随筆集

2021年2月17日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その9

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その9 姨捨山のつたかづら
文・写真 平嶋彰彦

 芭蕉の『更科紀行』は、1688(元禄元)年に中秋の名月を眺めるため、信濃国更級郡(長野県千曲市)の姨捨山を訪れたときの俳句と散文からなる小品である(註1)。

 姨捨山という刺激的な山名が史料に初めて登場するのは、『古今和歌集』の「雑の部」に載る「題しらず読み人しらず」の歌である(註2)。

  わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て

 『古今集』より約50年後、この姨捨山の歌は『大和物語』でも取りあげられた(註3)。同書は作者不詳の歌物語で、歌の背景には次のような出来事があったと書かれている。

 信濃国の更級に、若いときに母を亡くし、姨に育てられた男がいたが、男は妻にそそのかされ、いわれるままに、その姨を山奥に置き去りして帰った。おりしも中秋の名月で、男は月を眺めつつ、思い直して、いったんは捨てた姨を家に連れ戻した、というのである。

 ほぼ同じ内容の話は『今昔物語集』にも載っていて、そこでは舞台となった姨捨山は、千曲市南東にそびえる冠着山(「冠山」)のことだとされている(ph1、註4)。

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ph1 冠着山。『今昔物語集』以来、中世にはここが姨捨山とされた。 2015.5.24

 芭蕉が訪れた姨捨山は、『今昔物語集』のいう冠着山ではなく、それよりも4キロあまり北側にある姨捨山放光院長楽寺周辺の山麓であった(ph2、3)。『更科紀行』の本文には、その所在地がどこかについて言及がなにもないが、芭蕉による別稿の「更科姨捨月之弁」には、次のように書かれている(註5)。

  山は八幡といふさとより一里ばかり南に、西南によこをりふして、冷(すさま)じう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山のすがたなり。

 「八幡」は現在の千曲市八幡のことで、武水別神社(旧八幡宮)を中心とした地域をさす(ph4)。姨捨山すなわち長楽寺はその南西約2キロにある。武水別神社付近からは「かどかどしき岩」は見えない。しかし、長楽寺境内には姨石と称する巨大な岩がある(註6)。

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ph2 姨捨山長楽寺。江戸時代の姨捨山。正面奥の巨大な岩が姨石。 2015.5.23
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ph3 長楽寺の観月堂。左が姨石。周りに多くの文学碑がたつ。 2015.5.23

 芭蕉は『更科紀行』の翌年、歳旦の句の1つに、こう詠んでいる(註7)

  元日ハ田毎の日こそ恋しけれ

 「田毎の日」が田毎の月を踏まえているのは、いうまでもない気がする。田毎の月とは、長楽寺門前に広がる四十八枚田と称する棚田の1枚1枚にうつる月をいう。四十八枚田は、阿弥陀の四十八願にちなんで、歌人の西行が名づけたといわれる(註8)。棚田の中央部には、宝永3(1706)年の銘をきざむ田毎観音が祀られている(ph5)。

 現在、観光名所になっている姨捨棚田は、この四十八枚田より南側の傾斜地にある(ph6)。芭蕉の来訪から9年後になる1697(元禄10)年、聖高原の大池からの用水堰が建設され、それにともない、姨捨棚田の大規模な開発が進められたのだという(註9)。

 それより86年後の1783(天明3)年、菅江真澄がこの地を訪れている。そのときに描いた「姨捨山の月見」をみると、たくさんの人が姨石の上に群がり、千曲川をはさんだ対岸の鏡台山からのぼる中秋の名月を眺めている(註10)。それよりもさらに70年ほど後になるが、歌川広重が『六十余州名所図会』の1枚として「信濃 更科田毎月鏡台山」を描いている。この図絵では、長楽寺の奥に峨々として姨石がそびえたち、門前の四十八枚田の1枚1枚に中秋の名月が描き込まれている(註11)

 『更科紀行』の本文には、先に述べたように、姨捨山が更科のどこにあるかの言及がない。そればかりでなく、田毎の月の言い伝えとか、その夜の名月の具体的な描写はなに1つ記されていない。芭蕉がひたすら書き綴っているのは、中山道の途中で出会い、更科まで同行することになった「道心の僧」との意外とも不思議とも思われるやりとりである。

 記述にしたがえば、中秋の名月のその夜、この僧は苦吟する芭蕉をみて、「旅懐の物憂さ」に落ち込んでいるのではないかと余計な心配をし、自分が若いときに廻った土地のことや阿弥陀如来の尊い功徳のこと、あるいは自分が不思議に思った体験などを話して聞かせ、気をもんでくれた。しかし、かえってそれが「風情のさはり」となり、芭蕉はただの一句もものにすることが出来なかった。

 とかくしてとりまぎれ、気づかずにいたのだが、ふと目をやると、宿のかべの破れから木の間がくれに月影が差し込んでいて、耳をすますと、鳴子の音や、鹿笛の音があちらこちらから聞こえてきた、というのである。それに続けて、「まことにかなしき秋の心、爰に尽くせり」とは書いているのだが、だからといって、芭蕉はすぐに句作を再開したわけではない。

 どうしたかというと、芭蕉は「いでや、月のあるじに酒振まはん」と口火をきり、宿の者にさかずきを出してもらい、この僧と酒を酌み交しはじめた、というのである。「あるじ」とは「あるじもうけ」のことだそうである(註12)。芭蕉が主人となり、お客として道心の僧を迎え、ご馳走をしたことになる。

 酒を酌み交わしながら、あるいはその後で詠んだのが、次の3句である。

  あの中に蒔絵書きたし宿の月

  桟やいのちをからむつたかづら

  桟や先ずおもいいづ馬むかえ

 最初の句の「あの中」の「あの」とは、もちろん中秋の名月のことだが、道心の僧と酒を酌み交わしたさかずきには「木曽の桟(かけはし)」の蒔絵が描かれていた。そのさかずきはふつうのものよりひとまわり大きく、図柄も見るからに稚拙で、風情を欠いていた。都の人なら、手にもふれようとしないとも書いている。しかし、考えてみれば、そんな代物を中秋の名月の中に描きたいと思うはずがない。そうではなく、見かけは田舎じみて卑俗な表現であっても、うちに込められた尋常ではない心模様の気高さを発見したのである。

 木曽の桟は、古代より中山道屈指の難所にかかる橋として名高かった。端(はし)とは、ものの発端であり、末端である。橋はこちらの岸とあちらの岸をかけわたす(註13)。それを飛躍させて、この世とあの世をかけわたす橋に重ねてみたのである。

 次の句では「いのちをからむつたかづら」と詠んでいる。かけわたされるのは、この世からあの世に生まれ変わる人間の生命ということになる。

 『古事記』によれば、ヤマトタケルは東国遠征から帰還の途中、伊勢国の能煩野(三重県亀山市から鈴鹿市にわたる地域)で横死した。その葬儀に詠われた挽歌のなかに野老蔓(ところづら)が出てくる(註14)。

  なづきの田の稲幹(いながら)に 稲幹に 葡ひ廻ろふ 野老蔓(ところづら)

 野老蔓は山芋の蔓草のことである。蔓草を生命に見立て、これをたぐり寄せる仕草をくりかえし、死者の魂を呼び戻そうとしたらしい。そうした古代の呪術儀礼がこの挽歌に詠み込まれているのではないか、ということである。(註15)。

 「木曽の桟のつたかずら」のデザインは、近ごろは見かけなくなった布団を包む風呂敷に描かれた唐草模様や、イギリスの童話「ジャックと豆の木」の豆の木にも通じるように思われる。植物の蔓草が絡み合いながら、どこまでも天空に伸びていく姿に、私たちは生命の不思議さを感じずにいられない、ということではないだろうか。

 3句目に「馬むかえ」とある。中古には信濃の望月の駒を朝廷に献上する習わしがあり、旧暦8月15日というから、中秋の名月の日になるが、左馬寮の使者が逢坂の関まで出向いて、その馬を迎えるのが恒例行事になっていたという(註16)。その故事を念頭に置いて詠んだわけだが、望月の駒とは反対に信濃へむかうこの旅で、芭蕉は徒歩ではなく、馬に乗っていた。それを信濃の国境のあたりで出迎えたのが、「道心の僧」ということになる。

 世阿弥作の謡曲に『姨捨』がある。中秋の名月を見るため、ある男が京都からはるばる更科まで旅をするのだが、その男を出迎えたのは、ほかならぬ捨てられた姨その人の亡霊という設定になっている(註17)。この物語で生命の象徴として登場する植物は、姨が捨てられた場所に生い茂っていた桂の木であった。桂は中国では月の中にあるという想像上の樹で、転じて月のことだとされるという(註18)。世阿弥は『姨捨』の地謡で、次のように語らせている。

  月はかの如来の右の脇侍として、有縁を殊に導き、重き罪を軽んずる、無上の力を得る故に、大勢至とは号すとか。

 かの如来とは、いわずとしれた阿弥陀如来のことで、勢至菩薩と観音菩薩を脇侍にしたがえ、一光三尊の善光寺如来として長野の善光寺に祀られている。先にも書いたように、姨捨の四十八枚田は、阿弥陀如来の四十八願にちなんだもので、歌人の西行による命名だとする伝承がある。西行はもちろん作り話に違いない。広重の「信濃 更科田毎月鏡台山」も、現実にはありえない視覚である。四十八枚田の一枚一枚に中秋の名月がうつるのは虚構であるが、阿弥陀如来の尊い功徳を求める切ない願望であったとみられる。

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ph4 武水別神社。かつて別当の神宮寺があり、長楽寺はその支院だった 。 2015.9.1

 かつての馬むかえに見立てられたこの僧は、年のころ60歳ばかりで、腰のたわむまで荷物を背負い、息をせわしくさせ、足どりも覚束ないようすであらわれた、と芭蕉は書いている。それを見た越人と権七という芭蕉の従者が気の毒に思い、この僧の荷物を自分たちのものと1つにからませ、つまり一蓮托生の形に結わえ、芭蕉の乗る馬に括りつけ、一緒に旅をすることにしたのである。

 芭蕉はただの僧ではなく、わざわざ「道心の僧」と書いている。道心とは、仏道を修める心のこと、または13歳あるいは15歳から仏門に入った僧のことだというが、道心坊となると、物乞いをして歩く乞食僧のことだそうである。(註19)。だとすれば、腰がたわむまで背負った荷物はなにかを詮索するなら、町々や村々を廻って、手に入れたお布施の品々とみて、まず間違いない気がする。

 この僧が芭蕉の句作を妨げたことは、すでに述べた。若いときから、旅をしながら各地を廻り、阿弥陀如来の尊さを説くとか、念仏を唱えるとかして、人々の極楽往生を祈願したのであり、芭蕉にたいしても同じように話をして聞かせたのである。

 芭蕉は僧侶ではなかったが、身づくろいは僧の形にしていた。芭蕉が、自分は何者であるかを、自ら語る記述が『野ざらし紀行』のなかにある(註20)。

  腰間に寸鐵をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有。俗にゝて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。

 近世の60歳といえば、とっくに隠居していい年齢である。この「道心の僧」が、そのような高齢になってもなお、拝みに廻った家々から一紙半銭の施物を貰いうける勧進活動を続けたのは、それが唯一の生活手段になっていて、一所不住の旅をやめることは野ざらしになることを意味した、ということかもしれない。

  俤や姨ひとりなく月のとも
  いさよいもまださらしなの郡かな

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ph5 田毎観音。田毎の月で名高い長楽寺門前の四十八枚田に祀られる。 2015.8.1

 ところで、こう詠んだ後、芭蕉一行はさらに足を延ばし、長野の善光寺を参詣している。『更科紀行』の目的は姨捨山の中秋の名月を眺めることだった。文脈からすれば、この「道心の僧」も善光寺まで同行したものと考えられる。そうだとすると、芭蕉の一行は、助けたつもりの乞食坊主に引かれて、図らずも、中秋の名月に身をもって阿弥陀如来の尊さを感得し、さらに引かれて善光寺参りをした、ということにならないだろうか。

 「牛に引かれて善光寺参り」の諺がある。これは信心のない老婆が、干していた布を角に引っかけて走り去る牛を追いかけ、図らずも善光寺参りをしたとされる説話だが、本来の形は「牛に引かれて」ではなく「御師に引かれて」ということだそうである(註21)。

 「道心」といえば、説経節の代表作の1つ『かるかや』が連想される(註22)。善光寺の門前に祀られる親子地蔵の由来をかたる唱導説話である。主人公の刈萱道心は筑前国苅萱の武士で、俗生活に無常を感じ、出家して高野聖となった。その子が石童丸で、父を慕って高野山に上るが、刈萱道心は親子の情愛が信仰の妨げとなると考え、高野山を後にして、信濃国へ向かい、善光寺のかたわらに身をよせ、高野聖から変じて善光寺聖となった。

 史実の高野聖は、近世になると、非事吏などと書かれ賎しめられたり、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」と悪口を言われたりしたというが、刈萱道心は高野聖の理想像であると同時に、善光寺聖の理想像でもあった。彼らは、善光寺の縁起と阿弥陀如来の霊験を語りながら、結縁の名号札を持って諸国を放浪したとも、村々に如来堂や太子堂を持って念仏講を主宰したとも、あるいは善光寺参りの御師や先達をつとめたともいわれる(註23)。

 連載その7では書き漏らしたが、私の郷里の念仏講の経本には、つぎのような御詠歌が載っている。

 ⇒ 以下、長文になりますので、(註)も含め、URLでご覧ください。

http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html