随筆集

2021年3月22日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その10(後編)

 この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

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 その10 私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(後編)

 文・写真 平嶋彰彦

 『江戸切絵図』で、本郷通りを王子方面に向かうと、本郷追分を過ぎて、駒込の吉祥寺付近にたどりついたところで、ようやく緑色に彩色された田園風景が現われる。近世といっても幕末に近いが、駒込は江戸という都市空間の周縁であり、都市が田園と出会ういわゆる郊外だったことになる。

 駒込の田園風景を特徴づけるのは「植木屋多シ」の書き込みで、よく見れば、植木屋が軒を連ねていたのは、吉祥寺から六義園までの本郷通り東側と、それより染井霊園にいたる染井通りの北側であることがわかる。

 駒込の植木屋を考察した都市論の名作が川添登の『東京の原風景』である。

 川添登によれば、江戸時代の260余年を通じて、鑑賞用の植物としての花卉や植木の栽培技術は急速の進歩をとげた。日本の緑と花の文化が欧米に与えた影響は、浮世絵などよりはるかに大きいものがあった。そうした鑑賞用植物を栽培する最大の供給地が、桜のソメイヨシノで知られている染井を中心に、団子坂、駒込、巣鴨などの周辺地域に大きくひろがっていた、というのである。

 川添登は1926(昭和元)年生まれで、小学校1年まで駒込で育った。

 ソメイヨシノの発祥の地である染井通りから、東にやや入った個所は、『花壇地錦抄』の著者伊藤伊兵衛の菩提所西福寺と染井稲荷とが並んで建っていることは『江戸切絵図』でもみられるが、この染井稲荷の横を東へ曲がると、すぐに急な坂となる。私の生まれた家は、その中腹の左側にあった。

 文中に2カ所、方角を東とする記述があるが、これは誤りで、正しくは北または北北東。急な坂とあるのは、染井通りから染井銀座に抜ける染井坂をさすものとみられる。一家は関東大震災(1923年)の直後、染井坂の中腹にあった借家に引っ越してきたのだが、そこの大家が伊藤つつじ園の持主だった。裏木戸を開けるとつつじ園があり、あらゆる種類のツツジやサツキが植えられ、そこに自由に入って遊んだ、というのである。同書に明確な言及がないが、伊藤つつじ園の持主は、もとは藤堂家下屋敷の植木職人で、のちに江戸一番の植木屋とうたわれた伊藤伊兵衛家の系譜に連なる人物であったとみられる。

 江戸時代には、染井の植木屋はどこも花園を持っていて、その一帯は市中からの遊覧客でにぎわう江戸名所の1つとなり、浮世絵にも取り上げられた。しかし、明治時代に入ると経営が苦しくなり、昭和の初めごろには、貸家に切り替えるところが少なくなかった。それでも、大きな屋敷もそこここにあり、そのなかには植木屋の庭園もあったという。

 染井坂通りに「門と蔵のある公園」がある。植木屋を営んでいた丹羽家の跡地を整備した公園である。門は染井通りにあった藤堂家の腕木門を移築したもの。蔵は1936(昭和11)年築で鉄筋コンクリート造りの珍しいものである。周りには歴史を感じさせる大きな邸宅があり、染井稲荷からも遠くない距離にあることから、もしかすると、川添登の記憶に残っていたのは、この丹羽家の庭園のことであったかもしれない。

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染井坂通り。門と蔵のある広場。藤堂家下屋敷の腕木門。駒込3-12。2021.1.15

 川添登が回想する失われた駒込(染井)の風景を、もう少したどってみよう。

 その頃、坂の下は水田が続いていたとのことであるが、すでに民家で埋まっており、とくに坂のすぐ下は、長屋が建ちならび、バラックと呼ばれ、その子供たちとあそんではいけないよ、と母にいわれていた。また染井通りの西側は、藤堂家をはじめとする武家屋敷のあったところで、高級住宅街になっていた。いずれもコンクリートの高い塀をめぐらし、大きな屋敷や本ものの西洋館が建ちならび、昼間でも人通りがなく、人さらいが出るから染井通りから先に行ってはいけない、といわれた。つまり、親から許されていた行動範囲は、染井通から坂(傾斜地)までの間、ということになる。

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染井坂通り。門と蔵のある広場。植木屋だった丹羽家の蔵。駒込3-12。2021.1.15

 坂とは、染井坂通りのこと。そのころは、坂の下の低地を西から東へ、谷戸川が流れていた。かつて水田として開かれたその沿岸は宅地化され、長屋が建ちならんでいた。それをバラックと呼んでいたとある。バラックはその場しのぎの仮屋を意味する。この言葉が一般に使われだすのは、関東大震災の直後からである。

 もしかして、駒込のバラックの居住者の多くは、関東大震災の罹災者だったのではないだろうか。川添の一家も大震災の直後に引っ越してきた。母親の言葉にある「あそこの子供たちとあそんではいけないよ」というのは、経済的および社会的な格差があったことを示唆する。それにたいして、坂の上の染井通りの南側(引用文中の西側は誤り、正しくは南)の高級住宅街というのは、先に述べた岩崎弥太郎墓地付近のことである。

 そこは坂の下とは逆に、羨望の眼差しで見られていたのである。早いはなしが、坂の上も、坂の下も馴染みのうすい別世界だったのである。しかし、子どもたちが、親のいいつけをおとなしく聞いているわけがない。とうぜん越境をする。その冒険の輝かしい体験により、川添登は自分や自分の育った駒込(染井)の素顔を知ることになったのである。

 『東京ラビリンス』展を終えて間もない12月10日、六義園(写真・下)を訪れた。40年以上も前になるが、渡り鳥が越冬する都内の名所というテーマで、この名園を撮影したことがある。時期は12月の初旬で、庭園のようすはほとんど忘れてしまったが、オナガガモやマガモが遊ぶ水辺の樹々が、秋色に染まり美しかったことだけは覚えていた。

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 問い合わせると、コロナ渦だが予約すれば入園できて、いまが紅葉の見どころだという。その日は前日から雨だったが、私が入園した直後に雨はやんだ。そのためか園内は人影がまばらで、鮮やかに色づいたモミジやカエデを贅沢な気分で眺めて廻ることができた。

 帰宅してから画像を整理していると、モミジやカエデと一口でいっても、たくさんの種類が植えられていて、素人目にはどこがどう違うのか見分けのつかないことに気づいた。

 そういえば、江戸一番の植木屋と評された伊藤伊兵衛政武は楓葉軒とも号している(註11)。伊藤伊兵衛といえばツツジが有名だが、モミジやカエデも得意にしていたのである。六義園で私が見たモミジやカエデの見事な植栽の背景には、駒込(染井)の植木職人が歴史的に培ってきた造園技術が受け継がれているにちがいない。

 『新編武蔵風土記稿』に次のような逸話が載っている。

 1727(享保12)年3月、将軍吉宗が伊藤伊兵衛政武の花壇植溜を観覧し、御用木として29種の草木を命じることがあった。その翌月、政武は江戸城に呼ばれ、御納戸役の松下専助から舶来の樹を示され、それについて問われると、即座に、自分はいままで見たことがないが、これは俗にいうところの深山楓によく似ているとこたえた。

 そのあと、さらにやりとりがあり、政武はその樹を呈せよと命ぜられると、1本の深山楓を盆に移した苗木と、それとは別に深山楓の実のついた折枝をそえて献上した。すると9月になって、松下専助より将軍の内命とのことで、深山楓に舶来の楓樹を接木したものを下賜された。これはたいへん珍しいものだから、生育させその種を世上に広めよ、と仰せつけられたというのである。

 上記の将軍吉宗は誤りで、観覧したのはその子の家重だという。『風土記稿』の記述がどこまで事実かはともかく、染井の植木屋が、樹木を採集したり栽培したりするだけでなく、品種改良まで試みていたことは間違いないように思われる。さらにいうなら、伊藤伊兵衛政武は植物の種類や栽培法をまとめた『増補地錦抄』『広益地錦抄』『地錦抄付録』を、先代にあたる三之丞もまた『花壇地錦抄』など、後世に名を残す書物を刊行している。伊藤家にかぎらず、染井の植木屋は、江戸時代の都市近郊における先駆的な農業技術者であるばかりでなく植物学者でもあったと考えられるのである。

 明治時代になり江戸が東京に変わると、駒込は近代都市として再編されていくが、川添登が子どもだった昭和の初めごろまでは、まだまだそこかしこに田園風景が残っていた。『東京の原風景』のなかに、川添登が師とも仰ぐ今和次郎の『日本の民家』のなかから、下記の一節が引用されている。文中の「郊外」を駒込(染井)と言い直してみれば川添登のうちなるわが街への想いのたけが、よりいっそう明確に伝わってくる。

 人の作ったものは美しい。神の作ったものはまた美しい。一方は都市で、一方は田園であるとするならば、郊外というものはこの二つの接触し合ったもの、とけ合ったものだから、郊外には二重の美しさが現われて、郊外に住家を営む人たちは幸福なわけなのだ。

 今和次郎は建築学や民俗学の研究者で、考現学や生活学を提唱した先駆者であるが、関東大震災の直後、上野公園のバラック建築を写真で記録している。『日本の民家』をみればわかるように、スケッチがたいへん上手な人だが、カメラが一般に普及する以前から、フィールドワークの記録手段として、写真を取り入れていたのである。

 今和次郎は、戦後間もないころになるが、早稲田の理工学部で教えるかたわら、学生写真部の部長を務めていたということである。情けないはなしだが、私は大学の写真部時代に、今和次郎の著作を読んだこともなければ、名前すら知らなかった。

 関東大震災のときのバラック建築の写真をふくめ、今和次郎が残した膨大な記録資料は現在、工学院大学の図書館に所蔵されている。仕事でも何でもないのにもかかわらず、その資料の所在を捜し出し、工学院大学に移管する橋わたし、さらにその整理にいたるまで、尽力を惜しまなかったのが、「ときの忘れもの」を主宰する綿貫不二夫・令子夫妻であったことは、つい最近になって知った。