2020年11月16日
ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その6
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その6 『宮本常一が撮った昭和の情景』——絵巻物の手法
文 平嶋彰彦
写真 宮本常一
2009年に『宮本常一が撮った昭和の情景』(以下、『昭和の情景』と略称)を刊行した。『宮本常一 写真・日記集成』(以下、『写真日記集成』と略称)の廉価版といっていい。3000点の写真を3分の1に圧縮し、日記は割愛した。版型もB5からA5に縮小した。
『写真日記集成』では写真に対応する形で日記全文を載せている。そのため写真キャプションは、それ以外は基本的に撮影時期と撮影場所を記すだけにとどめた。それにたいして『昭和の情景』では、宮本を知らない読者にも写真を理解してもらいやすくするため、『写真日記集成』だけでなく、『私の日本地図』(全15巻、同友館)など宮本常一のさまざまな著作からの引用文を多用することにした(註1)。
『写真日記集成』の刊行後、原稿に使った写真の整理をしながら、『私の日本地図』を始めて通読した。その第1巻目『天竜川に沿って』 の「あとがき」で、宮本常一はこのシリーズの意図と方法を次のように述べている。
「写真を中心にして写真を説明するような形式で、時には写真をとったときよりもまえの旅のことなどを回想しつつ書いて見ることにした。そうすれば写真とつかずはなれずの文章になる。これは古い絵巻物の形式になる。鎌倉時代中期以前の絵巻物はかならずしも絵と文章が一致していない。それがかえって両者たすけあって生き生きしたものになっている。そこで私はこの書物を絵巻物の手法で通して見ることにした」
併行して、手元にある宮本の代表的な著作を改めて読み返してみた。すると、写真の載らない文章だけの著作であっても、これはあの写真、あれはこの写真という具合に、文章に対応する写真がなんとなく頭に思い浮かんでくることに気づいた。そうこうするうちに、写真キャプションは宮本常一のいろいろな著作からの断片的な引用文で構成することを考えついた。キャプションと写真が必ずしも一致していなくとも、つかずはなれずの関係にあればいいのである。宮本は「かえって両者たすけあって生き生きしたものになっている」とも書いている。
キャプションの文字量は、連載その5で書いた『1960年代の東京 路面電車の走る水の都の記憶』の経験から、写真が見開きの扱いなら300字から400字、2分の1ページ大なら150字前後、それ以下ならば25字前後を目安にした。実際にページ構成にとりかかると、予想した通りで、7割程度は写真に対応する引用文を探し出すことができた。
見つからないものは、著作集の監修者である田村善次郎先生に教えを乞い、該当すると思われる書籍や雑誌をお借りした(註2)。それでも見つからないものが1割ほどあったが、これは私が文章を書いて田村先生に見てもらうことにした。
今回のブログ連載では、宮本常一が旅の途中で、列車や自動車の中から撮影した写真4点とキャプションを末尾に載せている。いずれも『昭和の情景』からの転載である。参考までにぜひご覧になっていただきたい。
列車や自動車の中からみた景色を文章や絵の形でメモをとるのは容易ではない。じっとしていないからである。あっという間に通りすぎてしまう。しかし、写真はそれをわけもなく写しとることができる。肉眼ではその物自体の形や周りとの関係を瞬間的に把握するのが難しくとも、カメラであれば画面の4隅を決めれば、それを迅速かつ正確に写しとってくれる。写真は肉眼で見えるものだけではなく、見えないものまで写し込む。
乗り物から外の景色を写す場合、じっくり見てからカメラをかまえるのでは埒が明かない。そもそも、私たちは自分に必要と思われないものは見過ごしてしまう悪癖がある。反対に、意外なものにとつぜん遭遇すると、思わずそれに目を奪われてしまう。そうなると、たいていは写真を撮ることに頭がまわらなくなる。
そんなふうに考えていくと、移動中の列車や自動車のなかで、右手の人差し指でいつでもシャッターを押せるようにカメラをかまえる宮本常一の姿がなんとなく目に浮かんでくる。次々と通りすぎる窓の外を横目で追いながら、これから思いがけない景色に出会えるかも知れないという期待に胸を躍らせていたのである。見えてから写真を撮るのでは間に合わない。物の気配を感じたら、迷わずシャッターを切るようにしていたに違いない。
宮本常一がフィールドワークの記録手段として、いつから写真を用いるようになったかはいま一つはっきりしないが、1934年4月11日に「宮本君より「採集と写真」について話あり」という記事が『口承文学』第9号に載っている。宮本が26歳のときで、大阪で小学校の教師を務めながら、民俗学への道を歩きはじめた時期にあたる(註3)。
『河内国瀧畑左近熊太翁旧事譚』は宮本の2冊目の著作で、1937年にアチックミューゼアムから刊行された。この著作には、聞書きをとった左近熊太翁やその孫あるいは住居など数点の写真が掲載されている。現地取材は前年の1936年である。それより2年後の1938年、宮本はこの著作を左近熊太翁に寄贈するため現地の瀧畑村を再訪した。翁は掲載の写真を目にすると、「こんな汚い山家でもかうも美しうなるものか」と感に堪えぬ風であったと、宮本は『アチックマンスリー』(第13号)でその報告記事を書いている(註4)。
宮本常一は1955年、現在の一眼レフカメラの前身ともいえるアサヒフレックスを買い求めた。10万カットと言われる撮影フィルムとプリントが整理・保存されているのはそれ以降のものである。さらに5年後の1960年になって、宮本はハーフサイズカメラのオリンパスペンSを手に入れた。先にも触れた『天竜川に沿って』 の「あとがき」のなかで、宮本は自分自身の写真についての考え方を次のように述べている。
「アサヒフレックスを買ってからできるだけたくさんとるようにしたが、眼につき心にとまるものを思うにまかせてとりはじめたのは昭和三五年オリンパスペンSを買ってからである。別に上手にとろうとも思わないし、まったくメモがわりのつもりでとってあるくことにした(中略)だが、三万枚もとると一人の人間が自然や人文の中から何を見、何を感じようとしたかはわかるであろう」
「思うにまかせてとりはじめた」というのは、フィルム代が嵩むのを苦にしなくてすむようになったからである。というのも、オリンパスペンSは1本のフィルムから72枚も写すことができた。ふつうのカメラの2倍である。それに加えて、手のひらに収まる大ささだった。フィールドワークで持ち歩くのにうってつけのカメラだったから、宮本はこのオリンパスペンSのシリーズを晩年になるまで愛用することになった。
写真は「メモがわり」だと宮本はいう。その一方では、「別に上手にとろうとも思わない」ともいっている。メモだから、なにが写っているか分かればいい、ということかも知れない。しかし、下手よりは上手な方がいいし、「好きこそ物の上手なれ」の諺もある。この物言いにはどこか棘があるように思えてならない。宮本から見ると、上手かも知れないが、つまらない写真が世間に溢れているということだったのではないだろうか。上手に撮ろうとした写真が、私もそのなかの1人ということになるが、報道メディアあるいはカメラ雑誌の写真を示唆しているのは、言うまでもない気がする。
宮本にとって写真は「眼につき心にとまるもの」の「メモがわり」だったことになる。『あるくみるきく』の編集長を務めた長男の宮本千晴によれば、宮本は若い研究者たちを旅に送り出すとき、
「はっと思ったら撮れ、おやっと思ったら撮れ」
を手向けの常套句にしていたという。「眼につき心にとまるもの」というよりも、「はっと思ったら」「おやっと思ったら」という言い方のほうが、ずっと実践的で説得力があるように思える。
写真は「メモがわり」だと宮本は述べている。メモは忘れないための覚え書きのことで、ふつうは文字で書き記したものをいう。「メモがわり」と一口に言っても、写真と文字の表現を比べると天と地ほどの違いがある。しかしというか、だからこそというか、写真は文字によるメモと一致しなくとも、つかずはなれずの関係にあるのは確かなことで、文字に匹敵するもう1つの記憶装置になりうる、ということである。さらに言うならば、1人の人間が眼前に広がる茫漠とした現実をいかに認識するかの道しるべになりうると、宮本常一は主張しているようにみられる。
(註1) 『私の日本地図』(全15巻)は、1967~1976年に、同友館より刊行。絶版になっていたが、香月洋一郎編の『私の日本地図:宮本常一著作集別集』(全15巻)が未來社より2008~2016年に刊行された。
(註2) 田村善次郎先生。元武蔵野美術大学名誉教授。『宮本常一著作集』(未來社)の監修者。2006年、今和次郎賞受賞。著作に『ネパールの集落』(古今書院)、『ネパール周遊紀行』(武蔵野美術大学)など。
(註3) (『宮本常一日記 青春篇』資料編「口承文学」、毎日新聞社、2012)
(註4) (『宮本常一日記 青春篇』資料編「『河内国瀧畑左近熊太翁旧事譚』より「河内国瀧畑入村記・左近翁に献本の記」
写真とキャプションは『宮本常一が撮った昭和の情景』上下巻(毎日新聞社、2009)からの転載。