随筆集

2021年2月15日

忘れられない若人たち<私の迎えた新人社員が続々定年>と新実慎八さん

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 コロナ騒ぎで外出自粛。そこで、ふだん“積読” (つんどく)状態の自宅の書斎を片付けようと、本を並べ替えていたところ、本に挟んであった一枚の写真が出てきました。ラフな格好をした100 人近い若い男女の集合写真でした。よく見ると前列中央に禿げ頭の私らしいのが、笑みを浮かべて写っていました。しばらく考えて、38 年前の1983 年4 月、毎日新聞社の新入社員研修で富士山の5 合目まで登った際、ふもとの合宿所前で記念に撮った写真であることを思い出しました。

 研修が終わって、皆さんはそれぞれ全国の支局に赴任しました。この若人がその後一堂に会したことはないと思います。しかも今年までにみんな定年になったはず。再雇用で社に残って仕事を続けている人もいますが、当時の新入生がこのように揃ったのは二度とありません。まさに記念の写真でした。私は東京本社の編集局次長で新入社員研修の責任者でした。「校長先生」と呼ばれていました。各部のデスク(副部長)さんたちが先生として参加し、数人ずつのグループを受け持ってくれました。

 この研修のあと、地方勤務の支局を決めて、一人ひとり通告しました。皆さんの受け取り方は様々でした。九州出身のK君は 「青森支局」と告げられて、「なんで南の国から本州の北のはずれ、東北の奥へ行くのですか」とむくれていました。慶応ボーイのO君は、北海道支社といわれて 「飛ばされた」としょげていました。私は地方勤務の意味を説明し「飛ばしたり」「追いやったり」するつもりはないことを理解してもらったと思っています。

 K君は論説委員長として活躍し、定年後は専門編集委員として会社に残り、毎週コラムで健筆をふるっています。先日も国会冒頭の菅義偉首相について「物語性を欠く施政方針演説を聞き『もう無理かも』の6文字が頭から離れない」と辛辣でした。O君は中枢の要職、毎日新聞グループホールディングスの内部監査室長兼毎日新聞社社長室(局長職)の勤務を最後に定年退職しました。

 研修のとき大阪出身の女性OさんはK君、O君と同じグループだったと思いますが、私たち先生連中は 「あっちゃん」「あっちゃん」と呼んで人気がありました。神戸支局からスタートして大阪本社管内で幅広く活躍し、経済部長、京都支局長、総合事業局長、大阪本社副代表と、いずれも女性として初めてのポストを連続して見事に勤務し、昨年選択定年で退職しました。あっちゃんが経済部長のとき、東西の経済部長会で時折上京してきました。私もパレスサイドビル (現毎日ビル)の経営に当たっていたので、会議後、両部長と食事しようといいながら、時間の調整ができず実現しなかったのは残念に思っています。

 新人研修主任を終えて私は総務局長に就任し、新入社員採用の責任者として、84、85年度の採用試験に携わりました。このあと広告局長、中部本社代表となって6年間新人採用からは離れていましたが、名古屋から東京に帰ると、今度は労務・総務担当、続いて翌年には経理・総務を合わせて管理部門統括を命じられて、2年続けて採用業務に携わりました。

 ですから前後合計5年度にわたる新人との「縁」があったことになります。この新人とのご縁の前半3年間の皆さんは、すでに定年を迎えたか、続々定年を迎えつつあり、あるいは「いよいよ迫ってきた」と感じている皆さんだと思います。

 何事もないように、こんな言い方をしていますが、実は自分では、私が採用に当たった新人の定年を見届けるなんて、全く想像もしなかったことです。まして毎友会の仲間として歓迎し、また一緒に一杯飲めるなんて、びっくりです。うれしいことですが「爺さん、まだいたの」と言われるのが「落ち」でしょう。

 私は採用する新人を決めるとき、すぐ戦カとして使える人よりも、毎日新聞社の20年後、30年後を託せる人物であり、広くジャーナリズムの発展に寄与してくれる人材を選んだつもりです。明治の初めのころから、志を同じくする人たちがともに全力を投入して新聞を発行し、輝かしいジャーナリズムを発展させてきた毎日新聞社を、さらに成長させてくれる人たちであると信じて、試験委員の皆さんと〝合格"の判断をしたのでした。

 毎日新聞社が1977年に実質倒産し、新人を採用せず、新社を設立して再建を図っていることは、受験した皆さんは百も承知していました。他社に比べて賃金が安く、人員も少ない。「よくわかっています」とも言ってくれました。「でも、自由な雰囲気が好きです」「のびのびと働けると思いました」「本音では、もう少し給料がいいと…」。率直に話をしてくれました。そしてよく働いてくれました。採用に当たったものとして深く感謝しています。

 面接試験に臨んだ皆さんの真剣な表情。研修を受けていたときの熱心さ。夜一日のスケジュールが終わって、一杯飲みながら懇親会をやった時のおおらかさ・楽しさ、40年近い昔なのに、覚えているものですね。

 忘れられない一人の女性がいます。面接のとき、西武百貨店に勤務していて「歌舞伎」を書きたいから記者になりたい、というのです。いまでもはっきり記憶に残っています。「新聞社では自分の好きなことだけを書いているわけにはいきませんよ」「なんでもこなせる記者になる覚悟がなければ」。面接場は試験というよりたしなめるような雰囲気になりました。面接委員の判定は、「頑張り屋で熱意がありそうだ」「女性の歌舞伎記者が育つかも」と、採用が決定しました。彼女はいま、定年後専門編集委員として残り、歌舞伎を書き続けています。つい先日、中村勘三郎追善狂言の記事、読ませていただきました。

 わが子を心配する母親の愛情を強く感じたこんなこともありました。入社が決まって研修中のことでした。女性記者Yさんのお母さんから、娘に内緒で私に会いたいとの電話がありました。Yさんにはばれないように、社内でお目にかかると、「うちの娘は記者になれるのでしょうか。心配で、心配で」。「しっかりしたお嬢さんですよ。いい記者に育てますからご安心ください」とお帰りいただきました。Yさんは経済記者として立派に育ち、雑誌「エコノミスト」の編集長も務め、定年後、先輩記者がやっていた某業界の機関誌編集長を引き継いで活躍しています。過日、旧友会の時、Yさんのいる席でこの母親の話を紹介したら、「いやだわ、そんなことあったんだなんて。全然知らなかった」と、顔を赤くして恥ずかしそうでした。秘密を守っていた方がよかったのですね。反省しています。

 大学生のころアルバイトで編集局の専務補助員を4年もやっていたS君には、お茶を入れてもらったり、鉛筆を削ってもらいました。ワープロもパソコンもない時代でした。原稿はザラ紙1枚に30字ずつ、つまり新聞の2行分の原稿を書くことになっていました。記者は鉛筆で大きい字を書いて、印刷工場でわかりやすいようにと配慮していました。鉛の活字を一本一本拾って文章を組む手間のかかる印刷でした。そのS君が優秀な成績で筆記試験を突破して面接に。手心加えることもなく集中する質問を見事にさばいて合格。3か月後、局長になって職場で会ったら、S君は立派な営業マンの顔でした。

 研究機関に勤務していたK君、新聞社の営業がやりたいと受験。面接で趣味を尋ねたら「フランス料理を作って食べること」。面接委員から次々に質問が出て、30分間もフランス料理談義が続いたでしょうか。あとはなにも聞かず 「時間ですから」と判定を聞くと、全員「合格」。広告で頑張ったK君はこんな調子で営業成績を上げたのでしょうか。

 1年目の受験で僅差で落ち、2年目再挑戦で見事合格のT君。創価大学卒で、どうしても毎日新聞社に入りたかった、と面接で強調していました。なかなかの人物と期待していましたが、創価学会が放っておきませんでした。今や衆院議員として公明党で活躍しています。
毎日新聞社に入社され、ご縁ができた皆さん。定年を迎えられたいま、ぜひ毎友会に入られて、またご一緒に語り合い、論じ合い、呑もうではありませんか。とはいうものの、今年数えで卒寿の私、定年を迎えたばかりの若い皆さんの体力にどこまでついて行けるかわかりませんし、コロナ跋扈の中で老人はおとなしくしていなければならないのは、残念に思います。

(新実 慎八)

※新実慎八さんは、1932年生まれ。56年毎日新聞社入社。取締役中部本社代表、常務取締役管理部門統括、広告担当、パレスサイド・ビルディング(現毎日ビルディング)代表取締役など歴任。一般社団法人海外日系新聞放送協会理事長。

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※日本記者クラブ会報2020年12月号「マイBOOKマイPR」から

「年表 移住150年史 邦人・日系人・メディアの足跡」

 新実 慎八(毎日新聞出身)

▼日本人移民史研究に必須の一冊

 幕末から令和まで150年にわたる、北米、南米を中心とした日本人移住の歴史を、年月日順に網羅した年表。移住先各国の実情、日系社会の出来事、邦字新聞の歩みが同時代史として一覧できる。重要語句には詳細な解説、索引をつけ、年表とは別に14カ国・地域の移住略史を加えた。筆者が理事長を務める海外日系新聞放送協会渾身の労作。日系人関係の仕事に半世紀にわたって取り組んできた同協会の岡野護専務理事(当クラブ特別賛助会員)がまとめた。

 風響社 / 5500円 / ISBN 4894892804