随筆集

2021年2月6日

「たまげた話」木脇洋さんがいぶかしむ79年前の身内の戦死

 3月1日になると、思い出す。私の身内のKさんの命日なのだ。昭和17年3月1日、バタビア沖海戦で戦死したことになっている。享年30。志願あるいは赤札で徴兵されたわけではなく、サイゴンで今村均中将にオランダ語通訳としてスカウトされたらしい。将兵6万を53隻の大船団に乗せてのジャバ(インドネシア)敵前上陸作戦。午前1時過ぎの暗闇、米蘭豪連合軍の攻撃を受けながらも上陸に成功。ただ司令官の今村中将の龍城丸ほか4隻の輸送船が魚雷で沈没、沈座した。阿部知二、大宅壮一ら従軍作家のペン部隊と一緒の佐倉丸にいたKさんら百人が戦死した。

 その詳細を知りたくてこの作家たちの作品を読み漁った。Kさんに言及したものはなかったが、大木淳夫の作品に「東日の伊東修カメラマンが亡くなった」とあるのを見つけた。魚雷が命中して作家らは先を争って船底から脱出。仲間の頭を踏みつけて逃げ出す者もいたらしい。本社情報調査部に調べてもらった。その年の8月29日付紙面に伊東さん社葬の記事。ならば社報はもっと詳しかろうと、重ねてお願い。3月27日の社報に同行の片桐幸記者らが詳報を熱く書いていた。本社は7人の取材団を組んでいた。詳しくは省略。

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1942年9月30日付社報。京都で行われた社葬の様子を掲載

 さて、その魚雷攻撃。実は日本軍の魚雷だったというネット記事が最近増えている。

 あの栗田中将の「最上」が発射したと。1984年刊の角田房子「責任 ラバウルの将軍今村均」には敵魚雷で海に投げ出されたとして書かれている。いつ変わったのか。その根拠は。国会図書館で出典を調べたいが、コロナ騒ぎで実現できていない。昨年大晦日の毎日新聞本紙に「海の戦没遺骨も収容」に政府が取り組むとあった。佐倉丸まで手が回るか、望み薄だろうな。

(木脇 洋)

 木脇さんは1965年入社。山口支局、西部報道部、那覇支局、福岡総局、山口支局、長崎支局勤務。西部代表室を経て、1995年社長室で退社。その後、スポーツニッポン新聞社、スポニチサービス(現プライム)に在籍。