随筆集

2020年8月11日

補聴器と出会ってからの日々―田原総一朗さんにも勧めて 鳥越俊太郎さんのつぶやき

 私は60歳過ぎた頃から耳に変調が出始めた。恐らく新聞記者、週刊誌記者、そしてテレビのキャスターとして全速力で生きてきたことのストレスが、年齢が積み重なると共に耳という弱い部分に手を出してきたんだろう。

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 最初は耳鳴りだった。

 ある日ゴルフに行って午後の最初のホール、ドライバーを構えた背後で虫が鳴いているのに気づいた。うるさいなぁ。振り返った背後には、ただ芝生が広がるだけで樹木は一本もなかった。あれ?おかしいなぁ?虫はいないな。その日はその虫の疑問を引きずりながらゴルフを終えた。

 私は自分が運転する車で帰途についた。すると、なんと車の中にあの虫がいるのだ。道路の脇に車を停めて車の中をチェックした。だけど、車に虫なんかいない。あれえ?どうしたんだろう?

 私は暫し呆然として立ち尽くした。

 その時だ。あ、そうか、あの虫は外じゃない、耳の中にいるんだ!

 ようやく虫の存在の実態に気づき、それが私の耳の障害との付き合いの始まりだった。やがて聞こえの悪さに気づき、そのうち目眩が起きるのを経験した。ようやく訪れた病院で医師から

 「あなたの耳の病気はメニエール病です」

 そして、分かったのはメニエール病には根本的治療法はないということだった。症状は三つだが、耳鳴りと目眩は自分で受け止めるしかなく、今でも半狂乱になる一歩手前でなんとか生きている状態だ。

 ただ、耳の聞こえには救いの道が開けていた。そう、それが補聴器だ。そして私の前にシーメンス補聴器が現れたのだ。今ではシグニア補聴器と呼ばれている。

 私は左の耳がほとんど聞こえない。だから、テレビでインタビューをする時は、相手は必ず、右側に座ってもらう。そんな人の知らない苦労をしていたが、補聴器と出会ってからはその苦労も改善された。

 手足の不自由な障害者は誰もが気づいてくれる。しかし、耳の障害には誰も気がつかない。家の中でもテレビのドラマは字幕がない限り理解不能な物語だ。ニュース番組も聞こえないのでどうしても音量を上げてしまう。今では妻も私の耳の障害を理解して、音量の異常さを分かってくれる。ただ、補聴器を装着するようになってから、テレビ音量問題も解消した。

 そういう耳の障害と格闘していた頃に田原さんと話す機会があったのだと思う。実は私はその出会いを実は覚えていない。まあ、高齢者だから仕方がない。

 田原さんが補聴器を装着するようになって、「補聴器つけて気持ちおだやかに」と言っておられると聞いて嬉しい。

 ほとんど誰にも理解されない耳の障害者の身になってみるとそんなことが、嬉しいのだ。

 「ああ、この辛さを分かり合える人がここにもいた!!」

(鳥越 俊太郎)

 ※新聞記事は朝日新聞7月27日付生活面