随筆集

2020年11月16日

大阪警視庁・府警キャップ列伝メモ —— 古野喜政さんから寄稿

 大阪警視庁・府警キャップ列伝を読んで、大阪社会部第29代社会部長・古野喜政さん(84歳)から思いついたことのメモが届いた。以下、全文を紹介します。

 *熊田潔さん(2009年没91歳)とは、お会いした記憶が残っています。

 *伊予馨さん(1998年没81歳)は、ミナミの宗右衛門町だったかキャバレーの主人におさまっていました。仲々の男前でした。敗戦後、日本人記者が広島に入った時の毎日の“特派員“でした。「ピカドン」という言葉を初めて記事に入れた記者でした。伊予さんは「ボクが作ったわけでもなんでもない。広島の人が原爆といわず『ピカドン』と云っていました」と言っておりました。

 *立川熊之助さん(1989年没69歳)は、ほんのわずかな期間、上司でした。立川は「タチカワ」「タテカワ」と広辞苑に出ていますが、「一族のものはタツカワが正しい」といっておりました。日常的には「タッチャン」と呼ばれていました。

 立川文庫の本家でしたから大変な金持ちでしたね。当時はカズノコが宝石のようにありがたがれておりました。正月、部員の大半がこのカズノコを目当てに、立川邸に集まりました。50人以上はいたと思いますが、その部員が「もうけっこう」というほどカズノコと酒が並びました。

 タッチャンは“物識り”の評判の高い人でしたが、部長席の左の大きな抽き出しに辞典が数冊入っていて、部員がワイワイ云っておりますと、その辞典をそっと見て、「それはなや」と一席ぶっていました。小生はタッチャンの秘密を目撃したわけです。

 大毎社会部では、事件担当としては初めての本格派だったかなと思います。

 *藤村拓郎さん(1983年没58歳)は、小生の知る限り社会部一の飲兵衛でした。事件記者でしたが、マージャン狂でもありました。大久保文男さん(府庁担当が長かった)と奥さんが姉妹でしたね。死んだのも同じ歳だったと思います。
 特ダネも特ダネでしたが、フジさんは特ダネを他紙にやられた時の収拾の仕方は、小生の知っている先輩の中では、No1でした。

 *寸田政明さん(2003年没74歳)は、小生の識っている事件記者の中で比較の対象になる人がいませんでした。寸ちゃんがキャップ、小生がサブで警備公安担当。公安事件で明日逮捕というのに名前がとれない。A、大阪府下に住む30台の男で原稿にしました。寸ちゃんは「名前は書けんか」。「それが取れませんで」と頭をさげました。「そうやなぁ、これで出そう」とカンニンしてくれました。恐らく彼なら実名はとれたでしょうね。
 KC庁を回っていた時、刑事から逮捕令状を借りて、デスクに見せて「ホンモノや」と証明したという伝説がありますが、あれは本当ですね。小生、勝ち負けはトキの運だと思いますが、寸ちゃんは別格でした。

 *吉山利嗣君も強かったですね。だが、刑事をつかまえるのに時間がかかった、寸田さんより。1967(昭和42)年のタクシー汚職。寸田さんは、司法担当になって10日目くらいでしたか。事件の担当検事が会議を開いたのですが、夜9時頃、寸田さんが社に戻ってきて「これをコピーしてくれ」と2頁の書類を出しました。その日の会議の要項をまとめたものでした。主任検事から借りてきたということでした(メモは実名入り)。
 それが8月中旬で、関谷勝利代議士を逮捕したのが12月25日。最初の読み通りに事件が展開しました。こんな話をしてもほとんど信じる人はいなかったでしょうね。次の年の4月、彼が府警キャップ、小生がサブになりました。

 *早死にしてしまいましたが、川村正文君(2000年没62歳)も強かったですね。「マルセル」事件。読売新聞主催のロートレック展で盗まれ、時効が成立した後、朝日新聞に持ち込まれた。これを川村府警キャップが聞き込んで記事にした。あのネタ元は、小生と2人で捜査1課を回っていたころにつくったところで、川村君は誰にもネタ元を明かしませんでした。小生はソウル特派員をしていて、快哉を叫んだ覚えがあります。
 川村君でなければとれなかったでしょうね。

 *府警キャップのエピソードはまだまだあります。また書きます。

(古野 喜政)

 *古野さんは大阪ユニセフ協会を2001年に立ち上げ、副会長をつとめている。