。

 早大のキャプテンは飛田穂洲だった。のち早大の初代監督。「一球入魂」の精神野球は、現在の高校野球に受け継がれている。野球殿堂入りした「学生野球の父」。1965年没、78歳。紙面右下の写真が飛田である。

 記事は、初めて野球の試合を見る人にも分かるように、「ベースボールとは如何なる遊戯であるか」を解説している。

 まず「塁」。ベースとルビをふって「四個あって、其中三個は方一尺許りの帆木綿の嚢中に柔らかき物質を満たした、いはゞ座布団のようなもの。他の一個は同じ位の大きさの五角形の板である」

球(ボール)、打棒(バット)、面(マスク)と続く。