2020年11月11日
大阪警視庁・府警キャップ列伝
警視庁キャップ一覧についで、大阪本社社会部の府警キャップ戦後一覧をお届けしたい。大毎社会部100年史『記者たちの森』(2002年4月刊)にあった名簿の転載である。従って最近20年ほどのキャップ名はない(敬称略)。
大阪本社社会部は、日本の新聞で初めて発足した「社会部」で、2021年2月に創部120年を迎える。
●杉本 一郎 1960年没、45歳。
●小口 織穂 1978年没、63歳。
●熊田 潔 2009年没、91歳。
●伊予 馨 1998年没、81歳。
●熊田 潔 前述
●浅野 廣三 2019年没、100歳。
●立川熊之助 1989年没、69歳。
●畑山 博 2010年没、90歳。
●島田 一松 2000年没、79歳。
●吉野 恵三 2005年没。79歳。
●北爪 忠士 2009年没、84歳。
●藤村 拓郎 1983年没、58歳。
●稲本 年穂 2002年没、78歳。
●檜垣 常治 2007年没、82歳。
●三浦秀一郎 2006年没、86歳
●岩井 昭三 2014年没、86歳。
●松永 俊一 2019年没、89歳。
●寸田 政明 2003年没、74歳。
●京谷 利彌 2014年没、83歳。
●上妻 教男 2016年没。81歳。
奥村 邦彦
古野 喜政
永田 孝
●川村 正文 2000年没、62歳。
●佐倉 達三 2008年没、69歳
●河竹皓一郎 2010年没、75歳
木戸 湊
荒武 一彦
高橋 裕夫
神谷 周孝
●菅沼 完夫 2019年没、74歳。
津野 恭誉
●吉井 秀一 2011年没、64歳。
吉山 利嗣
中島 耕治
平野 幸夫
藤原 健
武田 哲夫
●幸良 雄史 2015年没、65歳。
池田 昭
●三谷 佳弘 2018年没、62歳
氷置 恒夫
黒川 昭良
渋谷 卓司
相原 洋
鈴木 龍一
チェックをしてもらおうと、大阪社会部OBで大阪毎友会の迫田太前・会長(88歳)にメール送りしたら、思わぬ答えが返ってきた。
「リストの一番上の杉本一郎氏は、私が昭和29年4月に毎日新聞に入社して鹿児島支局に配属された時の支局長でした。杉本氏はその後、阪神支局長に転勤。私も神戸支局に転勤して親しく付き合ってきました。杉本氏は支局から帰宅する時に阪急西宮北口駅で電車とホームの間にはさまれて死亡。西宮市内のお寺での葬儀にも参列しました。懐かしいお名前をリストで見て改めてご冥福を祈りました」
調べると事故死したのは1960(昭和35)年1月14日夕。45歳だった。
「事件記者として20年。俊敏果敢な記者で、記者クラブなどで君の姿が見えないと、他社の連中がさがしまわるほどだった」と社報で同僚記者が追悼している。
実は、大阪市にも警視庁があった。1948(昭和23)年9月から54(昭和29)年6月までの5年10か月。杉本は、警視庁になる前に山口支局次長に転勤した。2番目の小口織穂が初代警視庁キャップと思われる。次の熊田潔は2度キャプをつとめている。
私(堤)は1971(昭和46)年8月から74(昭和49)年4月までの2年9か月大阪社会部に在籍した。編集局長は稲野治兵衛と立川熊之助、社会部長は檜垣常治と北爪忠士だった。
大阪赴任の年、「大毎社会部70年史」が発刊された。その中に昭和37年(1962)の社会部10大ニュースに「立川デスク東下り(東京デスクへ)」とある。
大毎はご本社だから、東京社会部への転勤は「あずま(東)下り」なのである。
立川は、「立川文庫」の御曹司で知られる。1年後の63年8月、大阪社会部長で戻る。その時、東京社会部から一緒に西下したのが牧内節男と白木東洋だった。 牧内は「銀座一丁目新聞」に書いている。
《立川さんはもともと大阪社会部で事件記者として鳴らした人である。大阪に帰るにあたって東京から牧内節男と白木東洋の二人を連れて行く。牧内は警視庁キャップから遊軍長になって5ヵ月ぐらいたっていた。大阪では社会部デスクをやることになった。白木は警察には強い記者であった》
社会部記者の東西交流である。白木は大阪府警クラブで東京流の事件取材方法を伝授した。
逆に大阪から警視庁クラブに送り込まれた事件記者は寸田政明だった。東京社会部長は稲野治兵衛。「組織暴力の実態」で1964年度の新聞協会賞を受賞した。連載の前書きは部長が自ら筆をとった、と「新聞研究」の受賞報告で記している。
山口組三代目組長、田岡一雄をはじめ暴力団の組長にインタビュー取材をしたが、そのセッティングをした多くが寸田だったといわれる。
連載は、名文記者吉野正弘(1989年没56歳)がアンカーとなった。
毎日新聞百年史に取材班の名簿が載っているが、吉野以外は、いずれも事件記者である。社会部デスク佐々木武惟、社会部員道村博、寸田政明、山崎宗次。
寸田の東京社会部在籍は、64(昭和39)年2月から67(同42)年1月まで丸3年。ある時、犯人に逮捕状の前打ち原稿を出稿した。「本当に大丈夫か」といぶかる上司に、それならと寸田は「逮捕状」を捜査員から借りてきて示した、という伝説が残っている。
寸田はその後、大阪社会部のデスクとなる。新任デスクはセンバツ担当となるが、61年入社津田康がキャップ、私がサブだった72年センバツの担当デスクだった。
ヒゲの畑山博は、生粋の事件記者。大阪と東京で社会部長をつとめた。東西の社会部長経験者は、稲野治兵衛につぐ。
特ダネの周辺を綴った自著『三四郎記者』(1963年刊)に、「1時間に120行以上のペースで書き飛ばさないと、いい事件記者にはなれない」とあった。雑用紙1枚(5字3行で当時の新聞1行分)を遅くても30秒以内。10分で20枚、30分で60枚、1時間で120枚という計算である。私にはとても無理である。
正直、こんなキャップの下にいたら大変だ。使われなくてよかったと思うが、私を大阪に転勤させた部長でもあった。東京駅の新幹線ホームで見送りの写真が残っている。
私が街頭班(サツ回り)のときの遊軍キャップ上妻教男。童顔から「ベビーギャング」と呼ばれた事件記者だった。府警キャップは奥村邦彦(86歳)。奥村は、1982(昭和57)年10月から12月まで60回にわたり夕刊1面で《まぼろし紀行「稲荷山鉄剣の周辺」》(毎日新聞社から出版)を連載した。事件記者というよりナンパ記者だったか。
次の古野喜政(84歳)は私を府警クラブに引っ張り込んだキャップである。のちソウル特派員。金大中大統領と親密な関係を築いた。著書に『韓国現代史メモ:1973-76 わたしの内なる金大中事件』(1981年)、『金大中事件の政治決着 : 主権放棄した日本政府』(2007年刊)、『金大中事件最後のスクープ』(2010年刊)。金大中事件は、ライフワークなのである。
サブキャップが佐藤茂(1993年没55歳)。1970年植村直己らがエベレスト登頂をした登山隊に同行、社会部長もつとめた。捜査2課担当が鳥越俊太郎、私はその裏の捜査3、4課担当だった。神谷周孝が捜査1課担当で最若手だった。
川村正文は、府警キャップ時代に、展覧会場から盗まれたロートレックの絵画「マルセル」が朝日新聞大阪本社に持ち込まれたのを察知、7年1カ月ぶりに「マルセル」無傷で戻ると1976年1月30日付朝刊で報道した。1面、社会面と大展開した朝日新聞を悔しがらせた。盗まれたのは読売新聞が京都国立近代美術館で開催したロートレック展の会場からだったが、読売新聞は特オチとなった。
63年入社の木戸湊(81歳)。大阪本社編集局長時代に阪神淡路大震災が起きた。いちはやく「阪神大震災」と紙面でうたった。被災者のための「希望新聞」も始めた。その後、東京本社編集局長→主筆→副社長。
退職後、『記者たちよハンターになれ!―元毎日新聞主筆の回想録』(2009年刊)を出版した。牧内節男が高く評価して《この本こそ「己の足と才覚で掴んだ」真実のニュース取材物語である。若い記者達は共感した所に赤線を引き拳々服膺したらよい》と、「銀座一丁目新聞」で紹介した。
藤原健は、大毎社会部100年のときの社会部長。大阪編集局長→スポニチ常務。66歳で沖縄に移住。大学院で学び、『魂マブイの新聞―「沖縄戦新聞」沖縄戦の記憶と継承ジャーナリズム』、『終わりなき<いくさ> 沖縄戦を心に刻む』を出版している。
黒川昭良は毎日新聞出版社社長を務めた。出版不況の中、黒字経営を実現したというから立派だ。
下から2番目相原洋は、私が千葉支局長のときの支局員だった。
(堤 哲)