随筆集

2021年1月27日

夏の東京五輪・パラリンピックの行方は? 60年ローマ五輪出場の齊藤 修さん(82)の懸念

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 菅首相は1月4日の年頭記者会見で、コロナウイルス対策としての緊急事態宣言の準備を発表すると同時に、夏の東京オリンピック・パラリンピックの開催にも触れ、「世界中に希望と勇気をお届けするこの大会を実現する決意のもと、準備を進める」と決意表明した。続いて13日に11都府県の第2次緊急事態宣言を発令。代表に内定している選手や大会関係者たちは、これを知ってどう感じただろうか。

 「オリンピックは遠のいた」と感じた人も多かったに違いない。

 20年4~5月の第1次宣言下では、ナショナルトレーニングセンター(NTC)の利用使用が中止となり、その後予定されていた各競技の国内、国際大会が次々に中止に追い込まれた。菅首相は「必ず1か月で改善を」と強く訴えているが、もし緊急事態が4月ごろまでずれ込んだら、どうなるだろう。選手たちの練習環境や実戦機会は失われ、厳しい状況になることは必至。外国選手代の来日も大いに懸念されている。

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ボート競技の会場となった戸田漕艇場。聖火台も設置

 私が取材した64年の東京オリンピックは健康的で国民も期待を寄せる平和な大会だった。勿論、コロナウイルスなどの脅威はなかったし、大会開催に特に大きな懸念材料は見当たらなかった。

 私はオリンピック前年の63年に毎日新聞社に入社した。入社試験では中央大学の大講堂にぎっしり詰った受験生を見渡して、とても合格はおぼつかないと感じたが、結果は入社が許された。受験願書の備考欄に「60年ローマオリンピック・ボート(フォア舵手)代表」と記しておいたのが、大いに効力を発揮してくれたと今でも信じている。試験の成績はともかく翌年のオリンピック要員として採っておいても……と採用されたに違いない。

 誰に言われたか憶えてないが、「君はわが社で3人目のオリンピック選手だ」と。前の2人は大阪運動部の葉室鉄夫さん、そして東京運動部の岡野栄太郎さん。葉室さんといえばベルリンオリンピック・平泳ぎ200mの金メダリスト、岡野さんもアジア大会陸上中距離の金メダリストで、日本記録保持者だった。

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 我が国のボート競技は、オリンピックには1928年のアムステルダムに初参加、以後エイト1種目を派遣してきた。60年は次回64年が自国開催なので小艇も経験させようと初めて舵付きフォアの参加を決めた。いわばおまけの参加だった。結果は予選、敗者復活戦とも惨敗。多分、当時の紙面では「予選敗退」の1行で片づけられたに違いない。個人の金メダリストたちと、全く実績のない選手とを、単に五輪経験者の枠で見られるのは面映ゆかった。

 毎日新聞の64年東京オリンピック取材班は、10月に入って4本社から約100人が召集され、私も赴任先の仙台支局から駆け付けた。取材、機材など関係者の結団式が行われ、それぞれ担当する競技が割り振られ、私は埼玉・戸田で行われるボートだけとなった。担当記者には茶色の厚手のブレザー上着が用意されていて驚いた。ブレザー代は後に給料引きでしっかり徴収された。

 カメラ2人と揃いのブレザーでチームを組み取材にあたったが、ボート競技は日程が早く、大会開始1週間後にはお役御免となった。日本勢は各種目全く振るわず、メダルどころか入賞も果たせなかったが、入社2年目で選評を書いたのは我ながら図々しいと思った。「支局からの出張者は用が済んだら帰れ」との指示で、せっかくのオリンピックなのにボート以外は何も見ずに仙台に戻り、支局のテレビで東洋の魔女たちがソ連を破るのを見て感動したのを憶えている。

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東京オリンッピク取材スタッフ名簿。コピーは元大阪運動部、長岡民男さんが保存。長岡さんは陸上競技担当として参加

 その後、95年に定年退職するまで西部・報道部、東京・整理本部、同学芸部、論説室などを回ったが、いずれの職場もオリンピックとは無縁のところばかり。運動部には自分から志望したこともなかったし、お呼びもかからなかった。従って私とオリンピックの関りは前回の東京オリンピック以外は皆無である。80歳を超した今から思えば、何らかの形でもう少し五輪に関わっていてもよかったかとも思う。

 さて、コロナは収まる気配は見せず、ますます猛威を振るっている。オリンピックはどうなるのだろう。IOCはじめ政府も組織委、JOC、東京都も自ら進んで「オリンピックは辞めた」とは言い出せない事情があるのだろう。

 今のスポーツはイベント、強化など何をやるにも金がかかる。どの競技団体もサポーターと称する企業とは切っても切れない関係になってしまっている。IOCだって世界の有力企業との契約でがんじがらめになっているに違いない。

 東大ボート部の先輩で、多くの証言から昭和史の隙間を埋め、うそを暴いたジャーナリストの半藤一利さんが逝った。52年のヘルシンキオリンピックのエイト予選決勝で、慶応大クルーと競い50cm差で敗れ、惜しくも日本代表を逃した漕手だった。後年よく悔しがっていた。半藤さんならコロナ禍の五輪開催について「世界中どこの国も予選も満足にできないんだろ。準備も十分できない選手しか集まらないオリンピックなんか辞めちゃえばいいんだよ」と言いそうな気がするのだが。

(元論説室、齊藤 修)

※オリンピック出場経験者で毎日新聞に入社したアスリートには、葉室鉄夫さん、岡野栄太郎さんのほか、戦前の大島鎌吉さん、人見絹枝さんや1932年ロサンぜルス五輪・三段跳びで金メダルの南部忠平さん(後に大阪毎日新聞運動部長)、1936年ベルリンオリンピック5000メートルと1万メートルで4位の村社講平さん(大阪運動部長、取締役)らがいます。

《ローマ五輪日本選手団》ボート
エイト監督:堀内浩太郎
フォア監督:杉田美昭
斎裕教(東北大)・斎藤直(東北大)・斎藤宏(東北大)・佐藤哲夫(東北大)・田崎洋佑(東北大)・田村滋美(東北大)・千葉建郎(東北大)・広瀬鉄蔵(東北大)・三沢博之(東北大)
エイト:敗者復活戦敗退(6分24秒41)
大久保尚武(東大)・福田紘史(東大)・水木初彦(東大)・村井俊治(東大)・斎藤修(東大)
かじ付きフォア:敗者復活戦敗退(7分10秒50)