随筆集

2020年11月13日

桜田門旧警視庁庁舎、最後のキャップから反響

 軍事アナリスト小川和久さんがFaceBookにアップした写真が毎友会HPに転載され、その時の警視庁キャップ堀越章さん(88歳)から「落書を書いてみました」と以下の一文が届いた。

43年前のキャプション

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堀越章キャップ時代、旧警視庁七社会のお別れ会。左からぐるっと(敬称略)、坂巻煕、その後、諸岡達一、白木東洋、前田昭、宮武剛、加納嘉昭、今吉賢一郎、市倉浩二郞、松田博史、(2人の女性を除いて)根上磐、山本進、内藤国夫、佐々木叶、開真、山口清二。中央に堀越章キャップ

堀越  章

 「KC庁」と書き、「警視庁」と読む。東京社会部在籍中の常用部語。いま使われているかどうか。すでに古語かもしれない。タテ約12センチ、ヨコ約16センチ。広げた手の平大のザラ紙が原稿用紙。黒の軸に金文字で「毎日新聞」と彫りこまれた特注品の3B鉛筆は、やがてボールペンになる。デスクが使う朱は、筆からサインペンになった。「打つ」時代の前、書いていた時代が長くあった。

 「KC庁」が、いまの桜田門外に居をかまえたのは昭和6年(1931)である。日本初の警察組織として東京警視庁が創設されたのは明治7年(1874)。鍛治橋にあった旧津山邸を改築して庁舎とした。いまのJR東京駅の近くである。そのあと日比谷のお堀端にできた赤レンガ庁舎に移り、関東大震災で焼け、宮内庁の敷地内に仮住まい。桜田門庁舎は大正15年(1926)着工、5年をかけて地上5階、地下1階の鉄筋コンクリート建が完成した。独特の「A型」建物の設計と建築を仕切ったのは旧大蔵省営繕局の技官たちである。以来、壁面がこげ茶色のこの建物は、よくも悪くも昭和史の舞台となった。

 毎日が所属する記者クラブは3階のお堀側にあった「七社会」。加盟社は朝日、読売、東京、日経、共同の6社。事件記者たちは廃業してなくなった「時事新報」を忘れないの思いを込めて「ナナシャ」のまま改名しない。

 その建物を壊し新庁舎を作ることになる。昭和52年(1977)、仮住まいの内幸町庁舎への引っ越しが始まる。

 「七社会」移転の直前、かつて「七社の毎日」で夜回りと朝駆けに暮れ、ソファーで仮眠したつわものどもが、まことにさりげなくその小部屋に集まった。散会したあとの夜おそくやってきた者も何人かいた。ビールもつまみもない。それでもしばらくいて「じゃーな」と言って去った。

 最後の日、庁内散歩のあと地下の用務員詰所に行った。大きな囲炉裏があり炭火が絶えない。用務員が待ってましたよという笑顔で言った。

 「やっぱり来ましたね。ちょっと前に総監がおみえになって、きっと毎日のキャップが来るよっておっしゃっていました」

 散歩の締めくくりは予定どおり総監室。当時の警視総監は土田国保氏であった。

 堤哲さんから歴代KC庁キャップの名簿と一枚の写真が送られてきた。追いかけるように同じものが森浩一さんからもきた。写真は旧KC庁クラブの小さく狭い部屋にかつてのクラブ員と現役が集まっている43年前のもの。遥かなる茫々の中で写真説明を書いた。