随筆集

2021年1月16日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その8

この連載は毎月14日に更新されます

平嶋彰彦のエッセイ http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 その8 インドネシアの世継物語
文・写真 平嶋彰彦

 2009年8月31日、定年後の再雇用の3年が終わり、毎日新聞社を退職した。6月に刊行した『宮本常一が撮った昭和の情景』は、思ったより好評で、ちょうど4刷目の配本をすませたところだった。退職は会社員としての死を意味する。年をとれば、やがて1人前の仕事は難しくなる。引退してもらい、世代交代をする必要がある。

 年老いた親の世話で右往左往する一方、気がついてみれば、自分自身の老後が眼前の事実になりつつあった。否も応なく、先人たちが老いや死の問題をどのように向き合ってきたか、そして自分自身はどう向き合えばいいかを考えるようになった。

 そんな時期に、長年の同志ともいうべき友人に誘われ「トラジャ地方の自然と文化を訪ねる旅」に参加した(註1)。2010年3月のことである。トラジャは、インドネシア中央部に位置するスラウェシ島の山岳地帯にある。地名の原義は山の人だという。起伏のある斜面に広がる棚田は、日本の田園風景に似ていて、南緯2度で赤道直下だが、熱帯地方に特有な2期作ではなく、雨期と乾期の周期に合わせた1期作の稲作農耕が行われている(註2)。

 スラウェシ島はセレベス島の現在名である。私の子供ころ、郷里の南房総ではサトイモをセレベスとも呼んでいた。サトイモの原産地は熱帯アジアで、日本に渡来したのもかなり古い時代のことだという。セレベスはサトイモの1品種のことだが、イモが大きく収穫量も多いことから、サトイモの別名になったらしい。

 7泊8日の旅行の6日目、ボリ村というところで葬儀があるというので、その日の予定を変更して見に行くことになった。というのも、トラジャの文化は死の文化ともいわれ、死者の葬送儀礼は国際的なインドネシア観光資源の目玉の1つにあげられていたからである。

 死者はネ・シモン(シモンの祖父の意)という富裕な階層の人物で、5人の子どもと20人の孫がいた。正確な年齢は不明だが、たぶん100歳ぐらいだろうとのこと。死亡したのは葬式の1ヶ月余り以前で、遺体は家族の生活するトンコナンと呼ばれる高床式で舟型屋根の住居のなかに、葬儀までずっと置かれていた。トラジャでは死去から葬儀までの期間は1ヶ月どころか、場合によっては1年とか2年になることもあるという(註3)。

 わが国では現在、人が死ねば速やかに通夜と告別式をすませ埋葬してしまおうとする。だが、『古事記』や『日本書紀』などを読むと、古代には殯(もがり)といって、喪屋を設けて、埋葬までの間、死体をそこに安置する習わしがあり、その期間中は生死の境が定まらないと考えられたとのことである(註4)。それにたいしてトラジャでは現在でも、葬式のすむまでは、死者は死者として扱われるのではなく、熱い人と呼ばれ、病人に見立てられる。つまり死者の死を社会的に確認するのが葬式だというのである(註5)。

 トラジャの葬送儀礼でとりわけ異彩を放つのは水牛の供儀である。水牛は聖なる動物とされていて、その霊魂は死者の霊魂を守護する従者となり、「牛にひかれて善光寺参り」の諺ではないが、あの世へ無事に導いてくれるという信仰がある。供儀に捧げた水牛の角は舟型住居の正面に飾られるのだが、水牛の頭数は多ければ多いほど功徳も大きく、その数によって家の格式も評価されるという(ph1註6)。

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ph1 死者ネ・シモンの舟型住居に飾られた水牛の角。ボリ村。2009.3.17

 葬儀が行われたのは死者の自宅屋敷で、舟形家屋と籾蔵などがならび、弔問客や観光客のための桟敷席も造られていた。また庭の一画に櫓を組んで仮屋を設え、そのなかに死者の棺を納めていた。裏庭をのぞくと、これから供儀に捧げられる水牛が飼い主に引かれて待機していた。ガイドの話によると、昨日は水牛3頭が供儀に捧げられたという。桟敷席に案内され、しばらくすると、庭に水牛6頭が引き出され、前脚を荒縄で縛られて杭に繋がれた。

 庭の反対側で血しぶきが飛ぶのが見えたか思うと、水牛がのたうちまわって暴れ、すぐに動かなくなった。水牛の供儀を始めたのである。危険だから桟敷から見るように、とガイドに言われた。大人しくしていたら、ろくな写真が撮れない。かまわず庭に下りた(ph2)。

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ph2 水牛の供儀。死者の霊は、殺害した水牛の霊に守られ、あの世に導かれる。ボリ村。2009.3.17

 水牛は、小刀で喉元をえぐるように、一振りで切り裂いて殺す。役目の人は、1頭に対しそれぞれ1人。Tシャツにジーンズといったラフな格好だが、スカーフのような黒い領巾を首や腰に巻き、足元は裸足にしていた。殺した水牛は、その場で直ちに皮を剥ぎ、前脚部・後脚大腿部・背中などの部位に解体していく。皮剥と解体は分業化され、それぞれ2人1組で、この人たちは裸足でなく、サンダルや靴を履いていた(ph3)。

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ph3 殺された水牛は、その場で解体する。正面奥は死者を安置した仮屋。左は主屋で、水牛の角や頭部を模した像を飾る。ボリ村。

 解体された肉は、死んだ本人・水牛を供出した近親者・葬式の運営に携わった役職者・水牛の殺害と解体を務めた人たち・村の有力者や一般の村民などに分配する。どの部位の肉をだれにどれだけ分けるかは、それぞれの親族が供出した水牛の頭数・死者との社会的な関係の深さ・葬儀における役目の重要度などにより決められるのだという(註7)。肉の配分をしている間に屋敷のなかを1回りすると、水牛の殺害と解体を務めた人たちが桟敷席の裏側に集まって、報酬にもらった肉を配分していた(ph4)。

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ph4 報酬の肉を分ける水牛の殺害と解体に携わった人たち。ボリ村。2009.3.17

 死者の残した水田の相続は、葬儀に供出した水牛の頭数により配分が決められ、水牛を供出しないことは遺産相続の放棄とみなされるともいう。水牛の供出と肉の分配という葬送儀礼の制度は、遺産相続の制度と密接に結びついていることになる(註8)。

 死は永遠に帰宅しない留守のようなものである。死ねば空白が生じる。死者が所有した財産や生前の社会的な役割は、そのままにしておけない。相続の手続きを怠れば、残された家族や死者の属した世界は、大なり小なり不安定な状態に置かれる。水牛の供儀は、それを回避する安全装置であり、損耗した世界の再生装置ともいえる。

 死は永遠に帰宅しない留守のようなものである。死ねば空白が生じる。死者が所有した財産や生前の社会的な役割は、そのままにしておけない。相続の手続きを怠れば、残された家族や死者の属した世界は、大なり小なり不安定な状態に置かれる。水牛の供儀は、それを回避する安全装置であり、損耗した世界の再生装置ともいえる。

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ph5 キリスト教プロテスタント派の女性牧師の説教。死者のネ・シモンはその信者だった。左奥に喪主の女性がいる。村。2009.3.17

 私の父親が亡くなったのは2006年になるが、親戚の人たちと事前に葬儀の相談をした。連載その7で書いたように、念仏講の死生観では、阿弥陀や釈迦など十三仏が来迎して、死者の霊をあの世に引導してくれることになっている。仏式の葬儀だから、供物に鳥獣や魚の肉が除外されるのは言うまでもない。

 相談の席で重要議題になった一つは、供物というよりも祭壇の飾りだった。具体的には白・金・銀の蓮華の造花・灯籠・光輪・くす玉・缶詰・生花など南房総に特有な装飾品のことだが、これを誰に出してもらうかであった。白蓮華は喪主と決まっているが、そのほかの飾りは喪主と親戚中で話し合って、頼む相手を決めることになっている。たいていは従来通りということになるのだが、とはいっても、人選にあたっては、喪主や葬家とのこれまでとこれからの関係の重要度が改めて判断されるのである。

 香典にもそれと似たところがある。どこの家でも詳細に記録を残していて、その金額の変化は家と家の関係性の変化とみなされる。南房総の郷里とインドネシアのトラジャでは、死生観や葬祭の様式には、天と地ほどの違いがある。だからといって、共通点がないわけでもない。葬送儀礼は死の確認であると同時に、世代交代の舞台になっているのである。

 郷里では、これも前回の連載で書いたように、告別式がすむと野辺送りをする。このときは家から寺まで列を組んで行進し、寺に着くと、境内を時計回りに3度廻る。そうすることで、死者の霊の目をくらませ、あの世とこの世の境を分からなくさせるのだという。また、葬式のなかには引導をわたす場面がある。死者に死の事実を認識させると同時に、この世への執着を諦めさせ、あの世への旅立ちを決心させるのだが、地方によっては、そのときに鍬を投げつけることもある、ということである(註9)。

 これを彷彿させるような場面が、やはりトラジャでも見られた。水牛の供儀がすむと野辺送りになる。死者の棺を櫓から降ろして、親族が最後の別れをする。棺の周りを参列者が輪になってダンスをするなか、棺は輿の上に乗せられる(ph6)。

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ph6 櫓の仮屋から下された棺。周りでは参列者が輪になって踊る。ボリ村。2009.3.17

 10人余りの若者がこれを担ぎ、上下左右に激しく揺さぶりながら庭を練り歩いた後、いよいよ家の外に出ようとするそのとき、とつぜん担いでいる何人かが、棺をもとへ押し戻そうとする。あの世へ旅立たせるかこの世に引き返さすかを、担ぎ手同志で争っているのであろう。それを2度か3度か繰り返したあと、ようやく墓地に向かったのである(ph7)。詳しい信仰的背景は分からないが、死者の霊はこの世への執着を諦め、あの世への旅立ちを決心したものとみられる。

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ph7 野辺送り。屋敷を出る間際、棺の担ぎ手が、死者をあの世に送るか、この世に留まらせるか2つに分かれ争う。ボリ村。2009.3.17

 墓地は集落のはずれの水田のなかにあった。トラジャの伝統的な埋葬の方法は、岩山に洞窟を穿ち、そこに棺を納めるいわゆる風葬なのだが、ここでは鉄筋コンクリート造りの建物を設けて、そのなかに安置するという形をとっていた。

 野辺送りには、どういうわけか、喪主や弔問者の姿がなかった。意外だったのは、墓地に10数人もの子供たちが待ちかまえ、納棺のようすを笑顔で見守っていたことである。そういえば、棺を担ぐ若者たちも、野辺送りの初めから終わりまで、笑顔を絶やさなかった。わが国の葬送儀礼では、何かと言うと、しめやかさばかりを強調する傾向がある。そうした伝統になれた感覚からすると、トラジャの葬儀は実にあっけらかんとしていて、意外というよりも不思議な気がしてならなかった。

 納棺のすんだのを見とどけ、帰ろうとしてふりかえると、墓所の施設の屋根に十字架が飾られているのが見えた(ph8)。死者のネ・シモンはキリスト教プロテスタント派の信者であり、式次第のなかには女性牧師の説教があった(ph5)。かれの死者儀礼は、19世紀にオランダの植民地政策に伴って浸透したキリスト教とトラジャの伝統宗教であるアレック・ト・ドロ(祖先のやり方の意)との混交した形で執り行われたのである。

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ph8 野辺送り。棺を納めた墓地の建物に十字架が飾られている。ボリ村。2009.3.17

(註1)友人は前田速夫さんのこと。文芸誌『新潮』の元編集長で、私の加わっていた「白山の会」(庶民信仰の研究グループ)の同人。このインドネシアへの旅行を企画したのは桃山学院大学の沖浦和光名誉教授で、関西と関東から20人が参加した。沖浦先生は旅行直前に体調を崩し、同大学の寺木伸明教授が団長を務めた。
(註2)「トラジャ地方の風土・歴史・文化」(沖浦和光、「トラジャ地方の自然と文化を訪ねる旅」パンフレット所収、2010)
(註3)『死の人類学』第五章「トラジャにおける生と死」(内堀基光・山下晋司、講談社学術文庫、2006)
(註4)「大嘗祭の本義」(『折口信夫全集 第3巻』所収、中公文庫、1975)
(註5)前掲、『死の人類学』第五章「トラジャにおける生と死」
(註6)前掲、「トラジャ地方の風土・歴史・文化」
(註7)前掲、『死の人類学』第五章「トラジャにおける死の解決」
(註8)同上
(註9)『喪と供養』Ⅱ葬具論 七「鍬」(五来重、東方出版、1992)